第140話 公爵令嬢様は、俺が隣にいない時間まで独り占めしたいらしい
朝のパウリー公爵邸には、いつもより少し冷たい風が吹いていた。夜の間に雨が降ったらしく、庭園の石畳にはところどころ水が残り、植え込みの葉先から雫が落ちている。俺は食堂へ続く廊下の窓を閉め、朝食の準備が整っていることを確認してから、手元の仕事表へ最後の印をつけた。
厨房からは焼きたてのパンと温かなスープの香りが漂ってくる。使用人たちはそれぞれの担当を終えつつあり、食器を運ぶ者、廊下を整える者、主人たちの予定を確認する者が、互いの動きを妨げないよう静かに行き交っていた。
「セス、こちらはもう終わっていますよ」
配膳担当の使用人に声をかけられ、俺は手にしていた確認表を見直した。食器の数も配置も確認済みであり、これ以上俺が手を出す必要はない。
「ありがとうございます。それなら、あとはお願いします。何か変更があれば、父さんへ報告してください」
「承知しました。学院へ行く準備もあるでしょうから、そちらを優先してくださいね」
俺は礼を言って厨房を離れた。少し前なら、手が空いていることを理由に別の仕事まで探していたかもしれないが、今日はすでに担当が決まっている。誰かが責任を持って進めている仕事へ勝手に手を出さないことも、執事見習いとして覚えなければならないことだった。
廊下を歩いていると、父さん――グレイヴ・シルフィールが、数枚の書類を手に階段の方からやってきた。
「おはようございます、セス。朝の担当は終わりましたか」
「おはよう、父さん。確認表は引き継いだよ。今朝は特に変更もなかった」
「それなら結構です。昨夜の雨で裏手の搬入路がさらに緩んでいる可能性がありますが、そちらは担当者が確認します。あなたが学院から戻るまでに、新しい判断を求める予定はありません」
俺は窓の外へ目を向けた。庭園の土もまだ湿っており、裏手の道がすぐに使えるようになるとは思えない。現在は北側を経由する搬入が続いているものの、補修について正式な許可が出たわけではなかった。
「分かった。帰ってから、必要な報告があれば聞くよ」
「ええ。それで十分です。それより、今日は学院で何か予定がありましたか」
「公開講習の申し込みは昨日済ませたから、今日は普通の授業だと思う。参加者や班分けの発表も、まだ先みたいだし」
父さんは頷き、手元の書類を揃えた。
「そうですか。では、今日も学院での時間を大切にしなさい。仕事のことばかり考えていては、せっかく学べるものを見落としてしまいますよ」
「……うん。気をつける」
父さんはほんの少しだけ笑った。
「それから、お嬢様が今朝は早く支度を済ませておられます。あなたと話したいことがあるそうですよ」
「リビアが?」
「ええ。詳しくはご本人にお尋ねください」
そう言い残して、父さんは仕事へ戻っていった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、少しだけ首を傾げた。
(……昨日も公開講習の話をしたけど、何か新しいことでも思いついたのかな)
リビアが何かを楽しみにしているときの表情は、幼い頃からよく知っている。
ただ、その楽しみが何なのか、俺にはいつも最後まで分からないのだった。
◇
玄関広間へ向かうと、リビアは窓際で一冊の本を開いていた。制服に身を包んだ彼女は、シルバーブルーの髪をいつもどおり丁寧に整え、朝の光を受けながら静かにページをめくっている。
俺の足音に気づくと、彼女はすぐに顔を上げた。
「おはよう、セス。お仕事は終わった?」
「おはよう。うん、朝の担当は終わったよ。リビアは何を読んでたの?」
「学院の案内に関する本よ。昨日の授業で、相手に必要なことを伝える難しさを学んだでしょう? だから、少し気になってしまって」
彼女は本を閉じ、表紙をこちらへ向けた。
そこには、王立学院の建物や施設について紹介する簡単な案内図が描かれていた。
「これ、学院の図書室で借りたもの?」
「いいえ。以前、お父様が学院の行事へ出席されたときにいただいた資料を、書庫から出してもらったの。古いものだから、今の配置と違うところもあるみたいだけれど」
俺は頷いた。
学院の図書室でも、古い案内表示と現在の書架の配置が一致していない場所がある。そちらは司書が確認を進めている途中であり、俺たちが勝手に本を移動させてよいわけではない。
「昔の資料なら、今の案内にそのまま使うのは難しいかもしれないね」
