第135話 公爵令嬢様は、俺が誰かのために動く理由を見逃してくれないらしい
翌朝、パウリー公爵邸の厨房では、いつもより少し早い時間から食器の触れ合う音が響いていた。
大きな窓の向こうには薄い雲が広がっていたものの、雨が降り出す様子はない。裏手の搬入路については引き続き北側の迂回路を使うことになっており、厨房へ届く食材も、しばらくはそちらから運び込まれる予定だった。
俺は学院へ向かう前に、厨房で使う布類の補充状況を確認していた。
普段なら担当の使用人が行う仕事だが、今朝は別の作業と重なっていたため、父さんから確認だけを頼まれている。必要な数量を数え、保管場所に置かれた帳面と照らし合わせて報告するところまでが、今回の俺の役割だった。
「こちらの棚は、記録と一致していますね」
俺が確認した数字を読み上げると、隣で帳面を持っていた年配の使用人が頷いた。
「ありがとうございます、セス様。残りは奥の棚だけですので、こちらで確認いたします」
「分かりました。それでは、確認済みの分を父さんへ報告しておきます」
俺はそう答え、手元の紙を整えた。
そのとき、厨房の奥から小さな物音が聞こえた。
振り返ると、若い使用人が布を入れた籠を抱え直そうとしていた。籠そのものは重そうではなかったが、片側へ偏って積まれているため、持ち上げるたびに中身がずれてしまうらしい。
「大丈夫ですか?」
俺が声をかけると、若い使用人は少し驚いたように顔を上げた。
「あっ、はい。申し訳ありません。布を運ぼうとしたのですが、少し積み方が悪かったみたいで……」
彼女は苦笑しながら、籠を床へ置いた。
俺はその様子を見て、思わず手を伸ばしかけた。
布の位置を整えるくらいなら、すぐにできる。
けれど、その瞬間、父さんから何度も教わってきたことを思い出した。
仕事には担当があり、作業の途中にはそれぞれの事情がある。手伝うつもりで勝手に触れた結果、確認済みの物と未確認の物を混ぜてしまう可能性だってあるのだ。
「その籠は、もう数量の確認が終わっているんですか?」
俺が尋ねると、若い使用人は頷いた。
「はい。こちらは確認済みで、奥の保管棚へ戻すところです」
「それなら、運ぶ前に積み方を直した方がよさそうですね。俺が少し支えましょうか?」
「ありがとうございます。でも、持ち方を変えれば大丈夫だと思います」
彼女はそう答え、籠の中身を丁寧に整え直した。
布を左右へ均等に分け、持ち手の位置を確かめてから持ち上げると、今度は安定している。
「これなら大丈夫です。お声をかけていただき、ありがとうございました」
「いえ。気をつけてくださいね」
俺は彼女を見送り、報告用の紙へ目を落とした。
手伝わなかったことが、少しだけ不思議に感じられた。
以前なら、あの籠を代わりに運んでいたかもしれない。
困っている人がいれば、できるだけ早く助けたいと思う。それ自体は、今も変わっていない。
けれど、相手が自分でできることまで奪う必要はないのだろう。
(……助けるって、何でも代わりにやることじゃないんだよな)
そんなことを考えながら厨房を出ると、廊下の向こうから父さんが歩いてきた。
「セス。確認は終わりましたか?」
「うん。頼まれた棚の分は帳面と一致していたよ。奥の棚については、担当の方が続けて確認してくれることになってる」
「分かりました。では、報告書をこちらへ」
俺が紙を渡すと、父さんは内容を確認した。
「問題ありません。ありがとうございます」
「父さん、少し聞いてもいい?」
「何でしょう」
俺は先ほどの出来事を簡単に説明した。
籠を運ぼうとしていた使用人が困っているように見えたこと。
手伝おうと思ったが、まず状況を確認したこと。
結果として、本人が積み方を直し、自分で運べたこと。
父さんは最後まで聞き、少し考えるように目を細めた。
「それで、あなたは何が気になったのですか?」
「……俺が代わりに運んだ方が、早かったのかなって」
正直に答えると、父さんはすぐには返事をしなかった。
窓の外から鳥の声が聞こえ、廊下の奥では別の使用人たちが朝の準備を進めている。
しばらくして、父さんは穏やかな声で言った。
「早く終わることだけが、よい仕事とは限りません」
俺は父さんの顔を見た。
「今回、相手の方は自分で作業を続けられたのでしょう?」
「うん。積み方を直したら、問題なく運べていたよ」
