第125話 公爵令嬢様は、俺たちの婚約を噂だけで語らせたくないらしい
翌朝、パウリー公爵邸の食堂には、焼きたてのパンの香りが漂っていた。
窓の向こうでは庭師たちが朝の仕事を始めており、昨夜まで湿っていた庭園の石畳も、今朝はすっかり乾いている。澄んだ空から差し込む日差しが食卓の白いクロスを明るく照らし、銀の食器に柔らかな光を落としていた。
俺は向かいに座るリビアへ目を向けた。
彼女はいつもどおり背筋を伸ばして朝食を取っていたが、今朝は少しだけ考え事をしているようだった。手元のカップへ視線を落としたまま、何かを確かめるようにゆっくりと指を動かしている。
「リビア、どうかした?」
俺が声をかけると、彼女は顔を上げて微笑んだ。
「おはよう、セス。いいえ、何でもないわ。ただ、昨日のことを少し考えていたの」
「昨日のことって、学院で話しかけられたこと?」
「ええ。あの方が悪い人だと決めつけるつもりはないのだけれど、私たちの婚約について、どのようなお話が広まっているのか少し気になってしまって」
俺はパンを持つ手を止めた。
昨日、別の教室の男子生徒から、俺とリビアの婚約について質問された。
俺が元平民であることや、現在はシルフィール伯爵家の養子であることを知っていたらしく、公爵令嬢との婚約について周囲から何か言われないのかと尋ねられたのだ。
相手は最後に謝罪して立ち去ったし、直接的な侮辱を受けたわけでもない。
けれど、あの質問がどこから生まれたのかは分からなかった。
「……確かに、俺たちのことをどんなふうに聞いていたのかまでは分からないね」
「そうなの。私たちが婚約しているという事実だけなら構わないのよ。でも、そこへ誰かの想像が加わって、まるで本当のことのように広まっていたら、少し困るでしょう?」
リビアの言葉に、俺は頷いた。
噂というものが、必ずしも事実だけでできているわけではないことは、これまでにも経験している。
学院でライゼルが暴走したときも、実際の出来事を知らない生徒たちの間で、さまざまな話が広まっていた。
俺がどれほどの力を使ったのか。
どうしてあの場にいたのか。
相手に何をしたのか。
直接見ていなかった人まで、それぞれの理解で話していたことを覚えている。
(……今回も、似たようなことが起きているのかな)
ただ、現時点では何も確かめられていない。
昨日の男子生徒が、どこで何を聞いたのかさえ分からないのだから、学院中に妙な噂が広まっていると決めつけることもできなかった。
「リビア。俺たちのことを気にしている人は、ほかにもいると思う。でも、今の段階で誰かが間違ったことを広めているとは限らないよね」
俺がそう言うと、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
それから、穏やかに微笑む。
「ええ。そのとおりね。私、少し先のことまで心配していたみたい」
「心配になるのは分かるよ。俺も、昨日はかなり考えたから」
正直に答えると、リビアは俺の顔をじっと見つめた。
「……セス。昨日、グレイヴとお話ししてから、少し表情が変わったわね」
「そうかな?」
「ええ。以前なら、私に迷惑をかけないためにはどうすればいいか、一人で考え込んでいたと思うの。でも今は、私と一緒に考えてくれているでしょう?」
その言葉を聞き、俺は少し照れくさくなった。
昨日、父さんは俺もリビアも、まだ学んでいる途中なのだと言ってくれた。
何もかも完成している必要はない。
これから二人で学んでいけばいい。
その言葉が、今も胸の中に残っている。
「……うん。俺だけで決めることじゃないと思ったんだ」
俺がそう答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、セス。私も、あなたに余計な心配をさせないように、できるだけ落ち着いて考えるわ」
そう言ってから、彼女は少しだけ悪戯っぽく目を細めた。
「でも、もし誰かがあなたを不当に悪く言っていたら、私、黙っていられる自信はないかもしれないわね」
「……リビア?」
「ふふ。冗談よ。半分くらいは」
彼女が涼しい顔でそう答えたので、俺は思わず苦笑してしまった。
その様子を見ていた旦那様が、手元のカップを静かに置いた。
「オリビア。何か気になることがあるのか?」
低く落ち着いた声が食卓へ響く。
リビアはすぐに姿勢を正した。
「お父様。実は昨日、学院で私たちの婚約について質問されたことがありまして」
