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タイトル未定2026/10/23 04:07

第131話 公爵令嬢様は、俺が執事として働く姿をもっと知りたいらしい


 パウリー公爵邸の裏手にある使用人用の通路には、朝の冷たい空気とともに、焼きたてのパンの香りが漂っていた。厨房ではすでに朝食の準備が始まっており、開け放たれた小窓からは食器の触れ合う音や、料理人たちが短く指示を交わす声が聞こえてくる。


 俺はその通路を歩きながら、手にした小さな帳面へ目を落としていた。今日は学院へ向かう前に、父さんから頼まれていた備品の確認を済ませることになっている。


 執事見習いとして働き始めた頃は、こうした仕事を単純な数合わせだと思っていた。けれど実際には、帳面に書かれた数字と現場の状況が一致しているかを確かめるだけでも、注意しなければならないことがいくつもある。


(昨日の魔法実習でも、魔導具が示した光だけで判断してはいけないと教わったばかりだ。仕事の帳面も、そこに書かれていることがすべてとは限らないんだよな)


 学院で使った魔導具の一部に表示の遅れが確認され、先生方が点検を進めている。俺とリビアが使った器具についても、結果が分かったら知らせてもらえるようお願いしてあるが、今のところ新しい連絡はない。


 ただ、今日の仕事と学院の件を同じものとして考えるつもりはなかった。似たところがあるとしても、実際に何を確認するべきかは、その場の事情によって違うはずだ。


 厨房の裏口へ近づいたところで、荷運びを担当する使用人が二人、木箱を挟んで相談している姿が見えた。片方はまだ若く、もう片方は俺よりずっと長く屋敷に勤めている男性で、どちらも普段より少し困った表情をしている。


「おはようございます。何かありましたか?」


 声をかけると、年長の使用人がこちらを振り返った。彼は手にしていた荷札を俺にも見えるように持ち上げ、申し訳なさそうに眉を下げた。


「おはようございます、セス様。今朝届く予定だった保存食の荷が、まだ搬入口まで来ていないんです。仕入れ先からは昨日のうちに出荷したと聞いているのですが、こちらには到着の記録がなくて」


「それなら、北回りの通路を使っている可能性がありますね。裏手の道は、以前の雨で地面が柔らかくなっていましたから」


「ええ。ただ、北回りを使う場合でも、通常なら荷車が到着する前に連絡が入ります。今日はそれがなく、厨房からも確認を頼まれたところです」


 俺は帳面を閉じ、二人の足元に置かれた木箱へ目を向けた。箱には今朝届いた別の品物が収められており、問題になっている荷物とは関係がないらしい。


「分かりました。まずは父さんに報告します。荷車がどこにいるか確認できるまでは、予定していた荷物が届いたものとして扱わない方がよさそうですね」


「ありがとうございます。厨房には、まだ到着していないと伝えておきます」


 俺が頷くと、二人はそれぞれの持ち場へ戻っていった。年長の使用人は落ち着いていたが、若い方は何度も通路の奥を振り返っている。


 普段なら気に留めない程度の遅れでも、厨房では昼食や夕食の準備に影響することがある。荷物の中身によっては、代わりの食材を用意する必要が生じるかもしれない。


 俺は足を速め、父さんのいる執務室へ向かった。


     ◇


 父さんは執務机に向かい、朝の報告書を確認していた。俺が事情を説明すると、すぐに手元の書類を閉じ、荷の種類と予定時刻について尋ねてきた。


「保存食の一部ですね。到着予定の時刻を過ぎていますが、搬入口の受領記録にはありません。仕入れ先から出荷の連絡は来ているそうです」


「なるほど。では、まず確認すべきなのは、荷がどこにあるかということですね。遅延の原因については、所在が分かってから調べても遅くありません」


 父さんはそう言いながら、机の端に置かれていた搬入予定表を開いた。指先で該当する行を確かめたあと、俺の方へ視線を戻す。


「セス。今日は学院へ出発するまで、まだ少し時間がありますね」


「はい。朝食の準備が整うまでなら、お手伝いできます」


「では、北側の門を担当する者に、荷車が通過した記録があるか確認してきてください。ただし、門の外へ出て荷車を探す必要はありません。確認できなければ、そのまま戻って報告すること」


