第138話 公爵令嬢様は、俺の隣に立つ資格を誰にも決めさせないらしい
翌朝、パウリー公爵邸の使用人用通路を歩いていると、厨房から焼きたてのパンの香りが漂ってきた。窓の外には薄い雲が広がっていたものの、雨が降りそうな気配はなく、庭師たちが朝の作業を始める姿も見えている。
俺は手にした確認表へ目を落としながら、今日の担当業務を一つずつ確かめていた。朝食前の準備はほぼ終わっており、残っているのは食堂周辺の最終確認と、父さんへの報告だけだった。
「セス、少しいいですか」
背後から声をかけられて振り返ると、父さんが廊下の向こうから歩いてきた。いつもの落ち着いた表情だったが、手には見慣れない封筒があり、俺は自然と姿勢を正した。
「おはよう、父さん。何かあった?」
「おはようございます。仕事の件ではありません。学院へ向かう前に、少し伝えておきたいことがあります」
父さんは周囲にほかの使用人がいないことを確かめると、封筒を俺へ見せた。表には王立学園の印章が押されており、学院から公爵家へ届けられた正式な連絡であることが分かる。
「昨日の夕方、学院から旦那様宛てに届いたものです。内容は、近く行われる学院内の公開講習についてでした」
「公開講習?」
「ええ。上級生や教員が中心となり、礼法と実務に関する短い講習を行うそうです。参加対象には一部の下級生も含まれており、お嬢様とあなたの学年からも希望者を募るとのことでした」
俺は少し首を傾げた。学院では通常の授業以外にもさまざまな催しがあるが、公開講習についてはまだ詳しい説明を聞いていなかったからだ。
「それなら、学院で案内があるんじゃないかな」
「そのとおりです。ただ、今回の講習では身分の異なる相手との応対も扱う予定だそうで、旦那様はお嬢様とあなたが参加する場合、余計な憶測が生じないよう事前に概要を把握しておきたいとお考えです」
父さんの説明を聞き、俺は封筒へもう一度目を向けた。身分の異なる相手との応対という言葉が、少しだけ胸に引っかかった。
俺は元々スラムで暮らしていた孤児だ。今はシルフィール伯爵家の養子として迎えられ、パウリー公爵家で執事見習いを務めているが、生まれ育った環境まで変わったわけではない。
そして、リビアは公爵家の一人娘であり、俺の正式な婚約者でもある。
(……講習そのものは普通の行事だろうけど、俺たちのことを気にする人がいてもおかしくないか)
そう考えたところで、父さんが静かに続けた。
「もっとも、これは参加を控えるようにという話ではありません。学院で正式な説明を受けたうえで、お二人が判断すればよいことです」
「分かった。リビアにも話しておくよ」
「お嬢様には、旦那様からすでに概要をお伝えしています」
俺は思わず父さんの顔を見た。どうやら俺が知らない間に、リビアは一足先に話を聞いていたらしい。
父さんはそんな俺の反応を見て、ほんの少し口元を緩めた。
「今朝のお嬢様は、いつも以上に張り切っておられましたよ」
「……それ、何か嫌な予感がするんだけど」
「お嬢様が何をお考えかは、ご本人にお尋ねください。ただし、セス。必要以上に心配する前に、まずお話を聞くことです」
俺は苦笑しながら頷いた。父さんの言葉には、昨日の防御魔術の演習で学んだことにも通じるものがあった。
何か起きる前から自分だけで対処法を考えるのではなく、まず相手の考えを聞く。それが大切だと分かっていても、長年の癖は簡単には抜けないらしい。
◇
朝食の席へ向かうと、リビアはすでに席に着いていた。窓から差し込む朝の光を受けて、シルバーブルーの髪が淡く輝いている。
彼女は俺の姿を見つけると、嬉しそうに微笑んだ。
「おはよう、セス。グレイヴからお話は聞いた?」
「おはよう。公開講習のことなら、さっき聞いたよ」
「それなら話が早いわね。私、参加してみたいと思っているの」
予想していたとはいえ、あまりにも迷いのない返事だったので、俺は少し驚いた。
「もう決めたの?」
「ええ。正式な内容を確認してから申し込むつもりだけれど、興味はあるわ。礼法だけではなく、実務の考え方も学べるのでしょう?」
リビアは楽しそうに説明した。公爵令嬢として幼い頃から礼法を学んできた彼女にとっても、異なる立場の人々がどのように仕事を進めているのかを知る機会は貴重なのだという。
俺は彼女の言葉を聞きながら、父さんが用意してくれた仕事の資料を熱心に読んでいた姿を思い出した。
「リビアなら、きっと面白いと思うよ。俺も詳しい内容を聞いてから考えようかな」
「本当? それなら、一緒に参加できるかもしれないわね」
