第137話 公爵令嬢様は、俺が守るばかりでは満足してくれないらしい
朝食を終えてパウリー公爵邸の玄関広間へ向かうと、いつもより少し早く支度を済ませたリビアが、窓際で学院の時間割を眺めていた。淡い朝日がシルバーブルーの髪を照らし、制服の襟元に留められた飾りが小さく光っている。
俺が近づくと、彼女はすぐに顔を上げた。昨日の夜、一緒に魔術の復習をしていたときとは違い、今朝は何かを楽しみにしているような表情だった。
「おはよう、セス。今日は少し早いのね。お仕事はもう終わったの?」
「おはよう、リビア。朝の担当分は終わったよ。厨房の方も特に問題はなかったし、父さんから追加の指示もなかったから」
俺が答えると、リビアは満足そうに頷いた。
最近は屋敷の裏手にある搬入路の状態が悪く、荷物の受け入れについては通常より注意が必要になっている。北側を経由する暫定的な運用が続いているものの、今朝の時点で新しい問題が起きたという報告はなかった。
ただし、搬入路の修理方針が決まったわけではない。俺も執事見習いとして担当できる範囲の確認を終えただけで、それ以上の判断は父さんたちに任せている。
「それならよかったわ。今日は学院で、少し楽しみにしていることがあるの」
「何かあったっけ?」
俺が首を傾げると、リビアは時間割を俺の方へ向けた。
午後の欄には、通常の魔術理論とは別に、防御魔術の基礎演習と書かれている。
「ああ、そういえば今日は防御の演習だったね。前に先生が説明していたやつだ」
「ええ。魔導具を使った測定ではなく、決められた範囲で防御術式を構築する練習でしょう? 私、少し楽しみなの」
彼女の目が輝いている理由が分かった。
リビアは無属性の結界魔法に高い適性を持っている。攻撃を防ぐだけでなく、範囲や形状を細かく調整することも得意で、俺もこれまで何度かその技術に驚かされてきた。
「リビアなら得意そうだね。俺も勉強になると思う」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけれど、今日はあなたにもちゃんと見てもらいたいことがあるの」
「見てもらいたいこと?」
聞き返すと、リビアは少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「それは、演習のときのお楽しみよ」
そう言って時間割を閉じた彼女は、俺の返事を待たずに玄関へ向かった。
俺はその後ろ姿を見送りながら、思わず苦笑する。
(……リビアがあんな顔をするときは、何か考えているんだよな。無茶なことではないと思うけど、少し気になる)
彼女が楽しそうなのは嬉しい。
ただ、何を見せてくれるつもりなのか分からないまま学院へ向かうことになり、俺は馬車の中でも何度か彼女の顔を窺ってしまった。
そのたびにリビアは微笑むばかりで、結局、答えは教えてくれなかった。
◇
学院へ到着すると、校舎へ向かう生徒たちの間には、いつもと変わらない賑やかな空気が流れていた。
昨日の魔術の授業では、実習用魔導具の表示についてエレナ先生から説明があった。原因はまだ調査中であり、特定の生徒の魔力量や操作に問題があったと判断されたわけではないことも、改めて確認されている。
その説明があったからなのか、少なくとも今朝の教室では、以前の実習について大きな噂が飛び交っている様子はなかった。
俺が席へ向かうと、ガレスが机に肘をついたまま顔を上げた。
「おはよう、セス! 今日の午後、結界の演習があるんだろ? お前、何か面白いことをやるつもりか?」
「おはよう。面白いことって言われても、先生から説明された課題をやるだけだと思うよ」
「いや、だってお前、五属性全部使えるだろ。防御魔法だって、普通とは違うことができるんじゃないかと思ってさ」
ガレスは期待に満ちた顔をしていたが、俺は少し困ってしまった。
確かに俺は五つの属性を扱える。けれど、リビアが得意とする無属性の結界魔法とは性質が異なるし、今日の演習で何を求められるのかも、まだ詳しく聞いていない。
「属性魔法で防御する方法はいろいろあるけど、今日の課題に合っているかどうかは別だよ。勝手に違うことをしたら、演習にならないだろうし」
「うーん、そうか。せっかくだから、派手なのが見られるかと思ったんだけどな」
ガレスが残念そうに肩を落とすと、近くで教科書を開いていたサザリーが顔を上げた。
「ガレス。防御の演習で派手さを求めるのは、少し違うんじゃないかな。守るべき範囲を正確に守れるかどうかが重要なんだと思うよ」
「分かってるって。でも、すごい魔法を見るのは楽しいだろ?」
「それは否定しないけどね」
