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第139話 公爵令嬢様は、俺と同じ役を選べないことが不満らしい


 朝のパウリー公爵邸は、まだ眠気を残したような薄い光に包まれていた。厨房の奥では焼きたてのパンが籠へ移され、食堂へ続く廊下には磨き上げられた床板の匂いがかすかに漂っている。俺は朝食用の食器の数を確認し、記録表に最後の印をつけてから、配膳担当の使用人へそれを手渡した。


「こちらは確認済みです。今朝の変更はありませんでした。あとの配置はお願いします」


「ありがとうございます、セス様。こちらで引き継ぎますね」


 相手が受け取ったことを確かめ、俺は作業台の脇を離れた。少し前の俺なら、そのまま食堂まで運んでしまったかもしれないが、今日はすでに担当者が決まっている。仕事を奪わずに引き継ぐという当たり前のことが、俺には案外難しかったのだと、最近になってようやく分かってきた。


 廊下へ出ると、父さん――グレイヴ・シルフィールが壁際の時計を見ながら歩いてきた。パウリー公爵家の執事長である父さんは、朝から複数の部署の報告を受けているはずなのに、制服の襟にも歩き方にも乱れがない。


「おはようございます、セス。食堂の確認は終わりましたか」


「おはよう、父さん。確認表は担当の人に渡したよ。俺の作業は終わってる」


「結構です。では、学院へ向かうまでの時間は自分の支度に使いなさい。今日から公開講習の申し込みが始まるのでしょう」


 父さんの言葉に、俺は頷いた。昨日学院で案内された公開講習は、礼法と実務を題材に、異なる役割の人間がどう協力するかを学ぶ催しだ。参加は希望制で、人数によっては調整が入り、模擬応対の役割も希望どおりになるとは限らないという。


「うん。俺も申し込むつもり。普段とは違う立場を経験できるなら、勉強になりそうだし」


「よい心掛けです。ただし、管理者役を経験するなら、指示を出すことばかりに気を取られないように。管理する者は、判断の結果を引き受ける立場でもあります」


「……まだ役が決まったわけじゃないけど、覚えておくよ」


 父さんは穏やかに頷いたあと、手元の書類を一枚めくった。屋敷の裏手にある搬入路は、雨で地面が緩んでから通行が制限されたままだ。北側への迂回が続いており、補修の許可が出たという話も聞いていない。


「裏の道は、今朝も立ち入りを控えるように伝えてあります。あなたが学院へ行っている間も、担当者が状況を見ますから心配は要りません」


「分かった。何かあったら、帰ってから正式な報告を聞くよ」


「それで十分です。今は学院でしか学べないことにも目を向けなさい」


 そう言って父さんが歩き去ると、俺は階段へ向かった。使用人としての仕事を大切に思う気持ちは変わらないが、学院で学ぶ時間も今の俺に与えられた大切な役割なのだろう。リビアが昨日、俺の隣にいたいと真っ直ぐ言ってくれたことを思い出すと、胸の奥に小さな温かさが戻ってきた。


     ◇


 朝食を終えて馬車へ乗り込むと、向かいの席に座ったリビアが、待ちかねていたように案内用紙を広げた。シルバーブルーの髪はいつもどおり丁寧に整えられ、窓から射す光を受けるたびに柔らかな色を変えている。彼女は俺の顔を見て微笑んだあと、紙の一角を指で押さえた。


「セス、今日から申し込みが始まるのよね。私は模擬応対まで希望するつもりだけれど、あなたはどうするの?」


「俺も同じ。見学だけでも勉強にはなると思うけど、せっかくなら実際にやってみたい」


「よかった。では、二人とも参加できたら嬉しいわね」


 リビアはそう言いながら、もう一度注意事項へ目を落とした。希望する役割を書ける欄はあるが、班も配役も講習側が決めるらしい。彼女の指がその一文の上で止まり、微笑みがわずかに考え込む表情へ変わった。


