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第145話 公爵令嬢様は、俺の知らないところで俺の自慢をしているらしい


 朝のパウリー公爵邸には、いつもより少し冷たい風が吹いていた。


 庭園の木々はまだ鮮やかな緑を残しているものの、日陰に入ると季節が進んでいることを感じさせる。食堂へ続く廊下では、朝食の準備を進める使用人たちが静かに行き交い、磨き上げられた床には高い窓から差し込む朝日が細長く伸びていた。


 俺は担当者から今朝の準備状況を聞き、必要な確認を終えると、手元の記録表を閉じた。


 以前の俺なら、このあと誰かの仕事を手伝おうとしたかもしれない。けれど、最近は自分が手を出すべきことと、担当者へ任せるべきことを区別するよう意識している。


 昨日も、予備の道具の保管場所について相談を受けたとき、自分だけで判断せず、関係する担当者へ確認した。


 その対応について、父さんからは悪くなかったと言ってもらえた。


(……少しずつだけど、俺も変わってきているのかな。昔は誰かが困っていると、何とかして自分で解決しなきゃって思っていたけど)


 そう考えていると、廊下の向こうから聞き慣れた足音が近づいてきた。


「おはようございます、セス。今朝の確認は終わりましたか」


 振り返ると、父さん――グレイヴ・シルフィールが、いつもどおり整った執事服で歩いてきていた。


「おはよう、父さん。朝食の準備は予定どおりだよ。担当の人からも、今のところ問題はないって聞いてる」


「結構です。では、学院へ向かう準備をしてください。こちらの仕事は予定どおり進めておきます」


「うん。ありがとう」


 俺が記録表を所定の場所へ戻そうとすると、父さんは何かを思い出したように口を開いた。


「そういえば、王立学院から公開講習に関する連絡が届いています」


「えっ、本当?」


 思わず手を止めると、父さんは静かに頷いた。


「ええ。ただし、参加者や役割が正式に決定したという通知ではありません。申し込みを受け付けた生徒に対して、学院で説明を行う予定があるという案内です」


「説明会みたいなもの?」


「そう考えてよいでしょう。詳しい内容については、学院で確認してください。お嬢様にも、すでにお伝えしています」


 俺は頷きながら、頭の中で予定を整理した。


 来週予定されている公開講習では、学院内でさまざまな役割を体験し、仕事の流れや立場による考え方の違いを学ぶことになっている。


 俺は屋敷の管理者、リビアは使用人の役を希望しているが、希望が通るかどうかはまだ分からない。


 参加そのものについても、正式な案内を待っている状態だった。


「分かった。学院で説明を聞いてくるよ」


「ええ。結果が分かる前に、役割を決めつけないようにしてください」


「もちろん。リビアとも、そのことは話してあるから」


 父さんは満足そうに頷いたあと、少しだけ表情を和らげた。


「それから、セス」


「何?」


「昨日、お嬢様とお話しする機会がありました」


 俺は思わず瞬きをした。


「リビアと?」


「ええ。あなたが最近、以前よりも周囲へ相談するようになったことを、とても喜んでおられました」


 その言葉に、俺は少し照れくさくなった。


「……そうなんだ」


「それだけではありません。あなたが学院でどのように学んでいるかについても、楽しそうに話してくださいましたよ」


「えっ?」


 父さんは、俺の反応を見て小さく微笑んだ。


「詳しい内容は、ご本人へお尋ねになるとよいでしょう」


「ちょっと待って、父さん。何を話してたの?」


「それは私から申し上げることではありませんね」


 父さんはいつもの落ち着いた表情に戻ると、仕事へ向かって歩き始めた。


 俺はその後ろ姿を見送りながら、しばらく廊下に立ち尽くしてしまった。


(……リビア、父さんに何を話したんだろう。昨日は相談しやすいって言ってくれたけど、まさかその話かな)


