第141話 公爵令嬢様は、俺の知らない顔を見つけると嬉しくなるらしい
朝のパウリー公爵邸では、まだ日が高くならないうちから、使用人たちが静かに仕事を進めていた。昨夜まで庭園の葉に残っていた雨の雫はほとんど消えていたものの、北側の植え込みには湿った土の匂いが残っており、開け放たれた厨房の小窓から涼しい風が入り込んでくる。俺は食堂へ運ぶ予定の食器を確認しながら、配膳担当の使用人が持ってきた記録表と、実際に用意された品の数を照らし合わせていた。
今日の朝食には、いつものパンやスープに加え、果物を使った小さな焼き菓子が添えられる予定になっている。厨房の担当者が焼き上がりを確かめている間、俺は配膳の順番を確認し、必要な食器が揃っていることを確かめた。作業そのものは難しくなかったが、予定表に記載された内容と現場の準備が一致しているかを確認することは、どんなに慣れた仕事でも省略してはいけない。
「セス様、こちらの皿も確認していただけますか。今朝は焼き菓子の大きさが少し違うので、いつものものでは収まりが悪いかもしれません」
声をかけてきたのは、配膳を担当している若い使用人だった。彼女は二種類の小皿を持っており、どちらを使うべきか判断に迷っているらしい。俺は実際に盛り付けられる予定の焼き菓子を確認してから、皿の縁と菓子の間にどの程度の余裕があるかを見比べた。
「こちらの少し大きい方がよさそうですね。ただ、今朝の盛り付けを決めたのは厨房の担当者ですから、最後に確認してもらいましょう。俺の判断だけで変えてしまうと、ほかの料理との配置が合わなくなるかもしれません」
「そうですね。ありがとうございます。では、担当の方へ聞いてまいります」
彼女が厨房の奥へ戻っていくのを見送り、俺は確認表の該当箇所へ小さく印をつけた。以前なら、自分で大きい皿を選んでそのまま準備を進めていたかもしれないが、今は仕事を担当している人の判断を尊重するよう心掛けている。誰かの負担を減らしたいと思ってしたことが、かえってその人の仕事をやりにくくしてしまう場合もあると、父さんから何度も教わってきたからだ。
しばらくして、厨房の担当者が大きい方の皿を使うと決め、配膳の準備は滞りなく進んだ。俺は変更が記録表にも反映されたことを確かめてから、次の担当者へ仕事を引き継いだ。窓の外では庭師が濡れた土を避けながら通路の状態を見ており、屋敷全体がそれぞれの役割によって動いていることを、改めて感じさせられる朝だった。
「セス、少しよろしいですか」
廊下へ出たところで、父さん――グレイヴ・シルフィールから声をかけられた。いつものように背筋を伸ばした父さんは、手にしていた書類を閉じると、俺の仕事が終わっていることを確認してから話を続けた。
「本日の学院での予定について、何か変更はありますか。公開講習の申し込みは済んでいると聞いていますが、参加者の決定はまだでしたね」
「うん。今のところ、結果はまだ出ていないよ。今日は普通の授業だけど、学院から何か連絡があるかもしれない」
「そうですか。では、知らせがあれば内容を正確に確認してください。参加できることになった場合も、希望した役割を任されるとは限りませんからね」
父さんは穏やかな口調でそう言うと、俺が持っていた確認表へ一瞬だけ視線を向けた。書類を見せると、父さんは変更箇所を確かめ、担当者の確認を取ったことに小さく頷いた。
「今朝の対応は、それでよいでしょう。自分で判断できることと、確認を必要とすることを区別するのは、簡単そうで難しいものです」
「ありがとう。昨日の学院の授業でも、似たような話があったんだ。案内する相手を助けようとして、自分の持ち場を離れたら、別の人が困るかもしれないって」
「なるほど。学院で学んだことを屋敷で考え、屋敷で経験したことを学院で考える。それができるなら、あなたが両方の立場にいることにも意味があります」
その言葉を聞き、俺は少しだけ考え込んだ。学院へ通い始めた頃は、執事見習いとしての仕事に支障が出ないようにすることばかり気にしていたが、最近はどちらか一方で学んだことが、もう一方で役立つ場面が増えている。もちろん、まだ知らないことの方が多いけれど、今の生活が以前より少し広く感じられるのは確かだった。
