第153話 公爵令嬢様は、俺が気づかなかった小さな不安まで見つけてしまうらしい
朝の執務室には、紙をめくる音と、窓の外から聞こえる庭師たちの声が静かに響いていた。
俺は父さんの机から少し離れた作業台で、今日の搬入予定と使用人たちの担当表を照らし合わせていた。昨日までの雨によって屋敷裏手の通路は一部が使いにくくなっており、北門を経由する搬入方法が引き続き採用されている。今朝もその取り扱いに変更はなく、荷物を運ぶ者と受け取る者の双方が同じ予定を把握できるよう、確認を進めているところだった。
予定表には、搬入時刻、品目、数量、受け取りを担当する使用人の名前が整理されている。俺の仕事は、それらの情報に食い違いがないか確認し、必要な書類を担当者へ渡すことだ。
以前の俺なら、予定を確認するついでに搬入経路の様子まで見に行こうと考えたかもしれない。
けれど、今日は違った。
(……今の俺に任されているのは、書類の確認と受け渡しまでだ。通路の状態を判断するのは、現場を確認している担当者の仕事なんだよな)
昨日、王立学院の公開講習に向けた施設見学で学んだことを思い出しながら、俺は担当表の最後の行まで目を通した。
数量に食い違いはない。
受け取り担当者も記載されている。
ただ、一つだけ気になるところがあった。
北門から搬入された荷物を一時的に置く場所について、今朝の書類には前日と同じ記載が残っている。しかし、昨日の夕方に別の使用人から聞いた話では、そこに清掃用の道具を置く時間があるらしかった。
もちろん、聞いた話が正しいとは限らない。
清掃の予定が変更されている可能性もあるし、道具を置く場所が別に決まっているのかもしれない。
俺は書類を持ち上げ、父さんへ声をかけた。
「父さん、少し確認してもいい?」
執務机で書類を読んでいた父さん――グレイヴ・シルフィールは、手を止めてこちらを向いた。
「どうした、クルセス」
「北門から入った荷物の仮置き場所なんだけど、昨日、清掃用の道具を置く予定があるって聞いたんだ。今日の搬入予定表には同じ場所が書かれているけど、このままで大丈夫なのかな」
父さんは俺が差し出した書類を受け取り、該当する箇所へ目を向けた。
「誰から聞いた話だ?」
「昨日の夕方、清掃の準備をしていた使用人から。直接担当している人かどうかまでは確認していない」
「そうか。ならば、まず清掃の担当者へ予定を確認する必要があるな」
父さんは書類を机へ置き、落ち着いた声で続けた。
「お前が気づいたことを伝えたのはよい。ただし、今の段階で仮置き場所に問題があると決めつけてはいけない。昨日聞いた話と、今日の予定が一致しているとは限らないからな」
「うん。だから、先に確認した方がいいと思ったんだ」
「その判断でよい。確認が必要な点として残しておきなさい。担当者へは私から連絡しておく」
俺は頷き、書類の余白に小さく印を付けた。
問題を見つけたからといって、すぐに自分で解決する必要はない。
けれど、気づいたことを黙っていてよいわけでもない。
その違いを、最近になって少しずつ理解できるようになってきた気がする。
父さんは俺の手元を見てから、わずかに口元を緩めた。
「学院での経験が役に立っているようだな」
「……まだ、ちゃんとできているか分からないけど」
「最初から完璧である必要はない。判断する前に、何が分かっていて何が分かっていないのか整理できれば、それだけでも無駄な混乱を減らせる」
父さんはそう言って、次の書類へ目を向けた。
「それから、昨日の施設見学について、正式な役割が決まったという報告はなかったな?」
「うん。まだ調整中だって。昨日は受付予定場所や搬入通路を見ただけで、正式な班分けは発表されなかったよ」
「ならば、今はその状態を前提に準備しなさい。希望する役割に就けると決めて動けば、別の役割を任されたときに対応が遅れる」
「分かった」
俺は返事をして、残っている書類の確認へ戻った。
父さんの言葉は、学院の教師から受けた説明とも重なっていた。
できること。
知っていること。
任されていること。
その三つは、必ずしも同じではない。
俺は最後の書類を確認し終えると、担当者へ渡す分だけをまとめ、作業台の上を整えた。
窓の外では、庭師たちが花壇の手入れを続けている。
朝の仕事はまだ終わっていないが、今日の予定は少しずつ整い始めていた。
◇
朝食を終えて学院へ向かう馬車に乗り込むと、リビアは俺の顔を見て、少しだけ首を傾げた。
「セス、今日は何か考え事をしているの?」
「えっ? そんな顔してた?」
「ええ。困っているというほどではないけれど、何かを整理しているときの顔をしているわ」
俺は思わず苦笑した。
リビアは昔から、俺の小さな変化によく気づく。
自分では普段どおりにしているつもりでも、彼女には何となく分かってしまうらしい。
「今朝、屋敷の搬入予定を確認してたんだけど、少し気になるところがあったんだ」
俺は北門からの搬入と、荷物の仮置き場所について簡単に説明した。
ただし、まだ確認できていないことも多い。
だから、問題が起きていると決まったわけではないことも、最初に伝えておいた。
リビアは途中で口を挟まず、静かに聞いていた。
「それで、父さんに相談したら、担当者へ確認してくれることになったんだ」
「そうだったのね。セスが自分で全部調べに行かなかったと聞いて、少し安心したわ」
「……やっぱり、俺ってそんなに何でも自分でやろうとしてた?」
「していたわよ」
昨日と同じように、返事は迷いがなかった。
