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第126話 公爵令嬢様は、俺が誰かに教える姿も見てみたいらしい


 翌朝、パウリー公爵邸の東側にある廊下を歩いていると、開け放たれた窓から秋の冷たい空気が流れ込んできた。庭園では使用人たちが落ち葉を集めており、石畳の上を竹箒が滑る乾いた音が、まだ静かな屋敷の中まで届いている。


 俺は窓際で一度足を止め、庭の向こうに広がる空を見上げた。雲は少なく、今日も学院へ向かうには気持ちのよい天気になりそうだったが、朝晩の冷え込みは少しずつ強くなっている。


(もう少ししたら、朝の庭園を歩くときにも上着が必要になるかもしれないな。リビアは寒いのが苦手というほどではないけれど、冷たい風に当たると手が冷えやすかったはずだ)


 そんなことを考えていると、背後から軽やかな足音が近づいてきた。振り返る前に聞き慣れた声が届き、俺は自然と表情を緩めた。


「おはよう、セス。今日はいつもより少し早いのね」


 そこにいたのは、学院の制服に身を包んだリビアだった。シルバーブルーの髪は丁寧に整えられており、窓から差し込む朝日に照らされて、柔らかな光を帯びている。


「おはよう、リビア。少し早く目が覚めたから、食堂へ向かう前に廊下を歩いていたんだ。庭の空気も気持ちよさそうだったしね」


「そうだったの。私も今日は早く準備が終わったから、あなたのところへ行こうと思っていたのよ」


 リビアはそう言いながら俺の隣へ並び、窓の外へ視線を向けた。庭師が落ち葉を集めている様子をしばらく眺めたあと、彼女は少しだけ肩を寄せてくる。


「……ねえ、セス。今朝は少し寒いと思わない?」


「うん。昨日より冷えている気がするね。窓を閉めた方がいいかな」


 俺が窓枠へ手を伸ばそうとすると、リビアが小さく笑った。


「そういう意味ではないのだけれど……あなたらしいわね」


 彼女は俺の手元へ視線を落とし、ためらうように指先を動かした。何か言いたそうな表情だったので待っていると、やがて小さな声で続ける。


「手が冷たくなってしまったの。少しだけ、温めてもらってもいいかしら?」


 その言葉で、ようやく彼女が何を望んでいたのか理解した。俺は差し出された手を両手で包み込み、指先の冷たさを確かめながら、思わず苦笑する。


「もちろん。だけど、本当に冷たいね。部屋からここまで歩いてきただけなのに」


「ええ。だから、あなたに温めてもらいたかったの」


 リビアは満足そうに微笑み、俺の手の中でそっと指を動かした。普段なら人前でこんなふうに甘えることは少ない彼女だが、今は近くにほかの人がいないと分かっているからか、いつもより素直な表情を見せている。


(……こういうところは、昔から変わらないな)


 幼い頃、寒い日に手をつないで庭を歩いたことがあった。あの頃は、彼女が冷たい手を差し出してくる理由を深く考えたこともなかったけれど、今はその仕草に込められた気持ちまで意識してしまう。


 俺がそんなことを考えていると、リビアは少し不思議そうに首を傾げた。


「どうしたの、セス? 急に黙ってしまって」


「昔も、こうして手をつないで歩いたことがあったなと思って。あの頃は、リビアが寒いから手をつなぎたいんだって、そのまま受け取っていたよ」


 正直に答えると、彼女は一瞬だけ目を丸くした。それから頬を薄く染め、困ったような、それでいて嬉しそうな笑みを浮かべる。


「……あの頃だって、寒いだけが理由ではなかったのよ?」


「え?」


「もう。そこまで言わせるつもりなの?」


 リビアは少し拗ねたように俺を見上げたが、手を離そうとはしなかった。むしろ、俺の指へ自分の指を絡めるように握り直し、窓の外へ顔を向ける。


「今は、ちゃんと分かってくれるでしょう?」


「……うん。分かっているつもりだよ」


 俺が答えると、彼女は満足そうに微笑んだ。


 しばらくそうしていると、廊下の向こうから使用人の足音が聞こえてきた。リビアは名残惜しそうに手を離したものの、最後に俺の指先を軽く握ってから、いつもの公爵令嬢らしい姿勢へ戻る。


「それでは、朝食へ参りましょうか。今日は学院でエレナ先生の授業もありますし、遅れるわけにはいきませんもの」


「そうだね。来月の実技について、何か新しい話があるかもしれないし」


 俺たちは並んで食堂へ向かった。


 手のひらには、彼女の指先の感触がまだ残っていた。


     ◇


 朝食を終えて馬車に乗り込むと、リビアは鞄から魔法理論の教科書を取り出した。今日はエレナ先生の授業が予定されているため、昨日のうちに確認していた部分をもう一度読み直すつもりらしい。


 俺も自分の教科書を開き、前回の授業で書き込んだ覚え書きを確かめた。


 来月には二属性を扱う実技が予定されている。ただし、実施日や具体的な課題についてはまだ発表されておらず、これまでの授業では魔力の感覚と実際に起きる現象を区別することが重視されていた。


「セス、少し聞いてもいいかしら?」


 教科書へ目を落としていたリビアが、ふと顔を上げた。


「もちろん。何か気になるところがあった?」


「前に、あなたは属性を切り替えるとき、魔力の流れを落ち着かせるような感覚があると話していたでしょう? あれから、少し考えてみたのだけれど……」


 彼女は自分のノートを開き、二つの図を俺へ見せた。


 一つは魔力の流れを一本の線で表したもの、もう一つは途中に小さな区切りを入れたものだった。


「例えば、最初の属性を使ったあと、次の属性へ移る前に魔力の働きを完全に止めるのか、それとも流れを保ったまま性質だけを変えるのか。言葉だけでは、この二つを区別するのが難しいと思ったの」