「それなら、あなたが代わりに運ぶ必要はなかったのでしょう。もちろん、危険が迫っていたなら別ですが、今回はそうではなかったようですね」
父さんは書類を揃え、俺へ返した。
「助けようとする気持ちは大切です。ただし、相手が何を必要としているか確かめずに動けば、親切のつもりが余計な手間になることもあります」
「……なるほど」
「あなたは、相手が困っていることに気づける人です。その長所を、これからは相手の判断を尊重することにも生かしなさい」
俺はゆっくりと頷いた。
父さんの言葉は、昨日の図書室での出来事にも通じるものがあった。
あの下級生が必要としていたのは、俺が代わりに課題を終わらせることではない。
目的の本を見つけ、自分で調べられるようになることだった。
「分かった。ありがとう、父さん」
「ええ。では、そろそろ朝食の時間です。お嬢様をお待たせしないように」
父さんはそう言って、いつもの落ち着いた表情で歩き出した。
俺も書類を所定の場所へ戻し、食堂へ向かった。
◇
食堂へ入ると、リビアはすでに席についていた。
窓際から差し込む朝の光が、彼女のシルバーブルーの髪を柔らかく照らしている。俺の姿に気づいたリビアは、読んでいた小さな本を閉じ、嬉しそうに顔を上げた。
「おはよう、セス。今日は厨房のお手伝いだったの?」
「おはよう、リビア。うん。布の数量を確認していたんだ」
「そうだったのね。お疲れさま」
俺が席につくと、リビアは少しだけ首を傾げた。
「でも、何か考え事をしているように見えるわ」
「……そんなに顔に出てる?」
「ええ。少なくとも、私には分かるもの」
彼女は楽しそうに笑った。
俺は少し照れくさくなりながら、先ほどの出来事を話した。
リビアは途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。
「なるほど。相手の方は、ご自分で籠を運べたのね」
「うん。俺が手伝う必要はなかったみたいだ」
「でも、セスが声をかけたから、安心して作業を続けられたのかもしれないわ」
リビアはそう言って微笑んだ。
「あなたは、困っている方を見ると放っておけないでしょう? 私は、そんなところも好きよ」
不意にそう言われ、俺は思わず視線を逸らした。
「……朝からそういうことを言うのは、ずるいと思う」
「ふふっ。どうして?」
「どうしてって……。返事に困るから」
俺がそう答えると、リビアは頬を少し赤く染めながらも、楽しそうに笑った。
「それなら、私の勝ちね」
「何の勝負なの?」
「あなたを照れさせる勝負よ」
彼女は得意そうに微笑んだ。
俺は苦笑しながら、目の前に運ばれてきた朝食へ視線を落とした。
焼きたてのパンから温かな香りが立ち上り、野菜の入ったスープには薄く湯気が浮かんでいる。
リビアはしばらく俺の様子を楽しそうに眺めていたが、やがて少し真剣な表情になった。
「でもね、セス。私、今日のお話を聞いて少し嬉しかったの」
「どうして?」
「あなたが、誰かのために何かをしようとしたとき、相手の気持ちまで考えていたから」
リビアは静かに続けた。
「あなたは昔から、とても優しいわ。でも、その優しさを自分の負担にしてしまうこともあったでしょう?」
俺は返事に迷った。
リビアが言っていることは、たぶん間違っていない。
誰かが困っていると、自分が何とかしなければならないと思ってしまう。
その人が何を望んでいるのか確かめるより先に、自分にできることを探してしまう。
それが悪いことばかりではないとしても、いつも正しいとは限らないのだろう。
「……少しずつ、気をつけていこうと思う」
俺がそう答えると、リビアは嬉しそうに頷いた。
「ええ。私も一緒に考えるわ」
彼女はそう言って、スープの器へ手を伸ばした。
俺も朝食を食べ始めながら、今日の学院の予定を思い出した。
昨日は図書室で思いがけない出来事があった。
今日は特別な用事を予定していないが、歴史の授業で確認した資料について、もう少し整理しておきたい。
ただし、図書室の案内板については、司書の方が確認を進めることになっている。
俺たちが勝手に何かを変更する必要はない。
そのことも、忘れないようにしなければならなかった。
◇
学院へ到着した頃には、空の雲が少し薄くなっていた。
教室ではガレスがサザリーと話しており、エミリアは窓際の席でノートを整理していた。
