第144話 公爵令嬢様は、俺が頼られる理由を本人よりもよく知っているらしい
朝のパウリー公爵邸には、焼きたてのパンの香りと、庭園から運ばれてくる涼しい風が満ちていた。食堂へ続く廊下では使用人たちがそれぞれの持ち場へ向かい、磨き上げられた床に朝日が細長い光の帯を落としている。俺は朝食の準備が予定どおり進んでいることを確認すると、手元の記録表を閉じ、最後に食堂の入口付近を見回した。
今日は王立学院で通常の授業が行われる日だ。来週予定されている公開講習については、申し込みの受付が締め切られたものの、参加者や役割の調整が続いており、まだ正式な結果は知らされていない。
俺もリビアも参加を希望しているが、希望した役割を担当できるかどうかは分からない。俺は屋敷の管理者、リビアは使用人の役を希望しているものの、同じ班になれる保証もなかった。
(……結果が出るまでは、普段どおりに過ごすしかないよな。それに、昨日の授業で学んだことだって、まだ十分に身についているわけじゃない)
昨日は、複数の人が異なる意見を持っているとき、すぐに結論を出すのではなく、それぞれが何を大切にしているのか確かめることを学んだ。夕食前の配膳準備でも、判断に迷っていた使用人と一緒に必要な確認を整理し、担当者へ相談することができた。
小さな出来事だったかもしれないが、俺にとっては大切な経験だった。
「セス、こちらの確認は終わりましたか」
背後から聞こえた声に振り返ると、父さん――グレイヴ・シルフィールが廊下の向こうから歩いてきていた。いつものように整った執事服を身につけ、落ち着いた表情を浮かべている。
「おはよう、父さん。食堂の準備は確認できたよ。今のところ、予定から変更されたことはないみたい」
「おはようございます。それなら結構です。今朝は搬入担当からも、北側の迂回路を使って予定の品物を受け取ったと報告を受けています」
「数量にも問題はなかった?」
「ええ。今朝の分については、報告された数量と受領記録が一致しています。ただし、以前の配送で確認が続いている件について、新しい結論が出たわけではありません」
父さんの言葉に、俺は頷いた。
以前、屋敷へ届くはずの荷物が予定外の場所へ立ち寄ったことで、到着までに時間がかかったことがあった。荷物の数量そのものに問題はなかったものの、なぜその立ち寄りが発生したのかは分かっていない。記録上の時刻にも違いがあったが、北門への到着と屋敷での確認という、異なる時点を示していることは整理されていた。
現在、雨で地面が緩んだ裏手の搬入路は通行が制限されており、北側の迂回路を使っている。しかし、それと以前の予定外の立ち寄りが関係しているという証拠はない。
「分かった。今日の搬入が問題なく終わったことと、前の件は分けて考えるよ」
「その認識で結構です。あなたが学院へ通っている間も、担当者が必要な確認を進めていますから、心配しすぎる必要はありません」
父さんはそう言ってから、俺の手元にある記録表へ視線を向けた。
「それよりも、今朝はずいぶん落ち着いていますね。以前なら、学院へ向かう前にもう一つ仕事を引き受けようとしていたでしょう」
「……そんなに違う?」
「少なくとも、私にはそう見えます。自分が何をすべきかだけでなく、何をほかの者へ任せるべきかも考えるようになりました」
父さんの声には、いつもより少しだけ柔らかな響きがあった。
俺は照れくさくなって、閉じた記録表の端を指で整えた。
「昨日、リビアとも話したんだ。俺が何でも一人で解決しようとするんじゃなくて、困ったことがあれば一緒に考えようって」
「お嬢様は喜ばれたでしょうね」
「うん。……俺が誰かに頼られたとき、リビアにも相談してほしいって言われたよ」
父さんは一瞬だけ目を細めたあと、穏やかに頷いた。
「よい約束だと思います。ただし、誰かへ相談することと、その相手に責任を預けることは別です。お嬢様へ相談できることもあれば、職務上、担当者や責任者へ確認しなければならないこともあります。その違いを忘れないでください」
「うん。そこは気をつけるよ」
「ええ。それが分かっているなら、十分です」
父さんは俺の肩へ軽く手を置き、学院へ向かう準備をするよう促した。
俺は記録表を所定の場所へ戻し、朝の仕事を終えて自室へ向かった。
◇
玄関広間へ下りると、リビアはすでに支度を整えて待っていた。シルバーブルーの髪は今日も美しく結われ、制服の襟元には乱れ一つない。彼女は窓から差し込む光の中で俺に気づくと、周囲の使用人たちへ向けていた公爵令嬢らしい落ち着いた表情を、柔らかな笑顔へ変えた。
「おはよう、セス。今朝もお仕事、お疲れ様」
「おはよう、リビア。今日は予定どおり終わったよ。待たせちゃったかな?」
「いいえ。私も少し前に来たところよ。それより、今日はいつもより余裕がありそうね」
リビアはそう言いながら、俺の顔をじっと見つめた。
「……父さんにも同じようなことを言われたよ」
「あら、そうなの? でしたら、私の見間違いではなかったのね」
彼女は嬉しそうに笑ったあと、少しだけ身を寄せて声を落とした。
「昨日のお約束を、ちゃんと覚えていてくれたのかしら」
「もちろん。困ったときには一人で抱え込まずに、リビアにも相談するって約束だよね」
「ええ。私も、あなたに相談するわ。どちらか一人が頑張りすぎないようにしましょうね」
俺が頷くと、リビアは満足そうに微笑んだ。
そのとき、玄関の外から馬車の準備が整ったことを知らせる声が聞こえた。俺たちは使用人たちへ挨拶し、並んで屋敷を出た。
庭園では朝露が草花の葉先に残り、遠くの噴水から静かな水音が響いている。リビアは花壇の近くを通りかかったとき、小さな白い花へ目を向け、季節が少しずつ移り変わっていることを嬉しそうに話した。
