第132話 公爵令嬢様は、俺の知らない仕事の重さまで知ろうとするらしい
翌朝、パウリー公爵邸の使用人用通路には、いつもより少し湿った空気が漂っていた。
夜の間に短い雨が降ったらしく、庭園の植え込みには細かな水滴が残っている。窓の外では庭師が濡れた小道を確かめながら歩いており、石畳の上を吹き抜ける風には、土と落ち葉の匂いが混じっていた。
俺は執事見習いの制服に袖を通し、身だしなみを整えてから、いつものように使用人たちが集まる部屋へ向かった。学院へ出発するまでの時間は限られているが、朝の申し送りを聞き、必要な仕事を手伝うことも俺の日課になっている。
部屋へ入ると、すでに数人の使用人が集まり、今日の予定を確認していた。
壁際の棚には清掃用具の管理帳が置かれ、中央の机には厨房や洗濯室から提出された報告がまとめられている。普段ならそれぞれの担当者が必要な部分を確認して持ち場へ戻るのだが、今朝は机の周りに残っている人が少し多かった。
「おはようございます」
俺が挨拶すると、近くにいた年長の使用人が顔を上げた。
「おはようございます、セス様。ちょうど執事長から、昨日の搬入について申し送りがあったところです」
「昨日の保存食の荷物ですか?」
「はい。荷物自体は無事に届いておりますが、受け取りの記録について確認が必要になりまして」
彼は机の上に置かれた二枚の紙を指し示した。
一枚は屋敷側の受領記録で、もう一枚は運送担当者から渡された納品控えらしい。俺が見慣れている帳面とは形式が少し違うものの、品目と数量、受け渡しの時刻を記録するための書類だということは分かった。
ただし、俺はその紙へ勝手に手を伸ばさなかった。
昨日、父さんから教わったことが頭に残っていたからだ。確認すべき情報が目の前にあったとしても、自分が担当していない仕事へ無断で踏み込んでいいわけではない。
「何か、数字が合わなかったのでしょうか?」
「数量については一致しています。ただ、荷車が到着した時刻の記載が、こちらの受領記録と納品控えで異なっているんです」
年長の使用人は困ったように眉を寄せた。
「受け取りを担当した者に確認すれば済む話かもしれませんが、昨日は予定が変更になったこともありましたので、執事長が一度整理するようにと」
「そうだったんですね。俺にできることがあれば、父さんから指示をいただきます」
そう答えたところで、部屋の入口から落ち着いた声が聞こえた。
「その判断で構いませんよ、セス」
振り返ると、父さんが数枚の書類を手に立っていた。
グレイヴ・シルフィール。
パウリー公爵家の執事長であり、俺を養子として迎えてくれた父さんは、いつものように隙のない身なりをしていた。けれど、手元の書類を確認する目は普段より少し慎重で、昨日の荷物の件がまだ完全には終わっていないことを感じさせる。
「おはよう、父さん」
「おはようございます。昨日の件について、今朝の申し送りで追加の確認を行っています。あなたにも知っておいてほしいことがありますが、まずは皆さんの仕事を優先しましょう」
父さんはそう言って、集まっていた使用人たちへ視線を向けた。
「受領記録を作成した担当者には、記入した時点で何を確認していたのか聞いてください。運送側の控えについては、こちらで仕入れ先へ問い合わせます。時刻が異なっている理由を、現段階で誰かの記入間違いと決めつける必要はありません」
指示を受けた使用人たちは、それぞれの役割を確認して部屋を出ていった。
俺はその様子を見送りながら、机の上に残された書類へ目を向けた。
昨日は荷物が届くかどうかを心配していた。けれど、無事に届いたあとにも、こうして確認することが残っている。
(荷物が届けば終わりだと思っていたけど、仕事としては、そのあとに残る記録まで確かめないといけないんだな)
父さんは俺の視線に気づいたらしく、書類を揃えながら静かに口を開いた。
「気になりますか?」
「うん。昨日、荷物が届いたって聞いて安心したから、もう大丈夫なんだと思ってた」
「荷物が無事だったことと、記録が正確であることは別の問題です。もちろん、記録に違いがあるからといって、すぐに大きな問題が起きているとは限りません」
父さんは二枚の紙を重ね、机の端へ置いた。
「ただ、後日何かを確認する必要が生じたとき、記録が食い違っていれば判断に時間がかかります。だからこそ、気づいた段階で確かめておくのです」
