↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
123/147

第123話 公爵令嬢様は、俺が守られる側になることにも慣れてほしいらしい


翌朝、パウリー公爵邸の窓を細かな雨粒が叩いていた。


昨夜のうちから空を覆っていた雲は、朝になっても薄くなる気配を見せず、庭園の石畳には濃い灰色の影が落ちている。雨脚そのものは強くなかったものの、時折吹き込む風が木々の枝を揺らし、葉先に溜まった水滴を次々と地面へ落としていた。


俺は自室の窓から庭園を眺めながら、制服の上着へ袖を通した。


学院へ向かう時間までは、まだ少し余裕がある。


机の上には、昨夜整理した授業の手帳が置かれていた。昨日の剣術の授業で教わったことや、ガレスと一緒に確認した踏み込みの感覚について書き留めたものだ。


それとは別に、最後のページには短い一文が残っている。


『自分の安全も、守るべきものに含める』


昨夜、リビアと話したあとに書いた言葉だった。


(……書いてみると簡単なんだけどな)


俺は手帳を閉じながら、少しだけ苦笑した。


誰かが危険な目に遭いそうになったとき、自分の安全まで考えて動く。


理屈では理解できる。


けれど、実際にそんな場面になったとき、俺がどこまで冷静に判断できるかは分からない。以前、学院でライゼルが暴走したときも、まず考えたのは周囲の生徒たちへ被害を出さないことだった。