二人のやり取りを聞いていたエミリアが、控えめに笑った。
「私は少し緊張しています。結界魔法は、形を維持するのが難しくて……。広くしようとすると薄くなってしまうし、狭くすると今度は必要な場所を覆えなくなるんです」
「それは分かる気がする。俺も剣で守る範囲を広げすぎると、足元が疎かになることがあるからな」
ガレスが真面目な顔で答えたので、俺は少し意外に思った。
普段は勢いで行動しているように見えることもあるが、剣術の話になると彼は自分の経験を踏まえて考える。以前、重心移動について教師に確認したいと言っていたこともあり、最近は技術の細かな部分へ意識が向いているようだった。
「ガレス、その重心移動のこと、先生には聞けたの?」
俺が尋ねると、彼は少しだけ照れくさそうに笑った。
「まだなんだ。次の剣術の時間に聞こうと思ってる。自分で試してみたけど、変な癖がつくと困るからな」
「それがいいと思うよ。実際に見てもらった方が分かりやすいだろうし」
「だろ? ……って、なんだよ。お前までサザリーみたいなこと言うなよ」
俺たちが笑っていると、リビアが隣から静かに口を開いた。
「ガレス様のおっしゃることも、よく分かりますわ。防御魔術は、守る範囲を広げればよいというものではありませんもの」
その声に、ガレスが少し背筋を伸ばした。
「リビア様は結界が得意ですもんね。やっぱり、広い結界を張るのって難しいんですか?」
「広さだけなら、魔力量によって補える部分もありますわ。でも、どこを守りたいのか、どの方向から力が加わるのかを考えなければ、必要以上に魔力を使ってしまいます」
リビアは机の上へ指先を置き、小さな四角形を描くように動かした。
「たとえば、この机の上にある本を守るだけなら、教室全体を覆う必要はないでしょう? 目的に合わせて形を決めることも、防御術式では大切なのです」
「なるほどなあ。やっぱり、ただ大きければいいってわけじゃないんですね」
ガレスは感心したように頷いた。
その横でサザリーが何かを書き留めているのを見て、俺も改めてリビアの説明を考えた。
彼女はいつも、結界を張る前に守る対象をよく見ている。
俺が魔力を使って障害を取り除こうとするときとは、考え方の出発点が少し違うのかもしれない。
(……そういえば、俺は何かを守るとき、まず危険なものをどう止めるか考えることが多いな。リビアは、守るものをどう包むか考えているのかもしれない)
その違いが、午後の演習でどのように表れるのか。
俺は少し楽しみになってきた。
◇
午前の授業が終わると、俺たちは昼食を済ませ、午後の演習に備えて指定された訓練場へ移動した。
訓練場は校舎の裏手にある広い区画で、周囲には低い石壁と安全用の柵が設けられている。普段の攻撃魔術の実習とは違い、今日は中央に木製の台がいくつも並べられ、その上には色のついた布袋が置かれていた。
布袋は片手で持てるほどの大きさで、外側には赤、青、黄色の印が付けられている。
俺が近づいて確認すると、中身は柔らかい詰め物のようだった。危険なものではなさそうだが、何に使うのかはまだ分からない。
「これを守るのかしら?」
隣でリビアが呟いた。
「たぶん。先生の説明を待とう」
俺たちが指定された位置へ並ぶと、エレナ先生が訓練場の中央へ進み出た。
先生の後ろには補助の教員が二人おり、訓練場の端で用具を確認している。以前の魔導具の調査とは別の授業であり、今日の演習には表示測定用の器具を使用しないことも、開始前に説明された。
「今日の演習では、防御術式の構築と維持を確認します。課題は三段階ありますが、すべてを一度に行うわけではありません」
先生は木製の台を指し示した。
「最初は、台の上に置かれた布袋を、指定された範囲から動かさないように守ってください。外部から加える力は弱い風魔法のみです。術式を維持できなくなった場合は、無理に魔力を注ぎ込まず、すぐに中断すること」
生徒たちの間から、いくつかの返事が上がった。
「二段階目では、守る対象を増やします。三段階目については、その時点で説明します。なお、今日は術式の規模や魔力量の多さを競う授業ではありません」
先生はそこで一度言葉を区切った。
「安全のため、指定された区画の外へ魔法を広げないこと。補助教員の合図があれば、すぐに術式を解除してください」
俺は説明を聞きながら、訓練場の配置を確かめた。
木製の台は十分な間隔を空けて置かれており、各区画の境界も白い線で示されている。生徒が互いの魔法へ干渉しないよう、配置が工夫されているようだった。
俺とリビアは同じ組ではなかった。
最初の課題では個人ごとに術式を構築し、その結果を見てから次の組み合わせが決まるらしい。