「学院へ通うようになってから、朝の庭園を見る時間が前より短くなった気がするわ。でも、こうしてセスと一緒に歩けるなら、それも悪くないわね」
「俺は昔からこの時間に庭園を通ることが多かったけど、リビアと一緒だと、今まで気づかなかった花まで見つけられる気がするよ」
「ふふっ。それは私が花ばかり見ているからかしら」
「それもあるかもしれないけど、リビアが楽しそうにしていると、俺も何があるのか気になるんだ」
そう答えると、彼女は一瞬だけ足を緩めた。
俺が不思議に思って顔を向けると、リビアは頬をほんのり赤く染めながら、少しだけ視線を逸らしていた。
「……セスは、ときどき本当に困ることを言うわね」
「えっ、何か変なこと言った?」
「いいえ。変ではないわ。ただ、あなたはもう少し、自分の言葉が私にどんな影響を与えるのか考えた方がいいと思うの」
彼女はそう言って微笑んだものの、詳しい理由までは教えてくれなかった。
(……俺、何か照れるようなことを言ったのかな。でも、リビアが楽しそうにしていると嬉しいのは本当だし)
考えても答えは出なかったので、俺はとりあえず彼女の歩幅に合わせて馬車へ向かった。
◇
王立学院へ到着すると、正門付近には登校してきた生徒たちが集まり、朝の挨拶を交わしていた。石畳の上には木々の影が落ち、校舎の高い窓が朝日を反射している。
俺とリビアが教室へ向かっていると、廊下の曲がり角でガレスとサザリーに出会った。
「おはよう、セス! オリビア様も、おはようございます!」
ガレスはいつもどおり元気な声で挨拶したあと、俺の肩へ軽く手を置いた。
「なあ、昨日の配置図の話なんだけどさ。帰ってからもう一回考えてみたんだよ」
「おはよう。昨日もかなり考えてたみたいだけど、また何か思いついたの?」
「そうなんだよ。展示物を入口側へ移すって案があっただろ? あれを考えてたら、そもそも入口から見えるものが多すぎても、人がそこで立ち止まっちまうんじゃないかと思ってさ」
俺は思わず頷いた。
昨日、俺たちは展示会を想定した配置図について話し合っていた。奥の通路が混雑しないよう、大きな展示物を入口側へ移す案が出ていたが、確かに入口付近へ人が集中する可能性はある。
「なるほど。奥の混雑を減らしても、入口が混んだら別の問題が起きるかもしれないね」
「だろ? だから、見せたいものをどこに置くかだけじゃなくて、人が立ち止まる場所も考えた方がいいのかなって」
ガレスは少し得意げに笑った。
その隣で、サザリーが苦笑しながら口を開いた。
「昨日の夜からずっと考えていたみたいなんだ。今朝も教室へ着くなり、新しい図を見せられたよ」
「だって、面白いんだよ。最初は机を並べるだけの話だと思ってたのに、考えれば考えるほど、いろんなことが出てくるんだからさ」
ガレスの言葉に、リビアが穏やかに微笑んだ。
「それだけ、実際に使う人のことを考えるようになったということなのでしょうね。とてもよい変化だと思うわ」
「そう言ってもらえると嬉しいです!」
ガレスは照れくさそうに頭をかいた。
俺たちは教室へ入り、ガレスが持ってきた新しい配置図を机の上へ広げた。昨日の図よりも通路が広く取られており、入口付近には見学者が立ち止まるための空間が設けられている。
ただ、その分だけ展示できる場所は少なくなっていた。
「ここまで考えたんだけど、展示するものが減っちゃうんだよな。せっかくなら、いろんなものを見てもらいたいんだけど」
ガレスは少し残念そうに言った。
俺は配置図を眺めながら、昨日の授業で学んだことを思い返した。
「……何を一番大切にするかによるんじゃないかな。たくさん展示することなのか、ゆっくり見てもらうことなのか、それとも安全に移動できることなのか」
「うーん。どれも大事なんだよな」
「だから難しいんだと思うよ」
俺がそう答えると、サザリーも頷いた。
「実際の催しなら、まず条件を確認する必要があるね。展示物の数や大きさが決まっていない以上、今の図だけで最適な配置を決めることはできないと思う」
リビアは配置図の端へ目を向け、少し考えてから口を開いた。
「それなら、今回は一つの正解を決めるのではなく、条件によって配置が変わることを確かめてみてはどうかしら。例えば、展示物が多い場合と、見学者が多い場合で、それぞれ別の図を作ってみるの」
その提案に、ガレスの表情が明るくなった。
「なるほど! そうすれば、どっちがいいか比べられるな!」
「ええ。ただし、実際に開催するわけではないのだから、仮の条件だということは忘れない方がいいと思うわ」
リビアが付け加えると、ガレスは勢いよく頷いた。
「分かりました! じゃあ、今度は二つの案を比べてみます!」
その様子を見ながら、俺は少し笑ってしまった。
ガレスは本当に、何かを考えることが好きなのだろう。最初は商人の役を体験してみたいという話から始まったはずなのに、今では展示会の配置を考えることそのものを楽しんでいる。
(……こういうところは、俺も見習いたいな。仕事だと、どうしても早く正しい答えを出さなきゃって考えてしまうことがあるけど、考える過程を楽しむのも大事なのかもしれない)
俺がそんなことを考えていると、ガレスがこちらへ顔を向けた。
「それにしても、セスってこういう相談に乗るのが上手いよな。俺が何か言うと、すぐに答えを決めるんじゃなくて、ちゃんと考えてくれるし」
「えっ、そうかな?」
「そうだよ。昨日も今日も、俺が考えてることを最後まで聞いてくれるだろ? だから、話してるうちに自分でも気づかなかったことが分かってくるんだ」
俺は思わず言葉に詰まった。