「ねえ、セス。もし私が使用人役で、あなたが屋敷の主人役になったら、どんなふうになると思う?」


「……それは、俺がかなり緊張すると思う。リビアにお茶を出してもらっても、つい自分で片づけそうだし」


「ふふっ。それでは練習にならないでしょう? 私は一度、あなたが普段どれだけ周りを見ているのか、自分の側から確かめてみたいの」


 楽しそうな声だったが、冗談だけではないらしい。彼女は公爵令嬢として多くのことを学んでいる一方、俺が使用人として過ごす時間の細部まで知っているわけではない。俺だって、彼女が人前で気を配る相手の多さや、言葉一つに込める責任を完全に理解しているとは言えなかった。


「じゃあ、俺は管理する側を希望してみようかな。父さんの仕事を見ていても、何を優先するか決めるのは難しそうだから」


「それは素敵ね。……でも、同じ班になれるかしら」


 リビアの声が、そこで少しだけ弱くなった。紙を畳む手つきは丁寧なままだったが、視線だけが俺の反応を探るように揺れている。


「まだ分からないよ。別々でも、終わったあとに何をしたか話せるだろ?」


「分かっているわ。講習のために集まるのだから、私の希望だけを通すつもりはないもの。ただ……セスと一緒なら、知らない役でも少し安心できると思ったの」


 その言い方が素直だったので、俺は笑う代わりに彼女へ頷いた。隣にいたいという気持ちと、学ぶために別の場所へ立つ必要があるという判断は、どちらか一つしか持てないものではない。


「俺もリビアと同じ班なら嬉しい。でも、もし別々になったら、そのぶん帰りの馬車でたくさん話そう」


「……約束よ。どちらの班が面白かったか、比べるのも楽しそうね」


 リビアはようやく紙を膝へ置き、窓の外を見た。学院の門が近づく頃には、彼女の表情もすっかり明るくなっていた。


     ◇


 教室へ入ると、ガレスが椅子の背に片腕を掛け、サザリーと熱心に話していた。机の上には公開講習の案内が広げられており、エミリアも近くでその内容を読んでいる。俺たちが挨拶すると、ガレスはすぐに顔を上げた。


「おはよう、セス! お前も模擬応対に出るんだろ? 俺は商人役ってやつをやってみたいんだよな。値段を交渉する場面とかあったら面白そうだろ」


「おはよう。何をするかはまだ分からないけど、ガレスなら勢いよく交渉しそうだね」


「そこが心配なんだよ」とサザリーが笑う。「相手の話を最後まで聞く前に条件を出したら、商談が成立する前に終わってしまうかもしれないからね」


 ガレスは抗議しかけたが、エミリアが穏やかに口を挟んだ。彼女は人と話す練習になるから参加したいと言い、相手が困っていることを聞き取る役にも興味があるらしい。ガレスはそれを聞いて、勢いだけでは駄目なのかと真剣に考え始めた。


「僕は記録係か、連絡をまとめる役が気になるかな」とサザリーが言った。「一人の判断で全部決めるより、複数の情報を整理するほうが性に合っていると思う」


「それなら、レオルも好きそうだね。地図を見ながら移動の順番を考える課題があったら、きっと強いよ」


 俺がそう言うと、ちょうど教室へ入ってきたレオルが自分の名前に気づいて足を止めた。話の内容を聞いた彼は、案内用紙の実務演習という文字を覗き込み、配送経路を扱うなら参加したいと目を輝かせた。ただし実際に何を扱うかはまだ不明で、俺たちは勝手に期待を膨らませすぎないよう笑い合った。


 その会話の間、リビアはみんなの希望を興味深そうに聞いていた。自分が使用人役を希望すると伝えると、ガレスは思わず声を大きくし、エミリアは驚きながらも「それは私も見てみたいです」と微笑んだ。