 俺は図を見つめながら、以前自分が説明したときのことを思い返した。


 五属性を扱うこと自体は、俺にとって特別難しいことではない。けれど、どうしてそれができるのか、どの段階で何を意識しているのかと聞かれると、途端に説明が難しくなる。


「……たぶん、俺は完全に止めているわけじゃないと思う。でも、次の属性へ移る前に何かを整えている感覚はあるんだ」


「その『何か』が、まだはっきりしていないのね」


「うん。だから、今の段階でどちらかだと決めるのは難しいかな」


 俺が答えると、リビアは納得したように頷いた。


「それなら、今日の授業で先生に質問してみるのもいいかもしれないわ。実際に試すのは、きちんとした指導のある場にした方がいいでしょうし」


「そうだね。俺も、自分では当たり前だと思っていることを、もう少し説明できるようになりたいんだ」


 そう言うと、リビアは教科書を閉じ、少し嬉しそうに微笑んだ。


「あなたが自分の魔法について知ろうとしているの、私、とてもいいことだと思うわ」


「そうかな?」


「ええ。セスは昔から、できることが多すぎるのよ。だから、できない人がどこで困るのか、気づきにくいこともあると思うの」


 その指摘に、俺は思わず考え込んだ。


 確かに、魔法の扱いについて誰かに尋ねられたとき、俺は感覚的な説明をしてしまうことがある。自分では簡単にできることでも、相手にとって同じようにできるとは限らない。


「……それは、気をつけた方がよさそうだね」


「責めているわけではないのよ。ただ、あなたが誰かに教える立場になったら、きっと新しく分かることもあると思ったの」


 リビアはそう言ってから、少しだけ悪戯っぽく目を細めた。


「それに、私、あなたが誰かに教えているところを、もう少し見てみたいの」


「俺が?」


「ええ。剣術でも魔法でも、あなたは人を助けるとき、とても真剣な顔をするでしょう? あの表情、私は結構好きなのよ」


 突然そんなことを言われ、俺は返事に困ってしまった。


 リビアは俺の反応を見て満足そうに笑い、再び教科書を開く。


(……そんな顔をしているつもりはないんだけどな)


 ただ、彼女が嬉しそうにしているのを見ると、悪い気はしなかった。


     ◇


 学院へ到着すると、教室にはすでにガレスとサザリーが来ていた。


 ガレスは机の上へ魔法理論の教科書を広げ、眉間にしわを寄せながら何かを書き込んでいる。その隣ではサザリーが静かに本を読んでいたが、時折ガレスの方へ目を向けているところを見ると、先ほどまで何か相談していたらしい。


「おはよう、二人とも。ガレス、ずいぶん真剣だね」


 俺が声をかけると、ガレスは顔を上げ、少し疲れたように笑った。


「おう、セス。おはよう。いや、昨日の復習をしてたんだけどさ、自分の魔法の使い方を言葉にしろって、やっぱり難しくてな」


 彼はノートをこちらへ向けた。


 そこには、魔力を集める、形を決める、放つ、といった基本的な手順が書かれていた。ただ、その途中には何度も線が引き直されており、余白には疑問符がいくつも並んでいる。


「俺の場合、剣を振るときみたいに力を込める感覚があるんだ。でも、それをそのまま書くと、魔力を無理に押し出すみたいな説明になっちまうだろ?」


「なるほど。ガレス自身は、力を込めるっていう言葉で何を意識しているの?」


 俺が尋ねると、ガレスは少し考えたあと、自分の手を見つめた。


「そうだな……腕に力を入れるっていうより、狙った場所へ届くように集中する感じかもしれない。剣でも、ただ力任せに振ればいいってもんじゃないし」


 その説明を聞き、俺は頷いた。


「それなら、最初から『力を込める』と書くより、狙いを定めて魔力を集中させる、って書いた方が近いかもしれないね」


「……ああ、そっちの方がしっくりくるな」


 ガレスはすぐにノートへ書き込み、少しだけ表情を明るくした。


 サザリーはその様子を見ながら、本を閉じた。


「面白いね。同じ言葉でも、人によって思い浮かべる動作が違う。ガレスの言う『力を込める』は、単純に魔力量を増やすことではなかったわけだ」


「そうなんだよ。俺も、言われてみるまで気づかなかった」


 ガレスは苦笑しながら、書き直した部分を指でなぞった。


 俺はその様子を見て、馬車の中でリビアと話したことを思い出した。


 自分の感覚を言葉にすること。


 相手がその言葉をどう受け取るか考えること。


 それは、魔法を使う技術とはまた別の難しさがあるのかもしれない。


 そこへエミリアが教室へ入ってきた。俺たちが挨拶すると、彼女は机の上のノートに気づき、興味深そうに近づいてくる。


「皆様、朝からお勉強ですか? ずいぶん熱心でいらっしゃいますね」


「いや、俺が昨日の復習で引っかかってただけだよ。セスに少し教えてもらってたんだ」


 ガレスがそう答えると、エミリアは穏やかに微笑んだ。


「それでしたら、私もあとで見せていただいてよろしいでしょうか。自分とは違う考え方を知るのは、勉強になりそうです」


「もちろん。だけど、俺のノートはまだ途中だからな」


 ガレスは少し照れくさそうに答えた。


 俺たちは授業が始まるまで、それぞれの覚え書きを見せ合いながら話を続けた。


 誰か一人のやり方が正しいと決めるのではなく、どこが共通していて、どこが違うのかを確かめる。


 そんな時間は、思っていた以上に楽しかった。


     ◇


 午前の魔法理論の授業が始まると、エレナ先生は教卓の上へ数枚の資料を置き、教室全体を見渡した。


「今日は、来月予定している二属性実技へ向けた基礎確認を行います。ただし、今日の授業は理論と観察方法の整理です。魔法の発動や、属性を切り替える実演は行いません」


 先生がそう説明すると、教室のあちこちで生徒たちが教科書を開く音が響いた。


「皆さんは、これまで一つの属性を安定して扱うための考え方を学んできました。ですが、二つの属性を扱う場合、単に使える魔法が増えるだけではありません。どのような順序で扱うのか、前の魔法が次の魔法へどのような影響を与える可能性があるのか、といった点にも注意が必要になります」