俺が困った顔をすると、リビアは楽しそうに笑った。
「でも、最近は少し変わったと思うの。誰かに相談することを、以前より自然に選べるようになったでしょう?」
「そうかな」
「ええ。それに、今朝の話を聞いていて、もう一つ嬉しかったことがあるわ」
彼女は膝の上で重ねていた手を少し動かし、俺へ身体を向けた。
「あなたが、まだ分からないことを分からないままにして話してくれたことよ」
俺はその言葉に瞬きをした。
「……それって、そんなに大事なこと?」
「とても大事だと思うわ。だって、以前のあなたなら、私が心配しないように、問題が解決してから話そうとしたかもしれないでしょう?」
そう言われると、否定しきれなかった。
リビアを不安にさせたくない。
その気持ちは今も変わらない。
けれど、何もかも解決してから話すということは、途中で自分が何を考えていたのか、彼女には伝わらないということでもある。
昨日の夜、俺たちは一緒に学院の施設見学について整理した。
リビアが気づいたことと、俺が気づいたことを照らし合わせるうちに、一人では考えつかなかったことも見えてきた。
それは、答えを出すためだけの時間ではなかったのだろう。
「……そっか。確かに、前だったら解決してから話してたかもしれない」
「でしょう?」
「でも、リビアには途中のことも話した方がいいんだよね」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「ええ。もちろん、何でも話さなければならないという意味ではないわ。でも、あなたが何かを一人で抱え込んでいるときには、私にも気づかせてほしいの」
馬車が緩やかに揺れ、窓から差し込む朝日が彼女の銀青色の髪を照らした。
俺はその横顔を見つめながら、少し考えた。
リビアは俺に守られるだけの存在ではない。
彼女自身も、自分の考えを持って行動しようとしている。
だからこそ、俺が何でも一人で抱え込んでしまえば、彼女が俺の力になろうとしてくれる気持ちまで遠ざけてしまうのかもしれない。
「……分かった。これからも、ちゃんと話すよ」
「ありがとう、セス」
彼女は微笑み、俺の手へそっと指を重ねた。
その温かさを感じながら、俺は窓の外へ視線を向けた。
学院へ続く道には、朝の人々の姿が増え始めている。
今日もまた、知らないことや考えるべきことがあるのだろう。
けれど、それを一人で全部抱える必要はない。
そう思えるだけで、少し気持ちが軽くなった。
◇
学院の教室へ入ると、サザリーが窓際の席で何かを書いていた。
彼の机には昨日の施設見学で使った資料が広げられており、隣にはガレスが座っている。
二人とも、俺たちより早く登校していたらしい。
「おはよう、サザリー。ガレスも」
俺が声をかけると、ガレスが顔を上げた。
「おう、セス! ちょうどいいところに来たな」
「何かあったの?」
「いや、昨日の見学で気になったことを整理してたんだけどさ。サザリーと俺で、見てたところが結構違ったんだよ」
ガレスはそう言って、自分のノートを見せてくれた。
そこには搬入通路の扉の位置や、荷物を一時的に置く場所についての記録が並んでいる。
一方、サザリーのノートには、受付から講習用の部屋までの経路や、途中で人が立ち止まる可能性がある場所がまとめられていた。
「なるほど。ガレスは搬入する側から見て、サザリーは案内する側から見てたんだね」
「そうなんだよ。同じ場所を歩いたのに、気になるところが全然違ってさ」
ガレスは少し楽しそうに笑った。
「俺、昨日は搬入通路のことばっかり考えてたけど、サザリーの話を聞いたら、来訪者がどこを歩くのかも気になってきたんだ」
サザリーは手帳を閉じ、落ち着いた声で続けた。
「僕も同じだよ。案内経路のことばかり考えていたけれど、物品を運ぶ人たちの動きと重なる可能性があるなら、それも知っておく必要があると思ったんだ」
俺は二人の話を聞きながら、昨日の見学を思い返した。
受付予定場所。
講習用の部屋。
搬入通路。
それぞれは別の場所だが、実際の講習では多くの人が関わることになる。
だから、一つの場所だけを見ていても、全体の動きは分からない。
「俺も昨日、リビアと一緒にノートを整理してたんだ。やっぱり、見ていたところが違ってたよ」
そう言うと、ガレスが少しだけ口元を緩めた。
「へえ。オリビア様と一緒にか」
「うん。俺が気づかなかったところも教えてもらえたから、助かったよ」
「……お前、本当に普通にそういうこと言うよな」
ガレスは何とも言えない顔をした。
俺が首を傾げると、サザリーが小さく笑う。
「セスにとっては、自然なことなんだろうね」
「そうなのか?」
「そうなんじゃないかな。少なくとも、オリビア様は嬉しいと思うよ」
サザリーの言葉に、俺は少し考えた。
リビアは昨日、一緒に考えられて嬉しいと言っていた。
だから、きっとそうなのだろう。
俺が頷くと、ガレスはなぜか額へ手を当てた。
「……まあ、仲がいいなら何よりだ」
その言い方が妙に大人びていて、俺は思わず笑ってしまった。
ちょうどそのとき、教室の入口からレオルが入ってきた。
彼は俺たちの机に広げられた資料を見つけると、興味深そうに近づいてくる。
「昨日の施設見学の話をしているのか?」
「うん。見ていた場所によって、気になるところが違ったって話をしてたんだ」
俺が答えると、レオルは頷いた。
「それなら、俺も少し聞いていいか? 昨日、施設図と実際の通路を見比べていて、気になったことがあったんだ」
彼は自分の資料を取り出した。