俺たちが入ると、ガレスがすぐに顔を上げた。
「おう、セス! おはよう!」
「おはよう、ガレス。今日は何の話?」
「昨日借りた剣術の本のことだよ。読んでたら、基本姿勢の説明が思ってたのと少し違っててさ」
ガレスは机の上に置いた本を指し示した。
「俺、今まで足の位置ばかり気にしてたんだけど、重心の移し方も大事なんだなって思ったんだ」
「なるほど。どの部分?」
俺が尋ねると、ガレスは本を開き、図の描かれたページを見せてくれた。
そこには、剣を構えた人物の姿勢がいくつかの角度から描かれている。
「ここだよ。前へ踏み込むとき、上半身だけ先に動かすと姿勢が崩れるって書いてあるだろ?」
「うん。確かにそうだね」
俺は図を確認しながら頷いた。
剣術では、腕の動きだけでなく、足運びや体の重心も大切になる。
特に相手との距離が近いときは、少しの姿勢の乱れが次の動作へ影響することもある。
「でも、これって実際にやってみないと分かりにくいよな」
ガレスは少し困ったように笑った。
「そうだね。文章や図で理解できることもあるけど、体を動かして確かめた方が分かりやすい部分もあると思う」
「だろ? だから、今度の剣術の時間に先生へ聞いてみようと思ってるんだ」
俺はその言葉を聞き、少し嬉しくなった。
以前のガレスなら、分からないことがあれば、すぐに俺へ練習相手を頼んでいたかもしれない。
もちろん、それが悪いわけではない。
けれど、授業で扱う内容について先生へ確認しようと考えたのは、彼自身が学び方を工夫しているからなのだろう。
「いいと思うよ。先生なら、実際の動きも見ながら教えてくれるはずだから」
「おう。セスにも、あとで感想を聞かせてくれよ」
「うん。俺でよければ」
俺がそう答えると、ガレスは嬉しそうに笑った。
その横で、サザリーが少しだけ目を細めた。
「ガレス。昨日は本を借りただけで満足していたのに、ちゃんと読んできたんだね」
「なんだよ、その言い方。俺だって本くらい読むぞ」
「分かっているよ。ただ、昨日は表紙を見ただけでずいぶん嬉しそうだったから」
サザリーの言葉に、ガレスは少し照れくさそうに頭をかいた。
俺たちはそんなやり取りを交わしながら、授業の準備を進めた。
午前の授業は、語学と数学だった。
数学では、複数の条件を整理して答えを導く問題が出された。
先生は最初から答えを示すのではなく、どの情報が必要で、どの情報がまだ分かっていないのかを考えるよう指示した。
俺は問題文を読みながら、少しだけ昨日の図書室のことを思い出した。
探している資料が見つからなかった下級生も、案内板の情報だけでは目的の場所へ辿り着けなかった。
必要な情報が不足しているとき、無理に答えを出そうとしても、間違った方向へ進んでしまうことがある。
もちろん、数学の問題と図書室の案内は別の話だ。
それでも、分かっていることを整理する大切さは、いろいろな場面で共通しているのかもしれない。
授業が終わる頃には、教室の空気も少し和らいでいた。
生徒たちはそれぞれノートを閉じ、昼休みの準備を始めている。
俺も教科書を片づけ、リビアと一緒に昼食へ向かった。
◇
昼食の席では、エミリアが昨日の図書室の出来事について話しかけてきた。
「セス様、リビア様。昨日お話しされていた案内板の件ですが、少し気になっていることがあります」
俺は顔を上げた。
「どうしたの?」
「実は、今日の午前中に別の生徒から、図書室の歴史関係の本が見つけにくいと聞いたんです」
エミリアは少し考えながら続けた。
「ただ、その方がどの案内を見て迷われたのかまでは分かりません。昨日のお話と同じ理由なのかどうかも、まだ確認できていないのですが……」
リビアは静かに頷いた。
「そうだったのね。教えてくれてありがとう、エミリア」
「いえ。昨日のお話を聞いていたので、少し気になっただけなのです」
エミリアは控えめに微笑んだ。
俺はその話を聞きながら、図書室の入口にあった案内板を思い出した。
昨日、下級生が迷っていたのは、歴史関係の資料が置かれた区画だった。
けれど、同じように困っている人がいたとしても、理由が同じとは限らない。
単に本の分類が分かりにくかったのかもしれないし、目的の本が貸し出し中だった可能性もある。
「……昨日の件と関係があるかもしれないけど、まだ分からないね」
