第14話 旦那様に呼ばれただけなのに、どうして家族会議みたいになっているんですか
学園を出た時には、まだ西の空に明るさが残っていたはずなのに、屋敷へ向かう馬車が王都の大通りを進む頃には、街並み全体がゆっくりと夕暮れの色へ沈み始めていた。窓の外では商店の軒先で店仕舞いの準備が始まり、買い物帰りらしい人々や荷車が行き交っている。車輪が石畳を踏む一定の音に、ときおり御者の掛け声や遠くの鐘の音が混ざっていた。
普段なら、それほど気にするような景色ではない。
けれど今日に限っては、窓の外を眺めている方が気が楽だった。
向かいにはリビアが座り、俺の隣にはグレイヴがいる。座る位置も、馬車の内装も、帰宅までの道筋もいつもと変わらないはずなのに、隣にいる義父がほとんど口を開かないだけで、馬車の中の空気が妙に重く感じられた。
「セス」
正面から名前を呼ばれ、俺は窓の外から視線を戻した。
「何?」
「さっきから背筋が固いわよ。そんなに緊張しなくてもいいでしょう?」
「別に緊張してない。普通だろ」
「少なくとも、私が知ってる普通のセスは、そこまで綺麗に背筋を伸ばしたまま十分以上座ってないわ」
リビアは呆れたように笑いながらも、俺の顔をじっと観察している。その視線から逃れるように隣を見ると、グレイヴは相変わらず窓の外へ顔を向けたままだった。
その沈黙が、余計に落ち着かない。
「グレイヴ」
「何でしょう」
「……怒ってる?」
「何に対してでしょうか」
返事は平坦だった。
だからこそ、俺は少しだけ身構える。
「それを俺に聞く?」
ようやくこちらを向いたグレイヴの表情は、いつもとほとんど変わらない。眉間に皺が寄っているわけでもなければ、声が低くなっているわけでもなく、公爵家の執事長として客人を迎える時と同じくらい落ち着いている。
少なくとも、怒鳴られるような雰囲気ではなかった。
それでも怖いものは怖い。
「学園で起きたことについてでしたら、すでに報告を受けています」
「どこまで?」
「概ね全てです」
「その『概ね』がどこまでなのか聞きたいんだけど」
俺が恐る恐る尋ねると、グレイヴは一度だけ小さく息を吐いた。
「ライゼル・シュザーがオリビアお嬢様へ不適切な発言を行い、クルセスと口論になったこと。その後、許可なく攻撃魔術を使用し、周囲の生徒まで危険へ巻き込んだこと。最終的には火と風の複合魔術であるフレイムストームを展開し、クルセスがその内部へ踏み込んで術式を崩したうえで、本人を制圧したことまでです」
予想以上に詳しい。
俺がわずかに視線を逸らすと、グレイヴはそれを見逃さなかった。
「それから、迅雷撃破を使用したこと。使用後の制服は肩口と胸元が焦げ、一部が変色していたことも聞いております」
「でも怪我はなかった」
「そのように説明した直後、以前にも脚の傷を隠したことがあったとオリビアお嬢様から追加報告があったことも」
「リビア」
俺が向かいを見ると、リビアは少しも悪びれる様子なく首を傾げた。
「何?」
「何でそこまで全部話したんだよ」
「必要だからよ。セスが『大丈夫だった』の一言で終わらせたら、どのくらい危なかったのか分からないでしょう?」
「だからって昔の傷まで……」
「今回だけじゃなくて、普段から自分の怪我を軽く考える傾向があるって説明するには必要だったもの。それに、私だけじゃなくて先生方からも正式な報告が入っているわ」
そこまで言われてしまうと、俺に反論出来る材料はほとんど残っていない。
「学園内で、公爵令嬢だけでなく王族を含む複数の生徒が攻撃魔術に晒されたのです。学校側から各家へ事情説明があるのは当然でしょう」
グレイヴの声は終始穏やかだったが、その内容には隙がなかった。
馬車が大きな交差点を曲がり、車体がわずかに揺れる。窓の外を流れる建物の壁が夕陽に橙色へ染まり、軒下には灯りを点け始めた店もあった。
「旦那様は?」
俺が尋ねると、グレイヴは正面へ視線を戻した。
「執務室でお待ちです」
「それは分かってる。どんな感じ?」
「どんな感じ、とは?」
「怒ってるとか、すごく怒ってるとか、ものすごく怒ってるとか」
「分類が全て同じ方向ですが」
「他に思いつかないんだよ」
向かいでリビアが口元を押さえた。
「笑うなよ」
「だって、セスがライゼル様と戦った時より緊張してるんだもの」
「戦う相手なら何してくるかある程度分かるだろ。旦那様が静かな時は分からないんだよ」
「本人の前で言わない方がいいわよ、それ」
「言わないよ」
「その会話も旦那様へ報告しておきましょうか」
「グレイヴまでやめて」