相談に乗るのが上手いと言われても、自分ではそんなつもりはなかった。ただ、相手が何を考えているのか分からなければ、何を答えればよいのかも分からないと思っているだけだ。
「……俺も、みんなと話していると勉強になるよ。だから、一方的に相談に乗っているって感じではないかな」
そう答えると、サザリーが穏やかに笑った。
「そういうところも、相談しやすい理由なんだと思うよ」
俺はますます返事に困ってしまった。
すると、隣で話を聞いていたリビアが、なぜかとても満足そうに微笑んだ。
「ふふっ。皆さんも、セスのよいところに気づいてくださっているのね」
「リビア?」
「何でもないわ。ただ、少し嬉しくなっただけよ」
彼女はそう言いながらも、明らかに嬉しそうだった。
◇
午前の授業では、相手から相談を受けたとき、どのように話を聞き、必要な情報を整理するかが扱われた。
教師は黒板へいくつかの例を書き、相談を受ける側が最初から答えを決めつけてしまうと、相手が本当に困っていることを見落とす場合があると説明した。
「例えば、ある生徒が『資料が見つからなくて困っている』と相談してきたとしましょう。皆さんなら、最初に何をしますか」
教室のあちこちから手が上がった。
資料を探す場所を教えるという意見もあれば、どの資料なのか確認するという意見もある。教師はそれぞれの答えを聞いたあと、相談者が何を必要としているのか確かめることの重要性を説明した。
「資料が見つからないと言っていても、必要な資料の名前を知らない場合もあれば、保管場所が分からない場合もあります。あるいは、資料そのものではなく、資料を使って何をすればよいのか分からず困っているのかもしれません」
教師はそう言いながら、黒板へ三つの異なる状況を書き加えた。
「相談を受ける側が最初に思いついた答えだけを伝えてしまうと、相手の困りごとを解決できないことがあります。ですから、まず相手の話を聞き、何が分かっていて、何が分からないのかを整理する必要があります」
俺はその説明を聞きながら、昨日の夕食前の出来事を思い出した。
配膳の順番に迷っていた若い使用人も、確認表のどこが分からないのかを話してくれたからこそ、担当者へ確認することができた。
もし俺が最初から自分の判断で順番を決めていたら、実際の担当者が考えていた準備と食い違っていたかもしれない。
(……相談されると、どうしても相手の役に立ちたいって思うけど、まず何に困っているのか聞くことが大切なんだな)
授業の後半では、二人一組になって相談を受ける練習をすることになった。
俺の相手はサザリーで、リビアはエミリアと組んでいた。ガレスはレオルと組み、すでに何やら楽しそうに話し始めている。
教師から渡された課題には、学院の資料室で必要な記録を探している生徒が、目的のものを見つけられず困っているという状況が書かれていた。
俺は相談を受ける役になり、サザリーが相談者を演じることになった。
「すみません。資料室で探している記録があるんですが、どうしても見つからなくて困っているんです」
サザリーは少し困った表情を作り、俺へ声をかけた。
俺はすぐに資料室の棚について説明しようとしたが、途中で思いとどまった。
まだ、何の記録を探しているのかも分かっていない。
「どのような記録を探しているんですか。名前や内容が分かれば、一緒に確認できるかもしれません」
「昔の学院行事について調べたいんです。ただ、どの記録を見ればいいのか分からなくて」
「なるほど。行事の名前や、調べたい時期は分かりますか」
サザリーは少し考え込む仕草をしたあと、課題に書かれている条件に沿って答えた。
「行事の名前は分かるんですが、何年前の記録なのかは曖昧なんです。先生から、以前の開催方法を調べてみるように言われました」
俺はその言葉を聞き、少し考えた。
資料室にある記録の種類や保管方法は、俺がすべて把握しているわけではない。しかも、古い記録なら、通常の棚ではなく別の場所に保管されている可能性もある。
「それなら、まず資料室の担当の方へ確認した方がよさそうですね。行事の名前が分かっているなら、どの記録を探せばいいのか教えてもらえるかもしれません」
俺がそう答えると、サザリーは小さく頷いた。
「ありがとうございます。でも、担当の方が忙しそうだったら、どうすればいいでしょうか」
その質問に、俺は少し考え込んだ。
確かに、担当者がすぐに対応できるとは限らない。だからといって、許可なく保管場所を探し回るのも適切ではないだろう。
「急いでいる理由があるかどうかによると思います。提出期限が近いなら、そのことを伝えて相談する必要がありますし、少し待てるなら、担当の方が対応できる時間を確認してもいいと思います」
サザリーはそこで演技を終え、普段の落ち着いた表情へ戻った。
「なるほど。最初から資料を探す方法を教えるんじゃなくて、何を調べたいのか確認したんだね」
「うん。俺も最初は棚の場所を説明しようと思ったんだけど、それだけじゃ足りないかもしれないと思って」
「よかったと思うよ。僕も相談者をやってみて、最初に何を聞かれるかで話しやすさが変わるんだなって感じた」
サザリーはそう言いながら、手元の記録用紙へ気づいたことを書き込んだ。
今度は役割を交代し、俺が相談者になることになった。
課題に書かれていたのは、学院で使用する道具を借りたいが、どこへ申し込めばよいのか分からないという状況だった。
俺は相談者として、必要な道具があるものの、貸し出しの手続きが分からないことを伝えた。
サザリーはすぐに答えを出すのではなく、何のために使う道具なのか、いつ必要なのか、誰から使用を指示されたのかを順番に確認していった。
