第124話 公爵令嬢様は、俺が隣に立つ理由を誰かに決められたくないらしい
翌朝、パウリー公爵邸の庭園には、昨日の雨が残した水滴がいくつも輝いていた。
夜のうちに雲は東へ流れたらしく、窓の向こうには淡い青空が広がっている。濡れた芝生からは朝の光を受けた白い靄がわずかに立ち上り、庭師たちが足元の状態を確かめながら作業を始めていた。
俺は自室の窓を閉め、制服の襟元を整えた。
昨日、学院で教わったことが、まだ頭の中に残っている。
自分にできることと、無理をしていいことは別だということ。
誰かを守りたいと思うなら、自分自身の安全についても考えなければならないということ。
そして、リビアが俺を支えたいと思ってくれていること。
どれも簡単なようで、今までの俺には十分にできていなかったことだった。
(……少しずつ、か)
昨日、父さんは急にすべてを変える必要はないと言ってくれた。
それでも、今まで当たり前だと思っていたことを見直すのは、なかなか難しい。
俺は手帳を鞄へしまい、部屋を出た。
廊下では、ちょうど朝の仕事を終えた使用人が花瓶の位置を整えているところだった。俺が挨拶すると、相手は穏やかに会釈を返してくれる。
そのやり取りを終えて階段へ向かうと、踊り場の近くにリビアの姿があった。
「おはよう、セス。今日はいいお天気になりそうね」
彼女は窓から差し込む光を背に、嬉しそうに微笑んだ。
銀青色の髪が肩の上で揺れ、その柔らかな表情を見た途端、俺の口元にも自然と笑みが浮かぶ。
「おはよう、リビア。昨日はずっと雨だったから、今日は少し気持ちがいいね」
「ええ。もっとも、庭園の石畳はまだ濡れているでしょうから、足元には気をつけないといけないけれど」
そう言ったリビアは、何かを思い出したように俺の顔を見つめた。
「セス。昨日、私が馬車へ乗るときに手を貸したこと、覚えている?」
「もちろん。リビアから手を差し出してくれたんだよね」
「ふふ。そうよ。あれ、私には少し嬉しい出来事だったの」
彼女はそう言いながら、俺の隣へ並んだ。
「いつもあなたに助けてもらってばかりだから、たまには私から何かしてみたかったのよ。ほんの小さなことだけれど、あなたが喜んでくれたのが嬉しくて」
「俺も嬉しかったよ。少し驚いたけどね」
正直に答えると、リビアは満足そうに頷いた。
「それなら、これからも時々そうさせてね。もちろん、あなたが嫌でなければだけれど」
「嫌なわけないよ。むしろ、リビアがそう思ってくれていることが嬉しい」
俺がそう答えた途端、彼女は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少し頬を染めて視線を逸らす。
「……セスは、そういうことを本当に自然に言うのね」
「えっ? 何か変なことを言った?」
「いいえ。何も変ではないわ。ただ、私の方が少し困ってしまうだけよ」
困ると言いながら、リビアの表情は嬉しそうだった。
俺にはその理由がよく分からなかったが、彼女が笑ってくれているなら、それでいいような気もする。
俺たちは朝食へ向かうため、並んで階段を下り始めた。
途中、リビアが何気ない調子で尋ねてきた。
「そういえば、セス。今日は学院で何か予定があったかしら?」
「午前中は通常の授業だね。午後は魔術理論の復習と、先生から指定された資料を使う時間があったと思う」
「そうだったわね。来月の二属性を扱う実習については、まだ詳しい日程が発表されていないのよね?」
「うん。エレナ先生からは、正式な説明を待つように言われているよ」
俺が答えると、リビアは頷いた。
「楽しみではあるけれど、急いで準備する必要はないわね。今のうちに、普段の授業で教わっていることをきちんと身につけておきたいわ」
「そうだね。俺も、昨日みたいに自分の感覚を言葉にする練習を続けたいと思ってる」
そんな話をしているうちに、食堂へ続く廊下が見えてきた。
今日もいつもどおりの一日が始まる。
そのときの俺は、そう思っていた。
◇
学院へ到着すると、正門付近には朝の光を受けた生徒たちの姿があった。
昨日の雨の影響で中庭の一部にはまだ水たまりが残っていたが、通路は問題なく歩ける状態になっている。生徒たちは友人と話しながら校舎へ向かい、遠くでは授業前の準備を進める教員の姿も見えた。
