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第134話 公爵令嬢様は、俺が見つけた小さな困り事を見過ごせないらしい



 朝のパウリー公爵邸には、焼きたてのパンの香りと、磨き上げられた廊下を歩く使用人たちの足音が静かに広がっていた。


 昨夜は雨が降らなかったらしく、窓から見える庭園の石畳は乾いている。植え込みの向こうでは庭師が落ち葉を集めており、朝日を受けた木々の間を、小鳥が忙しそうに飛び回っていた。


 俺は身支度を整えてから、学院へ出発するまでの短い時間を使い、使用人用の事務室で朝の申し送りを確認していた。


 昨日まで調べられていた搬入記録については、運送側が北門への到着時刻を、屋敷側が荷物の確認を始めた時刻を記していたことが分かっている。ただし、今後の記録方法については担当者同士で整理することになっており、俺が勝手に手順を変更するような話ではなかった。


 父さんからも、必要な仕事があれば指示すると言われている。


 だから今朝は、記録のことを気にしすぎず、自分に任された確認を終えることにした。


「セス、こちらの申し送りは確認しましたか?」


 事務室へ入ってきた父さんが、机の端に置かれた帳面を指し示した。


「うん。厨房への納品予定と、清掃担当の変更については確認したよ。搬入路の方は、引き続き北側の迂回路を使うんだよね?」


「ええ。裏手の道については、状態を確認しながら対応を検討しています。現段階で通常の経路へ戻す予定はありません」


 父さんはそう答え、俺が記入した確認欄へ目を向けた。


「記録の扱いについても、昨日お話ししたとおりです。あなたが気づいたことを報告するのは構いませんが、担当者の判断が必要な部分へは、指示なく踏み込まないようにしてください」