彼女は昨日の出来事を簡潔に説明した。
相手が別の教室の生徒だったこと。
俺の出自を気にしている様子だったこと。
そして、俺たちが答えたあと、相手は礼をして立ち去ったこと。
旦那様は途中で口を挟まず、静かに聞いていた。
「なるほど。その生徒は、何か具体的な要求をしたのか?」
「いいえ。婚約を取り消すように言われたわけでも、私たちの行動を制限しようとされたわけでもありません」
「ならば、現時点では質問を受けたという事実以上のことは分からないな」
旦那様はそう言って、俺たちを順番に見た。
「身分の違いについて疑問を持つ者がいること自体は、不思議ではない。貴族社会には古くから続く慣習があり、婚姻が家同士の関係に影響することもある。だからといって、すべての疑問が敵意から生まれるわけではないだろう」
俺は静かに頷いた。
「はい、旦那様」
「ただし、事実と異なる話が広まり、それによって誰かの名誉や学院生活が損なわれるようなら、別の問題になる。その場合は、具体的に何が起きているのかを確認する必要がある」
旦那様の言葉は、俺たちを安心させるためだけのものではなかった。
貴族社会の中で生きていく以上、立場の違いを意識しなければならない場面がある。
それを否定せず、しかし根拠のない話まで受け入れる必要はない。
そんな考えが伝わってくる。
「お父様。私たちから、学院の先生へ何か相談しておいた方がよろしいでしょうか?」
リビアが尋ねると、旦那様は少し考えた。
「現時点で問題が起きていると断定する必要はない。ただ、同じような質問が繰り返されたり、授業や学院生活に支障が出たりするようなら、担当の教師へ事実を伝えなさい。相手の名前も事情も確かめず、噂を探し回るようなことはしない方がいい」
「分かりました、お父様」
リビアは丁寧に頷いた。
旦那様はそれから、俺の方へ視線を向けた。
「クルセス。お前にも一つ言っておこう」
「はい」
「この婚約は、オリビア一人の思いつきで成立したものではない。私も事情を承知したうえで認めている。そこを忘れるな」
俺は思わず背筋を伸ばした。
旦那様は厳しい表情をしているわけではなかった。
けれど、その言葉には公爵家の当主としての重みがあった。
「……はい。ありがとうございます、旦那様」
「礼を言う必要はない。お前たちがこれから何を学び、どのように成長するかは、まだ先の話だ。今は学院で学ぶべきことを学びなさい」
俺は深く頷いた。
隣を見ると、リビアが嬉しそうに微笑んでいる。
その表情を見て、俺も少しだけ肩の力を抜くことができた。
◇
学院へ到着したとき、俺たちはいつもより少し早く教室へ入ることができた。
窓際の席ではサザリーが本を読んでおり、ガレスは机に肘をつきながら何かを考えている。エミリアはまだ到着していなかったが、教室にはすでに何人かの生徒がいて、授業前の穏やかな時間が流れていた。
「おはよう、セス。オリビア様も、おはようございます」
サザリーが本を閉じて声をかけてきた。
「おはよう、サザリー」
「おはようございます、サザリー様」
俺たちが挨拶を返すと、ガレスも顔を上げた。
「おう、おはよう。昨日はちゃんと休めたか?」
「うん。ありがとう、ガレス。父さんにも相談できたし、落ち着いて考えられたよ」
俺が答えると、ガレスは安心したように笑った。
「そっか。それならよかった。昨日のお前、ちょっと考え込んでたからな」
サザリーも穏やかに頷いた。
「婚約について質問されたこと自体より、そのあとに何を考えたかの方が、セスにとっては大きかったのかもしれないね」
「……そうかもしれない」
俺は自分の席へ鞄を置きながら答えた。
実際、昨日の男子生徒が言ったことを、今でも細かく気にしているわけではない。
それよりも、俺自身が自分の立場をどう考えているのか。
リビアの隣にいることを、どれだけ自分の意思として受け止められているのか。
そうしたことを考えるきっかけになったのだと思う。
リビアが隣の席へ腰を下ろしたところで、教室の入口からエミリアが入ってきた。
「皆様、おはようございます」
彼女はいつもどおり丁寧に挨拶し、俺たちの近くへ歩いてきた。
けれど、今朝は少しだけ表情が硬いように見えた。
「……エミリア、どうかした?」
俺が尋ねると、彼女は少し迷うように視線を落とした。
「実は、先ほど廊下で少し気になるお話を耳にしまして」
その言葉に、リビアが静かに顔を上げた。
「どのようなお話ですの?」
エミリアは周囲を一度見回した。