「承知しました」


 俺が頭を下げると、父さんは続けて注意を加えた。


「それから、荷物が遅れていることを、まだ事故が起きたという意味に受け取らないように。理由が分からない段階で推測を広めれば、余計な混乱を招きます」


「はい。確認できた事実だけを伝えます」


 父さんは満足そうに頷き、厨房へ状況を共有するための書類を手に取った。俺は執務室をあとにし、北側の門へ向かう。


 屋敷の廊下はすでに朝の仕事で忙しくなっていた。磨かれた床を踏む靴音が重なり、廊下の角では花瓶を運ぶ使用人と、洗濯物を抱えた女性が互いに道を譲っている。


 その中を歩きながら、俺は先ほどの父さんの言葉を思い返した。


(荷物が来ていないことと、何か問題が起きたことは、まだ同じじゃない。まずは分かっていることを増やさないとな)


 北側の門へ続く通路に出ると、朝日を受けた石畳が薄く輝いていた。屋敷の裏手に比べて風が通りやすく、植え込みの葉が揺れるたびに、乾いた音が小さく響いている。


 門の近くでは、当番の警備兵が通行記録を確認していた。俺が用件を伝えると、彼は帳面を開き、朝の搬入欄を丁寧に追ってくれた。


「今朝、北門を通った荷車は二台です。一台は花屋からの納品で、もう一台は薪を運んできたものですね。保存食の荷については、こちらに記録がありません」


「ありがとうございます。では、今のところ北門を通過したことは確認できない、ということですね」


「はい。ただ、荷車がまだ外の道にいる可能性もあります。門の外まで見通せる範囲には姿がありませんが、それ以上は分かりません」


 警備兵は門の向こうへ目を向けながら、慎重に言葉を選んだ。俺も視線を向けてみたが、石畳の道には通行人が数人いるだけで、大きな荷車の姿は見当たらない。


「分かりました。確認していただき、ありがとうございます。父へ報告します」


「何か連絡が入れば、こちらからも執事長へ知らせます」


 俺は礼を述べて踵を返した。確認できなかったことも、今は必要な情報の一つだ。


 屋敷へ戻る途中、庭園へ続く渡り廊下でリビアと出会った。


 彼女はすでに学院の制服を着ており、片手には薄い本を持っている。俺がいつもより早足で歩いていたせいか、顔を合わせるなり少し不思議そうな表情を浮かべた。


「おはよう、セス。今日は朝から忙しそうね。何かあったの?」


「おはよう、リビア。今朝届く予定だった荷物が、まだ確認できていないんだ。父さんに頼まれて、北門の記録を見てもらってきたところだよ」


 俺が説明すると、リビアは本を胸元へ引き寄せ、真剣な表情になった。


「そうだったのね。荷物が届かないと、厨房の方々も困ってしまうのではなくて?」


「中身によると思うけど、影響が出る可能性はあるね。ただ、今はまだ荷車の場所も分からないから、父さんが状況を確認しているところなんだ」


「……そう。では、私が何かを決めたり、勝手に手伝ったりするのは違うわね」


 彼女は少し考えるように視線を落としたあと、顔を上げた。


「でも、セス。お屋敷の仕事で何か問題が起きたとき、あなたたちはこうして一つずつ確認しているのね。私は毎日この家で暮らしているのに、知らないことがたくさんあるわ」


「リビアが知らなくても不思議じゃないよ。俺だって、全部の仕事を把握しているわけじゃないし」


「それでも、知りたいと思うの。あなたが何をしているのかだけではなく、この家で働いてくださっている方々が、どんなことを考えて毎日を支えているのか」


 リビアの声は穏やかだったが、その言葉には普段の甘えた調子とは違う真剣さがあった。俺は少し驚きながら、彼女の顔を見つめる。


「……リビアは、そういうところまで知りたいんだね」


「ええ。だって、ここは私の家でもあるでしょう? お父様やあなたに任せているからといって、何も知らなくていいとは思わないわ」


 その言葉を聞いて、俺は自然と背筋を伸ばした。


 俺にとって屋敷の仕事は、日々覚えていくべき役目の一つだ。けれど、リビアにとっては、自分が暮らす家がどのように支えられているのかを知ることでもある。


「今朝の件が落ち着いたら、父さんに相談してみようか。仕事の邪魔にならない範囲で、どんなふうに確認しているのか説明できるかもしれない」


「本当? それなら嬉しいわ。でも、今はお仕事を優先してね。私は食堂で待っているから」


 リビアはそう言って微笑むと、俺の袖へ一瞬だけ指先を添えた。すぐに手を離したのは、俺が仕事の途中だと分かっているからだろう。


 俺は頷き、父さんへの報告を急いだ。


     ◇


 執務室へ戻ると、父さんは厨房の責任者から受け取ったらしい紙を机に広げていた。俺が北門の確認結果を伝えると、父さんはすぐにその内容を記録し、少し考えてから口を開いた。