「ええ。だからこそ、どう変わったのか比べてみたいと思ったの」
リビアは楽しそうに微笑んだ。
「それに、昨日の講習の申し込みをしてから、私、少し考えていることがあるのよ」
「どんなこと?」
「セスが普段見ている学院と、私が見ている学院は、同じ場所でも少し違うのではないかしら」
俺は思わず彼女の顔を見た。
リビアは本の表紙へ指先を置き、静かに続ける。
「あなたは廊下の幅や荷物の運びやすさ、どこに人が集まるのかをよく見ているでしょう? 私は人と会う場所や、挨拶をする順番、誰がどの部屋を使うのかを気にすることが多いわ」
「……確かに、そうかもしれない」
「だから、同じ場所を歩いていても、気づくことが違うのではないかと思ったの」
彼女は少しだけ身を乗り出した。
「今日、時間があったら、学院の中を一緒に見てみない?」
俺は少し考えた。
授業の合間や放課後に許可された場所を歩く程度なら、特に問題はないだろう。
「いいよ。ただ、授業に遅れないようにしないとね」
「もちろんよ。私だって、授業を休んでまで歩き回りたいわけではないもの」
リビアは満足そうに頷いた。
それから、少しだけ悪戯っぽい表情になった。
「それにね、セス。今日はあなたに、もう一つ聞いてみたいことがあるの」
「……まだあるの?」
「ふふっ。それは、あとでのお楽しみ」
俺は思わず苦笑した。
どうやら今日も、リビアの考えていることを全部教えてもらえるわけではないらしい。
◇
学院へ到着すると、朝の教室にはいつもどおり賑やかな声が響いていた。
ガレスは机の上に広げたノートを見ながら、サザリーへ何かを説明している。エミリアはその隣で話を聞いており、レオルは窓際の席で地図の載った本を開いていた。
「おはよう、セス! ちょうどよかった!」
俺の姿を見つけるなり、ガレスが大きく手を振った。
「おはよう。どうしたの?」
「昨日の応対練習のことなんだけどさ、俺、商人役を希望しただろ? それで、実際に何を話せばいいのか考えてみたんだよ」
ガレスは得意そうにノートを持ち上げた。
そこには、商品を売る側と買う側のやり取りが、彼なりの言葉で書き込まれていた。
「相手が欲しいものを聞いて、こっちの条件を説明して、それから値段の話をする。どうだ?」
「いいと思うよ。最初から値段だけ決めようとするより、相手が何を求めているか聞いた方がよさそうだね」
「だろ? 昨日エミリアに言われたことを考えてみたんだ」
ガレスは嬉しそうに笑った。
すると、エミリアが少し照れたように首を振った。
「私は、相手の話を聞いてから答えた方がいいかもしれないと言っただけです。ここまで考えたのはガレスさんですよ」
「いや、それが大事だったんだって。俺、一度思いつくと、すぐに話し始めちまうからさ」
その言葉に、サザリーが静かに笑った。
「自覚があるなら、きっと改善できると思うよ。僕も記録係を希望したけれど、ただ書き留めるだけでは足りないんだろうね」
「どういうこと?」
俺が尋ねると、サザリーはノートの端へ指を置いた。
「相手が何を言ったのか正確に残すことはもちろんだけど、あとで読む人が理解できるようにする必要もあるでしょう? 情報を省きすぎても困るし、全部書けばいいというわけでもない」
俺はその説明を聞き、屋敷での記録について考えた。
以前、搬入に関する記録を確認したときも、時刻の意味が違うことを理解するまで、数字だけでは状況が分からなかった。
「確かに。何を記録したのか分からないと、あとで困ることもあるよね」
「うん。だから、今回の講習で何か学べたらいいと思ってる」
サザリーはそう言って微笑んだ。
そのとき、レオルが本を閉じてこちらへ近づいてきた。
「僕も少し考えていたんだけど、案内役や移動の管理をする役があったら面白そうだよね。建物の位置を知っていても、相手がどこから来るかで説明の仕方が変わるから」
リビアが興味深そうに顔を上げた。
「それ、私も今朝考えていたの。学院の中を案内するとき、相手によって必要な情報が違うのではないかしら」
「そうですね。初めて来た人なら、建物の名前だけでは分からないかもしれません」
レオルは頷き、机の上へ簡単な地図を広げた。
それは現在の学院の主要な建物を示したもので、教室棟、図書室、訓練場、食堂などが描かれている。
