第128話 公爵令嬢様は、婚約者への質問を俺任せにしたくないらしい
翌朝、パウリー公爵邸の食堂には、焼きたてのパンの香りが漂っていた。窓から差し込む朝日が白い食器の縁を照らし、給仕を終えた使用人たちが静かに下がっていくなか、俺はいつもの席で朝食を取りながら、向かいに座るリビアの様子を眺めていた。
リビアは今朝も機嫌がよさそうだった。昨日の夕方、庭園で話したことを思い出しているのか、時折こちらと目が合うたびに柔らかく微笑み、そのたびに俺は少しだけ落ち着かない気持ちになる。
「セス、今日は午後の授業が終わったら、少し時間をもらえるかしら」
リビアはパンを小さく切り分けてから、何かを確かめるように俺へ尋ねた。普段なら登校前にその日の予定を相談することも珍しくないけれど、今日はいつもより少し真剣な表情をしている。
「もちろん。何か予定があるの?」
「ええ。昨日、あなたと話してから、少し考えていたことがあるの。できれば学院で相談したいのだけれど、授業の前に慌ただしく話すようなことでもないと思って」
「分かった。放課後なら時間を取れるよ。父さんには、帰宅が少し遅くなるかもしれないって伝えておこうか?」
「まだ、どれくらい時間がかかるか分からないから、帰りの馬車を待たせることになるなら先に確認しましょう。長くなるようなら、続きは屋敷でも話せるもの」
そう答えたリビアは、そこでようやく普段の穏やかな笑顔に戻った。何を相談したいのか気にはなったものの、彼女が自分から話すつもりでいるなら、今は待っていた方がいいだろう。
食堂の入口に近い席では、アルセス様が朝の書類を一枚だけ確認していた。食事中に執務を持ち込むことは多くない方だけれど、今日は何か予定の調整があるらしく、書類を閉じたあとでリビアへ顔を向ける。
「オリビア。昨日、学院で何か変わったことはなかったか?」
「剣術の実習がありましたわ、お父様。先生から自分の動きについてご指導いただいて、とても勉強になりました」
「それは結構だ。クルセスも一緒だったのだろう?」
「はい、旦那様。私はガレスと組んで、互いの足運びを観察しました。自分では意識していなかった肩の動きを先生に指摘していただきましたので、今後の課題にしたいと思っています」
アルセス様は俺の返事を聞き、満足そうに頷いた。
「得意な分野であっても、他人の目を借りることは大切だ。特に、身についた技術ほど本人には説明しにくいものだからな」
その言葉に、俺は昨日の実習を思い出した。先生に言われるまで意識していなかった肩の動きは、まだ完全に理解できたわけではないけれど、これから少しずつ確かめていきたいと思っている。
リビアはそんな俺を見て、小さく微笑んだ。
「セスは昨日、とても楽しそうでしたわ。先生に教わったあとも、ガレス様と何度も動きを確かめていたんですの」
「そうか。それならよい経験になったのだろう」
アルセス様はそう言ってから、俺とリビアを交互に見た。
「二人とも、学ぶことを楽しめるのはよいことだ。ただし、学院での時間は勉学だけではない。友人との関係も、これから先の財産になる。互いに助け合いながら、よい時間を過ごしなさい」
「はい、お父様」
「承知いたしました、旦那様」
俺たちが返事をすると、アルセス様は穏やかに頷き、食事を再開した。
そのあと、リビアは俺へ視線を向け、少しだけ意味ありげに微笑んだ。
彼女が午後に話したいことは、もしかすると学院での人間関係に関わることなのかもしれない。けれど、まだ何も聞いていない以上、勝手に決めつけるわけにはいかなかった。
◇
学院へ到着すると、教室の入口付近にはいつもより多くの生徒が集まっていた。何か大きな騒ぎが起きている様子ではなく、数人ずつに分かれて談笑しているだけだったが、俺とリビアが教室へ入った途端、いくつかの視線がこちらへ向けられる。
以前から、俺たちの婚約については学院内で知られている。最初の頃に比べれば、露骨に驚かれることは減ってきたものの、それでも平民出身の俺と公爵令嬢であるリビアの組み合わせは、まだ珍しく映るのだろう。
俺が自分の席へ向かおうとすると、教室の後方にいた男子生徒が一人、少しためらいながら近づいてきた。
「シルフィール、ちょっといいか?」
声をかけてきたのは、同じ学年の生徒だった。授業で顔を合わせることはあるものの、これまで個人的に話したことはあまりない。
「うん。何かな?」
俺が足を止めると、彼は周囲の様子を気にしながら口を開いた。
「いや、その……変な意味じゃないんだけどさ。お前とパウリー公爵令嬢って、本当に婚約してるんだよな?」
予想していなかった質問ではなかった。けれど、こうして直接尋ねられると、どう答えるべきか一瞬考えてしまう。