俺とリビアが教室へ入ると、ガレスが窓際の席から手を上げた。
「おう、セス! 昨日の練習のことなんだけど、ちょっと聞いてくれよ」
「おはよう、ガレス。どうしたの?」
「昨日の先生の説明を思い出しながら、家で足運びを整理してみたんだ。そしたらさ、俺、今まで踏み込んだあとにどう動くかをあんまり考えてなかったんだよな」
ガレスはそう言って、自分の机の上に置かれた紙を指さした。
そこには、昨日よりも整理された足の位置の図が描かれている。
俺が覗き込むと、サザリーが隣から穏やかに声をかけてきた。
「昨日の練習が終わってから、ずいぶん熱心に考えていたみたいだよ。ただ、まだ実際に試していないから、今は仮の整理ということにしているらしい」
「そうそう。前みたいに、これが正しいって決めつけるのはやめたんだ。先生に見てもらってから判断する」
ガレスは少し照れくさそうに笑った。
俺はその言葉を聞き、嬉しくなった。
「いいと思う。自分で考えたことを、次の授業で確かめられるといいね」
「おう。セスにもまた見てもらいたいけど、まずは先生に聞くことにするぜ」
俺たちが話していると、エミリアも席へ近づいてきた。
「おはようございます。ガレス様、昨日のことをもう整理されたのですね」
「おはよう。まあ、気になってたからな。昨日より少しは分かってきた気がするよ」
ガレスがそう答えると、エミリアは穏やかに微笑んだ。
「それはよかったです。私も昨日の授業で、姿勢を整えることの難しさを感じました。ゆっくり動くだけなのに、普段より意識することが多かったですから」
リビアも頷いた。
「ええ。速く動くときには自然にできていることでも、ゆっくり確かめると、意外な発見があるものね」
俺は友人たちの話を聞きながら、少し不思議な気持ちになった。
以前は、剣術や魔法について相談されると、何とか答えを出さなければならないと思っていた。
けれど、今はこうして一緒に考えること自体が楽しい。
誰かが悩んでいることを聞き、自分の考えを伝え、必要なら先生へ相談する。
それだけでも、十分に意味があるのだろう。
そんなことを考えていたときだった。
「失礼。少しよろしいでしょうか」
背後から、落ち着いた声が聞こえた。
振り返ると、教室の入口近くに、一人の男子生徒が立っていた。
身なりは整っており、制服の着こなしにも乱れがない。俺たちと同じ学院の生徒であることは分かるが、普段この教室で見かける顔ではなかった。
彼はまずリビアへ丁寧に一礼した。
「パウリー公爵令嬢。朝のお時間に申し訳ありません。少しだけ、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
リビアは穏やかな表情を保ったまま、相手へ向き直った。
「おはようございます。どのようなご用件でしょうか」
「ありがとうございます。私は別の教室に所属しておりますが、以前から一つ気になっていたことがありまして」
男子生徒はそう言ってから、俺の方へ視線を移した。
その目には、敵意というほど強いものは感じられなかった。
ただ、何かを確かめようとするような、慎重な色があった。
「シルフィール伯爵家のご子息でいらっしゃいますね」
「はい。クルセス・シルフィールです」
俺が答えると、彼は小さく頷いた。
「やはりそうでしたか。失礼ながら、お二人が婚約されているというお話を耳にしまして」
その言葉が出た瞬間、周囲の空気がわずかに変わった。
ガレスが机から顔を上げ、サザリーも静かに相手の様子を見つめる。
リビアは微笑みを崩さなかったが、俺の隣へ半歩近づいた。
「ええ。そのとおりですわ。それが何か?」
男子生徒は一瞬だけ言葉を探すように目を伏せた。
「いえ、もちろん、公爵家のお考えに異を唱えるつもりはありません。ただ、シルフィール家のご子息は、もともと平民の出身でいらっしゃると聞いておりますので……」
そこまで言ったところで、彼は口を閉じた。
言葉の続きをどう選ぶべきか、迷っているようだった。
俺は相手の顔を見つめた。
自分が元は平民だったことを、隠しているわけではない。
スラムで暮らしていた過去も、今の俺を形作っている大切な一部だ。