それから、俺たちにだけ聞こえる程度の声で答えた。
「セス様とオリビア様の婚約についてです。別の教室の方々が、お二人のことを話していらっしゃいました」
俺は思わず、リビアと顔を見合わせた。
朝食の席で話していたことが、こんなに早く現実になるとは思っていなかった。
ただ、エミリアの表情を見る限り、彼女もまだ事情を十分に把握しているわけではなさそうだった。
「……どんなことを話していたの?」
俺が尋ねると、エミリアは慎重に言葉を選んだ。
「私が聞いた範囲では、シルフィール家のご子息は、婚約後も公爵家で執事として働くのか、というお話でした。それから、お二人のご結婚後はどのようなお立場になるのか、と」
俺は少し驚いた。
昨日の男子生徒は、俺の出自を気にしている様子だった。
けれど、今日エミリアが耳にしたのは、婚約後の俺の立場についての話らしい。
「……それで、何か結論のようなことを言っていた?」
「いいえ。私が通りかかったときには、何人かの方がそれぞれ予想を話していただけでした。ただ、一人の方が、セス様はいずれ執事を辞めることになるのではないかとおっしゃっていました」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけざわついた。
執事を辞める。
それは、俺自身もまだ答えを出していないことだった。
今の俺はパウリー公爵家の執事見習いであり、父さんから多くのことを教わっている。
けれど、リビアと結婚したあと、どのような立場で働くのかは決まっていない。
旦那様からも、今すぐ結論を出すように言われているわけではなかった。
(……まだ決まっていないことが、もう決まったように話されているのかな)
俺は少し考え込んだ。
ただ、エミリアの話では、相手も予想として話していたらしい。
それなら、間違った情報を広めていると断定することもできない。
「教えてくれてありがとう、エミリア。俺たちも、将来のことはまだ決めていないんだ」
俺がそう答えると、彼女は安心したように頷いた。
「そうなのですね。では、私が聞いたお話も、今のところは予想にすぎないということですね」
「うん。少なくとも、俺が執事を辞めると決まったわけではないよ」
俺の言葉に、ガレスが少し驚いたように眉を上げた。
「そういえば、セスが結婚したあとどうするかって、俺たちも詳しく聞いたことなかったな」
「……うん。まだ決まっていないからね」
俺が答えると、ガレスは納得したように頷いた。
「そりゃそうか。まだ十五歳なんだし、今から全部決める必要もないよな」
その率直な言葉に、俺は少し笑ってしまった。
サザリーも静かに微笑んだ。
「ただ、本人たちが決めていないことでも、周囲は勝手に予想するものだからね。今後も似たような話は出るかもしれない」
リビアはその言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
「ええ。ですが、私たちの将来については、私たち自身が考えていくことですわ。周囲の方の予想だけで決められてしまうのは、少し困りますもの」
彼女の声は穏やかだった。
それでも、俺には彼女が何を大切にしているのか、よく伝わってきた。
俺たちの婚約は、誰かの噂によって決まったものではない。
だから、これから先のことも、噂に合わせて決める必要はないのだ。
◇
午前中の授業は、学院の歴史と貴族社会の制度について扱う内容だった。
教師は黒板へいくつかの家名と役職を書き、時代によって貴族の役割や家同士の関係が変化してきたことを説明していた。
俺はその話を聞きながら、今朝の出来事を思い返していた。
貴族の婚姻は、本人同士の気持ちだけでなく、家同士の関係や社会的な立場にも影響する。
それは、俺も学んできたことだった。
けれど、教科書に書かれている制度と、自分自身の将来を重ねて考えると、少し違った感覚がある。
例えば、婚姻によって家の継承や財産の扱いが変わる場合があること。
家の代表として公的な場へ出る立場になること。
それまで担っていた役割を、そのまま続けられるとは限らないこと。
どれも、今の俺にはまだ十分に理解できていない問題だった。
「シルフィール。何か質問がありますか?」
教師から声をかけられ、俺は顔を上げた。
どうやら、少し考え込んでいるように見えたらしい。
「はい。婚姻によって立場が変わる場合、本人がそれまで担っていた仕事を続けられるかどうかは、どのように決まるのでしょうか」