「リビア様が給仕役で、セスが主人役になったら、絶対に面白いですよ!」


「ガレス、あくまで勉強の場だからね」とサザリーが釘を刺す。「それに二人が同じ班になるとは限らないんだ」


「ええ、分かっているわ」とリビアが答えた。声は落ち着いていたものの、俺の袖へ一瞬だけ視線を落としたのを見て、エミリアが小さく笑みをこぼした。


 そこへ朝の授業開始を告げる鐘が鳴り、教室のざわめきが少しずつ収まった。俺たちは席へ戻り、机の上の案内を鞄へしまった。今日の申し込みがどうなるかはまだ分からないが、友人たちもそれぞれ違う理由で参加したがっていると知り、講習への興味がいっそう強くなった。


     ◇


 午前の授業が終わると、担当教師が教室前方に受付を設けた。生徒たちは順番に用紙を受け取り、参加希望と模擬応対の有無、経験してみたい役割を書き込んでいる。窓の外から聞こえる昼前の鐘の音に混じって、紙をめくる音や、どの役がよいか相談する声が広がっていた。


 俺は名前と学年を記入し、模擬応対への参加希望に印をつけた。希望役は「屋敷の管理者」と書いたが、具体的な課題がまだ決まっていない以上、選ばれる保証はない。リビアは隣で少し考えてから「使用人」と丁寧な字で書き、用紙を持ち上げて俺に見せた。


「本当にその役にしたんだね。給仕だけじゃなく、いろいろな仕事を頼まれるかもしれないよ」


「それも含めて経験してみたいの。もちろん、本当のお仕事と短い講習が同じではないことは分かっているわ」


 俺は頷き、二人で列へ並んだ。前にいた生徒は役の希望を空欄にしており、教師からそれでも問題ないと説明を受けていた。別の生徒は実演の見学だけを希望していたが、こちらも同じように受け付けられている。


 俺たちの番になると、教師は用紙を一枚ずつ確認した。名前と希望欄へ目を通し、リビアの記入を見たところで少し眉を上げたものの、何かを否定する様子はなかった。


「パウリーさんは使用人役を希望するのですね。シルフィール君は管理者役。どちらも参考として受け付けますが、班と役割は講習側で調整します」


「承知しております。よろしくお願いいたします」とリビアが答えた。


「それから、参加希望が多い場合は模擬応対を見学へ変更してもらう可能性があります。最終的な案内は学院から出しますので、申し込みだけで参加確定とは考えないでください」


 教師の説明に俺たちは揃って頷いた。申し込みが済んだからといって、当日の予定まで決まったわけではない。用紙を提出して列を離れると、リビアはほっとしたように息をつき、それから俺を見上げた。


「まずは一歩前進ね。……ただ、私は少し欲張りだったかもしれないわ」


「どうして?」


「使用人役を希望した理由の半分くらいは、セスがいつもしていることを知りたいから。でも、残りの半分は、あなたにお仕えする役になれたら楽しそうだと思ったからなの」


 人通りのある廊下でそんなことを真面目に言われ、俺は返事に詰まった。リビアは俺の顔を見て、ほんの少しだけ悪戯っぽく目を細めている。公爵令嬢らしい落ち着いた姿勢を崩していないのに、その表情だけは幼い頃からよく知っている彼女のものだった。


「……それ、周りに聞かれたら変な誤解をされるよ」


「どんな誤解かしら。私が婚約者の仕事に興味を持っているということ?」


「いや、そうじゃなくて……もう、分かって言ってるだろ」


 俺が小声で答えると、リビアは笑いをこらえるように口元へ指を添えた。そこへガレスたちが申し込みを終えて戻ってきたため、彼女は何事もなかったように姿勢を正した。俺だけが妙に落ち着かないまま昼食へ向かうことになり、ガレスから「顔、赤くないか」と聞かれてしまった。