 先生は黒板へ二つの円を描き、その間に矢印を書き込んだ。


 一つ目の円には「第一の属性」、二つ目には「第二の属性」と記されている。


「例えば、火属性を使ったあとに水属性を扱うとしましょう。このとき、火属性の魔法を終えたという判断を、何によって行うべきでしょうか」


 先生が問いかけると、数人の生徒が手を挙げた。


 最初に指名された生徒は、火が消えたことを確認すると答えた。別の生徒は、魔力の放出が終わったことを確かめるべきだと話し、さらに別の生徒は、周囲に熱が残っている可能性も考える必要があると付け加えた。


 先生はそれぞれの答えを黒板へ書き出し、ゆっくりと頷いた。


「どれも重要な観点です。ただし、見た目の現象が消えたことと、術者の魔力操作が終わったこと、周囲への影響がなくなったことは、必ずしも同じではありません」


 俺はその説明を聞きながら、手元のノートへ三つの項目を書き込んだ。


 魔法そのものの終了。


 魔力操作の終了。


 周囲への影響の確認。


 これまで俺は、魔法を使い終えたとき、そうしたことを一つ一つ分けて考えていなかった気がする。


(……確かに、火を消したからといって、熱くなった場所まで元に戻るわけじゃない。実技では、そういうことも確認しなければならないんだな)


 俺が考えていると、先生は黒板の矢印へ線を加えた。


「そして、ここからが今日の重要な点です。自分が魔法を終えたと感じることと、実際に何が起きているかを確認することは、分けて考えなければなりません」


 教室は静かになった。


 先生は一度生徒たちを見回し、説明を続ける。


「魔力の感覚は、術者にとって大切な情報です。しかし、その感覚を他人が直接確かめることはできません。だからこそ、観察できる現象や、術者自身が説明できる操作を整理する必要があります」


 俺は以前の授業で、自分の魔力操作について説明しようとしたときのことを思い出した。


 感覚では分かる。


 けれど、言葉にすると曖昧になる。


 それが、今の俺の課題なのだろう。


 先生は続いて、今日の課題を発表した。


「これから二人一組になり、架空の魔法使用場面について、安全確認の手順を考えてもらいます。魔法を発動する必要はありません。むしろ、実際に使わなくても、どのような点を確認すべきか説明できることが目標です」


 配られた資料には、訓練場で火属性の小さな灯火を使い、そのあと水属性の魔法へ移るという仮定の場面が記されていた。


 周囲には訓練用の設備があり、見学者は指定された位置から観察しているという設定だ。


 実際の学院行事や実技内容を示したものではなく、あくまで考えるための例題だと先生は説明した。


 俺は隣のリビアと顔を見合わせた。


「一緒に考えようか」


「ええ。ちょうど、馬車の中で話していたことにも関係しそうね」


 俺たちは資料を机の中央へ置き、それぞれ気づいた点を書き出すことにした。


 最初にリビアが指摘したのは、見学者の位置だった。


「この資料では、見学者が指定された場所にいると書かれているけれど、魔法を使う前に本当にそこにいるか確認する必要があるわね。紙の上で決まっていることと、実際の状態は別ですもの」


「そうだね。それに、使う魔法の規模も決めておいた方がいいと思う。小さな灯火って書かれているけど、人によって思い浮かべる大きさが違うかもしれないから」


 俺が答えると、リビアは少し嬉しそうに頷いた。


「それは大切ね。魔力量だけでなく、炎がどの程度の範囲に広がるのかも確認したいわ」


 彼女はノートへ項目を追加しながら、しばらく考え込んだ。


「それから、最初の魔法を終えたあと、次の魔法へ移る前に何を確認するか……ここは、私たちの意見が少し違うかもしれないわね」


「どう違うの?」


「私は、術者の魔力操作が安定しているかどうかだけでなく、周囲に残っている影響を確かめたいの。セスはどう考える?」


 俺は資料へ目を落とした。


 自分が術者だったら、最初の魔法を終えたあと、魔力の流れを整えて次の属性へ移るだろう。


 けれど、今は自分が魔法を使う場面だけを考えているわけではない。


 誰かが同じ手順を行うとしたら、どのような確認が必要なのか。


 そう考えると、見えてくるものが少し変わった。


「……俺は、術者が次の魔法を使える状態かどうかを先に考えていた。でも、リビアの言うとおり、周囲の状態も確かめないといけないね」


「どちらか一つでは足りない、ということかしら」


「うん。俺たちが考えた項目を合わせれば、もう少し分かりやすくなると思う」


 俺が答えると、リビアは柔らかく微笑んだ。


「こうして一緒に考えると、私一人では気づかなかったことも見えてくるわね」


 その表情を見て、俺も自然と笑みを返した。


 魔法の得意分野は違う。


 けれど、だからこそ、互いの考え方から学べることがあるのだろう。


     ◇


 課題に取り組む時間が半分ほど過ぎた頃、エレナ先生が俺たちの机へ近づいてきた。


「シルフィールさん、パウリーさん。進み具合はいかがですか?」


 俺たちはノートを見せながら、考えた内容を説明した。


 先生は項目を一つずつ確認したあと、俺が書いた「魔力の流れを整える」という言葉のところで視線を止めた。


「シルフィールさん。この表現について、もう少し説明できますか?」


 俺は少し考えた。


 以前なら、魔力を落ち着かせる感覚です、と答えて終わっていたかもしれない。


 けれど、今はそれだけでは十分ではないと分かっている。


「……自分の感覚としては、次の属性を使う前に、魔力の働き方を切り替える準備をしているつもりです。ただ、それが魔力の流れを弱めているのか、別の操作をしているのかまでは、まだ説明できません」