ほんの少しだけ馬車の空気が緩み、俺もようやく肩から力を抜けた。
けれど、そのまま誤魔化して終われるほど、昨日の件が軽いものではないことも分かっている。
「……危なかったのは、認めてる」
俺がそう言うと、リビアの笑みが静かに消えた。責めるような顔ではなく、ただ続きを待つように俺を見る。
「あの時、何もしないっていう選択は出来なかったと思う。リビアが結界を維持してたし、周りには他の生徒もいた。俺が近づけば止められると思ったのも、今でも間違いだったとは思ってない」
「うん」
「でも、だからって自分がどうなってもいいわけじゃないっていうのは……昨日よりは分かってる」
言葉にしてみると、自分の中でも少し整理された気がした。
危険な状況で動かない、と約束することは出来ない。
誰かが目の前で危険に晒されているなら、きっと俺はこれからも動く。
ただ、自分が傷つく前提で最短距離を選ぶことと、助けるために動くことは、同じではない。
「次は、他に方法がないかも考える。誰かに任せられるなら任せるし、自分が行くとしても、出来るだけ危険を減らす方法を先に探す」
向かいに座るリビアの目元が、わずかに柔らかくなった。
「それならいいわ。『絶対に動かない』って言われても、私だって信じられないもの」
「そこは信じてくれないんだ」
「セスが?」
「……うん。無理だな」
「でしょう?」
二人で小さく笑う。
その横で、グレイヴが俺たちを静かに見ていた。
「何?」
「いえ。少なくとも、学園へ通わせた意味はすでにあったようだと思いまして」
「まだ二日目だよ」
「二日でその程度まで考え方が変わるのなら、十分でしょう。私が何年言っても直らなかった部分ですから」
「それは……」
反論しようとして、止めた。
たぶん事実だ。
「褒められてる?」
「半分ほどは」
「残り半分は?」
「今まで何度言っても直さなかったことへの呆れです」
「そっちは聞かなければよかった」
リビアの笑い声が、今度ははっきり馬車の中へ響いた。
やがて馬車がパウリー公爵家の正門を抜け、広い前庭を通って玄関前へ止まる。御者が扉を開ける気配がすると、俺はいつもの癖で先に降りかけた。
その瞬間、今日の総合礼法の授業が頭をよぎる。
主人と従者。
同格。
婚約者。
俺は一瞬だけ動きを止め、向かいにいるリビアを見る。
「どうしたの?」
「いや……今日の授業を思い出しただけ」
「また半歩後ろへ行かないように?」
「それもあるけど、馬車から降りる時に手を貸すのは、執事じゃなくても普通だよな?」
リビアは一瞬きょとんとして、それから頬を少し緩めた。
「ええ。婚約者でもしてくれるでしょうね」
「じゃあ問題ないな」
先に外へ降り、振り返って手を差し出す。
いつものように「どうぞ、お嬢様」と言いかけて、口を止めた。
「……リビア」
ただ名前だけを呼ぶ。
彼女の目が少し大きくなった。
次の瞬間には、とても嬉しそうに笑って俺の手へ自分の手を重ねる。
「ありがとう、セス」
「うん」
その手を支えながら地面へ降ろす。
執事としてなら、何百回とやってきた動作だ。
なのに名前を呼んだだけで、少し違うものに思えた。
後から降りてきたグレイヴの視線を感じ、俺は振り返る。
「何?」
「何も言っておりませんが」
「絶対何か思ってるだろ」
「気のせいでしょう」
口元がほんの少し緩んでいる。
「今日はみんなそればっかりだな……」
ぼやきながら屋敷へ入ると、見慣れた玄関広間が迎えてくれた。高い天井から吊るされた魔導灯には夕方用の柔らかな光が灯り始め、磨き上げられた床へ淡い輝きが落ちている。奥の厨房からは煮込み料理らしい香草と肉の匂いが漂い、使用人たちが夕食の支度で静かに行き交っていた。
学園であれだけ騒がしい二日間を過ごした後だからか、その普段通りの光景に少しだけ肩の力が抜ける。
「旦那様は執務室です」
グレイヴの一言で、抜けた力がまた戻った。
「今すぐ?」
「そのつもりでお待ちです」
「制服を着替えてからじゃ駄目?」
「不要です」
「せめてお茶を一杯」
「話の後でどうぞ」
「夕食を先に」
「同じく、話の後です」
「逃げ道が一つずつ塞がれていくんだけど」
「最初から逃がす予定がありませんので」
やっぱり怖い。
「セス、別に処刑されるわけじゃないのよ」
リビアが笑いながら隣へ並ぶ。
「分かってるけど、リビアは怒られない側だから言えるんだ」
「私も呼ばれてるでしょう?」
「でも旦那様、リビアには甘いから」
「セスにも相当甘いと思うわよ」
「それはない」
「あるわよ」
「ない」