 考えても分からなかったので、俺は気持ちを切り替え、学院へ向かう準備を始めた。


     ◇


 玄関広間へ下りると、リビアはすでに支度を整えて待っていた。


 シルバーブルーの髪は今日も美しく結われ、学院の制服には乱れ一つない。彼女は俺に気づくと、周囲の使用人たちへ向けていた落ち着いた表情を柔らかな笑顔へ変えた。


「おはよう、セス。今日は少し冷えるわね」


「おはよう、リビア。うん。庭園を通ったときも、昨日より風が冷たく感じたよ」


「そうでしょう? だから、馬車の中で寒くならないようにしておいたの」


 リビアはそう言って、馬車の座席に薄手の膝掛けを用意してもらったことを教えてくれた。


「ありがとう。リビアも寒かったら使ってね」


「ええ。もちろん、そのつもりよ」


 彼女は嬉しそうに微笑み、俺の隣へ並んだ。


 玄関の外では馬車の準備が整っており、御者が俺たちの到着を待っていた。俺たちは使用人たちへ挨拶して屋敷を出ると、朝露の残る庭園を通り、馬車へ乗り込んだ。


 座席へ腰を下ろしてから、俺は今朝、父さんに聞いたことを思い出した。


「そういえば、リビア」


「何かしら?」


「今朝、父さんから聞いたんだけど、昨日、俺のことを話してくれたんだって?」


 その瞬間、リビアの動きがわずかに止まった。


 彼女は俺の顔を見つめたあと、ゆっくりと瞬きをした。


「……グレイヴが、そう言ったの?」


「うん。俺が最近、周りの人へ相談するようになったことを喜んでたって。それから、学院でのことも話してくれたみたいだけど」


 俺がそこまで説明すると、リビアは少しだけ頬を赤くした。


「……グレイヴったら」


 彼女は小さく呟き、窓の外へ視線を向けた。


 その様子を見て、俺は少し不安になった。


「何か、聞いちゃいけないことだった?」


「いいえ。そういうわけではないわ。ただ……あなたに知られると、少し恥ずかしいだけよ」


「恥ずかしい?」


 俺が首を傾げると、リビアは小さく息をついた。


「セス。あなた、自分が学院でどれだけ頑張っているのか、あまり自覚していないでしょう?」


「えっ? そんなことないと思うけど」


「では、昨日ガレス様から相談しやすいと言われたことについて、どう思ったの?」


「嬉しかったよ。でも、俺は特別なことをしているつもりはなかったから、ちょっと驚いたかな」


 そう答えると、リビアは予想していたとでも言いたげに微笑んだ。


「やっぱりね。あなたはいつも、そういうところがあるのよ」


「……そういうところ?」


「自分が誰かの役に立っていても、それを特別なことだと思わないところよ。私は、そこがあなたのよいところだと思っているけれど、もう少し自信を持ってもいいと思うの」


 リビアはそう言いながら、膝の上で両手を重ねた。


「昨日、グレイヴにはその話をしたの。セスが学院で友人たちの話を聞いて、一緒に考えていること。それから、以前よりも周囲へ相談するようになって、無理に一人で解決しようとしなくなってきたことも」


「……そんなに話したの?」


「ええ。だって、嬉しかったんですもの」


 彼女は少しだけ胸を張った。


「私、セスのことを自慢したかったの」


 あまりにも真っ直ぐに言われたので、俺は返事に困ってしまった。


 リビアはそんな俺を見て、さらに嬉しそうに笑った。


「ふふっ。やっぱり、そういう顔をするのね」


「いや、その……ありがとう。でも、俺のことをそんなに褒めなくても」


「いいえ。褒めたいのだから、褒めるわ」


 彼女はきっぱりと言い切った。


 その堂々とした態度が、普段の公爵令嬢らしい姿と重なって、俺は思わず笑ってしまった。


「……リビアには敵わないな」


「あら、今頃気づいたの?」


 彼女は悪戯っぽく微笑み、少しだけ俺の方へ身を寄せた。


「それに、私があなたのことを自慢したくなるのは、今に始まったことではないわよ」


「そうなの?」


「ええ。昔からずっとよ」


 リビアはそう答えたあと、少し懐かしそうに目を細めた。


「あなたは、私が困っているときに何度も助けてくれたでしょう? でも、助けたことを自慢したり、見返りを求めたりしなかったわ。だから私は、セスのそういうところを誰かに知ってほしいと思っていたの」


 俺は彼女の言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


(……リビアは、そんなふうに思ってくれていたんだな。俺にとっては、リビアが困っていたら助けたいって思うのは当たり前だったけど)


