第127話 公爵令嬢様は、俺が教わるところも見逃してくれないらしい
翌朝、目を覚ました俺が最初に耳にしたのは、窓の外から聞こえてくる小鳥の鳴き声だった。昨夜は風が少し強かったものの、今朝はすっかり落ち着いているらしく、薄いカーテンの向こうには穏やかな朝日が差し込んでいる。
寝台から起き上がり、いつものように身支度を整えながら、俺は机の上に置かれた二冊のノートへ目を向けた。一冊は昨日の魔法理論の授業で使った自分のもので、もう一冊は、リビアが帰り際に置いていったものだ。
彼女は自分の部屋へ戻る直前、明日の朝まで貸しておくから、気になったところがあれば読んでほしいと言っていた。俺のノートとは違う観点でまとめられた内容は興味深く、昨夜は彼女が部屋を出たあとも、しばらく机に向かっていた。
(自分では気づかないことを、誰かに教えてもらうのは面白いな。リビアの結界魔法についても、まだ知らないことがたくさんある)
もっとも、今日は魔法理論の授業ばかりではない。時間割には剣術の実習も入っており、先日ガレスが話していた足運びについて、もう一度考える機会があるかもしれなかった。
俺はノートを丁寧に閉じ、リビアへ返すために鞄へしまった。それから鏡の前で制服の襟を整え、廊下へ出ると、ちょうど向こうから歩いてきた彼女と目が合った。
「おはよう、セス。今日は私より早かったのね」
リビアはそう言いながら足を止め、俺の顔を見て柔らかく微笑んだ。シルバーブルーの髪が朝日を受けて淡く輝き、いつもきちんと整えられた制服の襟元には、わずかな乱れも見当たらない。
「おはよう、リビア。昨日借りたノートを、もう少し読みたかったからね。朝食のあとで返そうと思っていたんだ」
「急がなくてもよかったのに。私の方こそ、あなたのノートを読ませてもらって、いろいろ勉強になったわ」
彼女は俺の隣へ並ぶと、少しだけ声を落とした。
「それより、昨日はちゃんと眠れた? 私が長くお邪魔してしまったから、休む時間が遅くなっていないか気になっていたの」
「大丈夫だよ。リビアが帰ってから少しだけノートを見ていたけど、無理をするほどじゃなかったから」
俺が答えると、彼女は安心したように息をついた。けれど、そのあとすぐに何かを思い出したらしく、少し悪戯っぽい表情になる。
「それならよかったわ。……ところで、今日は剣術の実習があるでしょう?」
「うん。ガレスも楽しみにしていると思うよ。足運びのことを、また先生に見てもらいたいって言っていたから」
「私も楽しみにしているの。あなたがガレス様に教えているところを見られるかもしれないもの」
その言葉に、俺は思わず苦笑した。
「昨日も話したけど、俺が教えるって決まったわけじゃないよ。実習では先生の指示が優先だし、俺もまだ学ぶことがたくさんあるから」
「ええ、分かっているわ。でも、あなたが誰かに教わるところも、私は見てみたいのよ」
リビアはそこで一度言葉を切り、俺の表情を確かめるように顔を覗き込んだ。
「セスは何でもできると思われがちでしょう? けれど、私には、あなたが新しいことを知って嬉しそうにしている顔も、とても素敵に見えるの」
俺は返事をしようとして、うまく言葉が出てこなかった。そんなふうに言われるとは思っていなかったし、何より彼女があまりにも自然に微笑むものだから、余計に照れくさくなってしまう。
「……リビアは、俺のことをよく見ているね」
「婚約者ですもの。当然でしょう?」
彼女は少し誇らしげに胸を張ったあと、俺の手元へ視線を落とした。俺が手を差し出すと、リビアは嬉しそうに指先を重ね、そのまま食堂へ向かって歩き始める。
廊下の先から使用人の足音が聞こえてくるまで、彼女は俺の手を離さなかった。
◇
学院へ到着すると、朝の教室はいつもより少し賑やかだった。窓際では数人の生徒が昨日の魔法理論について話し合い、教室の後方では剣術の実習を楽しみにしている男子生徒たちが、木剣の扱いについて意見を交わしている。
ガレスはすでに席に着いていたが、俺たちの姿を見るなり勢いよく立ち上がった。