「例えば、ここから図書室へ行く場合、慣れている人なら建物の名前だけで分かります。でも、初めて来た人には、どの階段を使うかまで説明した方がいいと思うんです」
俺は地図を覗き込んだ。
確かに、学院には似たような廊下や階段がいくつもある。
入学したばかりの頃は、俺も場所を覚えるまで何度か遠回りした。
「……なるほど。案内する側が分かっていても、相手が同じように分かるとは限らないんだね」
「そういうことです」
レオルは嬉しそうに頷いた。
俺たちはしばらく地図を囲んで話していたが、授業開始の鐘が鳴ったため、それぞれ席へ戻ることになった。
◇
午前の授業では、学院の施設利用に関する説明が行われた。
教師は黒板へいくつかの建物の名前を書き、各施設を利用するときの基本的な規則を確認していく。
俺はノートを取りながら、朝にリビアやレオルと話したことを思い出していた。
学院の中を歩くことは、普段なら特別なことではない。
けれど、初めて来る人の立場で考えると、分かりにくい場所もあるのかもしれない。
授業の途中、教師が生徒たちへ問いかけた。
「では、学院を初めて訪れた方が、図書室へ行きたいと申し出た場合、どのように案内するべきでしょうか」
俺は少し考えた。
単純に道順を説明するだけなら難しくない。
けれど、相手が学院の建物をどこまで知っているかによって、必要な説明は変わるだろう。
教師が何人かの生徒を指名すると、さまざまな答えが出た。
建物の位置を説明する。
近くまで同行する。
案内図を使う。
それぞれに理由があり、教師は答えを聞きながら黒板へ要点を書き加えていった。
やがて、俺にも意見を求められた。
「シルフィール君は、どう考えますか」
「はい。まず、相手が学院の建物をどの程度知っているか確認すると思います。そのうえで、必要なら案内図を使って説明します」
「なるほど。では、相手が道を覚えるのが苦手だと申し出た場合は?」
「自分が案内できる立場なら同行する方法もあると思います。ただ、持ち場を離れられない場合は、勝手に移動せず、案内を担当できる人へ引き継ぐべきだと思います」
教師は静かに頷いた。
「よいですね。案内することだけでなく、自分の役割を守ることも重要です」
俺は礼を言い、席へ戻った。
そのあと、教師は一つの例を示した。
案内役の生徒が、自分の担当場所を離れて訪問者を連れていった結果、別の訪問者が誰にも対応してもらえなくなった場合、どうするべきだったのかという問題だった。
俺はその説明を聞きながら、少し考え込んだ。
(……困っている人を助けること自体は大切だけど、それで別の人が困るなら、方法を考えないといけないんだな)
昨日の応対練習でも、相手の事情を聞くことと、自分の権限を守ることの両方が大切だと学んだ。
今日の授業は、それをさらに具体的に考える内容だった。
◇
昼休みになると、俺たちは食堂で昼食を済ませたあと、中庭へ向かった。
朝の雨で石畳の一部はまだ湿っていたが、日当たりのよい場所はすでに乾いている。噴水の近くでは数人の生徒が談笑しており、木々の間を抜ける風が少し冷たく感じられた。
リビアは歩きながら、俺へ顔を向けた。
「セス。今朝のお話、覚えている?」
「学院の中を一緒に見てみたいって話?」
「ええ。今なら少し時間があるけれど、どうかしら」
俺は時計を確認した。
午後の授業まではまだ余裕がある。
ただし、学院の敷地は広いため、遠くまで行けば戻るのに時間がかかる。
「それなら、教室棟の周りだけにしようか。授業に遅れるわけにはいかないし」
「そうね。それで十分よ」
リビアは嬉しそうに頷いた。
俺たちは中庭から続く廊下へ入り、普段よく使う場所をゆっくり歩き始めた。
最初に立ち止まったのは、教室棟の入口だった。
そこには学院の案内板が設置されており、主要な施設の名前と方向が示されている。
「セス。この案内板を見て、何か気づくことはある?」
リビアに尋ねられ、俺は少し考えた。
案内板自体は見慣れている。
けれど、改めて確認すると、文字の大きさや矢印の向きなど、普段は意識していなかった部分が目に入った。
「……入口から見ると、少し右側に寄ってるね。人が多い時間だと、立ち止まって読む人と通る人が重なるかもしれない」
俺が答えると、リビアは興味深そうに頷いた。
「なるほど。私は、案内板の内容が初めて来た人にも分かるかどうかを考えていたわ」
「どういうこと?」
「建物の名前は書いてあるけれど、どのような用事で使う場所なのかまでは分からないでしょう? 学院に慣れていない人なら、名前だけでは迷うかもしれないわ」