そこには、昨日の見学で確認した通路の形が簡単に描かれている。
ただし、細かな寸法や設備の配置までは書き込まれていない。
「図面だけで見ると分かりやすいんだけど、実際に歩くと、扉の位置が思っていたより目に入りにくかったんだ」
「どの扉?」
サザリーが尋ねると、レオルは図面の一箇所を指した。
「講習用の部屋が並んでいた通路の奥だよ。入口から歩いてくると、手前の扉が先に目に入るから、奥の部屋へ向かう人は少し迷うかもしれない」
俺は昨日の景色を思い浮かべた。
確かに、あの通路には複数の扉が並んでいた。
ただ、来訪者が実際にどのように移動するかは、まだ決まっていない。
「……気になるところとして記録しておくのはよさそうだね。でも、案内表示を変えるかどうかは、先生たちの判断になるんだよね」
「もちろん。そのつもりだ」
レオルはすぐに頷いた。
「前から確認が続いている北側階段の表示についても、まだ先生たちの調査が終わったとは聞いていないしな。俺たちが勝手に動かしていいものじゃない」
俺はその言葉に安心した。
レオルは案内表示や図面に詳しい。
だからこそ、気になるところを見つければ、自分で直したくなることもあるだろう。
けれど、彼はそれが自分の権限ではないと理解している。
「じゃあ、今日の昼休みにでも、気づいたことを一度まとめてみる?」
俺が提案すると、サザリーが頷いた。
「いいと思う。ただ、先生へ提出する資料としてまとめるなら、先に確認した方がいいかもしれないね」
「そうだね。今は自分たちの記録を照らし合わせるだけにしよう」
ガレスもレオルも、その意見に賛成した。
俺たちは授業が始まるまでの短い時間を使い、昨日の見学でそれぞれが確認したことを話し合った。
まだ答えの出ないことも多かったが、少なくとも、一人では気づかなかった視点がいくつもあると分かった。
◇
午前の授業では、魔術理論の続きが扱われた。
昨日学んだ複数属性の魔力制御について、今日は具体的な術式を作る前に、どのような危険を想定する必要があるかを考える課題が出された。
実際に魔法を使うわけではない。
教師は最初にその点を強調し、机の上に置かれた資料を使って説明を始めた。
「複数の属性を扱う場合、単独で使用したときと同じ結果になるとは限りません。重要なのは、術式を成立させることだけではなく、想定外の影響が出た場合にどう対応するかを考えることです」
黒板には、二つの属性の魔力が交わる簡単な図が描かれていた。
俺はノートを開き、教師の説明を聞きながら必要な部分を書き写した。
火と風。
水と土。
雷と水。
どの組み合わせにも、それぞれ異なる性質がある。
俺は五属性すべてに適性があるが、それだけであらゆる組み合わせを安全に扱えるわけではない。
むしろ、扱える属性が多いからこそ、考えなければならないことも増える。
(……魔力量を抑えれば安全、という単純な話でもないんだよな)
俺は以前の実習を思い返した。
次月に予定されている二属性魔術の実習については、まだ具体的な実施日や課題の内容が確定していない。
だから、今の段階で勝手に術式を試すつもりはない。
ただ、理論として理解しておくことはできる。
俺は課題の余白へ、想定される影響と確認が必要な点を書き込んだ。
その途中で、教師が教室を見渡しながら声をかけた。
「では、皆さん。二つの属性を同時に使う場合、術者本人の制御以外に、何を確認する必要があるでしょうか」
何人かの生徒が手を挙げた。
教師はその中から一人を指名し、周囲の安全についての意見を聞いた。
続いて別の生徒が、術式を使用する場所の状態について答える。
俺はその話を聞きながら、昨日の施設見学との共通点に気づいた。
魔術も仕事も、自分が何をするかだけでは成立しない。
周囲の状況や、ほかの人が何をしているかによって、適切な判断は変わる。
その考えをノートへ書き込んでいると、隣の席からガレスが小声で話しかけてきた。
「なあ、セス。これって、術式が完成してても、周りに人がいたら使えない場合があるってことだよな?」
「うん。使える魔法でも、場所や状況によっては危ないことがあると思う」
「なるほどな。俺、最初は魔力の制御だけ考えてた」
ガレスは少し考え込んだあと、ノートへ何かを書き足した。
「……最近、何でも同じようなこと考えてる気がするな」
「どういうこと?」
「自分ができることだけじゃなくて、周りのことも見ろってことだよ。昨日の搬入通路もそうだったし」
俺は思わず笑った。
「確かに、似てるところはあるかもね」
ガレスも小さく笑い、再び教師の説明へ耳を傾けた。
授業の終わりには、今日考えたことを次回までに整理するよう指示があった。
俺は課題を鞄へしまい、午後の授業に備えた。
◇
昼休み、俺たちは食堂の奥にある長机へ集まった。
今日はエミリアも一緒だった。
彼女は公開講習の参加者ではないが、俺たちが昨日の施設見学について話していたことを聞き、興味を持ったらしい。
「皆さん、今日は何か相談する予定があるんですか?」
エミリアが尋ねると、サザリーが頷いた。
「昨日の施設見学で、それぞれが気づいたことを照らし合わせようと思っているんだ。正式な役割はまだ決まっていないけれど、見学した場所について整理しておきたくて」
「なるほど。皆さん、同じ場所を歩いても、違うことに気づいていたんですね」
「そうなんだよ」
ガレスは楽しそうに笑い、自分のノートを開いた。
「俺なんか、搬入通路のことばっかり考えてたからな。サザリーの話を聞くまで、来訪者がどこを歩くかなんて、あんまり気にしてなかった」