「それから、裏手の搬入路については引き続き通行を制限しています。昨夜の時点でも補修の許可は出ていませんから、今朝の雨上がりの状態を担当者が確認する予定です」
「分かった。北側の迂回は続けるんだね」
「ええ。今のところ変更はありません。あなたが学院にいる間の対応は、こちらで行います」
俺は頷き、父さんに礼を言ってから自室へ向かった。屋敷の仕事を気にかけることは大切だが、今日の俺には学院で果たすべき役割もある。窓の外へ目を向けると、雲の切れ間から差し込む朝日が庭園の石畳を照らしており、今日も穏やかな一日が始まろうとしていた。
◇
朝食を終えて玄関広間へ向かうと、リビアは窓際で一冊の本を閉じたところだった。シルバーブルーの髪は朝の光を受けて淡く輝き、制服の襟元には少しの乱れもない。俺の姿を見つけた彼女は、いつもの上品な微笑みを浮かべたあと、どこか待ちかねていたようにこちらへ歩いてきた。
「おはよう、セス。今朝のお仕事はもう終わったの?」
「おはよう、リビア。うん、予定していた分は終わったよ。リビアはまた学院の案内を読んでいたの?」
「今日は昨日とは別の本よ。礼法に関するものなのだけれど、読んでいたら少し気になることが出てきたの」
彼女は本の表紙を俺へ見せた。貴族の家で客人を迎える際の基本的な作法について書かれたもので、俺も父さんから似た内容を教わったことがある。ただ、リビアが何を気にしているのかまでは分からず、俺は続きを促すように彼女の顔を見た。
「昨日、学院で道に迷っていた子を案内したでしょう? あのとき、セスは相手がどこから来たのかを先に聞いていたわね。私は、どこへ行きたいのかを知れば案内できると思っていたから、少し意外だったの」
「ああ、あれか。帰り道も分かるようにした方がいいと思ったんだ。どこから来たか分かれば、戻るときの目印も説明しやすいから」
「そういう理由だったのね。私、あなたが当たり前のようにしていることにも、まだ知らない考え方があるのだと思ったわ」
リビアはそう言って微笑んだが、その瞳には単なる感心とは違う光があった。俺の仕事や考え方をもっと知りたいと、彼女は以前から何度も口にしてくれている。それでも、こうして具体的な出来事を覚えていてくれると、何となく照れくさくなってしまう。
「俺だって、リビアが目印を教えていた理由を聞いて納得したよ。道を知っていることと、相手が覚えられるように説明することは違うんだなって」
「ふふっ。それなら、お互いに一つずつ学べたということね」
リビアは満足そうに頷き、本を抱え直した。馬車の準備が整ったことを知らせる声が玄関の方から聞こえると、彼女は俺の隣へ並び、歩き始めながら少し声を落とした。
「ねえ、セス。今日は公開講習の参加者について、何か知らせがあるかしら」
「どうだろう。昨日申し込んだばかりだし、もう少し時間がかかるんじゃないかな」
「そうよね。分かっているのだけれど、楽しみにしていると、つい早く知りたくなってしまうわ」
その気持ちは俺にも分かった。普段とは違う立場で実務を学べる機会は珍しく、どんな役割を任されるのか考えるだけでも興味が湧いてくる。ただ、申し込みを受け付けた教師が人数による調整もあると言っていた以上、結果を急いでも仕方がない。
「決まるまでは、今できることをしておこう。今日の授業でも何か役立つことがあるかもしれないし」
「ええ。……でも、セスと同じ班になれるかどうかは、やっぱり気になるわね」
リビアはそう言いながら、ほんの少しだけ俺の袖へ視線を落とした。昨日も同じ話をしたけれど、彼女にとってはそれだけ大切なことなのだろう。俺は周囲の使用人たちがそれぞれの仕事に戻っていることを確かめてから、小さく笑って答えた。
「俺も気になってるよ。でも、別々になっても帰りに話そうって約束しただろ?」
「もちろん覚えているわ。だから、どちらになっても楽しみにしているの」
リビアはそう言って微笑み、馬車へ乗り込んだ。俺も彼女の向かいに座り、閉められた扉の向こうで御者が出発の合図をするのを聞いた。車輪が石畳を離れてゆっくりと進み始めると、彼女は窓の外を眺めながら、今日の授業について楽しそうに話し始めた。
◇