「分かった。今日は学院もあるし、俺にできることをきちんとやるよ」


 俺が答えると、父さんは穏やかに頷いた。


「それでよろしい。ところで、昨日はお嬢様と遅くまで勉強されていたのですか?」


 思いがけない質問に、俺は少しだけ肩を揺らした。


「えっと……。勉強もしたけど、リビアが焼き菓子を持ってきてくれたから、少し話していたんだ」


「そうでしたか」


 父さんはそれ以上追及することなく、書類を揃えた。


 けれど、その口元がわずかに緩んでいるように見えて、俺はなんとなく落ち着かなくなった。


「……父さん?」


「何でしょう」


「いや、何でもない」


 俺がそう答えると、父さんは静かに笑った。


「お嬢様があなたとの時間を大切にされていることは、私も承知しています。ただし、翌日の学院に支障が出ないよう、休息も忘れないでください」


「うん。気をつけるよ」


 父さんの言葉に頷き、俺は事務室を出た。


 廊下へ出ると、ちょうど向こうからリビアが歩いてくるところだった。


 学院の制服に身を包んだ彼女は、俺を見つけると足取りを少し速めた。シルバーブルーの髪が肩の上で柔らかく揺れ、朝の光を受けて淡く輝いている。


「おはよう、セス。今日はもうお仕事が終わったの?」


「おはよう、リビア。うん。朝の確認は終わったよ」


「それなら、朝食まで少し時間があるわね」


 リビアは嬉しそうに微笑んだあと、俺の顔をじっと見つめた。


「……どうしたの?」


「いいえ。今日は、ちゃんと眠れたみたいだと思って」


「昨日は普通に休んだよ。リビアこそ、夜更かししていない?」


「もちろんよ。あなたとお話ししたあと、私もすぐに休んだもの」


 彼女は少し得意そうに胸を張った。


 その様子が可愛らしくて、俺は思わず笑ってしまった。


「そっか。それならよかった」


「ふふっ。ところでセス、今日は学院の図書室へ行く予定があったでしょう?」


 俺は少し驚いた。


「よく覚えていたね」


「あなたが昨日、歴史の授業で気になった資料を確認したいと言っていたもの。私も一緒に行っていいかしら?」


「もちろん。でも、授業で紹介された資料が置いてあるか確認するだけだから、そんなに時間はかからないと思うよ」


「それでも構わないわ。私も、図書室で調べたいことがあるの」


 リビアはそう言って、少し楽しそうに目を細めた。


 俺は彼女と並んで食堂へ向かいながら、今日の予定を頭の中で整理した。


 午前は通常の授業を受け、午後の授業が終わったら図書室へ寄る。


 そのあとは屋敷へ戻り、夕食までの時間に復習を進めるつもりだ。


 特別な予定があるわけではない。


 けれど、リビアと一緒に図書室へ行けると思うと、それだけで少し楽しみになっていた。


     ◇


 学院へ到着すると、教室にはすでにガレスとサザリーが来ていた。


 ガレスは机の上に教科書を広げていたが、俺たちの姿を見つけると、すぐに顔を上げた。


「おう、セス! リビア様も、おはようございます!」


「おはよう、ガレス。今日はずいぶん早いね」


「昨日の数学の復習をしてたんだよ。どうしても一つ分からないところがあってさ」


 ガレスはそう言いながら、隣にいるサザリーへ視線を向けた。


「サザリーに聞いたら、途中の計算を一つ飛ばしてたって分かったんだ。答えだけ見ても気づかなかったから、ちょっと悔しくてな」


「それは仕方ないよ。途中の式が省略されていると、どこで違ったのか分かりにくいこともあるからね」


 俺が答えると、サザリーも頷いた。


「ガレスは考え方そのものを間違えていたわけじゃないんだ。途中の確認を丁寧にすれば、次は大丈夫だと思うよ」


「おう。そう言ってもらえると助かる」


 ガレスは少し照れくさそうに笑い、教科書を閉じた。