その質問に答えているうちに、俺は相談者の立場からも気づくことがあった。
最初はただ「道具を借りたい」と思っていても、使う目的や日時が分からなければ、担当者も適切に案内できないかもしれない。
サザリーは必要な情報を整理したうえで、担当する部署へ確認するよう提案した。
「……こうして聞かれると、自分でも何が分かっていないのか整理できるね」
俺が感想を伝えると、サザリーは穏やかに笑った。
「相談する側も、最初から全部説明できるとは限らないからね。質問してもらうことで、必要なことを思い出せる場合もあるんだと思う」
俺たちは互いの対応について意見を交わし、記録用紙へ書き込んだ。
少し離れた席では、リビアとエミリアが落ち着いた声で話し合っていた。リビアは相手の言葉を遮らずに聞き、エミリアが何か説明するたびに頷いている。
その様子を見て、俺は自然と微笑んでいた。
(……リビアは昔から、人の話を聞くのが上手いんだよな。俺が何か言葉にできずにいるときも、急かさずに待ってくれるし)
俺がそんなことを考えていると、サザリーがこちらへ視線を向けた。
「オリビア様の方が気になる?」
「えっ?」
「いや、さっきから何度か見ていたから。授業の様子を気にしているのかなと思って」
俺は少し慌てて首を振った。
「そういうわけじゃないよ。ただ、リビアは相手の話を聞くのが上手いなって思って」
サザリーは一瞬だけ俺を見つめ、それから何か納得したように笑った。
「……なるほどね。そういうところを自然に見ているんだ」
「どういう意味?」
「いや、別に悪い意味じゃないよ。二人は本当に、お互いのことをよく見ているんだなと思っただけ」
俺は返事に困り、手元の記録用紙へ視線を戻した。
サザリーはそれ以上からかうことなく、授業の内容へ話を戻してくれた。
◇
昼休みになると、俺たちは食堂で昼食を取ったあと、中庭のベンチへ向かった。今日は雲が少なく、柔らかな日差しが石畳を照らしている。木々の間を抜ける風には少しだけ冷たさがあり、季節が進んでいることを感じさせた。
ガレスは午後の授業で使う資料を取りに教室へ戻り、サザリーも一緒についていった。エミリアは図書室へ寄る予定があるらしく、俺とリビアはしばらく二人で過ごすことになった。
リビアはベンチへ腰を下ろすと、隣の空いた場所を軽く示した。俺がそこへ座ると、彼女は満足そうに微笑み、膝の上へ置いたノートをそっと閉じた。
「今日の授業、面白かったわね」
「うん。相談する側と、相談される側の両方をやってみると、思っていたより違いがあったよ」
「私もそう思ったわ。エミリア様と練習していたのだけれど、相手が何を言おうとしているのか、最後まで聞くことが大切なのね」
リビアはそう言いながら、少し考え込んだ。
「でも、聞くだけでは足りないこともあるでしょう? 相手が自分でも困っている理由を整理できていない場合は、こちらから質問する必要があるもの」
「そうだね。俺もサザリーと練習していて、質問されると自分でも考えがまとまってくることがあるって分かったよ」
俺たちはしばらく、授業で気づいたことを話し合った。
すると、リビアがふと俺の顔を見つめ、少しだけ悪戯っぽい表情を浮かべた。
「ねえ、セス。今朝、ガレス様があなたに相談しやすいと言っていたでしょう?」
「うん。ちょっと驚いたけど」
「どうして驚いたの?」
「だって、俺は特別なことをしているつもりはないから。ガレスが考えていることを聞いて、俺も一緒に考えているだけだし」
そう答えると、リビアは予想していたとでも言いたげに微笑んだ。
「やっぱり、そう言うと思ったわ」
「……リビア?」
「セスは、自分がどれだけ人から頼られやすいのか、あまり分かっていないのよ」
俺は思わず首を傾げた。
「そんなことないと思うけど。俺より詳しい人なんて、たくさんいるし」
「ええ。もちろん、誰にでも得意なことと苦手なことがあるわ。でも、頼りにされる理由は、何でも知っているからとは限らないでしょう?」
リビアはそう言って、俺の顔をじっと見つめた。
「あなたは、誰かが困っているとき、まずその人の話を聞こうとするわ。相手がうまく説明できなくても、急かしたりしないでしょう? それに、自分が分からないことを、分かったふりで答えようとしないもの」
俺は彼女の言葉を聞き、少し考え込んだ。
確かに、分からないことを分かったふりで答えるのは危険だと思っている。屋敷の仕事でも、確認せずに判断した結果、ほかの人へ迷惑をかけることがあるからだ。
「……それは、仕事で教わったことでもあるよ。分からないことを勝手に決めないようにって、父さんにも何度も言われたし」
「そうね。でも、教わったことを実際に続けるのは、簡単なことではないと思うわ」
リビアはそう言って微笑んだ。
「私は、セスのそういうところが好きよ」
あまりにも自然に言われたので、俺は一瞬、返事を忘れてしまった。
彼女はそんな俺を見て、少しだけ頬を赤くしたものの、視線を逸らそうとはしなかった。
「……何かしら。その顔は」
「いや、その……ありがとう」
俺がようやく答えると、リビアは嬉しそうに笑った。
「ふふっ。どういたしまして」
俺は照れくささをごまかすように、中庭の向こうへ視線を向けた。
そこでは数人の生徒が歩きながら話しており、少し離れた花壇の近くでは、下級生らしい二人が手元の紙を見比べていた。
学院には、毎日いろいろな人が集まっている。得意なことも、苦手なことも、考え方も違う人たちが、同じ場所で学んでいるのだ。
(……俺が誰かに頼られる理由か。自分ではよく分からないけど、リビアがそう見てくれているなら、少しは自信を持ってもいいのかな)
そんなことを考えていると、リビアがそっと声をかけてきた。