「……なるほど。あとから困らないようにするためなんだね」
「それも理由の一つです」
父さんは穏やかに頷いたあと、少しだけ声を落とした。
「もう一つ、覚えておいてほしいことがあります。記録の違いを見つけたとき、最初に考えるべきなのは、誰が悪いかではありません。何が記録され、何がまだ確認できていないのかを整理することです」
その言葉を聞いて、俺は昨日の朝を思い出した。
荷物が予定時刻に届かなかったとき、父さんはまず所在を確認するよう指示した。遅れの理由が分からないうちから事故や失敗を決めつけず、必要な相手へ順番に連絡を取っていた。
今日も、同じように考えているのだろう。
「分かった。俺も、書類に違いがあったからって、すぐに誰かが間違えたと思わないようにするよ」
「ええ。それで十分です。今朝は学院の準備もありますから、ここでの仕事は終わりにしましょう」
俺が頷くと、父さんは書類を持って執務室へ戻っていった。
使用人たちがそれぞれの持ち場へ向かったあと、部屋には窓から入る風と、廊下を通る足音だけが残った。
俺は机の上に置かれた管理帳を所定の棚へ戻し、学院へ向かう準備をするために部屋を出た。
◇
朝食の席でリビアと顔を合わせると、彼女は俺の表情を見て、少し不思議そうに首を傾げた。
「おはよう、セス。今日は何か考え事をしているの?」
「おはよう、リビア。ちょっと仕事のことでね。昨日の荷物について、まだ確認することが残っているみたいなんだ」
俺がそう答えると、彼女は椅子へ腰を下ろしながら、真剣な表情になった。
「昨日、荷物は無事に届いたと聞いたけれど……。何か問題が見つかったの?」
「受け取りの記録と、運送側の控えで時刻が違っていたんだって。数量は合っているらしいけど、父さんたちが理由を確認しているところだよ」
「そうだったのね」
リビアは少し考え込み、テーブルに置かれた水差しへ目を向けた。
朝の光を受けた透明な水面が、使用人の動きに合わせてわずかに揺れている。彼女はその様子を見つめながら、やがて小さく息を吐いた。
「……私、昨日は荷物が届いたと聞いて、それで安心してしまったわ」
「俺も同じだよ。だから、今朝の話を聞いて驚いたんだ」
「そうなのね。セスも知らなかったのなら、少し安心したわ」
リビアはそう言って微笑んだが、すぐに少し恥ずかしそうな顔になった。
「でも、安心している場合ではないわね。私、知らないことが多すぎるのだもの」
「そんなことないと思うよ。俺だって、まだ覚えている途中だから」
俺が答えると、彼女はゆっくりと首を振った。
「セス。あなたが知らないことを覚えようとしているのは、お仕事のためでしょう? 私はこれまで、知らなくても困らないと思っていたことが多かったの」
その声には、自分を責めるような響きが少しだけ混じっていた。
俺は何と言えばいいか迷ったが、彼女が真剣に考えていることは伝わってきた。
「リビアが全部知っている必要はないと思う。でも、知りたいって思ったことは、きっと無駄にならないよ」
「……そうね。ありがとう、セス」
リビアは柔らかく微笑んだ。
そのとき、食堂へ旦那様が入ってこられた。
俺たちは姿勢を正し、挨拶をする。
「おはようございます、旦那様」
「おはよう、セス。リビアも、よく眠れたか?」
「はい、お父様。今朝も気持ちよく目が覚めました」
旦那様は娘の返事に満足そうに頷き、席へ着かれた。
朝食が運ばれてくると、食堂には焼きたてのパンの香りが広がった。厨房で働く人たちの手によって整えられた料理が、いつもと変わらずテーブルへ並べられていく。
俺はその様子を見ながら、昨日より少しだけ違うことを考えていた。
この食卓が整うまでに、どれほど多くの確認が行われているのだろう。
食材が届いたかどうかだけではなく、数量が合っているか、状態に問題がないか、保管する場所は適切か。
普段なら意識しないことばかりだが、それらが積み重なって、こうして当たり前の朝食が用意されている。
俺がそんなことを考えていると、旦那様が静かに口を開かれた。
「グレイヴから聞いたが、昨日の搬入について記録の確認が残っているそうだな」
「はい。父さんたちが、受領記録と納品控えの違いを調べています」
「そうか。ならば、結果が分かるまでは担当者の判断を待つとしよう」
旦那様は落ち着いた様子で頷かれた。
リビアは父親の言葉を聞き、少しだけ表情を引き締めた。