学院へ到着すると、教室ではガレスとサザリーが机を挟んで何かを相談していた。エミリアは二人の話を聞きながらノートへ書き込みをしており、レオルは窓際で地図の載った本を読んでいる。俺たちが挨拶すると、ガレスはすぐに顔を上げ、待っていたと言わんばかりに手を振った。
「おはよう、セス! ちょっと聞いてくれよ。昨日、商人役の練習を考えてみたんだけどさ、サザリーに最初から値段の話をするなって言われたんだ」
「おはよう。……それは、相手が何を欲しがっているか聞いてからの方がいいってこと?」
「そうなんだよ。俺は商品を売るなら値段が大事だと思ってたんだけど、相手が必要としていないものを安くしても意味がないだろって」
ガレスは少し悔しそうに笑った。サザリーはその隣で肩をすくめ、別に値段が重要ではないと言ったわけではないと説明する。エミリアも頷きながら、相手が困っている理由を聞いてから提案した方が、話し合いが進みやすいのではないかと意見を添えた。
「なるほど。ガレスもいろいろ考えてるんだね」
「そりゃそうだろ。せっかく講習に申し込んだんだから、何かできるようになりたいしさ。……まあ、商人役になれるかどうかも分からないんだけどな」
ガレスは照れくさそうに頭をかいた。その様子を見て、俺は少し意外に感じていた。普段は勢いよく剣を振るうことが多い彼だが、知らない分野についても真面目に考えようとしているらしい。
「それにしても、セスが管理者役を希望したのは分かるけど、リビア様が使用人役を希望したって聞いたときは驚いたよな」
ガレスがそう言うと、エミリアが小さく頷いた。
「私も最初は驚きました。でも、昨日の授業でリビア様が受付役をされているのを見て、すごく真剣に取り組んでいらっしゃるんだなと思いました」
リビアは二人の言葉を聞き、少し照れたように微笑んだ。
「ありがとう。でも、まだ分からないことばかりよ。だからこそ、今回の講習で少しでも学べたらと思っているの」
その返事に、サザリーが静かに頷いた。
「僕も同じです。記録係を希望しましたけど、ただ書き留めるだけではなく、あとから読む人が理解できるように整理することも必要なんでしょうね」
「それなら、昨日の授業で先生が話していたことにもつながるね」
俺がそう言うと、サザリーは嬉しそうに微笑んだ。彼は普段から物事を整理して考えるのが得意だが、今回の講習ではその力を別の形で使ってみたいらしい。
そこへレオルが本を閉じ、俺たちの方へ近づいてきた。
「案内役があったら、僕もやってみたいですね。昨日の話を聞いてから、学院の中で初めて来た人が迷いやすい場所があるのか気になっているんです」
「昨日の下級生のこと?」
「ええ。ただ、一人が迷ったというだけでは、案内が分かりにくいと決められませんからね。まずは、どこで迷ったのかを整理してみたいと思っています」
レオルはそう言って、手元の本を開いた。そこには学院の主要な建物が描かれており、彼は昨日俺たちが歩いた経路を指でたどっている。俺はその様子を見ながら、同じ出来事でも人によって興味を持つ部分が違うのだと感じていた。
「セス、昨日はどの階段の近くで下級生を見つけたんだい?」
「教室棟の北側にある階段だよ。図書室へ行く途中で、どちらへ進めばいいか分からなくなったみたいだった」
「なるほど。そこなら、確かに初めて来た人は少し迷うかもしれませんね。案内板には方向が書いてありますけど、途中の曲がり角までは説明されていませんから」
レオルは真剣な表情で頷いた。ただし、彼はすぐに案内板を変えようとは言わず、まずは実際の経路を確認してみたいと話した。俺もその考えに賛成だったし、学院の設備については教師や職員の判断が必要になることも分かっていた。
そんな話をしているうちに、朝の授業開始を告げる鐘が鳴った。俺たちはそれぞれ席へ戻り、机の上へ教科書とノートを広げた。公開講習の結果はまだ分からないが、友人たちがそれぞれの興味を持って準備している姿を見ると、俺も負けていられないと思えてくる。
◇
午前の授業では、複数の人間が協力して一つの仕事を進める際の役割分担について学んだ。教師は黒板へ簡単な図を描き、責任者、実務担当者、記録担当者、連絡担当者という四つの役割を示している。教室の窓からは柔らかな日差しが入り、机の上に広げたノートの端を明るく照らしていた。