彼女は嬉しそうに身を乗り出したが、すぐに何かを思い出したように姿勢を正した。
「ただ、セス。私が参加するからといって、あなたも参加しなければならないわけではないのよ」
「うん。それは分かってる」
「あなた自身が興味を持てるかどうかも大切だもの。だから、学院で説明を聞いてから決めましょう?」
その言い方があまりにも真剣だったので、俺は思わず笑みを浮かべた。
リビアは俺を自分の隣へ置きたがることが多い。けれど、それと同じくらい、俺自身の考えも大切にしようとしてくれる。
「ありがとう。俺も実務の話には興味があるし、前向きに考えてみるよ」
俺が答えると、リビアは満足そうに頷いた。
その後、朝食を終えて玄関へ向かうまでの間、彼女は公開講習でどのようなことを学べるのか、楽しそうに話していた。
俺も話を聞きながら、学院での一日がいつもとは少し違うものになるかもしれないと感じていた。
◇
学院へ到着すると、教室にはすでに多くの生徒が集まっていた。窓際では数人が教科書を開いており、後方ではガレスがサザリーと何やら話し込んでいる。
俺たちが入室すると、ガレスがすぐに顔を上げた。
「おはよう、セス! 昨日の演習のことで、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
「おはよう。何か気になることでもあった?」
「お前が風を横へ逃がしてたやつ、剣術の足運びにも似た考え方があるんじゃないかと思ってな。力を正面から受け止めないで、角度を変えるっていうか」
俺は少し驚いた。昨日の演習を、ガレスが自分の剣術へ結びつけて考えていたからだ。
「確かに、相手の力を真正面から受けないっていう点では似てるかもしれないね。でも、剣の場合は相手も動くし、足の位置が重要になると思う」
「だよな! それで、次の剣術の授業で先生に聞いてみようと思ってるんだ」
ガレスは嬉しそうに笑った。以前から気にしていた重心移動についても、まだ教師へ相談するつもりらしい。
その横でサザリーが小さく頷いた。
「昨日の演習は、僕も勉強になったよ。特に二人一組の課題では、担当範囲を決めることの重要さがよく分かった」
「そうだね。俺も、リビアが中央と左側を守ってくれたから、右側へ集中できたんだ」
俺がそう答えると、隣のリビアが嬉しそうに微笑んだ。
すると、ガレスが妙に納得したような顔になった。
「なるほどなあ。お前たち、魔術でも息ぴったりだったもんな」
「担当を決めて練習しただけだよ」
「いや、それが自然にできるのがすごいんだって。俺なんか、エミリアに相談する前に壁を張って、横から風が来て慌てたからな」
ガレスが頭をかくと、近くにいたエミリアが苦笑した。
「でも、ガレスさんは途中からちゃんと相談してくれましたよ。私も自分の結界だけで精いっぱいだったので、声をかけてもらえて助かりました」
彼女の言葉に、ガレスは少し照れくさそうな顔をした。
その様子を見ていたサザリーが何か言いかけたところで、教室の扉が開いた。
担任の教師が入ってきたため、生徒たちはそれぞれ席へ戻る。
朝の連絡が始まり、今日の授業予定が伝えられたあと、先生は一枚の案内用紙を掲げた。
「来週、学院内で公開講習が行われます。礼法と実務の基本的な考え方を扱うもので、希望する生徒は参加できます」
教室のあちこちから、小さなざわめきが起こった。
先生はその反応を見ながら説明を続けた。
「今回の講習は、上級生による実演と教員の解説を組み合わせた形式です。身分や役職によって異なる責任を持つ人々が、どのように連携するかを考えることが目的です」
俺は説明を聞きながら、配られた案内用紙へ目を落とした。
参加は希望制で、定員があるため申し込み多数の場合は調整されるという。実演を見学するだけでなく、希望者には簡単な模擬応対へ参加する機会もあるらしい。
内容自体は、俺が普段の仕事で学んでいることにも近かった。
ただ、最後の注意事項が少し気になった。
『講習中は各自の立場にかかわらず、指定された役割に従って模擬応対を行うこと』
俺がその一文を読んでいると、隣のリビアが小さく声をかけてきた。
「セス、ここを見て」
彼女が指さしたのは、講習の目的が書かれた部分だった。
『相手の立場を理解し、適切な敬意と責任をもって協力する姿勢を学ぶ』
俺はその文章を読み、少しだけ考え込んだ。
身分が異なる相手へ敬意を払うことは、学院でも屋敷でも大切なことだ。けれど、敬意を払うことと、相手の意見を無条件に受け入れることは同じではない。
俺自身、執事見習いとして働く中で、その違いを少しずつ学んできた。