「北門の通過記録にはなく、門から見える範囲にも荷車はいなかった。これで、少なくとも北門からすでに搬入された可能性は低くなりましたね」


「はい。警備の方も、何か連絡が入れば知らせてくださるそうです」


「ありがとうございます。厨房では、今日すぐに必要な品と、明日以降でも差し支えない品を分けて確認しています。急いで代替品を用意するかどうかは、荷の所在が分かってから判断しましょう」


 父さんはそう言いながら、別の使用人を呼び、仕入れ先への確認を依頼した。出荷したという連絡だけでなく、どの道を通る予定だったのか、運送を担当している者へ連絡がつくかも確かめるらしい。


 俺はそのやり取りを聞きながら、先ほどリビアと話したことを思い出した。今まで何度も父さんの仕事を見てきたけれど、こうして複数の人へ役割を分ける姿を、以前より注意深く見ている自分に気づく。


「父さん。俺は、ほかに何かできることはある?」


 尋ねると、父さんは俺の顔を見て、少しだけ目を細めた。


「今の段階では十分です。確認すべきことを確認し、必要な相手へ報告できました。あとは担当者からの返答を待つことも、仕事の一部ですよ」


「……そうなんだね。まだ何も解決していないから、少し落ち着かなくて」


「気持ちは分かります。しかし、待つべきときに待てず、別の者の仕事へ踏み込めば、かえって情報が混乱することもあります。自分の役割が終わったあとまで、すべてを抱える必要はありません」


 父さんの声には叱るような響きはなかった。それでも、俺がどこかで急ぎすぎていたことを見抜かれた気がして、少し気恥ずかしくなる。


 昨日、学院で魔導具の点検について話したときも、似たようなことを考えていた。自分が使った器具だからといって、点検まで自分で行えるわけではない。


 分からないことをそのままにしないのは大切だが、だからといって何でも自分で確かめようとすればいいわけではないのだろう。


「分かった。じゃあ、今朝はここまでにしておくよ。何か新しい情報が入ったら、また教えてもらえる?」


「もちろんです。ただし、学院へいる間は授業を優先してください。屋敷の仕事はこちらで進めておきます」


「うん。ありがとう、父さん」


 俺が礼を言うと、父さんは穏やかに頷いた。


 執務室を出たところで、廊下の向こうから朝食の準備が整ったことを知らせる声が聞こえた。いつもと変わらない屋敷の朝が続いていることに、俺は少しだけ安堵する。


     ◇


 朝食の席では、リビアが俺の顔を見るなり、何かを尋ねたそうに身を乗り出しかけた。けれど、向かいに座る旦那様の姿に気づくと、すぐに姿勢を整え、静かに食器を手に取った。


 旦那様はそんな娘の様子を見ていたらしく、紅茶のカップを置きながら口元を緩めた。


「リビア。何か気になることがあるのなら、食事を終えてから聞いても構わないぞ。朝からずいぶん考え込んでいるようだが」


「……お父様。そんなに分かりやすかったでしょうか」


「お前が何かを知りたがっているときの顔は、幼い頃からあまり変わらないからな」


 リビアは少し恥ずかしそうに頬を染めた。俺はその様子を見て、思わず笑みを浮かべそうになったが、彼女からちらりと視線を向けられ、慌てて表情を整える。


「今朝、セスが搬入予定の荷物について確認していたのです。私、普段は何も考えずに食事をいただいていますけれど、こうした仕事があって初めて、毎日の生活が成り立っているのだと改めて感じました」


 リビアが説明すると、旦那様はすぐには答えず、テーブルに並んだ料理へ目を向けた。焼きたてのパン、温かなスープ、丁寧に切り分けられた果物が、朝の光を受けている。


「そうだな。この食卓に一皿を並べるだけでも、仕入れ、運搬、保管、調理、配膳と、多くの者が関わっている。公爵家の者がそのすべてを自分で行う必要はないが、当然のものとして軽んじてよいわけでもない」


「はい。だから私、できれば少しずつ知っていきたいのです。もちろん、お仕事の妨げにならない範囲で」


 旦那様は娘の言葉を聞き、静かに頷いた。


「それなら、グレイヴに相談してみるといい。何を見せ、どこまで説明するのが適切かは、現場を預かる者の判断を尊重すべきだろう」


「ありがとうございます、お父様」


 リビアは嬉しそうに頭を下げたあと、俺の方へ目を向けた。言葉にはしなかったが、先ほどの約束を覚えているらしい。


 俺は小さく頷き返し、食事を続けた。


 そのとき、食堂の入口に控えていた使用人が、父さんへ短く何かを伝えているのが見えた。父さんは頷いて返答し、すぐに普段どおりの位置へ戻っている。


 荷物について新しい情報が入ったのかもしれないが、食事中の旦那様たちへ慌ただしく報告する様子はない。少なくとも、今すぐ全員の行動を変える必要がある事態ではないのだろう。