「おう、セス! ちょうどよかった。今日の実習のことで、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「おはよう、ガレス。何か気になることがあった?」
俺が鞄を机へ置くと、ガレスは自分のノートを広げた。そこには先日の実習で指摘された足運びについて、前足と後ろ足の位置を示す図がいくつも描かれている。
「この前、先生に重心が先に上がってるって言われただろ? あれから家で考えてみたんだけど、俺、前へ出ようとすると、どうしても後ろ足で地面を強く蹴ろうとするんだよな」
彼は椅子に座ったまま、床に足を置いて動きを再現しようとした。もちろん教室で大きく動くわけにはいかないので、足首をわずかに動かす程度だったが、何を気にしているのかは伝わってきた。
「後ろ足で押し出そうとすると、体が先に伸び上がる感じがするんだ。でも、力を抜きすぎると今度は前へ出られない気がしてさ」
「なるほど。実際の動きを見ないとはっきりしないけど、後ろ足だけで前へ進もうとしているのかもしれないね」
俺が答えると、ガレスは深く頷いた。
「そうなんだよ。だから今日、先生にもう一回見てもらおうと思ってる。もし組み合わせを選べるなら、セスにも付き合ってほしいんだけど、どうだ?」
「もちろん、先生が認めてくれるなら喜んで」
俺が答えると、ガレスは嬉しそうに笑った。その隣で話を聞いていたサザリーが、少し考えるように顎へ手を添える。
「ガレスは、自分の癖をかなり具体的に捉えられるようになってきたね。以前は、踏み込みがうまくいかないとしか言っていなかった気がするよ」
「そう言われると、確かにな。どこが悪いのか分からないまま練習するより、今は少し考えやすくなった気がする」
ガレスはノートを見下ろし、照れくさそうに笑った。
そこへエミリアがやってきた。彼女は俺たちの会話を聞いていたらしく、ガレスのノートへ目を向ける。
「おはようございます。ガレス様、ずいぶん詳しくまとめていらっしゃるのですね。先日の実習で気づいたことを、きちんと覚えていらしたのですね」
「おはよう、エミリア。まあ、せっかく先生に教えてもらったんだから、次までに少しは考えておこうと思ってさ」
ガレスはそう答えたあと、少しだけ声を落とした。
「ただ、考えすぎて変な癖をつけても困るから、実際に動くのは先生に見てもらってからにするつもりだ」
その言葉に、俺は少し感心した。ガレスは思い立ったらすぐに行動するところがあるけれど、先日の実習を通じて、自分の感覚だけで判断しないことも覚え始めているらしい。
リビアはそんな俺たちを見て、静かに微笑んでいた。
「皆さん、今日の実習を楽しみにしていらっしゃるのね。私も、自分の動きをもう一度見直してみようと思いますわ」
「リビアも?」
俺が尋ねると、彼女は頷いた。
「ええ。剣術は得意な方だと思っているけれど、だからといって直すところがないわけではないでしょう? それに、あなたが何を学ぶのかも気になるもの」
最後の言葉を聞いたサザリーが、わずかに口元を緩めた。
「なるほど。今日はセスも、かなり真剣に取り組まないといけなさそうだね」
「いつも真剣にやっているつもりなんだけどな……」
俺が苦笑すると、ガレスが大きく笑い、エミリアも控えめに微笑んだ。リビアだけは何も言わず、少し得意げな顔で俺を見つめている。
朝の鐘が鳴るまで、俺たちはそれぞれの課題について話を続けた。
◇
午前の座学が終わり、剣術の実習時間になると、俺たちは学院の屋外訓練場へ移動した。秋の日差しは穏やかだったが、日陰に入ると少し肌寒く、訓練場の端に並ぶ木々からは色づいた葉が時折舞い落ちている。
訓練場にはすでに木剣や防具が用意されており、生徒たちは担当教員の指示に従って整列した。地面は乾いていて、前回の雨によるぬかるみも見当たらないが、先生は最初に足元を確認するよう全員へ声をかけた。
「今日は基本動作の確認を行う。特に、構えから移動へ入るときの姿勢と、移動を終えたあとの安定性を見ていく。速さを競う授業ではないから、無理に動きを大きくする必要はない」
先生はそう説明すると、まず全員に準備運動を指示した。俺たちは肩や腰、足首を順番に動かし、体の状態を確かめてから木剣を手に取る。