「お父様。昨日、グレイヴにお屋敷の仕事について教えていただきたいとお願いしましたけれど、今日のお話を聞いて、私が思っていたよりもずっと多くの確認が必要なのだと感じました」
「それはよい気づきだな」
旦那様は娘へ穏やかな視線を向けた。
「ただし、すべてを一度に理解しようとする必要はない。仕事にはそれぞれの専門性がある。大切なのは、知らないことがあると認めたうえで、適切な相手から学ぶことだ」
「はい。私も、少しずつ学んでいきたいと思います」
「うむ。グレイヴが資料を用意すると言っていたな。まずはそれを待ちなさい」
リビアは素直に頷いた。
俺もそのやり取りを聞きながら、父さんが準備してくれる資料のことを思い出していた。
どんな内容になるのかはまだ分からない。
けれど、リビアと一緒に学ぶことになれば、俺自身も今まで気づかなかったことを見つけられるかもしれない。
◇
学院へ到着すると、教室にはすでに多くの生徒が集まっていた。
窓際ではガレスがサザリーと何かを話しており、エミリアは机の上に教科書を並べながら、近くの生徒と静かに会話している。
俺たちが入ると、ガレスがすぐに手を上げた。
「おう、セス! リビア様も、おはようございます!」
「おはよう、ガレス。今日はずいぶん元気だね」
「そりゃそうだろ。午後は魔法理論の授業があるんだぜ。昨日の魔導具の件について、何か分かるかもしれないしな」
ガレスはそう言って、期待するように目を輝かせた。
昨日の実習では、俺とリビアも魔導具へ魔力を流し、その反応を観察した。けれど、実習後に一部の器具で表示の遅れが確認されたため、先生方が点検を進めている。
俺たちが使った器具についても、結果が分かれば知らせてもらえることになっていた。
「そうだね。でも、今日の授業で必ず説明があるとは限らないよ」
俺がそう答えると、サザリーが頷いた。
「点検には時間がかかることもあるだろうからね。昨日の段階では、先生方も原因を断定していなかったし」
「分かってるって。ただ、気になるものは気になるだろ?」
ガレスは苦笑しながら肩をすくめた。
リビアはそんな彼を見て、少し楽しそうに微笑んだ。
「気になる気持ちは分かるわ。でも、結果を急いでしまうと、確認が不十分なまま判断することにもなりかねないでしょう?」
「うっ……。それを言われると、何も言い返せませんね」
ガレスが困ったように笑うと、エミリアも会話へ加わった。
「でも、ガレス様が楽しみにしていらっしゃるのも分かります。実習で使った器具のことですから、私も結果は知りたいですもの」
「だろ? ほら、エミリアもそう言ってる」
「ただし、急いでほしいという意味ではありませんよ」
エミリアが穏やかに付け加えると、ガレスは大げさに肩を落とした。
俺たちはその様子に笑いながら、それぞれの席へ向かった。
午前の授業は歴史と数学だった。
歴史では領地を管理する際に必要な記録について触れられ、数学では複数の数値を比較する問題が出された。どちらも今朝の仕事を思い出させる内容だったが、俺は授業の話と屋敷の仕事を混同しないようにしながら、先生の説明を聞いていた。
歴史の授業で、先生は古い領地の管理記録を例に挙げた。
道路や橋の補修について、いつ、どこで、どのような作業が行われたのかを残しておくことが、後の管理者にとって重要だったという。
俺は以前、屋敷で道路や橋梁についての資料を見せてもらったことを思い出した。
その資料には、道の状態を確かめる際の考え方や、修繕を判断するために必要な情報がまとめられていた。ただし、古い資料に書かれた方法が、現在の屋敷の裏手にそのまま当てはまるとは限らない。
(記録は大切だけど、それだけで今の状態が分かるわけじゃない。やっぱり、実際に確認することも必要なんだな)
そんなことを考えていると、先生が教室を見渡した。
「では、記録が残されていることの利点を、誰か説明できますか?」
数人の生徒が手を上げた。
俺も答えられそうだと思ったが、すぐに手を上げることはしなかった。先生が指名したのは、教室の前方に座っていた男子生徒だった。
「過去に何が行われたのかを、後から確認できることだと思います」
「そのとおりです。ただし、記録が存在することと、その内容が正確であることは同じではありません。記録を利用する側にも、確認する姿勢が求められます」
先生の説明を聞き、俺は思わず背筋を伸ばした。