 俺はそれ以上気にしないようにして、目の前の朝食へ意識を戻した。


     ◇


 学院へ向かう馬車の中で、リビアは窓の外を眺めながら、朝食の席での話を思い返しているようだった。通りには仕事へ向かう人々が増え始め、店先では布を広げたり、木箱を運んだりする姿が見える。


「セス。お父様が、グレイヴに相談するといいとおっしゃってくださったでしょう? あれは、私が知りたいと言えば何でも見せてもらえる、という意味ではないのよね」


「うん。父さんが判断することになると思う。屋敷には、使用人の仕事だけじゃなくて、旦那様やお客様に関わる情報もあるから」


「そうよね。それに、私が見学したいと言ったせいで、誰かのお仕事が増えてしまうのも困るわ」


 リビアはそこで少し黙り、膝の上に置いた手を見つめた。彼女は普段、何かを望むときにはまっすぐに言葉にすることが多いけれど、今日は慎重に考えているようだった。


「……私、あなたの働く姿を見たいと思ったの。でも、それだけなら、私のわがままになってしまうかもしれないわね」


「わがままだとは思わないよ。リビアが屋敷の仕事を知りたいって言ってくれたのは、俺も嬉しかったし」


「セスはそう言ってくれるでしょうね。でも、あなたが嬉しいと思うことと、ほかの方々に負担がないことは別だもの」


 俺はその言葉を聞いて、少し考え込んだ。


 確かに、俺が手伝っている仕事なら、リビアに見てもらうこと自体は嬉しい。けれど、実際に働いている人たちの立場からすれば、公爵令嬢が見ているというだけで、普段より緊張してしまうこともあるだろう。


「それなら、まず父さんに、どういう形なら無理がないか聞いてみよう。リビアが知りたいことを伝えて、できることを考えてもらえばいいと思う」


「ええ。そうするわ」


 リビアは頷いたあと、少しだけ表情を和らげた。


「それにしても、セス。あなたが朝からあんなふうにお仕事をしているなんて、少し意外だったわ」


「意外って、どういう意味?」


「あなたが真面目に働いていることは知っているわよ。ただ、私はいつも、準備が整ったあとにあなたと顔を合わせることが多いでしょう? その前に何をしているのか、具体的には知らないこともあるの」


 リビアはそこで少し悪戯っぽく笑った。


「それに、今朝のあなたは、いつも私と話しているときとは少し違う顔をしていたもの」


「そうかな。自分ではあまり意識していなかったけど」


「ええ。少し難しいことを考えているような、でも落ち着いているような……。何だか、いつもより大人びて見えたわ」


 不意にそんなことを言われ、俺は返事に困ってしまった。


 リビアは俺の反応を楽しむように微笑んでいる。普段なら彼女の方が照れることも多いのに、今日は立場が逆になってしまったらしい。


「……仕事をしているときは、ちゃんとしないといけないからね」


「ふふっ。そういうところも、私は好きよ」


 彼女は何でもないことのように言ったが、俺の方はそう簡単に受け流せなかった。窓の外へ視線を向けても、頬が熱くなっているのは自分でも分かる。


 リビアはそんな俺を見て、満足そうに笑っていた。


     ◇


 学院での午前の授業が終わり、昼休みになると、俺たちはいつもの友人たちと席を囲んだ。窓から差し込む秋の日差しは柔らかく、教室の中には昼食を広げる生徒たちの声が満ちている。


 ガレスはパンを手にしたまま、俺の方へ身を乗り出した。


「なあ、セス。お前って学院へ来る前にも、屋敷で仕事してるんだよな? 朝から勉強して、剣術や魔法の授業まで受けて、よく平気だな」


「毎朝たくさん働いているわけじゃないよ。学院がある日は、できることも限られているし」


「それでも俺には無理そうだ。朝は起きるだけで精いっぱいの日もあるからな」


 ガレスが大げさに肩を落とすと、エミリアが困ったように笑った。


「ガレス様は、朝の訓練がある日はきちんと起きていらっしゃるでしょう? 必要だと思えばできるのですから、普段ももう少し早く起きられるのではありませんか」


「いや、訓練がある日は話が別なんだよ。剣を振ると思えば目が覚めるんだけど、座学だけの日はどうにも……」


「それは、単に気持ちの問題じゃないかな」


 サザリーが穏やかに指摘すると、ガレスは反論しかけて口を閉じた。自分でも思い当たるところがあるらしく、最後には苦笑しながらパンをかじっている。


 俺はそのやり取りを聞きながら、朝の仕事について簡単に説明した。荷物の到着が確認できなかったこと、北門の記録を調べたこと、父さんが仕入れ先への確認を進めていることだけを伝え、まだ分かっていない原因については話さなかった。