俺がそう言うと、サザリーが頷いた。
「そうだね。案内板の表示が古いことは確認できているけど、すべての困り事がそれだけで起きているとは限らないから」
ガレスはパンを口へ運びかけたまま、少し考え込んだ。
「でもさ、実際に困ってるやつがいるなら、何とかした方がいいんじゃないか?」
「それはそうだと思うよ」
俺は頷いた。
「ただ、図書室の案内については司書の方が確認しているところだから、俺たちが勝手に何かを変えるわけにはいかないんだ」
「なるほどな。じゃあ、困ってたって話を伝えるくらいか」
「うん。必要なら、そういうことになると思う」
俺が答えると、リビアが静かに口を開いた。
「私、昨日から考えていたのだけれど、困っている方のお話を聞くことと、その問題を解決することは、必ずしも同じではないのね」
彼女は少しだけ視線を落とし、言葉を選ぶように続けた。
「私は、困っている方がいらっしゃると、すぐに何かできないか考えてしまうの。でも、実際にどうするべきかは、その場所を管理している方々が判断しなければならないこともあるのでしょう?」
サザリーは頷いた。
「そうだと思います。特に学院の設備や案内については、利用する生徒だけでなく、管理する方々の事情もありますから」
エミリアも静かに微笑んだ。
「でも、リビア様が昨日あの方へ声をかけられたことは、とても素敵だったと思います。困っているときに誰かが気づいてくださるだけで、安心できることもありますから」
リビアは少し驚いたように顔を上げた。
「……ありがとう、エミリア」
その頬がほんのりと赤く染まっている。
俺はそんなリビアを見ながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼女は公爵令嬢として、いつも周囲へ気を配っている。
けれど、困っている人を見つけたときに動こうとするのは、身分や立場だけが理由ではない。
リビア自身が、誰かの力になりたいと思っているからだ。
俺はそのことを、改めて嬉しく感じていた。
◇
午後の授業では、歴史の先生が古い王国の街道整備について説明した。
黒板には、主要な街道と、それらを結ぶ小さな道が簡単な図で描かれている。
先生は、道路の整備が人や物の移動だけでなく、町や村の暮らしにも影響していたことを説明した。
俺はノートへ要点を書き留めながら、以前読んだ『領地管理基礎資料 道路・橋梁編』のことを思い出した。
あの資料には、道路や橋の状態を確認するための基本的な考え方が書かれていた。
ただし、学院の授業で扱っているのは歴史的な制度や変化についてであり、現在のパウリー公爵家の搬入路について直接判断できるものではない。
俺はその違いを意識しながら、先生の話を聞いていた。
授業の途中、先生は生徒たちへ問いかけた。
「では、ある道が使いにくくなった場合、周囲の人々にはどのような影響があるでしょうか。交通の問題だけでなく、生活への影響も考えてみてください」
教室のあちこちで、生徒たちが考え始めた。
ガレスは少し首を傾げ、サザリーはノートへ何かを書き込んでいる。
リビアも真剣な表情で黒板を見つめていた。
俺は少し考えてから、手を挙げた。
「はい、シルフィール」
「道が使いにくくなると、荷物を運ぶ人が別の道を使わなければならなくなると思います。その結果、運ぶ時間が変わったり、別の道を使う人が増えたりするかもしれません」
先生は頷いた。
「よい着眼点です。では、そのほかには?」
別の生徒が手を挙げ、町へ向かう人の移動が不便になる可能性を答えた。
さらに、商人の往来や物資の供給について意見が出され、教室の議論は少しずつ広がっていった。
俺は周囲の意見を聞きながら、道一つの状態が、思っていた以上に多くの人へ関係することを感じた。
ただ、どの道でも同じ影響が出るわけではない。
使う人の数や、別の経路があるかどうかによっても事情は変わるはずだ。
先生は最後に、黒板へいくつかの項目を書き加えた。
「重要なのは、道の状態だけを見るのではなく、その道を誰が、何のために使っているのかを考えることです。歴史を学ぶときも、制度や建造物だけでなく、そこで暮らしていた人々の生活へ目を向けてください」
俺はその言葉をノートへ書き留めた。
道路や橋のことを考えるとき、つい構造や整備方法へ目が向いてしまう。