ただ、貴族の社会では、家柄や生まれが重視されることも理解している。
だから、彼が何を聞きたいのかは、何となく想像できた。
「……俺の出自について、何か気になることがあるんですか?」
できるだけ穏やかに尋ねると、男子生徒は少し驚いたように俺を見た。
「失礼な質問になるかもしれませんが……公爵家のご令嬢との婚約について、周囲から何か言われることはないのでしょうか」
その言葉に、俺はすぐには答えられなかった。
周囲から何か言われること。
それは、これまでにも何度か経験してきたことだった。
俺が公爵家の執事見習いでありながら、リビアの婚約者でもあること。
元は平民であり、現在はシルフィール伯爵家の養子であること。
その組み合わせが珍しいことは、俺自身も理解している。
けれど、何をどこまで話すべきか考えているうちに、リビアが静かに口を開いた。
「周囲の方がどのようにお考えになるかは、それぞれでしょう。ですが、私たちの婚約は、私とセス、そして両家が承知しているものです」
彼女の声は柔らかかった。
それでも、その言葉には迷いがなかった。
男子生徒は姿勢を正した。
「もちろん、それは承知しております。ただ、公爵家というお立場を考えますと、将来的にはさまざまな問題が……」
「ご心配いただき、ありがとうございます」
リビアは相手の言葉を遮ることなく聞いてから、静かに微笑んだ。
「ですが、将来については、私たち自身も学びながら考えているところです。まだ決まっていないことまで、今ここでお答えすることはできませんわ」
俺は彼女の横顔を見つめた。
リビアはいつもの公爵令嬢らしい姿勢を保っている。
けれど、彼女が俺の隣から離れようとしないことが、何より心強かった。
男子生徒は少し考え込んだあと、深く頭を下げた。
「……失礼いたしました。差し出がましい質問だったかもしれません」
「いいえ。疑問を持たれること自体を責めるつもりはありません。ただ、私たちのことをお尋ねになるのでしたら、できれば私たち自身の言葉を聞いていただけると嬉しいですわ」
リビアの返答に、男子生徒は静かに頷いた。
「承知しました。朝のお時間をいただき、ありがとうございました」
彼はもう一度礼をすると、教室を離れていった。
その背中が見えなくなってから、俺はようやく息をついた。
周囲では、何人かの生徒がこちらを気にしているようだったが、授業前の時間ということもあり、大きな騒ぎにはなっていなかった。
「……大丈夫か、セス?」
ガレスが少し心配そうに声をかけてきた。
「うん。大丈夫だよ。少し驚いたけど」
俺が答えると、サザリーは静かに頷いた。
「相手も、最後は自分の質問が踏み込みすぎだったと気づいたようだね。ただ、似たような疑問を持っている生徒は、ほかにもいるかもしれない」
俺はその言葉を聞き、少し考え込んだ。
確かに、今回の男子生徒だけが特別というわけではないのだろう。
俺とリビアの婚約は、一般的な貴族の婚約とは少し違う。
だからこそ、周囲が不思議に思うこともある。
それ自体を、すべて悪意として受け取る必要はないのかもしれない。
けれど、隣にいたリビアは、まだ少しだけ真剣な表情をしていた。
「……リビア?」
俺が声をかけると、彼女はすぐに微笑んだ。
「何でもないわ。少し考えていただけよ」
そう答えた彼女は、俺の袖口へそっと触れた。
「セス。あとで、少しだけお話しできるかしら?」
「もちろん。昼休みでもいい?」
「ええ。ありがとう」
彼女は安心したように頷いた。
その表情を見て、俺は胸の奥に小さな不安が残るのを感じた。
◇
午前中の授業が始まると、教室はいつもの落ち着きを取り戻した。
教師の説明に合わせて生徒たちが筆記具を動かし、窓の外からは風に揺れる木々の音が聞こえてくる。
俺も授業へ集中しようとした。
けれど、時折、朝の出来事が頭に浮かんだ。
元平民の俺が、公爵令嬢であるリビアの婚約者になっていること。
それを不思議に思う人がいること。
そして、俺たちの将来について、まだ決まっていないことが多いという事実。
どれも、今まで考えたことがないわけではなかった。
むしろ、俺自身が一番よく分かっているつもりだった。
(……俺は、本当にリビアの隣に立っていていいのかな)