 俺が返事を考えていると、リビアは少しだけ表情を柔らかくした。


「でもね、セス。自慢したいからといって、あなたが嫌がるような話を誰にでもするつもりはないわ。昨日はグレイヴと話していて、あなたの成長が嬉しくなっただけなの」


「うん。分かってるよ。俺も、リビアがそう思ってくれているのは嬉しい」


 そう答えると、彼女は安心したように微笑んだ。


 馬車は穏やかな揺れとともに王立学院へ向かって進んでいく。


 窓の外では、朝の通りを行き交う人々の姿が見え始めていた。


     ◇


 王立学院へ到着すると、正門付近にはいつもより多くの生徒が集まっていた。


 何人かが掲示板の前に立ち、貼り出された紙を読んでいる。俺とリビアが近づくと、その中にガレスとサザリーの姿が見えた。


「おはよう、セス! オリビア様も、おはようございます!」


 ガレスは俺たちに気づくと、元気よく手を振った。


「おはよう。何か新しい掲示があったの?」


「そうなんだよ! 公開講習の説明について、案内が出てるんだ!」


 俺は掲示板へ目を向けた。


 そこには、公開講習への参加を希望した生徒に向けて、放課後に説明を行うことが書かれていた。


 ただし、今日の説明では講習の目的や注意事項、役割分担の考え方などを伝える予定であり、すべての参加者と配役をその場で確定するとは書かれていない。


「……なるほど。今日の放課後に説明があるんだね」


 俺がそう言うと、サザリーが頷いた。


「うん。参加を希望した生徒は、指定された教室へ集まることになっているみたいだね。まだ役割が決まったわけではないから、希望した内容をもう一度確認しておいた方がよさそうだ」


 リビアも掲示を丁寧に読み、静かに頷いた。


「そうね。希望した役割を担当できるとは限らないもの。どのような説明があるのか、きちんと聞いておきましょう」


 ガレスは少し興奮した様子で口を開いた。


「俺、商人の役を希望してるんだけどさ、もし違う役になっても、それはそれで面白そうなんだよな。昨日まで展示の配置図を考えてたから、ちょっと惜しい気もするけど!」


「まだ何も決まっていないんだから、今から諦める必要はないと思うよ」


 俺がそう答えると、ガレスは楽しそうに笑った。


「だよな! まあ、どっちにしても、今日の説明はちゃんと聞くつもりだ!」


 その隣で、サザリーは掲示の内容を手帳へ書き留めていた。


「僕は、記録や連絡の役割がどのように分けられるのか気になっているんだ。実際に役を担当するかどうかは別として、どういう基準で分担するのか知りたいね」


 俺たちはそれぞれの希望について話しながら、教室へ向かった。


 廊下には朝の賑やかな声が響き、窓から差し込む光が石造りの床を明るく照らしている。


 俺は歩きながら、隣のリビアへ視線を向けた。


 彼女はどこか楽しそうな表情を浮かべていた。


「リビア、嬉しそうだね」


「ええ。だって、ようやく公開講習について詳しい説明を聞けるのでしょう? もちろん、まだ何も決まっていないけれど、少しずつ準備が進んでいると思うと楽しみなの」


「そうだね。俺も楽しみだよ」


 俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「ふふっ。それなら、今日も一緒に頑張りましょうね」


「うん」


 俺たちは並んで教室へ入った。


     ◇


 午前の授業では、複数の人が協力して一つの仕事を進めるとき、どのように情報を共有するかについて学んだ。


 教師は黒板へ簡単な作業の流れを書き、担当者同士の連絡が不足すると、同じ仕事を重複して行ったり、必要な作業が抜け落ちたりすることがあると説明した。


「例えば、ある行事の準備で、会場を整える担当者と、必要な道具を運ぶ担当者がいたとしましょう。会場の準備が遅れていることを、道具を運ぶ担当者が知らなかった場合、どのような問題が起きるでしょうか」


 教室のあちこちから手が上がった。


 道具を置く場所がないかもしれないという意見や、通路を塞いでしまう可能性があるという意見が出る。


 教師はそれぞれの意見を聞いたあと、必要な情報を適切な相手へ伝えることの重要性を説明した。


「仕事を分担することは大切ですが、分担しただけでは十分ではありません。自分の担当する仕事が、ほかの人の仕事とどのようにつながっているのか理解する必要があります」


 俺はその説明を聞きながら、屋敷での仕事を思い返した。


 食堂の準備も、料理を運ぶ人だけで成り立っているわけではない。


 厨房で料理を用意する人、食器を整える人、配膳の順番を確認する人。それぞれの仕事がつながっているからこそ、予定どおりに食事を提供できる。


(……一人ひとりが自分の仕事をきちんとするだけじゃなくて、必要な情報を伝え合うことも大切なんだな)