「ある」
そんなことを言い合いながら廊下を進む。
グレイヴは後ろから何も言わずについてきたが、さっきより空気は柔らかかった。
それでも執務室が近づくにつれ、俺の歩幅は少しずつ小さくなっていく。ライゼルの攻撃を受けた時より緊張しているというリビアの指摘は、たぶん間違っていない。
執務室の前で、グレイヴが扉を二度叩いた。
「旦那様。お二人をお連れしました」
「入れ」
聞き慣れた低い声が返る。
いつもと同じ声なのに、今日はその短い一言だけで背筋が伸びた。
「失礼します」
「失礼いたします」
二人で入室すると、アルセス様は大きな執務机の向こうに座っていた。外はかなり暗くなり始めているが、机上の魔導灯が書類の山と、その脇に置かれた厚手の白い封筒を照らしている。
封蝋の紋章には見覚えがあった。
学園で見たシュザー家のものだ。
「来たか。二人とも座れ」
「はい」
俺とリビアが並んで腰を下ろし、グレイヴは後方へ控える。
アルセス様はすぐに話を始めなかった。
まずリビアを見て、次に俺を見る。
その視線は怒りよりも、何かを確かめるような色が強かった。
「まず確認する。二人とも、怪我はないな?」
「私はありません」
リビアが答えた後、少しだけ俺を横目で見た。
「セスも、少なくとも私が確認出来る範囲ではありません」
「見える範囲?」
アルセス様の眉が動く。
「リビア、その言い方は誤解を招く」
「だって、セスは昔から見えない場所の怪我を隠すでしょう?」
「今回は本当にないって」
「本当に?」
今度はアルセス様に聞かれた。
「はい」
「隠していないな?」
「隠してません」
「以前は隠した」
「それ、数年前です」
「数年前なら十分最近だ」
「俺の中では昔なんです」
「その基準が信用出来んと言っている」
開始からほとんど信用されていない。
「旦那様まで同じこと言います?」
「複数人から同じことを言われているなら、自分の方に原因がある可能性を考えろ」
正論すぎて何も言えない。
隣を見ると、リビアは当然のように頷いている。
「少しくらい味方してくれてもよくない?」
「これは無理」
即答だった。
アルセス様が小さく息を吐く。その口元が一瞬だけ緩んだように見えたが、すぐに表情は真剣なものへ戻った。
「冗談はここまでだ。昨日の件について、学園側から正式な報告を受けている」
「はい」
「学園長、担当教師、現場にいた複数の生徒から証言も取られている。ライゼル・シュザーが先に攻撃を始めたこと、お前が当初は防御や退避を優先し、周囲への被害を抑えようとしていたことも確認済みだ」
アルセス様の言葉は淡々としていた。
「そこについて、お前を責めるつもりはない。オリビアや他の生徒を守ったことについては、むしろ礼を言うべきだろう」
「ありがとうございます」
少しだけ肩の力が抜ける。
しかしアルセス様はすぐに続きを口にした。
「だが、フレイムストームの内部へ踏み込んだ判断だけは別だ」
「……はい」
「もし失敗していたら、どうなっていた?」
学園長室でも聞かれた問いだった。
だから今度は、曖昧に答えずに済む。
「重傷を負った可能性があります。最悪なら、死んでいたかもしれません」
隣で、リビアの指先が膝の上でわずかに縮こまる。
アルセス様は俺の目から視線を逸らさなかった。
「その可能性を理解したうえで入ったのか?」
「はい」
「それでも行った理由は?」
「俺が一番早く止められると思ったからです。リビアが後ろで結界を維持していて、周囲にもまだ生徒が残っていました。あのまま放置すれば範囲が広がる可能性があったので、俺なら内部まで近づいて術式の核を壊せると判断しました」
「成功すると確信していた?」
「かなり高い確率で出来るとは思っていました。でも、絶対ではありませんでした」
「なら、もしお前がそこで倒れていたら、どうなっていたと思う?」
昨日なら、最初に「リビアを守る人間が減る」と答えて終わっていたかもしれない。
今は、それだけではないと知っている。
「まず、リビアたちを守る人が一人減っていました。それと……俺が助けようとした人たちにも、もっと怖い思いをさせていたと思います」
ナナリーやミリアナの顔が浮かぶ。
俺が「大したことはない」と言った時、彼女たちは本気で怒っていた。
「先生たちにも迷惑を……」
言いかけたところで、アルセス様の眉が少し寄る。
「迷惑?」
やっぱり違う。
俺自身、口にした瞬間に分かった。
「……違いますね」
「何が違う?」
「迷惑じゃなくて……心配、だと思います。俺が倒れたら、グレイヴも旦那様も、屋敷のみんなも心配する」