「ねえ、セス。私からも、一つ相談していいかしら」
「もちろん。どうしたの?」
リビアは少しだけ考え込んだあと、真剣な表情で口を開いた。
「私、公開講習で使用人の役を希望しているでしょう? でも、もし希望どおりの役割になれたとしても、どこまで自分で判断してよいのか、きっと迷うことがあると思うの」
俺は彼女の言葉に頷いた。
「そうだね。使用人の仕事って、担当によって判断できる範囲が違うこともあるから」
「ええ。だから、私は何でも一人で決めようとするのではなくて、誰に確認するべきかを考えられるようになりたいの」
リビアはそう言って、少し照れたように微笑んだ。
「でも、セスが隣にいたら、ついあなたに聞きたくなってしまうかもしれないわ」
俺は思わず笑ってしまった。
「それは、俺も同じかもしれない。リビアが隣にいたら、何かあったときに相談したくなると思うし」
「まあ。それなら、お互い様ね」
彼女は楽しそうに笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「……でも、もし同じ班になれたとしても、私が困ったときにすぐ答えを教えないでほしいの。まずは自分で考えてみたいから」
「うん。前にも約束したよね。リビアが自分でやってみたいことは、ちゃんと見守るよ」
「ありがとう。もちろん、本当に困ったときには助けてほしいわ」
「それはもちろん」
俺が答えると、リビアは安心したように微笑んだ。
俺たちはそのあとも、公開講習でどんなことを学びたいか話し合った。ただし、参加できることも役割もまだ決まっていないため、具体的な予定を立てるのではなく、それぞれが何を知りたいのかを整理する程度にとどめた。
リビアは使用人の立場から仕事の流れを理解したいと言い、俺は管理者がどのように担当者へ仕事を任せ、全体を確認しているのか学びたいと話した。
そうしているうちに、昼休みの終わりを知らせる鐘が鳴った。
俺たちはベンチから立ち上がり、午後の授業へ向かうために校舎へ戻った。
◇
午後の授業では、午前に学んだ相談の受け方を踏まえ、複数の相談が同時に持ち込まれた場合の対応について考えることになった。
教師は、ある施設の受付を想定した課題を提示した。
受付には、道を尋ねたい人、担当者との面会を希望する人、落とし物について確認したい人が、ほぼ同じ時間に訪れている。受付を担当する者は一人で、すべての相談へ同時に対応することはできない。
「このような場合、皆さんなら何を優先しますか」
教師の問いかけに、生徒たちはそれぞれ考え始めた。
俺は最初、受付に来た順番で対応するのがよいのではないかと思った。しかし、相談の内容によっては、急いで確認する必要があるものもあるかもしれない。
教師は、単純に早く来た人から対応すればよいとは限らないことを説明し、緊急性や安全性、担当者へ引き継ぐ必要性などを考えるよう促した。
俺たちは数人ずつの組に分かれ、課題について話し合うことになった。
今回の組には、俺、リビア、ガレス、エミリア、レオルが入っていた。サザリーは別の組で記録係を担当している。
「じゃあ、俺は受付に来た人の役をやるよ!」
ガレスが元気よく手を上げた。
レオルは課題の内容を確認し、相談者の立場によって必要な対応が変わることを整理していた。エミリアは、受付で待つ人が不安にならないよう、状況を説明することも大切ではないかと提案した。
俺はそれぞれの意見を聞きながら、どの相談にも共通することがないか考えた。
「……まず、全員に少し待ってもらうことを伝える必要があるかもしれないね。そのうえで、急いで確認しなければならないことがないか聞くのはどうかな」
「そうね。でも、受付の担当者が一人しかいないなら、長く話を聞くことも難しいかもしれないわ」
リビアがそう言うと、レオルが頷いた。
「それなら、最初に用件を簡単に確認して、必要なら別の担当者へ引き継ぐ方法が考えられるね」
「でもさ、誰に引き継げばいいか分からなかったらどうするんだ?」
ガレスの質問に、俺たちは少し考え込んだ。
確かに、受付担当者がすべての担当部署を把握しているとは限らない。施設の規模が大きければ、確認すべき相手も多くなるだろう。
「その場合は、受付の責任者へ確認する必要があると思う」
俺がそう答えると、リビアは静かに頷いた。
「ええ。自分の判断で案内して間違えてしまうより、確認した方がよいでしょうね。ただ、待っている方には、そのことを説明する必要があると思うわ」
エミリアも賛成し、待たされる側の気持ちについて話した。
「何も言われずに待つのは、不安になると思います。でも、確認しているから少し待ってほしいと説明してもらえたら、安心できるかもしれません」
その言葉に、俺は納得した。
屋敷でも、来客を待たせる必要があるときには、理由を伝えられる範囲で説明することが大切だ。もちろん、相手へ伝えてよい情報と、内部で確認するべき情報は区別しなければならない。
「……そうだね。待ってもらうこと自体より、何も分からないまま待つことが不安につながるのかもしれない」
俺がそう言うと、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「セスらしい考え方ね」
「そうかな?」
「ええ。相手がどう感じるかまで考えているもの」
俺は少し照れくさくなりながらも、彼女の言葉を受け止めた。
話し合いの結果、俺たちの組では、最初に用件と緊急性を簡単に確認し、必要に応じて担当者へ引き継ぐという方針をまとめた。待ってもらう場合には、その理由と見通しを伝えられる範囲で説明することも重要だと考えた。