けれど、その道を使う人がいるからこそ、道の状態を確認する必要があるのだ。
(……屋敷の搬入路も、ただ道が使えるかどうかだけじゃなくて、実際に荷物を運ぶ人たちのことを考えないといけないんだろうな)
そう考えながら、俺はノートを閉じた。
◇
放課後、俺たちは教室を出て、廊下を歩いていた。
窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めている。
ガレスは明日の剣術の授業について話し、サザリーは借りた本を返す予定を確認していた。
エミリアは途中で別の生徒に呼び止められ、俺たちへ軽く手を振ってからそちらへ向かった。
俺とリビアは、そのまま玄関へ向かうことにした。
ところが、図書室へ続く廊下の近くまで来たところで、昨日見かけた下級生の姿が目に入った。
彼は友人らしい男子生徒と並んで歩いており、手には昨日探していたものと同じような厚さの本を抱えている。
俺たちに気づくと、彼は少し驚いたように足を止めた。
「あっ、昨日の先輩方!」
俺は微笑んだ。
「こんにちは。昨日の本は、役に立った?」
「はい! おかげさまで、課題に必要なところを調べられました」
彼は嬉しそうに答えた。
隣の友人も、少し興味深そうに俺たちを見ている。
「昨日、この人たちが本を探すのを手伝ってくれたんだ」
下級生が友人へ説明すると、その友人は慌てて姿勢を正した。
「そうだったんですね。ありがとうございます」
「いえ。俺たちは司書の方へ確認しただけだから」
俺がそう答えると、リビアも柔らかく微笑んだ。
「目的の資料が見つかって、本当によかったわ」
下級生は少し照れくさそうに笑った。
「実は、今日も図書室へ行こうと思っているんです。昨日教えていただいたので、今度は迷わずに行けそうです」
「それならよかった。でも、また分からないことがあったら、遠慮せずに司書の方へ聞いてね」
「はい!」
彼は元気よく頷いた。
俺たちは軽く挨拶を交わし、下級生たちを見送った。
彼らが図書室へ向かって歩き出すと、リビアが小さく息を吐いた。
「……嬉しいわね」
「うん。昨日のことが、ちゃんと役に立ったみたいだ」
俺が答えると、リビアは静かに頷いた。
「でも、セス。私、少し不思議な気持ちなの」
「不思議?」
「ええ。昨日は、あの方が困っていることを何とかしたいと思っていたのに、今日は、あの方が自分で図書室へ行こうとしていることが嬉しいの」
俺はその言葉を聞き、少し考えた。
昨日、あの下級生は案内板の前で立ち止まっていた。
どこへ行けばいいのか分からず、司書の方へ声をかけることもためらっていた。
けれど今日は、友人と一緒に図書室へ向かい、必要な本を探そうとしている。
その変化を見られたことが、俺も嬉しかった。
「……誰かに助けてもらったあと、自分でできるようになるのって、いいことだよね」
俺がそう言うと、リビアはゆっくりと頷いた。
「ええ。私もそう思うわ」
彼女は少しだけ俺へ近づき、袖を軽く引いた。
「セス。あなたも、そうやっていろいろなことを覚えてきたのでしょう?」
俺は少し驚いた。
「……俺?」
「ええ。グレイヴからお仕事を教わったり、先生方から勉強を教わったりしながら、少しずつできることを増やしてきたのではないかしら?」
俺はしばらく考えた。
父さんに引き取られてから、俺は本当に多くのことを教わってきた。
文字の読み書きも、礼儀作法も、執事としての仕事も。
剣術や魔法についても、最初から何でも分かっていたわけではない。
誰かに教わり、失敗し、もう一度考えながら、少しずつ覚えてきたのだ。
「……そうだね。俺も、いろんな人に助けてもらってきたんだと思う」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「だから、今度はあなたが誰かを助けることもあるのでしょうね」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
助けてもらったことがあるから、誰かの困り事に気づけるのかもしれない。
そして、誰かを助けるときにも、相手が自分でできることを大切にする必要がある。
俺はそんなことを考えながら、リビアと並んで玄関へ向かった。
◇
屋敷へ戻ると、父さんは執務用の書類を整理していた。