     ◇


 昼食後の廊下では、申し込みを済ませた生徒たちが講習の話を続けていた。食堂から教室へ戻る途中、俺たちは昨日、公開講習への参加について声をかけてきた男子生徒とすれ違った。相手は足を止めて軽く会釈し、俺も礼を返したが、以前のように人目を集めるやり取りにはならなかった。


 彼は昨日、自分の発言について謝ってくれた。だからといって考え方がすべて同じになったわけではないだろうし、俺もそれを求めるつもりはない。挨拶を交わしてそれぞれの用事へ戻れることが、今はむしろありがたかった。


 少し先まで歩いたところで、エミリアが静かに声をかけてきた。彼女は周囲の生徒に聞こえないよう声を抑えながら、昨日のことが気になっていたのだと話した。


「今日、普通に挨拶できてよかったですね。私、また何か言われたらどうしようって、少し心配していたんです」


「ありがとう。昨日は向こうからも話してくれたし、今のところ大丈夫だよ」


「そうですね。私も、気にしすぎないようにします」


 エミリアはほっとしたように微笑んだが、その後ろではガレスが腕を組んでいた。彼は何か言いたそうだったものの、サザリーに肩を軽く叩かれると、結局「講習では俺もちゃんと話を聞くようにする」とだけ言った。


 その返事にエミリアが笑い、俺もつられて笑ってしまった。相手への敬意は、きれいな言葉を使うことだけではない。余計な対立を作らずに同じ場所で学べるようにすることも、その一つなのかもしれない。


     ◇


 午後は礼法と社会制度を扱う授業だった。教室の前には訪問者用の椅子と受付を模した机が置かれ、教師がそこを使って短い応対の例を示している。窓際では風が紙を揺らしていたが、授業が始まると生徒たちの視線は自然と教壇へ集まった。


「予定にない訪問者が、屋敷の責任者に会いたいと申し出たとします。受付を担当する者は、何を確認すべきでしょうか」


 教師の問いに、数人の生徒が手を上げた。訪問者の名前や用件、約束の有無を確かめるという意見が出ると、教師はそれぞれの答えを黒板へ書き加えた。俺も考えをまとめてから手を上げた。


「シルフィール君、どうぞ」


「訪問者の話を聞いたうえで、自分の権限で案内できるか確認します。判断できない場合は責任者へ取り次ぎますが、その間にどこで待っていただくかも、屋敷の決まりに従って説明する必要があると思います」


「よいですね。では、訪問者が高い身分を名乗り、すぐに通すよう要求した場合は?」


「身分を尊重することと、確認を省くことは別だと思います。失礼のない言葉で事情を説明し、必要な相手へ連絡します」


 教師は頷き、黒板へ「敬意」と「権限」という二つの言葉を書いた。相手に礼を尽くしながらも、勝手な判断をしないことが大切なのだという説明を聞き、俺は父さんの仕事ぶりを思い出した。屋敷の門を通すという単純に見える行為にも、誰が責任を持つのかという問題が含まれている。


 その後、生徒たちは二人一組になって受付役と訪問者役を交代した。俺の相手はサザリーで、最初は俺が受付を担当することになった。彼は用件をわざと曖昧に伝え、こちらが何を確認するか試すような設定を選んでいた。


「公爵家の方にお渡ししたいものがあるのですが、すぐに取り次いでいただけますか」


「恐れ入ります。どなたへのお届け物でしょうか。お名前と、先方へご連絡済みかどうかを伺ってもよろしいですか」


「名前は伝えられますが、届け先の方とは直接約束していません。中身も、依頼人から口外しないよう言われています」


 サザリーは丁寧な口調を保ちながら、答えにくい条件を重ねてきた。俺は中身を無理に聞き出すのではなく、まず受領できる窓口があるか確認する必要があると判断し、訪問者には待機をお願いするという対応を選んだ。教師が近くで見ていたため、演習後にはなぜその順番にしたのかも説明した。