「……面白そうだね」
俺が呟くと、リビアは嬉しそうに頷いた。
「ええ。私もそう思うわ」
◇
午前の授業が終わり、昼食のために食堂へ向かう途中だった。
俺たちはガレスたちと一緒に廊下を歩いていたが、階段の近くで数人の生徒が立ち止まっているのが見えた。
そのうちの一人が、リビアの姿に気づいて軽く会釈した。
「パウリー嬢。少しよろしいでしょうか」
声をかけてきたのは、同じ学年の男子生徒だった。授業で顔を合わせたことはあるが、これまで直接話した機会はほとんどない。
整えられた制服と落ち着いた物腰から、礼儀を重んじる人物なのだろうという印象を受けた。
「ごきげんよう。何かご用でしょうか」
リビアは公爵令嬢らしい穏やかな微笑みを浮かべた。
男子生徒は俺へ一瞬だけ視線を向けたあと、再び彼女へ顔を戻した。
「先ほどの公開講習についてですが、パウリー嬢も参加を検討されていると伺いました」
「ええ。まだ申し込んではおりませんけれど、興味はありますわ」
「それは素晴らしいことだと思います。パウリー公爵家のご令嬢が参加されれば、ほかの生徒にとってもよい刺激になるでしょう」
そこまでは、ごく普通の会話だった。
けれど、男子生徒は少し間を置いてから、俺の方へ視線を向けた。
「ただ、講習では身分に応じた責任や礼節も扱うと聞いております。参加される方々の立場については、十分に配慮されるべきではないでしょうか」
俺はその言葉の意味を考えた。
彼は直接俺の名前を出していない。しかし、視線の向きからして、俺のことを話題にしているのは明らかだった。
周囲の生徒たちも、少しずつ会話へ注意を向け始めている。
リビアは表情を変えなかった。
「それは、どのような意味でしょうか」
「失礼な意図はございません。ただ、パウリー嬢ほどのお立場の方が、講習の場で不必要な誤解を招くことは避けた方がよいのではないかと」
男子生徒は丁寧な口調を保っていた。
けれど、その言葉には明確な含みがあった。
俺は静かに息を整えた。
(……俺と一緒に参加することを気にしているのか。まあ、そう考える人がいても不思議じゃないよな)
俺が何か答えるべきか考えていると、リビアが一歩前へ出た。
彼女の動きはゆっくりとしていたが、周囲の空気がわずかに変わった。
「ご心配いただき、ありがとうございます」
リビアは穏やかに答えた。
「ですが、私は講習の目的を理解したうえで参加を検討しております。誰と一緒に参加するかについても、学院の規則に従って判断するつもりですわ」
「もちろん、規則に反するという意味ではございません。ただ、慣例というものもございますので」
「慣例を尊重することと、個人の学ぶ機会を制限することは、必ずしも同じではありませんわ」
彼女の声は静かだった。
けれど、そこには迷いがなかった。
男子生徒は少しだけ表情を硬くした。
「それは……おっしゃるとおりかもしれません。しかし、シルフィール君は元々――」
「彼の生い立ちについて、お話しになりたいのでしょうか」
リビアが言葉を引き取った。
その瞬間、周囲の生徒たちが息を潜めたのが分かった。
俺も思わず彼女を見た。
リビアは相手を睨んでいるわけではない。ただ、真っ直ぐに顔を向け、次の言葉を待っていた。
男子生徒は少し困ったように視線を動かした。
「……彼の経歴が、ほかの生徒とは異なることは事実でしょう」
「ええ。それは事実ですわ」
リビアはあっさりと認めた。
「セスは幼い頃、私たちとは異なる環境で暮らしていました。ですが、現在はシルフィール伯爵家の一員であり、学院の生徒でもあります。そして、私の婚約者です」
彼女は一つひとつ、はっきりと言葉にした。
「その事実を、私は隠すつもりも、恥じるつもりもございません」
俺は胸の奥が熱くなるのを感じた。
リビアは以前から、俺の生い立ちを気にしていなかった。
それでも、こうして人前で明確に言葉にされると、何かが違って感じられる。
彼女は俺を庇うために、事実を取り繕っているわけではない。
ただ、自分が選んだことを、そのまま伝えているのだ。
「……パウリー嬢のお考えは分かりました」
男子生徒はそう答えたものの、まだ納得しきれていない様子だった。
「ですが、公爵家のご令嬢というお立場には、それにふさわしい振る舞いが求められるのではありませんか」
その言葉を聞いたとき、俺はようやく口を開いた。
「それについては、俺も大切なことだと思います」
突然俺が話し始めたため、男子生徒は少し驚いたようだった。
俺は相手へ向き直り、できるだけ落ち着いた声で続けた。