俺はもう一度案内板を見た。
確かに、建物の名前を知っていることが前提になっている部分もある。
「……そうだね。俺は通りやすさばかり見てた」
「ふふっ。私は通る人のことまで考えていなかったわ」
リビアは楽しそうに笑った。
俺も思わず笑みを浮かべた。
同じ案内板を見ていても、気づくことが違う。
それが、思っていた以上に面白かった。
次に向かったのは、教室棟の北側にある階段だった。
ここは普段から多くの生徒が利用する場所で、授業の入れ替わり時には人の流れが集中する。
俺は階段の幅や踊り場の位置を確認し、リビアは掲示されている注意書きへ目を向けた。
「この階段、急いでいるときは少し危ないかもしれないね」
「そうね。特に、荷物を持っている人とすれ違うときは注意が必要だわ」
俺たちはそう話しながら、階段の下まで移動した。
すると、少し離れた場所で、一人の下級生が立ち止まっているのが見えた。
手には数冊の本を抱えており、周囲を見回しながら困ったような顔をしている。
俺は足を止めた。
リビアもすぐに気づいたようだった。
「……あの子、何か困っているのかしら」
「そうみたいだね。声をかけてみようか」
俺たちは近づき、相手が驚かない程度の距離で立ち止まった。
「こんにちは。何か困ってる?」
俺が声をかけると、下級生はびくりと肩を揺らした。
それから、俺たちの制服を見て慌てて頭を下げる。
「あ、あの、すみません! 図書室へ行きたいんですけど、道が分からなくなってしまって……」
俺は少し驚いた。
図書室はここからそれほど遠くない。
けれど、初めて来た人には分かりにくい場所なのかもしれない。
「大丈夫だよ。今、どこから来たの?」
俺が尋ねると、下級生は少し考えてから答えた。
「教室から出て、案内板を見たんです。でも、途中でどっちの階段を使うのか分からなくなって……」
俺は頷いた。
案内板には図書室の方向が示されているが、途中の階段については詳しく書かれていない。
リビアは下級生が抱えている本へ目を向けた。
「その本は、図書室へ返しに行くものなの?」
「はい。今日までに返すように言われていて……」
下級生は少し不安そうに答えた。
俺は時計を確認した。
昼休みの残り時間を考えれば、図書室の入口まで案内して戻ることはできそうだった。
ただし、俺たちが勝手に図書室の中まで入り、本の返却手続きを代わりに行う必要はない。
「それなら、入口まで一緒に行こうか。俺たちも途中まで同じ方向だから」
俺がそう言うと、下級生の表情がぱっと明るくなった。
「本当ですか? ありがとうございます!」
リビアも穏やかに微笑んだ。
「慌てなくて大丈夫よ。歩きながら、帰りの道も覚えられるようにしましょう」
下級生は大きく頷いた。
俺たちは歩調を合わせ、図書室へ向かって歩き始めた。
◇
図書室へ向かう途中、下級生は何度か周囲の景色を確かめていた。
俺は曲がり角へ来るたびに、どの方向へ進むのかを説明した。
リビアはその説明へ補足を加え、目印になる窓や掲示板の位置を教えている。
「ここを曲がると、右側に大きな窓があるでしょう? 帰るときは、その窓を目印にすると分かりやすいと思うわ」
「はい。覚えておきます」
下級生は真剣な顔で頷いた。
俺はその様子を見ながら、少しだけ考えた。
道を教えるとき、俺はつい最短の経路を説明しようとする。
けれど、相手が道を覚えることを考えるなら、分かりやすい目印を使う方がよい場合もある。
「……リビアの説明、分かりやすいね」
俺が小声で言うと、彼女は少しだけ頬を赤くした。
「ありがとう。でも、セスが道順を教えてくれているからよ。私は目印を付け加えているだけだもの」
「それが助かるんだよ」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
やがて、図書室の入口が見えてきた。
下級生は安心したように息を吐き、俺たちへ深く頭を下げた。
「本当にありがとうございました。帰りは、教えてもらった道を通ってみます」
「うん。もしまた分からなくなったら、無理に歩き回らず、近くの先生や職員の人に聞いてね」
「はい!」
下級生は元気よく返事をし、図書室の中へ入っていった。
俺たちはその姿を見届けてから、教室棟へ戻ることにした。
図書室の入口近くには、以前から確認が進められている古い案内表示があった。