「一つの仕事を複数人で進める場合、誰が何を担当しているか分からなくなると、同じ作業を繰り返したり、必要な確認が抜けたりすることがあります。では、そうした問題を防ぐためには、どのような工夫が必要でしょうか」
教師の問いかけに、何人かの生徒が手を上げた。担当者を決めること、作業の順番を共有すること、記録を残すことなど、さまざまな意見が出る。俺も考えをまとめながら、屋敷での仕事を思い返していた。
今朝の配膳でも、皿の大きさを変更するかどうかは、最終的に厨房の担当者へ確認した。俺が勝手に決めてしまえば、ほかの料理との配置や準備に影響が出るかもしれなかったからだ。
「シルフィール君。何か意見はありますか」
教師に指名され、俺は姿勢を正した。
「はい。担当者を決めるだけでなく、判断が必要になったときに誰へ確認するのかも、あらかじめ決めておくことが大切だと思います。自分の担当ではないことまで勝手に進めると、かえって混乱する場合があるので」
教師は頷き、黒板へ新たな言葉を書き加えた。
「よいですね。責任の所在を明確にすることは、協力するうえで重要です。ただし、担当が違うからといって、困っている人を放置してよいわけではありません。必要な情報を共有し、適切な相手へ引き継ぐことも協力の一つです」
その説明を聞き、俺は静かに頷いた。自分ができることを全部引き受けるのではなく、必要な人へつなぐことも仕事の一部なのだろう。
授業の後半では、五人一組になって簡単な課題を考えることになった。俺たちはガレス、サザリー、エミリア、リビアと同じ組になり、教師から配られた用紙を囲むように机を寄せた。
課題は、学院で小規模な展示会を開く場合の準備について考えるものだった。展示物の配置、来場者の案内、必要な備品の確認、記録の管理など、いくつかの仕事が書かれている。
「これ、思ったよりやることが多いな」
ガレスが用紙を覗き込みながら言った。
「展示物を並べるだけじゃ駄目なのか。来る人の案内とか、備品の確認とか、いろいろあるんだな」
「そうだね。まずは、どの仕事が先に必要なのか整理した方がよさそうだよ」
サザリーはそう言って、用紙の端へ順番を書き始めた。エミリアは展示物を運ぶ際に破損しないよう確認が必要だと指摘し、リビアは来場者が安心して見学できるよう、通路の広さや案内の分かりやすさも考えるべきだと話した。
俺はそれぞれの意見を聞きながら、作業の順番を考えていた。展示物を配置する前に、どの場所を使えるのか確認する必要があるし、備品を運ぶ担当者が決まっていなければ準備も進まない。
「最初に、展示する場所と使える備品を確認した方がいいと思う。そのあとで配置を決めれば、運ぶ人も動きやすいんじゃないかな」
俺がそう言うと、サザリーは頷いた。
「うん。それなら、記録担当が何を確認したか残しておけば、あとで変更があっても分かりやすいね」
「じゃあ、俺は運ぶ担当を考えるよ。重いものがあったら、無理に一人で持たないようにした方がいいだろ?」
ガレスはそう言って、用紙へいくつかの注意点を書き込んだ。彼が真面目に作業の安全を考えている姿を見て、エミリアは少し驚いたようだったが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、私も運ぶ順番を考えてみます。先に大きいものを置いてから、小さいものを並べた方がよいかもしれませんね」
「なるほど。そういう順番もあるのか」
ガレスは感心したように頷いた。俺は二人のやり取りを見ながら、誰か一人が全部考えるより、それぞれの得意なことを持ち寄った方が、よりよい方法を見つけられるのだと感じていた。
リビアは用紙の中央へ視線を落とし、少し考え込んでいた。
「ねえ、セス。来場者の案内について、少し相談してもいいかしら」
「もちろん。何か気になることがある?」
「展示物を見る順番を決めるとしても、来場者が必ずその順番で歩くとは限らないでしょう? だから、途中から見ても分かるようにする必要があるのではないかと思ったの」
俺はその言葉に頷いた。確かに、案内する側が考えた順番どおりに全員が動くとは限らない。昨日、道に迷った下級生を案内したときにも、相手がどこから来たかによって必要な説明が変わると感じたばかりだった。