あのときの判断がすべて間違っていたとは思わない。


ただ、自分が傷つく可能性をどれほど真剣に考えていたかと聞かれれば、胸を張って答えられる自信はなかった。


「……難しいな」


小さく呟いたところで、廊下から控えめな足音が聞こえてきた。


俺は手帳を鞄へしまい、身だしなみを整えてから部屋を出た。


すると、ちょうど廊下の向こうから歩いてきたリビアと目が合った。


「おはよう、セス。今日は雨ね」


「おはよう、リビア。うん。学院へ向かう頃にも降っていそうだね」


俺が答えると、彼女は窓の外へ目を向けた。


銀青色の髪が肩の上で揺れ、朝の薄い光を受けて柔らかく輝いている。いつもなら明るい日差しが差し込む廊下も、今日は雨雲のせいで少し暗く見えた。


「馬車なら濡れる心配は少ないけれど、乗り降りのときは気をつけないといけないわね」


「そうだね。石畳も滑りやすくなっているだろうし」


俺は自然と、リビアが馬車から降りるときのことを考えていた。


普段なら、彼女が足を滑らせないように周囲を確認し、必要なら手を差し出す。


それは俺にとって、長い間当たり前に続けてきたことだった。


けれど、リビアはそんな俺の顔を見つめると、少しだけ目を細めた。


「……セス。今、私が転ばないようにすることを考えていたでしょう?」


「えっ?」


思わず声が出た。


リビアは小さく笑う。


「やっぱり。あなた、私が雨の日の足元を気にすると、いつも少しだけ真剣な顔になるもの」


「……そんなに分かりやすいかな」


「ええ。私には、とても分かりやすいわ」


彼女は楽しそうに答えたあと、俺の袖口へそっと触れた。


「でもね、セス。今日はあなたも足元に気をつけてちょうだい。私ばかり見ていたら、あなたが転んでしまうかもしれないでしょう?」


「それは……気をつけるよ」


俺が頷くと、リビアは満足そうに微笑んだ。


「それなら安心ね。私だって、あなたが転びそうになったら手を貸したいもの」


その言葉を聞き、昨夜の会話が頭に浮かんだ。


誰かを守ること。


そして、自分自身も大切にすること。


リビアは、その両方を俺に覚えてほしいと思っているのだろう。


「……ありがとう、リビア」


「どういたしまして。さあ、朝食へ行きましょう。今日は少し肌寒いから、温かいものが嬉しいわね」


俺たちは並んで廊下を歩き始めた。


窓の外では、雨粒が庭園の木々を静かに濡らしている。


いつもと変わらない朝のはずなのに、リビアの言葉を聞いたあとは、少しだけ違う一日が始まるような気がした。


◇


朝食を終え、学院へ向かう準備を整えた頃には、雨脚が少し強くなっていた。


玄関前には馬車が用意され、御者が馬の様子を確かめている。屋根の端から落ちる雨水が石畳へ細い流れを作り、車輪の周囲には小さな水たまりができていた。


俺は玄関の内側で待っていたリビアへ声をかけた。


「リビア、馬車の準備ができたよ。足元が少し濡れているから、ゆっくり行こう」


「ええ。ありがとう、セス」


彼女は頷き、俺の隣へ並んだ。


玄関から馬車までは、それほど距離がない。


それでも雨の日には、滑りやすい場所を避けながら歩く必要がある。


俺はリビアへ手を差し出そうとした。


けれど、その瞬間、彼女が先に俺の手を取った。


「……リビア?」


「ふふ。今日は私から手を繋いでもいいでしょう?」


彼女は悪戯っぽく微笑んだ。


俺は少し驚きながらも、その手を握り返す。


「もちろん。でも、どうしたの?」


「昨日、あなたが自分のことも大切にしたいって言ってくれたでしょう? だから、私も少しずつ練習したいの」


「練習?」


「ええ。あなたに守ってもらうだけじゃなくて、私もあなたを支える練習よ」


俺は思わず彼女の顔を見つめた。


リビアは照れたように頬を染めていたが、その目は真剣だった。


「……そんなに大げさなことじゃないわ。ただ、今日は私から手を繋いでみたかっただけなの」


そう言って、彼女は少し恥ずかしそうに視線を逸らした。


俺は胸の奥が温かくなるのを感じながら、ゆっくりと頷いた。


「……うん。ありがとう。俺も嬉しいよ」


その言葉に、リビアは安心したように微笑んだ。


俺たちは互いの足元を確かめながら、馬車へ向かった。


乗り込むときには、いつもどおり俺が彼女へ手を貸した。


けれど、今日はそれだけではなかった。


リビアが座席へ腰を下ろしたあと、俺が乗り込もうとすると、彼女は当然のように手を差し出してくれたのだ。


「セスも、気をつけてね」


「……うん」


俺は少し照れくさくなりながら、その手を取った。


馬車の扉が閉じられ、車輪がゆっくりと動き始める。


窓の外では、雨に濡れた街路樹が静かに揺れていた。


俺は隣に座るリビアへ目を向ける。


彼女は満足そうに微笑み、俺の手をそっと握り直した。


(……守られる側になるって、こういうことなのかな)