ガレスは俺の少し前に立ち、いつもより慎重に足の位置を確かめていた。隣にいたサザリーが何か声をかけると、ガレスは頷き、肩の力を抜くように息を吐く。
先生は生徒たちの様子を見回したあと、二人一組で基本動作を観察する課題を告げた。
「一人が動き、もう一人が姿勢を見る。ただし、勝手に相手の体へ触れて直そうとしないこと。気づいた点があれば言葉で伝え、判断に迷ったら私を呼ぶように」
その説明を聞き、ガレスが俺へ目を向けた。
「セス、組んでもらってもいいか?」
「うん。よろしく、ガレス」
俺たちは先生へ組み合わせを伝え、指定された区画へ移動した。少し離れた場所ではリビアとエミリアが組み、サザリーは別の生徒と一緒に準備を始めている。
最初に動くのはガレスだった。
彼は木剣を構え、前方の目印を見つめながら、ゆっくりと一歩踏み出した。前足は比較的安定していたものの、後ろ足が追いつくまでの間に腰の位置が少し高くなり、最後に姿勢を整え直す動きが入っている。
俺は一度目の動きを見届けてから、ガレスへ声をかけた。
「今の動き、前へ出るところまではよかったと思う。ただ、後ろ足が動く前に、腰が少し上がっていたように見えたよ」
「やっぱりそうか。自分でも、最後に少し体が浮く感じがしたんだ」
ガレスは木剣を下ろし、足元を見つめた。
「もう一回やってみてもいいか?」
「もちろん。でも、今度は少しだけ速度を落としてみよう。急いで前へ出ようとしなければ、どのあたりで姿勢が変わるのか分かるかもしれない」
俺がそう提案すると、ガレスは頷いた。
二度目の動きでは、彼は前足を出す速度を落とし、後ろ足を引き寄せるまでの間も姿勢を保とうとしていた。けれど、今度は上半身が少し前へ傾き、木剣の先端がわずかに下がってしまう。
「……難しいな。腰を上げないようにすると、今度は前へ倒れそうになる」
ガレスは苦笑しながら木剣を構え直した。
俺はその様子を見て、すぐに答えを出すべきか迷った。
(俺なら、どう動いているだろう。足だけじゃなくて、腰や肩の位置も関係しているはずだけど……言葉だけで伝えるのは難しいな)
考えていると、ちょうど近くを巡回していた先生がこちらへ歩いてきた。
「フォルナー、シルフィール。何か気になるところがあるのか?」
ガレスはすぐに姿勢を正し、先ほどの動きについて説明した。先生は頷きながら話を聞き、実際にもう一度動いてみるよう指示する。
ガレスは言われたとおりに踏み込みを行い、先生は正面と横から姿勢を確認した。
「なるほど。前回より、自分の動きを意識できているな。ただし、今度は腰を低く保とうとしすぎて、上半身を前へ倒している」
先生は木剣を手に取り、ガレスの隣で同じ動作をゆっくりと示した。
「腰を下げることだけを考えるのではなく、構えた姿勢を保ったまま移動する意識を持ってみろ。前へ進むことと、前へ倒れることは違う。特に、足を出す前に肩が動きすぎないよう注意するんだ」
俺は先生の動きを注意深く見つめた。
確かに、先生は前足を出す直前まで上半身の位置をほとんど変えていない。足の動きだけを切り離しているのではなく、体全体の釣り合いを保ちながら移動しているように見える。
ガレスも真剣な表情で先生を見ていた。
「……なるほど。腰を低くしようとして、逆に姿勢を崩していたんですね」
「そういうことだ。だが、今の段階で無理に完成させる必要はない。まずはゆっくりと、同じ姿勢を保って動けるようにしていこう」
先生はそう言ってから、俺の方へ視線を向けた。
「シルフィール。君は今の動きをどう見た?」
「ガレスは、前へ出るときに後ろ足で強く押そうとしていたと思います。速度を落としたあとは腰の上がり方が小さくなりましたが、上半身が前へ傾いていました」
「そのとおりだ。では、君自身が同じ動きをするとき、何を意識している?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
普段なら、特に意識せずに行っている動きだ。けれど、昨日の魔法理論の授業で学んだことを思い出し、自分の感覚をできるだけ正確に説明しようと考える。