「うん。正式に婚約しているよ」
俺がそう答えると、彼は少し安心したように頷いた。
「そうか。いや、噂では聞いてたんだけど、本人から聞いたことはなかったからさ」
「そうだったんだね」
俺はできるだけ自然に返事をした。相手に悪意があるようには見えないし、単純に気になっていたことを確かめたかったのだろう。
けれど、その男子生徒はそこで話を終えず、少しだけ声を落とした。
「それで、もう一つ聞いてもいいか? お前って、今はシルフィール伯爵家の養子なんだろ? だったら、結婚したあとはどうなるんだ?」
その質問に、俺はすぐには答えられなかった。
結婚後の立場や仕事については、まだ具体的に決まっていない。俺自身、これから学ばなければならないことが多いと思っているし、何よりリビアやアルセス様と相談しながら考えていく必要がある。
「それについては、まだ決まっていないんだ。今後、必要なことを相談しながら考えていくことになると思う」
俺が答えると、彼は少し驚いたように目を見開いた。
「へえ、そうなのか。てっきり、もう全部決まってるのかと思ってた」
「婚約は正式に決まっているけど、その先のことまで全部決まっているわけじゃないからね」
俺がそう説明すると、彼は納得したように頷いた。
「なるほどな。変なこと聞いて悪かった」
「気にしなくていいよ。答えられることなら、俺も普通に話せるから」
俺がそう返すと、彼は軽く手を振って自分の席へ戻っていった。
その様子を見送ってから、俺は小さく息を吐いた。
質問そのものに問題があったとは思わない。けれど、婚約について尋ねられるとき、俺が一人で答えることが当たり前になってしまうのは、少し違う気もする。
そう考えていると、隣からリビアの声が聞こえてきた。
「……セス。今の質問、私も聞いていたわ」
振り返ると、リビアが静かな表情で立っていた。
「うん。特に困ったことはなかったよ。まだ決まっていないことは、決まっていないって答えたから」
「ええ。それはよかったと思うの」
彼女はそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
「でも、あなたばかりが質問されるのは、少し不公平な気がするわ」
その言葉に、俺は首を傾げた。
「不公平?」
「だって、私たちの婚約でしょう? あなた一人のことではないのに、周りの方はセスにばかり尋ねることが多い気がするの」
俺は少し考えた。
確かに、学院では俺に質問が向けられることが多い。リビアは公爵令嬢という立場もあって、気軽に話しかけにくいのかもしれない。
「リビアには、直接聞きにくいのかもしれないね」
「そうかもしれないわ。でも、それならなおさら、私も自分の言葉で話せるようにしたいの」
リビアはそう言って、俺をまっすぐ見つめた。
「私たちのことを、セスだけに説明させたくないの」
その瞳には、いつもの甘えるような色ではなく、はっきりとした意思が宿っていた。
俺は彼女の言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
「……ありがとう、リビア。俺も、二人のことは二人で考えていきたいと思っているよ」
そう答えると、彼女はようやく柔らかく微笑んだ。
「ええ。だから、今日の放課後に相談したかったの」
なるほど。朝食のときに彼女が話したいと言っていたのは、このことだったらしい。
俺は頷き、彼女へ微笑み返した。
「分かった。じゃあ、放課後にゆっくり話そう」
「ありがとう、セス」
リビアは嬉しそうに頷いた。
その直後、教室の扉が開き、担当教員が入ってきた。
俺たちはそれぞれの席へ戻り、午前の授業が始まった。
◇
昼休みになると、俺たちはいつものようにサザリー、ガレス、エミリアと一緒に食事を取ることになった。
食堂は多くの生徒で賑わっており、窓際の席からは中庭の木々が見える。秋の風に揺れる枝先には、少しずつ色づいた葉が増えていた。
俺たちが席に着くと、ガレスが早速話しかけてきた。
「そういえばセス、今朝、誰かに婚約のことを聞かれてたよな?」
俺は少し驚いた。
「見ていたの?」
「ああ。教室の後ろから見えたんだ。別に揉めてる感じじゃなかったから声はかけなかったけど、何かあったのか?」
「ううん。婚約が本当なのかって確認されただけだよ。それから、結婚後のことも聞かれたけど、まだ決まっていないって答えたんだ」
俺が説明すると、ガレスは納得したように頷いた。
「なるほどな。まあ、気になるやつはいるだろうな。公爵令嬢と婚約してるってだけでも珍しいのに、お前の場合は元々平民だったわけだし」