俺が尋ねると、教師は少し興味深そうな表情を浮かべた。
「よい質問ですね。ただし、それは家の事情や本人の立場、婚姻によって生じる責任によって大きく異なります」
教師は黒板へ向き直り、いくつかの例を示した。
「例えば、家督を継ぐ者と、そうでない者では事情が違います。また、婚姻後にどちらの家で生活するのか、公的な役割を担うのかによっても、必要な判断は変わります」
俺は手帳へ書き留めながら、説明を聞いた。
「つまり、すべての婚姻に共通する一つの答えがあるわけではない、ということでしょうか」
「そのとおりです。制度上の制約はありますが、具体的な事情を確認せずに結論を出すことはできません。歴史上の事例を学ぶ際にも、その時代と家の状況を考える必要があります」
教師の言葉に、俺は深く頷いた。
自分の将来について、何か具体的な答えを得られたわけではない。
けれど、今の段階で一つの形へ決めつける必要がないことは分かった。
授業が進むにつれて、ほかの生徒たちからも質問が出始めた。
家督を継がない子どもの役割。
婚姻によって変化する親族関係。
領地を持つ家と持たない家の違い。
教師はそれぞれの質問へ丁寧に答えながら、個別の事情を一般化しすぎないよう注意を促していた。
俺はその説明を聞き、少し気持ちが軽くなった。
(……俺たちも、まだ知らないことを学んでいる途中なんだよな)
父さんが言ってくれたことを、改めて思い出す。
俺はまだ十五歳だ。
今のうちに学んでおくべきことはたくさんあるけれど、すべての答えを今日決める必要はない。
そのことを、ようやく少しずつ受け入れられるようになってきた気がした。
◇
昼休み、俺たちはいつものように食堂へ向かった。
食堂には多くの生徒が集まっており、食器の触れ合う音や友人同士の会話が広がっている。
俺たちは空いている席を見つけ、サザリー、ガレス、エミリアと一緒に昼食を取ることにした。
「今日の授業、結構面白かったな」
ガレスが食事を取りながら口を開いた。
「婚姻の制度って、家によってあんなに違うんだな。俺、もっと単純なものだと思ってたよ」
サザリーが頷いた。
「教科書では基本的な形を学ぶけれど、実際にはそれぞれの家の事情があるからね。歴史上の事例も、同じ制度のもとで違う判断がされていることがある」
エミリアも穏やかに微笑んだ。
「私も、今日の授業で初めて知ったことがありました。家同士の関係だけでなく、本人がどのような役割を担っているかも重要なのですね」
俺はその話を聞きながら頷いた。
「うん。俺も、今まで知らなかったことが多かったよ」
すると、ガレスが少しだけ真剣な表情になった。
「……なあ、セス。朝の話だけどさ。お前、将来も執事の仕事を続けたいと思ってるのか?」
その質問に、俺は少し考えた。
執事の仕事を続けたいか。
それは、簡単には答えられないことだった。
俺は父さんの仕事を尊敬している。
パウリー公爵家で学ぶことも楽しいし、誰かの役に立てることを嬉しく思っている。
けれど、リビアと結婚したあと、今と同じように働くことができるのかは分からない。
「……今の仕事は好きだよ。父さんから教わることも多いし、できることが増えるのは嬉しい。でも、結婚したあとも同じ立場で働くかどうかは、まだ分からないんだ」
俺が正直に答えると、ガレスはゆっくりと頷いた。
「そっか。じゃあ、今は決められないってことか」
「うん。リビアや旦那様とも相談しなければならないことだと思うし」
その言葉を聞いて、リビアが俺の方へ顔を向けた。
「セス。私も、あなたが何をしたいと思っているのか、大切にしたいわ」
彼女の声は穏やかだった。
「もちろん、私たちには公爵家として考えなければならないこともあるでしょう。でも、だからといって、あなたの気持ちを聞かずに決めるつもりはないの」
俺はその言葉を聞き、少し胸が温かくなった。
「……ありがとう、リビア」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
すると、ガレスが少し考えるように腕を組んだ。
「なんか、結婚って大変なんだな」
その言葉に、サザリーが小さく笑った。
「ガレス。今さら気づいたのかい?」
「いや、そりゃ大変だとは思ってたけどさ。もっとこう、好きな相手と一緒になるってことが中心なんだと思ってたんだよ」
ガレスは少し照れくさそうに頭をかいた。
エミリアは穏やかに微笑んだ。