「……前へ進むときも、剣を構えた姿勢が大きく変わらないようにしていると思います。ただ、足を動かす順序や力の入れ方については、普段あまり意識していませんでした」
先生は静かに頷いた。
「ならば、今度は君が動いてみなさい。速さは必要ない。自分がどのように体を使っているか、確かめながら行うんだ」
「はい」
俺は指定された位置へ立ち、木剣を構えた。
いつものように前へ進もうとして、ふと動きを止める。
速く動くことは簡単だ。
けれど、今は速さを求められているわけではない。
自分が何をしているのか、理解しながら動くことが課題なのだ。
俺は一度呼吸を整え、前足へ意識を向けた。重心を移しながら足を出し、後ろ足を引き寄せるまで、できるだけ姿勢を保つ。
動き終えたところで、先生が小さく頷いた。
「よい動きだ。だが、君も無意識に調整している部分が多いな」
「……はい。今、ゆっくり動いてみて、そう感じました」
俺が答えると、先生は木剣の先端へ目を向けた。
「特に、後ろ足を引き寄せるときの肩の動きだ。君はわずかに肩の位置を変えて、剣先がぶれないようにしている。それ自体は悪いことではないが、本人が意識していないなら、他人へ説明するときには注意が必要だ」
俺は思わず自分の肩へ視線を落とした。
(……肩の位置まで、そんなふうに調整していたのか)
普段は剣先が安定しているかどうかを感覚で判断していたため、肩の動きまで細かく考えたことはなかった。
「もう一度、同じ動きをしてみなさい。今度は、肩をどう使っているか意識してみるといい」
先生の指示に従い、俺は再び構えた。
二度目は肩の動きへ意識を向けたためか、かえって剣先が少し揺れてしまった。動き終えたところで自分でも違和感を覚え、思わず苦笑する。
「……さっきより、少し不安定になりました」
先生はそれを見て、穏やかに頷いた。
「そうだな。だが、悪いことではない。普段無意識に行っていることを意識すると、一時的に動きがぎこちなくなることもある。大切なのは、そこで焦って力任せに修正しないことだ」
その言葉は、思っていた以上に胸へ残った。
俺は剣術が得意だと思っているし、実際にこれまで大きく困ったことは少ない。けれど、自分の動きを細かく理解しているかと聞かれれば、まだ分からない部分がある。
先生は俺とガレスを交互に見て、少し笑った。
「二人とも、今日の課題は同じだ。フォルナーは姿勢を保ちながら動くこと。シルフィールは、自分がどのように姿勢を保っているのか理解すること。互いに観察しながら、無理のない範囲で練習しなさい」
「はい!」
俺たちは声を揃えて返事をした。
先生が次の組へ向かうと、ガレスはしばらく俺の顔を見つめ、それから嬉しそうに笑った。
「……なんか、面白いな。セスも俺と同じように、先生から課題をもらうんだな」
「もちろんだよ。俺だって、まだ知らないことはたくさんあるから」
「いや、分かってはいるんだけどさ。お前が動きを直されるところって、あんまり見ないから」
ガレスは木剣を肩に担ぎかけ、すぐに実習中だと思い直したように持ち直した。
「よし。じゃあ、今日はお互いに見てやろうぜ。俺ばっかり教わるんじゃなくて、セスの動きもちゃんと見てみたい」
その言葉を聞き、俺は自然と笑みを浮かべた。
「うん。よろしく頼むよ、ガレス」
◇
そのあとの練習は、思っていた以上に充実したものになった。
ガレスはゆっくりと足を運び、俺は彼の姿勢がどの段階で変わるのかを観察した。一方、俺が動くときにはガレスが横から見て、肩や剣先の位置について気づいたことを伝えてくれる。
最初のうちは、ガレスも何を見ればいいのか分からず戸惑っていた。けれど、先生に指摘された部分を意識して観察するうちに、少しずつ具体的な言葉が出てくるようになる。
「セス、今の動き、最初は剣先がほとんど動かなかったけど、後ろ足を寄せるときに少しだけ右へずれた気がする」
「本当? 俺は肩の方を意識していたから、剣先までは見られていなかったよ」
「じゃあ、次はそこを見てみようぜ。俺も、足ばっかり気にしてると上半身がどうなってるか分からなくなるし」