ただし、実際の受付では施設ごとに決められた手順があるため、担当者が独自の判断で対応を変えてよいわけではない。
教師もその点を強調し、今日の課題はあくまで考え方を学ぶためのものだと説明した。
「皆さんが考えた方法は、状況によって役に立つでしょう。しかし、実際の仕事では、定められた手順や責任者の指示に従うことが必要です。自分がよいと思った方法を、確認せずに実行してよいとは限りません」
その言葉を聞き、俺は静かに頷いた。
(……屋敷の仕事でも同じだな。相手のためになると思っても、勝手に決めていいことばかりじゃない。だからこそ、誰に確認するべきかを知っておく必要があるんだ)
授業が終わる頃には、教室の窓から差し込む光が少し傾き、机の上へ長い影を落としていた。
◇
放課後、俺たちは教室で帰り支度を進めていた。
ガレスは今日の授業が面白かったらしく、まだレオルと受付の課題について話し合っている。エミリアはノートを丁寧にまとめ、サザリーは別の組で出た意見を整理していた。
俺が鞄へ教科書をしまっていると、教室の入口から一人の男子生徒が声をかけてきた。
「シルフィール君、少しいいだろうか」
顔を上げると、以前、俺とリビアの婚約について身分の違いを理由に疑問を口にした男子生徒が立っていた。
彼はあのとき、自分の言葉が踏み込みすぎたことを謝ってくれた。ただ、考え方そのものが変わったかどうかまでは分からない。
「うん。どうしたの?」
俺が答えると、彼は少しだけ周囲を気にしたあと、手元のノートを見せた。
「今日の授業で、君たちの組が考えた対応について聞きたいことがあるんだ。発表を聞いていたんだが、どうして最初に用件を確認する方法を選んだのか、少し気になって」
俺は思わず瞬きをした。
以前の出来事があったので、何か別の話をされるのかと思っていた。しかし、彼が尋ねてきたのは純粋に授業の内容についてだった。
「最初に用件を確認した方が、急いで対応する必要がある人を見落としにくいと思ったんだ。ただ、実際には施設ごとの手順があるから、勝手に対応を変えるわけにはいかないけど」
俺が説明すると、彼は真剣な表情で頷いた。
「なるほど。僕は、受付へ来た順番で対応することを優先して考えていたんだ。公平さを保つには、その方がよいと思ってね」
「それも大事な考え方だと思うよ。順番を守らないと、不公平に感じる人もいるだろうし」
俺がそう答えると、彼は少し驚いたように顔を上げた。
「……君は、僕の考えを間違いだとは思わないのか」
「間違いだとは思わないよ。ただ、急いで確認する必要がある相談が来た場合には、順番だけで決められないこともあるんじゃないかな」
彼はしばらく考え込み、手元のノートへ視線を落とした。
「確かに、そういう場合もあるだろうね。僕は公平さばかり考えていて、相談の内容によって対応が変わる可能性をあまり考えていなかった」
俺は彼の言葉に頷いた。
「俺も、最初は来た順番で対応するのがいいと思ったんだ。でも、みんなと話しているうちに、ほかにも考えることがあるって分かったよ」
彼は少しだけ表情を和らげた。
「そうか。……ありがとう。参考になったよ」
「こちらこそ。話してくれてありがとう」
俺が答えると、彼は丁寧に頭を下げ、教室を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は少し不思議な気持ちになっていた。
以前、彼とは婚約について考え方の違いがあった。けれど、今日の授業については、互いの意見を聞きながら話すことができた。
だからといって、彼が俺たちの婚約について考えを変えたとは限らない。
ただ、考え方が違う相手とも、こうして普通に話せることがあるのだと分かった。
「セス」
隣からリビアの声が聞こえた。
振り返ると、彼女は穏やかな表情で俺を見つめていた。
「今のお話、聞こえていたわ。とてもよい話し合いだったと思う」
「うん。俺も、そう思うよ」
「……少し安心したの」
リビアはそう言って、視線を教室の入口へ向けた。
「以前のことがあったから、あなたがまた何か言われるのではないかと、少しだけ心配していたわ。でも、今日はお互いの意見を落ち着いて話せたでしょう?」
俺は彼女の言葉を聞き、静かに頷いた。
「そうだね。考え方が違うことと、話せないことは別なんだって分かった気がする」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。私も、そう思うわ」
俺たちはそのあと、帰り支度を終えて教室を出た。
◇
パウリー公爵邸へ戻ると、夕方の庭園には柔らかな光が差し込んでいた。昼間よりも少し冷たくなった風が木々を揺らし、玄関前では使用人たちが帰宅した俺たちを迎えてくれる。
リビアは自室へ戻り、俺は着替えを済ませてから、夕方の仕事へ向かった。
食堂の準備はすでに進められており、担当者たちがそれぞれの持ち場で動いていた。俺は必要な確認を行いながら、今日はどのような仕事を自分で行い、どこから先を担当者へ任せるべきか考えていた。
すると、配膳に使う道具を整理していた若い使用人が、俺の姿に気づいて声をかけてきた。
「シルフィール様、少しご相談してもよろしいでしょうか」
「もちろんです。どうしましたか?」
彼は手元の確認表を見せながら、今日の準備について説明した。
食堂で使用する道具の一部について、予備をどこへ置くべきか迷っているらしい。普段は所定の場所へ保管しているが、今日は別の準備でその場所が使われており、どこへ移せばよいのか判断できずにいた。
「なるほど。普段の保管場所が使えないんですね」
「はい。別の場所へ移してもよいのかと思ったのですが、勝手に決めてよいものか分からなくて……」
