↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
133/150

第133話 公爵令嬢様は、俺が一人で抱え込む前に隣へ来てしまうらしい


 パウリー公爵邸の裏手にある搬入路は、朝の光が届く時間になっても、まだところどころに雨の名残を残していた。


 厨房へ続く通用口から少し離れた場所には、荷車が通るための道が延びている。以前から地面が柔らかくなっていた区間には立ち入りを控えるよう案内が出され、現在は北側の迂回路を使って荷物の搬入が行われていた。


 俺は学院へ向かう準備を整える前に、父さんから頼まれた朝の申し送りを確認するため、使用人用の事務室へ足を運んだ。


 室内にはまだ朝の冷気が残っており、窓際の机では搬入担当の使用人が書類を整理していた。昨日まで確認が続いていた受領記録の件についても、今朝は何らかの報告があるらしい。


「おはようございます。昨日の記録について、何か分かりましたか?」


 俺が声をかけると、担当の使用人は顔を上げ、手元の書類を揃えた。


「おはようございます、セス様。運送側から返事が届きまして、記録が食い違っていた理由の一部が分かりました」


「そうなんですね。差し支えなければ、教えていただけますか?」


「はい。ただ、まだ執事長への正式な報告が済んでおりませんので、確定した内容として扱うのはお待ちください」


 その言葉を聞いて、俺は頷いた。


 昨日、父さんから教わったことが頭に残っている。


 分かっていることと、まだ確認できていないことを分ける。


 それは簡単なようで、実際に仕事をしていると意外に難しいのかもしれない。


「分かりました。父さんへの報告が終わってから、必要なことを教えてください」


「ありがとうございます。実は、運送側の控えには北側の門へ到着した時刻が記されていたそうです。一方、屋敷側の受領記録には、荷物の確認を始めた時刻が書かれていました」


 俺は少し驚いた。


「……それなら、二つの時刻が違っていても不思議ではありませんね」


「ええ。ただし、運送側の説明だけでは、こちらの記録の扱いまで判断できません。担当者がどの時点を受領時刻として記録する決まりだったのか、確認が必要です」


 担当の使用人はそう言って、二枚の紙を重ねた。


 荷物が門へ到着した時刻と、実際に受け取りの確認を始めた時刻。


 同じ搬入に関する記録でも、何を記したものなのかが違えば、数字が一致しないことはあり得る。


(……俺だったら、時刻が違うと聞いただけで、どちらかが間違えたと思ってしまったかもしれないな)


 そんなことを考えていると、事務室の扉が開いた。


「おはようございます。皆さん、朝からご苦労さまです」


 入ってきたのは父さんだった。


 いつものように落ち着いた表情をしていたが、手には数枚の書類があり、すでに別の仕事を終えてきたらしい。


「おはよう、父さん」


「おはようございます、セス。ちょうどよいところにいましたね」


 父さんは俺へ軽く頷き、搬入担当の使用人へ視線を向けた。


「運送側からの返答について、報告をお願いします」


 担当者は姿勢を正し、先ほど俺に説明してくれた内容を、今度は書類に沿って順番に報告した。


 父さんは途中で口を挟まず、最後まで話を聞いてから、確認するように問いかけた。


「つまり、運送側が記録したのは北門への到着時刻で、屋敷側が記録したのは荷物の確認を開始した時刻だった、という説明ですね」


「はい。運送側からは、そのように返答を受けております」


「分かりました。では、屋敷側の記録については、担当者がどの時点を受領時刻として記すべきだったのか確認してください。今回の件だけでなく、今後も同じような違いが起きる可能性があります」