ガレスはそう言って、木剣を構え直した。
俺は彼の言葉を聞きながら、昨日リビアが話していたことを思い出した。
誰かに教えることと、誰かから教わること。
それは、必ずしも一方通行ではない。
自分より経験の少ない相手からでも、気づかされることはあるのだ。
何度か練習を重ねたあと、俺たちは一度休憩を取ることにした。水分を補給しながら訓練場を見渡すと、少し離れた場所ではリビアとエミリアが真剣な表情で話し合っている。
リビアは木剣を下ろし、エミリアへ何か説明していた。けれど、彼女が一方的に話しているわけではなく、エミリアも自分の動きを示しながら意見を伝えているようだ。
俺がその様子を見ていると、ガレスが隣から声をかけてきた。
「リビア様も、ずいぶん熱心だな」
「うん。リビアは昔から、何かを学ぶときは真剣だからね」
「それは知ってるけどさ。セスと一緒にいるときとは、また違う顔をしてる気がする」
俺は少し不思議に思い、ガレスの方を見た。
「違う顔?」
「いや、悪い意味じゃないぞ。剣を持ってるときはすごく集中してるし、エミリアに説明してるときも、ちゃんと相手の話を聞いてる。でも、お前と話してるときは……なんていうか、もっと柔らかい感じになるだろ?」
俺は返事に困ってしまった。
確かに、リビアは俺の前では甘えたり、少し拗ねたりすることがある。けれど、それをほかの人から指摘されると、どう答えればいいのか分からない。
ガレスはそんな俺の様子を見て、楽しそうに笑った。
「ははっ。別にからかってるわけじゃないって。お前ら、昔から仲がよかったんだろ? 今は婚約者なんだし、そういうのも普通なんじゃないか」
「……そうなのかな」
「少なくとも、俺にはそう見えるぜ」
ガレスはそう言ってから、少し真面目な表情になった。
「それにさ、リビア様があんなふうに真剣に稽古してるのを見ると、俺も負けてられないって思うんだよな」
その言葉に、俺は頷いた。
「うん。俺もそう思うよ」
俺たちは再び木剣を手に取り、残りの時間も集中して練習に取り組んだ。
最後の確認では、ガレスの踏み込みが最初より安定して見えた。ただし、速く動いた場合や疲れているときにも同じようにできるかは、まだ分からない。
先生もその点を指摘し、今日できたことを次の実習でも再現できるか、引き続き確かめるよう伝えた。
一方、俺は自分の肩の動きについて、以前より少し意識できるようになった。けれど、意識しすぎると動きが硬くなることも分かり、まだ練習が必要だと感じている。
実習が終わる頃には、ガレスも俺も少し汗をかいていた。
「いやあ、今日は面白かったな!」
ガレスは木剣を所定の場所へ戻しながら、満足そうに笑った。
「俺も楽しかったよ。ガレスが見てくれたおかげで、自分では気づかなかったことも分かったし」
「そう言ってもらえると嬉しいな。俺も、セスに見てもらって助かったよ」
俺たちは顔を見合わせ、自然と笑い合った。
そのとき、少し離れた場所からリビアの声が聞こえてきた。
「セス、お疲れ様。ガレス様も、熱心に練習していらしたのね」
振り返ると、リビアとエミリアがこちらへ歩いてきていた。
リビアは俺の顔を見て、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「……私、今日のあなたを見ていて、とても楽しかったわ」
「俺が練習しているところを?」
「ええ。特に、先生に指摘されたあと、何度も自分の動きを確かめていたところが印象的だったの」
彼女はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「あなたが真剣に学んでいる姿、やっぱり素敵だったわ」
俺は思わず視線を逸らした。
そんな俺の様子を見て、ガレスが笑いをこらえているのが分かった。
エミリアも口元へ手を添え、控えめに微笑んでいる。
「……リビア。そういうことは、もう少し人のいないところで言ってくれると助かるんだけど」
俺が小さな声で伝えると、彼女は一瞬だけ目を丸くした。
それから、頬を薄く染めながら微笑む。