俺は状況を確認し、少し考えた。
予備の道具を置く場所を変えること自体は難しくないかもしれない。しかし、担当者が必要なときに見つけられなくなっては困るし、通路の邪魔になる場所へ置くわけにもいかない。
「まず、今その場所を使っている担当の方へ、いつまで使用する予定なのか確認した方がよさそうですね。そのうえで、予備の道具をどこへ置くか、責任者へ相談しましょう」
俺がそう伝えると、彼は安心したように頷いた。
「ありがとうございます。自分で移してしまう前に確認してよかったです」
「こちらこそ、相談してくれてありがとうございます。必要なときに道具が見つからないと、ほかの人も困ってしまいますからね」
俺たちは担当者へ確認し、予備の道具については一時的な保管場所を決めてもらった。使用する人たちへもその場所が伝わるよう、必要な連絡が行われた。
若い使用人は丁寧に礼を言い、自分の持ち場へ戻っていった。
俺も仕事へ戻ろうとしたところで、背後から父さんの声が聞こえた。
「セス、今の対応について少し話してもよろしいですか」
「うん。何か問題があった?」
父さんは首を横に振り、穏やかに答えた。
「いいえ。適切だったと思います。ただ、あなた自身は、なぜあのように対応したのですか」
俺は少し考えた。
「……勝手に保管場所を変えたら、ほかの人が困るかもしれないと思ったから。それに、俺が決めていいことかどうかも分からなかったし」
「そのとおりです。では、相談してきた者については、どう思いましたか」
俺は少し驚いた。
「相談してきた人?」
「ええ。あなたに声をかけた理由です」
俺は先ほどのやり取りを思い返した。
彼は自分で判断してよいか分からず、俺へ相談してきた。俺が特別に何かを知っていると思ったのかもしれないし、近くにいたから声をかけたのかもしれない。
「……分からないけど、俺なら話を聞いてくれると思ったのかな」
父さんは静かに頷いた。
「おそらく、そうでしょう。もちろん、本人へ確認したわけではありませんから断定はできません。ただ、あなたが普段から相談を受けたときに相手の話を聞き、必要な確認を行っていることは、周囲の者も見ています」
その言葉に、俺は少し照れくさくなった。
「……学院でも、似たようなことを言われたよ」
「そうですか」
「ガレスに、俺は相談しやすいって言われたんだ。でも、自分では特別なことをしているつもりはなくて」
父さんは穏やかに微笑んだ。
「特別なことをしているつもりがなくても、相手にとっては大切なことかもしれません。人の話を最後まで聞くこと、分からないことを確認すること、相手を責めずに一緒に考えること。どれも簡単なようで、常に実践するのは難しいものです」
俺は父さんの言葉を静かに聞いていた。
「ただし、頼られることが増えたからといって、すべての相談へあなたが答える必要はありません。むしろ、誰に相談するべきかを示せることも、大切な役割です」
「……うん。今日の授業でも、同じようなことを学んだよ」
「それなら、学院での学びが仕事にもつながっていますね」
父さんは満足そうに頷き、俺の肩へ軽く手を置いた。
「あなたが成長していることは、私にも分かります。ですが、焦る必要はありません。今できることを丁寧に積み重ねていきなさい」
「ありがとう、父さん」
俺はそう答え、残りの仕事へ戻った。
◇
夜、仕事を終えて自室へ戻ると、窓の外には静かな庭園が広がっていた。月明かりが木々の葉を淡く照らし、遠くからは夜の風が枝を揺らす音が聞こえてくる。
俺は机へ向かい、今日の授業で使ったノートを開いた。
そこには、相談を受けるときの基本的な考え方や、相手が何を必要としているのか確認することの大切さが書かれている。
しばらく内容を読み返していると、扉の外から控えめなノックが聞こえた。
「セス、少しお時間をいただいてもよろしいかしら」
リビアの声だった。
俺は立ち上がり、扉を開けた。
「もちろん。どうしたの?」
リビアは少し照れたように微笑んだ。
「今日の授業のことを、もう少しお話ししたくて。それに、あなたが帰ってからどんなお仕事をしていたのかも聞いてみたいと思ったの」
俺は頷き、彼女を部屋へ招いた。
リビアは椅子へ腰を下ろすと、机の上に開かれたノートへ目を向けた。
「ふふっ。セスも、今日の授業を振り返っていたのね」
「うん。夕方の仕事でも、授業で学んだことを考える場面があったんだ」
「まあ、どんなことがあったの?」
俺は、予備の道具を置く場所について相談されたことを説明した。
自分だけで判断せず、担当者へ確認したこと。相談してきた使用人が安心したように見えたこと。そして、父さんから、周囲の人が俺へ相談する理由について話を聞いたことも伝えた。
リビアは最後まで静かに聞き、嬉しそうに微笑んだ。
「……やっぱり、グレイヴも同じように考えていたのね」
「同じように?」
「ええ。セスが相談しやすい人だということよ」
彼女はそう言って、少しだけ身を乗り出した。
「私、昔から知っているもの。あなたが誰かの話を聞くとき、相手が言葉にできるまで待ってくれることも、分からないことを一緒に考えてくれることも」
俺は彼女の言葉を聞き、少し照れくさくなった。
「……でも、俺だって間違えることはあるよ」
「もちろんよ。誰だって間違えることはあるわ。でも、間違えたときにどうするかも大切でしょう?」
リビアは穏やかに微笑んだ。
「セスは、自分が間違えたと思ったら、ちゃんと考え直そうとするもの。私は、そういうところも好きなの」
その言葉に、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……ありがとう、リビア」