 正直に答えると、先生は静かに頷いた。


「よいですね。自分が分かっていることと、まだ説明できないことを区別できています」


 先生はノートの余白を指し示した。


「では、ここには『術者が次の操作へ移る準備を整えたと判断する』と書き、その判断方法については未検討としておきましょう。具体的な確認方法は、実技の内容と安全条件が決まってから扱うことになります」


「はい。ありがとうございます」


 俺が頷くと、先生はリビアの方へ視線を移した。


「パウリーさんは、周囲の状態についてよく考えていますね。特に、魔法が終わったあとも影響が残る可能性を挙げた点は重要です」


「ありがとうございます、先生。私自身、結界を扱うときには、魔法を維持している間だけでなく、解除したあとの状態も気になるものですから」


「なるほど。ご自身の経験から考えたのですね。ただし、結界魔法と属性魔法では確認すべき内容が異なる場合もあります。その違いも、今後の学習で整理していきましょう」


 リビアは真剣な表情で頷いた。


 先生が次の机へ向かったあと、俺たちは互いのノートを見比べた。


「……リビア。先生の話を聞いて、少し分かった気がする」


「何が分かったの?」


「俺は今まで、自分ができることなら、説明もできるはずだと思っていたんだ。でも、実際にはそうじゃないんだね」


 リビアは俺の言葉を聞き、少し考えるように視線を落とした。


「そうね。私も、結界魔法については分かっているつもりだったけれど、あなたに説明しようとすると、言葉が足りないと感じることがあるわ」


 彼女はノートの端へ小さな印をつけた。


「でも、それは悪いことではないと思うの。分からない部分が見つかれば、そこから学べるでしょう?」


「……うん。そうだね」


 俺は彼女の言葉を聞きながら、自分のノートへ新しく一行を書き加えた。


 『自分にとって簡単な操作でも、他人にとって簡単とは限らない。』


 書き終えたところで、リビアがその一文を覗き込んだ。


「セスらしいまとめ方ね」


「そうかな?」


「ええ。自分がどうするかだけでなく、ほかの人のことまで考えているもの」


 彼女は嬉しそうに微笑んだ。


 その表情を見て、俺は少し照れくさくなった。


     ◇


 授業の終わりが近づくと、エレナ先生は生徒たちへ課題の内容を簡単に共有するよう求めた。


 いくつかの組が発表し、それぞれ違う観点から考えていたことが分かった。


 ある組は魔法の規模を事前に決める必要性を挙げ、別の組は見学者と術者の位置関係を重視していた。また、魔法を使い終えたあとに術者が疲労していないか確認するべきだという意見も出ていた。


 先生はそれらを黒板へ整理し、最後に教室全体へ向き直った。


「今日の課題には、すべての場面へそのまま使える一つの正解があるわけではありません。実際の実技では、扱う魔法の種類、場所、参加者の習熟度などに応じて、確認すべき内容が変わります」