リビアは少し離れた位置へ向かう前に、俺を振り返った。
「セス。ちゃんと見ていてね」
「うん。楽しみにしてる」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
その表情には、朝から変わらない自信があった。
◇
最初の課題は、思っていた以上に細かな制御を必要とするものだった。
補助教員が弱い風魔法を発生させると、台の上に置かれた布袋がゆっくりと動き始める。生徒はその動きを防ぐように防御術式を展開するのだが、単に前方へ壁を作るだけでは、横から回り込む風を止めきれない。
何人かの生徒は、最初の試みで布袋を動かしてしまった。
しかし、先生はすぐに失敗と判断せず、どの方向から風が当たったのか、術式のどこに隙間があったのかを確認させている。
エミリアは慎重に小さな結界を張ったものの、途中で片側が薄くなり、布袋が少しだけ動いてしまった。
「あっ……」
彼女は思わず声を漏らしたが、補助教員の合図に従って術式を解除した。
近くにいたサザリーが、記録用の紙へ何かを書き込んでいる。
「エミリア、最初は右側からの風を防げていたよ。ただ、左側へ力が移ったときに、結界の形が少し変わったみたいだ」
「そうだったんですね。自分では、ずっと同じ形を保っているつもりだったんですけど……」
エミリアは少し残念そうにしながらも、サザリーの説明を聞いて頷いた。
先生から再試行の許可が出ると、彼女は今度は結界を少し小さくし、布袋の周囲を包むように術式を組み直した。
風が当たると、透明な膜の表面がわずかに揺れた。
それでも布袋は台の中央に留まり、エミリアはほっとしたように息を吐いた。
「できました……!」
嬉しそうな声に、周囲の生徒たちからも小さな拍手が起こった。
俺も思わず笑みを浮かべた。
最初の失敗をそのままにせず、何が起きたのかを確認して修正した結果だった。
続いてガレスの番になると、彼は勢いよく術式を展開した。
正面にはしっかりとした防御壁ができたものの、布袋の上部が覆われていなかったため、風が回り込んでしまう。
「うおっ、そっちから来るのか!」
ガレスが驚いた声を上げると、補助教員が風を止めた。
周囲から笑い声が起こったが、ガレス自身も苦笑している。
「剣なら正面を守ればいいって場面もあるんだけどなあ。こいつは勝手が違うぜ」
「だから、最初に全体の形を考える必要があるんだと思うよ」
サザリーがそう答えると、ガレスは真面目な顔で頷いた。
「なるほどな。次は横も守れるようにしてみる」
その様子を見ていた俺は、剣術と魔術の違いについて考えた。
剣で防御するときは、相手の動きに合わせて自分の位置を変えることができる。
けれど、固定された対象を守る結界では、自分が動いて対応するより、最初から力の加わる方向を想定した方がよい場合もある。
防御という同じ目的でも、方法によって考えるべきことが変わるのだ。
◇
リビアの番が来ると、訓練場の空気が少し変わった。
彼女が結界魔法を得意としていることは、同級生たちにも知られている。普段から魔術の授業で高い技術を見せているため、今回もどのような術式を使うのか注目している生徒が多かった。
リビアは台の前へ進むと、まず布袋の位置と周囲の境界線を確認した。
そのあと、右手を静かに持ち上げる。
淡い光が指先に集まり、次の瞬間には布袋を包むような透明な結界が形作られた。
大きさは必要最小限だった。
布袋の周囲にはわずかな余裕があり、台そのものを覆うほど広くはない。
補助教員が風魔法を発生させると、結界の表面に細かな光の筋が走った。
しかし、布袋はほとんど動かなかった。
風の向きが変わっても、結界の形は崩れない。
俺はその様子を見ながら、彼女が何をしているのか考えていた。
結界の外側では、風を受けた部分だけがわずかに形を変えている。
けれど、内側の空間は一定のままだ。
(……外側で力を受け流しているのか。全部を正面から止めるんじゃなくて、内側へ伝わる力を減らしているんだな)
俺が感心していると、先生がリビアへ声をかけた。
「パウリー。術式を維持したまま、少しだけ形状を変えられますか?」
「はい。指定された範囲内であれば可能です」
「では、布袋の上部に余裕を持たせてください。ただし、台の外側へは広げないように」
リビアは頷き、指先をわずかに動かした。
透明な結界の上部がゆっくりと持ち上がり、布袋の上には小さな空間が生まれた。
その間も、側面の防御は維持されている。
風が再び当たったが、結界は崩れなかった。
「よろしい。解除してください」