 授業の後半では、いくつかの班に分かれて、架空の行事準備について話し合うことになった。


 俺の班にはガレス、エミリア、レオルが入り、リビアはサザリーたちと別の班になった。


 今回の課題では、限られた時間の中で会場を準備するために、どの作業を先に進め、どの情報を共有するべきか考えることになっている。


 ガレスはさっそく課題の紙を広げ、楽しそうに口を開いた。


「よし! まずは会場の配置から考えようぜ!」


 その勢いに、エミリアが小さく笑った。


「ガレス様、昨日から配置を考えることがお好きになったみたいですね」


「いやあ、だって面白いんだよ! 机をどこに置くかだけでも、いろんなことが変わるんだからさ」


 レオルは課題の条件を確認しながら、落ち着いた声で言った。


「ただ、今回は配置だけではなく、作業の順番も考える必要があるね。会場の準備が終わる前に道具を運び込んでも、置く場所に困るかもしれない」


「そうだね。まず、どの作業が終わらないと次へ進めないのか整理した方がよさそうだ」


 俺がそう言うと、ガレスは少し考え込んだ。


「なるほど。じゃあ、机を並べる担当と、道具を運ぶ担当がいるとして……どっちが先に動くか決める必要があるわけか」


「うん。でも、全部の机を並べ終わるまで道具を運べないとは限らないと思う。通路を確保できていれば、先に運べるものもあるかもしれないし」


 レオルがそう補足すると、エミリアも頷いた。


「それなら、どこまで準備が進んだら道具を運んでよいのか、担当者同士で確認できると安心ですね」


 俺たちはそれぞれの意見を出し合い、作業の流れを整理していった。


 途中で、ガレスが少し困ったように頭をかいた。


「……でもさ、これって実際にやってみないと分からないことも多そうだよな。紙の上だと簡単に見えるけど、机が思ったより重かったり、通路が狭かったりするかもしれないし」


 俺はその言葉に頷いた。


「そうだね。だから、今考えているのはあくまで仮の計画なんだと思う。実際の場所や道具を確認してから、必要なら変更することになるんじゃないかな」


「それなら、変更があったときに誰へ伝えるかも決めておいた方がいいね」


 レオルの提案に、俺たちは納得した。


 話し合いを進めるうちに、最初は単純に見えていた行事準備にも、いろいろな確認が必要だと分かってきた。


 俺は記録用紙へ意見を書き込みながら、少しだけ嬉しくなっていた。


 こうして誰かと一緒に考える時間は、以前よりもずっと楽しい。


 自分一人では思いつかなかったことに気づけるし、相手の考えを聞くことで、自分の考え方も変わっていく。


(……これも、学院へ通うようになってよかったことの一つだな。屋敷では学べないこともあるし、逆に屋敷での経験が役に立つこともある)


 俺はそんなことを考えながら、班の話し合いを続けた。


     ◇


 昼休みになると、俺たちは食堂で昼食を取ったあと、中庭へ向かった。


 今日は風が少し強く、木々の葉が揺れるたびに柔らかな音が響いている。石畳の上には雲の影がゆっくりと流れ、遠くでは数人の生徒が楽しそうに話していた。


 俺とリビアは、いつものように中庭のベンチへ腰を下ろした。


 ガレスたちは午後の授業に使う資料を確認するため、少し遅れて来るらしい。


 リビアは膝の上へノートを置き、俺の顔を見つめた。


「午前の授業、どうだった?」


「面白かったよ。ガレスがまた配置の話をしてたけど、今回は作業の順番まで考えることになって、いろいろ気づくことがあったんだ」


 俺が話すと、リビアは楽しそうに笑った。


「ふふっ。ガレス様らしいわね。あの方は、何か興味を持つと本当に熱心になるもの」


「うん。最初は商人の役をやってみたいって話だったのに、今は会場の配置を考えること自体が楽しいみたいだよ」


「それも、よい学び方だと思うわ。興味を持ったことから、別のことへ関心が広がる場合もあるでしょう?」


 俺は頷いた。


「そうだね。俺も、みんなと話しているうちに、自分では考えなかったことに気づくことがあるし」


 リビアはその言葉を聞き、嬉しそうに微笑んだ。


「……セス、本当に変わったわね」


「えっ?」


「昔のあなたなら、何かを学ぶとき、自分がどれだけできるようになったかを気にすることが多かったでしょう? でも今は、誰かと一緒に考えることそのものを楽しんでいるように見えるの」