「それなら、入口だけじゃなくて、途中にも案内を置いた方がいいかもしれないね。どこから見始めても、次に何があるか分かるように」
「ええ。そうすれば、初めて来た人も安心できると思うわ」
リビアは嬉しそうに微笑み、用紙へその考えを書き加えた。俺は彼女の横顔を見ながら、昨日の経験が今日の授業にもつながっていることを嬉しく思った。
課題の時間が終わる頃には、俺たちの用紙にはそれぞれの意見が整理されていた。教師が各組の内容を確認して回ると、俺たちの組では役割分担だけでなく、来場者の動きまで考えられていることを評価してくれた。
ただし、教師は一つだけ注意を加えた。
「よく考えられていますね。ただ、実際に展示会を開く場合は、学院の施設を管理する担当者へ確認する必要があります。皆さんが考えた配置が、そのまま許可されるとは限りません」
俺たちは揃って頷いた。どれだけよい案を考えたとしても、実際に使える場所や備品には決まりがある。今日の課題はあくまで考える練習であり、勝手に学院の設備を変更してよいわけではないのだった。
◇
昼休み、食堂で昼食を済ませたあと、俺たちは中庭のベンチへ向かった。朝の冷たい風は少し和らいでおり、木々の葉が揺れる音の向こうから、訓練場で練習している生徒たちの声がかすかに聞こえてくる。ガレスたちは図書室へ寄ると言って先に別れたため、今は俺とリビアの二人だけだった。
リビアはベンチへ腰を下ろすと、膝の上で両手を重ね、午前の授業について話し始めた。
「今日の課題、思っていたより難しかったわね。展示会の準備と聞いたときは、何をどこへ置くか考えるものだと思っていたけれど、それだけではなかったもの」
「そうだね。誰が準備するのか、どの順番で進めるのか、来る人がどう動くのかまで考える必要があったから」
「でも、みんなで意見を出し合ったら、少しずつ形になっていったでしょう? 私、ああいう時間が好きだわ」
彼女はそう言って微笑んだ。俺も頷きながら、午前の課題を思い返した。
ガレスは荷物を運ぶときの安全を考え、サザリーは記録と順番を整理し、エミリアは展示物の扱いに注意を向けていた。リビアは来場者の立場を考え、俺は準備する側の動きを想像していた。
「みんな、見ているところが違うんだね。俺だけだったら、あそこまで考えられなかったと思う」
「ええ。私も同じよ。セスが準備する人の動きを考えてくれなかったら、私は来場者のことばかり考えていたかもしれないわ」
リビアは少しだけ視線を落とし、ベンチの端へ置いた鞄の持ち手を指で整えた。何かを考えているときの彼女は、いつもより少しだけ動きがゆっくりになる。
「……ねえ、セス。私、最近あなたの知らない一面を見つけることが増えた気がするの」
俺は思わず彼女の顔を見た。
「俺の知らない一面?」
「ええ。もちろん、あなたが優しいことも、困っている人を放っておけないことも、昔から知っているわ。でも、学院で友人たちと話しているときのあなたや、授業で自分の考えを説明しているときのあなたは、屋敷で見る姿とは少し違うの」
リビアはそう言いながら、俺の表情を確かめるように目を細めた。責めているわけではなく、むしろ嬉しそうだったので、俺は少し安心した。
「……そんなに違うかな。自分ではあまり分からないけど」
「違うというより、増えているのかもしれないわ。あなたがどんなことを考えているのか、前よりたくさん知ることができるようになったもの」
彼女は穏やかに微笑んだ。
「私ね、セスのことは誰よりも知っているつもりだったの。でも、知らないことが見つかるたびに、少し嬉しくなるのよ」
その言葉に、俺は少し驚いた。知らないことがあると寂しくなるのではないかと思っていたが、リビアはそうではないらしい。
「……どうして嬉しいの?」
俺が尋ねると、彼女は少しだけ頬を赤くした。
「だって、これから知ることがまだたくさんあるということでしょう? あなたと一緒に過ごす時間が、これからも新しい発見でいっぱいになるのだと思うと、楽しみになるの」
リビアは照れくさそうに笑った。俺はその表情を見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