「あら。ごめんなさい。でも、本当にそう思ったのよ?」
その言葉に、俺は何も言い返せなくなってしまった。
◇
実習を終えて教室へ戻る途中、俺たちは廊下の窓際でサザリーと合流した。
サザリーは俺たちの様子を見ると、少し興味深そうに目を細めた。
「お疲れ様。ガレス、今日はずいぶん満足そうだね」
「ああ。先生に見てもらって、自分の癖が少し分かってきたんだ。それに、セスの動きを観察するのも勉強になったよ」
ガレスはそう答えながら、先ほどの練習について話し始めた。
サザリーは静かに耳を傾け、時折頷いている。
「なるほど。自分の動きを見てもらうだけでなく、相手の動きを見ることで気づくこともあったわけだね」
「そういうこと。セスだって、先生に指摘されるまで意識してなかったところがあったんだぜ」
ガレスがそう言うと、サザリーは少し驚いたように俺を見た。
「それは興味深いね。セスは自分の動きをかなり理解していると思っていたけれど、まだ無意識に行っている部分があるんだ」
「うん。今日、改めて分かったよ。できることと、説明できることは違うんだね」
俺が答えると、サザリーは穏やかに微笑んだ。
「それなら、昨日の魔法理論ともつながるね。分野は違っても、学び方には共通する部分があるのかもしれない」
エミリアも頷いた。
「私も、リビア様と練習していて同じことを感じました。自分では正しく動いているつもりでも、ほかの方から見ると違っていることがあるのですね」
リビアはエミリアの方へ顔を向け、柔らかく微笑んだ。
「私も、エミリア様に見ていただいて助かりましたわ。特に、構えを戻すときの手の位置については、自分では気づいていませんでしたもの」
その言葉を聞き、俺は少し嬉しくなった。
リビアも、今日の実習で新しいことを学んだらしい。
彼女は普段から剣術に優れているけれど、それでも自分の技術を見直そうとしている。
(……やっぱり、リビアはすごいな。得意なことでも、もっとよくしようと考えているんだから)
俺が彼女を見つめていると、リビアがこちらへ視線を向けた。
「どうしたの、セス?」
「いや、リビアも頑張っていたんだなと思って」
俺が答えると、彼女は少し照れたように微笑んだ。
「ええ。あなたに負けていられませんもの」
その言葉に、俺は思わず笑ってしまった。
リビアもつられて笑い、周囲の友人たちも穏やかな表情になった。
教室へ戻るまでの短い時間、俺たちは今日の実習について話し続けた。
◇
午後の授業を終え、帰宅の準備をしていると、リビアが俺の席へやってきた。
「セス、今日は少し疲れたでしょう?」
「うん。いつもより細かいところを意識して動いたから、少し疲れたかもしれない」
俺が答えると、彼女は心配そうに眉を寄せた。
「無理はしていない?」
「大丈夫だよ。先生の指示どおり、途中で休憩も取ったし、体に痛いところもないから」
その言葉に、リビアは安心したように頷いた。
「それならよかったわ。……ねえ、セス。今日は帰ったら、少しだけ庭園を歩かない?」
「庭園?」
「ええ。今日の実習のことを、もう少しあなたと話したいの」
俺は窓の外へ目を向けた。
空はまだ明るく、夕方になっても雨が降る気配はない。
「いいよ。帰ってから父さんに報告して、そのあと少し時間を作ろうか」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。楽しみにしているわ」
俺たちは並んで教室を出ると、学院の玄関へ向かった。
廊下には帰宅する生徒たちの声が響き、窓から差し込む午後の日差しが床に長い影を落としている。
その途中、リビアがふと俺の袖を軽く引いた。
「……セス。今日、先生に教わっているあなたを見て、少し思ったことがあるの」
「何を?」
俺が尋ねると、彼女は少し考えるように視線を落とした。
「あなたは、誰かを助けることが多いでしょう? でも、今日みたいに、誰かに教えてもらっている姿を見ると……私、少し安心するの」
その言葉に、俺は不思議に思った。
「安心する?」
「ええ。あなたが一人で何でもできる人ではなくて、誰かから学んだり、助けてもらったりできる人なのだと思えるから」