エミリアはその話を聞き、少し考え込んだ。
「でも、そういう違いがあるから、一緒に考える意味があるのかもしれませんね」
その言葉に、俺は頷いた。
「うん。俺も昨日、リビアと一緒にノートを整理してて、そう思ったよ」
隣に座っていたリビアが、嬉しそうに微笑んだ。
「私も同じ気持ちよ。セスが受付の立場から考えていたことを聞いて、初めて気づいたこともあったもの」
エミリアは二人の顔を見比べ、柔らかく笑った。
「お二人は、本当に一緒に考えるのがお好きなんですね」
「ええ。とても楽しいわ」
リビアは迷わず答えた。
俺はその言葉に少し照れくさくなったが、彼女が嬉しそうだったので、自然と笑みがこぼれた。
それから、俺たちは昨日の見学で気になったことを順番に話し始めた。
最初はサザリーだった。
彼は受付から講習用の部屋までの経路について、実際に歩いたときの印象を説明した。
「図面では分かりやすかったんだけど、通路の奥にある扉は、入口からだと少し見えにくかったんだ。案内する人がいれば問題ないかもしれないけど、初めて来る人が迷わないかは確認したいと思った」
レオルも頷いた。
「俺も同じところが気になった。ただ、案内表示を追加する必要があるかどうかは、実際の人の動きを確認しないと分からないと思う」
「そうね」
リビアは二人の話を聞きながら、資料へ目を向けた。
「それに、案内する方がどこに立つかによっても変わるでしょう? 表示だけで解決できるとは限らないわ」
サザリーはその意見を書き留めた。
次にガレスが、搬入通路について説明した。
彼は荷物を運ぶ側だけでなく、受け取る側の準備についても確認が必要だと考えているらしい。
「昨日、先生に待機場所のことを聞いたんだけど、まだ調整中だって言われたんだ。だから、今の段階で勝手に決めつけない方がいいと思ってる」
その言葉に、エミリアが小さく頷いた。
「決まっていないことを、決まっていると思い込まないのも大切なんですね」
「そうなんだよ。俺、昨日の演習でそれを痛感したからな」
ガレスは苦笑しながら答えた。
俺は二人の話を聞き、ノートへ書き込みを加えた。
すでに確認できたこと。
まだ分からないこと。
担当者へ確認する必要があること。
その三つを分けて整理していくと、昨日よりも全体が見えやすくなった気がした。
けれど、話し合いが進むにつれて、俺は少しずつ気になることが増えていった。
受付からの案内。
物品の搬入。
通路の混雑。
担当者同士の連絡。
それぞれは別の問題だが、実際の講習では関係してくる可能性がある。
(……もし、受付の人が案内担当へ連絡できなかったらどうするんだろう。搬入の時間が重なった場合は、誰が調整するんだ?)
俺はノートの余白へ、思いついたことを書き足した。
すると、さらに別の疑問が浮かんできた。
来訪者が予定より早く到着した場合。
講習用の部屋がまだ準備できていなかった場合。
案内担当が別の来訪者へ対応していた場合。
どれも、今の段階では正式な手順が決まっていない。
それでも、気になることをそのままにしておくのが落ち着かなかった。
俺が次の項目を書こうとしたとき、隣から柔らかな声が聞こえた。
「セス」
「ん?」
顔を上げると、リビアが俺を見つめていた。
彼女は微笑んでいたが、その目には少しだけ心配そうな色が浮かんでいる。
「少し、手を止めてもいいかしら」
「……何かあった?」
「ええ。あなたが、また全部を考えようとしているように見えたの」
俺は思わずノートへ視線を落とした。
そこには、最初に整理する予定だった項目よりも、ずっと多くの疑問が並んでいる。
サザリーも俺のノートを覗き込み、少し驚いたように目を瞬かせた。
「セス、そんなに書いていたんだね」
「……気になったことを整理してたら、増えちゃって」
俺が苦笑すると、ガレスが身を乗り出した。
「お前、これ全部確認するつもりなのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
言いかけて、俺は口を閉じた。
実際には、どこまで確認するべきなのか、自分でも分からなくなっていた。
問題が起きないようにしたい。
その気持ちはある。
けれど、まだ正式な役割も決まっていない段階で、すべての可能性を考えようとしても、答えが出ないことは多い。
リビアは俺の手元を見つめたあと、静かに言った。
「ねえ、セス。今、私たちが決められることと、決められないことを分けてみない?」
俺はその言葉に顔を上げた。
「決められることと、決められないこと?」
「ええ。例えば、昨日見学した通路の位置を覚えておくことはできるわ。でも、当日の担当者の配置を私たちだけで決めることはできないでしょう?」
「……うん」
「それなら、今は分からないことを全部解決しようとするのではなく、必要になったときに確認できるように整理しておけばいいのではないかしら」
リビアは落ち着いた声で続けた。
「私も昨日の演習で、誰かの役に立とうとするあまり、自分が判断してよい範囲を見失ってしまったもの。だから、今のあなたの気持ちが少し分かる気がするの」
俺は彼女の顔を見つめた。
リビアは責めるような表情をしていなかった。
ただ、俺が少し無理をしていることに気づき、立ち止まるきっかけを作ってくれている。
そのことが、胸の奥へ静かに染み込んできた。
「……ありがとう、リビア」
俺がそう言うと、彼女は柔らかく微笑んだ。