先生の指示を受け、リビアは静かに魔力を収めた。
光が消えると、台の上には最初と同じ位置に布袋が残っていた。
周囲から拍手が起こる。
リビアは少し照れたように微笑み、先生へ一礼した。
俺も思わず拍手していた。
すると、彼女がこちらへ顔を向けた。
目が合った瞬間、リビアは嬉しそうに笑った。
その表情を見た俺は、朝に言っていた「見てもらいたいこと」が、今の演習だったのかもしれないと思った。
◇
俺の番が来たとき、先生は事前に使用する術式を確認した。
無属性の結界をリビアほど自在に扱えるわけではないため、俺は風属性の魔法で布袋の周囲の気流を調整する方法を選んだ。
強い風を正面からぶつけて押し返すのではなく、外から来る風を左右へ逃がすように流れを作る。
魔力の量を増やせば簡単に止められるかもしれないが、それでは今日の課題の目的から外れてしまう。
俺は指定された範囲を確かめ、できるだけ小さな魔力で術式を組み立てた。
「準備できました」
俺が告げると、補助教員が頷いた。
風が発生する。
布袋へ向かって流れてきた空気は、俺の作った気流に沿って左右へ分かれた。
台の上にある布袋は、わずかに揺れただけだった。
風の向きが変わると、俺は術式の角度を少し調整した。
大きく魔力を動かす必要はない。
流れの向きを整えるだけで、布袋へ届く力を減らすことができる。
俺がそう判断したところで、先生の声が響いた。
「シルフィール。そのまま維持してください。次は、風の強さを少し変えます」
「はい」
俺は呼吸を整え、術式の状態を確認した。
風が少し強くなる。
その瞬間、左右へ逃がしていた気流の一部が台の端へ当たり、布袋の周囲に小さな渦が生まれた。
俺はすぐに魔力の流れを調整し、渦が大きくなる前に解消した。
布袋は台の中央に留まっている。
「よろしい。解除してください」
先生の指示に従い、俺は魔法を収めた。
周囲から拍手が聞こえたが、俺は自分の術式について考えていた。
最初の方法でも課題は達成できた。
けれど、風の強さが変わったとき、台の端で予想していなかった流れが生じている。
もし布袋がもっと軽かったり、台の形が違っていたりすれば、結果も変わっていたかもしれない。
「シルフィール。今の演習で気づいたことはありますか?」
先生に尋ねられ、俺は正直に答えた。
「はい。外から来る風を左右へ逃がす方法を使いましたが、台の端で気流が変化しました。今回は調整できましたけど、最初から台の形も考えておくべきだったと思います」
先生は頷いた。
「よい観察です。防御術式では、外部から加わる力だけでなく、自分が作った術式によって生じる影響も考える必要があります」
俺は礼を言い、元の位置へ戻った。
すると、ガレスが興奮した様子で近づいてきた。
「おい、セス! 今の、すげえな! 風をぶつけて止めるんじゃなくて、横へ流してたんだろ?」
「うん。でも、途中で少し流れが乱れたから、まだ改善できると思う」
「いやいや、あれだけできてまだ改善って……。お前、本当にどこまでできるんだよ」
ガレスは呆れたように笑った。
その隣では、サザリーが興味深そうに俺の説明を聞いている。
「リビア様の結界とは、守り方が違っていたね。どちらも布袋を動かさなかったけれど、魔力の働かせ方はかなり異なっていたと思う」
「そうだね。リビアは対象を包んで守っていたけど、俺は外から来る力の向きを変えていたから」
俺が答えると、少し離れた場所にいたリビアがこちらへ近づいてきた。
「セス。今の魔法、とても綺麗だったわ」
「ありがとう。でも、リビアの結界の方が安定していたと思うよ」
「ふふっ。そう言ってもらえるのは嬉しいけれど、比べる必要はないと思うの」
彼女は柔らかく微笑んだ。
「私たちは、違う方法で同じものを守ったのでしょう?」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
確かに、そのとおりだった。
◇
二段階目の課題では、守る対象が二つに増えた。
台の上には赤と青の布袋が置かれ、二つの間には少し距離が設けられている。
生徒たちは、それぞれの布袋を個別に守るか、二つをまとめて守るかを考えなければならなかった。
エミリアは最初、二つを一つの結界で包もうとしたものの、範囲が広くなりすぎて維持が難しくなった。
先生から助言を受けると、彼女は二つの小さな結界へ分ける方法を選んだ。
結果として魔力の負担が軽くなり、両方の布袋を守ることができた。
ガレスは正面と側面へ別々の防御壁を配置する方法を試したが、上部からの風に対応しきれず、一度中断している。
それでも、彼は失敗した原因を確認し、次の試行では壁の角度を調整した。