今朝、父さんが話してくれたことと、どこか重なる部分があったからだ。
もちろん、歴史の授業で扱う領地の記録と、昨日の荷物の受領記録は別のものだ。それでも、書かれていることをそのまま信じるだけではなく、必要に応じて確かめるという考え方は、どちらにも通じるのかもしれない。
◇
昼休みになると、俺たちはいつものように席を囲んだ。
ガレスは午前の数学で出された問題について話していたが、途中で思い出したように俺へ顔を向けた。
「そういえばセス、昨日の荷物の件はどうなったんだ? 無事に届いたんだろ?」
「うん。荷物は届いたよ。ただ、受け取りの記録について、まだ確認が残っているんだ」
「記録?」
ガレスは少し不思議そうに眉を寄せた。
「荷物が届いて、数も合ってるなら、それで終わりじゃないのか?」
「俺も最初はそう思ったんだけど、屋敷側の受領記録と、運送側の控えで到着時刻が違っていたらしいんだ。だから、父さんたちが理由を確かめているところだよ」
俺が説明すると、サザリーが興味深そうに頷いた。
「なるほど。記録が違う理由によっては、今後の連絡方法を見直す必要があるかもしれないね」
「そうだね。でも、まだ理由は分かっていないから、何を変えるべきかも決まっていないんだ」
俺はそう答えたあと、少しだけ言葉を選んだ。
「父さんは、まず何が分かっていて、何が分かっていないのか整理することが大切だって言ってた」
「……それは、確かにそうだね」
サザリーは静かに頷いた。
「僕たちはつい、何か問題が見つかると、すぐに原因を考えたくなる。でも、考えるための材料が足りなければ、推測に頼ることになるから」
エミリアも頷きながら、手にしていたカップを置いた。
「それに、記録を作った方が必ずしも間違えたとは限りませんものね。記入した時点で分かっていたことが、後から変わる場合もあるでしょうし」
「うん。だから、父さんも担当者に確認しているんだと思う」
俺が答えると、ガレスは少し考え込んだ。
普段ならすぐに冗談を言うことも多い彼が、今日は珍しく真剣な表情をしている。
「……なんか、剣術の練習と似てるな」
「剣術?」
俺が尋ねると、ガレスは頷いた。
「ほら、俺が前に踏み込みを直そうとして、今度は上体が前に傾いたことがあっただろ? あのときも、何が悪いのか分からないまま直そうとして、別のところがおかしくなったんだよ」
俺は以前の実技授業を思い出した。
ガレスは踏み込む際に腰が浮いてしまう癖を直そうとして、今度は上体を前へ倒しすぎてしまった。先生の指導を受けながら、どこを意識すべきか少しずつ確かめていた。
「確かに、似ているところはあるかもしれないね」
「だろ? だから、ちゃんと見てから直すって大事なんだなって思ったんだ」
ガレスはそう言って、少し照れくさそうに笑った。
エミリアはそんな彼を見て、穏やかに微笑んだ。
「ガレス様が、ご自分の練習からそう考えられるのは素敵だと思います」
「お、おう。ありがとな」
不意に褒められたガレスは、少しだけ耳を赤くした。
その様子を見ていたリビアが、俺の方へ顔を向ける。
「セス。あなたも、剣術の授業で先生から指摘されたことを覚えているでしょう?」
「うん。剣先を安定させるために、無意識に肩を動かしていたことだね」
「ええ。あなたは普段、自然にできてしまうことが多いけれど、それを誰かに説明するためには、自分が何をしているのか理解する必要があるのよね」
俺は頷いた。
自分では当たり前だと思っていることでも、言葉にしようとすると難しい場合がある。仕事でも剣術でも、その点は変わらないのかもしれない。
「そうだね。俺も、まだ覚えないといけないことがたくさんあるよ」
そう答えると、リビアは少し嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ。そう言えるところも、あなたらしいわ」
俺は少し照れくさくなり、手元の昼食へ視線を落とした。
ガレスが何か言いたそうに口を開いたが、サザリーが先に別の話題を振ったため、俺たちはそのまま午後の授業について話し始めた。
◇
午後の魔法理論の授業では、エレナ先生が教室へ入ってくると、いつもより少し大きな資料の束を教卓へ置いた。
生徒たちの視線が集まる中、先生は教室を見渡し、落ち着いた声で話し始めた。
「昨日の実習について、最初にお知らせがあります。実習用魔導具の一部で確認された表示の遅れについては、現在も点検を続けています」