「どういたしまして。でも、私だけではなくて、皆さんも一緒に考えてくださっているでしょう?」
その言葉に、俺は周囲を見渡した。
サザリーは手帳を開いたまま、俺の返事を待っている。
ガレスも少し心配そうな顔をしていた。
レオルは資料を見比べながら、何か言いたそうにしている。
エミリアは静かに微笑み、俺たちの話を聞いていた。
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
「……そうだね。俺、一人で全部整理しようとしてたかもしれない」
「そういうことなら、分ければいいんじゃないか?」
ガレスが明るい声で言った。
「俺は搬入のことを中心に見てたし、サザリーは案内のことを詳しく見てただろ? レオルは図面のことが得意だし、オリビア様も使用人の立場から考えてる。全部セスがまとめなくてもいいと思うぞ」
サザリーも頷いた。
「僕もそう思う。必要な情報を持ち寄るのはいいけど、誰か一人が全部の答えを出す必要はないよ」
レオルは資料を机へ置き、落ち着いた声で続けた。
「それに、俺たちが確認できたことにも限界がある。実際の配置や運用は、学院の担当者が決めることだからな」
俺は三人の言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
そうだ。
俺たちは、それぞれ違う立場から見学している。
だからこそ、一人で全部を抱え込む必要はない。
俺はノートの新しいページを開き、確認済みの情報と未確定の情報を分けて書き始めた。
今度は、全員の意見を聞きながら。
◇
昼休みの終わりが近づくころには、俺たちの話し合いも一段落していた。
最初は疑問ばかり増えていたノートも、整理し直してみると、今すぐ答えを出す必要があることはそれほど多くなかった。
むしろ、正式な役割が決まってから確認するべきことが大半だった。
俺はそのことに気づき、少し恥ずかしくなった。
(……また、先のことまで全部考えようとしてたんだな)
昨日の夜、リビアと一緒に考えたときには、ちゃんと分かっていたつもりだった。
それなのに、気になることが増えると、いつの間にか自分だけで整理しようとしてしまう。
習慣というものは、簡単には変わらないらしい。
俺がそんなことを考えていると、エミリアが静かに口を開いた。
「セスさん、少しだけいいですか?」
「うん。どうしたの?」
「今日、皆さんのお話を聞いていて思ったんですけど……分からないことがあるのは、悪いことではないんですよね」
俺は少し考えた。
「そうだね。少なくとも、分からないことを隠してしまう方が困る場合もあると思う」
「私もそう思います」
エミリアは微笑んだ。
「でも、分からないことを全部すぐに解決しなければならないと思うと、少し苦しくなってしまう気がします」
その言葉に、俺は思わず目を瞬かせた。
エミリアは公開講習には参加しない。
だから、俺たちのように直接準備を進めているわけではない。
それでも、少し離れた立場から見ているからこそ、気づくことがあるのだろう。
「……確かに、そうかもしれない」
俺が答えると、エミリアは安心したように微笑んだ。
「皆さんが協力しているのを見ていると、少し羨ましいです。でも、参加していない私にも、こうしてお話を聞かせてくださるのが嬉しいんです」
リビアはその言葉を聞き、柔らかく微笑んだ。
「エミリアさんの意見も、とても参考になっているわ。参加しているかどうかだけで、気づけることが決まるわけではないもの」
「ありがとうございます、オリビア様」
エミリアは少し照れたように笑った。
その様子を見て、俺も自然と笑みがこぼれた。
俺たちは同じ学院で学んでいる。
けれど、それぞれの立場や得意なことは違う。
だからこそ、誰かの意見を聞くことで、自分には見えなかったものが見えてくる。
それは公開講習だけではなく、これから先の学院生活でも大切なことなのだろう。
◇
午後の授業が終わると、俺は教室に残って課題を整理していた。
今日の魔術理論で出された課題は、次回までに複数属性の使用時に想定される影響をまとめるというものだ。
実際に魔法を使う必要はない。
俺は授業中に書いたノートを読み返し、必要な部分だけを別の紙へ整理していた。
その途中で、教室の入口から声が聞こえた。
「シルフィール君、少しいいですか」
顔を上げると、公開講習の担当教師が立っていた。
俺は椅子から立ち上がり、教師の方へ向き直った。
「はい。何でしょうか」
「昨日の施設見学について、いくつか確認したいことがあります。時間はありますか」
「はい。大丈夫です」
教師は頷き、教室の前方へ進んだ。
俺はノートを閉じ、教師の話を聞く姿勢を取った。
「昨日、あなたは受付予定場所について質問していましたね。来訪者が待つ場合の案内について、気になったことがあると」
「はい。受付で確認を待っていただく場合、どこへ案内するのか分からなかったので」
「なるほど。その質問について、今日の段階で確定した手順を伝えることはできません。ただ、あなたがどのような状況を想定していたのか、もう少し詳しく聞いておきたいのです」
俺は少し考えた。
昨日の見学では、受付予定場所から奥の扉までの距離や、来訪者が立ち止まる位置が気になっていた。
けれど、正式な担当者の配置は決まっていない。
だから、具体的な案内方法を提案するよりも、何が気になったのかを伝えた方がよいだろう。
「……受付で来訪者の確認をしている間に、別の方が到着した場合のことを考えていました。待っていただく場所が分からないと、入口付近に人が集まってしまうかもしれないと思ったんです」