そこまで言っても、アルセス様はまだ何も返さない。
俺はもう少し考える。
スラムにいた頃、誰かがいなくなることは珍しくなかった。
昨日まで隣で寝ていた子供が、次の日には戻ってこない。
食べ物を奪われた。
病気になった。
大人に連れていかれた。
理由すら分からないこともあった。
その度に、空いた場所には別の誰かが座った。
それを当然だと思っていた時期が長かったから、自分が消えた後に何が残るのかなんて、本気で考えたことがなかった。
でも、今は違う。
俺には名前を呼ぶ人がいる。
帰る屋敷がある。
怒ってくれる人も、心配してくれる人もいる。
「……悲しませる」
自分の口から出た言葉は、思っていたより重かった。
リビアが息を止めるようにこちらを見る。
アルセス様の表情も、ほんの少しだけ和らいだ。
「そうだ」
短い返事だった。
怒鳴られるより、その方が胸へ残った。
「お前は、自分の命を自分だけのものとして扱いすぎる」
アルセス様の声は低いが、怒りよりも静かな重みがあった。
「もちろん、命は本人のものだ。最後にどう生きるかを決めるのも本人だろう。だが、誰かと関係を持てば、その命に何かあった時、傷つくのは本人だけではない」
俺は黙って聞く。
「まして、お前は今、リビアの婚約者だ」
隣を見る。
リビアも俺を見ていた。
いつものように強い目ではなく、どこか不安を隠せないまま、それでも逸らさずこちらを見ている。
「公爵家の跡取り娘の婚約者だから死ぬな、と言っているわけではない」
アルセス様は一度だけ娘へ視線を向け、それから再び俺を見た。
「父親として言っている。私の娘が、自分で選んだ相手だ。簡単にいなくなるな」
その言葉を聞いた瞬間、返事が出なかった。
もっと強く叱られた方が楽だったかもしれない。危険なことをするな、二度とやるなと命令されれば、出来るかどうかは別として「気をつけます」と答えられた。
でも、今の言葉は命令ではない。
家のためでも、身分のためでもない。
ただ、いなくなるなと言われた。
「……はい」
やっとそれだけを返す。
十分な返事だったのかは分からない。
けれどアルセス様は、それ以上を求めず静かに頷いた。
すると、後ろに控えていたグレイヴが一歩だけ前へ出た。
「私からも、一つよろしいでしょうか」
「ああ」
アルセス様が許すと、グレイヴの視線が俺へ向く。
いつもの執事長としての目より、少しだけ近い。
「クルセス。お前は昔から、危険を見つけると自分が最初に飛び込みます」
「……うん」
「私が拾った頃から、その癖はほとんど変わっていません」
「そんなに?」
「最初は、食事を奪われそうになっていた年下の子供を庇い、自分が殴られました」
「覚えてない」
「次は、荷馬車へ飛び出した犬を追って道路へ入り、転んで腕を擦りむいた」
「それもあんまり……」
「川へ落ちた使用人見習いを助けようとして、服を着たまま飛び込んだこともあります」
「あれは浅かっただろ」
「一番深いところでは、お前の腰までありました」
「俺、泳げるし」
「そういう問題ではありません」
リビアがこちらへ身体を向けた。
「ちょっと待って。私、初めて聞く話が多いんだけど」
「昔のことだよ」
「またそれ言ってる」
「本当に昔なんだって」
「セスの『昔』は信用しないことにしたわ」
「それ、範囲広すぎない?」
軽口を挟みながらも、リビアの表情には笑いきれないものが残っている。
グレイヴもそれを見たうえで、静かに続けた。
「お前は、自分が傷つくことへの恐怖が極端に薄い。正確には、『傷ついても動けるなら問題ない』と考える癖があります」
「……それは、あると思う」
「だから周囲が危険だと止めても、自分の中では『動けるのだから問題ない』で終わってしまう。こちらが何を心配しているのか、理解するまでに時間がかかる」
否定出来ない。
「ですが、今回の報告を聞いて、一つだけ安心しました」
「安心?」
「学園長に言われたことを、その場だけで流さなかった。翌日には、自分なりに考え方を変えようとしていたそうですね」
「誰から聞いたの?」
「オリビアお嬢様です」
「やっぱりリビアか」
「何よ。必要なことしか話してないわ」
「今日の昼食で言ったことまで?」
「もちろん」
「それ、もう俺の日報じゃない?」
「セスの安全管理記録ね」
「もっと嫌だよ」
リビアは本気とも冗談ともつかない顔でそう言った。
グレイヴの口元も、ほんの少しだけ緩む。
「『次からは、他の方法があるなら先に考える』。その程度でも、今までのお前からすれば十分な進歩です」