そんな考えが浮かびかけ、俺は筆記具を持つ手を止めた。
けれど、すぐに首を横へ振りたくなる。
リビアは、俺を婚約者に選んでくれた。
旦那様も、俺たちの婚約を認めてくださっている。
父さんも、俺がこれから学ぶべきことを教えてくれている。
それなのに、誰かから疑問を向けられただけで、自分の立場を疑ってしまうのは、少し違うのではないだろうか。
そう思う一方で、簡単に割り切れない気持ちもあった。
俺がリビアの隣にいることで、彼女が余計なことを言われるのではないか。
公爵家に迷惑をかけるのではないか。
そうした心配は、以前から胸のどこかに残っていた。
「……セス」
隣から小さな声が聞こえた。
顔を向けると、リビアがこちらを見つめていた。
彼女は机の上の教科書へ視線を落とし、周囲に聞こえないような声で続けた。
「今は授業に集中しましょう。考えるのは、あとで一緒にできるわ」
俺は少し驚いた。
どうやら、考え込んでいることに気づかれていたらしい。
「……うん。ありがとう」
俺が小さく答えると、リビアは安心したように微笑んだ。
そのあと、俺は改めて教科書へ目を向けた。
すぐに気持ちを切り替えられたわけではない。
けれど、一人で答えを出そうとしなくてもいいのだと思うと、少しだけ落ち着くことができた。
◇
昼休みになり、俺たちは食堂へ向かった。
朝の出来事があったせいか、ガレスは普段より少しだけ周囲を気にしているようだった。
サザリーはそんな彼を見て、穏やかに声をかけた。
「ガレス。そんなに周りを見なくても大丈夫だと思うよ」
「いや、別に何かあると思ってるわけじゃないけどさ。朝みたいなことがまたあったら、ちょっと嫌だなって」
ガレスはそう言いながら、少し気まずそうに頭をかいた。
俺はその様子を見て、思わず微笑んだ。
「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だよ」
「……お前がそう言うならいいけどさ」
ガレスはまだ少し納得していないようだったが、それ以上は何も言わなかった。
エミリアも穏やかに口を開いた。
「朝の方も、最初から悪意があったとは限りませんものね。ただ、聞かれる側の気持ちまで考えていなかったのかもしれません」
俺はその言葉に頷いた。
「うん。俺も、そう思う」
すると、リビアが静かに微笑んだ。
「皆様、ご心配いただきありがとうございます。でも、私たちは大丈夫ですわ」
彼女の声はいつもどおり落ち着いていた。
それでも、俺の隣に座る距離は、普段より少し近いように感じられた。
食事を終えたあと、サザリーたちは午後の授業の準備をするため、先に教室へ戻ることになった。
俺とリビアは少しだけ時間をもらい、食堂から離れた静かな廊下へ向かった。
窓の外には中庭が広がり、雨上がりの木々が明るい日差しを受けている。
人通りの少ない場所まで来ると、リビアはゆっくりと足を止めた。
「……セス。朝のこと、気にしているでしょう?」
俺はすぐには答えられなかった。
彼女の目は、まっすぐ俺を見つめている。
ごまかしても、きっと気づかれてしまうだろう。
「……少しだけ」
俺が正直に答えると、リビアは静かに頷いた。
「そうよね。私も、少し気になっていたもの」
彼女は窓の外へ視線を向けた。
中庭では、生徒たちが友人と話しながら歩いている。
その穏やかな景色を眺めながら、リビアはゆっくりと口を開いた。
「セス。私は、あなたが平民だったことを恥ずかしいと思ったことはないわ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
俺は彼女の横顔を見つめる。
「……うん」
「あなたがどこで生まれて、どんなふうに育ってきたのか。それは、あなたの大切な過去でしょう?」
リビアはそう言って、俺の方へ向き直った。
「私は、その過去をなかったことにしてほしいとは思わないの。今のセスだけじゃなくて、これまでのあなたも含めて、大切にしたいと思っているわ」
俺は言葉を失った。
スラムで暮らしていた頃のこと。
何も持たず、明日の食事さえ分からなかった日々。
父さんと出会い、シルフィール家の養子になったこと。