「好きな気持ちも大切だと思います。でも、一緒に生活していくためには、考えなければならないことがたくさんあるのでしょうね」
その言葉に、リビアが静かに頷いた。
「ええ。私も、最近それをよく感じるわ。セスと一緒にいたいという気持ちは変わらないけれど、そのために何を学ぶべきなのかは、まだ知らないことが多いもの」
俺は彼女の横顔を見つめた。
リビアは、俺との結婚を誰よりも強く望んでくれている。
それでも、将来について何も考えずにいるわけではない。
むしろ、俺と一緒に生きていくために必要なことを、真剣に学ぼうとしている。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
昼食を終え、俺たちが教室へ戻ろうとしていたときだった。
食堂の出口付近で、数人の生徒がこちらを見ていることに気づいた。
特に敵意を感じるわけではない。
けれど、そのうちの一人が何かを囁くと、隣にいた生徒が俺とリビアを交互に見た。
俺は一瞬だけ足を止めそうになった。
ただ、すぐに考え直す。
こちらを見ていたからといって、俺たちの悪口を言っているとは限らない。
それに、相手が何を話しているのかも分からない。
俺はそのまま歩き続けようとした。
すると、隣を歩いていたリビアが、そっと俺の手へ触れた。
「……セス」
小さな声だった。
俺が顔を向けると、彼女は穏やかに微笑んだ。
「気にしなくていいわ。私たちは、いつもどおりにしていましょう」
俺は少し驚いた。
どうやら、リビアも周囲の視線に気づいていたらしい。
「……うん。そうだね」
俺が答えると、彼女は安心したように頷いた。
そのまま校舎へ向かおうとしたとき、背後から声がかかった。
「あの、少しよろしいでしょうか」
振り返ると、先ほどこちらを見ていた生徒の一人が立っていた。
男子生徒だったが、昨日話しかけてきた人物とは違う。
彼は少し緊張した様子で、俺たちへ一礼した。
「突然申し訳ありません。シルフィール様とパウリー公爵令嬢でいらっしゃいますよね」
「はい。そうですが」
俺が答えると、男子生徒は少し安心したように息をついた。
「実は、少しお聞きしたいことがありまして」
その言葉に、俺は昨日の出来事を思い出した。
また婚約についての質問だろうか。
そう考えていると、男子生徒は続けた。
「お二人は、学院での行事などにも、婚約者として一緒に参加されるのでしょうか?」
俺は思わず目を瞬かせた。
予想していた質問とは少し違った。
「……行事ですか?」
「はい。今後、学院で催される行事について話していたのですが、お二人は婚約されていると聞きましたので、そうした場ではどのようにされるのか気になりまして」
俺は少し考えた。
学院の行事には、それぞれ参加方法や規則がある。
婚約者だからといって、必ず一緒に行動できるとは限らない。
それに、今後の行事について、まだ具体的な予定が発表されていないものもある。
「……行事の内容によると思います。参加方法が決まっているなら、それに従うことになるでしょうし」
俺がそう答えると、男子生徒は頷いた。
「なるほど。では、婚約者だから特別な扱いになるというわけではないのですね」
「少なくとも、俺たちが勝手に決められることではありません」
俺がそう答えると、リビアも穏やかに微笑んだ。
「ええ。学院の行事には、それぞれ決まりがありますもの。私たちも、学院の生徒として参加するつもりですわ」
男子生徒は納得したように頷いた。
「ありがとうございます。少し気になっていただけなのですが、直接お聞きできてよかったです」
彼は丁寧に礼をすると、友人たちのもとへ戻っていった。
俺はその背中を見送りながら、少し不思議な気持ちになった。
昨日は、俺の出自について質問された。
今日は、将来の仕事について話している生徒がいた。
そして今度は、学院の行事へどのように参加するのかを尋ねられた。
同じ婚約についての話でも、気にしていることは人によって違うらしい。
「……いろいろなことを考える人がいるんだね」
俺がそう呟くと、リビアは小さく笑った。
「ええ。私たちにとっては当たり前のことでも、ほかの方には珍しく見えるのかもしれないわ」
彼女はそう言ってから、少しだけ真剣な表情になった。
「でも、セス。今の質問には、あなたも落ち着いて答えていたわね」
「うん。まだ決まっていないことを、決まっているように話さない方がいいと思ったから」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「ええ。それでいいと思うわ。私たち自身にも、まだ分からないことがたくさんあるもの」