「まだ全然直ってないけど」
「一日で直るとは思っていません。十五年かけて身についたものなら、時間をかけて変えるしかないでしょう」
その言葉に、胸の奥が少し軽くなる。
直さなければならない。
すぐに。
完璧に。
そう思っていたわけではないが、出来ない自分を責められる気持ちはどこかにあった。
「ありがとうございます」
「礼を言うなら、今度は本当に無茶をする前に一度周囲を見てください」
「努力します」
「そこは『します』と言い切ってほしいところですが、今はそれで結構です」
完全には信用されていない。
でも、前よりは少し認めてもらえた気がした。
「では、次だ」
アルセス様が机の上の白い封筒へ手を置く。
それだけで、部屋の空気が再び引き締まった。
「こちらにもシュザー家当主から正式な書状が届いている」
「内容は、学園に来たものと同じですか?」
「大筋では同じだ。家として今回の件を謝罪し、ライゼル本人からも直接謝らせたい。そのため、セスにシュザー家まで来てもらいたいと書かれている」
「やっぱり」
「学園長からも聞いたか?」
「はい。もし会うなら、学園内の方がいいって」
「私も同意見だ」
アルセス様の返答には迷いがなかった。
「シュザー家には行かせないんですか?」
「少なくとも現状ではな」
「相手は魔法師団長ですよね?」
「だから何だ」
声がわずかに低くなる。
俺は思わず背筋を伸ばした。
「相手が魔法師団長であろうと、公爵であろうと、こちらが不利な条件を受け入れる理由にはならん。まして、今回はお前が被害を受けた側だ」
「でも俺、怪我してないです」
「被害は怪我だけではないと、今さっき話したばかりだろう」
「……はい」
学園へ通い始めてから、自分が物事をかなり狭い基準で考えていたのだと何度も思い知らされている。
「シュザー家へは、学園内で第三者同席のもとなら面会を検討すると返す。すでに学園側とも連絡を取っている」
「俺たちが帰ってくる間に?」
「こういう話は後回しにするほど面倒になる」
「早いな……」
俺がまだ学園で魔法理論を受け、帰りの馬車で緊張していた間に、大人たちはすでに必要な連絡を進めていたらしい。
昔なら、何か問題が起きれば自分が一番に動かなければならないと思っていた。
今は、自分が知らないところでも誰かが動いてくれている。
「ライゼルの父親って、どんな人なんです?」
俺が尋ねると、アルセス様はすぐには答えず、少し考えてから口を開いた。
「魔術師としての能力は高い。軍務では厳格で、部下にも自分にも甘くないと聞いている」
「息子には?」
「そこまでは知らん。少なくとも、今回送られてきた書状からは、息子の行為を正当化するつもりは感じられない」
「じゃあ、家としては本気で謝罪してる?」
「現時点ではそう見ていい。ただし、実際にどう対応するかを見るまでは断定しない」
その答えに、少し安心した。
ライゼルが俺を嫌っているからといって、シュザー家全体まで敵だと思う必要はないらしい。
「でも」
隣で、リビアが静かに口を開いた。
「ライゼル様本人は、まだ私がセスを選んだことを納得していないんですよね?」
「完全には受け入れていないようだな」
「……面倒」
ぽつりと落ちた言葉に、俺は思わず隣を見る。
公爵令嬢らしく整えられた表情から出てきたとは思えないくらい、率直な一言だった。
「何よ」
「いや。リビアでもそんなこと言うんだなって」
「言うわよ。何度も断っているのに、『本当は違う』『セスに惑わされている』って扱われ続けるのは、普通に面倒だもの」
「それはそうだな」
俺でもそう思う。
「だから、もし面会するなら私も同席したい」
リビアはアルセス様へまっすぐ視線を向けた。
「ライゼル様がセスに謝るだけなら、私がいなくても構いません。でも、私の意思について何か言うなら、私は自分で話したいです。私が誰を選ぶのかは、私のことですから」
声は強い。
怒鳴っているわけではないのに、昨日ライゼルへ向けていた拒絶よりも、今の方がはっきりとした意思を感じた。
アルセス様は娘の言葉を途中で遮らず、最後まで聞いてから頷いた。
「気持ちは分かる。ただし、同席するかどうかは状況を見て決める」
リビアの眉が少し動いた。
「私を見ることでライゼル様が余計に感情的になる可能性があるから?」
「そうだ。面会の第一目的が謝罪なら、お前がいることで本題から逸れる可能性もある」
「でも、私がいないところで私の気持ちを勝手に語られるのも嫌です」
「それも分かる」