「なるほどね。記録を調べるだけでも、確認する順番があるわけだ」


 サザリーは興味深そうに頷いた。


「僕の家でも、荷が届かないときに使用人たちが連絡を取り合っていることはあるけれど、実際に何を確認しているかまでは知らなかったな」


「俺も今朝、改めて考えたよ。荷物がないからといって、すぐに誰かの失敗だと決めつけることはできないんだ」


「そりゃそうだな。道が混んでるだけかもしれないし、荷車の調子が悪いのかもしれない」


 ガレスはそう言ってから、ふと思いついたように顔を上げた。


「でもさ、セスなら魔法で荷物を運べたりしないのか? お前、いろんな属性を使えるだろ」


 その問いに、俺は少し驚いた。


 確かに、魔法を使えば荷物を動かすこと自体はできるかもしれない。けれど、どこにあるのか分からない荷物を運ぶことはできないし、そもそも屋敷の仕事で勝手に魔法を使っていいわけでもない。


「荷物の場所が分からないから、今はどうしようもないかな。それに、運ぶ方法を変えるなら、父さんや担当の人たちと相談しないと」


「……ああ、そっか。お前ができることと、勝手にやっていいことは違うんだな」


 ガレスは納得したように頷いた。


 リビアはその会話を聞きながら、少し嬉しそうな表情を浮かべていた。俺が不思議に思って視線を向けると、彼女は静かに微笑む。


「セスが魔法を使えば、できることはたくさんあると思うわ。でも、何でも魔法で解決しようとしないところが、私は好きなの」


「……リビア。皆の前でそういうことを言うのは、ちょっと恥ずかしいんだけど」


「だって、本当のことですもの」


 彼女が涼しい顔で答えると、ガレスが声を上げて笑った。サザリーも口元を押さえ、エミリアは微笑みながら二人の様子を見守っている。


 以前なら、こうして皆の前でからかわれると、どう答えればいいか分からなくなることも多かった。今でも恥ずかしいことに変わりはないけれど、リビアが俺を大切に思ってくれていることまで否定したいわけではない。


「……ありがとう。俺も、リビアがいろいろ考えてくれるところを尊敬しているよ」


 そう答えると、今度はリビアの方が驚いたように目を見開いた。


 彼女は一瞬言葉を失い、それから頬を赤く染めて俯いてしまう。ガレスがさらに何か言おうとしたところで、エミリアがさりげなく別の話題を振ってくれたため、俺たちはようやく落ち着いて昼食を続けることができた。


     ◇


 午後の授業が終わる頃には、空に薄い雲が広がり始めていた。学院の正門へ向かう生徒たちの足音が石畳に響き、門の外では迎えの馬車が順番に停まっている。


 俺とリビアも馬車へ乗り込み、屋敷へ戻ることにした。


 車輪が動き始めると、リビアは窓の外へ目を向けたまま、少し考え込んでいた。昼休みのときとは違い、何かを言おうとしては迷っているように見える。


「リビア。何か気になることがある?」


 俺が尋ねると、彼女はゆっくりとこちらへ顔を向けた。


「……ええ。今朝の荷物のことが少し気になっているの。もう届いているかしら」


「どうだろう。父さんが確認してくれているから、戻れば分かると思うよ」


「そうね。私が心配しても、すぐに何かが変わるわけではないものね」


 リビアはそう答えたものの、どこか落ち着かない様子だった。俺は少し迷ってから、彼女の言葉を待つことにした。


 しばらくすると、彼女は膝の上で重ねていた手をほどき、静かに口を開いた。


「私ね、今朝あなたが仕事をしている姿を見て、少しだけ寂しくなったのかもしれないわ」


「……寂しい?」


「ええ。あなたが知らないところで頑張っているのは、もちろん嬉しいの。でも、その時間のあなたを私はほとんど知らないのだと思ったら、少しだけ取り残されたような気持ちになってしまって」


