第142話 公爵令嬢様は、俺が誰かに頼られるたびに少しだけ複雑らしい
朝のパウリー公爵邸では、窓の外に広がる庭園が柔らかな日差しを受け、雨の名残を残していた石畳もようやく乾き始めていた。まだ冷たさの残る風が開け放たれた廊下の窓から入り込み、磨き上げられた床に淡い光の模様を作っている。俺は朝食の準備が進む食堂で、配膳担当者から受け取った確認表を片手に、今日の予定と実際の準備状況を照らし合わせていた。
いつもと大きく変わらない朝だったが、厨房から運ばれてくる料理の順番が一部変更されていたため、配膳担当者たちは互いに声をかけ合いながら動いていた。俺も必要な確認を手伝っていたものの、今朝は自分の担当を終えたあと、別の使用人が進めている作業へ不用意に手を出さないよう気をつけていた。以前なら、少しでも早く終わらせようと考えて、空いている仕事を次々と引き受けていたかもしれない。
「セス様、こちらの確認は終わりました。あとは私たちで進められますので、学院の準備をなさってください」
年上の使用人がそう声をかけてくれたので、俺は確認表を渡しながら礼を言った。彼女は受け取った書類へ目を通し、必要な箇所に記入があることを確かめると、安心したように頷いた。
「ありがとうございます。何か変更があれば、グレイヴ様へお伝えします」
「お願いします。俺も学院から戻ったら、必要なことを確認します」
そのまま食堂を出ようとしたところで、廊下の向こうから父さん――グレイヴ・シルフィールが歩いてきた。いつものように隙のない身なりを整えた父さんは、俺が仕事を終えていることを確認すると、静かに足を止めた。
「おはようございます、セス。今朝の仕事は予定どおり終わりましたか」
「おはよう、父さん。うん、配膳の確認は終わったよ。料理を運ぶ順番が少し変わったけど、担当の人たちが調整してくれたから問題なかった」
「それは何よりです。ところで、学院で申し込んだ公開講習について、何か新しい知らせはありましたか」
「昨日、申し込みが多くて調整中だという案内が出たよ。参加者も役割も、まだ決まっていないみたい」
父さんは俺の返事を聞き、納得したように頷いた。
「そうですか。ならば、結果が出るまで普段の学びを大切にしてください。講習のためだけに何かを身につけようとするより、日々の経験を振り返る方が役立つこともあります」
「うん。昨日の授業でも、みんなで仕事を分担する課題があったんだ。自分では思いつかなかったことが、友達の意見を聞くと見えてきて面白かったよ」
「よい経験をしましたね。あなたは仕事を覚えるのが早い分、周囲が何を考えているのか確かめる前に、最適と思える方法へ進んでしまうことがあります。ほかの人の考えを聞く時間も、必要な仕事の一部ですよ」
その指摘には思い当たるところがあった。俺は父さんの言葉を聞きながら、昨日の課題でガレスやサザリーたちが出してくれた意見を思い返した。もし一人で考えていたら、展示物を運ぶ順番や記録の残し方について、あそこまで細かく考えられなかったかもしれない。
「気をつけるよ。……それと、屋敷の裏手の搬入路は、今日も北側の迂回を使うんだよね?」
「ええ。通行制限は継続しています。補修についても、まだ新しい決定はありません。あなたが学院にいる間は担当者が対応しますから、必要以上に気にかけることはありませんよ」
父さんはそう言って、少しだけ表情を和らげた。俺が屋敷の仕事を気にしていることを見抜かれているようで、何となく照れくさくなる。
「分かった。じゃあ、学院へ行く準備をしてくる」
「ええ。お嬢様をお待たせしないようにしてください」
最後の言葉に、俺は思わず苦笑した。父さんも最近は、俺がリビアと一緒に学院へ通うことを当たり前のように受け止めている。それが嬉しい反面、少しだけ落ち着かない気持ちになるのは、俺がまだ婚約者という立場に慣れきっていないからなのかもしれない。
◇
玄関広間へ向かうと、リビアはすでに制服姿で待っていた。シルバーブルーの髪は丁寧に整えられており、朝の光を受けた横顔には、いつもの公爵令嬢らしい落ち着きがある。けれど、俺の姿を見つけた途端、その表情がふわりと柔らかくなるところは、昔から少しも変わっていなかった。
「おはよう、セス。今朝のお仕事も無事に終わったのね」