アルセス様は否定せず、机の上で指をゆっくり組んだ。
「だから今は決めない。ライゼル本人がどの程度落ち着いているのか、学園側がもう一度確認する。その報告を受けてから判断する」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ笑った。
「何だ?」
「いや。今日、俺も似たこと言ったなと思って」
「何をだ」
「まだ決まってないなら、今全部決めなくていいって。リビアにもそう言った」
アルセス様の眉がわずかに上がる。
リビアもこちらへ顔を向けた。
「セス、自分で言ったことちゃんと覚えてたのね」
「それくらい覚えてるよ」
「昨日までなら、何が起きるか全部考えて、全部先に決めようとしてたでしょう?」
「……たぶん」
危険があれば、先に対処を決める。
誰が動くか。
誰を守るか。
どこから逃がすか。
自分が何をするか。
全部考えていないと不安だった。
でも、今すぐ決める必要がないことまで抱える必要はない。
「なら今回は、それでいい」
アルセス様が頷く。
「シュザー家の返答を待つ。ライゼルの状態を学園が確認する。その後で必要なら面会を考える。お前たちは、それまでは通常通り学園へ行け」
「普通に?」
「可能ならな」
「旦那様まで俺の普通を疑ってません?」
「疑う理由しかない。編入初日に剣術で目立ち、五属性で目立ち、その日のうちに魔法師団長の息子と騒動を起こし、二日目には追加測定まで決まった人間が何を言っている」
「騒動を起こしたの俺じゃないですよね?」
「そこだけは認める」
「そこだけ?」
「他に何を認めろと言う」
納得がいかない。
ただ、一つ気になる言葉があった。
「追加測定のことも、もう知ってるんですか?」
「当然だ。学園から正式な連絡が来ている」
アルセス様は別の書類を手に取った。
「五属性それぞれの出力、精度、属性切り替え、複合魔術の安定性などについて、通常授業とは別に確認したいそうだ。保護者側への説明と承諾が必要とのことだった」
「保護者……」
その言葉に、少し妙な感覚が残る。
俺は十五歳で、伯爵家の養子になっている。
執事見習いとして仕事もしている。
それでも、こういう時にはまだ誰かに守られる側なのだ。
「グレイヴが確認したの?」
「はい」
「どこまで?」
「現時点では日程も内容も未確定です。ただし、安全確保についてはこちらからも条件を伝えています」
「高出力の迅雷撃破は?」
「認めません」
即答だった。
「ですよね」
「何を期待していたのですか」
「別に期待してない」
「複合魔術についても、教師側が安全性を確認した組み合わせに限るよう伝えています」
「エレナ先生と同じだ」
「当然です。学園へ測定に行って負傷して戻ってくるようでは意味がありません」
「分かってるよ」
「本当に?」
今度はリビアが入ってくる。
「分かってるって」
「今、ほんの少し残念そうな顔をしたわ」
「してない」
「した」
「してない」
「したわ」
「してません」
最後だけ敬語になった俺を見て、リビアが笑う。
アルセス様は小さく咳払いし、話を戻した。
「追加測定については、詳細が届いてから改めて確認する。それからもう一つ。お前の学園での立場についてだ」
「俺の立場?」
「婚約者としての立場だ」
思っていなかった話題に、俺もリビアも少し姿勢を正す。
「お前たちの婚約は公にしている。学園内でも隠す必要はない。だがセス、お前は今もパウリー家の執事見習いでもある」
「はい」
「その二つを混同するな」
その言葉で、今日の総合礼法を思い出した。
思わずリビアを見ると、向こうも同じことを考えたらしく、少しだけ笑っている。
「今日、まさにそれを授業で言われました」
「何?」
「主人と従者として歩く場合、同格として歩く場合、婚約者として歩く場合を練習したんです」
「それで?」
「……主人と従者だけ、ほぼ満点でした」
アルセス様が黙る。
グレイヴも何も言わない。
リビアだけが先に口元を押さえた。
「笑いたいなら笑っていいですよ」
「いや、悪い。あまりにも想像通りだったのでな」
「旦那様まで……」
「婚約者として腕を出した時、『どうぞ、お嬢様』とでも言ったのではありませんか?」
後ろからグレイヴの声が飛んでくる。
俺はゆっくり振り返った。
「……何で分かったの?」
「お前だからです」
「理由になってないだろ」
「十分な理由だと思います」
リビアが肩を震わせている。
「それで先生から、『与える側に慣れすぎている』って言われました。リビアからも、俺に何かしてもらうだけなのは嫌だって」