 俺は少し考え込んだ。


 確かに、以前は仕事でも勉強でも、できるだけ早く覚え、失敗しないようにすることを大切にしていた。


 それは今でも変わらない。


 けれど、学院で友人たちと話すようになってから、正しい答えを出すことだけが大切なのではないと感じるようになっていた。


「……そうかもしれない。前よりも、みんなと考える時間が楽しくなった気がするよ」


 俺がそう答えると、リビアは満足そうに頷いた。


「それなら、私も嬉しいわ」


 彼女はそう言ったあと、少しだけ身を寄せた。


「でも、セス。私とも、たくさん一緒に考えてほしいのよ?」


「もちろん。リビアと話す時間も、俺は好きだよ」


 そう答えると、彼女は頬をほんのり赤く染めた。


「……本当に、あなたはそういうことを自然に言うのね」


「えっ、何か変だった?」


「いいえ。とても嬉しいことを言ってくれたの」


 リビアはそう言って微笑み、少しだけ俺の手元へ視線を向けた。


 周囲にはほかの生徒たちもいるため、俺たちは手をつなぐことはしなかった。


 それでも、隣に座っている彼女との距離が少し近く感じられた。


 しばらくして、リビアが思い出したように口を開いた。


「そういえば、セス。今日の放課後の説明、楽しみね」


「うん。公開講習について、もう少し詳しいことが分かるかもしれないし」


「ええ。私、使用人の役を希望した理由を、きちんと説明できるようにしておきたいの」


 俺は彼女の顔を見つめた。


「リビアは、どうしてその役を希望したのか、もう十分考えていると思うけど」


「そうかもしれないわ。でも、ただセスの仕事を知りたいというだけでは、少し足りない気がするの」


 彼女はそう言って、ノートを開いた。


 そこには、公開講習で学びたいことがいくつか書かれていた。


 使用人がどのような情報を確認して仕事を進めるのか。


 自分で判断してよいことと、責任者へ確認するべきことをどのように区別するのか。


 そして、仕事を分担するとき、どのような連絡が必要になるのか。


「……すごいね。こんなに整理してたんだ」


 俺が感心すると、リビアは少し照れたように微笑んだ。


「昨日の夜、少し考えていたの。セスと話しているうちに、知りたいことが増えてしまって」


 俺はノートを見ながら、静かに頷いた。


「どれも大事なことだと思うよ。俺も、管理者の役を希望した理由を、もう少し整理しておこうかな」


「ふふっ。それなら、あとでお互いに見せ合いましょうか」


「うん。そうしよう」


 俺たちはそう約束し、午後の授業へ向かった。


     ◇


 放課後、公開講習への参加を希望した生徒たちは、指定された教室へ集まった。


 普段の授業で使う教室より少し広い部屋には、すでに多くの生徒が座っており、前方には教師たちが資料を準備していた。


 俺とリビアは並んで席へ着き、ガレスとサザリーも近くに座った。


 エミリアとレオルも少し離れた席におり、こちらへ気づくと軽く手を振ってくれた。


 しばらくして、説明を担当する教師が前へ進み出た。


「本日は、来週予定している公開講習について、参加を希望した皆さんへ説明を行います」


 教室の中が静かになった。


「まず、今回の講習では、さまざまな立場の仕事を体験し、それぞれの役割がどのようにつながっているのか学ぶことを目的としています。希望した役割については確認していますが、人数や全体の構成によっては、希望どおりにならない場合があります」


 教師はそう説明し、手元の資料を配り始めた。


 資料には、講習で想定されている役割の種類や、参加者が守るべき注意事項が書かれていた。


 管理者、使用人、商人、来訪者など、さまざまな立場が用意されているらしい。


 ただし、実際にどの役を誰が担当するかは、まだ調整中だった。


「今回の講習では、役割を演じることそのものよりも、その立場で何を考え、どのような情報を必要とするのかを学んでもらいます。ですから、希望した役割になれなかったとしても、学ぶ機会が失われるわけではありません」


 俺はその言葉を聞き、静かに頷いた。


(……そうだよな。俺が管理者の役を希望したのは、普段とは違う立場から仕事を考えてみたいからだ。でも、別の役になったとしても、学べることはあるはずだ)


 隣を見ると、リビアも真剣な表情で説明を聞いていた。


 教師は続けて、講習中に困ったことがあった場合の対応について説明した。


「講習中は、担当する役割に応じて行動してもらいます。ただし、実際の施設運営ではありませんから、判断に迷った場合は担当教師へ確認してください。また、講習のために用意された範囲を超えて、学院の設備や備品を勝手に使用しないようにしてください」