 リビアは言い終えると、困ったように微笑んだ。


「こんなことを言ったら、あなたを困らせてしまうわね。仕事のすべてを私に話す必要なんてないのに」


 俺はすぐには答えられなかった。


 彼女が俺の仕事に興味を持ってくれたことは嬉しかったが、その奥にそんな気持ちがあったとは思わなかった。俺はリビアと過ごす時間を大切にしているつもりだったけれど、仕事をしているときの自分について、積極的に話すことはあまりなかった気がする。


(俺にとっては当たり前の仕事でも、リビアにとっては知らない時間なんだな。全部を話すことはできなくても、何も話さないままでいいわけじゃないのかもしれない)


「困ってないよ。むしろ、そう思っていたって教えてくれて嬉しい」


 俺が答えると、リビアは少し驚いたように顔を上げた。


「本当に?」


「うん。俺も、リビアが学院で誰とどんな話をしたのか、あとから聞くのが好きだから。仕事の話も、話せることならもっと伝えていいんだと思った」


 リビアは俺の言葉を聞き、少しずつ表情を和らげた。


「……そうね。私も、あなたに何もかも知ってほしいわけではないもの。けれど、あなたが何を考えていたのか、どんなことが嬉しかったのか、そういうことは聞きたいわ」


「じゃあ、これからは少しずつ話そうか。今日みたいに、仕事で分からないことがあったときも」


「ええ。私も、知らないことを知っているふりはしないようにするわ」


 彼女はそう言って微笑み、俺の手へそっと指先を重ねた。


 俺はその手を握り返したが、今朝のように急いで仕事へ戻る必要はない。馬車の揺れに合わせて肩がわずかに触れ合い、二人の間には穏やかな沈黙が流れた。


     ◇


 公爵邸へ戻ると、玄関にはいつもどおりの落ち着いた空気が漂っていた。使用人たちはそれぞれの持ち場で働いており、朝に感じたような慌ただしさは見られない。


 俺はリビアと一緒に父さんのもとへ向かった。


 父さんは執務室で書類を整理していたが、俺たちの姿を見ると手を止め、静かに立ち上がった。


「お帰りなさいませ、お嬢様。セスも、学院での勉強は無事に終わりましたか」


「はい。今日も問題なく授業を受けられました」


 俺が答えると、リビアが一歩前へ進んだ。


「グレイヴ。今朝の荷物について、その後どうなったのか伺ってもよろしいかしら」


「もちろんでございます。ちょうど確認が取れたところです」


 父さんは机の上の書類へ目を向け、落ち着いた声で説明を始めた。


 仕入れ先からの出荷は予定どおり行われていたが、運送を担当する荷車が途中で別の納品先へ立ち寄ることになり、到着が遅れていたらしい。しかも、その変更について屋敷への連絡が届いていなかったため、予定時刻を過ぎても所在が分からない状態になっていたという。


「では、荷物そのものに問題があったわけではないのですね」


 リビアが尋ねると、父さんは頷いた。


「はい。荷物は午後になってから到着し、担当者が数量と状態を確認しております。ただし、予定の変更が伝わらなかった理由については、仕入れ先と運送担当者の間で改めて確認していただくことになりました」


「そうだったのね……。無事に届いてよかったわ」


 リビアは安堵したように息を吐いた。


 俺も胸の奥が少し軽くなるのを感じたが、父さんの説明を聞いているうちに、別のことが気になった。


「父さん。今回の遅れは、裏手の道が使いにくいこととは関係なかったんだね」


「少なくとも、今回確認できた直接の理由は別の納品先への立ち寄りです。ただ、裏手の搬入路については以前から課題が残っていますので、今回の件と混同せず、引き続き対応を考える必要があります」


 父さんはそう言って、別の書類を一枚取り出した。


 そこには、雨が降ったあとに裏手の道がぬかるみやすくなることや、荷車が北回りの道を使う場合があることなどが記録されている。以前から確認されていた問題であり、今朝の遅延だけを理由に新しく作られた記録ではない。


「こちらについては、地面の状態や荷車の通行状況を確認したうえで、必要な対応を検討している段階です。現時点で、恒久的な工事を行うと決まったわけではありません」


「分かった。じゃあ、今日の荷物が届いたからといって、裏手の道の問題まで解決したわけじゃないんだね」


「そのとおりです」


 父さんは満足そうに頷いた。


 そのやり取りを聞いていたリビアが、少し遠慮がちに口を開いた。


「グレイヴ。もう一つ、お尋ねしてもよろしいかしら」


「はい。何なりとお申し付けください」


「今朝、セスがお仕事をしている姿を見て、私もこのお屋敷がどのように支えられているのか、もっと知りたいと思ったのです。もちろん、皆さんのお仕事の邪魔をするつもりはありませんけれど……」