まだ少し慣れない。


けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。


◇


学院へ到着すると、正門付近には傘を手にした生徒たちが集まっていた。


雨は朝よりも弱くなっていたが、空は相変わらず灰色で、校舎の屋根からは細かな水滴が落ち続けている。


俺たちは馬車を降り、屋根のある通路を通って校舎へ向かった。


教室へ入ると、ガレスが窓際で外を眺めていた。


「おう、セス。今日は雨だな。午後まで降ってたら、外の訓練場は使えなさそうだ」


「おはよう、ガレス。そうだね。今日は屋内でできる内容になるかもしれないね」


俺が答えると、ガレスは少し残念そうに肩を落とした。


「昨日、足運びを少し直せたから、もう一回試してみたかったんだけどな」


サザリーが近くの席から顔を上げる。


「雨が止んでも、地面の状態によっては使えないだろうね。無理に練習して滑ったら、かえって危ないよ」


「分かってるって。昨日の先生の話もあるし、焦って変な癖をつけたくはないからな」


ガレスはそう答えながら、少し苦笑した。


俺はその様子を見て、昨日の練習を思い出した。


ガレスは、自分の課題を見つけてから、以前よりも慎重に動きを確認するようになっていた。


できるようになりたいという気持ちが強いからこそ、焦らず練習することも大切なのだろう。


「それに、屋内でもできることはあると思うよ。先生がどんな内容を予定しているか分からないけど」


俺がそう言うと、ガレスは頷いた。


「そうだな。まずは今日の授業を聞いてから考えるか」


そのとき、エミリアが教室へ入ってきた。


彼女は濡れた傘を所定の場所へ置き、制服の袖口を軽く整えてから俺たちの方へ歩いてきた。


「おはようございます。今日は少し肌寒いですね」


「おはよう、エミリア。雨が降っているから、余計にそう感じるのかもしれないね」


俺が答えると、彼女は穏やかに微笑んだ。


「ええ。今朝は校舎の入口も少し混み合っていました。傘を畳む場所で立ち止まる生徒が多かったので、後ろの人が通りにくくなっていたようです」


その言葉に、サザリーが少し興味深そうな表情を浮かべた。


「なるほど。雨の日は普段と人の動きが変わるからね。入口の幅が同じでも、傘を畳む動作が加わるだけで通りにくくなるのか」


「そうですね。普段なら気にならない場所でも、状況が変わると使いにくくなることがあるのだと思いました」


エミリアの説明を聞き、俺は以前、学院の図書室で案内表示について考えたことを思い出した。


場所の使いやすさは、そこを利用する人の動きによって変わる。


図書室の案内板も、利用する人によって分かりやすさが違うことがあった。


雨の日の校舎入口も、それと似た部分があるのかもしれない。


「……確かに、普段と違う状況になると、気づくこともあるんだね」


俺がそう呟くと、リビアが隣で微笑んだ。


「ええ。でも、気づいたことをすぐに変えようとするのではなく、まずは何が起きているのかを確かめることが大切なのでしょうね」


その言葉に、俺は頷いた。


最近、父さんからも何度か教わったことだった。


気づくことと、判断することは同じではない。


まして、学院の設備や通路の使い方については、担当する人たちの考えもある。


「そうだね。今日は雨だから、いつもと違うところに気づくかもしれないけど、まずは自分たちが安全に過ごすことを考えよう」


俺がそう答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「ふふ。セスがそう言ってくれると、少し安心するわ」


俺はその言葉に、少しだけ照れくさくなった。


◇


午前中の授業が終わる頃には、雨がほとんど止んでいた。


雲の切れ間から淡い光が差し込み、窓ガラスに残った水滴が小さく輝いている。


昼休みになり、俺たちはいつものように食堂へ向かった。


食堂は雨の日だからか、普段よりも少し混み合っていた。


屋外で昼食を取る生徒が少ないのだろう。


俺たちは空いている席を探し、サザリーやガレス、エミリアと一緒に腰を下ろした。


「そういえば、午後の授業はどうなるんだろうな」


ガレスが食事を取りながら尋ねた。


サザリーは少し考えたあと、穏やかに答えた。


「先生からまだ連絡はないけれど、雨が止んでも訓練場の状態次第だろうね。屋内でできる内容へ変更される可能性もあると思う」


「そうだよな。まあ、どっちでもいいけどさ」


ガレスはそう言いながらも、少し名残惜しそうに窓の外を見た。


俺はその様子を見て、思わず微笑んだ。


「昨日の練習、かなり手応えがあったんだね」


「そりゃあな。ずっと気になってたところが、少し分かってきたんだ。早くもう一回試してみたいって思うだろ?」


ガレスは楽しそうに笑った。


その表情を見ていると、俺まで嬉しくなる。


けれど、そこでリビアが俺の方へ視線を向けた。


「セスも、何か新しくできるようになると、すぐに試してみたくなるでしょう?」


「……うん。そうかもしれない」


俺が答えると、彼女は少し悪戯っぽく微笑んだ。


「だからこそ、今日はガレス様と一緒に、焦らず授業を受けてね」


「分かってるよ、リビア」


俺は苦笑しながら頷いた。


ガレスは俺たちのやり取りを聞き、楽しそうに笑った。


「ははっ。セスもオリビア様には敵わないんだな」


「……敵うとか、そういう話じゃないと思うけど」


俺がそう答えると、リビアは少しだけ頬を染めた。


「もう、ガレス様。セスを困らせないでくださいな」


その言葉に、ガレスは慌てて姿勢を正した。


「す、すみません。そんなつもりじゃなかったんですけど……」


サザリーとエミリアが顔を見合わせ、穏やかに笑う。


俺もつられて笑ってしまった。


こうして友人たちと過ごす時間は、いつの間にか俺にとって大切なものになっていた。


以前の俺なら、誰かと食事をしながらこんなふうに笑い合うことを、想像できなかったかもしれない。


けれど、今はそれが当たり前のように感じられる。


(……俺も、ずいぶん変わったんだな)