「逆」
即座に訂正された。
「私がセスに何かしてもらうだけなのが嫌だって言ったの。そこ、大事だから間違えないで」
「あ、そうだった」
「本当に大事なのよ?」
「ごめん」
アルセス様が俺たちを交互に見る。
「つまりリビアは、お前に執事であることをやめてほしいのではなく、自分の前で常に仕える側へ下がってほしくない、と言ったわけだな」
「たぶん、そうです」
「たぶんじゃなくてそうよ」
リビアの声には迷いがない。
「私はセスに仕事を辞めてほしいわけじゃないし、執事をしてるセスも好き。でも、婚約者になった後まで、何をする時も私より半歩後ろにいられるのは嫌なの」
改めて聞くと、少し胸の奥がざわつく。
「お前はどう思っている?」
アルセス様に聞かれ、俺はしばらく考えてから答えた。
「嫌ではないです。ただ……難しいです」
「何が?」
「ずっとそうしてきたので。リビアより半歩後ろを歩くとか、荷物を持つとか、扉を先に開けるとか。そういうのは、もう考えなくても身体が動きます。でも、隣を歩けと言われると意識しないと出来ない」
今日も礼法実習室を出た直後は出来ていたのに、少し気を抜けば元の位置へ戻りそうになった。
「だから、今日練習しました」
「何を?」
「隣を歩く練習です」
アルセス様が、今度こそはっきり笑った。
「そんなに面白いですか?」
「いや、悪い。十五歳の婚約者同士が何を練習したと言うから、もう少し別のものを想像しただけだ」
「別のもの?」
「セスは考えなくていい」
リビアがものすごい速さで割り込んだ。
「何で?」
「いいから」
「また俺だけ分からないやつ?」
「今回は本当に分からなくていいわ」
納得出来ない。
アルセス様はまだ少し笑っていたが、やがて表情を落ち着かせた。
「だが、それでいい。出来ないなら慣れればいい」
「リビアと同じこと言いますね」
「当たり前だ。お前が執事であることを捨てる必要はない。だが婚約者になった以上、リビアの隣に立つことも覚えろ」
「はい」
「それは単に身分の話ではない」
アルセス様の声が、少しだけ柔らかくなる。
「お前は今でも、自分が元平民だから、元孤児だからという理由で、一歩引くことがある」
胸の奥を見透かされたような気がした。
「……分かります?」
「分かる。長く見ているからな」
「そんなに出てます?」
「誰にでも分かるほどではない。だが、家族なら分かる」
その言葉に、俺は一瞬何も返せなかった。
家族。
今まで何度も言われてきたはずなのに、今日は妙に引っかかる。
「お前が自分の過去を忘れる必要はない。それで出来上がった考え方を、明日から全て変えろとも言わん。簡単に消えるものでもないだろう」
アルセス様は静かに言葉を続ける。
「だが、少なくとも私は、お前をリビアの婚約者として認めた。グレイヴも、お前を息子として育てている。屋敷の者たちも、お前をここへ戻ってくる人間だと思っている」
その一言一言が、ゆっくり胸の奥へ落ちていく。
「だから、お前自身だけがいつまでも『自分は隣に立つ人間ではない』と思い続けるのは困る。時間をかけて慣れろ」
「……はい」
今度は、さっきよりしっかり答えられた。
隣からリビアの手が伸びてきて、椅子の間で俺の指先へ軽く触れる。
人目があるからなのか、握るまではしない。
ただそこにいると伝えるような、小さな接触だった。
「よし。今日は以上だ」
「……終わり?」
「何だ。不満か」
「いや、もっと怒られると思ってたので」
「怒っているぞ」
「え」
「死ぬかもしれない行動を、自分なら出来るという理由だけで選ぶ癖にはな」
やっぱり怒っていた。
アルセス様は苦笑するでもなく、俺をまっすぐ見ている。
「ただ、怒鳴れば直るとも思っていない。お前は命令されたからやめるのではなく、自分で納得しなければ同じことをする」
「……たぶん」
「だから考えろ。次に同じような状況が来た時、助けるなとは言わん。ただ、自分も戻ってくる方法を考えろ」
「はい」
その返事をした時、隣で触れていたリビアの指が少しだけ俺の手へ重なった。
「ありがとうございます」
「礼を言うところか?」
「分かりません」
「なら、それも学園で学んでこい」
「そんな授業あります?」
「知らん」
さっきまで重かった空気が、ようやく少し緩む。
その隙を逃さないように、リビアが小さく手を上げた。
「お父様、一つだけいい?」
「何だ」
「セスと、たまに二人だけで昼食を食べてもいい?」
「……なぜ私に聞く」
「一応」
「好きにしろ。学園での昼食相手まで父親が決めるつもりはない」