 俺は資料の該当部分へ目を向けた。


 普段の仕事と同じように、確認するべきことは確認する。


 その基本は、講習でも変わらないらしい。


 説明が進むと、教師は参加希望者へ向けて、役割を希望した理由について簡単に確認する場合があると伝えた。


 ただし、今日すべての生徒から個別に話を聞くわけではなく、必要に応じて後日確認することもあるという。


 俺は少しだけ緊張した。


 自分がなぜ管理者の役を希望したのか、考えてはいる。


 けれど、それをほかの人へ分かりやすく説明できるかどうかは、また別の問題だった。


 すると、隣のリビアが小さな声で話しかけてきた。


「セス、大丈夫よ」


 俺が顔を向けると、彼女は穏やかに微笑んだ。


「あなたが何を学びたいのか、私は知っているもの。落ち着いて話せば、きっと伝わるわ」


「……ありがとう、リビア」


 俺が小さく答えると、彼女は嬉しそうに頷いた。


 説明会の最後には、今後の連絡方法について案内があった。


 参加者や役割の正式な決定については、学院から改めて知らせる予定であり、今日の時点ではまだ確定していない。


 教師は質問を受け付け、何人かの生徒が役割分担や当日の進め方について尋ねた。


 ガレスも手を上げ、商人の役を希望している場合、どのような準備をしておくとよいのか質問した。


 教師は、特定の役割に決まったわけではないため、今の段階では講習の目的を理解し、さまざまな立場について考えておくことが大切だと答えた。


 ガレスは少し残念そうにしながらも、納得したように頷いていた。


 説明が終わると、生徒たちはそれぞれ資料をしまい、教室を出始めた。


 俺もリビアと一緒に立ち上がり、鞄へ資料を入れた。


「……まだ役割は決まらなかったね」


 俺がそう言うと、リビアは静かに頷いた。


「ええ。でも、今日の説明を聞いて、何を学ぶための講習なのか、前よりもはっきりした気がするわ」


「そうだね。俺も、希望した役割だけにこだわらずに考えてみようと思ったよ」


 彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「ふふっ。私も同じよ」


     ◇


 学院を出る頃には、空が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。


 正門の近くでは帰宅する生徒たちが行き交い、遠くから馬車の車輪が石畳を進む音が聞こえてくる。


 俺とリビアは迎えの馬車へ乗り込み、パウリー公爵邸へ向かった。


 車内では、今日の説明会でもらった資料をもう一度確認した。


 リビアは使用人の役を希望した理由を整理したノートを開き、俺にも見せてくれた。


「セスは、管理者の役を希望した理由をどう考えているの?」


 俺は少し考えてから答えた。


「……普段は父さんやほかの責任者の人たちが、仕事の全体を見て判断しているだろ? 俺は自分の担当する仕事をきちんとすることばかり考えてきたけど、管理する側が何を見ているのか、もっと知りたいんだ」


 リビアは真剣な表情で聞いていた。


「それに、最近は人に仕事を任せることも大切だって分かってきたから、どうすれば相手が安心して仕事を進められるのかも考えてみたい」


 俺がそう続けると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「とてもよい理由だと思うわ」


「そうかな?」


「ええ。あなたが今まで経験してきたことと、これから学びたいことがつながっているもの」


 俺は少し照れくさくなりながらも、彼女の言葉を受け止めた。


「ありがとう。リビアは?」


「私は、普段セスたちがどのように仕事を進めているのか、自分でも経験してみたいの。それから、誰かの指示を受ける立場で、何を確認する必要があるのか知りたいと思っているわ」