俺は一瞬そちらへ目を向けたが、今も司書が調査を担当している以上、勝手に手を加えるつもりはない。
リビアも同じことを考えたらしく、静かに口を開いた。
「古い案内のことも、まだ確認中なのよね」
「うん。司書の人が調べてくれてる。俺たちが勝手に直すわけにはいかないしね」
「そうね。でも、今日のように迷う人がいることは、必要なら先生方へ伝えてもいいかもしれないわ」
「うん。事実として伝えるなら、役に立つかもしれない」
俺たちはそう話しながら、廊下を戻り始めた。
その途中、リビアがふと足を止めた。
「……ねえ、セス」
「どうしたの?」
「今日、あなたと一緒に歩いてみて、少し分かったことがあるわ」
俺は彼女の顔を見た。
リビアは穏やかに微笑んでいる。
「あなたは、困っている人を見つけると、すぐに助けようとするでしょう?」
「……そうかな」
「ええ。でも、今日は私にも相談してくれたわね」
その言葉に、俺は少し驚いた。
確かに、下級生へ声をかける前、俺はリビアと一緒にどうするか考えた。
以前なら、彼女に何も言わず、自分だけで動いていたかもしれない。
「……言われてみれば、そうかもしれない」
「私、それが嬉しかったの」
リビアは少しだけ頬を赤くした。
「あなたが誰かを助けることは、私も素敵だと思うわ。でも、私も一緒に考えられるなら、もっと嬉しいの」
俺は静かに頷いた。
「うん。俺も、リビアがいてくれて助かったよ」
彼女の表情が明るくなった。
俺たちは小さく笑い合い、午後の授業へ向かって歩き始めた。
◇
午後の授業が終わる頃には、朝の雨の名残もほとんど消えていた。
窓の外には淡い夕日が差し込み、校舎の壁を柔らかく照らしている。
俺は授業で使ったノートを鞄へしまいながら、今日の出来事を思い返していた。
案内板を見て気づいたこと。
リビアと一緒に学院を歩いたこと。
そして、道に迷っていた下級生を図書室まで案内したこと。
どれも大きな出来事ではない。
けれど、普段とは少し違う視点で学院を見ることができた一日だった。
「セス、帰りましょう?」
リビアに声をかけられ、俺は顔を上げた。
「うん。準備できたよ」
俺たちは教室を出て、学院の門へ向かった。
途中、ガレスたちと合流すると、昼休みに下級生を案内した話になった。
「へえ、そんなことがあったのか」
ガレスは興味深そうに頷いた。
「俺だったら、図書室まで走って連れていっちまうかもしれないな」
「それだと、帰りの道を覚えられないかもしれないよ」
サザリーがそう言うと、ガレスは少し考え込んだ。
「……確かに。案内するだけじゃなくて、相手が次に困らないようにするのも大事なんだな」
エミリアも静かに頷いた。
「私も、道を聞かれたら目印を使って説明してみようと思います。自分が知っている道でも、初めての人には分かりにくいことがありますものね」
レオルはさらに興味を示した。
「どの階段で迷ったのか、少し気になりますね。案内板の情報だけでは分かりにくい場所があるのかもしれません」
俺は昼休みに通った経路を簡単に説明した。
レオルは真剣に聞いていたが、すぐに何かを変えようとはしなかった。
「なるほど。まずは、ほかにも同じ場所で迷う人がいるのか確認した方がよさそうですね」
「そうだね。今日の一件だけで、案内板が悪いって決めるわけにはいかないし」
俺が答えると、レオルは頷いた。
その後、俺たちは門の前で別れ、それぞれ帰路についた。
◇
帰りの馬車の中で、リビアは少しだけ疲れたように背もたれへ体を預けていた。
けれど、その表情は穏やかで、窓の外を眺める目には楽しそうな光が残っている。
「今日は、思っていたよりたくさん歩いたわね」
「そうだね。昼休みだけだったけど、普段は気にしていない場所まで見られた気がする」
「ええ。私も、あなたがどんなところを見ているのか少し分かったわ」
リビアはそう言って、俺へ顔を向けた。
「セス。今日、私が聞きたかったもう一つのこと、覚えている?」
俺は少し考えた。
朝、彼女は学院の中を一緒に歩きたいと言ったあと、もう一つ聞きたいことがあると話していた。
「……ああ、そういえば。何だったの?」
リビアは少しだけ頬を赤くした。
それから、膝の上で両手を重ね、真剣な表情になった。
「もし、公開講習で私たちが別々の班になったら……あなたは、私がいない時間をどう思うのかしら」
俺は思わず目を瞬かせた。