俺は彼女の言葉に頷いた。
周囲からの質問を、すべて悪意として受け取る必要はない。
けれど、だからといって、何でも答えなければならないわけでもない。
分からないことは分からないと伝える。
決まっていないことは、まだ決まっていないと答える。
それだけでも、十分なのかもしれなかった。
◇
午後の授業が終わる頃には、教室の窓から差し込む光が少しずつ柔らかくなっていた。
俺は筆記具を片づけながら、今日一日の出来事を振り返っていた。
朝から、俺たちの婚約について何度か話題になった。
けれど、実際に直接質問してきた生徒たちは、少なくとも俺が見た範囲では、敵意を持っているようには見えなかった。
もちろん、今後も同じとは限らない。
ただ、現時点で必要以上に警戒する理由もなかった。
「セス。帰りましょうか」
リビアが隣から声をかけてきた。
「うん。準備は終わったよ」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
俺たちはサザリーたちへ挨拶し、教室をあとにした。
廊下には帰宅する生徒たちの足音が響いている。
窓の外では、夕方の光が中庭の木々を柔らかく照らしていた。
「……ねえ、セス」
歩きながら、リビアが静かに口を開いた。
「今日、少しだけ考えたことがあるの」
「何?」
「私たちの婚約について、周囲の方がいろいろなことを考えるのは、きっとこれからもあるのでしょうね」
俺は頷いた。
「そうだと思う。俺たち自身にも、まだ決まっていないことが多いし」
リビアは少し考えるように視線を落とした。
「ええ。でも、私はそれを怖がりすぎたくないの」
俺は彼女の顔を見つめた。
リビアは歩く速度を少し緩め、俺の方へ向き直った。
「誰かが私たちのことを不思議に思っても、私たちがどうしたいのかは変わらないでしょう?」
「……うん」
「それなら、必要なときにはきちんと説明して、答えられないことは答えられないと伝えればいいのだと思うわ」
彼女はそう言って、少しだけ微笑んだ。
「もちろん、何でも簡単に済むとは思っていないけれど」
俺はその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。
リビアは、俺たちの婚約を特別扱いしてほしいと思っているわけではない。
ただ、自分たちの意思を大切にしたいのだ。
そして、周囲の人たちにも、噂や想像だけではなく、俺たち自身を見てほしいと思っている。
「……俺も、そう思うよ」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、セス」
俺たちはそのまま並んで歩き、学院の正門へ向かった。
◇
パウリー公爵邸へ戻ったあと、俺はいつもどおり父さんへ帰宅の報告を済ませた。
父さんは執務室で書類を確認していたが、俺の話を聞くと、穏やかに頷いた。
「なるほど。今日は婚約について、何度か話題になったのですね」
「うん。でも、直接質問してきた人は、特に悪意があるようには見えなかったよ」
俺が答えると、父さんは少し考えるように目を伏せた。
「それなら、今の段階で大きな問題として扱う必要はないでしょう。ただし、あなたが不安に感じたことまで、無理に小さく考える必要はありません」
俺は少し驚いた。
「……そうなの?」
「ええ。相手に悪意がなかったとしても、質問された側が戸惑うことはあります。大切なのは、その気持ちをどう扱うかです」
父さんはそう言って、俺の顔を見つめた。
「クルセス。あなたは今日、どのように感じましたか?」
俺は少し考えた。
昨日は、自分の出自について質問されたことで、リビアの隣に立つことを少し不安に思った。
けれど、今日は違った。
将来の仕事について話している生徒がいたことも、学院の行事について質問されたことも、最初は驚いた。
それでも、今は必要以上に気にしていない。
「……最初は少し驚いたけど、今は落ち着いているよ。まだ決まっていないことを、無理に答えなくてもいいんだって分かったから」
俺がそう答えると、父さんは穏やかに微笑んだ。
「それはよいことです。自分の立場について考えることは大切ですが、すべての質問へ答える義務があるわけではありません」
俺は静かに頷いた。
「はい」
「それに、婚約に関する正式な判断は、あなた一人で行うものではありません。必要なことがあれば、旦那様や私へ相談してください」