「ありがとうございます」
リビアはかなり満足そうに笑った。
アルセス様の視線が今度は俺へ向く。
「お前も嫌ではないんだな?」
「はい」
そこはもう迷わない。
「俺から、たまには二人で食べようって言いました」
リビアの目がぱっと明るくなる。
アルセス様は一瞬だけ俺を見て、それから何とも言えない顔になった。
「何です?」
「いや」
「今日、みんなそれ多すぎません?」
「気にするな」
「気になります」
「そのうち分かる」
「またそれですか」
俺だけ知らないことが、学園へ入ってから急に増えた気がする。
それでも執務室を出る頃には、入ってきた時よりずっと身体が軽く感じられた。
シュザー家の問題は終わっていない。
ライゼル本人も、まだ自分の感情を整理出来ていない。
追加測定の日程も内容も決まっていないし、学園で広がった噂が明日になれば消えているとも思えない。
何一つ完全には片付いていない。
けれど、それでいいのだと少しだけ思えるようになった。
シュザー家のことは返事が来てから考えればいい。
追加測定は、条件が決まってから向き合えばいい。
まだ起きてもいないことを全部今の自分が背負わなくても、先生や旦那様やグレイヴがそれぞれ動いてくれている。
廊下へ出ると、屋敷は夕食前の慌ただしさに包まれていた。厨房の方から食器の触れ合う音が響き、焼いた肉と香草の匂いが流れてくる。窓の外では日がほとんど沈み、庭の小道に並ぶ魔導灯へ一つずつ明かりが灯り始めていた。
「セス」
隣から呼ばれる。
「何?」
「隣」
「あ」
考え事をしている間に、いつの間にか俺は半歩だけ後ろへ下がっていた。
苦笑しながら一歩進み、リビアと肩を並べる。
「難しいな」
「今日一日で直るわけないでしょう?」
「そうだけど」
「だから毎日練習するの」
「本当に毎日やる気?」
「当然よ」
リビアが当然のように手を差し出してくる。
俺はその手を見る。
今朝までなら、たぶん彼女が握ってくるのを待っていた。
でも、礼法の授業で言われた。
伴侶は、一方が何かを与え続ける関係ではない。
隣に立つなら、自分から近づくことも必要なのだろう。
俺は差し出された手を取った。
それだけでは終わらせず、自分から指を絡める。
「これでいい?」
聞くと、リビアは一瞬だけ目を丸くした後、ゆっくりと笑った。
「うん。今日はそれで満点」
「礼法の授業より評価が甘くない?」
「婚約者特別加点よ」
「何だそれ」
「私が決めたの」
「ずるい採点だな」
「嫌?」
「いや」
すぐに答えられた自分に、少し驚く。
リビアもそれに気づいたらしく、絡めた指へ少しだけ力を込めた。
胸の奥が温かくなる。
最近、彼女が嬉しそうに笑うたびに感じるもの。
今までは理由が分からないから、そのままにしていた。
今日もまだ名前をつけるつもりはない。
ただ、不快ではないどころか、この感覚が来ると少し安心することだけは分かってきた。
「夕食、行こう」
「ええ」
二人で並んで歩き始める。
半歩後ろではなく、本当に隣で。
廊下の向こうから使用人が二人やってきて、俺たちへ一礼した。絡めたままの手へ一瞬だけ視線が落ちた気がしたが、二人とも何も言わず、ほんの少しだけ微笑んで通り過ぎていく。
以前の俺なら、見られた瞬間に手を離したかもしれない。
執事見習いが公爵令嬢と手を繋いで屋敷を歩くなんて、と反射的に考えただろう。
でも今日は、離さなかった。
リビアも離さない。
それで困る人はいなかった。
昔の俺は、何かが起きる前に全部準備しなければならないと思っていた。
危険を先に見つけて、自分が先に入り、守れるものは全部守ろうとした。誰かへ任せるという考えそのものが、なかなか浮かばなかった。
でも今は違う。
問題が残っていても、今日すぐ解決しなくていいことがある。
自分が一人で背負わなくても、動いてくれる人がいる。
そして、半歩後ろへ下がらなくてもいい相手がいる。
絡めた指を、俺はほんの少しだけ自分から握り直した。
リビアの顔がこちらへ向く。
「セス?」
「……何でもない」
「そう?」
「うん」
今度は、彼女も理由を尋ねなかった。
ただ同じくらいの力で手を握り返し、俺の隣を歩き続ける。
まだ分からないことは多い。
自分がどうしてリビアの笑顔をこれほど気にするのかも、この温かさへどんな名前をつければいいのかも、はっきりとは分からない。
けれど。
隣にいるのが落ち着くということくらいは、もう認めてもいい気がした。
夕食の匂いが近づく廊下を、俺は最後まで一度も半歩後ろへ下がらなかった。