そして、パウリー公爵家でリビアと過ごしてきた時間。
そのすべてが、今の俺につながっている。
けれど、貴族の社会では、俺の過去を好ましく思わない人もいるのだろう。
だからこそ、リビアに迷惑をかけたくないと思っていた。
「……でも、リビア。俺が婚約者でいることで、君が何か言われることもあると思う」
俺がそう言うと、彼女は少しだけ眉を寄せた。
「ええ。そういうこともあるでしょうね」
リビアは否定しなかった。
そのことが、かえって俺にはありがたかった。
「でも、それは私が考えるべきことでもあるわ。あなた一人が責任を感じる必要はないのよ」
彼女はそう言って、俺の手へそっと触れた。
「セス。私があなたを婚約者にしたいと望んだこと、覚えているでしょう?」
「もちろん。忘れるわけないよ」
俺が答えると、リビアは少し照れたように微笑んだ。
「……あのとき、私は自分の気持ちをお父様へ伝えたわ。簡単に認めていただけるとは思っていなかったけれど、それでも諦めたくなかったの」
俺は彼女の言葉を静かに聞いていた。
リビアがどれほど真剣に俺との婚約を望んでくれたのかは、よく知っている。
旦那様へお願いするために、普段の彼女からは想像できないほど必死になってくれたことも、忘れられない。
「だからね、セス。誰かに何か言われたからといって、私の気持ちまで変わると思わないでほしいの」
彼女の声は、少しだけ震えていた。
俺は思わず、彼女の手を握り返した。
「……そんなふうには思ってないよ」
俺が答えると、リビアは少し安心したように息をついた。
「それならよかった。でも、あなたが自分のことを責めてしまうのではないかと、少し心配だったの」
その言葉を聞き、俺は胸の奥が締めつけられるような気がした。
確かに、俺は朝から何度も、自分がリビアの隣にいていいのかと考えていた。
けれど、それはリビア自身の気持ちを、十分に信じていないことにもつながるのかもしれない。
「……ごめん、リビア」
俺がそう言うと、彼女は首を横に振った。
「謝らなくていいの。ただ、私にも話してほしかっただけよ」
彼女はそう言って、俺の手を両手で包み込んだ。
「あなたが悩んでいるなら、私も一緒に考えたいの。だって、私たちは婚約者でしょう?」
俺はその言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
「……うん。そうだね」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
その表情を見ていると、胸の奥にあった不安が少しずつ和らいでいく。
「俺、まだ自分の立場に慣れていないところがあるんだと思う」
俺は正直に話した。
「シルフィール家の養子になって、学院へ通うようになって、リビアの婚約者にもなった。でも、昔の自分を思い出すと、今の俺が本当にここにいていいのかなって考えることがある」
リビアは何も言わず、俺の話を聞いていた。
俺は少しだけ視線を落とした。
「……リビアのことが大切だからこそ、俺のせいで何か言われるのが嫌なんだ」
言葉にすると、胸の奥が少し苦しくなった。
けれど、リビアは俺の手を離さなかった。
「……セス」
彼女はゆっくりと俺の名前を呼んだ。
「あなたがそう思ってくれることは、嬉しいわ。でも、私を守るために、あなた自身が私の隣から離れようとするのは嫌よ」
その言葉に、俺は顔を上げた。
リビアはまっすぐ俺を見つめている。
「私は、あなたに隣にいてほしいの。誰かに認めてもらうためだけじゃなくて、私自身がそう望んでいるから」
俺は彼女の目を見つめ返した。
そこには、迷いのない気持ちがあった。
俺はゆっくりと息を吸い、言葉を探した。
「……俺も、リビアの隣にいたい」
そう答えると、彼女の表情が柔らかくなった。
「ええ。知っているわ」
リビアは少し照れたように微笑んだ。
「でも、何度聞いても嬉しいものね」
俺はその言葉に、思わず笑ってしまった。
彼女もつられるように笑う。
窓の外では、風に揺れた木々の葉が光を受けて輝いていた。
俺たちはしばらく、そのまま手を繋いでいた。
◇
午後の授業は、予定どおり魔術理論の復習から始まった。