リビアはそう言って、俺の顔を見上げた。
「私は、あなたが強いことも、優しいことも知っているわ。でも、それだけではなくて、あなたが誰かに頼れることも、とても大切だと思うの」
俺はしばらく黙っていた。
以前の俺なら、誰かに頼ることをあまり考えなかったかもしれない。
自分ができることは自分でやる。
困っている人がいれば、自分が助ける。
それが当たり前だと思っていた。
けれど、今日の実習では、ガレスに自分の動きを見てもらい、先生から新しいことを教わった。
そのことが、少しも嫌ではなかった。
むしろ、楽しかった。
「……うん。俺も、今日それを感じたよ」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「そう。よかったわ」
彼女はそれ以上何も言わず、俺の隣を歩き続けた。
けれど、その表情はどこか満足そうだった。
◇
公爵邸へ戻ると、俺はいつもどおり父さんのもとへ帰宅の報告に向かった。
父さんは執務室で書類を確認していたが、俺の姿を見ると手を止め、穏やかに頷いた。
「お帰りなさい、クルセス。今日の学院はいかがでしたか?」
「ただいま、父さん。今日は剣術の実習があって、自分の動きについて新しく分かったことがあったんだ」
俺は先生に指摘された肩の動きや、ガレスと互いに観察し合ったことを説明した。
父さんは静かに聞き終えると、少し嬉しそうに微笑んだ。
「よい経験をしましたね。自分の技術を見直す機会は、経験を積むほど大切になります」
「うん。今まであまり意識していなかったことも、誰かに見てもらうと分かるんだね」
「そのとおりです。ですが、誰かの指摘を受け入れることにも、ある程度の勇気が必要ですよ」
父さんはそう言って、机の上の書類を整えた。
「特に、得意だと思っていることほど、自分のやり方を変えるのは難しいものです。今日のあなたは、その点でもよい学びを得たのでしょう」
俺は少し考えた。
確かに、先生から指摘されたとき、驚きはした。
けれど、自分の動きに改善できるところがあると分かって、嫌な気持ちにはならなかった。
「……俺は、もっと上手くなれるかもしれないと思って、嬉しかったよ」
そう答えると、父さんは穏やかに微笑んだ。
「それなら、何よりです」
俺は父さんへ礼を言い、執務室をあとにした。
廊下を歩きながら、今日の実習を思い返す。
自分では当たり前にできることでも、まだ知らない部分がある。
それを知ることは、決して恥ずかしいことではない。
むしろ、これから先へ進むために必要なことなのだろう。
◇
夕方、俺はリビアと約束したとおり、公爵邸の庭園へ向かった。
西の空は淡い橙色に染まり、花壇の花々には柔らかな夕日が差し込んでいる。庭園の小道には落ち葉が少しだけ積もっていたが、歩くのに支障はなく、風が吹くたびに乾いた葉が静かな音を立てていた。
リビアはすでに庭園の入口で待っていた。
学院の制服から着替え、少し暖かそうな上着を羽織っている。
「セス、こちらよ」
俺に気づくと、彼女は嬉しそうに手を振った。
「待たせてごめんね。父さんへの報告が少し長くなってしまって」
「いいのよ。私も、つい先ほど来たところだから」
リビアはそう答えると、俺の隣へ並んだ。
俺たちはゆっくりと庭園の小道を歩き始めた。
しばらくは今日の授業や友人たちのことを話していたが、やがてリビアが少し真剣な表情になった。
「……ねえ、セス。今日、あなたが先生に教わっているところを見て、私も考えたことがあるの」
「何を?」
俺が尋ねると、彼女は歩く速度を少し落とした。
「私は、あなたに守ってもらうことが多いでしょう? でも、これからは、私もあなたを支えられる人になりたいと思っているの」
その言葉に、俺は彼女の方へ顔を向けた。
「リビアは、もう十分俺を支えてくれているよ」
「そうかしら?」
「うん。今日だって、俺が自分の動きについて考えているとき、リビアが見てくれていると思うと、少し頑張ろうって気持ちになったから」
俺が答えると、彼女は驚いたように目を見開いた。
それから、頬を薄く染めながら微笑む。