俺はその様子を見ながら、演習が単なる魔力の強さを競うものではないことを改めて感じていた。
守る対象が増えるだけで、考えるべきことも増える。
同じ魔法を使っていても、配置や形状によって結果が変わるのだ。
やがて、先生が三段階目の課題について説明を始めた。
「最後の課題は、二人一組で行います。ただし、魔力を混ぜ合わせる実習ではありません。二人がそれぞれ独立した術式を使い、担当する範囲を分けて守ってください」
俺はその説明を聞き、少し安心した。
来月予定されている二属性実習とは別の課題であり、今日は異なる魔力を融合させるような操作は求められていない。
先生は続けた。
「一人がすべてを守ろうとする必要はありません。どちらが何を担当するのかを相談し、相手の術式へ不用意に干渉しないことが重要です」
生徒たちはそれぞれ組み合わせを確認し始めた。
俺が配られた紙を見ると、そこにはリビアの名前が書かれていた。
「……リビアと一緒なんだ」
思わず呟くと、隣から嬉しそうな声が聞こえた。
「ええ。よろしくね、セス」
振り返ると、リビアが満面の笑みを浮かべていた。
どうやら彼女も、組み合わせを確認したところらしい。
「こちらこそ、よろしく」
俺が答えると、リビアは少しだけ顔を近づけた。
「ねえ、セス。今日は私にも、ちゃんと守らせてね」
その言葉に、俺は一瞬返事を忘れてしまった。
彼女は真剣な目をしていた。
朝から楽しみにしていた理由が、少し分かった気がした。
◇
三段階目の課題では、台の上に置かれた三つの布袋を守ることになった。
赤い布袋が中央に一つ、青と黄色の布袋が左右に一つずつ配置されている。
風は一方向からだけではなく、補助教員の操作によって向きが変わる。ただし、強さは安全な範囲に制限されており、途中で中断することもできる。
俺たちは指定された区画へ入り、まず配置を確認した。
「どう分担しようか?」
俺が尋ねると、リビアは台の上を見つめた。
「私は中央と左側を結界で守れると思うわ。セスは右側へ向かう風を調整してもらえる?」
「分かった。でも、二つを一度に守るのは負担が大きくない?」
俺が確認すると、リビアは少しだけ眉を上げた。
「セス。私が無理をしているように見える?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「それなら、私の判断を信じてほしいわ」
彼女は穏やかに答えた。
「もちろん、難しいと感じたらすぐに伝えるわ。でも、最初からあなたが全部を引き受けようとしなくてもいいでしょう?」
俺は言葉に詰まった。
確かに、彼女の言うとおりだった。
リビアは結界魔法が得意であり、今日の演習でも高い制御力を見せている。
それなのに、俺は無意識のうちに、彼女へ負担をかけない方法を考えていた。
(……また、俺が守ることばかり考えていたのかもしれない。リビアは自分で担当を決めてくれたのに)
俺は一度息を整え、彼女へ頷いた。
「分かった。中央と左側はリビアに任せる。俺は右側を守るよ」
「ええ。ありがとう、セス」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
俺たちは先生へ担当範囲を伝え、それぞれの位置についた。
リビアは台の左側に立ち、中央と左側の布袋を覆う結界を構築する。
俺は右側へ少し距離を取り、風の流れを調整するための術式を準備した。
先生が配置を確認すると、補助教員へ合図を送った。
風が吹き始める。
最初は正面からだった。
俺は右側へ向かう風を外側へ逃がし、リビアは中央と左側の布袋を結界で包んでいる。
しばらくすると、風の向きが変わった。
今度は右斜め前から流れ込んでくる。
俺は術式の角度を調整し、右側の布袋へ届く力を減らした。
その一方で、中央の布袋へ向かう風が少し強くなっている。
「リビア、中央の方へ風が寄ってる!」
「分かっているわ。こちらは大丈夫よ!」
彼女の返事は落ち着いていた。
俺はその声を聞き、中央へ魔法を広げようとしていた手を止めた。
リビアの結界は安定している。
今、俺が余計な気流を作れば、かえって彼女の術式へ影響するかもしれない。
俺は自分の担当範囲へ意識を戻した。
風の向きが再び変わる。
右側の布袋がわずかに揺れたが、俺は流れを整え、台の中央へ戻るような気流を作らないよう注意した。
その間、リビアは二つの結界を維持していた。
彼女の指先には淡い光が集まり、透明な膜が風を受けるたびに細かな波紋を描いている。
けれど、その表情に焦りはなかった。
俺は横目で彼女の様子を確かめながら、自分の術式を維持した。