 その様子を見ていたリビアが、穏やかな声で話しかける。


「分からないところをそのままにせず、確認していたのね。とてもいいことだと思うわ」


「ありがとうございます、リビア様。まあ、俺の場合は確認しないと同じところで間違えそうなんですけどね」


「ふふっ。それなら、なおさら大切ね」


 リビアが微笑むと、ガレスは少しだけ背筋を伸ばした。


 俺たちはそんな会話を交わしながら、それぞれの席へ向かった。


 午前の授業では、歴史の先生が古い領地の記録について補足説明を行った。


 以前から気になっていた道路や橋の管理についても少し触れられ、俺は先生の話を聞きながら、図書室で確認したい内容をノートへ書き留めた。


 ただし、授業で扱う資料はあくまで一般的な歴史や制度についてのものだ。


 パウリー公爵家の搬入路について、そこから直接何かが分かるわけではない。


 それでも、昔の人たちがどのように記録を残し、何を判断材料にしていたのかを知ることには意味があると思った。


 昼休みになると、エミリアも加わり、俺たちはいつものように昼食を囲んだ。


「セス様、今日は放課後に図書室へ行かれるのですか?」


 エミリアが尋ねてきたのは、俺が午後の予定について話したあとだった。


「うん。歴史の授業で紹介された資料が気になってね。置いてあるか確認しようと思ってるんだ」


「そうなのですね。私も、以前借りた本を返しに行こうと思っていました」


「それなら、一緒に行きませんか?」


 リビアがそう提案すると、エミリアは嬉しそうに微笑んだ。


「よろしいのですか? それでは、お言葉に甘えさせていただきます」


 ガレスはパンを食べ終え、少し考えるように首を傾げた。


「図書室か……。俺も行った方がいいかな。剣術の本を探したいと思ってたんだよな」


「行った方がいいかどうかは、ガレスが決めることだと思うよ」


 サザリーがそう答えると、ガレスは苦笑した。


「そりゃそうだけどさ。どうせなら、みんなで行った方が楽しいだろ?」


「図書室は静かに利用する場所だから、楽しむにしても声の大きさには気をつけてね」


「分かってるって!」


 ガレスが少し大きな声で答えたため、近くにいた生徒がこちらを振り返った。


 それに気づいたガレスは慌てて声を落とし、俺たちは思わず笑ってしまった。


 レオルも地図に関する資料を確認したいと言っていたため、結局、放課後は何人かで図書室へ向かうことになった。


 ただし、全員が同じ本を探すわけではない。


 それぞれ目的を済ませたら、入口付近で合流することにした。


     ◇


 午後の授業が終わる頃には、窓の外の空が柔らかな夕方の色へ変わり始めていた。


 教室では生徒たちが帰り支度を進め、廊下からは部活動へ向かう生徒たちの足音が聞こえてくる。


 俺は教科書を鞄へしまい、リビアたちと一緒に図書室へ向かった。


 学院の図書室は、校舎の一角に設けられた広い部屋で、歴史や魔法理論、文学、地理など、さまざまな分野の本が並んでいる。


 入口から奥へ進むと閲覧用の机があり、その先には背の高い書架が規則正しく配置されていた。


 ただ、以前から少し気になっていることがあった。


 図書室では書架の配置が一部変更されており、入口付近の案内表示と、実際の本の置き場所が一致していないところがある。


 司書の方もそのことは把握しているらしく、必要に応じて案内を行っていると聞いていた。


 俺たちが入口へ到着すると、ちょうど一人の下級生らしい男子生徒が、案内板の前で困ったように立ち止まっていた。


 制服の着こなしはまだ少しぎこちなく、手には一枚の紙を握っている。


 彼は案内板と紙を何度も見比べていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……あれ? こっちじゃないのかな……」