「おはよう、リビア。うん。今日は少し予定が変わったけど、みんなが協力してくれたから問題なかったよ」
「そう。よかったわ。……ねえ、今日は学院で何か新しいことがあるかしら」
リビアは楽しそうに尋ねながら、俺の隣へ並んだ。馬車の準備が整うまでの短い時間、俺たちは玄関広間の窓から庭園を眺めていた。
「公開講習の結果はまだだろうけど、普段の授業でも何かあるかもしれないね」
「ええ。昨日の課題も楽しかったもの。ああしてみんなで考える時間が、私は好きになってきたわ」
リビアはそう言って微笑んだあと、少しだけ俺の顔を覗き込んだ。
「それに、セスが友人たちと楽しそうに話しているところを見るのも、好きなの」
「そうなの?」
「もちろんよ。あなたが学院へ通うようになってから、以前よりずっといろいろな表情を見せてくれるようになったでしょう?」
昨日も似たような話をしたけれど、リビアにとってはそれだけ嬉しい変化なのだろう。俺は彼女の言葉を聞きながら、学院へ通い始めた頃のことを思い返していた。最初は周囲の貴族たちにどう接すればよいのか分からず、必要以上に緊張していた気がする。
「……俺も、みんなと話すのが楽しくなってきたよ。ガレスはいつも賑やかだし、サザリーは考え方が丁寧だし、エミリアもいろいろなことに気づいてくれるから」
「ふふっ。そうね。レオルも、自分の興味があることになると、とても熱心でしょう?」
「うん。昨日も学院の案内について調べてたしね」
リビアは嬉しそうに頷いた。ただ、そのあとで何かを思い出したように、少しだけ唇を尖らせた。
「……でも、セスが誰かに頼られているところを見ると、少しだけ複雑な気持ちになることもあるのよ」
思いがけない言葉に、俺は彼女の顔を見た。
「複雑?」
「ええ。あなたが誰かの役に立っているのは嬉しいの。でも、私が知らないところでも、あなたを頼りにしている人が増えているのだと思うと……何と言えばいいのかしら」
リビアは言葉を探すように視線を落とし、制服の袖口へ指を添えた。困っているというより、自分の気持ちをどう説明すればよいのか迷っているらしい。
「……少しだけ、独り占めしたくなるの」
その言葉に、俺は思わず瞬きをした。リビアは頬を赤くしながらも、俺から視線を逸らさずにいる。
「でも、セスが友人たちと仲よくするのを嫌だと思っているわけではないのよ。そこは誤解しないでね」
「うん。分かってるよ」
俺がそう答えると、彼女は安心したように微笑んだ。ちょうどそのとき、馬車の準備が整ったことを知らせる声が聞こえたため、俺たちは並んで玄関を出た。
馬車へ乗り込んでからも、リビアは少し照れくさそうにしていた。俺は向かいの席へ座りながら、彼女の言葉をゆっくり考えていた。
(……リビアは、俺が誰かと仲よくするのを嫌がっているわけじゃない。ただ、俺と一緒に過ごす時間を大切にしてくれているんだろうな)
そう思うと、胸の奥が温かくなった。俺は彼女へ微笑みかけ、今日も学院でいろいろなことを学ぼうと話した。
◇
学院へ到着すると、教室ではガレスが何やら困ったような顔をしていた。彼の机には数枚の紙が広げられており、サザリーとエミリアがその内容を覗き込んでいる。俺たちが挨拶すると、ガレスはすぐに顔を上げ、助かったと言わんばかりに手を振った。
「おはよう、セス! ちょうどよかった。ちょっと相談に乗ってくれないか?」
「おはよう。どうしたの?」
「昨日の展示会の課題なんだけどさ、先生が追加で考えてみてもいいって言ってただろ? それで、実際に展示物を運ぶとしたらどうするか考えてみたんだけど、途中で分からなくなっちまって」
ガレスはそう言って、机の上の紙を指差した。そこには教室を使った簡単な展示会の配置図が描かれており、机や椅子の位置がいくつか書き込まれている。
「展示物を運ぶ順番を考えたんだけど、これだと先に置いた机が邪魔になって、あとから大きいものを運べなくなるんだよな」
俺は配置図を覗き込み、ガレスが書いた矢印をたどった。確かに、入口付近へ先に机を並べてしまうと、奥へ運ぶ予定の大きな展示物が通りにくくなりそうだった。
「なるほど。だったら、奥に置くものから先に運ぶのはどうかな。入口の近くは最後に準備すれば、通路を使いやすいと思う」
「おお、そうか! それならいけそうだな!」