教室のあちこちで、小さなざわめきが起きた。
俺も思わず姿勢を正した。
先生は生徒たちの反応を待ってから、続けた。
「現時点では、すべての器具について原因を特定できたわけではありません。したがって、昨日の実習結果を一律に修正したり、特定の生徒の魔力制御に問題があったと判断したりすることはありません」
その言葉に、何人かの生徒が安堵したように息を吐いた。
俺の隣では、リビアが静かに先生の説明を聞いている。
「点検の結果、個別に確認が必要になった場合は、担当の先生から知らせます。それまでは、昨日の結果を確定した評価として扱わず、実習中に観察した内容と、器具の表示を分けて記録しておいてください」
先生はそう言って、教卓の資料を一枚持ち上げた。
「今日は、その考え方を使って、観察記録の整理について学びます」
配られた紙には、架空の魔導具実習の記録が載っていた。
魔力を流した時刻、器具が反応を示した時刻、観察者が確認した光の変化などが、項目ごとに分けて記されている。
俺はその内容を読みながら、今朝の受領記録のことを思い出した。
ただし、魔導具の表示と荷物の受領記録は、同じ仕組みで作られているわけではない。共通しているのは、記録された内容を確かめる際に、何を直接見たのか、何を別の情報から知ったのかを区別する必要があるという点だけだろう。
「では、この記録から確実に言えることを考えてみましょう」
先生がそう言うと、生徒たちはそれぞれ資料へ目を落とした。
俺は紙に書かれた内容を順番に確認した。
魔力を流し始めた時刻は記録されている。
器具が光った時刻も書かれている。
けれど、その間に何が起きていたのかについては、観察者の記述が少ない。
(表示が遅れたように見えても、器具そのものの反応が遅かったのか、記録する側が遅れて気づいたのかは、この紙だけじゃ分からないな)
俺がそう考えていると、先生が何人かの生徒を指名した。
最初に答えた生徒は、器具の反応が遅かった可能性を挙げた。
別の生徒は、観察者の記録が正確でなかった可能性について話した。
先生はどちらの意見も否定せず、黒板へ整理していく。
「どちらも考えられる可能性です。しかし、この資料だけで一方を正しいと決めることはできません。大切なのは、可能性と確認済みの事実を混同しないことです」
その説明を聞いて、俺は自然と頷いた。
授業の後半では、資料を使って簡単な記録の整理を行った。
俺はリビアと意見を交わしながら、確認できることと、追加の情報が必要なことを分けて書き出した。
「セス。ここは、器具が光った時刻と、観察者が光を確認した時刻を同じものとして扱わない方がよさそうね」
「うん。書かれているのは、観察者が確認した時刻だけだからね」
「そうね。では、器具そのものがいつ反応したかについては、まだ分からないと書いておきましょう」
リビアは丁寧な字で記録をまとめていった。
俺も自分の紙へ書き込みながら、彼女の考え方がとても分かりやすいことに気づく。
リビアは結界魔法を得意としているが、魔法の実習でも、ただ結果を出すだけではなく、その過程を丁寧に確認することを大切にしている。
俺はそんな彼女の姿を見て、少し嬉しくなった。
授業が終わる頃には、教室の空気も落ち着いていた。
魔導具の点検結果がすべて分かったわけではない。
それでも、先生が何を確認しているのか、なぜ時間が必要なのかを説明してくれたことで、生徒たちも必要以上に不安を感じずに済んだのだろう。
◇
学院から戻ったあと、俺はリビアと一緒に父さんの執務室へ向かった。
昨日お願いした資料について、いつ頃説明してもらえるのか確認するためだ。
扉を叩くと、中から父さんの声が聞こえた。
「どうぞ」
俺たちが入ると、父さんは机の上に数枚の紙を広げていた。
その中には、見慣れた搬入予定表に似たものもあったが、実際の仕入れ先や品目の名前は書かれていない。
「お帰りなさいませ、お嬢様。セスも、学院での勉強は終わりましたか」
「はい。今日も無事に授業を受けられました」
俺が答えると、リビアが一歩前へ進んだ。
「グレイヴ。昨日お願いした資料のことなのだけれど、準備は大変ではなかったかしら?」
父さんは穏やかに微笑んだ。
「お気遣いありがとうございます。ちょうど、説明に使える簡単な資料をまとめていたところでございます」