(……リビアは、俺が変わっていくことを嫌がっているわけじゃないんだな。むしろ、その変化を一緒に見てくれているんだ)
俺は少し考えてから、彼女へ微笑んだ。
「俺も、リビアの知らないところを見つけるのは楽しいよ。今日だって、展示会の案内についてあんなふうに考えてるって、初めて知ったし」
「本当? ……それなら、私ももっといろいろなことを学びたいわ」
リビアは嬉しそうに顔を上げた。風が吹いて彼女の髪が頬へかかると、俺は思わず手を伸ばしかけたが、彼女が自分で髪を耳へかけたため、その手を膝の上へ戻した。
そんな俺の動きに気づいたのか、リビアは少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「セス、今、何かしようとした?」
「……いや、髪が顔にかかってたから」
「ふふっ。そういうことなら、直してくれてもよかったのに」
彼女はそう言って、わざと少しだけ首を傾けた。俺は周囲にほかの生徒がいることを思い出し、思わず視線を逸らしてしまった。
「……ここ、学院の中庭だよ」
「分かっているわ。だから、少しだけ残念だと思っただけよ」
リビアは楽しそうに笑った。俺は返す言葉を探したものの、結局何も思いつかず、彼女の笑顔につられて苦笑するしかなかった。
◇
午後の授業が終わる頃、教室の前方に一枚の連絡用紙が掲示された。生徒たちが何事かと集まり始めたため、俺も鞄を持って近づくと、そこには公開講習についての追加案内が書かれていた。
ただし、参加者の名前や班分けが発表されたわけではない。申し込みが予想より多かったため、希望内容を確認しながら調整を進めていることと、正式な案内は準備が整い次第知らせるという内容だった。
「……やっぱり、まだ決まってないんだな」
隣でガレスが少し残念そうに呟いた。彼は用紙を読み終えると、すぐに気持ちを切り替えたように笑った。
「まあ、仕方ないか。俺たち以外にも参加したい奴が多いってことだろ? それだけ面白そうな講習なんだろうし」
「そうだね。人数が多いなら、先生方も調整が大変だと思う」
サザリーはそう言って頷いた。エミリアも、参加できるかどうか分からないのは少し不安だが、結果が出るまでは普段の授業を頑張ろうと話している。
リビアは掲示された内容を最後まで確認し、静かに息をついた。
「まだ少し待つことになりそうね。でも、申し込みが多いのなら、きちんと調整していただいた方がよいわ」
「うん。希望した役割も、全員がそのまま担当できるわけじゃないだろうし」
俺が答えると、彼女は頷いた。
「ええ。どんな役になっても、学べることはあると思うもの」
その言葉は、以前より少し自然に聞こえた。リビアは俺と同じ班になりたいという気持ちを持ちながらも、講習そのものを楽しみにしている。俺もまた、彼女と一緒に過ごせることだけでなく、自分が知らない役割を経験できることに期待していた。
掲示板の前から離れると、レオルが俺たちへ声をかけてきた。
「セス、昨日の下級生のことなんだけど、今日、北側の階段を通ってみたんだ。案内板から図書室へ向かう途中に、少し迷いやすそうな分かれ道があるね」
「そうなんだ。実際に歩いてみたんだね」
「うん。ただ、僕がそう感じただけだから、すぐに問題だと決めるつもりはないよ。もし必要なら、先生に相談してみようと思ってる」
俺は頷いた。レオルが自分で確認してから考えようとしていることに、少し感心した。
「それなら、昨日俺たちが案内したときのことも、必要なら話せるよ。ただ、下級生が迷った理由までは分からないから、そこは決めつけないようにしないとね」
「そうだね。ありがとう」
レオルは嬉しそうに微笑んだ。俺たちはそのあと、学院の門まで一緒に歩き、迎えの馬車が並ぶ場所でそれぞれ別れた。
◇
帰りの馬車の中で、リビアは窓の外を眺めながら、今日の出来事を思い返しているようだった。夕方の光が彼女の横顔を柔らかく照らし、膝の上に置かれた鞄の金具が小さく輝いている。俺は向かいの席でノートを開き、午前の課題で気づいたことを簡単に書き留めていた。
「セス、今日もたくさん学べたわね」
リビアの声に顔を上げると、彼女は穏やかに微笑んでいた。