 リビアはそこで一度言葉を切り、父さんの表情を確かめた。


「もし可能なら、普段どのような確認をしているのか、少しだけ教えていただけないでしょうか」


 父さんはすぐには答えず、机の上に置かれた書類へ視線を落とした。考え込んでいるというより、どの範囲なら説明できるかを整理しているように見える。


「お嬢様がそのようにお考えくださることは、私どもにとってもありがたいことでございます。ただ、実際の業務には、お客様や仕入れ先に関する情報も含まれます。すべてをそのままお見せするわけにはまいりません」


「ええ。それは承知しているわ」


「でしたら、まずは業務の流れを説明するための資料を用意しましょう。実際の記録を使わなくても、搬入から保管までにどのような確認が必要なのか、お伝えすることはできます」


 リビアの表情が明るくなった。


「本当? それなら、ぜひお願いしたいわ」


「承知いたしました。ただし、準備には少々お時間をいただきます。担当者の仕事を増やさないよう、私の方で内容を整理いたしますので」


「ありがとう、グレイヴ。急がなくて大丈夫よ」


 リビアは嬉しそうに微笑んだあと、俺の方へ目を向けた。


「セスも、そのとき一緒に聞いてくれるかしら?」


「もちろん。俺もまだ知らないことがあるし、勉強になると思う」


 俺が答えると、父さんは静かに微笑んだ。


「それでは、お二人にとって有意義な時間になるよう、準備いたしましょう」


     ◇


 執務室を出たあと、リビアはいつもより少し弾んだ足取りで廊下を歩いていた。夕方の光が窓から差し込み、磨かれた床に長い影を落としている。


 俺は彼女の隣を歩きながら、父さんが資料を用意してくれることになったのを嬉しく思っていた。仕事を教わる機会が増えるのはありがたいし、リビアと一緒なら、また違うところに気づけるかもしれない。


「……セス。私、少し緊張してしまったわ」


 リビアが不意にそう言った。


「父さんにお願いしたとき?」


「ええ。お父様に何かをお願いするときとは違う緊張だったの。私が知りたいと思ったことが、皆さんにとって負担になってしまわないか気になって」


 彼女は廊下の先へ目を向けながら、静かに続けた。


「でも、グレイヴがきちんと説明してくださって安心したわ。できることと、すぐにはできないことを分けて考えてくださったでしょう?」


「うん。父さんらしいと思ったよ」


「そうね。私、あなたがグレイヴを尊敬している理由が、少し分かった気がするわ」


 その言葉に、俺は思わず彼女の顔を見た。


 父さんの仕事ぶりを褒められることは、俺自身が褒められるのとは少し違う嬉しさがある。俺が知らなかったことをたくさん教えてくれた人だからこそ、リビアにもその姿を見てもらえるのはありがたかった。


「父さんは、俺が失敗したときも、ただ叱るんじゃなくて、何を間違えたのか考えさせてくれるんだ。だから、俺もいつか、ああいうふうに仕事ができるようになりたいと思ってる」


 リビアは足を緩め、俺の言葉を静かに聞いていた。


「……セス。あなたがグレイヴのことを話すとき、いつも少し嬉しそうになるのね」


「そうかな」


「ええ。きっと、とても大切な方なのね」


 俺は小さく頷いた。


 父さんと出会う前の俺は、自分が誰かの家族になることなんて考えたこともなかった。今では、こうして学院へ通い、執事見習いとして働き、リビアの隣を歩いている。


 そのすべてが父さん一人のおかげだとは言わないけれど、あの人が俺に与えてくれたものは、きっと俺が思っている以上に大きい。


「……うん。俺にとって、大切な父さんだよ」


 そう答えると、リビアは柔らかく微笑んだ。


「素敵ね。私も、これからもっとグレイヴのお話を聞いてみたいわ」


 俺たちはそのまま廊下を進み、庭園を見渡せる小さな休憩室へ入った。夕食までにはまだ少し時間があり、窓辺の椅子には柔らかな光が落ちている。


 リビアは椅子へ腰を下ろすと、俺にも隣へ座るよう促した。


「ねえ、セス。今日のお仕事で、一番難しかったことは何だった?」


 俺は少し考えた。


 北門の記録を調べること自体は、それほど難しくなかった。父さんへの報告も、教わったとおりに行えばよかった。


 それでも、朝からずっと心に残っていることがある。


「……何もしないで待つこと、かな」


 俺が答えると、リビアは意外そうに目を瞬かせた。


「待つこと?」


「うん。荷物がどこにあるのか分からないと、何かしなきゃって思ってしまうんだ。でも、父さんに確認を頼まれたことは終わっていたし、そのあとは別の人が調べてくれていたから」