エレナ先生は教室の前に立ち、魔力の流れを安定させるための基本的な考え方について説明していた。
「魔法を扱うとき、重要なのは魔力量の多さだけではありません。自分がどの程度の魔力を、どのような状態で扱っているのかを理解することが大切です」
先生はそう言って、黒板に簡単な図を描いた。
魔力を一度に大量に流す場合と、少しずつ安定して流す場合の違い。
それぞれに適した場面があり、状況によって必要な判断が変わること。
俺はその説明を聞きながら、午前中の出来事を思い返していた。
魔法も、人との関係も、単純に力があればいいというものではない。
どのように使うのか。
何のために使うのか。
そして、その結果として何が起きるのか。
そうしたことを考える必要があるのだろう。
「シルフィール。何か気づいたことはありますか?」
先生から声をかけられ、俺は顔を上げた。
「はい。魔力を多く使えることと、正しく使えることは別なのだと思いました。状況に合わせて、必要な量や流し方を考えることが大切なのだと思います」
俺が答えると、エレナ先生は頷いた。
「そのとおりです。では、もう一つ考えてみましょう。自分の魔力制御に自信がある場合でも、ほかの人と一緒に魔法を扱うときには、何に気をつける必要があるでしょうか」
俺は少し考えた。
自分一人なら、魔力の流れを自分の感覚で調整できる。
けれど、ほかの人と一緒に魔法を扱う場合には、相手の状態や能力も考えなければならない。
「……相手の魔力量や制御の仕方を、勝手に自分と同じだと思わないことだと思います」
俺がそう答えると、先生は穏やかに微笑んだ。
「よい答えですね。相手が何を得意とし、何を難しいと感じているのかを理解しようとすることは、協力して魔法を扱ううえでも重要です」
その言葉に、教室の何人かが頷いた。
俺は席へ座り直しながら、隣のリビアへ目を向けた。
彼女は俺の視線に気づくと、小さく微笑んだ。
リビアは無属性魔法の結界を得意としている。
俺は五属性の魔法を扱えるけれど、彼女の結界魔法については、まだ知らないことが多い。
いつか一緒に魔法を扱う機会があったとしても、互いの力を理解することが大切なのだろう。
先生はそのあとも、具体的な実習へ進む前に必要な基礎知識について説明を続けた。
来月予定されている二属性を扱う実習の詳細は、まだ発表されなかった。
俺は今日の授業で教わったことを手帳へ書き留め、次に確認したいことを整理した。
◇
授業を終えたあと、俺たちは教室で帰宅の準備をしていた。
ガレスは鞄へ教科書をしまいながら、少し考え込んだ様子で口を開いた。
「なあ、セス。朝のことなんだけどさ」
俺は顔を上げた。
「うん?」
「……ああいうこと、これからもあるのかな」
ガレスの表情は真剣だった。
俺は少し考えたあと、正直に答えた。
「あるかもしれないね。俺とリビアの婚約を不思議に思う人は、ほかにもいるだろうし」
ガレスは少し眉を寄せた。
「そうだよな。でも、だからって、何でも聞いていいってわけじゃないだろ?」
サザリーが静かに頷いた。
「そうだね。疑問を持つこと自体は自然でも、相手の立場や気持ちを考えずに質問すれば、失礼になることもある」
エミリアも穏やかに口を開いた。
「特に、婚約のような大切なことについては、本人たちがどこまで話したいと思っているのかも考える必要がありますね」
俺は友人たちの言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなった。
朝の出来事を、彼らは自分たちなりに考えてくれていた。
それが嬉しかった。
「……ありがとう、みんな」
俺がそう言うと、ガレスは少し照れくさそうに笑った。
「別に礼を言われるようなことじゃないって。俺たちは友達だろ?」
その言葉に、俺は思わず目を見開いた。
友達。
今では当たり前のように使っている言葉だけれど、昔の俺には遠いものだった。
誰かと一緒に笑ったり、悩んだり、互いのことを心配したりする。
そんな関係を持てることが、今でも時々不思議に感じられる。
「……うん。そうだね」
俺が微笑むと、ガレスも嬉しそうに笑った。
リビアはその様子を見つめながら、穏やかに目を細めていた。
◇
パウリー公爵邸へ戻った頃には、空が少しずつ夕暮れの色へ変わり始めていた。