「どうって……講習のことを考えると思うけど」
「そ、それはそうでしょうけれど……!」
リビアは少し慌てたように身を乗り出した。
俺は彼女の反応を見て、ようやく質問の意味を考え始めた。
彼女が聞きたいのは、講習中に何をするかということではないのだろう。
「……リビアと一緒じゃないのは、少し寂しいと思うよ」
俺がそう答えると、彼女の動きが止まった。
「……本当?」
「うん。でも、リビアが別の班で頑張ってるなら、俺も自分の役をちゃんとやろうと思う」
リビアはしばらく俺を見つめていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……そう。それなら、私も同じよ」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「あなたと一緒にいられない時間は、きっと少し寂しいと思うわ。でも、その時間まで全部嫌だと思いたくはないの」
俺は静かに頷いた。
リビアは続けた。
「だって、あなたが私の知らないことを学んで、あとで話してくれるのも楽しみでしょう? 私も、あなたに教えられることが増えるかもしれないもの」
その言葉に、俺は自然と笑みを浮かべた。
「うん。俺もそう思う」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
それから、少しだけ悪戯っぽい表情になる。
「……でも、セス」
「何?」
「できれば、あなたが私のいない時間を少しだけ寂しいと思ってくれたら、もっと嬉しいわ」
俺は思わず笑ってしまった。
「さっき、寂しいって言っただろ」
「ええ。でも、もう一度聞きたくなってしまったの」
リビアは照れくさそうに笑った。
俺は少しだけ頬が熱くなるのを感じながら、彼女の顔を見た。
「……リビアがいないと、少し寂しいよ」
その瞬間、彼女は両手で口元を覆った。
「……もうっ。そんなに真っ直ぐ言わなくてもいいのに……!」
「リビアが聞いたんじゃないか」
「そ、それはそうだけれど……!」
彼女は困ったように笑った。
俺もつられて笑ってしまう。
馬車の中には、穏やかな時間が流れていた。
◇
屋敷へ戻ると、父さんが玄関広間で迎えてくれた。
俺たちは挨拶を交わし、学院での出来事を簡単に報告した。
リビアは特に、昼休みに下級生を案内したことを楽しそうに話していた。
「グレイヴ。今日はセスと一緒に、学院の中を少し歩いてみたの。そうしたら、道に迷っている子がいてね」
「それは、よい経験をされましたね」
父さんは穏やかに頷いた。
「案内する際には、相手がどこまで理解しているかを確かめることが大切です。お二人で協力して対応されたのであれば、なおよかったのでしょう」
「ええ。セスが道順を説明して、私が目印を教えたのよ」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
俺も頷いた。
「一人で説明するより、分かりやすかったと思う」
父さんは少しだけ目を細めた。
「なるほど。お二人とも、昨日の授業で学んだことを生かせたようですね」
俺はその言葉に、少しだけ照れくさくなった。
実際には、特別なことをしたわけではない。
ただ、困っている下級生に声をかけ、図書室まで案内しただけだ。
けれど、父さんの言葉を聞くと、それも大切な経験だったのだと思えた。
その後、俺は着替えを済ませ、夕方の仕事へ戻った。
屋敷の裏手の搬入路については、担当者から状況の報告があったものの、補修の方針はまだ決まっていない。
俺は必要な情報だけ確認し、自分の担当へ戻った。
◇
夜、仕事を終えて自室へ戻ると、窓の外には静かな庭園が広がっていた。
昼間の雨の名残なのか、木々の葉にはまだ小さな雫が残っている。
俺は机へ向かい、今日の授業で取ったノートを開いた。
そこには、案内する相手の立場を考えることや、自分の担当を守ることについて書かれている。
俺はその内容を読み返しながら、昼休みに出会った下級生のことを思い出していた。
彼は図書室へ行く道が分からず、困っていた。
俺たちが案内したことで、無事に入口までたどり着くことができた。
けれど、それ以上に印象に残っているのは、リビアが目印を使って説明していたことだった。
俺は道順を知っていた。
リビアは、相手が道を覚えるために必要なことを考えていた。