「リビアが公爵家の一員として責任を持っていることは、俺も理解しているつもりです。俺自身も、その立場を軽く考えているわけではありません」
俺は一度言葉を区切った。
「ただ、公開講習への参加については、学院が定めた条件に従って判断することだと思います。俺が参加することで何か具体的な問題があるなら、先生方へ確認するべきではないでしょうか」
男子生徒は俺を見つめた。
周囲では、ガレスが何か言いたそうにしていたが、サザリーが小さく首を振っている。
俺はその様子を視界の端で捉えながら、相手の返事を待った。
「……具体的な問題、と言われますと」
「はい。俺の生い立ちを気にされていることは分かりました。でも、それだけで講習へ参加できないという規則があるなら、俺も確認しておきたいです」
男子生徒はすぐには答えなかった。
しばらくしてから、少し視線を落とした。
「規則があると申し上げたわけではありません。あくまで、周囲の受け止め方について懸念しているのです」
「それなら、心配してくださってありがとうございます」
俺はそう答えた。
「ただ、周囲の人がどう考えるかについては、俺たちだけで決められることではありません。だからこそ、学院では自分たちの行動に責任を持ちたいと思っています」
相手の表情が少し変わった。
俺の返事が予想と違っていたのかもしれない。
けれど、ここで相手を言い負かすことが目的ではなかった。
俺は自分の立場を理解している。
それでも、学ぶ機会を自分から手放す理由にはならないと思っていた。
そのとき、隣からリビアの声が聞こえた。
「私も同じ考えですわ」
彼女は俺へ一度だけ微笑み、それから男子生徒へ向き直った。
「ご意見は承りました。ですが、参加するかどうかは、正式な案内と学院の判断に従って決めたいと思います」
男子生徒は少し迷ったあと、静かに頭を下げた。
「……承知しました。差し出がましいことを申し上げました」
「いいえ。ご心配いただいたことには感謝いたします」
リビアは礼儀正しく答えた。
そのやり取りを最後に、男子生徒は同行していた生徒たちとともに廊下の向こうへ歩いていった。
周囲に集まっていた視線も、少しずつ散っていく。
俺はようやく息を吐いた。
すると、すぐ隣からガレスの声が飛んできた。
「……いやあ、なんかすごかったな。俺、途中で口を挟もうかと思ったけど、やめといてよかったぜ」
ガレスは少し困ったように笑っていた。
その隣でサザリーが頷く。
「うん。あの場で感情的に言い返していたら、話が別の方向へ進んでいたかもしれない。二人とも、落ち着いて対応していたと思うよ」
エミリアもほっとしたように微笑んだ。
「私、少し緊張してしまいました。でも、リビア様のお言葉は、とてもはっきりしていましたね」
俺は三人の顔を見てから、リビアへ視線を向けた。
彼女はいつもの穏やかな表情に戻っていた。
けれど、俺と目が合った瞬間、少しだけ頬を赤くした。
「……セス。私、言いすぎてしまったかしら」
その問いに、俺は首を横へ振った。
「そんなことないよ。俺も、自分の考えをちゃんと伝えられたと思う」
「そう。それなら、よかったわ」
リビアは安心したように微笑んだ。
その顔を見て、俺は胸の奥に残っていた緊張が少しずつ解けていくのを感じた。
◇
昼食を終えたあと、俺たちは校舎の中庭にあるベンチで少し休んでいた。
午後の授業までにはまだ時間があり、周囲ではほかの生徒たちも思い思いに過ごしている。風に揺れる木々の葉が石畳へ影を落とし、遠くからは噴水の水音が聞こえていた。
ガレスたちは図書室へ向かっており、今は俺とリビアの二人だけだった。
リビアはしばらく庭を眺めていたが、やがて静かに口を開いた。
「……セス。さっきのこと、嫌な気持ちにならなかった?」
俺は少し考えてから答えた。
「全然気にならなかった、って言ったら嘘になるかな」
彼女の表情がわずかに曇った。
俺は慌てて言葉を続けた。
「でも、あの人が俺の生い立ちを気にするのは、ある意味では自然なことだと思うんだ。公爵令嬢の婚約者として、俺が普通とは違う立場なのは事実だから」
「……それでも、あなたが傷ついていい理由にはならないわ」
リビアは静かに言った。
俺は彼女の横顔を見つめた。
普段の彼女は、俺に甘えたり、少し拗ねたり、時には驚くほど大胆なことを言ったりする。
けれど、公爵令嬢として何かを判断するときの彼女は、驚くほど真っ直ぐだ。
「ありがとう、リビア」
俺がそう言うと、彼女は少し驚いたようにこちらを向いた。
「……どうして、お礼を言うの?」