「中身が分からないまま個人宛てに運ぶのは避けたいです。ただ、受け取りを断るべきかどうかも、俺だけでは決められないので」


「その説明なら筋が通っています」と教師は言った。「ただし、実際の屋敷ではそれぞれの規則が異なります。今日の演習を、そのままどこでも通用する手順だと思わないように」


 俺は頷いた。練習の答えを覚えることと、状況に応じて判断することは違うのだろう。父さんなら何を確認するだろうかと考えたが、ここではまず教師の示す条件を理解することが先だった。


 役割を交代すると、今度は俺が訪問者になった。サザリーは最初に名乗りと用件を確認し、こちらの答えが曖昧だと感じると、丁寧に質問を言い換えてくれた。受付側に立っていたときには気づかなかったが、訪問者の立場では、質問の理由を一言添えてもらえるだけでずいぶん安心できる。


「相手からすると、何のために聞かれているのか分からないと不安になるんだね」


「うん。必要な確認でも、理由を伝えなければ拒絶されたように感じるかもしれない。僕もやってみて気づいたよ」


 サザリーは記録用紙へ感想を書き込みながら答えた。隣の組ではガレスが訪問者役に熱中しすぎて大きな声を出し、エミリアに「それでは受付の方が驚いてしまいます」と穏やかに注意されている。ガレスは照れ笑いを浮かべて声量を下げ、今度は丁寧に用件を説明し直していた。


 少し離れた席では、リビアが別の生徒と組んで演習していた。彼女は受付役として相手の話を聞き、すぐに返事をせず、手元の設定用紙を確かめてから対応している。普段は公爵令嬢として迎えられることの多い彼女が、今日は訪問者を迎える側に立っているのが新鮮だった。


 演習が終わると、教師は生徒たちに感想を求めた。リビアは手を上げ、受付役として丁寧に話すだけでは足りず、相手が何を不安に思っているのかを考える必要があると答えた。教師が頷くと、彼女は少し安心したように席へ戻り、俺と目が合ったところで小さく微笑んだ。


 その笑顔を見て、俺も自然と口元が緩んだ。公開講習ではもっと複雑な課題が出るかもしれないが、今日の短い練習だけでも、立場を変えることで見えるものがあると分かった。俺はノートへ感想を書き足し、次にどんな役を任されても、まず相手の話を聞こうと決めた。


     ◇


 放課後、掲示板の前にはまだ数人の生徒が集まっていた。申し込みの受付は続いていたが、参加者や班分けの発表はなく、教師が言ったとおり結果は後日知らせるようだった。俺とリビアはそれを確かめてから、中庭を通って学院の門へ向かった。


 噴水の周囲には午後の光が落ち、石畳に映る木の影が長く伸びている。ガレスたちは図書室へ寄ると言って先に別れたため、今は俺たち二人だけだった。リビアは歩調を少し緩め、俺の隣で午後の演習について話し始めた。


「セス、受付役をしてみて思ったのだけれど、訪ねてきた方の気持ちを考えるのは難しいわね。私はいつも案内される側にいることが多いから、待っていただく理由をどう説明するか、すぐには言葉が出なかったの」


「俺も訪問者役をやってみて、同じようなことを思ったよ。確認が必要なのは分かっていても、理由が分からないまま待つのは落ち着かないんだ」


「そうなのね。……では、あなたが屋敷で誰かをお迎えするときにも、同じようなことを考えているの?」


「考えられているときもあるけど、まだ足りないと思う。父さんやほかの人の対応を見て、後から気づくことも多いよ」


 リビアはその返事を聞き、しばらく考え込んだ。彼女は俺の仕事を褒めてくれることが多いが、今日は俺がまだ学んでいる途中だということも含めて受け止めてくれているようだった。足元の石畳を見つめていた視線が、やがて俺へ戻ってくる。


「私ね、公開講習であなたと同じ班になれなかったら残念だと思っていたけれど、今日の授業で少し考えが変わったの。別々の役を経験したほうが、あとで教え合えることも増えるのかもしれないわ」