 リビアはそう言って、少しだけ表情を柔らかくした。


「もちろん、セスのことをもっと知りたいという気持ちもあるのよ」


 俺は思わず笑ってしまった。


「それは、前から言ってくれてるね」


「ええ。でも、それだけではないわ。使用人の方々が普段どのようなことを考えているのか、自分でも学んでみたいの」


 俺は静かに頷いた。


「リビアなら、きっといろいろなことに気づけると思うよ」


 そう答えると、彼女は少し照れたように微笑んだ。


「……ありがとう、セス」


 馬車は穏やかな揺れとともに屋敷へ向かって進んでいく。


 俺たちはそのあとも、今日の授業や説明会について話し合った。


 ただし、まだ役割が決まっていないため、具体的な行動を決めることはせず、それぞれが何を学びたいのかを確認する程度にとどめた。


     ◇


 パウリー公爵邸へ戻ると、夕方の庭園には柔らかな光が差し込んでいた。


 俺はリビアと別れて着替えを済ませ、夕方の仕事へ向かった。


 食堂の準備は予定どおり進んでおり、担当者たちがそれぞれの持ち場で動いていた。


 俺は必要な確認を行いながら、今日の授業で学んだ情報共有について考えていた。


 すると、準備を進めていた使用人の一人が、俺へ声をかけてきた。


「シルフィール様、少し確認していただきたいことがあるのですが」


「はい。どうしましたか?」


 彼は手元の記録表を見せながら、夕食の準備で使う道具について説明した。


 必要な道具の一部が、予定していた場所とは別の保管場所に移されていたらしい。


 昨日、一時的に保管場所を変更したものがあり、その連絡がすべての担当者へ行き渡っているか確認したいという。


 俺は記録表を見ながら、昨日の出来事を思い返した。


「なるほど。昨日、予備の道具の保管場所を一時的に変更した件ですね」


「はい。担当者から説明は受けているのですが、今日の準備に関係する者全員が把握しているか、少し心配でして」


 俺は頷いた。


「それなら、今の担当者へ確認した方がよさそうですね。保管場所を変えた理由と、いつまでその場所を使う予定なのかも整理しておきましょう」


 彼は安心したように頷いた。


 俺たちは担当者へ確認し、必要な連絡が行われていることを確かめた。


 ただし、今後も同じ場所を使い続けるかどうかは、責任者の判断が必要になる。


 俺はその点を確認し、勝手に決めないようにした。


 仕事を終えたあと、父さんが俺のところへやってきた。


「セス、今日の学院はいかがでしたか」


「公開講習の説明があったよ。まだ役割は決まっていないけど、何を学ぶための講習なのか、詳しく聞けたんだ」


 俺は説明会の内容を簡単に伝えた。


 父さんは静かに頷き、最後まで話を聞いてくれた。


「なるほど。希望した役割について、理由を整理しておくことはよいと思います。ただし、正式な決定が出るまでは、どのような役割になっても学べるように考えておくとよいでしょう」