 先生は黒板に書かれた項目を指し示した。


「大切なのは、自分の考えを説明できること。そして、他人の意見を聞いたとき、なぜその確認が必要なのかを考えられることです」


 俺はその言葉を聞きながら、授業の最初に考えていたことを思い返した。


 魔法を使うことと、魔法について考えること。


 似ているようで、同じではない。


 それを、今日の授業で少し実感できた気がした。


 授業終了の鐘が鳴ると、教室には生徒たちの話し声が戻ってきた。


 俺がノートを閉じようとしていると、ガレスがこちらへ歩いてきた。


「なあ、セス。ちょっと相談してもいいか?」


「もちろん。どうしたの?」


 ガレスは自分のノートを開き、少し困ったように笑った。


「さっきの課題でさ、俺たちの組は魔法を使う前の確認ばっかり考えてたんだ。終わったあとのことまで、あんまり頭が回らなくてな」


 俺はノートを見せてもらった。


 そこには、術者の立ち位置、魔法の方向、周囲の安全確認などが丁寧に書かれていた。一方で、魔法を終えたあとの項目は少なく、ガレス自身もそのことに気づいているらしい。


「でも、使う前の確認はかなり詳しいね。俺たちは、ここまで細かく考えていなかったよ」


 俺がそう言うと、ガレスは少し驚いたように顔を上げた。


「そうなのか?」


「うん。だから、お互いのノートを見比べたら、足りないところを補えると思う」


 ガレスはしばらく俺の顔を見つめ、それから大きく笑った。


「なるほどな。じゃあ、あとで見せ合ってもいいか?」


「もちろん。ただ、俺たちの方も先生に確認したいところが残っているから、そのまま正解だと思わないでね」


「分かってるって。そこはちゃんと自分でも考えるよ」


 ガレスはそう言って、自分の席へ戻っていった。


 その背中を見送っていると、隣からリビアの声が聞こえた。


「……セス。今のあなた、とてもよかったわ」


「え?」


「ガレス様のノートを見て、足りないところだけを指摘するのではなく、よいところも見つけていたでしょう?」


 俺は少し考えた。


 特別なことをしたつもりはなかった。


 ガレスのノートには、実際に俺たちが考えていなかったことが書かれていたのだから、それを伝えただけだ。


「……でも、本当にそう思ったから」


「ええ。だから、素敵なのよ」


 リビアは満足そうに微笑んだ。


「私、やっぱりあなたが誰かに教えているところを見るのが好きだわ」


 その言葉に、俺はまた返事に困ってしまった。


 彼女はそんな俺の様子を楽しそうに眺めていた。


     ◇


 昼休みになると、俺たちは食堂のいつもの席へ集まった。


 ガレスは席に着くなり、午前の授業について話し始めた。


「いやあ、今日の課題は思ったより難しかったな。魔法を使うわけじゃないから簡単だと思ってたけど、考えることが多すぎる」


 サザリーは水の入った杯を置き、穏やかに笑った。


「実際に使わないからこそ、普段は意識していない部分まで考えられるのかもしれないね。僕も、途中で何度か考え直したよ」


 エミリアも頷いた。


「私たちの組では、魔法を終えたあとに周囲の状態を確認することについて、少し意見が分かれました。どこまで確認すれば十分なのか、資料だけでは判断できなかったのです」


「それは俺たちも同じだったよ」


 俺が答えると、エミリアは少し安心したように微笑んだ。


「そうなのですね。私だけが難しく考えすぎているのかと思っていました」


 リビアは食器を静かに置き、会話へ加わった。


「エレナ先生も、具体的な確認方法は実技の条件によって変わるとおっしゃっていましたもの。今日の段階で、すべて決める必要はないのでしょうね」


 サザリーが頷いた。


「むしろ、何がまだ決まっていないのかを理解することも、課題の一部だったのかもしれない」


 俺はその言葉を聞き、少し考えた。


 最近、俺たちは何度も、まだ分からないことを無理に決めつけないようにしてきた。


 学院の図書室の案内表示についても、見た範囲で分かったことと、実際にどれほど困っている人がいるのかは別だった。


 公爵邸の搬入路についても、雨のあとに通りにくくなった事実はあっても、その原因や恒久的な対応までは決まっていない。


 そして、俺たち自身の将来についても同じだった。


 ただ、今日の授業は、それまでとは少し違う感覚があった。


 分からないことを確認するだけでなく、その先で何を学べばいいのかが見えてきたからだ。


「……なんだか、最近いろいろなことがつながっている気がするよ」


 俺がそう呟くと、ガレスが不思議そうに首を傾げた。


「つながってる?」


「うん。執事の仕事でも、魔法でも、誰かに説明しようとすると、自分がどこまで分かっているのか考える必要があるんだなって」


 俺が答えると、サザリーは少し興味深そうに目を細めた。


「それは面白い考え方だね。分野は違っても、人へ伝えるという点では共通しているのかもしれない」


 エミリアも穏やかに頷いた。


「私も、今日の授業でそれを感じました。自分では当たり前だと思っていることほど、説明するときに難しくなるのですね」


 ガレスはしばらく考え込んだあと、急に顔を上げた。


「……そうだ。セス、今度、剣の稽古でも同じことを試してみないか?」


「剣の稽古?」


「ああ。俺、剣の方なら魔法より説明できると思うんだ。だけど、実際に人へ教えるとなると、やっぱり難しいかもしれないだろ?」


 俺は少し驚いた。


 ガレスは剣術に真剣に取り組んでいるし、自分の技術を磨くことにも熱心だ。


 そんな彼が、人へ教えることまで考え始めているのは、少し意外だった。


「いいと思うよ。ただ、俺たちだけで勝手に稽古内容を変えるわけにはいかないから、担当の先生に相談してからにしよう」


「もちろん。いつもの稽古の中でできることがあれば、って話だよ」


 ガレスは楽しそうに笑った。


 その様子を見て、俺も少し楽しみになった。


 自分の技術を磨くことだけでなく、誰かと一緒に考えること。


 そうした経験も、きっとこれから役に立つのだろう。


     ◇


 午後の授業を終え、俺たちは帰宅の準備をしていた。


 教室の窓からは傾き始めた日差しが差し込み、机の上に長い影を落としている。廊下では別の教室の生徒たちが帰宅を始めており、遠くから笑い声が聞こえてきた。


 俺が鞄へ教科書をしまっていると、リビアが隣へ近づいてきた。


「セス。今日は少しだけ、帰る前に中庭を歩かない?」


「中庭?」


「ええ。馬車を待たせすぎない程度に、少しだけでいいの。今日は天気もいいし、あなたと話したいことがあるから」


 俺は窓の外を見た。


 空はまだ明るく、風も穏やかそうだった。


「いいよ。迎えの人には、少しだけ中庭へ寄ってから向かうと伝えておこう」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


 俺たちは教室を出ると、学院の中庭へ向かった。


 石畳の小道には木々の影が伸び、花壇には秋の花が咲いている。昼間より少し冷たくなった風が葉を揺らし、遠くの校舎からは部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえてきた。