「俺のことを、ちゃんと婚約者だって言ってくれたから」
リビアは目を瞬かせた。
それから、少しだけ頬を赤くした。
「そんなの、当たり前でしょう? あなたは私の婚約者なのよ」
「うん。でも、嬉しかった」
俺は素直に答えた。
彼女の表情が、ゆっくりと柔らかくなる。
「……もう。セスは、そういうことを急に言うのだから」
リビアは少し困ったように笑ったあと、膝の上で両手を重ねた。
「でもね、私も少し考えたの」
「何を?」
「私があなたを選んだことを、周囲の人たちがすぐに理解してくれるとは限らないでしょう?」
俺は静かに頷いた。
それは、以前から分かっていたことだった。
俺たちの婚約は、父であるアルセス様にも認められている。
けれど、正式に認められたからといって、すべての人が同じように受け止めるとは限らない。
リビアは少しだけ視線を落とした。
「だからといって、誰かに認めてもらうために、あなたを無理に変えたいわけではないの」
彼女はそう言ってから、俺の顔を見た。
「セスには、セスのままでいてほしいわ。もちろん、私も公爵家の娘として学ばなければならないことがたくさんあるけれど……私たちが一緒にいる理由を、誰かに決めてもらう必要はないと思うの」
その言葉を聞いたとき、俺は胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
リビアは俺の過去を知らないわけではない。
それでも、俺が今ここにいることを、当然のように受け入れてくれている。
(……俺はまだ、自分がリビアの隣に立つことに慣れていないのかもしれない。でも、リビアはずっと前から、俺を隣に置くつもりでいてくれたんだよな)
俺は少しだけ息を整えた。
「……俺も、リビアの隣に立つことを恥ずかしいと思ったことはないよ」
彼女が驚いたように顔を上げた。
「ただ、俺のせいでリビアが嫌な思いをするのは、やっぱり嫌なんだ」
「セス……」
「でも、それを理由に俺が勝手に距離を置いたら、リビアはもっと嫌だろ?」
リビアは一瞬だけ言葉を失った。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……ええ。とても嫌だわ」
俺は小さく笑った。
「だから、ちゃんと隣にいるよ。俺自身も、そうしたいから」
その瞬間、リビアの目が大きく見開かれた。
彼女はしばらく俺を見つめていたが、やがて両手で口元を覆った。
「……セス。それは、少し反則だと思うの」
「え? 何が?」
「あなたがそんなふうに言ってくれると、私……すごく嬉しくなってしまうでしょう?」
リビアは頬を赤くしながら、小さく笑った。
俺もつられて笑ってしまう。
中庭には穏やかな風が吹いていた。
周囲の生徒たちはそれぞれの会話に夢中で、俺たちのやり取りを気にしている様子はない。
それが、少しありがたかった。
◇
午後の授業では、礼法と社会制度に関する講義が行われた。
偶然にも、午前中の出来事と重なるような内容だった。
教師は黒板へいくつかの言葉を書き、身分や役職によって異なる責任について説明を始めた。
「社会には、さまざまな立場の人間がいます。貴族、平民、商人、職人、使用人、役人。それぞれに求められる役割は異なりますが、相手の立場を理解することは、どのような関係においても重要です」
俺はその説明を聞きながら、父さんの仕事ぶりを思い出した。
父さんは公爵家の執事長として、多くの使用人をまとめている。
けれど、指示を出すだけではなく、それぞれの担当が何をしているのかを理解し、必要な情報が正しく伝わるよう気を配っている。
その姿勢は、今日の講義で説明されている内容にも通じていた。
「また、礼節とは、相手の立場に応じて適切に振る舞うためのものです。しかし、礼節を理由として相手の尊厳を軽んじることは、本来の目的から外れます」
教師の言葉に、教室の空気が少し引き締まった。
俺は自然と顔を上げた。
午前中、廊下で話しかけてきた男子生徒も、少し離れた席で授業を受けている。
彼は教師の説明を聞きながら、真面目な顔でノートを取っていた。
俺はその様子を見て、少しだけ安心した。
意見が違ったからといって、相手が悪意を持っているとは限らない。
ただ、互いの考え方を理解するには、時間が必要なのかもしれない。
授業の後半では、簡単な事例について生徒同士で意見を交換する時間が設けられた。
教師が提示したのは、ある屋敷で複数の担当者が異なる記録を残していた場合、どのように確認するべきかという問題だった。
俺は思わず背筋を伸ばした。