「うん。分かった。ありがとう、父さん」
父さんは満足そうに頷いた。
「よろしい。では、今日はゆっくり休みなさい。考えることが多かったでしょうから」
俺は一礼し、執務室をあとにした。
◇
夕食までの時間、俺はリビアと小さな居間で過ごしていた。
窓の外では夕日が庭園を赤く染め、遠くから使用人たちが仕事を進める音が聞こえている。
俺たちは長椅子へ並んで腰を下ろし、今日の出来事について話していた。
「……セス。今日は少し疲れたでしょう?」
リビアが心配そうに尋ねてきた。
俺は少し考えたあと、正直に答えた。
「うん。授業以外にも考えることが多かったからね。でも、嫌な疲れ方ではないと思う」
その言葉に、リビアは少し安心したように微笑んだ。
「それならよかったわ。私も、今日は少し考えることが多かったの」
「やっぱり、婚約のこと?」
「ええ。でも、悪いことばかりではなかったわ」
リビアはそう言って、俺の方へ体を向けた。
「私たちのことを不思議に思う方がいるのは、仕方のないことなのかもしれないわね。でも、だからこそ、私たち自身がどうしたいのかを大切にしたいと思ったの」
俺は彼女の言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
「……俺も同じだよ」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「それにね、セス。今日、あなたが自分の将来について質問していたでしょう?」
「うん。婚姻によって立場が変わる場合、仕事を続けられるかどうかはどう決まるのかって」
「ええ。あれを聞いて、私、少し嬉しかったの」
俺は思わず首を傾げた。
「……嬉しかった?」
「だって、あなたが私たちの将来について、自分から考えようとしてくれているんだもの」
その言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。
俺は今まで、リビアとの結婚について考えるとき、どうしても自分の立場や責任を気にしてしまうことが多かった。
けれど、リビアはそれを、俺が二人の未来を真剣に考えている証拠として受け取ってくれているらしい。
「……ありがとう、リビア」
俺がそう答えると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとう。セスが一緒に考えてくれることが、私には何より嬉しいのよ」
彼女はそう言って、俺の手をそっと取った。
俺も自然に、その手を握り返す。
窓の外では、夕日が少しずつ沈み始めていた。
リビアはしばらく黙って俺の手を見つめていたが、やがて小さく口を開いた。
「……ねえ、セス」
「何?」
「私、いつかあなたと一緒に、今よりもっとたくさんのことを決めていきたいわ」
俺は彼女の顔を見つめた。
リビアは少し照れたように微笑んだ。
「どこで暮らすのか、どんなふうに毎日を過ごすのか、どんな仕事をするのか。今はまだ分からないことばかりだけれど、いつか一つずつ決めていけたら嬉しいの」
その言葉を聞いたとき、胸の奥がゆっくりと満たされていくのを感じた。
俺たちの未来は、まだ何もかも決まっているわけではない。
けれど、それは不安なことばかりではないのかもしれない。
これから二人で考え、選んでいけることが、たくさん残っているということでもある。
「……うん。俺も、そうしたい」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「約束よ、セス」
「うん。約束する」
俺たちは顔を見合わせ、自然と笑い合った。
誰かが俺たちの婚約をどう思うのか。
これから先、どんなことを言われるのか。
まだ分からないことは、たくさんある。
けれど、今の俺には、一つだけ確かなことがあった。
俺はリビアと一緒に生きていきたい。
そのために、これからも学び、考え、少しずつ成長していきたい。
そして、リビアも同じ気持ちでいてくれる。
それだけで、今は十分だった。
俺は彼女の手を握りながら、夕暮れの光に包まれた庭園を静かに眺めていた。
いつか、今日のことを思い出す日が来るのかもしれない。
まだ何も決まっていなかった頃、二人で未来について話していたことを。
そのとき、俺たちはどんなふうに笑っているのだろう。
そんなことを考えると、少しだけ楽しみになった。