 その声が聞こえ、俺は足を止めた。


 リビアもすぐに気づいたらしく、俺の隣で視線を向ける。


「セス。あの方、何かお困りのようね」


「うん。少し聞いてみようか」


 俺たちは下級生へ近づいた。


 突然声をかけて驚かせないよう、少し離れたところで足を止める。


「こんにちは。何か探しているのかな?」


 俺が声をかけると、男子生徒はびくりと肩を揺らした。


 振り返った彼は、俺たちの制服を見るなり慌てて姿勢を正した。


「あっ、す、すみません! 先輩方のお邪魔をするつもりはなくて……!」


「大丈夫だよ。邪魔だなんて思っていないから」


 俺がそう答えると、彼は少しだけ安心したように息を吐いた。


 リビアも穏やかに微笑む。


「何かお探しなのかしら? 私たちで分かることなら、お手伝いできるかもしれないわ」


 男子生徒は手元の紙へ目を落とした。


「えっと……。先生から、古い王国史の資料を調べるように言われたんです。でも、案内板に書いてある場所へ行っても、見つからなくて……」


 彼が差し出した紙には、授業で指定された資料の分類が書かれていた。


 俺はそれを確認し、入口の案内板へ目を向けた。


 確かに、そこには歴史関係の書架が示されている。


 けれど、以前の配置変更によって、一部の資料は別の場所へ移されていたはずだ。


「なるほど。案内板の表示が、今の配置と違っているのかもしれないね」


「えっ……。そうなんですか?」


「うん。ただ、俺も今の場所を全部覚えているわけじゃないから、司書の方に確認した方が確実だと思う」


 俺がそう答えると、男子生徒は少し困ったように眉を寄せた。


「……でも、受付の方はお忙しそうで。さっきから何人も並んでいるので、声をかけていいのか分からなくて……」


 俺は受付の方へ目を向けた。


 確かに、貸し出しの手続きを待つ生徒が数人並んでいる。


 司書の方は一人ひとりに対応しており、すぐに手が空く様子ではなかった。


 けれど、だからといって、俺たちが勝手に本の場所を決めつけて案内するのもよくない。


「少し待ってみようか。順番が来たら、俺も一緒に聞くよ」


 俺がそう言うと、男子生徒は驚いたように顔を上げた。


「えっ……。先輩も一緒にですか?」


「うん。俺も探している資料があるから、ちょうどいいんだ」


 実際には、俺が探している本と彼の資料は別のものだった。


 それでも、司書の方に確認する必要があるという点では同じだ。


 リビアは俺の言葉を聞き、少し嬉しそうに微笑んだ。


「それなら、私もご一緒するわ。待っている間に、案内板のどこを見て迷われたのか教えていただけるかしら?」


 男子生徒は少し戸惑ったようだったが、やがて小さく頷いた。


「は、はい。ありがとうございます」


     ◇


 受付の列が進むまでの間、俺たちは入口近くの案内板を確認した。


 男子生徒が指し示したのは、歴史関係の資料が置かれている区画だった。


 そこには分類ごとの位置が簡単な図で示されている。


 ただし、実際の書架には別の分野の本が並んでいる場所もあり、初めて利用する生徒にとっては分かりにくい状態になっていた。


「僕、最初はここに行ったんです」


 男子生徒は案内板の一角を指し示した。


「でも、そこには地理の本があって……。それで、隣の書架も見たんですけど、先生に言われた分類が見つからなくて」


「そうだったんだね」


 俺は彼の説明を聞きながら、案内板と実際の書架の位置関係を頭の中で整理した。