 中庭の端には、背の低い木々に囲まれた小さな休憩場所がある。


 俺たちはそこまで歩き、人通りの邪魔にならない場所で足を止めた。


「……ねえ、セス。今日の授業、どうだった?」


 リビアが尋ねてきた。


「面白かったよ。自分では分かっているつもりだったことでも、説明しようとすると難しいんだって、改めて感じた」


「私も同じよ。でも、それだけではなくて、少し嬉しかったことがあるの」


 彼女はそう言って、俺の方へ向き直った。


「あなたが、ガレス様の相談に乗っていたでしょう? あのとき、私、少しだけ昔のことを思い出したの」


「昔のこと?」


「ええ。まだ私たちが小さかった頃、あなたは私が困っていると、いつも一緒に考えてくれたわ」


 俺は彼女の言葉を聞き、記憶をたどった。


 幼い頃のリビアは、今よりもずっと素直に感情を表に出していた。


 勉強で難しいところがあれば悔しそうに眉を寄せ、剣術で思うように体を動かせなければ、納得するまで練習を続けようとしていた。


 俺はそんな彼女のそばで、できることを手伝っていただけだった。


「……そうだったかな。俺は、リビアの方がずっといろいろなことを知っていると思っていたよ」


 俺が答えると、彼女は少し驚いたように目を見開いた。


「私が?」


「うん。俺が知らない本のことも、貴族の礼儀も、リビアはたくさん知っていたから。だから、俺が教えることなんて、あまりないと思っていたんだ」


 リビアはしばらく黙って俺を見つめた。


 それから、少しだけ困ったように微笑んだ。


「……本当に、あなたって昔からそうなのね」


「え?」


「自分がどれだけ人を助けているのか、あまり分かっていないところよ」


 彼女は俺の隣へ一歩近づき、視線を庭の木々へ向けた。


「私は、あなたにたくさん助けてもらったわ。勉強でも、剣術でも、魔法でも……それに、何かがうまくいかなくて落ち込んだときも」


 風が吹き、リビアの髪が頬へかかった。


 彼女はそれを耳へかけながら、ゆっくりと言葉を続ける。


「あなたは、私ができないことを笑ったりしなかったでしょう? できるようになるまで、何度でも付き合ってくれた。だから私、あなたと一緒にいると、失敗しても大丈夫だと思えたの」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が静かに熱くなった。


 俺はこれまで、リビアを守りたいと思ってきた。


 彼女が困っていれば助けたいし、危険な目に遭うことがあれば、自分にできることをしたい。


 けれど、彼女にとって大切だったのは、それだけではなかったらしい。


(……俺が一緒に考えていたことも、リビアは覚えていてくれたんだな)


 俺はしばらく言葉を探した。


 何か気の利いたことを言いたかったけれど、うまくまとまらない。


 結局、思っていることをそのまま伝えることにした。


「……ありがとう、リビア。そんなふうに思ってくれていたなんて、知らなかったよ」


 俺が答えると、彼女は柔らかく微笑んだ。


「ええ。だから、今日のあなたを見て、少し嬉しくなったの。ガレス様にも、昔の私と同じように接していたから」


 リビアはそう言ってから、少しだけ照れたように視線を落とした。


「……それに、あなたが誰かに頼られている姿を見ると、私まで誇らしい気持ちになるのよ」


 その言葉に、俺は思わず彼女を見つめた。


 リビアは頬を染めたまま、こちらを見上げている。


「でも、少しだけ困ることもあるの」


「困ること?」


「ええ。あなたがほかの方に優しくしているのを見ると、素敵だと思うのに……その優しさを、私だけが知っていたいと思ってしまうこともあるから」


 俺は返事に詰まった。


 彼女は自分でも少し恥ずかしかったのか、慌てて言葉を付け加える。


「もちろん、誰かを助けないでほしいという意味ではないのよ。あなたが優しい人だということは、私が一番よく知っているつもりだけれど……その、少しだけ独り占めしたくなることがあるの」


 リビアはそこまで言うと、俺の反応を確かめるように顔を上げた。


 俺は胸の奥がくすぐったくなるのを感じながら、そっと彼女の手を取った。


「……リビア。俺は、誰かが困っていたら助けたいと思う。でも、リビアと一緒にいたいっていう気持ちは、それとは別だよ」


 彼女の指先が、俺の手の中でわずかに動いた。


「誰かに何かを教えたり、手伝ったりすることはあると思う。でも、こうして一緒に帰りたいとか、何でもない話をしたいとか、将来のことを考えたいって思う相手は、リビアなんだ」