以前、屋敷で荷物の受け入れ記録について確認したことがある。
そのときは、運送側の記録が北門への到着時刻を示し、屋敷側の記録が検品開始時刻を示していたため、数字だけを見ると食い違っているように見えていた。
けれど、記録の意味を確かめることで、少なくともその時間差については説明がついた。
今回の授業も、それに似た考え方が必要なのだろう。
俺たちの班では、サザリーが最初に意見を述べた。
「まず、それぞれの記録が何を示しているのか確認するべきだと思う。数字が違うからといって、どちらかが間違っているとは限らないから」
エミリアが頷いた。
「そうですね。記録した人が違えば、見ていた場面も違うかもしれません」
ガレスは少し考え込んでから口を開いた。
「でも、もし本当に間違ってたら、誰かが困るんだろ? だったら、早く直した方がいいんじゃないか?」
「そうだね。ただ、何が間違っているのか分からないうちに直すと、別の問題が起きるかもしれない」
俺が答えると、ガレスは納得したように頷いた。
「なるほど。まず確認してから、ってことか」
リビアも静かに意見を加えた。
「それに、記録を残した方だけではなく、その記録を使う方のことも考える必要がありますわね。何を意味する数字なのか分かりにくければ、同じ誤解が繰り返されるかもしれません」
サザリーがすぐに頷いた。
「確かに。記録の正しさだけでなく、使い方も重要だね」
俺はその言葉を聞きながら、屋敷での出来事を思い返した。
父さんたちは、記録の時間差が何を示していたのか確認したあとも、今後の記載方法について検討を続けている。
単に数字が合っていればよいのではなく、誰が見ても意味を理解できるようにすることが大切なのだろう。
授業の終わりには、各班が意見をまとめて提出した。
教師はそれらを受け取り、最後にこう告げた。
「今日の課題には、必ずしも一つの正解があるわけではありません。大切なのは、相手の立場や情報を確認し、根拠をもって判断することです」
俺はその言葉を聞き、静かに頷いた。
今日一日の出来事が、少しずつつながっていくような気がした。
◇
放課後、俺たちは学院の掲示板へ向かった。
公開講習の案内が貼り出されており、申し込み方法や参加人数について詳しい説明が追加されていたからだ。
掲示板の前には何人かの生徒が集まっていたが、俺たちが近づくと自然に場所を空けてくれた。
リビアは礼を言い、案内へ目を通した。
「申し込みは明日からなのね。定員があるから、希望者が多ければ調整されるみたい」
「そうだね。模擬応対に参加するかどうかも、申し込みのときに選べるみたいだ」
俺が答えると、リビアは少し考え込んだ。
「セスは、どちらに興味がある?」
「実演を見るだけでも勉強になると思うけど、できれば模擬応対にも参加してみたいかな。普段の仕事とは違う立場を経験できるかもしれないし」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「私も同じよ。いつも教わっている礼法とは違う場面を経験してみたいわ」
俺たちは案内を最後まで確認し、申し込みについては明日、改めて考えることにした。
そのときだった。
「シルフィール君」
背後から声をかけられ、俺は振り返った。
そこには、昼前に廊下で話しかけてきた男子生徒が立っていた。
彼は俺とリビアを見比べたあと、少しだけ頭を下げた。
「先ほどは、失礼しました」
俺は少し驚いた。
相手は真面目な表情をしていた。
「いえ。気にしていません」
俺が答えると、男子生徒は首を横へ振った。
「いえ、私の言い方には配慮が足りなかったと思います。あなたの経歴について、必要以上に踏み込むような発言をしてしまいました」
彼はそこで一度言葉を区切った。
「ただ、私自身が考えていることを、すぐに変えられるかどうかは分かりません。それでも、今日の授業を受けて、少なくとも相手の立場を十分に理解しないまま判断するべきではないと思いました」
俺はその言葉を聞き、静かに頷いた。
相手がすべて納得したわけではないのだろう。
けれど、自分の言葉を振り返り、改めて話しかけてきたことには意味があると思った。
「ありがとうございます。俺も、まだ学ばなければならないことがたくさんあります」
俺が答えると、男子生徒は少しだけ表情を和らげた。
「……公開講習では、同じ参加者になるかもしれませんね」
「そうですね。参加できたら、よろしくお願いします」
俺は自然に頭を下げた。
男子生徒も礼を返し、掲示板の前から離れていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は少しだけ息を吐いた。