そう言って、机の上に置かれた紙を一枚持ち上げた。
「実際の業務記録をそのままお見せすることはできませんので、一般的な搬入の流れを説明するためのものを用意いたしました。こちらでしたら、業務上の情報を外へ出すことなく、基本的な仕組みを学んでいただけます」
リビアは嬉しそうに目を輝かせた。
「ありがとう、グレイヴ。私、楽しみにしていたの」
「それは何よりでございます。ただし、今日はまだ全体の説明を始める時間が取れませんので、まずは資料の内容をご覧いただき、分からない点を考えておいていただければと思います」
「ええ。もちろんよ」
父さんは俺たちを机の近くへ招き、資料を見せてくれた。
そこには、搬入予定の確認から荷物の受け取り、数量と状態の確認、保管場所への移動、記録の整理までが、順番に書かれている。
俺にとっては知っている部分も多かったが、改めて一つの流れとして見ると、普段は意識していなかったことがいくつもあった。
「……父さん。これ、受け取ったあとに確認する項目が、思っていたより多いね」
「そうですね。荷物が届いたという事実だけでは、必要な仕事が終わったとは言えませんから」
父さんはそう答え、資料の下の方を指し示した。
「例えば、数量が合っていても、保管する場所が適切でなければ問題が生じます。逆に、保管場所が整っていても、受け取りの記録が曖昧であれば、後から確認が必要になったときに困ることがあります」
リビアは真剣な表情で資料を読んでいた。
彼女は一つひとつの項目を目で追いながら、時折小さく頷いている。
「……グレイヴ。こちらの『状態の確認』というのは、荷物が壊れていないかを見るだけではないのね?」
「はい。品物によって確認する内容は異なります。食品であれば保存状態、布であれば汚れや傷みなど、それぞれ注意すべき点がございます」
「そうなのね。では、確認する人にも、その品物についての知識が必要なのではなくて?」
「おっしゃるとおりでございます。だからこそ、担当者を決め、必要に応じて専門の者が確認するのです」
リビアは納得したように頷いた。
その横顔を見て、俺は少し驚いていた。
彼女は資料をただ眺めるのではなく、そこに書かれている仕事を、実際に行う人の立場から考えようとしている。
俺が仕事を覚えるときは、どうすれば正確にできるかを考えることが多い。
けれどリビアは、誰がその仕事を担当し、どんな知識が必要なのかというところまで目を向けていた。
(……やっぱり、リビアと一緒に勉強すると、俺だけでは気づかないことがあるな)
俺がそう思っていると、父さんが静かに口を開いた。
「お嬢様。資料を見て、何か気になることはございましたか?」
リビアは少し考えたあと、顔を上げた。
「ええ。一つ、気になったことがあるわ」
「何でしょうか」
「この仕事をしてくださっている方々が、もし何か分からないことに気づいたとき、誰に相談すればよいのか、きちんと決まっているのかしら?」
父さんは一瞬だけ目を細めた。
それは驚いたというより、彼女の問いを真剣に受け止めたような表情だった。
「はい。基本的には担当の責任者へ報告し、必要に応じて私どもが判断いたします。ただし、状況によっては、すぐに確認できないこともございます」
「そうなのね……」
リビアは資料へ目を落とした。
「私、今まで、皆さんがきちんとお仕事をしてくださっていることは知っていたつもりだったわ。でも、何か困ったことがあったとき、安心して相談できるようになっているかまでは、考えたことがなかったの」
父さんはすぐには答えなかった。
部屋の中には、窓の外から聞こえる風の音と、遠くで使用人が歩く足音だけが響いている。
やがて父さんは、静かに頷いた。
「お嬢様。そのように考えていただけることは、働く者にとって大変ありがたいことでございます」
リビアは少し驚いたように顔を上げた。
「そうかしら?」
「はい。仕事を正確に行うためには、手順を整えることも大切ですが、分からないことを確認できる環境も必要です。何かを間違えたときに、ただ責められるだけだと思えば、報告をためらう者も出てくるでしょう」
父さんは穏やかな声で続けた。
「もちろん、責任を曖昧にしてよいという意味ではありません。しかし、事実を確認する前から誰かを責めることは、正確な報告を妨げる場合もございます」
その言葉を聞き、俺は今朝の受領記録の件を思い出した。
父さんが、誰かの記入間違いだと決めつけなかった理由。