ガレスは嬉しそうに声を上げ、すぐに紙へ書き込みを始めた。サザリーも頷きながら、運ぶ順番を変えるなら記録の順番も合わせた方が分かりやすいと意見を添える。
「ただ、実際に運ぶなら、展示物の大きさや重さも確認しないとね。図だけでは分からないこともあるから」
俺がそう言うと、ガレスは真剣な表情で頷いた。
「そうだな。……やっぱり、セスに聞いてよかったよ。お前、こういうことを考えるのが得意だよな」
「屋敷で似たようなことを考える機会があるだけだよ。それに、サザリーやエミリアの意見も大事だと思う」
俺が答えると、エミリアは少し照れたように微笑んだ。
「私は、展示物を傷つけないようにすることばかり考えていました。でも、運ぶ順番も大切なんですね」
「そうだね。どちらも必要なことだと思うよ」
俺たちはそのまま、配置図を囲んでしばらく話し合った。ガレスが勢いよく新しい案を書き込み、サザリーがその内容を整理し、エミリアが注意点を加えていく。俺はそれぞれの意見を聞きながら、必要なところだけ補足した。
その様子を少し離れた場所から見ていたリビアは、静かに微笑んでいた。
彼女はセスが友人たちに頼られていることを、心から嬉しく思っていた。以前の彼なら、頼まれたことをすべて自分で引き受けようとしたかもしれないが、今は相手の考えを聞き、必要な助言だけを返している。ガレスたちもセスの意見を一方的に受け取るのではなく、自分たちで考えながら話を進めていた。
(……セス、楽しそうね。ああして笑っているところを見ると、私まで嬉しくなるわ)
けれど、その一方で、ほんの少しだけ胸の奥がくすぐったくなるような感覚もあった。彼が誰かに必要とされることは誇らしいし、友人が増えることも喜ばしい。それでも、幼い頃からずっと自分の隣にいた少年が、今は自分の知らない場所でも誰かの支えになっているのだと思うと、嬉しさだけでは説明できない気持ちが生まれてくる。
リビアはその感情を否定しようとはしなかった。ただ、自分がセスを大切に思っているからこそ生まれるものなのだと受け止め、静かに息を整えた。
「リビア様も、こちらをご覧になりますか?」
エミリアが声をかけると、リビアはすぐに顔を上げた。
「ええ、ぜひ。どんなふうにまとまったのか、見せていただけるかしら」
彼女は机へ近づき、ガレスたちが書き直した配置図を覗き込んだ。そこには最初よりも分かりやすい順番が示されており、通路の確保についても注意が書き加えられている。
「とてもよくなったと思うわ。特に、入口の近くを最後に準備するという考え方は、実際に人が動くことを想像できていて素敵ね」
「だろ? セスが教えてくれたんだ」
ガレスが嬉しそうに言うと、リビアは俺へ視線を向けた。
「ふふっ。セスらしい考え方ね」
その笑顔に、俺は少し照れくさくなった。けれど、彼女がどこか満足そうにしているのを見て、俺も自然と微笑んでいた。
◇
午前の授業では、学院内の施設を利用する際の基本的な手続きについて学ぶことになった。教師は黒板へいくつかの項目を書き、教室や訓練場、図書室などを使う場合には、それぞれ決められた方法で申請や確認を行う必要があると説明している。
普段から利用している場所でも、特別な目的で使う場合には許可が必要になることがあるらしい。俺はその話を聞きながら、昨日の展示会の課題で教師が注意していたことを思い出した。
「施設を利用する際には、使う側の都合だけで判断してはいけません。ほかの授業や活動との兼ね合いがありますし、設備の安全を確認する必要もあります」
教師はそう説明したあと、生徒たちへ簡単な問いを投げかけた。
「では、皆さんが図書室で小規模な勉強会を開きたいと考えた場合、どのようなことを確認する必要があるでしょうか」
何人かの生徒が手を上げ、利用できる時間や人数、声の大きさなどについて意見を述べた。俺も考えながら、図書室の静かな空気を思い浮かべていた。
図書室は本を読む人や調べものをする人が利用する場所だ。勉強会を開くとしても、ほかの利用者の邪魔にならないよう配慮する必要がある。
「シルフィール君、あなたはどう考えますか」
教師に指名され、俺は姿勢を正した。
「はい。まず、図書室で勉強会を開いてよいか確認する必要があると思います。そのうえで、使える場所や時間、人数の制限があるかを確かめて、ほかの利用者の迷惑にならない方法を考えるべきだと思います」