そう思うと、少し不思議な気持ちになった。


◇


午後の授業は、予定を一部変更して屋内で行われることになった。


訓練場の地面がまだ湿っており、足を滑らせる危険があるためだった。


指導教員は生徒たちを屋内訓練室へ集め、今日は基本姿勢と重心移動の確認を中心に行うと説明した。


「昨日までの練習で、動きを速くすることばかり意識していた者もいるだろう。今日は、速さを求めずに自分の姿勢を確かめる。特に、踏み込んだあとに次の動作へ移れる状態を保つことを意識しなさい」


先生の説明を聞き、ガレスが小さく頷いた。


俺も木剣を手に取り、指定された位置へ移動した。


屋内訓練室は広く、床には滑りにくい素材が使われている。


壁際には訓練用具が整然と並べられ、窓から差し込む柔らかな光が床の一部を明るく照らしていた。


先生はまず、生徒たちへゆっくりとした踏み込みを行わせた。


俺は昨日教わったことを思い出しながら、足の位置と重心の移動を確かめる。


速く動くことは難しくない。


けれど、ゆっくり動くと、普段は意識していない部分がよく分かる。


踏み込む前に、どの程度膝を曲げているのか。


体重をどちらの足へ乗せているのか。


木剣を構えた腕が、動きに合わせてどのように変化しているのか。


そうしたことを一つずつ確かめていると、普段の動きが思っていた以上に多くの要素で成り立っていることに気づかされた。


「シルフィール。少しこちらへ来なさい」


先生から声をかけられ、俺は木剣を下ろして近づいた。


「はい、先生」


「君は動きが安定しているが、今日は少し違うことを試してみよう」


先生はそう言って、床に置かれた小さな目印を示した。


「この位置から、指定したところまでゆっくり移動してみなさい。ただし、途中で私が合図を出したら、その場で止まること」


「分かりました」


俺は指定された位置へ立ち、木剣を構えた。


先生の合図に合わせて、ゆっくりと前へ進む。


途中で停止の指示が出され、俺は重心を整えながら動きを止めた。


先生は俺の姿勢を確認し、頷いた。


「いいね。では、もう一度。今度は少し違う位置で止める」


俺は再び動き始めた。


今度は踏み込みの途中で合図が出される。


俺は足の位置を調整し、無理なく停止した。


先生はその様子を見て、少し考えるように顎へ手を当てた。


「なるほど。君は動きの途中でも、重心を調整するのが上手いようだね」


「ありがとうございます」


「ただし、今の動きは、慣れていない者が無理に真似すると姿勢を崩すこともある。君自身も、できるからといって無理な動きを続けないようにしなさい」


俺はその言葉に、少し驚いた。


先生は穏やかに続けた。


「自分の体を正確に動かせることと、無理をしていいことは別だ。訓練では、できることを増やすだけでなく、危険を避ける判断も身につける必要がある」


俺はその言葉を聞き、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


昨夜、リビアと話したことが頭に浮かんだ。


自分自身も大切にすること。


誰かを守るために、自分の安全を軽く考えないこと。


先生の言葉は、まるでその続きを教えてくれているようだった。


「……はい。気をつけます」


俺が真剣に答えると、先生は満足そうに頷いた。


「よろしい。では、元の位置へ戻って練習を続けなさい」


俺は一礼し、自分の区画へ戻った。


少し離れた場所では、ガレスがサザリーと一緒に姿勢を確認していた。


リビアもエミリアと向き合い、互いの動きを見ながら練習を続けている。


俺はその様子を眺めながら、ゆっくりと息を整えた。


(……できることが多いからこそ、気をつけないといけないこともあるんだな)