やがて、先生の声が響いた。
「終了です。二人とも、術式を解除してください」
俺たちは同時に魔力を収めた。
三つの布袋は、どれも台の上に残っていた。
周囲から拍手が起こる。
俺はほっと息を吐き、リビアの方へ顔を向けた。
彼女は少し頬を赤くしながら、嬉しそうに微笑んでいた。
「セス、できたわね」
「うん。リビアのおかげだよ」
「ふふっ。あなたも、ちゃんと自分の担当を守ってくれたでしょう?」
俺が頷くと、彼女は満足そうに笑った。
その表情を見ていると、俺まで嬉しくなってくる。
俺たちは互いに守る範囲を分け、それぞれの役割を果たした。
どちらか一人が全部を引き受けたわけではない。
そのことが、今日の演習では何より大切だったのだと思う。
◇
演習が終わり、片づけが始まった頃だった。
訓練場の端で用具を運んでいた生徒の一人が、急に足を止めた。
その視線の先では、風に煽られた布が、用具を覆っていた留め具から外れかけている。
午後になって少し強くなった風が、訓練場の端を吹き抜けたらしい。
布は大きく膨らみ、近くに置かれていた軽い木製の板へ引っかかった。
「先生! あそこの布が!」
生徒の声に、補助教員が振り返った。
俺もそちらへ目を向ける。
布はまだ完全には外れていない。
けれど、風が強まれば周囲の用具を巻き込む可能性があった。
俺は反射的に風魔法を使おうとした。
そのとき、隣からリビアの声が聞こえた。
「セス、待って。先生の指示を確認しましょう」
俺は動きを止めた。
補助教員はすでに用具の近くへ向かっており、周囲の生徒たちへ距離を取るよう指示している。
俺が勝手に風を操作すれば、布の動きが予想外に変わるかもしれない。
先生は状況を確認すると、近くにいた生徒たちへ下がるよう声をかけた。
「全員、白線の内側へ戻ってください。用具には触れないように」
生徒たちは指示に従い、訓練場の中央へ移動し始めた。
俺もリビアと一緒に下がろうとしたが、その途中で、布に引っかかっていた木製の板が傾いた。
板は地面へ倒れかけたものの、近くにいた補助教員がすぐに支えた。
その瞬間、布が風を受けて大きく揺れた。
俺は再び魔法を使うべきか迷った。
けれど、先生はすでに対応している。
俺たちが勝手に加わるより、指示を待つ方が安全だ。
そう判断したところで、リビアが俺の手首へそっと触れた。
「セス。大丈夫よ。先生方が対応してくださっているわ」
「……うん」
俺は頷き、周囲の生徒たちが安全な位置へ下がっていることを確認した。
補助教員は布を押さえ、もう一人の教員が留め具を固定し直した。
やがて布の動きが収まり、訓練場には落ち着いた空気が戻ってきた。
先生は用具の状態を確認したあと、生徒たちへ説明した。
「けが人はいません。用具の固定が緩んでいたため、風で布が動いたようです。今後の使用前には、留め具の状態を改めて確認します」
生徒たちから安堵の声が上がった。
俺も胸を撫で下ろしたが、隣のリビアはまだ俺の顔を見つめていた。
「……セス。さっき、魔法を使おうとしたでしょう?」
「うん。布が飛ばないように、風を止めようと思ったんだ」
「そうだったのね」
彼女は少し考えるように目を伏せた。
「あなたなら、きっと止められたと思うわ。でも、先生方が対応しているところへ別の魔法を加えたら、かえって危険になることもあるのでしょうね」
「そうだね。今回は、使わなくてよかったと思う」
俺が答えると、リビアは小さく頷いた。
「ええ。それに、あなたが何かしなければならない場面ばかりではないもの」
その言葉に、俺は彼女の顔を見た。
リビアは穏やかに微笑んでいる。
「誰かを守るために動くことも大切だけれど、ほかの人が対応できるなら、その方を信じることも必要なのでしょう?」
俺はしばらく考えたあと、頷いた。
「……うん。今日の演習と同じだね」
「そうね」
彼女は嬉しそうに笑った。
その表情を見て、俺は今日一日の出来事が、少しずつ自分の中でつながっていくのを感じた。
◇
帰りの馬車では、リビアがいつもより上機嫌だった。
窓の外には夕方の街並みが流れ、石畳を進む車輪の音が規則正しく響いている。俺は鞄の中から今日の演習記録を取り出し、先生から受けた指摘をもう一度確認していた。
リビアはその様子をしばらく眺めていたが、やがて小さく笑った。
「セス。今日の演習、どうだった?」
「面白かったよ。自分の術式にも改善できるところがあったし、リビアの結界もすごく勉強になった」
「それなら、よかったわ」
彼女は満足そうに頷いた。
俺は少し迷ってから、朝から気になっていたことを尋ねた。