その言葉に、サザリーが少し考えるように口を開いた。
「確かに、周囲が関心を持つのは自然かもしれないね。ただ、関心があることと、何でも聞いていいことは別だと思うけれど」
「それはそうだな。俺だって、あんまり踏み込んだことを聞かれたら困ると思うし」
ガレスはそう答え、少し気まずそうに笑った。
エミリアはリビアへ目を向けた。
「リビア様は、こうした質問を受けることはありますか?」
リビアは少し考えてから答えた。
「私にも尋ねてくださる方はいらっしゃいますわ。ただ、セスほど直接的な質問を受けることは多くないと思います」
「やはり、お立場の違いもあるのでしょうか」
「そうかもしれません。でも、私たちの婚約について、セスだけが説明する形になるのは避けたいと思っていますの」
リビアの言葉に、エミリアは静かに頷いた。
「それは、とても大切なことだと思います。婚約はお二人のことですものね」
俺は彼女たちの会話を聞きながら、少しだけ安心した。
リビアが何を考えているのか、友人たちにも自然に伝わっているようだ。
サザリーはしばらく黙っていたが、やがて穏やかな声で口を開いた。
「ただ、答え方を決めるにしても、全部を同じように説明する必要はないと思うよ」
「どういうこと?」
俺が尋ねると、サザリーは食器を置き、少し考えながら答えた。
「例えば、正式に婚約しているかどうかは、すでに公に知られていることだよね。でも、結婚後の具体的な生活や仕事については、まだ決まっていない。さらに、お二人だけで話したいこともあるはずだ」
俺は頷いた。
「うん。確かにそうだね」
「だから、質問された内容によって、答えられることと答えられないことを分けて考えるのがいいんじゃないかな」
サザリーはそう言って、リビアへ視線を向けた。
「リビア様も、その方がご自身の考えを伝えやすいと思います」
リビアは少し嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます、サザリー様。私も、そうした方がよいと思いますわ」
ガレスはパンを口へ運びかけ、ふと思い出したように手を止めた。
「でもさ、答えられないことを聞かれたときって、どう言えばいいんだ? 『教えられません』って言うと、なんか冷たい感じがしないか?」
その言葉に、俺たちは少し考え込んだ。
確かに、質問してきた相手に悪意がない場合、必要以上に冷たく返すのは避けたい。
けれど、だからといって、答える必要のないことまで話してしまうのも違う。
エミリアが控えめに口を開いた。
「『まだお話しできる段階ではありません』という言い方なら、少し柔らかくなるかもしれませんね」
「なるほど。それなら、相手も分かりやすいかもしれないな」
ガレスは感心したように頷いた。
リビアもエミリアの言葉を聞き、静かに微笑んだ。
「ええ。とてもよい言い方だと思いますわ」
俺はそんな友人たちを見ながら、少し不思議な気持ちになっていた。
婚約についての質問は、これまで何度も受けてきた。
けれど、こうして友人たちと一緒に答え方を考えるのは、初めてのことだった。
それは、俺一人では思いつかなかった視点を教えてもらう時間でもあった。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴るまで、俺たちは穏やかに話を続けた。
◇
午後の授業を終えたあと、俺とリビアは学院の中庭へ向かった。
帰宅する生徒たちの姿が少しずつ減り、校舎の窓には傾き始めた日差しが映っている。中庭の端にある長椅子は、木々の影がほどよく落ちていて、静かに話すにはちょうどよさそうだった。
俺たちはそこへ腰を下ろし、少しの間、風に揺れる木の葉を眺めていた。
やがて、リビアが口を開いた。
「……セス。今日の昼休みに皆さんと話して、少し考えがまとまった気がするわ」
「うん。俺も、サザリーたちの意見を聞けてよかったと思う」
俺が答えると、リビアは頷いた。
「私ね、今まであなたが質問されているところを見ると、少しだけ落ち着かない気持ちになっていたの」
「落ち着かない?」
「ええ。あなたが困っているように見えることもあったし、私たちの婚約なのに、あなた一人が説明しているように感じることもあったから」
リビアはそこで少し言葉を切り、膝の上で両手を重ねた。
「でも、だからといって、私が代わりに全部答えるのも違うと思うの。あなたにはあなたの考えがあるし、私にも私の考えがあるでしょう?」
俺は静かに頷いた。
「うん。そうだね」
「だから、これからは、質問されたときにどう答えるかを、少しずつ二人で考えていきたいの」
彼女はそう言って、俺をまっすぐ見つめた。