 父さんはそう指示したあと、少し考えるように書類へ目を落とした。


「ただし、現段階で記録方法を変更する必要があると決まったわけではありません。まずは現在の手順を確認し、そのうえで必要な対応を検討しましょう」


「承知いたしました」


 担当者が頷くと、父さんは書類を受け取り、俺の方へ向き直った。


「セス。今の報告を聞いて、何か気づいたことはありますか?」


 俺は少し考えてから答えた。


「二つの記録が違っていた理由は、同じ時刻を記録していなかったからかもしれない、ってことかな。でも、それが記録として正しいかどうかは、まだ分からない」


「そのとおりです」


 父さんは満足そうに頷いた。


「数字が違っていること自体は事実です。しかし、その違いが問題なのかどうかは、記録の目的や手順によって変わります。数字だけを見て判断してはいけません」


 俺はその言葉を聞き、もう一度頷いた。


 荷物が届くまでの心配とは違う、仕事の難しさがそこにはあった。


 ただ、今回の件については少しずつ状況が分かってきている。


 それだけでも、昨日より前へ進んでいるのだろう。


     ◇


 朝食の席では、リビアがいつもより少し早く来ていた。


 シルバーブルーの髪を丁寧に整え、学院の制服に身を包んだ彼女は、俺の姿を見つけると嬉しそうに微笑んだ。


「おはよう、セス。今日は少し早いのね」


「おはよう、リビア。朝の申し送りを聞いていたんだ」


「昨日の搬入記録のこと?」


「うん。少しだけ分かったことがあるよ」


 俺がそう答えると、リビアは興味深そうに身を乗り出した。


 けれど、すぐに姿勢を整え、周囲へ目を向けた。


「……ここで聞いても大丈夫なことかしら?」


 その問いに、俺は少し驚いた。


 昨日、父さんから実際の業務記録をそのまま外へ出すことはできないと説明されたばかりだったからだ。


「うん。父さんから説明してもらった範囲なら大丈夫だと思う。でも、詳しい記録の扱いについては、まだ確認中なんだ」


「そうなのね。では、無理に聞かないことにするわ」


 リビアはそう言って微笑んだ。


 俺はその様子を見て、少し嬉しくなった。


 以前のリビアなら、俺が仕事の話をすると、すぐに詳しく知りたがったかもしれない。


 もちろん、今でも興味を持ってくれていることに変わりはない。


 けれど、昨日の説明を聞いてから、彼女は仕事の内容だけでなく、その情報をどう扱うべきかまで考えるようになっていた。


「ありがとう、リビア。正式な確認が終わったら、話せる範囲で教えるよ」


「ええ。楽しみにしているわ」


 リビアはそう答え、少しだけ声を落とした。


「でも、セス。あなた、また朝からお仕事のことを考えていたでしょう?」


「……え?」


「顔を見れば分かるもの」


 彼女は少し得意そうに微笑んだ。


「考え事をしているときのあなたは、ほんの少しだけ眉間に力が入るのよ」


 俺は思わず自分の額へ手を伸ばした。


「そんなに分かりやすいかな?」


「私には、ね」


 リビアは楽しそうに笑った。


 その笑顔を見ていると、俺までつられて笑ってしまう。


 ただ、彼女はすぐに真剣な表情へ戻った。


「セス。お仕事を大切にするあなたのことは好きだけれど、何でも一人で考え込んでしまうのは、少し心配なの」