「そういえば、今朝言ってた見せたいことって、結界の演習のことだったの?」
リビアは一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「……ええ。でも、ただ結界を見てもらいたかったわけではないの」
「そうなの?」
「私も、あなたを守れるのだと知ってほしかったの」
その言葉に、俺は思わず彼女の顔を見つめた。
リビアは視線を逸らさずに続けた。
「セスはいつも、私のことを大切にしてくれるでしょう? 危険なことがあれば、真っ先に私の安全を考えてくれる。それはとても嬉しいわ」
彼女は膝の上で両手を重ねた。
「でも、私はあなたに守られるだけの存在でいたいわけではないの。あなたが困ったときには力になりたいし、何かを一緒に乗り越えたいと思っているのよ」
俺は静かに彼女の言葉を聞いていた。
リビアがそう考えていることは、以前から知っているつもりだった。
けれど、今日の演習で実際に彼女へ担当を任せたとき、俺は初めて、その意味を少し具体的に理解できた気がした。
「……うん。今日、よく分かったよ」
俺が答えると、彼女は少しだけ身を乗り出した。
「本当に?」
「本当だよ。リビアが中央と左側を守ってくれたから、俺は右側へ集中できたんだ。もし俺が全部を守ろうとしてたら、あんなに落ち着いて対応できなかったと思う」
リビアの表情が、ぱっと明るくなった。
「それなら、私の作戦は成功ね」
「作戦だったの?」
「ええ。あなたに、私も頼りになるのだと知ってもらう作戦よ」
彼女は少し得意そうに微笑んだ。
俺は思わず笑ってしまった。
「それなら、大成功だと思う」
「ふふっ。よかった」
リビアは嬉しそうに笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「……ねえ、セス。これからも、私を頼ってくれる?」
俺はその問いに、すぐ頷いた。
「もちろん。俺も、リビアに頼ってもらえたら嬉しい」
彼女はしばらく俺を見つめていた。
やがて、頬を赤くしながら小さく微笑む。
「……それなら、約束よ」
「うん。約束する」
俺が答えると、リビアはそっと手を伸ばしてきた。
俺もその手を取る。
馬車の揺れに合わせて、重ねた指先がわずかに動いた。
彼女の手は温かかった。
◇
屋敷へ戻ると、玄関広間では父さんが使用人たちへ翌日の仕事について指示を出していた。
俺たちが帰宅したことに気づくと、父さんは一度会話を区切り、こちらへ向き直った。
「お帰りなさいませ、お嬢様。セスも、今日の学院はどうでしたか?」
「ただいま戻りました、父さん。今日は防御魔術の演習があったんだ」
俺が答えると、リビアが嬉しそうに一歩前へ出た。
「グレイヴ。今日はセスと一緒に、三つの対象を守る演習をしたのよ」
「それは興味深いですね。お二人で同じ術式を使われたのですか?」
「いいえ。それぞれ別の術式を使って、守る範囲を分担したの」
リビアは楽しそうに説明を始めた。
中央と左側を自分が結界で守り、右側を俺が風魔法で担当したこと。
互いの術式へ干渉しないよう注意したこと。
そして、三つの布袋をすべて守ることができたこと。
父さんは最後まで話を聞き、穏やかに頷いた。
「なるほど。役割を明確にして、それぞれが担当を果たしたのですね」
「ええ。セスも、ちゃんと私に任せてくれたのよ」
リビアが少し誇らしげに言うと、父さんは俺の方へ視線を向けた。
「それは何よりです。セス、どうでしたか?」
「……リビアの結界がすごく安定していて、安心して自分の担当へ集中できたよ」
俺が答えると、父さんは静かに微笑んだ。
「よい経験になったようですね」
その言葉には、いつもの仕事の指導とは少し違う温かさがあった。
俺は小さく頷いた。
屋敷の仕事でも、学院の演習でも、一人で何でもできることが正しいわけではない。
担当する人がそれぞれの役割を果たし、必要なときには互いに助け合う。
その方が、結果として多くのことを守れる場合もあるのだろう。
父さんは俺たちへ夕食までの予定を伝え、再び仕事へ戻っていった。
リビアも着替えのために自室へ向かうことになったが、階段の前で一度立ち止まった。
「セス。夕食のあと、少しだけお話しできる?」
「もちろん。何かあった?」
「ふふっ。今日のことを、もう少し聞いてほしいの」
彼女はそう言って微笑んだ。
俺は頷き、彼女を見送った。
◇
夕食後、俺たちは庭園を見渡せる小さな談話室で向かい合っていた。
窓の外には夜の闇が広がり、庭園の灯りが木々の輪郭を淡く照らしている。部屋の中には温かな飲み物が用意され、落ち着いた香りが漂っていた。