教師は頷き、黒板へ確認事項を書き加えた。
「よいですね。許可を得ることと、実際に利用する際の配慮は別の問題です。許可されたからといって、周囲の状況を考えなくてよいわけではありません」
その説明に、教室のあちこちから小さな頷きが返った。
授業の後半では、数人ずつの組に分かれ、施設を利用する際の簡単な相談場面を考えることになった。俺たちの組には、図書室で勉強会を開きたい生徒と、それを受け付ける担当者という設定が与えられた。
今回は役割を交代しながら、どのような説明が必要になるか考える練習だった。公開講習とは別の授業課題なので、希望役や班分けとは関係がない。
「じゃあ、最初は俺が勉強会を開きたい生徒役をやるよ」
ガレスがそう言って手を上げた。サザリーは受付担当を引き受け、エミリアはやり取りの内容を記録することになった。
俺とリビアは二人の会話を聞きながら、必要な確認が抜けていないか考える役割を担当した。
「図書室で勉強会を開きたいんだけど、使ってもいいですか?」
ガレスが少し大げさに頭を下げると、サザリーは真面目な表情で応じた。
「まず、何人で利用する予定なのか教えてください。それから、いつ頃を考えていますか」
「ええと……五人くらいかな。放課後に一時間くらい使いたいんだけど」
サザリーはその内容を確認し、利用できる場所や時間について担当者へ確認する必要があると説明した。ガレスは納得したように頷いたものの、すぐに別の質問を口にした。
「じゃあ、今日の放課後に使いたいって言ったら、すぐに決めてもらえる?」
「それは、ほかの利用予定を確認しないと分からないね。僕だけでは決められないから、担当の先生に確認してから返事をすることになると思う」
その返事を聞き、ガレスは少し考え込んだ。
「なるほどな。受付の人が全部決められるわけじゃないんだな」
サザリーは頷き、説明を続けた。
「うん。だから、確認が必要なことは、その場で約束しない方がいいと思う」
俺は二人のやり取りを聞きながら、屋敷での仕事と似ている部分があると感じていた。来客から何かを頼まれた場合でも、自分の判断だけでは対応できないことがある。相手を待たせることが申し訳なくても、確認せずに約束してしまえば、あとでさらに困らせるかもしれない。
リビアも同じようなことを考えていたらしく、会話が一区切りついたところで静かに手を上げた。
「一つ、よろしいかしら。確認が必要な場合は、いつ頃返事ができそうか伝えられると、相談した側も安心するのではないかと思うの」
サザリーはその言葉を聞き、少し驚いたように目を見開いた。
「確かにそうですね。確認しますと言うだけでは、相手はいつまで待てばよいのか分かりませんから」
「ええ。ただ、返事の時刻も確実でないなら、無理に約束しない方がよいと思うわ」
リビアはそう言って微笑んだ。俺は彼女の考え方に感心しながら、ノートへその内容を書き留めた。
そのあと役割を交代し、今度は俺が受付担当を務めることになった。相手役はエミリアで、彼女は少し緊張した様子ながらも、丁寧に相談内容を説明してくれた。
「図書室で、友人と一緒に調べものをしたいのですが、使える場所はありますか?」
「利用する人数と、どのくらいの時間を予定しているか教えてもらえますか」
俺が尋ねると、エミリアは考えながら答えた。
「三人です。放課後に、できれば一時間ほど使いたいと思っています」
「分かりました。図書室の利用状況を確認する必要がありますので、今すぐに場所をお約束することはできません。担当の方へ確認してからお返事する形になりますが、それでもよろしいでしょうか」
エミリアは頷き、少し安心したように微笑んだ。
「はい。ありがとうございます」
そこで一度やり取りを止め、俺たちは内容を振り返った。サザリーは必要な確認ができていたと評価してくれたが、リビアは少しだけ考え込んでいた。
「セス、今の説明はとても丁寧だったわ。ただ、相手が急いでいる場合には、ほかの方法も考えられるかもしれないわね」
「ほかの方法?」
「ええ。例えば、図書室以外にも利用できる場所があるかもしれないでしょう? もちろん、勝手に案内することはできないけれど、相談先を伝えることならできる場合もあると思うの」