俺はいつもどおり父さんへ帰宅の報告をするため、執務室へ向かった。
扉を叩くと、中から落ち着いた声が返ってきた。
「どうぞ」
俺は扉を開け、一礼して部屋へ入った。
父さんは執務机の上に置かれた書類を確認していたが、俺の姿を見ると穏やかに微笑んだ。
「お帰りなさい、クルセス。今日も無事に戻られたようですね」
「ただいま、父さん。今日は授業も予定どおり終わったよ」
俺が答えると、父さんは頷いた。
「それは何よりです。何か報告しておくべきことはありますか?」
俺は少し迷った。
朝の出来事を、父さんへ話すべきだろうか。
相手の男子生徒は、最後には自分の質問が踏み込みすぎだったと気づいたようだった。
大きな問題になったわけでもない。
けれど、俺自身は少し考え込んでしまった。
父さんに話せば、何か助言をもらえるかもしれない。
「……父さん。少し相談してもいい?」
俺がそう尋ねると、父さんは書類を脇へ置いた。
「もちろんです。どうしましたか?」
俺は朝の出来事を、できるだけ正確に説明した。
別の教室の男子生徒から、俺とリビアの婚約について質問されたこと。
俺の出自を気にしている様子だったこと。
リビアが落ち着いて答えてくれたこと。
そして、相手が最後には礼をして去っていったこと。
父さんは途中で口を挟まず、静かに話を聞いてくれた。
「……なるほど。そのようなことがあったのですね」
俺が話し終えると、父さんは少し考えるように目を伏せた。
「クルセス。まず、あなたがその出来事を相談してくれたことを、私は嬉しく思います」
俺は少し驚いた。
「……そうなの?」
「ええ。以前のあなたなら、こうしたことを自分一人で考え、何とかしようとしたかもしれませんから」
その言葉に、俺は苦笑した。
確かに、以前ならそうしていたと思う。
「……うん。そうかもしれない」
父さんは穏やかに頷いた。
「では、一つだけお伝えしましょう。あなたの出自は、恥じるべきものではありません」
俺は顔を上げた。
父さんはまっすぐ俺を見つめている。
「あなたがどこで生まれ、どのような暮らしをしてきたのか。それは変えられない過去です。しかし、その過去があるからこそ、今のあなたがいるのです」
俺は静かに頷いた。
「……はい」
「そして、あなたは今、シルフィール家の一員です。私の息子であり、パウリー公爵家で学ぶ者でもあります。その立場に伴う責任はありますが、だからといって過去を否定する必要はありません」
父さんの言葉が、胸の奥へゆっくりと染み込んでいく。
俺はこれまで、自分の出自を恥ずかしいと思ったことはないつもりだった。
けれど、リビアの隣に立つことを考えると、どうしても不安になることがあった。
その気持ちを、父さんは理解してくれているのかもしれない。
「……父さん。俺、リビアの隣に立つのに、まだ足りないものがたくさんあると思うんだ」
俺がそう言うと、父さんは静かに頷いた。
「そうでしょうね。あなたはまだ十五歳です。これから学ぶべきことは、いくらでもあります」
その返答は、思っていたよりも率直だった。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
父さんは穏やかに続けた。
「ただし、それはオリビアお嬢様も同じです。お二人とも、これから成長していく途中なのですから」
俺は少し驚いた。
リビアは、俺から見れば何でもできる人だった。
学問も、剣術も、魔法も。
公爵令嬢としての振る舞いも、いつも堂々としている。
けれど、父さんの言うとおり、リビアも俺と同じ十五歳なのだ。
「……そうだね」
「ええ。ですから、今の時点で何もかも完成している必要はありません。大切なのは、互いに学び、支え合いながら、将来へ向けて歩んでいくことです」
俺はその言葉を聞き、胸の奥が少し軽くなった。
父さんは最後に、穏やかな声で付け加えた。
「それから、婚約に関する正式な事柄については、あなた一人で判断する必要はありません。必要なときには、旦那様や私へ相談してください」
「……うん。分かった。ありがとう、父さん」
俺がそう答えると、父さんは満足そうに微笑んだ。