 言い終えてから、自分でも少し恥ずかしくなった。


 けれど、リビアは何も言わずに俺を見つめていた。


 やがて、彼女の頬がさらに赤くなる。


「……セス。あなた、最近、時々ずるいことを言うようになったわね」


「ずるい?」


「ええ。そんなふうに言われたら、私、何も言い返せなくなってしまうもの」


 彼女は困ったように笑いながら、俺の手を握り返した。


 少し離れた小道を生徒たちが通り過ぎていったが、俺たちの方へ特に注意を向けることもなく、楽しそうに会話を続けている。


 リビアはその足音が遠ざかるのを待ち、少しだけ俺の肩へ寄り添った。


「……ありがとう、セス。今の言葉、とても嬉しかったわ」


「俺も、リビアが昔のことを話してくれて嬉しかったよ」


 そう答えると、彼女は静かに笑った。


 俺たちはしばらく、中庭の木々を眺めながら並んで立っていた。


 特別なことを話しているわけではない。


 それでも、彼女の手の温かさを感じているだけで、心が落ち着いていくようだった。


     ◇


 公爵邸へ戻る頃には、夕日が庭園の木々を赤く染め始めていた。


 俺はリビアと別れたあと、いつもどおり父さんのもとへ帰宅の報告に向かった。


 父さんは執務室で書類を確認していたが、俺の姿を見ると手を止め、穏やかに頷いた。


「お帰りなさい、クルセス。今日の学院はいかがでしたか?」


「ただいま、父さん。今日は魔法理論の授業で、二属性を扱うときの安全確認について考えたんだ」


 俺は授業の内容を簡単に説明した。


 実際の魔法は使っていないこと。


 仮定の場面について、どのような確認が必要かを考えたこと。


 そして、自分の魔力操作を言葉にする難しさを改めて感じたこと。


 父さんは途中で口を挟まず、静かに聞いていた。


「なるほど。よい学びがあったようですね」


「うん。それで、少し考えたんだけど……執事の仕事でも、似たようなことがあるのかな」


 俺が尋ねると、父さんは少し興味深そうに眉を上げた。


「似たようなこと、とは?」


「自分では当たり前にできる仕事でも、ほかの人に教えようとすると、どう説明すればいいか分からなくなることがあるのかなって」


 父さんはその言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。


「ええ。ありますよ。むしろ、経験を積んだ者ほど、無意識に行っている判断が増えることもあります」


 父さんは机の上に置かれた書類の一つへ視線を向けた。


「例えば、来客を迎える準備をするとき、経験のある使用人は、天候や来客の人数、予定されている滞在時間などを自然に考慮します。ですが、それを初めて担当する者へ教える場合、何をどの順序で確認するのか、具体的に伝えなければなりません」


 俺はその説明を聞きながら、今日の授業で書いたノートを思い出した。


「……魔法と同じだね。自分の感覚だけで説明すると、相手には伝わらないことがあるんだ」


「そうですね。ただし、説明する側だけが努力すればよいわけでもありません。教わる側も、分からないところを尋ね、自分がどう理解したのか伝える必要があります」


 父さんは穏やかに微笑んだ。


「よい指導とは、一方的に知識を渡すことではありません。相手が理解できているかを確かめながら、必要なことを一緒に整理していくものです」


 その言葉に、俺は深く頷いた。


「……父さんが、いつも俺にしてくれていることだね」


 俺がそう言うと、父さんは少しだけ驚いたように目を瞬かせた。


 それから、静かに笑った。


「そう受け取ってもらえているなら、私も嬉しいですよ」


 俺は少し照れくさくなりながら、続けた。


「今日、ガレスに魔法の考え方を少し説明したんだ。でも、俺が教えたというより、一緒に考えた感じだった。あれでよかったのかなって、少し気になっていたんだけど……」


「相手が自分で考える助けになったのであれば、それも立派な関わり方でしょう」


 父さんはそう答えたあと、少し真剣な表情になった。


「ただし、クルセス。あなたは多くのことを器用にこなせますが、誰にでも同じ方法が合うとは限りません。自分のやり方を唯一の正解だと思わず、相手の状態を見ることを忘れないでください」


「うん。分かった」


 俺は素直に頷いた。


 父さんの言葉は、今日の授業で感じたこととよく似ていた。


 自分にできることを、相手も同じようにできるとは限らない。


 だからこそ、相手が何を考え、どこで困っているのかを知る必要がある。


 それは、魔法だけでなく、これから俺が学んでいく多くのことに関わっているのだろう。


     ◇


 夕食後、俺は自室の机へ向かい、今日の授業で使ったノートを開いていた。


 窓の外はすっかり暗くなっており、庭園の通路には灯りがともっている。部屋の中では机上のランプが柔らかな光を放ち、紙の上に書かれた文字を明るく照らしていた。


 俺は授業中に書いた項目を読み返し、いくつかの部分へ補足を書き加えた。


 魔法を使う前の確認。


 使っている間に注意すること。


 終えたあとに確かめること。


 そして、自分ではまだ説明できない操作。


 最後の項目に目を向けたところで、扉を叩く音が聞こえた。


「セス、まだ起きているかしら?」


 聞き慣れた声に、俺は顔を上げた。


「起きているよ、リビア。どうぞ」


 扉が開き、リビアが顔を覗かせた。


 彼女は夕食のときよりも少し柔らかな服装に着替えており、手には一冊のノートを持っている。


「少しだけ、お邪魔してもいい?」


「もちろん。ちょうど今日の授業を振り返っていたところなんだ」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑み、部屋へ入ってきた。


 彼女は机の上のノートへ目を向け、興味深そうに近づいてくる。


「まあ、私も同じことをしていたのよ。授業で書いた内容を見直していたら、あなたと話したくなってしまって」


「それなら、ちょうどよかったね」


 俺は隣の椅子を引き、彼女が座れるようにした。


 リビアは礼を言って腰を下ろすと、自分のノートを開いた。


 そこには、今日の授業で扱った確認項目が丁寧に整理されていた。


 ただ、俺のノートとは少し違うところがある。


 彼女は術者の魔力操作だけでなく、周囲の人が何を確認できるかという点を、別の欄へまとめていた。


「……リビア、これ、分かりやすいね」


 俺がそう言うと、彼女は少し嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。今日、あなたと話していて思ったの。術者自身が分かることと、周囲の人が確かめられることを分けた方が、整理しやすいのではないかって」