俺はその言葉に頷いた。確かに、相手の希望どおりに対応できない場合でも、ほかの方法を一緒に考えることはできる。
「なるほど。ありがとう、リビア。そこまでは考えてなかったよ」
「ふふっ。私も、セスの説明を聞いてから思いついたのよ」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。俺は彼女の表情を見ながら、今日もまた新しいことを学べたのだと感じていた。
◇
昼休み、俺たちは食堂で昼食を済ませたあと、図書室へ向かうことになった。サザリーが授業で使った参考資料を確認したいと言い、エミリアも関連する本を探してみたいと話したからだ。
廊下には昼休みを過ごす生徒たちの声が響き、窓の外からは中庭の木々が揺れる音が聞こえてくる。俺たちは人の流れを妨げないように歩きながら、午前の授業について話していた。
「さっきの課題、思ったより難しかったな」
ガレスがそう言って頭をかいた。
「俺だったら、使っていいか聞かれたら、空いてそうな場所を教えちまいそうだよ」
「それだと、ほかの人が使う予定だった場合に困るかもしれないね」
サザリーが穏やかに答えると、ガレスは苦笑した。
「そうなんだよな。分かってはいるんだけど、目の前で困ってる奴がいると、何とかしてやりたくなるんだ」
その言葉に、俺は少しだけ親近感を覚えた。ガレスの考え方は、以前の俺と似ているところがあるのかもしれない。
「俺も、そういうことはあるよ。でも、すぐに答えを出すより、必要な人へ確認した方が結果的に助けられることもあるんだと思う」
「セスが言うと説得力あるな。お前、屋敷でもそういう仕事してるんだろ?」
「うん。ただ、俺もまだ勉強中だけどね」
俺がそう答えると、ガレスは楽しそうに笑った。
「それでも、俺よりはずっと詳しいだろ。今度、何か分からないことがあったらまた聞いてもいいか?」
「もちろん。俺に分かることならね」
そのやり取りを聞いていたリビアは、少しだけ目を細めた。俺は彼女の表情に気づいたものの、何を考えているのかまでは分からなかった。
図書室へ向かう途中、俺たちは昨日レオルが話していた北側の階段の近くを通った。そこには以前から設置されている案内板があり、図書室の方向を示す矢印が描かれている。
ただ、そこから先にはいくつかの曲がり角があるため、初めて来た人には少し分かりにくいかもしれない。昨日、道に迷っていた下級生を案内したことを思い出し、俺は何となく案内板へ視線を向けた。
「セス、どうしたの?」
リビアが隣から尋ねてきた。
「昨日の下級生のことを思い出したんだ。レオルもここを通ってみたって言ってたから、どこが分かりにくいのか少し気になって」
「そうね。私も、昨日案内したときのことを覚えているわ」
リビアは案内板を見上げ、そこから図書室へ向かう廊下へ視線を移した。
「矢印だけなら、方向は分かるのよね。でも、途中で道が分かれるから、初めて来た人は迷うこともあるのかもしれないわ」
「うん。ただ、これだけで案内が悪いと決めるわけにはいかないけど」
俺がそう言うと、リビアは頷いた。
「ええ。必要なら先生や図書室の方へ相談すればいいと思うわ」
俺たちはそのまま図書室へ向かった。古い案内表示については司書が確認を進めていることもあり、俺たちが勝手に手を加えるべきではない。今できるのは、実際に気づいたことを正確に伝えられるようにしておくことだろう。
◇
図書室へ入ると、静かな空気が俺たちを包んだ。高い書架の間には柔らかな光が差し込み、紙と木の匂いがほのかに漂っている。昼休みということもあって何人かの生徒が本を読んでいたが、話し声はほとんど聞こえなかった。
サザリーとエミリアは参考資料を探すため、司書へ必要な本の場所を確認しに行った。ガレスは二人についていき、俺とリビアは少し離れた閲覧机の近くで待つことになった。
「静かね。ここへ来ると、何だか落ち着くわ」
リビアは小さな声でそう言い、窓際の席へ視線を向けた。そこには一人の生徒が本を広げており、時折ノートへ何かを書き込んでいる。
「うん。俺もここは好きだよ。授業のあとに調べものをするには、ちょうどいい場所だと思う」
「ふふっ。セスは本を読むときも、とても真剣な顔をしているものね」
「そうかな。自分では普通に読んでるつもりなんだけど」