「あなた一人に任せるのではなくて、私も自分の言葉で話したいわ」
その言葉に、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
リビアはいつも、俺のことを大切に考えてくれる。
けれど、今日の彼女はそれだけではなく、婚約者として自分も同じ立場に立とうとしているように見えた。
「……ありがとう、リビア。俺も、そうしていきたいと思うよ」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、まずは今日みたいな質問から考えてみましょうか」
「うん。正式に婚約していることは、普通に答えていいと思う」
「ええ。それはもう決まっていることですものね」
「結婚後の仕事や生活については、まだ決まっていないから、そのまま伝えるしかないかな」
俺がそう言うと、リビアは少し考えた。
「そうね。ただ、『まだ決まっていません』だけだと、相手によっては不安に思うかもしれないわ」
「不安?」
「ええ。公爵家の婚約なのに、何も考えていないのかと思われる可能性もあるでしょう?」
俺は少し考えた。
確かに、相手によってはそう受け取るかもしれない。
「じゃあ、『これから必要なことを相談しながら決めていきます』って伝えるのはどうかな」
俺が提案すると、リビアは嬉しそうに頷いた。
「それなら、とてもよいと思うわ。まだ決まっていないことを隠さずに伝えられるし、私たちが一緒に考えていることも分かるもの」
彼女はそう言ってから、少しだけ頬を染めた。
「……それに、私はその言い方が好きだわ」
「どうして?」
俺が尋ねると、リビアは少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「だって、『私たちが一緒に考えている』って聞こえるでしょう?」
その言葉に、俺は思わず笑ってしまった。
「うん。確かにそうだね」
リビアもつられて笑い、俺たちの間に穏やかな空気が流れた。
しばらくして、彼女は少し真剣な表情へ戻った。
「それから、もう一つ。私たちだけのことまで、全部説明する必要はないと思うの」
「うん。それは俺も同じ考えだよ」
俺が答えると、リビアは安心したように微笑んだ。
「よかった。例えば、私たちが二人でどんな話をしているのかとか、普段どんなふうに過ごしているのかとか……そういうことまで、誰にでも話す必要はないでしょう?」
「そうだね。もちろん、話してもいいことはあると思うけど、全部を説明する必要はないよ」
俺がそう言うと、リビアは少しだけ視線を逸らした。
「……特に、庭園でのことなんて、あまり人には話したくないもの」
その言葉に、俺は昨日の夕方を思い出した。
噴水の近くの長椅子で、手をつないで話したこと。
彼女が俺の肩へ頭を預けてくれたこと。
そして、これからも一緒に学んでいこうと約束したこと。
思い出した途端、少しだけ顔が熱くなる。
「……うん。あれは、俺たちだけの時間だからね」
俺が小さな声で答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。そういうことは、大切にしておきたいわ」
俺たちはしばらく黙っていた。
中庭には穏やかな風が吹き、木々の葉が小さな音を立てている。
やがて、リビアがそっと俺の手へ触れた。
「……セス。私たち、少しずつ婚約者らしくなってきたのかしら」
俺は彼女の方へ顔を向けた。
リビアは少し照れたように微笑んでいる。
「どうだろう。でも、俺は前よりも、二人で考えることが増えた気がするよ」
「私もそう思うわ」
彼女はそう言って、俺の手をそっと握った。
「これからも、いろいろなことを一緒に決めていきたいわね」
「うん。俺もそうしたい」
俺たちは顔を見合わせ、静かに微笑んだ。
◇
公爵邸へ戻ったあと、俺は父さんのもとへ向かった。
父さんは執務室で書類を整理していたが、俺の姿を見ると手を止めた。
「お帰りなさい、クルセス。今日は少し遅かったですね」
「ただいま、父さん。リビアと学院で少し話していたんだ。帰りの馬車については、出発前に確認してから戻ってきたよ」
俺がそう説明すると、父さんは頷いた。
「それなら問題ありません。何か大切な話だったのですか?」
「うん。学院で婚約について質問されることがあるから、これからどう答えていくか、リビアと相談していたんだ」
俺は朝の教室で質問されたことや、昼休みに友人たちと話したこと、そして放課後にリビアと相談した内容を簡単に説明した。
父さんは最後まで静かに聞いていた。
「なるほど。お二人で話し合われたのですね」