「よろしい。今日は少し考えることが多かったでしょう。夕食までの時間は、無理をせず過ごしなさい」
俺は一礼し、執務室をあとにした。
◇
夕食前、俺はリビアと小さな居間で過ごしていた。
窓の外では夕日が庭園の石畳を赤く染め、遠くから使用人たちが夕食の準備を進める音が聞こえている。
リビアは長椅子に腰を下ろし、俺が隣へ座るのを待っていてくれた。
「セス。グレイヴとお話ししてきたの?」
「うん。今日のことを少し相談してきたんだ」
俺が答えると、リビアは穏やかに微笑んだ。
「そう。何か、気持ちが軽くなったかしら?」
「……うん。父さんに、俺もリビアも、まだこれから学んでいく途中なんだって言われたよ」
その言葉に、リビアは少し驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと微笑む。
「……ええ。本当に、そのとおりね」
彼女はそう言って、俺の隣へ少し近づいた。
「私も、まだ知らないことがたくさんあるわ。公爵家の娘として学んできたことはあるけれど、セスと一緒に生きていくために必要なことを、全部知っているわけではないもの」
俺はその言葉を聞き、静かに頷いた。
「……俺も同じだよ」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、これから一緒に学んでいきましょう。誰かに何か言われても、私たち自身がどうしたいのかを忘れないように」
俺は彼女の顔を見つめた。
朝、男子生徒から質問されたとき、俺は自分の立場について少し不安になった。
けれど、今はその不安が、少し違う形へ変わっている。
俺はリビアの隣に立ちたい。
そのために、もっと学びたい。
自分に足りないものを知り、少しずつ身につけていきたい。
それは、誰かに認めてもらうためだけではない。
リビアと一緒に、これから先の時間を歩んでいきたいからだ。
「……リビア」
「なあに、セス?」
「俺、今日のことで少し考えたんだ。誰かに何か言われることは、これからもあるかもしれない。でも、そのたびに自分の立場を疑うんじゃなくて、今の俺にできることを考えたい」
俺がそう言うと、リビアは静かに頷いた。
「ええ。それがいいと思うわ」
「それに……俺は、リビアの隣にいたいから、これからも学んでいきたいんだ」
言い終わった瞬間、少し恥ずかしくなった。
けれど、リビアは目を見開いたあと、ゆっくりと頬を染めた。
「……セス」
彼女は小さく俺の名前を呼んだ。
その声には、嬉しさと照れくささが混ざっているようだった。
「あなた、本当に……そういうことを自然に言うのね」
「……また何か変なことを言った?」
「いいえ。とても嬉しいことを言ってくれたのよ」
リビアはそう言って、俺の手をそっと握った。
俺も、その手を握り返す。
彼女の指先は温かかった。
「私も、あなたの隣にいたいわ。これから先も、ずっと」
その言葉を聞いたとき、胸の奥がゆっくりと満たされていくのを感じた。
俺は彼女の顔を見つめ、自然と微笑んだ。
「……うん。俺もだよ」
リビアは嬉しそうに微笑み、俺の肩へそっと頭を寄せた。
俺は少し驚いたが、彼女が安心してくれているのだと分かると、自然と肩の力が抜けた。
窓の外では、夕日が庭園の向こうへ沈みかけている。
遠くからは、夕食の準備を知らせる足音が聞こえていた。
俺たちはそのまま、しばらく静かな時間を過ごした。
誰かにどう思われるか。
これから先、どんな問題が起きるのか。
まだ分からないことは、たくさんある。
けれど、今の俺には、一つだけ確かなことがあった。
リビアの隣にいたい。
その気持ちは、誰かに言われたから生まれたものではない。
俺自身が、そう望んでいるのだ。
そして、リビアも同じ気持ちでいてくれる。
それだけで、今は十分だった。
俺は彼女の手を握りながら、これからも少しずつ学んでいこうと思った。
いつか、自分の立場について不安になることがあっても。
誰かから疑問を向けられることがあっても。
そのたびに、一人で抱え込むのではなく、リビアと一緒に考えていきたい。
彼女が俺を支えてくれるように、俺も彼女を支えられる人でありたい。
そう思いながら、俺は夕暮れの光に包まれた彼女の横顔を、静かに見つめていた。