 以前、司書の方から、配置変更後の案内については確認を進めていると聞いていた。


 だから、表示が一致していないこと自体は新しい問題ではない。


 けれど、こうして実際に困っている生徒を見ると、その影響が少し具体的に感じられた。


「セス。こちらの表示は、以前の配置を示しているのかしら?」


 リビアが静かに尋ねた。


「たぶんそうだと思う。でも、今の正式な配置がどうなっているかは、司書の方に聞かないと分からないね」


「そうね。では、私たちだけで判断するのはやめましょう」


 リビアは頷いたあと、男子生徒へ視線を向けた。


「今のお話は、とても参考になったわ。初めて来た方がどこで迷いやすいのか、実際に聞かなければ分からないこともあるもの」


 男子生徒は少し驚いたように目を瞬かせた。


「……僕の話が、ですか?」


「ええ。あなたは案内板を見て、書かれているとおりに探したのでしょう? それでも見つからなかったのなら、案内の仕方を考えるうえで大切なことだと思うわ」


 リビアの言葉を聞き、男子生徒は少しだけ表情を緩めた。


「……ありがとうございます。僕、てっきり自分の探し方が悪いのかと思っていました」


 その言葉に、俺は胸の奥が少し痛んだ。


 初めて利用する場所で、案内板を見ても目的のものが見つからない。


 それだけでも困るだろうに、周りが忙しそうにしていれば、質問することまでためらってしまう。


 俺はスラムで暮らしていた頃のことを、ほんの少し思い出した。


 知らない場所で何かを尋ねるとき、相手がどう答えるか分からず、声をかけることをためらったことがある。


 もちろん、今の彼と昔の俺を同じように考えることはできない。


 けれど、困っているときに誰かが声をかけてくれるだけで、少し安心できることはあるのかもしれない。


「探し方が悪かったって決めつけなくていいと思うよ。案内板を見て探したんだから、まずは今の場所を確認してみよう」


 俺がそう言うと、男子生徒は小さく頷いた。


 そのとき、受付の列が短くなり、司書の方がこちらへ目を向けた。


「お待たせしました。何かお探しですか?」


 俺たちは受付へ向かった。


 男子生徒は少し緊張した様子だったが、俺が隣に立っていることを確認すると、手元の紙を差し出した。


「あの……。この資料を探しているんですけど、案内板に書いてある場所では見つからなくて……」


 司書の方は紙を受け取り、分類を確認した。


「ああ、こちらですね。申し訳ありません。現在、その分類の一部は奥の書架へ移動しているんです」


 男子生徒はほっとしたように息を吐いた。


「そうだったんですね……」


「案内板の表示が古いままになっているところがありまして、ご不便をおかけしました」


 司書の方は丁寧に謝り、現在の書架の位置を説明してくれた。


 俺はその説明を聞きながら、以前から気になっていたことを思い出した。


 案内板の表示が一致していないことは、司書の方も把握している。


 ただ、実際にどの表示で迷う生徒がいるのかまでは、まだ十分に分かっていないのかもしれない。


「すみません。一つ、お聞きしてもいいでしょうか?」


 俺が声をかけると、司書の方は顔を上げた。


「はい。どうしましたか?」


「今、こちらの生徒が案内板を見て探した場所と、実際の書架の位置が違っていたんです。以前、配置変更について確認されていると伺いましたが、こういう場合は、どこで迷ったのかお伝えした方がいいでしょうか?」