「……そんなふうに思ってくれていたの?」
「もちろん。リビアが頑張っている姿を見ると、俺も負けていられないって思うしね」
リビアはしばらく黙っていた。
やがて、少し照れくさそうに笑う。
「……それなら、私たちはお互いに支え合えているのかもしれないわね」
「うん。俺はそう思うよ」
俺たちは顔を見合わせ、自然と笑みを交わした。
庭園の奥へ進むと、小さな噴水が見えてきた。
水面には夕日が映り、風が吹くたびに細かな波紋が広がっている。
俺たちは噴水の近くにある長椅子へ腰を下ろした。
リビアは少しだけ俺の方へ体を寄せ、静かに口を開いた。
「……セス。私、今日のあなたを見て、もう一つ思ったことがあるの」
「何かな?」
「あなたが誰かに教わっている姿を見ると、私も安心するけれど……それと同時に、少しだけ嬉しくなるの」
彼女はそう言って、俺の手をそっと取った。
「だって、あなたにもまだ知らないことがあるなら、これから私が教えられることもあるかもしれないでしょう?」
その言葉に、俺は思わず笑ってしまった。
「それは、たくさんあると思うよ。リビアの結界魔法についても、俺はまだ知らないことが多いし、貴族としての礼儀や考え方も、リビアから教わることがあるから」
俺が答えると、彼女は少し嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、これからもたくさん教えてあげるわ」
「うん。よろしく頼むよ」
俺たちは手をつないだまま、しばらく噴水を眺めていた。
夕日は少しずつ低くなり、庭園の影が長く伸びていく。
やがて、リビアが小さく息をついた。
「……ねえ、セス。私たち、これから先も、こうして一緒に学んでいけるかしら?」
俺は彼女の方へ顔を向けた。
リビアは真剣な表情で俺を見つめていた。
その瞳には、少しだけ不安が混じっているように見える。
「もちろん。俺は、そうしたいと思っているよ」
俺が答えると、彼女は少し安心したように微笑んだ。
「……そう。よかったわ」
俺は彼女の手を握り直した。
「リビア。俺たちは、これから先、きっといろいろなことを学ぶと思う。魔法も、剣術も、執事の仕事も……それに、将来のことも」
彼女は静かに頷いた。
「うん。だから、分からないことがあったら、一緒に考えよう。俺が知らないことはリビアに教えてもらいたいし、リビアが困っていたら、俺も力になりたい」
俺がそう伝えると、リビアはしばらく何も言わなかった。
やがて、彼女の瞳が少し潤んだように見えた。
「……セス。あなたは、本当に優しいわね」
「そんなことないよ。俺も、リビアに助けてもらっているから」
俺が答えると、彼女は小さく笑った。
「ええ。そうね。これからも、お互いに助け合っていきましょう」
リビアはそう言って、俺の肩へそっと頭を預けた。
俺は彼女が寒くないように少しだけ体を寄せ、夕暮れの庭園を眺めた。
今日の実習で、俺は自分の剣術について新しく学ぶことができた。
それだけではなく、誰かに教わることの楽しさも、改めて感じられた。
そして、リビアと一緒にいると、そうした小さな発見まで大切なものに思えてくる。
彼女が隣にいてくれること。
俺の成長を喜んでくれること。
そして、自分も一緒に学びたいと言ってくれること。
その一つ一つが、俺にとって何より嬉しかった。
やがて、屋敷の方から夕食の準備を知らせる鐘が聞こえてきた。
俺たちは顔を見合わせ、ゆっくりと立ち上がる。
「そろそろ戻ろうか、リビア」
「ええ。でも……もう少しだけ、手をつないでいてもいい?」
彼女は少し恥ずかしそうに微笑んだ。
俺はその手を握り直し、静かに頷いた。
「もちろん。屋敷まで、一緒に帰ろう」
リビアは嬉しそうに笑い、俺の隣へ並んだ。
夕暮れの庭園を、俺たちはゆっくりと歩いていく。
明日になれば、また新しい授業があり、知らなかったことに出会うのだろう。
けれど、今はそれが楽しみだった。
俺一人では気づけないことも、リビアや友人たちと一緒なら、きっと見つけられる。
そんなことを考えながら、俺は隣を歩く彼女の手を、もう一度そっと握り返した。