「うん。みんなで考えると、自分では思いつかなかったことが出てくるんだね」
「ええ。ガレスも、サザリーも、エミリアも、それぞれ違うところを見ていたでしょう? 私、ああいう時間がとても好きになってきたの」
俺は頷き、ノートを閉じた。学院へ通い始めた頃は、授業についていくことや、周囲の貴族たちに迷惑をかけないことばかり考えていたが、今は友人たちと意見を交わす時間が楽しみになっている。
「俺もだよ。ガレスがあんなに真面目に商人役のことを考えてるとは思わなかったし、レオルも案内のことを調べてたし」
「ふふっ。セスも、友人たちの新しい一面を見つけているのね」
リビアはそう言って笑った。俺は少し考えたあと、彼女へ視線を向けた。
「……そうだね。リビアが言ってたこと、少し分かった気がする」
「何のことかしら?」
「知らないところを見つけると、嬉しくなるって話」
リビアは一瞬だけ目を見開いた。それから、ゆっくりと頬を赤くし、嬉しそうに微笑んだ。
「……覚えていてくれたのね」
「もちろん。俺も、リビアのことをもっと知りたいと思ってるから」
俺がそう答えると、彼女は膝の上で両手を重ね、少しだけ俯いた。耳の先まで赤くなっているのが見えたため、俺は何か変なことを言ったのかと心配になったが、彼女の口元には笑みが浮かんでいる。
「……もう。セスは、本当にそういうことを自然に言うのだから」
「え? 何かおかしかった?」
「いいえ。とても嬉しかっただけよ」
リビアはそう言って顔を上げた。彼女の瞳には、少しだけ照れくさそうな光が宿っている。
「私も、あなたのことをもっと知りたいわ。これからも、知らないことが見つかったら、たくさん教えてね」
「うん。俺も、リビアが考えてることを聞かせてほしい」
俺たちは小さく笑い合った。馬車の外では、夕方の街並みがゆっくりと流れていく。学院で過ごした一日は、特別な事件が起きたわけではなかったが、俺にとっては大切な時間になっていた。
◇
屋敷へ戻ると、父さんが玄関広間で俺たちを迎えてくれた。俺たちは挨拶を交わし、学院での授業や公開講習の追加案内について簡単に報告した。
「申し込みが多く、調整が続いているのですね。それなら、結果が出るまで落ち着いて待つのがよいでしょう」
「うん。俺たちもそう思ってる」
「私は少し残念だけれど、きちんと決まるまで待つつもりよ」
リビアがそう答えると、父さんは穏やかに微笑んだ。
「お嬢様が楽しみにされていることは、よく分かります。ただ、希望が多いということは、それだけ多くの生徒が学びたいと考えているのでしょう。よい機会になるといいですね」
リビアは嬉しそうに頷いた。
その後、俺は着替えを済ませ、夕方の仕事へ戻った。裏手の搬入路については、今日も北側の迂回を続けているという報告があり、補修の方針はまだ決まっていない。俺は担当者から必要な情報だけ確認し、自分の仕事へ戻った。
夕食前には、食堂の準備を確認する仕事があった。今朝と同じように、担当者が決まっている作業へ勝手に手を出さないよう注意しながら、必要な確認を進めていく。
仕事を終える頃には、窓の外がすっかり夕焼け色に染まっていた。俺は最後の確認表を引き継ぎ、手を洗ってから夕食の時間へ向かった。
◇
夜、仕事を終えて自室へ戻ると、窓の外には静かな庭園が広がっていた。昼間の風はすっかり弱まり、木々の葉が時折小さく揺れる程度になっている。俺は机へ向かい、今日の授業で取ったノートを開いた。
そこには、複数人で仕事を進める際の役割分担や、責任の所在について書かれている。俺はその内容を読み返しながら、午前の課題で友人たちが出した意見を思い出していた。
ガレスは運ぶ人の安全を考え、サザリーは記録の整理を担当し、エミリアは展示物の扱いに注意を向けていた。リビアは来場者の立場を考え、俺は準備する側の動きを想像していた。
誰か一人が全部考えようとするより、それぞれの得意なことを持ち寄った方が、よりよい方法を見つけられるのかもしれない。
そんなことを考えていると、扉の外から控えめなノックが聞こえた。
「セス、少しいい?」
リビアの声だった。俺は立ち上がり、扉を開けた。
「もちろん。どうしたの?」
リビアは少し照れたように微笑んだ。