 司書の方は少し考えたあと、頷いた。


「そうですね。実際に利用した方がどこで迷われたのか分かれば、今後の案内を考える参考になります」


「それなら、今聞いたことをお伝えしてもいいですか?」


「ええ。ただし、案内板の変更については、こちらで確認してからになります。皆さんが直接書き換えたり、別の表示を貼ったりすることはしないでくださいね」


「もちろんです」


 俺は頷いた。


 リビアも隣で静かに頭を下げた。


「お忙しいところ、ありがとうございます。私たちは、気づいたことをお伝えするだけにいたしますわ」


 司書の方は穏やかに微笑んだ。


「ありがとうございます。では、差し支えなければ、どの表示をご覧になったのか教えていただけますか?」


 男子生徒は少し緊張しながらも、案内板の位置と、自分が実際に探した書架について説明した。


 司書の方はそれを小さな紙へ書き留め、必要な確認を行うと約束してくれた。


 ただし、案内板をいつ変更するのかについては、まだ決まっていないらしい。


 俺たちはその説明を受け、男子生徒が探していた資料のある書架へ向かった。


     ◇


 奥の書架には、古い王国史に関する本がまとめられていた。


 男子生徒は司書の方から教えられた分類を確認し、目的の本を探し始めた。


 俺とリビアは少し離れた場所で見守っていたが、彼はほどなくして一冊の本を見つけた。


「あっ……! ありました!」


 思わず声を上げた彼は、すぐに周囲を見回し、慌てて口元を押さえた。


 近くで本を読んでいた生徒がちらりとこちらを見たものの、特に注意されることはなかった。


「よかったね」


 俺が小声で話しかけると、男子生徒は嬉しそうに頷いた。


「はい。本当にありがとうございます。これで、先生に言われた課題を進められます」


「見つかってよかったわ。今度また分からないことがあったら、遠慮せずに司書の方へ尋ねてみてね」


 リビアがそう言うと、男子生徒は少しだけ恥ずかしそうに笑った。


「はい。今度はちゃんと聞いてみます」


 彼は俺たちへ丁寧に頭を下げ、本を抱えて閲覧席へ向かった。


 その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。


 大きな事件ではなかった。


 誰かが怪我をしたわけでもなければ、重要な資料が失われたわけでもない。


 けれど、あの生徒にとっては、今日の課題を進められるかどうかに関わる困り事だった。


「……よかったね、リビア」


「ええ。本当に」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


 それから、少しだけ真剣な表情になった。


「でも、セス。私、少し考えてしまったわ」


「何を?」


「案内板を見ても分からなかった方が、ほかにもいらっしゃるのではないかしらって」


 俺は書架の並ぶ通路へ目を向けた。


 図書室には多くの生徒が訪れる。


 慣れている生徒なら、配置が変わっていても探せるかもしれない。


 けれど、初めて利用する生徒や、普段あまり来ない生徒にとっては、案内板が大切な手がかりになるはずだ。


「……そうかもしれないね。でも、どれくらいの人が困っているのかは分からないな」


「ええ。だから、私たちが勝手に決めつけてはいけないのでしょうね」


 リビアはそう答え、少し考え込んだ。


 俺は彼女の横顔を見ながら、以前のことを思い出した。


 リビアは何か困っている人を見つけると、すぐに力になろうとする。


 それは彼女の優しさだと思う。


 ただ、公爵令嬢という立場があるからこそ、彼女の言葉や行動が周囲へ与える影響も大きい。


 本人にそのつもりがなくても、誰かが命令されたと受け取ってしまうこともあるだろう。


「リビア。さっき、司書の方が案内板の変更は確認してからって言っていたよね」


「ええ。もちろん覚えているわ」


「俺たちにできるのは、気づいたことを伝えるところまでなのかもしれないね」


 俺がそう言うと、リビアはゆっくりと頷いた。


「そうね。私も、勝手に何かを変えるつもりはないわ」


 彼女は少しだけ笑った。


「でも、困っている方がいらっしゃることを知った以上、何もしないで帰るのも違う気がするの」


 その言葉に、俺は少し考えた。


 司書の方へは、すでに具体的な例を伝えている。


 それ以上のことをするなら、何が必要なのか、まず確認しなければならない。


「……じゃあ、今度また司書の方に時間があるとき、ほかにも気づいたことを伝えていいか聞いてみようか」


「ええ。それなら、私も一緒にお話を伺いたいわ」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


 俺たちはそれ以上のことを決めず、それぞれが探していた本を確認することにした。


 俺が目的の歴史資料を探している間、リビアは近くの書架で別の本を見ていた。


 彼女は時折こちらへ視線を向けていたが、俺が本を選んでいることを確認すると、邪魔をしないよう静かにページをめくっていた。


 その気遣いが嬉しくて、俺は少しだけ笑った。


     ◇


 しばらくして入口付近へ戻ると、ガレスたちもそれぞれの用事を終えていた。


 ガレスは剣術の基本姿勢について書かれた本を見つけたらしく、嬉しそうに表紙を眺めている。


 サザリーは数学の参考書を一冊借り、エミリアは返却を済ませていた。