リビアはカップを両手で包みながら、今日の演習について楽しそうに話していた。
結界の形を変えたとき、どの部分へ意識を向けていたのか。
二つの対象を同時に守るために、どのようなことを考えたのか。
そして、俺と一緒に課題を行ったとき、何が一番嬉しかったのか。
「……実はね、セス。あなたが私に中央と左側を任せてくれたとき、すごく嬉しかったの」
彼女は少し照れたように微笑んだ。
「あなたはいつも、私を守ろうとしてくれるでしょう? だから、今日は私のことを信じて任せてくれたのが嬉しかったの」
俺はその言葉を聞きながら、今日の演習を思い返した。
最初、俺は彼女へ負担をかけないようにしようと考えていた。
けれど、リビアは自分の担当を自分で決め、その役割を最後まで果たしてくれた。
俺が彼女を信じて任せたことで、俺自身も自分の担当へ集中できたのだ。
「……リビア。俺も嬉しかったよ」
俺が答えると、彼女は少し驚いたように目を瞬かせた。
「あなたが自分の結界で守ってくれてるって分かってたから、安心して魔法を使えたんだ。今まで、誰かに守ってもらうことをあまり意識してなかったけど……今日は、すごく心強かった」
リビアの頬がゆっくりと赤くなった。
彼女はカップを机へ置き、少しだけ視線を落とした。
「……そんなふうに言ってもらえるなんて、思っていなかったわ」
「本当のことだから」
俺がそう答えると、彼女はしばらく黙っていた。
やがて、そっと顔を上げる。
「ねえ、セス。私たち、これからも一緒にいろいろなことを学んでいきたいわね」
「うん。俺もそう思う」
「魔術だけではなくて、屋敷の仕事のことも、学院でのことも……。あなたが知らないことを私が知っているかもしれないし、私が分からないことをあなたが教えてくれるかもしれないでしょう?」
彼女の声は穏やかだった。
俺は静かに頷いた。
「そうだね。どっちかが全部できる必要はないんだと思う」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。だから、これからもよろしくね、セス」
「こちらこそ、よろしく。リビア」
俺たちは自然と笑い合った。
そのあと、リビアは少しだけ悪戯っぽい表情になった。
「ところでセス。今日の私の結界、本当に格好よかった?」
突然の質問に、俺は少し驚いた。
「もちろん。すごく綺麗だったし、安定してたよ」
「……そういう意味だけではないのだけれど」
「え?」
俺が首を傾げると、リビアは頬を赤くしたまま俺を見つめた。
「あなたが昨日、魔法を使う姿は格好いいと言ってくれたでしょう? だから、私も……その……」
そこで言葉が途切れた。
俺は少し考えてから、ようやく彼女が何を聞きたいのか理解した。
「……リビアも、すごく格好よかったよ」
俺がそう答えると、彼女は一瞬固まった。
そして、次の瞬間には両手で頬を押さえていた。
「も、もうっ……! そんなに真っ直ぐ言わなくてもいいのに……!」
「リビアが聞いたんじゃないか」
「そ、それはそうだけれど……!」
彼女は困ったように俺を見つめたあと、とうとう笑い出した。
俺もつられて笑ってしまう。
窓の外では、夜の風が庭園の木々を静かに揺らしていた。
今日、俺たちは同じものを守った。
けれど、同じ魔法を使ったわけではない。
それぞれが得意な方法を選び、互いの役割を信じていた。
俺はこれからも、リビアを守りたいと思うだろう。
彼女が危険な目に遭いそうになれば、きっと真っ先に手を伸ばしたくなる。
でも、それだけではないのだ。
リビアもまた、俺を守りたいと思ってくれている。
その気持ちを、俺はもっと大切にしたい。
俺がそう考えていると、リビアはそっと手を伸ばしてきた。
俺も自然にその手を取る。
彼女は嬉しそうに微笑み、少しだけ指先へ力を込めた。
「……セス。今日は、本当に楽しかったわ」
「うん。俺も楽しかった」
俺たちはしばらく、静かな談話室で手を重ねたまま過ごした。
学院の魔導具については、まだ分からないことが残っている。
屋敷の搬入路についても、今後どうするのかは決まっていない。
来月の二属性実習がどのような内容になるのかも、まだ知らされていない。
けれど、今夜の俺は、それらをすぐに解決しなければならないとは思わなかった。
分からないことは、必要なときに確かめればいい。
自分一人でできないことは、誰かに相談すればいい。
そして、リビアが隣にいてくれるなら、俺はきっと、これからも少しずつ変わっていけるのだろう。
そんなことを考えながら、俺は彼女の温かな手を握り返した。
リビアは何も言わず、ただ嬉しそうに微笑んでいた。