 俺は膝の上で指を組み、今朝のことを思い返した。


「自分が動けば何か分かるかもしれないって思ったけど、勝手に探しに行っても、かえって迷惑になることがあるんだよね。だから、今日は待つことも仕事なんだって教わった」


 リビアはしばらく黙って俺を見つめていた。


 それから、少しだけ身を寄せて微笑んだ。


「……あなたらしい答えね」


「そうかな。あまり格好いい答えじゃない気がするけど」


「そんなことないわ。だって、あなたは何か困ったことがあると、自分でどうにかしようとするでしょう? それが悪いことではないけれど、誰かを信じて任せるのは、あなたにとって簡単なことではないと思うの」


 彼女の言葉に、俺は返事をするまで少し時間がかかった。


 確かに、俺は自分が動けば済むことなら、なるべくそうしたいと思ってしまう。昔からそうだったし、執事見習いになってからも、その癖が完全になくなったわけではない。


「……そうかもしれないね。でも、今日は父さんがいてくれたから、ちゃんと待てたんだと思う」


「それなら、いつか私にも任せてくれると嬉しいわ」


 リビアは少しだけ照れたように笑った。


「もちろん、私にできることには限りがあるけれど。あなたが何かを抱え込んでいるとき、話を聞くくらいはできるもの」


「うん。頼りにしてるよ、リビア」


 俺がそう答えると、彼女は嬉しそうに目を細めた。


 そのまま、リビアは俺の手をそっと握った。窓の外では庭園の木々が夕風に揺れ、遠くから使用人たちが仕事を終える足音が聞こえてくる。


「……セス。私、今日あなたのお仕事のことを少し知れただけでも、嬉しかったわ」


「俺も、リビアが知りたいって言ってくれて嬉しかったよ」


「それなら、これから少しずつ教えてね。あなたが毎日どんなことを考えているのか、私も知っていきたいから」


 俺は彼女の手を握り返し、静かに頷いた。


「うん。俺も、リビアに話したいことが増えそうだ」


 リビアはその言葉を聞くと、満足そうに微笑んだ。


 夕暮れの光が少しずつ薄くなり、部屋の中には穏やかな影が広がっていく。


 今日、屋敷に届くはずだった荷物は、無事に到着した。連絡が届かなかった理由については、まだ確認が残っているし、裏手の搬入路の問題も解決したわけではない。


 けれど、俺は今朝より少しだけ、仕事について違う考え方ができるようになった気がする。


 自分にできることをするだけではなく、ほかの人が担っている仕事を信じること。


 分からないことを確かめ、必要な情報を共有し、判断を急がないこと。


 そして、仕事をしている自分のことを、リビアにも少しずつ知ってもらうこと。


 俺は隣に座る彼女へ目を向けた。


 リビアはまだ俺の手を握ったまま、窓の外を眺めている。シルバーブルーの髪が夕日を受けて柔らかく輝き、その横顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。


「……リビア」


 俺が声をかけると、彼女はすぐにこちらを向いた。


「なあに、セス?」


「父さんが資料を用意してくれたら、一緒に勉強しようね」


 リビアは一瞬だけ驚いたような顔をしたあと、嬉しそうに微笑んだ。


「ええ。楽しみにしているわ」


 彼女はそう答え、俺の手を少しだけ強く握った。


 公爵令嬢と執事見習い。


 俺たちは同じ屋敷で暮らしていても、見ているものや、普段触れている仕事は違う。


 それでも、互いに知らないことを少しずつ教え合っていけば、今まで見えていなかったものにも気づけるのかもしれない。


 夕食の時間が近づき、廊下の向こうから人の気配が増えてきた。


 俺たちは名残惜しさを感じながらも手を離し、椅子から立ち上がった。


 リビアは扉へ向かう途中で振り返り、少し悪戯っぽく微笑んだ。


「……でも、セス。一つだけ先に言っておくわね」


「うん?」


「あなたがお仕事をしている姿を見られるのは嬉しいけれど、無理をして格好いいところを見せようとしなくてもいいのよ。私は、いつものあなたを知りたいのだから」


 俺はその言葉に少し驚き、それから苦笑した。


「……分かった。気をつけるよ」


「ふふっ。約束ね」


 リビアは満足そうに頷き、俺の隣へ並んだ。


 俺たちは並んで廊下へ出ると、夕食の待つ食堂へ向かって歩き始めた。

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