「ええ。でも、分からないことがあると少し眉を寄せるでしょう? それから、答えが見つかると、ほんの少しだけ表情が柔らかくなるの」
俺は思わず彼女の顔を見た。そんな細かいところまで見られていたとは思わず、少し照れくさくなる。
「……よく見てるね」
「当然でしょう? 私はセスの婚約者なのよ」
リビアは誇らしそうに微笑んだ。俺はその返事に苦笑しながらも、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
そのとき、少し離れた書架の前で、一人の女子生徒が困ったように周囲を見回しているのが目に入った。手には数冊の本を抱えており、どこへ戻せばよいのか迷っているようだった。
俺はすぐに声をかけようとしたが、以前、図書室の本は勝手に戻さず、司書の指示に従う必要があると聞いたことを思い出した。そこで、まずは相手が何に困っているのか確かめることにした。
「何かお困りですか?」
小さな声で尋ねると、女子生徒は少し驚いたように顔を上げた。
「あ、すみません。借りようと思っていた本を間違えて持ってきてしまって……どこへ戻せばいいのか分からなくなってしまったんです」
「そうでしたか。それなら、司書の方へ確認した方がよいと思います。こちらで勝手に戻してしまうと、別の場所へ置いてしまうかもしれませんから」
俺がそう説明すると、女子生徒は安心したように頷いた。
「ありがとうございます。そうしてみます」
彼女は本を抱え直し、司書のいる受付へ向かった。俺はその姿を見送り、リビアの方へ戻った。
すると、彼女は少しだけ不思議そうな表情をしていた。
「……セス、今の方にもすぐに声をかけたのね」
「うん。困っているみたいだったから。でも、俺が勝手に本を戻すわけにはいかないし、司書の人へ確認してもらうことにしたよ」
「そうね。それが一番よいと思うわ」
リビアはそう答えたものの、少しだけ視線を落とした。俺は彼女の様子が気になり、声をかけようとしたが、その前に彼女が小さく笑った。
「……本当に、セスは誰かに頼られることが多いのね」
「そうかな。今のは、たまたま困っている人が見えただけだよ」
「ええ。分かっているわ」
リビアは微笑みながら、俺の袖口へそっと指を添えた。
「でも、少しだけ思ってしまったの。あなたが困っている人を見つけるたびに、私の知らないところでも、こうして誰かを助けているのだろうなって」
俺は彼女の言葉を聞き、朝の会話を思い出した。リビアは、俺が誰かに頼られることを嬉しく思う一方で、少しだけ複雑な気持ちになると言っていた。
「……リビア」
「ふふっ。心配しないで。あなたが誰かを助けることを嫌だと思っているわけではないのよ」
彼女はそう言って、少しだけ頬を赤くした。
「ただ、私もあなたに頼ってもらいたいと思っているの。あなたが誰かの力になるように、私もあなたの力になりたいから」
その言葉に、俺は静かに頷いた。リビアがそう考えてくれていることは、以前から何度も感じていた。けれど、こうしてはっきり言葉にしてもらうと、改めて嬉しくなる。
「……ありがとう。俺も、リビアに頼ってるよ」
「本当?」
「うん。今日の授業だって、リビアの意見を聞いて気づいたことがあったし。俺だけだったら、相談に来た人へ別の方法を考えるところまでは思いつかなかったと思う」
リビアは少し驚いたように目を見開いた。それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……そう言ってもらえると、嬉しいわ」
彼女の指が俺の袖口から離れた。図書室という場所を意識しているのか、リビアはそれ以上近づこうとはせず、代わりに穏やかな表情で俺を見つめている。
俺も彼女へ微笑み返した。
◇
放課後、学院の門へ向かう途中で、俺たちはレオルと顔を合わせた。彼は手にしたノートを閉じると、俺たちへ挨拶し、昨日の案内板について少しだけ話したいことがあると言った。
「今日、先生に相談してみたんだ。北側の階段から図書室へ向かう途中で、迷う人がいるかもしれないって」
「そうなんだ。先生は何て言ってた?」
「まず、今ある案内がどういう目的で設置されているのか確認してみるって。古い表示については図書室でも調べているらしいから、そちらの確認と重ならないようにするそうだよ」
レオルはそう説明したあと、少しだけ笑った。