俺たちが挨拶すると、父さんは穏やかに頷き、学院での様子を尋ねてくれた。
俺は今日の歴史の授業について話し、道路の状態が人々の暮らしへ与える影響を学んだことを伝えた。
父さんは興味深そうに耳を傾けていたが、俺が屋敷の搬入路について触れると、少しだけ表情を引き締めた。
「なるほど。授業で学んだことを、身近な仕事へ結びつけて考えたのですね」
「うん。でも、授業で聞いたことだけで、今の搬入路について判断できるわけじゃないと思う」
「その認識でよろしいと思います」
父さんは静かに頷いた。
「現在の搬入路については、担当者が状態を確認しています。北側の迂回路を使う運用も継続中ですから、あなたが独自に調査する必要はありません」
「分かった。必要なことがあれば、また教えてね」
「ええ。あなたへ伝えるべきことがあれば、こちらからお話しします」
父さんはそう答えたあと、リビアへ視線を向けた。
「お嬢様。今日は図書室へは行かれなかったのですか?」
「ええ。今日は寄らずに帰ってきたの。でも、昨日お会いした下級生の方と、廊下でお話ししたわ」
リビアは嬉しそうに微笑み、下級生が自分で図書室へ向かっていたことを話した。
父さんはその説明を聞き、穏やかに頷いた。
「それは何よりでございます」
「ええ。私、昨日あの方へ声をかけてよかったと思ったの」
リビアは少しだけ視線を落とした。
「でも、同時に、私が何でもして差し上げる必要はないのだとも思ったわ」
父さんは静かに微笑んだ。
「お嬢様がそのようにお考えになったことは、とても大切だと思います」
「……そうかしら?」
「はい。誰かを助けるということは、その方が自分の力で進めるよう支えることでもありますから」
リビアはゆっくりと頷いた。
俺はその横顔を見ながら、少しだけ嬉しくなった。
彼女もまた、今日の出来事から何かを学んでいる。
俺だけが変わっているわけではない。
リビアも、周囲の人たちも、それぞれの経験を通して少しずつ成長しているのだろう。
◇
夕食のあと、俺は自室で学院の復習を進めていた。
机の上には歴史のノートと、今日の授業で配られた資料が広げられている。
窓の外では夜の風が静かに吹き、庭園の木々がかすかに揺れていた。
俺はノートへ目を落としながら、今日一日の出来事を思い返していた。
朝、厨房で籠を運ぼうとしていた使用人へ声をかけたこと。
学院でガレスが剣術の本について話していたこと。
歴史の授業で、道路が人々の暮らしへ与える影響を学んだこと。
そして、昨日助けた下級生が、自分で図書室へ向かっていたこと。
どれも、大きな事件ではなかった。
けれど、俺にとっては大切なことばかりだった。
特に、下級生が嬉しそうに笑っていた姿が、何度も頭に浮かんでくる。
昨日、彼は困っていた。
けれど今日は、自分で目的の場所へ向かおうとしていた。
その姿を見て、俺は本当に嬉しかった。
(……俺が何かをしてあげたことより、あの子が自分でできるようになったことが嬉しいんだな)
そう考えながら、俺はペンを置いた。
そのとき、扉を叩く音が聞こえた。
「セス。少しだけいいかしら?」
リビアの声だった。
俺は椅子から立ち上がり、扉を開けた。
「どうしたの、リビア?」
彼女は夜用の落ち着いた服に着替えており、手には小さな本を持っていた。
「ふふっ。お勉強の邪魔をしてしまったかしら?」
「ううん。ちょうど休憩しようと思っていたところだよ」
「それならよかったわ」
リビアは嬉しそうに微笑み、部屋へ入ってきた。
俺が椅子を勧めると、彼女は静かに腰を下ろした。
「実はね、今日のことを少し考えていたの」
「今日のこと?」
「ええ。あの下級生の方のことよ」
俺は頷いた。
「俺も、ちょうど考えていたところなんだ」
リビアは少し驚いたように目を丸くした。
「まあ。本当?」
「うん。昨日は困っていたのに、今日は自分で図書室へ行こうとしていたのが嬉しくて」
俺がそう答えると、リビアは柔らかく微笑んだ。
「……やっぱり、あなたも同じことを考えていたのね」
彼女は膝の上で本を閉じ、少しだけ真剣な表情になった。
「セス。私ね、あなたが誰かを助けようとする理由が、少し分かった気がするの」
俺は首を傾げた。
「……理由?」
「ええ。あなたは、困っている方を見ると、その方が安心できるようにしたいと思うのでしょう?」
俺はしばらく考えた。