教師は静かに頷いた。
「なるほど。では、あなたはその状況を見て、どう対応するべきだと考えましたか」
俺は少しだけ迷った。
答えを出そうとすれば、いくつか方法は思いつく。
けれど、どれが適切なのか判断するための情報が足りない。
「……今の段階では、具体的な対応を決められないと思います。来訪者の人数や、受付担当者の配置、それから待機場所の予定が分からないので」
教師は俺の返事を聞き、わずかに微笑んだ。
「よい答えです。では、今できることは何でしょうか」
「気になった状況を記録して、担当者へ確認することだと思います」
「そのとおりです」
教師は落ち着いた声で続けた。
「昨日の見学は、皆さんに問題を解決してもらうためのものではありません。実際の施設を見て、どのような情報が必要になるのか考えてもらうことが目的です」
俺はその説明を聞き、ゆっくりと頷いた。
昼休みにリビアたちと話したことと、同じ考え方だった。
分からないことを全部解決するのではなく、何が分かっていないのか整理する。
それが今の段階で必要なのだろう。
「ありがとうございます。少し整理できました」
俺が礼を伝えると、教師は穏やかに頷いた。
「こちらこそ。あなたの質問は、施設の使い方を考えるうえで参考になります。ただし、正式な役割が決まるまでは、特定の担当を前提に準備しすぎないようにしてください」
「はい。気をつけます」
教師は最後にそう伝え、教室を出ていった。
俺はその背中を見送りながら、しばらく考え込んだ。
自分が気づいたことを伝えるのは、悪いことではない。
けれど、気づいたからといって、自分が解決しなければならないわけではない。
その違いを、今日は何度も考えることになった。
◇
教室へ戻ってきたリビアは、俺がまだ席に座っているのを見つけると、少し不思議そうに首を傾げた。
「セス、まだ課題をしていたの?」
「ううん。さっき、公開講習の先生に少し話を聞かれてたんだ」
「まあ。何のお話だったの?」
俺は教師との会話を簡単に説明した。
受付予定場所について質問した理由。
まだ正式な手順が決まっていないこと。
今の段階では、必要な情報を整理しておくことが大切だと教わったこと。
リビアは途中で頷きながら、静かに聞いていた。
「……そうだったのね」
話し終えると、彼女は少しだけ微笑んだ。
「セス、今日はたくさん考えることがあったのね」
「うん。でも、昼休みにリビアたちと話してたから、先生にも落ち着いて答えられた気がする」
「それなら、私も嬉しいわ」
彼女はそう言って、俺の隣へ腰を下ろした。
教室にはまだ何人かの生徒が残っている。
窓の外では、運動場から戻る生徒たちの声が聞こえていた。
リビアは俺のノートへ目を向け、少しだけ考えるように首を傾げた。
「ねえ、セス。今日、ひとつ気づいたことがあるの」
「何?」
「あなたは、誰かが困るかもしれないと思うと、その可能性を全部考えようとしてしまうのね」
俺は少しだけ言葉に詰まった。
否定しようと思えば、できたかもしれない。
けれど、昼休みにノートへ書き込んだ大量の疑問を思い出すと、素直に頷くしかなかった。
「……そうかもしれない」
「でも、それは悪いことばかりではないと思うわ。あなたが周りの人のことを大切に考えているからこそ、気になることが増えるのでしょう?」
リビアは優しく微笑んだ。
「ただ、その全部をあなた一人が解決しなければならないと思ってしまうと、きっと疲れてしまうわ」
俺は彼女の言葉を聞き、少しだけ視線を落とした。
確かに、昼休みの途中では、気になることが増えるたびに落ち着かなくなっていた。
誰かが困るかもしれない。
ならば、先に考えておいた方がいい。
そう思っているうちに、自分がどこまで考えるべきなのか分からなくなっていたのだ。
「……リビアは、よく気づくね」
俺がそう言うと、彼女は少しだけ頬を染めた。
「あなたのことだもの」
その返事は、あまりにも自然だった。
俺が驚いて顔を上げると、リビアは少し照れたように微笑んだ。
「もちろん、何でも分かるわけではないわ。でも、あなたが無理をしているときには、できるだけ早く気づきたいと思っているの」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は嬉しそうに頷いた。
俺は少し考えたあと、正直な気持ちを口にした。
「俺も、リビアが困ってるときには気づきたいよ」
その言葉に、彼女は目を瞬かせた。
「……セス」
「でも、全部を先回りして解決するんじゃなくて、リビアが何を考えてるのか聞けるようになりたい」
俺がそう続けると、リビアはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……嬉しいわ」
彼女の声は、いつもより少し柔らかかった。
「私も、あなたにそうしてもらえたら、とても安心すると思うの」
俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。
教室の外では、帰宅する生徒たちの足音が少しずつ遠ざかっていく。
俺はノートを閉じ、リビアと一緒に帰り支度を始めた。
◇
屋敷へ戻るころには、夕方の光が庭園を柔らかく照らしていた。
馬車を降りると、玄関では使用人たちが出迎えてくれた。
俺は礼を伝え、リビアと別れてから、夕方の仕事へ向かった。