「なるほど。俺はそこまで分けていなかったよ」


 俺たちは互いのノートを見比べながら、授業で考えたことを話し合った。


 ただ、実際に魔法を使って確かめることはしない。


 今日の授業で先生が説明したとおり、具体的な実技の条件が決まってから、必要な指導のもとで確認するべきことだからだ。


 しばらく話しているうちに、リビアがふと手を止めた。


「……ねえ、セス。今日、ガレス様と話していたときのことを、もう一度聞いてもいいかしら?」


「ガレスと?」


「ええ。あなたは、ガレス様の説明を聞いて、すぐに別の言葉へ置き換えていたでしょう? あれは、どうしてできたの?」


 俺は少し考えた。


 ガレスが使った「力を込める」という言葉。


 それを聞いたとき、俺は単純に魔力量を増やすことだとは思わなかった。


 なぜなら、彼が剣術について話すとき、力任せに振ることをよしとしていないと知っていたからだ。


「……たぶん、ガレスが普段どんなふうに剣を扱っているか、少し知っていたからだと思う」


 俺が答えると、リビアは興味深そうに身を乗り出した。


「どういうこと?」


「ガレスは剣の稽古でも、ただ強く振ればいいとは考えていないんだ。だから、魔法で力を込めるって言ったときも、何か別の意味があるんじゃないかと思ったんだよ」


 俺はそう説明しながら、昼休みに話したことを思い返した。


「それで、本人に聞いてみたら、狙いを定めて集中する感覚に近いって分かった。だから、その言葉の方が伝わりやすいと思ったんだ」


 リビアはしばらく黙っていた。


 それから、ゆっくりと微笑んだ。


「……やっぱり、あなたは相手のことをよく見ているのね」


「そうかな?」


「ええ。魔法の説明だけを聞いていたのではなく、ガレス様が普段どんなふうに考えているかも思い出していたのでしょう?」


 俺は少し照れくさくなった。


 意識していたわけではないけれど、確かにそうだったのかもしれない。


「……でも、それならリビアも同じだよ」


「私も?」


「うん。今日の課題で、周囲の人のことまで考えていたでしょう? あれは、リビアが結界魔法を使うとき、守る相手のことを考えているからだと思うんだ」


 リビアは驚いたように目を見開いた。


 俺は続けた。


「俺は、自分が魔法を使うときのことを先に考えていた。でも、リビアは、その魔法が周囲へどう影響するかを考えていた。だから、一緒に考えると、俺だけでは気づかなかったことが見つかるんだと思う」


 言い終えると、リビアはしばらく俺を見つめていた。


 やがて、頬を薄く染めながら微笑む。


「……セス。そういうところ、本当にずるいわ」


「また?」


「ええ。私があなたを褒めようと思っていたのに、いつの間にか私まで褒められてしまうんだもの」


 彼女はそう言って、小さく笑った。


 俺もつられて笑ってしまった。


 そのあと、リビアはノートを閉じ、少しだけ椅子を近づけてきた。


「……ねえ、セス。今日、私が一番嬉しかったことを話してもいい?」


「もちろん」


 俺が答えると、彼女は少し考えるように視線を落とした。


「今日、あなたが誰かに教えている姿を見て、私は昔のことを思い出したでしょう? でも、それだけではないの」


 リビアは自分の手を膝の上で重ね、ゆっくりと続けた。


「これから先、あなたはきっと、もっといろいろな人と関わっていくと思うの。執事としても、学院の生徒としても……そして、いつか私の夫としても」


 俺は静かに彼女の言葉を聞いていた。


「そのとき、あなたが自分の力を誰かのために使うこともあるでしょうし、誰かに教えることもあると思うわ。私は、そんなあなたの姿を、できるだけ近くで見ていたいの」


 彼女は顔を上げ、まっすぐに俺を見つめた。


「もちろん、あなたが何をするか、すべて私が決めたいわけではないのよ。ただ、あなたが成長していくところを、一緒に見ていたいの」


 その言葉を聞き、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 リビアは、俺に何か特別な立場を求めているわけではない。


 今すぐ将来の仕事を決めてほしいわけでもない。


 ただ、俺がこれからどんなふうに成長していくのか、その過程を一緒に歩みたいと思ってくれている。


(……俺も、同じだな。リビアがこれから何を学んで、どんなふうに変わっていくのか、ずっとそばで見ていたい)


 俺はそっと彼女の手を取った。


「……リビア。俺も、リビアが成長していくところを、近くで見ていたいよ」


 彼女の指先が、俺の手を握り返した。


「それに、俺はリビアから教わることも多いから。これからも、いろいろなことを一緒に考えていけたら嬉しい」


 俺がそう言うと、リビアは柔らかく微笑んだ。


「ええ。私も、そうしたいわ」


 彼女は少しだけ体を寄せ、俺の肩へ頭を預けた。


 ランプの光が机の上のノートを照らし、窓の外では夜風が木々の葉を揺らしている。


 俺たちはしばらく、何も言わずに並んで座っていた。


 やがて、リビアが小さく口を開いた。


「……セス。来月の実技、少し楽しみになってきたわ」


「うん。俺もだよ」


「でも、無理はしないでね。あなたは、できると思ったことを、つい頑張りすぎてしまうところがあるから」


 彼女は顔を上げ、少し心配そうに俺を見つめた。


 俺はその視線を受け止めながら、ゆっくりと頷いた。


「分かっているよ。先生の指示に従うし、自分だけで勝手に試したりもしない。リビアにも心配をかけたくないからね」


 その言葉に、彼女は安心したように微笑んだ。


「約束よ?」


「うん。約束する」


 俺たちは顔を見合わせ、自然と笑い合った。


 今日の授業で、俺は自分の魔法について、まだ知らないことがあると分かった。


 けれど、それは少しも嫌なことではなかった。


 むしろ、これから学べることがあるのだと思うと、楽しみになってくる。


 そして、隣にはリビアがいる。


 俺とは違う考え方を持ち、違う魔法を得意とする彼女となら、きっと一人では気づけないことにも出会えるだろう。


 俺は彼女の手を握りながら、机の上に並んだ二冊のノートへ目を向けた。


 そこには、まだ答えの出ていない疑問がいくつも残っている。


 けれど、その余白を見ても、以前のように焦ることはなかった。


 分からないことがあるなら、学べばいい。


 一人で答えを出せないなら、誰かと一緒に考えればいい。


 そして、誰かに何かを教えるときには、相手が何を知り、何に困っているのかを確かめればいい。


 そんな当たり前のようで難しいことを、俺は今日、少しだけ学べた気がした。


 隣でリビアが小さく笑い、俺の手をもう一度握り直す。


 その温かさを感じながら、俺は明日の学院生活も楽しみだと思った。

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