それは、ただ慎重だからというだけではなかったのかもしれない。
もし、記録に違いがあったというだけで担当者が責められるなら、次に何かを見つけたとき、報告することをためらってしまう人がいるかもしれない。
俺はそのことに気づき、胸の奥が少し重くなった。
「……父さん。俺、今朝は記録が違っている理由を確かめることばかり考えてた。でも、それを確認する人たちが、安心して話せるかどうかも大事なんだね」
父さんは俺の方へ目を向け、静かに頷いた。
「そうですね。仕事は書類だけで成り立っているわけではありません。実際に働く人がいて、その人たちが見聞きしたことを伝えてくれるからこそ、記録を確かめることができます」
リビアはその説明を聞き、ゆっくりと息を吐いた。
「……私、もっと勉強しなくてはいけないわね」
その声には、いつもの明るさとは違う真剣さがあった。
俺は彼女の横顔を見つめながら、何か言葉をかけようとした。
けれど、その前に父さんが穏やかに口を開いた。
「お嬢様。学ぶことは大切ですが、すべてを一度に背負う必要はございません」
リビアは顔を上げた。
「……グレイヴ?」
「お嬢様がこの家の仕事に関心を持ってくださることは、私どもにとって励みになります。しかし、今すぐすべてを理解し、判断できるようになる必要はないのです」
父さんは少しだけ微笑んだ。
「まずは、知らなかったことを知るところから始めてください。そして、分からないことがあれば、遠慮なくお尋ねください。それが、今のお嬢様にとって最も大切なことだと思います」
リビアはしばらく黙っていた。
それから、胸の前でそっと手を重ね、深く頷いた。
「……ありがとう、グレイヴ。私、少し急ぎすぎていたのかもしれないわ」
「そのようなことはございません。真剣に考えてくださったからこそ、気づかれたことなのでしょう」
父さんの言葉に、リビアはようやく柔らかな笑みを浮かべた。
俺もその様子を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
◇
執務室を出たあと、俺たちは庭園へ続く廊下を並んで歩いた。
窓の外では、夕方の光が濡れた葉を照らしている。朝に残っていた雨粒の多くは乾いていたが、日陰になった植え込みにはまだ小さな水滴が残っていた。
リビアは資料の写しを大切そうに抱え、少し考え込んだ表情をしていた。
「セス。今日は、思っていたよりもずっと難しいことを教わった気がするわ」
「うん。俺もそう思う」
俺が答えると、彼女は少し驚いたようにこちらを見た。
「あなたも?」
「うん。仕事の手順を覚えることは大切だけど、それだけじゃ足りないんだって思った。働いている人たちが、どういう気持ちで報告するのかまで考えたことは、あまりなかったから」
リビアは静かに頷いた。
「……そうね。私も、皆さんが安心して働けることが大切なのだと、改めて感じたわ」
彼女はそこで少し言葉を切り、俺の顔を見つめた。
「セス。あなたは、グレイヴに何かを報告するとき、怖いと思ったことはある?」
その問いに、俺は少し考えた。
父さんに叱られたことがないわけではない。
執事見習いとして働き始めた頃は、失敗するたびに緊張したし、自分が役に立てないのではないかと不安になることもあった。
けれど、今は違う。
「……失敗したことを話すときは、緊張するよ。でも、父さんに報告すること自体が怖いと思ったことは、あまりないかな」
「どうして?」
「父さんは、何があったのかちゃんと聞いてくれるから。俺が間違えたときも、どうしてそうなったのか一緒に考えてくれるし」
俺は少し笑った。
「もちろん、危ないことをしたら厳しく注意されるけどね。でも、隠した方がいいと思ったことはないよ」
リビアはその言葉を聞き、ゆっくりと微笑んだ。
「……それは、とても素敵なことね」
「うん。俺もそう思う」
俺たちはそのまま廊下を進み、庭園を見渡せる小さな休憩室へ入った。
夕食までにはまだ少し時間がある。
リビアは窓辺の椅子へ腰を下ろし、抱えていた資料を膝の上に置いた。
「ねえ、セス。私、今日一つ分かったことがあるの」
「何?」
「あなたが毎日しているお仕事は、ただ誰かの命令に従うだけではないのね」
彼女は資料の端をそっと撫でた。
「何を確認するべきか考えて、必要な人へ伝えて、ほかの人の仕事を信じて待つこともある。そして、誰かが困ったときには、安心して相談できるようにすることも大切なのね」