確かに、困っている人を見かけると、何かできないか考えてしまう。
けれど、それがなぜなのか、あまり深く考えたことはなかった。
「……そうかもしれない。でも、特別な理由があるわけじゃないと思う」
俺が答えると、リビアは静かに首を振った。
「特別な理由でなくてもいいのよ」
彼女は少しだけ身を乗り出した。
「あなたが誰かの困り事に気づいて、その方が安心できるようにしたいと思う。それだけで、十分に素敵なことだと思うわ」
俺はその言葉を聞き、少し照れくさくなった。
「……リビアは、俺のことを褒めすぎだよ」
「そんなことないわ。私は、思ったことを言っているだけよ」
彼女は楽しそうに微笑んだ。
けれど、すぐに表情を和らげ、静かに続けた。
「ただし、セス。あなた自身が困っているときは、私にも気づかせてほしいの」
俺は少し驚いて、彼女の顔を見つめた。
「……俺が困っているとき?」
「ええ。あなたは誰かの困り事にはすぐに気づくのに、自分のことになると、なかなか言ってくれないでしょう?」
リビアは少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「私は、あなたに助けてもらうだけではなくて、あなたの力にもなりたいの」
その言葉に、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
リビアは何度も、俺に同じことを伝えてくれている。
一人で抱え込まないでほしい。
困ったときは、自分にも話してほしい。
そして、二人で一緒に考えたい。
俺はその言葉を、少しずつ理解できるようになってきた気がする。
「……ありがとう、リビア」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。どういたしまして」
俺は少し考え、彼女の手へそっと指先を伸ばした。
リビアは一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに嬉しそうに笑い、俺の手を握り返してくれた。
「……セス?」
「俺も、リビアの力になりたいと思ってる。でも、それと同じくらい、リビアに支えてもらっていることも大切にしたいんだ」
俺がそう言うと、彼女の頬がほんのりと赤く染まった。
「……本当に?」
「うん。今日、あの下級生が自分で図書室へ行こうとしているのを見て、俺も少し考えたんだ」
俺はゆっくりと続けた。
「誰かに助けてもらうことは、悪いことじゃないよね。俺だって、父さんやリビアに助けてもらいながら、いろいろなことを覚えてきたんだから」
リビアは静かに頷いた。
「ええ。そうよ」
「だから、これからは、困ったときにちゃんと頼れるようになりたいと思う」
俺がそう答えると、リビアはしばらく黙っていた。
その瞳には、少しだけ潤んだような光が浮かんでいる。
「……セス」
彼女は小さく俺の名前を呼んだ。
俺が顔を上げると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「私、今のお言葉がとても嬉しいわ」
彼女は俺の手を両手で包み込んだ。
「あなたが私を頼ってくれることは、私にとっても幸せなことなの」
俺はその言葉を聞き、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
リビアは、俺に何かをしてもらうことだけを望んでいるわけではない。
俺が彼女を頼ることも、彼女にとっては大切なことなのだ。
「……これからも、よろしくね。リビア」
「ええ。こちらこそ、セス」
彼女は柔らかく微笑んだ。
窓の外では、夜の風が静かに木々を揺らしている。
机の上には、まだ復習の途中だったノートが広がっていた。
明日も、覚えなければならないことはたくさんある。
学院の勉強も、屋敷の仕事も、まだ分からないことばかりだ。
けれど、今は少しだけ、以前よりも気持ちが軽くなっていた。
誰かを助けたいと思う気持ちを、大切にしていい。
ただし、その人が何を望んでいるのかを確かめることも忘れてはいけない。
そして、自分が困っているときには、誰かを頼ってもいい。
リビアは俺の手を握ったまま、静かに微笑んでいた。
その温かさを感じながら、俺は明日もまた、彼女と一緒に新しいことを学んでいこうと思った。