「うん。リビアとも、そう話したよ」


 俺がそう答えると、父さんは少しだけ微笑んだ。


「お嬢様も、きっと楽しみにしておられるでしょうね」


「うん。すごく楽しそうだったよ」


 俺はそう言ってから、今朝のことを思い出した。


「……そういえば、父さん」


「何でしょう」


「今朝、リビアが俺のことを話してたって言ってたよね」


「ええ」


「本人に聞いたら、俺のことを自慢したかったんだって」


 父さんは静かに頷いた。


「そうでしょうね」


「……父さん、知ってたんだ?」


「お嬢様のお話を聞いていれば、自然と分かりますよ」


 俺は思わず苦笑した。


「……リビアって、そんなに俺のことを褒めてるの?」


 父さんは少し考えるような仕草をしたあと、穏やかに答えた。


「お嬢様は、あなたのことをよく見ておられます。あなたが気づいていない変化にも、気づいておられることがあるのでしょう」


 俺はその言葉を聞き、静かに頷いた。


「……俺も、リビアのことをもっとよく見ていたいな」


 そう呟くと、父さんは満足そうに微笑んだ。


「それなら、これからもお互いに学び合っていけばよいでしょう」


「うん。そうするよ」


     ◇


 夜、仕事を終えて自室へ戻ると、窓の外には静かな庭園が広がっていた。


 月明かりが木々の葉を淡く照らし、遠くからは夜の風が枝を揺らす音が聞こえてくる。


 俺は机へ向かい、今日の公開講習の説明会でもらった資料を開いた。


 そこには、講習の目的や注意事項が丁寧に書かれている。


 俺は自分が管理者の役を希望した理由を、もう一度ノートへ整理していた。


 すると、扉の外から控えめなノックが聞こえた。


「セス、少しお時間をいただいてもよろしいかしら」


 リビアの声だった。


 俺は立ち上がり、扉を開けた。


「もちろん。どうしたの?」


 リビアは少し照れたように微笑んだ。


「今日の説明会のことを、もう少しお話ししたくて。それに……今朝のことも、少し気になっていたの」


「今朝のこと?」


 俺が首を傾げると、彼女は頬をほんのり赤く染めた。


「……私が、あなたのことを自慢したかったと言ったでしょう?」


「ああ、うん」


 俺は頷き、彼女を部屋へ招いた。


 リビアは椅子へ腰を下ろすと、少しだけ落ち着かない様子で膝の上に手を重ねた。


「……セス、あの話を聞いて、困らなかった?」


「えっ? どうして?」


「だって、あなたはあまり自分のことを褒められるのが得意ではないでしょう? 私がグレイヴにいろいろ話していたと知って、恥ずかしかったのではないかと思って」


 俺は少し考えてから、正直に答えた。


「……恥ずかしかったのは本当だよ。でも、嫌だったわけじゃない。リビアが俺のことをそんなふうに思ってくれているって分かって、嬉しかった」


 その言葉に、リビアは安心したように息をついた。


「……それなら、よかったわ」


 彼女はそう言って微笑んだあと、少しだけ悪戯っぽい表情を浮かべた。


「でも、私があなたのことを自慢したくなる気持ちは、きっとこれからも変わらないと思うの」


「……そうなの?」


「ええ。だって、セスはこれからも、いろいろなことを学んで成長していくでしょう? その姿を見ていたら、きっと誰かに話したくなってしまうもの」


 俺は思わず笑ってしまった。


「……リビアには敵わないな」


「あら、今頃気づいたの?」


 彼女は楽しそうに笑い、俺の顔を見つめた。


 その表情は、普段の公爵令嬢らしい落ち着いた姿とは少し違っていた。


 幼い頃から俺が知っている、嬉しいときには素直に笑い、少し寂しいときにはそれを隠そうとする、リビアらしい表情だった。


 俺はそんな彼女を見ながら、ふと口を開いた。


「……でも、俺もリビアのことを自慢したいって思うよ」


 その瞬間、リビアの動きが止まった。


「……えっ?」


「リビアは、いつも周りの人のことを考えてるし、学院でもみんなの意見をちゃんと聞いてるだろ? それに、俺が困っているときには、いつも一緒に考えてくれるし」


 俺は少し照れくさくなりながらも、言葉を続けた。


「だから、俺もリビアのいいところを、誰かに話したくなることがあるんだ」


 リビアはしばらく俺を見つめていた。


 それから、ゆっくりと頬を赤く染めた。


「……セス」


「うん?」


「あなた、本当に……」


 彼女はそこで言葉を止め、少し困ったように微笑んだ。


「……そんなことを言われたら、私、どうしたらいいのか分からなくなってしまうわ」


 俺は思わず慌てた。


「えっ、ごめん。何か変なこと言った?」


「いいえ。とても嬉しいことを言ってくれたのよ」


 リビアはそう答え、そっと俺の手を取った。


 俺も自然にその手を握り返した。


 しばらくの間、俺たちは何も言わずに座っていた。


 窓の外では夜の風が木々を揺らし、部屋の中には静かな時間が流れている。


 やがて、リビアが小さく笑った。


「……ねえ、セス。私たち、お互いのことを自慢し合っているみたいね」


「……そうかもしれないね」


 俺が笑って答えると、彼女も嬉しそうに微笑んだ。


「でも、私はそれでいいと思うの。お互いのよいところを見つけて、それを嬉しいと思えるのは、素敵なことだと思うから」


 俺はその言葉を聞き、静かに頷いた。


「うん。俺もそう思うよ」


 リビアは少しだけ身を寄せ、俺の手を握る力をわずかに強めた。


「……これからも、たくさん見つけましょうね。お互いのよいところを」


「うん。約束するよ」


 俺が答えると、彼女は安心したように微笑んだ。


 しばらくして、リビアは名残惜しそうに手を離し、自室へ戻るために立ち上がった。


 俺は扉まで見送り、彼女が廊下の向こうへ歩いていく姿を見届けた。


 部屋へ戻ると、机の上には公開講習の資料が開かれたままになっていた。


 俺はそこへ視線を向け、今日一日の出来事を思い返した。


 学院では、仕事を分担するときに必要な情報を共有することを学んだ。


 公開講習についても、少しずつ準備が進んでいることが分かった。


 そして、リビアが俺のことをどんなふうに見てくれているのか、また一つ知ることができた。


(……俺はまだ、自分のことをよく分かっていないのかもしれない。でも、リビアが見つけてくれるよいところを、少しずつ自分でも認められるようになりたいな)


 俺はノートを閉じ、明日の準備を整えた。


 公開講習の役割は、まだ決まっていない。


 屋敷の搬入路についても、以前の配送で分からないままになっていることについても、すぐに答えが出るわけではない。


 それでも、今の俺には、一緒に考えてくれる人たちがいる。


 父さんがいて、学院の友人たちがいて、そして何より、リビアがいる。


 そのことを思うと、明日もまた、自分にできることを一つずつ積み重ねていこうと思えた。


 窓の外では、月明かりが静かな庭園を照らしていた。


 俺は最後にもう一度、リビアが帰っていった扉へ視線を向け、自然と微笑んだ。


(……明日も、リビアと一緒にいろいろなことを学べたらいいな)


 そう思いながら、俺は部屋の灯りを落とした。

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