「僕も、すぐに案内板を変えればいいと思っていたんだけど、勝手に決められることじゃないんだね」
「うん。実際に使っている人の意見もあるだろうし、管理している人の判断も必要だと思う」
俺がそう答えると、レオルは頷いた。
「そうだね。だから、今は自分が気づいたことだけ整理しておこうと思う」
リビアもその考えに賛成し、必要なら昨日の下級生を案内したときのことを伝えられると話した。レオルは礼を言い、俺たちは学院の門で別れた。
迎えの馬車へ乗り込むと、リビアは窓の外を眺めながら、少しだけ考え込んでいた。俺は彼女の様子が気になり、声をかけた。
「リビア、どうかした?」
「ええと……今日、いろいろな人がセスを頼りにしていたでしょう? それを見ていて、少し考えていたの」
リビアはそう言って、俺へ視線を向けた。
「私は、あなたが誰かの役に立っていることを誇らしく思っているわ。でも、あなたが無理をしてしまわないか、少し心配にもなるの」
「……無理はしてないつもりだけど」
「ええ。今日はちゃんと、自分でできることと、ほかの人へ任せることを分けていたものね。だから、以前より安心して見ていられたわ」
彼女はそう言って微笑んだ。俺はその言葉を聞きながら、父さんにも似たようなことを言われたのを思い出していた。
「……俺も、少しは変われたのかな」
「もちろんよ。あなた自身は気づいていないかもしれないけれど、私はずっと見てきたもの」
リビアは穏やかに答えた。その声には、幼い頃から俺を知っている彼女だからこその温かさがあった。
「でもね、セス。私は、あなたが誰かに頼られることを嬉しく思っているのと同じくらい、あなたが私に頼ってくれることも嬉しいの」
「うん。分かってるよ」
「だから、何か困ったことがあったら、遠慮しないで話してね。私にできることなら、喜んで力になるわ」
俺は彼女の言葉を聞き、静かに頷いた。
「ありがとう、リビア。俺も、リビアが困ったときには力になりたい」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ。そうね。私たちは婚約者なのだもの」
その言葉に、俺は少しだけ照れくさくなった。けれど、彼女の笑顔を見ていると、自然とこちらも笑みが浮かんでくる。
◇
屋敷へ戻ると、父さんが玄関広間で俺たちを迎えてくれた。俺たちは挨拶を交わし、学院での授業や図書室での出来事について簡単に報告した。
「施設の利用について学んだのですね。それは、屋敷の仕事にも通じるところがあります」
父さんはそう言って頷いた。
「誰かに頼まれたことをすぐに引き受けるのではなく、必要な確認を行うことも大切です。相手を待たせることが申し訳なく感じられる場合もあるでしょうが、曖昧な約束をする方が問題になることもありますからね」
「うん。今日の授業でも、同じようなことを学んだよ」
俺が答えると、父さんは穏やかに微笑んだ。
「それなら、よい一日でしたね」
リビアも嬉しそうに頷いた。そのあと俺たちはそれぞれの部屋へ戻り、夕方の予定へ向けて準備を整えた。
俺は着替えを済ませてから、屋敷の仕事へ戻った。今日も裏手の搬入路は通行制限が続いており、北側の迂回を使う予定に変更はない。担当者から必要な報告を受けた俺は、内容を確認したあと、自分の持ち場へ戻った。
夕食前には、食堂の準備を確認する仕事があった。今朝と同じように、担当者が決まっている作業へ勝手に手を出さないよう注意しながら、必要な確認を進めていく。
仕事を終える頃には、窓の外がすっかり夕焼け色に染まっていた。俺は最後の確認表を引き継ぎ、手を洗ってから夕食の時間へ向かった。
◇
夜、仕事を終えて自室へ戻ると、窓の外には静かな庭園が広がっていた。昼間の風はすっかり弱まり、木々の葉が時折小さく揺れる程度になっている。俺は机へ向かい、今日の授業で取ったノートを開いた。
そこには、施設を利用する際の確認事項や、相談を受けたときの対応について書かれている。俺はその内容を読み返しながら、今日一日の出来事を思い返していた。
ガレスたちと展示会の配置図を考えたこと。授業で受付担当を務めたこと。図書室で困っていた生徒へ声をかけたこと。そして、リビアが俺に頼ってほしいと言ってくれたこと。
どれも大きな事件ではなかったけれど、俺にとっては大切な経験だった。