どちらか一方だけでは、気づけなかったことがあったのかもしれない。
そんなことを考えていると、扉の外から控えめなノックが聞こえた。
「セス、少しいい?」
リビアの声だった。
俺は立ち上がり、扉を開けた。
「もちろん。どうしたの?」
リビアは少し照れたように微笑んだ。
「今日のことを、もう少しお話ししたくて」
俺は頷き、彼女を部屋へ招いた。
リビアは机の上のノートを見て、嬉しそうに微笑んだ。
「セスも、今日のことを考えていたのね」
「うん。案内するって、思ってたよりいろいろ考えることがあるんだなって」
「私もよ」
彼女はそう言って、椅子へ腰を下ろした。
俺も向かい側へ座る。
しばらく今日の出来事について話していると、リビアがふと真剣な表情になった。
「……ねえ、セス」
「うん?」
「私、今日あなたと一緒に歩いていて、少しだけ寂しくなったの」
俺は思わず顔を上げた。
「寂しく?」
「ええ。あなたは学院の中でも、いろいろなことを見ているでしょう? 困っている人がいれば気づくし、誰かが何かを運んでいれば、通りやすいかどうかまで考えている」
リビアは静かに続けた。
「それなのに、私はあなたが何を見ているのか、まだ知らないことがたくさんあるのだと思ったの」
俺は少し考え込んだ。
彼女の言葉には、責めるような響きはなかった。
ただ、もっと知りたいという気持ちが込められているように感じた。
「……俺も、リビアが何を考えてるか分からないことはあるよ」
俺が答えると、彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。
「本当?」
「うん。今日だって、案内板を見たとき、俺は通りやすさばかり考えてた。でも、リビアは初めて来た人が分かるかどうかを考えてたんだろ?」
リビアはゆっくりと頷いた。
「……そうね」
「だから、知らないことがあるのは、お互い様なんじゃないかな」
俺は少し笑った。
「全部同じことを考えてる必要はないと思う。違うことに気づいたら、こうして話せばいいんだし」
リビアはしばらく俺を見つめていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……セス。あなたは、そういうところが本当にずるいわ」
「え?」
「私が少し寂しいと思っていたことを、そんなふうに安心できる言葉へ変えてしまうのだもの」
彼女は頬を赤くしながら笑った。
俺は少し照れくさくなった。
「……別に、そんな大したことは言ってないよ」
「いいえ。私には、とても大切なことよ」
リビアはそう言って、そっと手を伸ばしてきた。
俺も自然にその手を取る。
彼女の手は温かかった。
「……ねえ、セス。これからも、あなたが見ているものを私に教えてくれる?」
「もちろん。リビアも、気づいたことを教えてほしい」
「ええ。約束するわ」
俺たちは小さく笑い合った。
窓の外では、夜の風が庭園の木々を静かに揺らしている。
学院の公開講習では、俺たちが同じ班になるかどうか、まだ分からない。
希望した役割を任されるかどうかも、決まっていない。
けれど、今日の俺は、それを少し楽しみに思っていた。
同じ場所にいなくても、互いに学んだことを話せる。
違う役割を経験しても、その違いを大切にできる。
そして、隣にいる時間には、相手が何を見ているのかを知ろうとすることができる。
それは、俺たちにとって大切なことなのだろう。
リビアは俺の手を握ったまま、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「……でも、セス」
「何?」
「やっぱり、できるだけ長くあなたの隣にいたいという気持ちは変わらないわ」
俺は思わず笑ってしまった。
「それは、俺も同じだよ」
彼女の表情がぱっと明るくなった。
「……本当?」
「うん。本当」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見ていると、俺まで温かな気持ちになってくる。
俺たちはしばらく、静かな部屋で手を重ねたまま過ごした。
明日もまた、学院で新しい一日が始まる。
公開講習の結果がいつ分かるのかは、まだ知らされていない。
けれど、どのような役割になったとしても、俺は自分の学ぶべきことを大切にしたいと思っていた。
そして、その経験をリビアと分かち合えることが、何より楽しみだった。