今朝、父さんへ相談した搬入予定の件が気になっていたが、まずは自分に任された仕事を確認することにした。
執務室へ向かうと、父さんはすでに書類を整理していた。
「父さん、今朝の件だけど、何か確認できた?」
俺が尋ねると、父さんは顔を上げた。
「ああ。清掃担当者へ確認したところ、道具を置く時間は搬入予定と重ならないことが分かった。今のところ、仮置き場所を変更する必要はない」
「そっか。よかった」
「ただし、通路の使用制限は続いている。北門経由の搬入については、引き続き担当者同士で確認することになる」
「分かった」
俺は頷いた。
今朝気になったことは、ひとまず確認できた。
けれど、それで北門経由の搬入に関するすべての問題が解決したわけではない。
以前から気になっている予定外の立ち寄りについても、まだ理由は分かっていない。
俺はそのことを思い出したが、今ここで勝手に結論を出すことはできない。
必要な情報が揃うまでは、確認できた事実だけを整理しておくべきだろう。
父さんは俺の様子を見て、静かに口を開いた。
「クルセス。今朝の件について、何か考えたことはあるか?」
「……気になることがあっても、すぐに問題だと決めつけない方がいいと思った。それから、自分で全部調べようとしなくても、担当者へ確認してもらえば分かることがあるんだって」
父さんは頷いた。
「そうだな。仕事は一人で完結するものばかりではない。特に屋敷の運営では、複数の担当者が関わることが多い」
父さんは書類を机へ置き、俺へ視線を向けた。
「お前は能力が高い。だからこそ、周囲から頼られることも多いだろう。だが、頼られることと、すべてを引き受けることは違う」
「……うん」
「必要なときには、自分から頼ることも覚えなさい」
その言葉を聞き、俺は今日のリビアとの会話を思い出した。
彼女も、同じようなことを言っていた。
俺が一人で全部を考えようとすると、すぐに気づいてしまう。
そして、責めるのではなく、一緒に考えようとしてくれる。
「……父さん」
「何だ?」
「最近、リビアにも同じようなことを言われるんだ」
俺がそう言うと、父さんは一瞬だけ目を細めた。
「ほう。お嬢様が?」
「うん。俺が何でも一人で考えようとすると、ちゃんと相談してって」
父さんはしばらく黙っていた。
それから、静かに笑った。
「……お嬢様は、よくお前を見ておられるのだな」
「そうみたい」
「ならば、そのお気持ちを大切にしなさい。お前が誰かを守ろうとするように、お嬢様もお前の力になりたいと考えておられるのだろう」
俺はその言葉に頷いた。
父さんはそれ以上何も言わず、次の書類へ目を向けた。
俺も自分の仕事へ戻り、残っていた確認を進めた。
◇
夜、仕事を終えて自室へ戻ると、机の上には今日の学院で使ったノートが置かれていた。
俺は椅子へ腰を下ろし、昼休みに整理したページを開いた。
受付予定場所。
講習用の部屋。
搬入通路。
それぞれについて、確認できたことと、まだ分からないことが分けて書かれている。
最初に書き始めたときは、疑問ばかり増えてしまった。
けれど、リビアたちと一緒に整理したあとは、何を今考えるべきなのか、少し見えやすくなった。
俺はそのページを眺めながら、今日の出来事を思い返した。
ガレスは、搬入する側だけでなく、受け取る側のことも考えようとしていた。
サザリーは、案内する人と来訪者の両方の視点から通路を確認していた。
レオルは、図面と実際の施設の違いに気づいていた。
エミリアは、分からないことを全部すぐに解決しようとすると苦しくなるのではないかと話してくれた。
そして、リビアは。
(……俺がまた一人で全部考えようとしてることに、すぐ気づいたんだよな)
俺は小さく笑った。
彼女は、俺が思っている以上に俺のことを見ている。
けれど、それは俺を監視しているわけでも、何でも知っているというわけでもない。
ただ、俺が困っているときには力になりたいと思ってくれている。
その気持ちが、何より嬉しかった。
俺はノートの余白へ、今日学んだことを一つだけ書き加えた。
分からないことを整理する。
必要な相手へ確認する。
そして、一人で全部を抱え込まない。
書き終えると、少しだけ肩の力が抜けた。
窓の外には、静かな夜の庭園が広がっている。
遠くで風が木々を揺らし、葉の擦れる音が小さく聞こえた。
俺はノートを閉じ、明日の準備を整えた。
公開講習の正式な役割は、まだ決まっていない。
次月の二属性魔術の実習についても、詳しい予定はこれからだ。
屋敷の搬入経路に関する確認も続いている。
考えるべきことは、まだたくさんある。
けれど、その全部を今夜のうちに解決する必要はない。
俺は机の上を整え、灯りを少し落とした。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「セス、まだ起きているかしら」
聞き慣れた声に、俺は顔を上げた。
「リビア? うん、起きてるよ」
扉を開けると、リビアが立っていた。
彼女は部屋着に着替えており、銀青色の髪が肩へ柔らかく流れている。
「少しだけ、お話ししてもいい?」
「もちろん」
俺が招き入れると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
リビアは机の上のノートへ目を向けたあと、俺の顔を見つめた。
「……今日は、ちゃんと休めそう?」
その問いに、俺は少し驚いた。
「うん。もうノートも閉じたし、今日はこれで終わりにしようと思ってた」
「そう。よかったわ」
彼女は安心したように微笑んだ。