「……そんなに抱え込んでいるつもりはないんだけど」


「そう言うところが、余計に心配なのよ」


 リビアは小さく息を吐いた。


 俺は返す言葉に迷い、しばらく彼女の顔を見つめた。


 確かに、仕事で何か気になることがあると、つい自分の中で考え続けてしまうことがある。


 父さんから任されていないことまで、自分にできることがないか考えてしまうのも、その一つなのかもしれない。


「……気をつけるよ」


 俺がそう答えると、リビアは少しだけ表情を緩めた。


「ええ。でも、気をつけるだけではなくて、困ったときは私にも話してほしいわ」


「うん。ありがとう」


 俺はそう答えながら、彼女の言葉を胸の中へしまった。


     ◇


 学院へ向かう馬車の中では、リビアが昨日グレイヴから受け取った資料の写しを眺めていた。


 窓の外には、朝の光を受けた街並みが流れていく。


 道を行き交う人々の姿や、店先で準備を進める商人たちの様子を見ながら、俺はふと、屋敷の搬入記録について考えていた。


 荷物が門へ到着した時刻。


 受け取りの確認を始めた時刻。


 それぞれの記録には意味がある。


 けれど、その意味を知らずに数字だけを比べれば、間違った判断をしてしまうこともある。


「……セス?」


 リビアの声に、俺は顔を上げた。


「どうしたの?」


「今、また考え事をしていたでしょう?」


「……ああ、うん。ちょっとね」


 俺が苦笑すると、リビアは呆れたように肩をすくめた。


「もう。さっきお話ししたばかりなのに」


「ごめん。つい、気になって」


 俺がそう答えると、彼女は少しだけ考えたあと、資料を閉じた。


「では、私も一緒に考えるわ」


「え?」


「あなたが何を考えているのか、教えてちょうだい。もちろん、話しても問題のない範囲で構わないわ」


 俺は少し迷った。


 けれど、リビアの表情は真剣だった。


 彼女は俺の仕事を奪おうとしているわけではない。


 ただ、俺が一人で考え込んでいることを、少しでも分け合おうとしてくれているのだ。


「……記録って、同じ数字でも、何を記したものなのかによって意味が違うんだなって考えてた」


「なるほど。昨日、グレイヴが説明してくださったこととも関係しているのね」


「うん。例えば、荷物が門へ着いた時刻と、受け取りの確認を始めた時刻は違うよね。でも、どちらも搬入に関する記録だから、意味を知らないと混同してしまうかもしれない」


 リビアはゆっくりと頷いた。


「そうね。では、その二つを区別して記録することが大切なのかもしれないわね」


「そうかもしれない。でも、今の手順がどうなっているのか、俺はまだ全部知らないんだ」


「なら、まずはそこを確認する必要があるのね」


 リビアはそう言って微笑んだ。


「ほら、セス。二人で考えても、すぐに答えが出るわけではないでしょう?」


「……うん」


「でも、あなたが何を気にしているのかは分かったわ」


 彼女は少し嬉しそうに笑った。


「それだけでも、私には十分なの」


 俺はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 リビアは、答えを出すためだけに話を聞いてくれたわけではない。