「ふふっ。どういたしまして」
リビアは嬉しそうに微笑んだあと、少しだけ真剣な表情になった。
「でもね、セス。私からも一つ、お願いがあるの」
「何かな?」
「誰かに頼られることが増えても、無理をしないでほしいの。あなたが困っているときには、私にも相談してほしいし、必要ならグレイヴやほかの方にも頼ってほしいわ」
俺は彼女の言葉を聞き、静かに頷いた。
「うん。昨日も約束したし、ちゃんと覚えているよ」
「それなら、よかったわ」
リビアは安心したように微笑んだ。
俺は少し考えてから、彼女へ尋ねた。
「……リビアは、どうしてそんなに俺のことを気にかけてくれるの?」
彼女は一瞬だけ目を見開いた。
それから、頬を赤く染めながら、少し困ったように微笑んだ。
「……セス、それを私に聞くの?」
「えっ?」
「本当に、あなたは……」
リビアは小さく息をつき、俺の顔をじっと見つめた。
「あなたが大切だからに決まっているでしょう?」
その言葉は、とても静かだった。
けれど、俺の胸にははっきりと届いた。
リビアは少し照れたように視線を落としたあと、ゆっくりと続けた。
「私は、セスが誰かの役に立とうとしている姿が好きよ。でも、それ以上に、あなた自身が幸せでいてくれることが大切なの。だから、誰かに頼られることが増えても、自分のことを後回しにしすぎないでほしいの」
俺はその言葉を聞き、しばらく返事ができなかった。
リビアは俺が困っているとき、いつもこうして気持ちを伝えてくれる。
俺が誰かのために頑張ることを否定するのではなく、俺自身のことも大切にしてほしいと言ってくれる。
(……俺は、リビアにどれだけ支えられているんだろう。自分では気づいていないことまで見てくれて、こうして言葉にしてくれるんだから)
俺はゆっくりと息を整え、彼女の顔を見つめた。
「……ありがとう、リビア。俺も、リビアが幸せでいてくれることが一番大切だよ」
彼女は少し驚いたように目を見開いた。
それから、頬をさらに赤く染め、嬉しそうに微笑んだ。
「……本当に、セスはずるいわ」
「えっ、また何か変なこと言った?」
「いいえ。とても嬉しいことを言ってくれたのよ」
リビアはそう答え、そっと俺の手を取った。
俺も自然にその手を握り返した。
しばらくの間、俺たちは何も言わずに座っていた。窓の外では夜の風が木々を揺らし、部屋の中には静かな時間が流れている。
やがて、リビアが小さく笑った。
「……ねえ、セス。私、少しだけ欲張りなのかもしれないわ」
「どうして?」
「だって、あなたがみんなに頼られるのは嬉しいのに、私が一番あなたに頼られたいとも思ってしまうのだもの」
俺は思わず笑ってしまった。
「それは、前にも言ってたね」
「ええ。でも、やっぱり変わらないの」
リビアは少しだけ唇を尖らせたあと、すぐに楽しそうに笑った。
「もちろん、あなたがほかの人へ相談するのを嫌がっているわけではないのよ。ただ、私にも特別な役割があったら嬉しいなって思うの」
俺はその言葉を聞き、少し考えた。
リビアは俺にとって、昔から特別な存在だった。
幼い頃から一緒に過ごし、俺が困っているときには何度も助けてくれた。今では婚約者として、これからのことを一緒に考えていく相手でもある。
「……リビアは、もう十分特別だよ」
俺がそう答えると、彼女は一瞬だけ動きを止めた。
「……セス?」
「俺にとって、リビアは誰よりも大切な人だから。相談する相手が増えたとしても、それは変わらないよ」
リビアは俺の顔をじっと見つめた。
その瞳が少し潤んだように見えて、俺は思わず心配になった。
「……リビア、大丈夫?」
彼女は小さく頷き、嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。大丈夫よ。ただ、少しだけ……嬉しすぎて困っているの」
俺はその言葉を聞き、安心したように息をついた。
リビアは俺の手を握ったまま、少しだけ身を寄せた。
「……ありがとう、セス。私も、あなたが誰よりも大切よ」
俺は彼女の言葉を受け止め、静かに頷いた。
しばらくして、リビアは名残惜しそうに手を離し、自室へ戻るために立ち上がった。
俺は扉まで見送り、彼女が廊下の向こうへ歩いていく姿を見届けた。
部屋へ戻ると、机の上には今日の授業で使ったノートが開かれたままになっていた。
俺はそこへ視線を向け、今日学んだことをもう一度思い返した。
誰かに相談されたとき、最初から答えを決めつけないこと。
相手が何に困っているのか、丁寧に話を聞くこと。
そして、自分だけで判断できないことは、必要な人へ確認すること。
どれも、特別なことではないのかもしれない。
けれど、今日の俺は、それらを大切に続けていきたいと思っていた。
(……俺が誰かに頼られる理由は、まだ自分ではよく分からない。でも、リビアや父さんがそう言ってくれるなら、少しずつ自信を持ってもいいのかな)
俺はノートを閉じ、明日の準備を整えた。
公開講習の結果は、まだ分からない。
屋敷の搬入路についても、以前の配送で分からないままになっていることについても、すぐに答えが出るわけではない。
それでも、今の俺には、一緒に考えてくれる人たちがいる。
父さんがいて、学院の友人たちがいて、そして何より、リビアがいる。
そのことを思うと、明日もまた、自分にできることを一つずつ積み重ねていこうと思えた。
窓の外では、月明かりが静かな庭園を照らしていた。
俺は最後にもう一度、リビアが帰っていった扉へ視線を向け、自然と微笑んだ。
(……明日も、リビアと一緒にいろいろなことを学べたらいいな)
そう思いながら、俺は部屋の灯りを落とした。