「今日のことを、もう少しお話ししたくて。……それに、あなたが何を考えていたのか、聞いてみたくなったの」
俺は頷き、彼女を部屋へ招いた。リビアは机の上のノートを見て、嬉しそうに微笑んだ。
「セスも、今日の授業のことを考えていたのね」
「うん。みんなで考えると、自分では気づかなかったことが見えてくるんだなって」
「私も同じことを思っていたわ」
彼女はそう言って椅子へ腰を下ろした。俺も向かい側へ座り、今日の課題について話し始めた。
しばらく話していると、リビアがふと真剣な表情になった。
「……ねえ、セス。私、今日あなたに一つだけ聞いてみたいことがあるの」
「うん。何かな?」
「あなたは、学院へ通うようになってから、自分が変わったと思う?」
俺は少し考え込んだ。以前の俺なら、あまり変わっていないと答えていたかもしれない。けれど、今は少し違う。
「……変わったところもあると思う。前より、誰かに相談することが増えたし、自分だけで何とかしようとしなくなった気がする」
リビアは静かに頷いた。
「ええ。私もそう思うわ。以前のあなたは、困っている人を見つけると、すぐに自分だけで何とかしようとしていたもの」
「……そうだったね」
「でも、今は私にも相談してくれるし、友人たちの意見も聞いているでしょう? 私、それがとても嬉しいの」
彼女はそう言って微笑んだ。俺はその表情を見ながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
「……ありがとう、リビア」
「ふふっ。お礼を言われるようなことではないわ。私は、あなたが少しずつ変わっていくところを、隣で見ていたいだけだもの」
リビアは少し照れたように笑った。
俺はその言葉を聞き、静かに頷いた。
「俺も、リビアがこれからどんなことを学んでいくのか、隣で見ていたいよ」
その瞬間、彼女の頬がぱっと赤くなった。
「……もうっ。セスは、本当に……!」
リビアは両手で口元を覆い、少し俯いてしまった。俺は何か変なことを言ったのかと心配になったが、彼女の肩が小さく揺れているのを見て、笑っているのだと分かった。
「……そんなにおかしかった?」
「いいえ。嬉しすぎて、少し困っているだけよ」
彼女はそう言って顔を上げた。瞳には柔らかな光が宿っており、俺もつられて笑みを浮かべた。
しばらくして、リビアはそっと手を伸ばしてきた。俺も自然にその手を取り、二人で静かな時間を過ごした。
窓の外では、夜の風が庭園の木々を揺らしている。学院の公開講習では、俺たちが同じ班になるかどうか、まだ分からない。希望した役割を任されるかどうかも、決まっていない。
けれど、今日の俺は、それを少し楽しみに思っていた。
同じ場所にいなくても、互いに学んだことを話せる。違う役割を経験しても、その違いを大切にできる。そして、隣にいる時間には、相手が何を考えているのかを知ろうとすることができる。
それは、俺たちにとって大切なことなのだろう。
リビアは俺の手を握ったまま、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「……でも、セス」
「何?」
「やっぱり、あなたの知らない顔を見つけるのは、私が一番でいたいわ」
俺は思わず笑ってしまった。
「それは、どういう意味?」
「ふふっ。秘密よ。でも、あなたのことをもっと知りたいという気持ちは、誰にも負けないつもりなの」
リビアはそう言って、嬉しそうに微笑んだ。俺はその表情を見ながら、少しだけ照れくさくなった。
「……俺も、リビアのことをもっと知りたいよ」
彼女の表情がぱっと明るくなった。
「……本当?」
「うん。本当」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見ていると、俺まで温かな気持ちになってくる。
俺たちはしばらく、静かな部屋で手を重ねたまま過ごした。
明日もまた、学院で新しい一日が始まる。
公開講習の結果がいつ分かるのかは、まだ知らされていない。
けれど、どのような役割になったとしても、俺は自分の学ぶべきことを大切にしたいと思っていた。
そして、その経験をリビアと分かち合えることが、何より楽しみだった。