そう考えると、今日の授業はいつも以上に意味のあるものに感じられた。


◇


授業を終えて校舎へ戻る頃には、雨は完全に止んでいた。


雲の切れ間から夕方の光が差し込み、濡れた石畳が淡く輝いている。


俺はリビアと並んで廊下を歩きながら、今日の授業で先生から言われたことを話していた。


「……それで、できることと無理をしていいことは別だって言われたんだ」


俺がそう説明すると、リビアは少し驚いたように目を見開いた。


「まあ。先生も、そんなふうにおっしゃっていたのね」


「うん。俺も、少し考えさせられたよ」


俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「それなら、今日の授業はとても大切な時間になったわね」


「そうだね。昨日の話ともつながっている気がする」


俺は窓の外へ目を向けた。


雨上がりの中庭には、まだ小さな水たまりが残っている。


その周囲を、生徒たちが足元に気をつけながら歩いていた。


「……リビア」


「なあに、セス?」


「俺、今まで自分ができることばかり考えていたのかもしれない」


俺がそう言うと、リビアは静かにこちらを見つめた。


「できること?」


「うん。誰かが困っていたら、自分に何ができるかを考える。危険なことが起きたら、どうすれば止められるかを考える。でも、そのとき自分が無理をしていないかどうかは、あまり考えていなかった気がするんだ」


言葉にしてみると、自分でも少し驚いた。


俺はずっと、誰かを助けることは大切だと思っていた。


それは今でも変わらない。


けれど、そのために自分が無理をしてしまえば、かえって周囲の人たちへ心配をかけることになる。


リビアは俺の話を聞き、ゆっくりと頷いた。


「……ええ。私も、そう思うことがあったわ」


彼女の声は、いつもより少しだけ静かだった。


俺はその表情を見つめる。


リビアは窓の外へ視線を向け、しばらく考えるように黙っていた。


「セスが誰かを助けようとするところ、私はとても好きよ。あなたが優しい人だって、よく分かるから」


彼女はそこで一度言葉を止めた。


それから、俺の方へ向き直る。


「でもね、あなたが危険な目に遭うかもしれないと思うと、私はとても怖くなるの」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられるような気がした。