「そうだね。リビアが気づいたことを聞くの、俺も楽しみだよ」


「……でも、同じ班がいいという気持ちまで消えたわけではないのよ?」


 念を押すように言われ、俺は思わず笑った。リビアも自分で言っておかしくなったのか、少しだけ肩を揺らしている。人前では完璧な公爵令嬢として振る舞う彼女が、俺の前ではこうして素直に気持ちを見せてくれることが、たまらなく嬉しかった。


「うん、分かってる。俺だって、リビアと一緒にやれたら嬉しいよ」


「それなら、もし同じ班になれたら、一緒に頑張りましょう。別々だったら、終わったあとにそれぞれの話を聞かせてね」


「約束するよ」


 リビアは満足そうに頷き、また歩き始めた。門の近くには迎えの馬車が並んでおり、御者たちが主人を待ちながら馬の様子を確かめている。俺たちはその列へ向かい、いつもどおりの帰路についた。


     ◇


 屋敷へ戻ると、父さんが玄関広間で俺たちを迎えてくれた。俺たちは学院で申し込みを済ませたことと、役割はまだ確定していないことを伝えた。父さんは最後まで聞き、リビアが使用人役を希望したと知ると、ほんの少し目を細めた。


「お嬢様がその役をご希望とは、興味深いですね。どのようなことを学びたいとお考えですか」


「セスが普段どんなことを考えて働いているのか、少しでも知りたいの。もちろん、短い演習だけで全部分かるとは思っていないけれど」


「そのお考えなら、よい経験になるでしょう。使用人の仕事は動作を覚えるだけではなく、相手に必要なことを見極める仕事でもありますから」


 リビアは真剣に頷いた。父さんは俺へ視線を移し、管理者役を希望した理由も尋ねてきた。俺は、指示を受ける側だけでは分からない判断の重さを知りたいと答えた。


「なるほど。では、もしその役を任されたら、決められないことがある場面も想像してみなさい。情報が足りないとき、誰に何を確かめるべきか。それも管理する者の大切な判断です」


「分かった。何でもすぐに答えを出せばいいわけじゃないんだね」


「ええ。実際の仕事では、急いで決めることが危険になる場合もあります」


 父さんはそこで話を切り上げ、俺たちに着替えを促した。学院の講習はまだ先のことだし、今夜の仕事や休息を後回しにしてまで準備する必要はない。俺は自室へ戻って制服を着替え、決められた範囲の夕方の仕事に取りかかった。


 夕食前、食堂の準備を終えた頃には、廊下の窓が夕焼け色に染まっていた。裏手の搬入路については、今日も北側の迂回を使っているという連絡が担当者から父さんへ届いていたが、補修に進んだという話はない。俺は自分の作業を引き継いでから手を洗い、夕食の時間へ向かった。


     ◇


 夜、部屋で授業のノートを開いていると、控えめなノックが聞こえた。扉を開けるとリビアが立っており、手には自分の授業用ノートを持っている。彼女は俺の机の上に置かれた案内用紙を見て、嬉しそうに微笑んだ。


「セス、少しだけお話ししてもいい? 今日の演習で、聞いてみたいことがあるの」


「もちろん。俺もリビアがどんな応対をしたのか、詳しく聞きたかったんだ」


 俺は彼女を部屋へ招き、机を挟んで向かい合う椅子を用意した。窓の外には夜の庭園が広がり、遠くで風に揺れる枝の音が聞こえる。リビアはノートを開くと、受付役のときに迷った場面を一つずつ説明し始めた。


「訪問者が急いでいるとおっしゃったとき、私はすぐに責任者を呼ぶべきか迷ったの。でも、相手が何を急いでいるのか聞かなければ、必要な人へ取り次げないでしょう?」


「うん。俺もそう思う。ただ、相手が話せない事情を持っている場合もあるから、どこまで聞くかは難しいよね」


「そうなの。だから先生にも、確認する理由を伝えることが大切だと言われたわ」


 リビアは真面目な顔でノートへ目を落とした。彼女の文字は整っていて、授業中に気づいたことが細かく書き込まれている。俺はそれを見ながら、自分が訪問者役を経験したときの感想を伝えた。