隣のリビアは、何も言わずに俺を見つめていた。
「……リビア?」
俺が声をかけると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「いいえ。あなたらしい返事だったと思っただけよ」
「そうかな」
「ええ。相手の言葉をきちんと聞いて、自分の考えも伝えていたでしょう?」
彼女は嬉しそうに頷いた。
「私、そういうところも好きよ」
あまりにも自然に言われたので、俺は一瞬返事ができなかった。
リビアは俺の反応を見ると、少し悪戯っぽく笑った。
「ふふっ。驚いた?」
「……そりゃ、驚くよ」
「でも、本当のことだもの」
彼女はそう言って、楽しそうに歩き始めた。
俺は少し遅れて、その隣へ並んだ。
◇
屋敷へ戻る頃には、空が夕暮れの色に染まり始めていた。
玄関広間では父さんが待っており、俺たちの帰宅を確認すると、いつものように丁寧に迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。セスも、お疲れさまでした」
「ただいま、グレイヴ。今日は学院で、いろいろなことがあったの」
リビアがそう言うと、父さんは少しだけ眉を上げた。
「それは、よい経験でしたか?」
「ええ。少し考えさせられることもあったけれど、とても勉強になったわ」
彼女は落ち着いた声で答えた。
俺も父さんへ挨拶し、学院で公開講習の正式な案内があったことを伝えた。
父さんは内容を聞き、静かに頷いた。
「参加を希望するのであれば、学院の手続きに従ってください。旦那様へは、お二人のお考えをお伝えしておきます」
「ありがとう、父さん」
俺が答えると、父さんは少しだけ表情を和らげた。
「セス。今日の学院で、何か気になることはありませんでしたか?」
その問いに、俺は一瞬迷った。
昼前の出来事を、どこまで話すべきだろうか。
けれど、父さんは俺の表情を見て、急かすことなく待ってくれている。
俺はリビアへ一度視線を向けた。
彼女は小さく頷いた。
「……少し、俺の生い立ちについて話題になることがあったんだ」
俺はそう切り出し、昼前に廊下であったやり取りを簡潔に説明した。
男子生徒が公開講習への参加について懸念を示したこと。
リビアが自分の考えを伝えたこと。
俺自身も、学院の規則に従って判断したいと答えたこと。
そして、放課後には相手から改めて謝罪があったこと。
父さんは最後まで話を聞き、しばらく考え込んだ。
「なるほど。お二人とも、落ち着いて対応されたのですね」
「うん。リビアが最初に話してくれたから、俺もちゃんと考えて答えられたと思う」
俺がそう言うと、リビアは少し照れたように微笑んだ。
父さんはそんな俺たちを見て、静かに頷いた。
「大切なのは、相手の意見をすべて受け入れることでも、すべて退けることでもありません。必要なことを確認し、自分たちの立場と責任を理解したうえで判断することです」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
父さんは続けた。
「ただし、今後も同じようなことが続き、学院生活に支障が出るようであれば、遠慮なく相談してください。お二人だけで抱える必要はありません」
「分かった。ありがとう、父さん」
「ありがとうございます、グレイヴ」
俺たちが礼を言うと、父さんは穏やかに微笑んだ。
そのあと、夕食までの予定を確認し、俺たちはそれぞれ着替えのために部屋へ戻った。
◇
夜、仕事を終えて自室へ戻ろうとしていると、廊下の向こうからリビアが歩いてきた。
彼女はすでに夜用の落ち着いた服装へ着替えており、手には小さな包みを持っている。
俺の姿を見つけると、嬉しそうに微笑んだ。
「セス。少しだけ時間をもらってもいい?」
「もちろん。どうしたの?」
「今日のお礼を言いたくて」
俺は少し首を傾げた。
「お礼?」
「ええ。昼間、あなたが自分の言葉で答えてくれたことよ」
リビアはそう言って、手にしていた包みを俺へ差し出した。
中には、厨房で用意してもらった小さな焼き菓子が入っていた。
「あなたの分もお願いしておいたの。今日はいろいろ考えることがあったでしょう?」
「ありがとう。嬉しいよ」
俺が受け取ると、リビアは満足そうに微笑んだ。
そのまま廊下で話し続けるのも落ち着かないため、俺たちは近くの小さな談話室へ移動した。
室内には柔らかな灯りがともされ、窓の外には夜の庭園が広がっている。
俺たちは向かい合って座り、焼き菓子を一つずつ手に取った。