俺は彼女の言葉を聞きながら、静かに頷いた。
リビアは少し照れたように笑った。
「……私、今まであなたがお仕事をしている姿を見ると、ただ格好いいと思っていたの。でも、今日はそれだけではないのだと分かった気がするわ」
「……リビア」
「あなたが何かを一生懸命にしている姿は、もちろん好きよ。でも、その仕事を支えている人たちのことまで知ったら、もっと大切に思えるようになったの」
彼女の声は穏やかだった。
俺は胸の奥が温かくなるのを感じながら、少しだけ視線を落とした。
(……リビアは、俺の仕事を知りたいって言ってくれた。でも、本当に知ろうとしているのは、俺一人のことじゃないんだな)
俺が顔を上げると、リビアは静かに微笑んでいた。
「セス。これからも、私にいろいろ教えてくれる?」
「もちろん。でも、俺もまだ知らないことが多いから、一緒に勉強することになると思うよ」
「ふふっ。それでいいの。私、あなたと一緒に知らないことを覚えていくのが好きだもの」
彼女はそう言って、俺の手へそっと指先を重ねた。
俺はその手を握り返し、少しだけ笑った。
「じゃあ、これからも一緒に勉強しよう」
「ええ。約束ね」
リビアは嬉しそうに頷いた。
窓の外では、庭園の木々が夕風に揺れている。
今日、俺たちは屋敷の仕事について、ほんの少しだけ新しいことを知った。
けれど、まだ分からないことはたくさんある。
昨日の搬入記録についても、違いが生じた理由は確認中のままだ。
裏手の搬入路についても、今後どのように対応するかは決まっていない。
学院の魔導具についても、先生方の点検が続いている。
すぐに答えが出ないことばかりだが、だからといって焦る必要はないのだろう。
必要なことを確かめ、分からないことを分からないままにせず、それでも判断を急がない。
父さんが教えてくれたその考え方を、俺はこれからも大切にしていきたいと思った。
リビアは俺の手を握ったまま、窓の外へ目を向けていた。
シルバーブルーの髪が夕日の光を受け、柔らかく輝いている。
「……セス」
「うん?」
「私、いつかあなたと一緒に、この家で働いてくださっている方々へ、きちんと感謝を伝えられるようになりたいわ」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「今でも、リビアはちゃんと感謝を伝えていると思うよ」
「そうかもしれないわ。でも、もっと具体的に、何をしてくださっているのか知ったうえで伝えたいの」
リビアは少し恥ずかしそうに笑った。
「ただ『ありがとう』と言うだけではなく、その方がどんなことを考えて働いてくださっているのか、少しでも理解したいのよ」
俺は彼女の横顔を見つめながら、静かに頷いた。
「……うん。それは、きっと素敵なことだと思う」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
そのとき、廊下の向こうから夕食の準備が整ったことを知らせる声が聞こえてきた。
俺たちは名残惜しさを感じながらも手を離し、椅子から立ち上がった。
リビアは資料を丁寧に抱え直し、俺の隣へ並んだ。
「さあ、セス。夕食へ行きましょう」
「うん。今日はどんな料理かな」
「ふふっ。今なら、料理だけではなく、それを用意してくださった方々のことまで気になってしまいそうね」
彼女はそう言って楽しそうに笑った。
俺もつられて笑いながら、扉へ向かう。
廊下へ出ると、夕食の準備を終えた使用人が、静かに一礼してくれた。
リビアは足を止め、いつもより少し丁寧に頭を下げた。
「いつもありがとう。今日もお疲れさま」
使用人は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべたが、すぐに柔らかな笑みを返した。
「ありがとうございます、お嬢様。どうぞ、よい夕食をお過ごしください」
リビアは嬉しそうに頷き、再び歩き始めた。
俺はその隣で、胸の奥に温かなものが広がっていくのを感じていた。
公爵令嬢と、平民出身の執事見習い。
俺たちは立場も、育ってきた環境も違う。
それでも、こうして同じものを見つめ、知らなかったことを一緒に学んでいける。
その時間が、俺には何より大切に思えた。
夕暮れの光が差し込む廊下を、俺たちは並んで歩いていった