「質問そのものは必要でも、何のために聞いているか分からないと不安になるんだ。サザリーが説明してくれたとき、すごく安心したよ」


「……そういうことなのね。相手が安心できるようにするのも、お迎えする側の仕事なのね」


 リビアは頷いたあと、ふと顔を上げた。真剣だった表情に、少しだけいたずらっぽい笑みが混じる。


「それでね、セス。私が本当に使用人役になったら、あなたに一つお願いがあるの」


「何かな?」


「もし私がうまくできなくても、すぐに代わってしまわないでほしいの。失敗しそうなところも、自分で考えてみたいから」


 その言葉に、俺は少し驚いた。以前の俺なら、リビアが困っている姿を見た瞬間に手を出してしまったかもしれない。けれど、彼女が学びたいと言っている以上、その機会を奪うわけにはいかない。


「分かった。危ないことがない限り、まずリビアの考えを聞くよ。俺が同じ班になれたら、だけどね」


「ええ。……あら、そうだったわ」


 リビアは思い出したように目を瞬かせ、二人で笑った。まだ配役すら決まっていないのに、俺たちはすっかり同じ場面を想像していたらしい。彼女は笑い終えると、ノートを閉じて膝の上へ置いた。


「セス。私、今日の申し込みが楽しかったのは、講習そのものが楽しみだからだけではないと思うの」


「どういうこと?」


「あなたと、これから学びたいことを相談できたから。私たち、昔から一緒に過ごしてきたけれど、知らないことまで同じだったわけではないでしょう?」


 俺は彼女の言葉を聞きながら、幼い頃から続いてきた時間を思い出した。リビアが公爵令嬢として学ぶことと、俺が執事見習いとして覚えることは、隣にいる時間が長くても別々だった。今はその違いを、距離としてではなく、互いに教え合えるものとして考えられる。


「そうだね。俺も、リビアの話を聞くたびに知らないことがあるって気づくよ。今日も、受付役でそんなふうに考えていたんだって、聞けてよかった」


「……嬉しい。セスがそう言ってくれるなら、私ももっと頑張りたいわ」


 リビアは静かに微笑んだ。俺はその顔を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。彼女の隣にいるために、何でもできる人間にならなければならないと思っていた時期もあったが、今は分からないことを話せる関係であることのほうが大切なのかもしれない。


「ねえ、セス。講習の日に同じ班になれなくても、帰ってきたら今日みたいにお話ししましょうね」


「うん。約束だよ。どんな役になっても、ちゃんと話す」


 俺が答えると、リビアは安心したように頷いた。しばらくして彼女が立ち上がったので、俺も椅子を引いて扉まで見送った。廊下の灯りの下で振り返った彼女は、最後にもう一度だけ、少し拗ねたような顔を見せた。


「……でも、やっぱり同じ班になれたら嬉しいわ。そこだけは、まだ譲れそうにないの」


「それは俺もだよ。結果が出るまで、一緒に楽しみにしていよう」


 そう答えると、リビアはぱっと笑顔になり、おやすみなさいと手を振って部屋を出ていった。俺は扉を閉め、机に戻って案内用紙を見つめた。希望した役を任されるかどうかも、リビアと同じ班になるかどうかも分からないままだが、だからこそ楽しみにできることがある。


 今日、俺たちは講習へ申し込んだだけで、まだ何かを成し遂げたわけではない。それでも、互いの知らない世界を知りたいと口にできたことは、俺にとって小さくない変化だった。明日も学院の授業と屋敷の仕事が待っているが、そのどちらも大切にしながら、いつかリビアともっと多くのことを語り合えるようになりたいと思った。


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