「……ねえ、セス」
リビアが静かに口を開いた。
「今日、私があなたの婚約者だとはっきり言ったとき、どう思った?」
俺は少し考えた。
昼間の光景が、自然と頭に浮かんでくる。
彼女は周囲の視線を気にすることなく、俺のことを自分の婚約者だと言ってくれた。
その声には迷いがなかった。
「……嬉しかったよ」
俺は正直に答えた。
「俺はまだ、自分が公爵令嬢の婚約者だってことに慣れていないところがある。でも、リビアがああやって言ってくれると、俺もちゃんと隣にいていいんだって思える」
リビアは少し驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと頬を赤くした。
「……セス。それなら、私は何度でも言うわ」
「え?」
「あなたは私の婚約者よ。誰かに決められたからではなく、私があなたと一緒にいたいと思ったから、こうしているの」
彼女は真っ直ぐに俺を見つめた。
「もちろん、お父様に認めていただいたことも大切だわ。でも、私自身の気持ちまで、誰かに決めてもらったわけではないのよ」
俺は静かに頷いた。
リビアは少しだけ身を乗り出した。
「だから、セスも自分の気持ちを大切にしてほしいの。私に遠慮して、言いたいことを我慢しなくてもいいのよ」
その言葉に、俺は少し笑った。
「……それなら、一つ言ってもいい?」
「ええ。もちろん」
リビアは嬉しそうに頷いた。
俺は一度息を整えた。
「俺も、リビアの隣にいたいと思ってるよ」
彼女の動きが止まった。
俺は少し照れくさくなりながらも、言葉を続けた。
「最初は、俺なんかが婚約者になっていいのかって、ずっと考えてた。でも、リビアが一緒にいてくれて、いろんなことを話して……今は、俺自身がリビアの隣にいたいって思ってる」
リビアは何も言わなかった。
ただ、頬を赤くしたまま俺を見つめている。
俺は少し不安になった。
「……リビア?」
名前を呼ぶと、彼女はようやく息を吐いた。
「……もう、セスったら」
その声は、少し震えていた。
けれど、悲しそうではなかった。
リビアは両手で顔を覆い、しばらく俯いていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
その目元には、ほんの少しだけ涙が浮かんでいた。
「……そんなことを言われたら、私、嬉しくてどうしたらいいか分からなくなってしまうわ」
俺は思わず立ち上がりかけた。
「えっ、泣かせるつもりじゃ――」
「違うの。嬉しいのよ」
リビアは慌てて首を振った。
そして、少し困ったように笑った。
「本当に、嬉しいの。だから、そんなに心配しないで」
俺は彼女の言葉を聞き、ゆっくりと座り直した。
リビアは目元をそっと押さえたあと、俺へ手を伸ばしてきた。
「……セス。手をつないでもいい?」
「もちろん」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
重ねた手は温かかった。
俺たちはしばらく、そのまま静かに座っていた。
窓の外では、夜風が庭園の木々を揺らしている。
遠くから使用人たちの足音が聞こえたが、談話室の中には穏やかな時間が流れていた。
やがて、リビアが小さく笑った。
「……ねえ、セス。今日のこと、きっと忘れないと思うわ」
「俺も、忘れないと思う」
「それなら、よかった」
彼女は満足そうに頷いた。
俺はその横顔を見ながら、今日一日の出来事を思い返した。
誰かに自分の生い立ちを気にされることは、これからもあるかもしれない。
俺とリビアの婚約について、さまざまな意見が出ることもあるだろう。
けれど、それだけで俺たちの関係が変わるわけではない。
大切なのは、俺たち自身が何を考え、どう行動するかだ。
そして、その答えを一人で決める必要もない。
俺はリビアの手を、そっと握り返した。
彼女は嬉しそうに微笑み、少しだけ指先へ力を込めた。
「……セス。これからも、私の隣にいてね」
「うん。もちろん」
俺が答えると、リビアは安心したように目を細めた。
その表情を見ていると、俺まで穏やかな気持ちになってくる。
明日になれば、また学院で新しい一日が始まる。
公開講習への申し込みもあるし、通常の授業や屋敷の仕事も続いていく。
まだ分からないことも、考えなければならないこともたくさんある。
それでも、今夜の俺は不思議と不安を感じなかった。
隣にいるリビアが、俺の手を握ってくれている。
そして俺も、自分の意思でその手を握り返している。
それだけで、今は十分だった。