 俺が何を考えているのか知りたいと思ってくれた。


 そのことが、何より嬉しかった。


     ◇


 学院へ到着すると、教室ではガレスがサザリーと話していた。


 俺たちが入ると、ガレスがすぐに顔を上げた。


「おう、セス! おはよう!」


「おはよう、ガレス。今日は何の話をしていたの?」


「昨日の魔法理論の授業のことだよ。あの記録の問題、俺にはちょっと難しかったんだ」


 ガレスはそう言って、机の上に広げていた紙を指し示した。


 そこには、昨日エレナ先生が配った練習用の記録が書かれている。


「俺、器具が光った時刻と、観察した時刻を同じものだと思ってたんだよな」


「そうだったんだ」


「でも、サザリーに聞いたら、必ずしも同じじゃないって言うだろ? それで、もう一度考えてたんだ」


 俺は頷いた。


「確かに、記録の意味を考えるのは難しいよね」


「だろ? セスでもそう思うのか?」


「うん。俺も昨日、同じようなことを考えたよ」


 俺がそう答えると、ガレスは少し安心したように笑った。


 サザリーはそんな俺たちを見ながら、静かに口を開いた。


「昨日の授業で大切だったのは、正しい答えを一つ見つけることよりも、何が確実に分かっているかを整理することだったんだと思う」


「……なるほどな」


 ガレスは頷き、もう一度紙へ目を落とした。


 その様子を見て、俺は少し嬉しくなった。


 ガレスは剣術の話になると、いつも真剣だ。


 けれど、最近は魔法理論の授業でも、自分が分からなかったことをそのままにせず、考え直そうとしている。


 以前よりも少しずつ、学び方が変わってきているのかもしれない。


「ガレス。分からないところがあったら、俺も一緒に考えるよ」


「おう、助かる!」


 ガレスは嬉しそうに笑った。


 その横で、リビアが少しだけ目を細めていた。


「……セス」


「ん?」


「あなた、今朝から何度も『一緒に考える』と言っているわね」


 俺は少し驚いた。


「そうかな?」


「ええ。でも、悪いことではないわ」


 リビアは柔らかく微笑んだ。


「むしろ、私は嬉しいの。あなたが、誰かと一緒に考えることを自然に選べるようになっている気がするから」


 俺は少し照れくさくなり、視線を逸らした。


 ガレスはそんな俺たちを見て、何か言いたそうに笑っていたが、サザリーが先に教科書を閉じたため、話題は午前の授業へ移った。


     ◇


 その日の授業は、特別な事件もなく進んだ。


 午前は語学と歴史、午後は数学と魔法理論の復習だった。


 魔法理論では、エレナ先生が昨日の記録整理について補足説明を行い、魔導具の点検については引き続き確認中であると伝えられた。


 来月予定されている二属性魔法の実技についても、具体的な日程や内容はまだ発表されていない。


 俺は先生の説明を聞きながら、今できることを一つずつ確かめていこうと思った。


 授業が終わる頃には、窓の外の空が少しずつ夕方の色へ変わり始めていた。


 教室では生徒たちが帰り支度を進めている。


 ガレスはサザリーと明日の授業について話し、エミリアは近くの生徒へノートを返していた。


 俺も教科書を鞄へしまい、リビアと一緒に教室を出た。


 廊下を歩いていると、彼女がふと俺の袖を軽く引いた。


「セス。今日は、少しだけ寄り道をしてもいいかしら?」


「寄り道?」


「ええ。学院の庭を少し歩きたいの。今日はずっと教室にいたでしょう?」


 俺は窓の外へ目を向けた。


 庭園には夕方の柔らかな光が差し込み、木々の葉が風に揺れている。


「うん。少しなら大丈夫だと思うよ」


「ふふっ。ありがとう」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


 俺たちは人通りの少ない庭園へ向かい、石畳の小道をゆっくり歩いた。


 周囲には何人かの生徒がいたが、皆それぞれに会話を楽しんでおり、俺たちへ特別な視線を向けることはなかった。


 リビアはしばらく黙って歩いていたが、やがて俺の方へ顔を向けた。


「セス。今朝、あなたが考え事をしていたとき、私、少しだけ寂しかったの」


 その言葉に、俺は足を止めた。


「……寂しかった?」


「ええ。あなたが何かを一生懸命に考えていることは分かっていたわ。でも、その中に私が入れないような気がしてしまったの」


 リビアは少し恥ずかしそうに笑った。


「もちろん、お仕事のことだから、何でも私に話せるわけではないと分かっているのよ。それでも、あなたが一人で難しい顔をしていると、つい気になってしまうの」


 俺は彼女の言葉を聞きながら、胸の奥が少し締めつけられるのを感じた。


 リビアは、俺が仕事をしていることを責めているわけではない。


 ただ、俺が何を考えているのか分からない時間に、少しだけ距離を感じてしまったのだろう。


「……ごめん、リビア」


 俺がそう言うと、彼女はすぐに首を振った。


「謝らないで。あなたが悪いわけではないの」


「でも、リビアが寂しいって思っていたことに気づかなかったから」


 俺は少し考え、彼女の顔を見つめた。


「俺、仕事のことを考えていると、つい周りが見えなくなることがあるんだと思う。だから、これからはもう少し気をつけるよ」