そんなことを考えていると、扉の外から控えめなノックが聞こえた。
「セス、少しいいかしら」
リビアの声だった。俺は立ち上がり、扉を開けた。
「もちろん。どうしたの?」
リビアは少し照れたように微笑んだ。
「今日のことを、もう少しお話ししたくて。……それに、あなたが何を考えていたのか、聞いてみたくなったの」
俺は頷き、彼女を部屋へ招いた。リビアは机の上のノートを見て、嬉しそうに微笑んだ。
「セスも、今日の授業のことを考えていたのね」
「うん。いろいろな人に頼られるのは嬉しいけど、俺だけで全部何とかしようとしないことも大切なんだなって」
「ええ。私もそう思うわ」
彼女はそう言って椅子へ腰を下ろした。俺も向かい側へ座り、今日の出来事について話し始めた。
しばらく話していると、リビアがふと真剣な表情になった。
「……ねえ、セス。私、今日あなたに一つだけお願いしたいことがあるの」
「うん。何かな?」
「あなたが誰かに頼られているとき、私もその場にいたら、少しだけ私にも頼ってほしいの」
俺は少し考え込んだ。リビアがそう言う理由は、何となく分かる気がした。
「……俺が全部やろうとしないで、リビアにも相談するってこと?」
「ええ。もちろん、あなたが自分でできることまで無理に任せてほしいわけではないの。でも、私にもできることがあるなら、一緒に考えたいの」
リビアはそう言って微笑んだ。
「だって、私はあなたの婚約者なのよ。あなたが誰かの力になるように、私もあなたの力になりたいの」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
「……分かった。これからは、リビアにももっと相談するよ」
リビアの表情がぱっと明るくなった。
「本当?」
「うん。本当。今日の授業でも、リビアの意見を聞いて気づいたことがあったし。俺も、もっといろいろなことを一緒に考えたい」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「……ありがとう、セス」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
俺は彼女の表情を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
しばらくして、リビアはそっと手を伸ばしてきた。俺も自然にその手を取り、二人で静かな時間を過ごした。
窓の外では、夜の風が庭園の木々を揺らしている。学院の公開講習では、俺たちが同じ班になるかどうか、まだ分からない。希望した役割を任されるかどうかも、決まっていない。
けれど、今日の俺は、それを少し楽しみに思っていた。
同じ場所にいなくても、互いに学んだことを話せる。違う役割を経験しても、その違いを大切にできる。そして、隣にいる時間には、相手が何を考えているのかを知ろうとすることができる。
それは、俺たちにとって大切なことなのだろう。
リビアは俺の手を握ったまま、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「……でも、セス」
「何?」
「あなたが誰かに頼られるのは嬉しいけれど、私が一番頼りにされたいと思う気持ちは、やっぱり変わらないわ」
俺は思わず笑ってしまった。
「それは、どういう意味?」
「ふふっ。秘密よ。でも、あなたのことを一番大切に思っているのは私だって、これからも伝えていくつもりなの」
リビアはそう言って、嬉しそうに微笑んだ。俺はその表情を見ながら、少しだけ照れくさくなった。
「……俺も、リビアのことを大切に思ってるよ」
彼女の表情がぱっと明るくなった。
「……本当?」
「うん。本当」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見ていると、俺まで温かな気持ちになってくる。
俺たちはしばらく、静かな部屋で手を重ねたまま過ごした。
明日もまた、学院で新しい一日が始まる。
公開講習の結果がいつ分かるのかは、まだ知らされていない。
けれど、どのような役割になったとしても、俺は自分の学ぶべきことを大切にしたいと思っていた。
そして、その経験をリビアと分かち合えることが、何より楽しみだった。