 レオルは地理関係の資料を確認できたようで、手元のノートに何かを書き留めている。


「おう、セス! 探してた本は見つかったか?」


「うん。少しだけ読んできたよ。必要なところは、また時間があるときに確認しようと思う」


「そっか。俺もいい本が見つかったぜ」


 ガレスは嬉しそうに本を持ち上げた。


 ただし、図書室の中だということを思い出したのか、すぐに声を落とした。


「……あ、悪い。ちょっと大きかったな」


 俺たちは小さく笑った。


 そのとき、エミリアがリビアへ視線を向けた。


「リビア様。先ほど、入口の案内板のところで下級生の方とお話しされていましたね。何かあったのですか?」


「ええ。探している資料が見つからず、困っていらしたの」


 リビアは簡単に事情を説明した。


 案内板と実際の書架の位置が一致していなかったこと。


 司書の方に確認し、目的の資料を見つけられたこと。


 そして、案内板については図書室側で確認を進めることになったこと。


 エミリアはその話を聞き、少し驚いたように目を見開いた。


「そうだったのですね。実は私も、以前ここで本を探したとき、少し迷ったことがありました」


「エミリアも?」


 俺が尋ねると、彼女は頷いた。


「はい。ただ、そのときは別の書架を見ていたら見つかったので、特に誰かへお伝えすることはしませんでした」


 リビアはその言葉を聞き、静かに考え込んだ。


「……やっぱり、ほかにも迷われた方がいらっしゃるのね」


「そうかもしれません。ただ、私の場合は少し探せば見つかったので、そこまで困ったわけではありませんが……」


 エミリアはそう言って、少し申し訳なさそうに微笑んだ。


 俺は首を振った。


「エミリアが悪いわけじゃないよ。俺だって、前に表示が違うことに気づいていたけど、実際に困っている人を見るまでは、あまり深く考えていなかったから」


 その言葉を聞き、サザリーが口を開いた。


「なるほど。案内板の表示が違っていること自体は分かっていても、どこで困るのかは利用する人によって違うんだね」


「そうだと思う」


 俺が頷くと、レオルも会話へ加わった。


「地図でも似たようなことがあるよ。描かれている場所が正しくても、見る人が今どこにいるのか分からなければ、目的地までの道を探しにくいことがあるんだ」


 俺は少し興味を引かれた。


「なるほど。案内板も、どこに何があるかだけじゃなくて、今いる場所からどう行けばいいか分かることが大切なのかもしれないね」


「うん。ただ、図書室の案内板については、今どんな方針で直そうとしているのか知らないから、僕たちが勝手に考えても仕方ないけどね」


 レオルはそう付け加えた。


 リビアはその言葉に頷き、少し嬉しそうに微笑んだ。


「皆さんのお話を聞いて、私も少し考えが整理できたわ。まずは、実際に困ったことを伝えるところから始めればいいのね」


 俺は彼女の横顔を見ながら、静かに頷いた。


 リビアは何かを変えたいと思ったとき、すぐに行動できる人だ。


 けれど今は、自分たちだけで答えを決めず、必要な相手へ相談しようとしている。


 その変化を、俺は少し頼もしく感じていた。


     ◇


 学院から屋敷へ戻った頃には、空が夕焼けに染まり始めていた。


 玄関では父さんが使用人たちへ指示を出しており、俺たちの姿に気づくと静かに一礼した。


「お帰りなさいませ、お嬢様。セスも、お疲れさまでした」


「ただいま戻りました、グレイヴ」


「ただいま、父さん」


 俺たちが挨拶すると、父さんは穏やかに微笑んだ。


「今日は学院で何かございましたか?」


 俺は少し考えたあと、図書室での出来事を話した。


 案内板と書架の位置が一致していなかったこと。


 下級生が資料を探せず困っていたこと。


 司書の方に確認し、目的の本を見つけられたこと。


 そして、案内板の変更については図書室側で確認することになっていること。


 父さんは最後まで話を聞き、静かに頷いた。


「なるほど。困っている方を見かけて、適切な担当者へ確認したのですね」


「うん。俺たちだけで場所を決めつけるのはよくないと思ったから」


「それでよろしいと思います」


 父さんはそう答えたあと、リビアへ視線を向けた。


「お嬢様も、ご一緒だったのですね」


「ええ。私も、少しだけお手伝いしたの」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「でも、グレイヴ。今日のことで、私、少し考えてしまったわ」


「何でしょうか」


「困っている方がいらっしゃることに気づいても、私たちだけでは変えられないことがあるのね」


 父さんは静かに頷いた。


「はい。立場や役割によって、判断できる範囲は異なります。気づいたことを伝えるのは大切ですが、その後の対応については、責任を持つ方が判断する必要があります」


 リビアは少しだけ眉を寄せた。


「……それでも、何かできることがあるのではないかと思ってしまうの」


「そのお気持ちは大切にされてよいと思います。ただし、助けたいという気持ちと、実際に何をするべきかは、分けて考える必要がございます」


 父さんは穏やかな声で続けた。


「例えば、今回のように案内板の表示が分かりにくい場合、実際に困った方の話を担当者へ伝えることはできます。しかし、どのように案内を変更するかは、図書室の管理を任されている方々が判断することです」