 リビアは静かに頷いた。


「ありがとう、セス。でも、無理に何でも話そうとしなくていいのよ」


「うん」


「ただ、あなたが一人で抱え込んでしまいそうなとき、私が隣にいることを思い出してくれたら嬉しいわ」


 その言葉を聞き、俺はゆっくりと息を吐いた。


 俺はこれまで、リビアを守ることばかり考えてきた。


 彼女が危険な目に遭わないように。


 困ったことがあれば、少しでも力になれるように。


 けれど、リビアは俺に守られるだけの存在ではない。


 彼女自身も、俺のことを支えたいと思ってくれている。


 そのことを、俺はもっと大切にしなければならないのだろう。


「……分かった。ありがとう、リビア」


 俺がそう答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「ええ。約束ね」


 リビアはそっと俺の手へ指先を重ねた。


 俺はその手を握り返し、彼女の隣へ並んだ。


 夕方の風が庭園を吹き抜け、木々の葉を揺らしている。


 俺たちはしばらく、言葉を交わさずに歩いた。


 けれど、その沈黙は少しも気まずくなかった。


 リビアの手の温かさが、俺の掌へ伝わってくる。


 それだけで、彼女が隣にいることを十分に感じられた。


     ◇


 屋敷へ戻ると、父さんが玄関近くで使用人たちへ指示を出していた。


 俺たちの姿に気づくと、父さんは軽く一礼した。


「お帰りなさいませ、お嬢様。セスも、お疲れさまでした」


「ただいま戻りました、グレイヴ」


「ただいま、父さん」


 俺が挨拶すると、父さんは少しだけ微笑んだ。


「今日の学院はいかがでしたか?」


「魔法理論の復習がありました。昨日の記録整理について、先生から補足説明を受けました」


「そうですか。それはよかったですね」


 父さんは頷いたあと、俺の方へ視線を向けた。


「セス。今朝の搬入記録についてですが、確認が一段落しました」


 俺は思わず姿勢を正した。


「本当?」


「ええ。運送側と屋敷側で記録していた時点が異なっていたことは確認できました。ただし、今後の記録方法については、担当者同士で整理する必要があります」


「……なるほど。じゃあ、数字が違っていた理由は分かったけど、手順についてはまだ確認するんだね」


「そのとおりです」


 父さんは満足そうに頷いた。


「今回の件について、誰かの過失があったと判断する段階ではありません。まずは現在の記録方法を確認し、必要であれば分かりやすくするための案をまとめます」


 俺はその説明を聞き、胸の奥にあった小さな引っかかりが少し軽くなるのを感じた。


 昨日から続いていた確認が、ようやく一つの区切りを迎えたのだ。


 ただし、すべてが終わったわけではない。


 記録方法については、これから担当者たちが整理していくことになる。


「分かった。俺も、必要なことがあれば手伝うよ」


 俺がそう言うと、父さんは少しだけ眉を上げた。


「その気持ちはありがたいですが、まずは自分の担当する仕事を優先してください。必要な場合はこちらから指示します」


「……うん。分かった」


 俺は少し照れくさくなりながら頷いた。


 すると、隣にいたリビアが小さく笑った。


「ふふっ。セス、今朝のお話を思い出した方がよさそうね」


「……そうだね」


 俺が苦笑すると、父さんも穏やかに微笑んだ。


「お嬢様。セスが何かを抱え込みそうになったときは、どうぞ遠慮なくお声をかけてください」


「ええ、グレイヴ。もちろんよ」


 リビアは嬉しそうに頷いた。


 俺は二人のやり取りを聞きながら、少しだけ肩を落とした。


「……なんだか、俺だけ見張られているみたいだな」


 そう呟くと、リビアは楽しそうに笑った。


「見張っているのではないわ。心配しているのよ」


 父さんも静かに頷いた。


「そのとおりです。あなたが一人で何でも背負おうとする必要はありませんから」


 俺は二人の顔を見比べ、思わず笑ってしまった。


 こんなふうに心配してもらえることが、少し照れくさい。


 けれど、それ以上に嬉しかった。


     ◇


 夕食のあと、俺は自室で学院の復習をしていた。


 机の上には魔法理論のノートと、今日配られた資料が広げられている。


 窓の外では夜の風が静かに吹き、庭園の木々がかすかに揺れていた。


 俺はノートへ目を落としながら、今日一日の出来事を思い返していた。


 朝の搬入記録。


 学院での授業。


 リビアとの会話。


 父さんからの報告。


 どれも大きな事件ではなかった。


 けれど、その一つひとつが、俺にとって大切なことを教えてくれた気がする。


 特に、リビアが言ってくれた言葉が、胸の奥に残っていた。


『あなたが一人で抱え込んでしまいそうなとき、私が隣にいることを思い出してくれたら嬉しいわ』


 俺はペンを置き、少しだけ椅子の背へ体を預けた。


 これまで、誰かを守るために強くなりたいと思ったことは何度もある。


 リビアのために。


 父さんのために。


 旦那様や、この屋敷で働く人たちのために。


 けれど、誰かに支えてもらうことについては、あまり考えてこなかったのかもしれない。


(……俺は、まだまだ知らないことが多いな)