俺はリビアを守りたいと思っている。


彼女が傷つくことを想像するだけで、落ち着かなくなる。


けれど、リビアも同じように俺のことを心配してくれているのだ。


それを、頭では分かっていたつもりだった。


「……ごめん、リビア」


俺がそう言うと、彼女はすぐに首を横に振った。


「謝らなくていいのよ。私は、あなたが誰かを助けようとすることを責めたいわけではないもの」


リビアはそう言って、俺の手へそっと触れた。


「ただ、あなたが自分のことも守ろうとしてくれたら、私はもっと安心できると思うの」


俺は彼女の手を握り返した。


その温かさが、胸の奥へゆっくりと広がっていく。


「……うん。俺も、そうなりたい」


俺が答えると、リビアは安心したように微笑んだ。


「ありがとう、セス」


俺たちはしばらく、そのまま静かに立っていた。


廊下の向こうでは、帰宅する生徒たちの声が聞こえている。


雨上がりの空気は少し冷たかったが、リビアの手は温かかった。


◇


パウリー公爵邸へ戻ったあと、俺は父さんへ帰宅の報告を済ませた。


父さんは執務机の上に置かれた書類を確認していたが、俺の姿を見ると穏やかに頷いた。


「お帰りなさい、クルセス。今日は雨でしたが、学院で問題はありませんでしたか?」


「ただいま、父さん。大丈夫だったよ。午後の授業は屋内に変更されたけど、特に問題はなかった」


俺が答えると、父さんは安心したように微笑んだ。


「それなら何よりです。雨の日は普段と違う危険もありますから、無事に戻られたことを嬉しく思います」


その言葉を聞き、俺は少し考え込んだ。


父さんも、俺が無事に帰ってくることを大切に思ってくれている。


当たり前のことなのかもしれない。


けれど、今日の俺には、その言葉がいつも以上に深く響いた。


「……父さん」


「何でしょう?」


「今日、学院の先生から、自分ができることと無理をしていいことは別だって教わったんだ」


父さんは少し興味深そうに眉を上げた。


「ほう。それは、良い言葉ですね」


「うん。俺、今まで自分ができることばかり考えていた気がするんだ。でも、無理をしてまでやるべきかどうかは、ちゃんと考えないといけないんだよね」


俺がそう話すと、父さんはしばらく黙って俺を見つめていた。


その表情は穏やかだったが、どこか嬉しそうにも見えた。


「……クルセス。あなたがそのように考えられるようになったことを、私は嬉しく思います」


父さんはゆっくりと口を開いた。


「人を助けることは立派な行いです。しかし、助けようとする者が自分の限界を見誤れば、かえって多くの人を危険に巻き込むこともあります」


俺は真剣に頷いた。


「はい」


「だからこそ、何ができるかだけでなく、何をすべきか、何を他者へ任せるべきかを考える必要があるのです」


その言葉は、最近父さんから教わってきたこととも重なっていた。


自分だけで判断しないこと。


必要なときには相談すること。


そして、相手の役割や立場を尊重すること。


それらはすべて、自分の力を正しく使うために必要なことなのだろう。


「……ありがとう、父さん。俺、これからも気をつけるよ」


俺がそう答えると、父さんは穏やかに微笑んだ。


「ええ。ただし、急にすべてを変えようとする必要はありません。日々の中で少しずつ身につけていけばよいのです」


俺はその言葉に、深く頷いた。


◇


夕食までの時間、俺はリビアと小さな居間で過ごしていた。


窓の外では雨雲が少しずつ薄くなり、庭園の向こうに淡い夕焼けが広がり始めている。


俺たちは並んで長椅子へ腰を下ろし、今日の授業について話していた。


「父さんにも、今日のことを話したんだ」


俺がそう言うと、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「まあ。グレイヴは何とおっしゃっていたの?」


「何ができるかだけじゃなくて、何をすべきか、何をほかの人へ任せるべきかも考える必要があるって」


俺が答えると、リビアは静かに頷いた。


「……ええ。本当に、そのとおりだと思うわ」


彼女は少し考え込んだあと、俺の方へ体を向けた。


「ねえ、セス。もし私が困っていたら、あなたはきっと助けようとしてくれるでしょう?」


「もちろんだよ」


俺は迷わず答えた。


すると、リビアは少しだけ微笑んだ。


「それなら、私も同じよ。あなたが困っていたら、私だって助けたいの」


その言葉に、俺は少し驚いた。


リビアは俺の手をそっと取る。


「だから、これからは私にも頼ってね。あなたが全部を一人で抱え込まなくてもいいように、私も隣にいるのだから」


俺はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


リビアは、俺が守るべき大切な人だ。


けれど、同時に、俺を支えてくれる大切な人でもある。


そのことを、今日ほどはっきり感じたことはなかったかもしれない。


「……うん。ありがとう、リビア」


俺がそう答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「ふふ。どういたしまして」


俺たちはしばらく、そのまま手を繋いでいた。


窓の外では、雨上がりの庭園が夕日に照らされている。


濡れた葉が柔らかく輝き、遠くからは使用人たちが夕食の準備を進める音が聞こえてきた。


俺はその穏やかな景色を眺めながら、今日一日を振り返った。


守ること。


守られること。


誰かを助けること。


そして、自分自身を大切にすること。


どれも、まだ十分に理解できているわけではない。


けれど、少しずつ分かってきたこともある。


俺が誰かを大切に思うように、俺のことを大切に思ってくれる人たちがいる。


その気持ちを、俺もちゃんと受け取っていきたい。


「……リビア」


「なあに、セス?」


「俺、これからもリビアを守りたいと思う。でも、リビアが俺を支えてくれることも、ちゃんと受け取れるようになりたい」


俺がそう言うと、リビアは少し驚いたように目を見開いた。


それから、ゆっくりと微笑んだ。


「……ええ。それが、私の望んでいたことよ」


彼女の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


俺はその表情を見つめながら、自然と微笑んだ。


まだ慣れないことは、たくさんある。


けれど、リビアと一緒なら、少しずつ変わっていける気がする。


俺たちは夕食の時間が近づくまで、互いの手を離さず、穏やかな時間を過ごした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。