「昼休み、あなたが少し難しい顔をしていたから、気になっていたの」
「……やっぱり、分かっちゃうんだね」
「ええ。あなたのことだもの」
リビアはそう言って、俺の隣へ腰を下ろした。
俺は彼女の顔を見つめながら、少し考えた。
今日、彼女は何度も俺のことを気にかけてくれた。
けれど、俺は彼女が今日どんなことを考えていたのか、まだ十分に聞けていない。
「……ねえ、リビア」
「何かしら?」
「今日は、リビアの話も聞かせてほしいな」
彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。
「私の話?」
「うん。昼休みも、俺のことを気にかけてくれたでしょ。でも、リビアだって、いろいろ考えてたと思うから」
俺がそう言うと、彼女はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとう、セス」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
「実はね、私も今日、少しだけ不安になったことがあったの」
「不安?」
「ええ。公開講習の正式な役割がまだ決まっていないでしょう? 昨日の演習で失敗したことを考えると、もし本番でも同じような判断をしてしまったらどうしようと思ってしまうの」
リビアはそう言って、膝の上で指を重ねた。
その仕草を見て、俺は少しだけ胸が締めつけられるような気がした。
彼女は昼休み、俺が一人で抱え込もうとしていることに気づいてくれた。
けれど、その間にも、自分の不安を抱えていたのだ。
「……そっか」
俺は静かに頷いた。
「リビアも、まだ気になってたんだね」
「ええ。先生に相談して、何を確認するべきかは少し分かったつもりよ。でも、実際にできるかどうかは、まだ分からないもの」
彼女は少し困ったように笑った。
「私、セスには大丈夫だって言いたかったの。でも、昨日のお約束を思い出したら、隠してしまうのは違うと思って」
俺は彼女の手へそっと触れた。
「……話してくれてありがとう」
リビアは顔を上げた。
「セス」
「俺も、今日の昼休みは少し焦ってたんだ。分からないことが増えると、全部考えておかないといけない気がして」
俺は正直に話した。
「でも、リビアたちと一緒に整理して、今すぐ答えを出さなくてもいいことがあるって分かったんだ」
彼女は静かに聞いていた。
「だから、リビアも今すぐ全部できるようにならなくていいんじゃないかな。次に同じような場面があったとき、昨日より少し落ち着いて考えられたら、それで十分だと思う」
俺がそう言うと、リビアはしばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうね」
彼女は俺の手をそっと握り返した。
「私、また完璧にできなければいけないと思っていたのかもしれないわ」
「リビアは十分頑張ってるよ」
「ありがとう。でも、セスも同じよ」
彼女は少しだけ悪戯っぽく笑った。
「あなたも、全部を一人で考えなくていいのだから」
俺は思わず苦笑した。
「……結局、同じこと言われちゃったね」
「ふふっ。お互いさまね」
リビアは楽しそうに笑った。
その笑顔を見ているうちに、俺も自然と笑みがこぼれた。
俺たちはしばらく、今日の学院での出来事を話した。
授業で学んだこと。
昼休みに友人たちと話したこと。
まだ分からないこと。
そして、少しだけ不安に思っていること。
どれも、今すぐ答えを出せるものばかりではない。
けれど、こうして言葉にしてみると、不思議と気持ちが軽くなった。
やがて、リビアが立ち上がった。
「……そろそろ戻るわね。明日も学院があるもの」
「うん。部屋まで送るよ」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに頷いた。
廊下へ出ると、屋敷の中はすっかり静かになっていた。
壁際の灯りが柔らかく床を照らし、遠くから夜勤の使用人が歩く足音が聞こえてくる。
俺たちは並んで歩きながら、言葉を交わさずにいた。
けれど、その沈黙は気まずいものではなかった。
リビアの部屋の前へ到着すると、彼女は俺の方へ向き直った。
「セス」
「ん?」
「今日は、私の話も聞いてくれてありがとう」
俺は微笑んだ。
「俺も、リビアが話してくれて嬉しかったよ」
その言葉に、彼女は少しだけ頬を赤くした。
「……本当に、あなたはそういうことを自然に言うのね」
「また?」
「ええ。またよ」
リビアは小さく笑ったあと、俺の手をそっと握った。
「でも、嬉しいわ」
俺も握り返した。
彼女の手は温かく、少しだけ名残惜しそうに指が重なっている。
しばらくして、リビアはゆっくりと手を離した。
「おやすみなさい、セス」
「おやすみ、リビア」
彼女が部屋へ入るのを見届けてから、俺は自室へ戻った。
机の上には、今日整理したノートが置かれている。
そこには、まだ答えの出ていないことがいくつも残っていた。
けれど、今夜はそれを見ても焦らなかった。
分からないことがある。
不安に思うこともある。
それでも、誰かと一緒に考えることができる。
俺はそのことを、今日一日で改めて学んだ気がした。
窓の外には、静かな月明かりが差し込んでいる。
俺は明日の準備を整え、机の上のノートを閉じたまま、部屋の灯りを落とした。
そして、今日リビアが見せてくれた少し不安そうな表情と、そのあとに浮かべた柔らかな笑顔を思い出しながら、静かに目を閉じた。