 そう思いながら、俺は小さく笑った。


 そのとき、扉を叩く音が聞こえた。


「セス。少しだけいいかしら?」


 リビアの声だった。


 俺は椅子から立ち上がり、扉を開けた。


「どうしたの、リビア?」


 彼女は夜用の落ち着いた服に着替えており、手には小さな包みを持っていた。


「ふふっ。お勉強の邪魔をしてしまったかしら?」


「ううん。ちょうど休憩しようと思っていたところだよ」


「それならよかったわ」


 リビアは嬉しそうに微笑み、手にしていた包みを差し出した。


「厨房の方が、温かいお茶に合う焼き菓子を用意してくださったの。私の分と一緒に、あなたの分もいただいてきたわ」


「ありがとう。わざわざ持ってきてくれたんだね」


「ええ。今日は、あなたと少しお話ししたかったから」


 俺は包みを受け取り、彼女を部屋へ招いた。


 リビアは机の上に広げられたノートを見て、少しだけ目を細めた。


「……やっぱり、お勉強をしていたのね」


「うん。今日の授業を少し復習していたんだ」


「ふふっ。あなたらしいわ」


 彼女はそう言って、椅子へ腰を下ろした。


 俺も向かいの椅子へ座り、包みを開いた。


 中には小さな焼き菓子が二つ入っており、甘い香りがふわりと広がった。


「おいしそうだね」


「ええ。私も楽しみにしていたの」


 俺たちは焼き菓子を分け合いながら、今日の出来事について話した。


 学院での授業のこと。


 ガレスが魔法理論の問題を考え直していたこと。


 父さんから聞いた搬入記録の確認結果。


 どれも特別な話ではない。


 けれど、リビアは一つひとつの話を楽しそうに聞いてくれた。


 そして、しばらくしてから、彼女は静かに口を開いた。


「セス。今日、私が言ったことを覚えている?」


「……一人で抱え込まないで、ってこと?」


「ええ」


 リビアはゆっくりと頷いた。


「私ね、あなたが何でも一人でできるようになってほしいわけではないの」


 俺は少し驚いて、彼女の顔を見つめた。


「……そうなの?」


「ええ。もちろん、あなたが努力していることは知っているし、できることが増えるのは素敵だと思うわ。でも、私が一番嬉しいのは、あなたが安心して笑っていられることなの」


 リビアは少し照れたように微笑んだ。


「だから、難しいことがあったら、私にも話してほしいの。答えを出せなくても、一緒に考えることくらいはできるでしょう?」


 俺はしばらく黙っていた。


 彼女の言葉が、胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。


 俺はこれまで、リビアの役に立ちたいと思ってきた。


 彼女が困っているときは助けたいし、危険なことがあれば守りたい。


 けれど、リビアは俺に、同じことを返そうとしてくれている。


 それが、こんなにも嬉しいことだとは思わなかった。


「……ありがとう、リビア」


 俺がそう言うと、彼女は少し不思議そうに首を傾げた。


「どうしたの?」


「いや……。俺、リビアに支えてもらっているんだなって、改めて思ったから」


 リビアは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、頬をほんのりと赤く染め、嬉しそうに微笑んだ。


「……そう思ってくれるなら、私も嬉しいわ」


 彼女はそっと手を伸ばし、俺の手へ指先を重ねた。


 俺はその手を握り返し、彼女の顔を見つめた。


「これからも、よろしくね。リビア」


「ええ。こちらこそ、セス」


 リビアは柔らかく微笑んだ。


 窓の外では、夜の風が静かに木々を揺らしている。


 机の上には、まだ復習の途中だったノートが広がっていた。


 明日も、覚えなければならないことはたくさんある。


 屋敷の仕事も、学院の勉強も、まだ分からないことばかりだ。


 けれど、今は少しだけ、以前よりも気持ちが軽くなっていた。


 一人で全部を抱え込まなくてもいい。


 分からないことがあれば、誰かに聞いてもいい。


 そして、隣にいる大切な人へ、自分が何を考えているのか伝えてもいい。


 そんな当たり前のことを、俺は少しずつ覚えているのかもしれない。


 リビアは俺の手を握ったまま、静かに微笑んでいた。


 その温かさを感じながら、俺は明日もまた、彼女と一緒に新しいことを学んでいこうと思った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。