「うん。正式に婚約していることは普通に答えて、まだ決まっていないことは、これから相談していくって伝えようと思っているんだ」
俺がそう答えると、父さんは穏やかに微笑んだ。
「よい考えだと思います。ただし、クルセス。質問の内容によっては、あなた方だけで答えを決めるべきではないこともあります」
「……うん。公爵家や伯爵家の立場に関わることだよね」
「そのとおりです。婚約そのものは正式に認められていますが、今後の立場や仕事については、旦那様や関係する方々との相談が必要になります」
俺は頷いた。
「分かっているよ。だから、まだ決まっていないことは、勝手に答えないようにするつもりなんだ」
父さんは満足そうに頷いた。
「それなら安心です。何より、お嬢様と一緒に考えたということが大切ですね」
その言葉に、俺は少し嬉しくなった。
「うん。リビアも、自分の言葉で話したいって言ってくれたんだ」
「お嬢様らしいお考えですね」
父さんはそう言ってから、少しだけ表情を和らげた。
「クルセス。あなたは、これから先もさまざまな質問を受けるでしょう。そのすべてに、すぐ答えられる必要はありません。大切なのは、何を自分の言葉で伝えられるのか、何を相談すべきなのかを見極めることです」
「うん。今日、少しだけ分かった気がするよ」
俺が答えると、父さんは静かに微笑んだ。
「それなら、よい一日でしたね」
俺は父さんへ礼を言い、執務室をあとにした。
◇
夕食まで少し時間があったので、俺は自室で今日の出来事をノートにまとめることにした。
机の上には、昨日の剣術の実習で気づいたことを書いたノートが置かれている。その隣へ新しいページを開き、今日リビアと相談した内容を簡単に書き留めた。
正式に婚約していること。
まだ決まっていないことは、決まっていないと伝えること。
今後のことは、必要な人たちと相談しながら考えていくこと。
そして、二人だけのことまで、無理に説明する必要はないこと。
書き終えたところで、俺は少しだけ手を止めた。
(……こうして書いてみると、当たり前のことばかりかもしれない。でも、実際に質問されると、どう答えればいいのか迷うこともあるんだよな)
俺はノートを閉じ、椅子の背もたれへ体を預けた。
婚約が正式に決まってから、俺たちの関係は少しずつ変わってきた。
以前は、リビアを守ることや、彼女の望みを叶えることばかり考えていた気がする。
けれど、今はそれだけではない。
リビア自身が何を考えているのか。
俺が何を望んでいるのか。
そして、二人でどうしていきたいのか。
そうしたことを話し合う時間が、少しずつ増えている。
それは、俺にとってとても嬉しい変化だった。
窓の外では、夕日が庭園の木々を柔らかく照らしている。
俺は立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
遠くに見える噴水のあたりには、昨日リビアと座った長椅子がある。
その光景を眺めていると、自然と笑みが浮かんだ。
今日、リビアは俺に言ってくれた。
私たちの婚約だから、二人で考えていきたい、と。
その言葉が、今も胸の奥に残っている。
俺はこれからも、きっと多くのことを学んでいくのだろう。
魔法や剣術だけではない。
人との関わり方や、自分の立場についても、まだ知らないことがたくさんある。
けれど、リビアと一緒なら、その一つ一つを大切に考えていける気がした。
やがて、廊下の向こうから夕食の準備を知らせる声が聞こえてきた。
俺はノートを机へ戻し、制服の襟元を整える。
食堂へ向かうために扉を開けると、ちょうど廊下の先からリビアが歩いてくるところだった。
彼女は俺に気づくと、嬉しそうに微笑んだ。
「セス。ちょうどよかったわ。一緒に食堂へ行きましょう?」
「うん。もちろん」
俺が答えると、リビアは自然に隣へ並んだ。
そして、周囲に人がいないことを確かめるように少しだけ視線を動かしてから、そっと俺の手を取った。
「……ねえ、セス。今日のこと、私はとても嬉しかったの」
「俺もだよ。リビアと一緒に考えられてよかった」
俺がそう答えると、彼女は少し頬を染めながら微笑んだ。
「ええ。これからも、二人で考えていきましょうね」
俺は彼女の手を握り返し、静かに頷いた。
「うん。約束するよ」
夕暮れの廊下を、俺たちは並んで歩いていく。
明日になれば、また誰かから質問されることがあるかもしれない。
けれど、今は少しだけ、以前より落ち着いて答えられる気がしていた。
なぜなら、俺はもう一人で考える必要がないのだから。
隣には、同じ未来を見つめてくれる婚約者がいる。
そのことを、今日ほど心強く感じた日はなかった。