 リビアはその説明を聞き、ゆっくりと頷いた。


「……そうね。私が勝手に変えてしまったら、かえって困る方が出るかもしれないもの」


「おっしゃるとおりでございます」


 父さんは微笑んだ。


「お嬢様が今日されたことは、決して小さなことではありません。困っている方の声を聞き、それを適切な相手へ伝えたのですから」


 リビアは少し驚いたように顔を上げた。


「……そうかしら?」


「はい。何かを改善するためには、まず困っていることを知る必要がございます。そのきっかけを作ることも、大切な役割の一つです」


 その言葉を聞き、俺は今朝の搬入記録のことを思い出した。


 記録が違っていた理由を確かめるためには、まず何が記録されているのか知る必要があった。


 図書室の案内板も、同じなのかもしれない。


 どこで誰が困っているのか分からなければ、必要な対応を考えることも難しい。


「……父さん。今日のことって、今朝の搬入記録の話にも少し似ているね」


 俺がそう言うと、父さんは静かに頷いた。


「共通する部分はありますね。ただし、同じ問題ではありませんから、判断まで同じにしてはいけませんよ」


「うん。分かってる」


 俺は少し照れくさくなりながら答えた。


 父さんはそんな俺を見て、穏やかに微笑んだ。


「それなら結構です。今日はもう学院の勉強も終わっているでしょうから、夕食まで少し休みなさい」


「はい。ありがとうございます」


 俺たちは父さんへ礼を言い、廊下を歩き始めた。


     ◇


 夕食までの時間、俺とリビアは庭園に面した小さな休憩室で過ごすことにした。


 窓の外では、夕日が木々の葉を赤く染めている。


 遠くからは庭師が道具を片づける音が聞こえ、部屋の中には静かな時間が流れていた。


 リビアは椅子へ腰を下ろし、膝の上で両手を重ねた。


「セス。今日は、図書室へ行ってよかったわね」


「うん。探していた資料も確認できたし、あの下級生の本も見つかったからね」


「ええ。でも、私が一番嬉しかったのは、あの方が最後に笑ってくださったことなの」


 リビアはそう言って、柔らかく微笑んだ。


「最初は、とても困ったお顔をされていたでしょう? それが、資料を見つけたときには、本当に安心したように笑っていらしたの」


 俺はそのときの様子を思い出した。


 男子生徒は案内板の前で何度も紙を見比べ、どうすればいいのか分からず立ち止まっていた。


 けれど、目的の本を見つけたときには、嬉しそうに声を上げていた。


「……そうだね。あの笑顔を見られて、俺も嬉しかったよ」


 俺が答えると、リビアは少しだけ視線を落とした。


「私ね、今日のことで、あなたのことを少し思い出したの」


「俺のこと?」


「ええ。あなたは、困っている方を見かけると、自然に声をかけるでしょう?」


 俺は少し考えた。


「……そうかな?」


「そうよ。今日だって、あの方が困っていることに気づいたら、すぐに声をかけていたもの」


 リビアは少し嬉しそうに笑った。


「私は、そんなあなたのところが好きなの」


 不意にそう言われ、俺は思わず視線を逸らした。


「……リビア」


「ふふっ。照れているの?」


「……少しだけ」


 俺が正直に答えると、彼女は楽しそうに笑った。


 けれど、すぐに表情を和らげ、静かに続けた。


「でも、今日のあなたは、以前より少し違って見えたわ」


「違って?」


「ええ。困っている方を助けようとしながらも、全部を自分で解決しようとはしなかったでしょう?」


 俺はその言葉を聞き、少し驚いた。


 確かに、以前の俺なら、自分で本を探し出そうとしたかもしれない。


 あるいは、案内板の表示が違っていると気づいた時点で、どうすれば分かりやすくなるか考え始めていたかもしれない。


 けれど今日は、まず司書の方へ確認した。


 自分たちにできることと、担当者が判断することを分けようとした。


「……そうかもしれないね」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに頷いた。


「私、少し安心したの。あなたが何でも一人で背負おうとしなくても、困っている方を助けられるのだと分かったから」


 その言葉に、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 昨日、リビアは俺に、一人で抱え込まないでほしいと言ってくれた。


 今日もまた、彼女は同じことを別の形で教えてくれているのかもしれない。


「……ありがとう、リビア」


 俺がそう言うと、彼女は少し不思議そうに首を傾げた。


「どうしてお礼を言うの?」


「リビアが隣にいてくれたから、俺も落ち着いて考えられた気がするんだ」


 俺は少し照れくさくなりながら続けた。


「もし一人だったら、あの下級生の本を何とか探してあげようって、そればかり考えていたかもしれない。でも、リビアが一緒にいてくれたから、ちゃんと司書の方に聞こうと思えたんだ」


 リビアは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、頬をほんのりと赤く染め、嬉しそうに微笑んだ。


「……そう言ってもらえるなら、私も嬉しいわ」


 彼女はそっと手を伸ばし、俺の手へ指先を重ねた。


 俺はその手を握り返し、彼女の顔を見つめた。


「これからも、何かあったら一緒に考えようね」


「ええ。もちろんよ」


 リビアは柔らかく微笑んだ。


 窓の外では、夕日が少しずつ地平線へ近づいている。


 俺たちはしばらく、静かにその景色を眺めていた。


 やがて、リビアが小さく口を開いた。


「……セス」


「うん?」


「私、いつかあなたと一緒に、もっといろいろなことを知りたいわ」


 俺は彼女へ視線を向けた。


「いろいろなこと?」


「ええ。お屋敷のお仕事も、学院のことも、領地のことも。私が今まで知らなかったことを、あなたと一緒に学んでいきたいの」


 リビアは少し恥ずかしそうに笑った。


「もちろん、全部を一度に覚えられるとは思っていないわ。でも、少しずつなら、きっとできるでしょう?」


 俺はゆっくりと頷いた。


「うん。俺もそう思う」


 彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「それなら、約束ね」


「うん。約束」


 俺たちは手を握ったまま、静かに笑い合った。


 今日、図書室で起きたことは、小さな出来事だった。


 けれど、あの下級生にとっては大切な困り事であり、俺たちにとっても新しいことを学ぶきっかけになった。


 案内板の表示がいつ変更されるのかは、まだ分からない。


 ほかにも困っている生徒がいるのかどうかも、確認できていない。


 それでも、今日伝えたことが、いつか誰かの役に立つかもしれない。


 そして、もしまた困っている人を見つけたなら、そのときも自分にできることを考えればいい。


 一人で全部を解決しようとするのではなく、必要な人へ相談しながら。


 隣にいる大切な人と、一緒に。


 夕暮れの光が差し込む休憩室で、俺はリビアの手の温かさを感じながら、そんなことを考えていた。

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