第122話 公爵令嬢様は、俺が誰かを守る理由をもう少し知りたいらしい
翌朝、パウリー公爵邸の廊下には、いつもと変わらない穏やかな空気が流れていた。
磨き上げられた窓から差し込む朝日が、壁際に飾られた花瓶の輪郭を柔らかく照らしている。遠くからは使用人たちが仕事の確認をする声が聞こえていたが、誰も慌ただしく走り回ることはなく、それぞれが決められた役割に従って一日を始めているようだった。
俺は自室の扉を閉め、制服の袖口を整えながら廊下を歩いていた。
昨夜、リビアと話したことが、まだ頭の片隅に残っている。
互いの知らないことを、これから少しずつ知っていきたい。
彼女はそんなふうに言ってくれた。
俺も同じ気持ちだったし、これから先も二人で学んでいけるのなら、それはきっと幸せなことなのだろう。
ただ、一つだけ気になっていることがあった。
(……俺は、自分のことをどのくらい分かっているんだろうな)
昨日の魔術理論の授業では、使い慣れた魔法の感覚を説明することさえ難しかった。
それなら、魔法以外のことはどうだろう。
例えば、俺が誰かの危険に気づいたとき、つい先に体を動かしてしまうこと。リビアを守りたいと思うことや、困っている人を見かけると放っておけないことも、自分では当たり前のように感じている。
けれど、その理由をきちんと言葉にできるかと聞かれたら、少し自信がなかった。
そんなことを考えているうちに、前方の廊下から見慣れた銀青色の髪が現れた。
「おはよう、セス。今日は少し早いのね」
リビアは俺の姿を見つけると、嬉しそうに微笑んだ。
淡い朝日を受けた髪が肩の上で揺れ、その表情を見ただけで、考え込んでいた気持ちが少し軽くなる。
「おはよう、リビア。昨日の授業のことを考えていたら、いつもより早く準備が終わったんだ」
「まあ。もしかして、夜遅くまで考えていたわけではないでしょうね?」
彼女は微笑んだまま尋ねたが、俺の顔を見つめる目には、少しだけ心配そうな色があった。
俺は慌てて首を横に振る。
「大丈夫だよ。昨日はリビアが部屋に戻ったあと、手帳を少し整理してから寝たんだ。ちゃんと休んでいるから安心して」
「それならいいのだけれど……。セスは、何か気になることがあると、つい最後まで考えてしまうでしょう?」
そう言われると、否定しにくかった。
以前の俺なら、分からないことがあれば、納得できるまで調べようとしていたと思う。最近は父さんやリビアに注意されて、少しずつ自分の時間の使い方を考えるようになったけれど、まだ完全に身についているわけではない。
「……うん。気をつけるよ。でも、昨日はちゃんと途中で切り上げたから」
俺がそう答えると、リビアは安心したように息をついた。
「ええ。それなら安心したわ。あなたが学ぶことを楽しんでいるのは、私も嬉しいもの。ただ、楽しさに夢中になって休むことまで忘れてしまったら、少し困ってしまうわね」
彼女の言葉には、責めるような響きはなかった。
むしろ、俺が何かに興味を持つこと自体は喜んでくれているのだと分かる。
俺は自然と微笑み、彼女の隣へ並んだ。
「ありがとう、リビア。今日は午後に剣術の授業もあるから、余計に気をつけないとね」
「そうだったわね。ガレス様も、前の授業で指摘された足運びを確認したいとおっしゃっていたでしょう?」
「うん。昨日の昼休みに、少し動きを見てほしいって頼まれたんだ。授業の内容次第だけど、先生の指導を受けながら確認できたらいいと思ってる」
リビアは俺の話を聞き、少し考えるように視線を上げた。
「セスが誰かに教えるところ、私も見てみたいわ」
「えっ? でも、俺は先生じゃないし、ガレスに何かを教えられるほど詳しいかどうか……」
「ふふ。教えるという言い方が違うなら、一緒に考えるところ、かしら。昨日、あなたは自分の魔法を説明するのが難しいと話していたでしょう? 剣術ではどうなのか、少し興味があるの」
なるほど、と俺は頷いた。
確かに、魔法と剣術では、自分の感覚を説明するときの難しさも違うかもしれない。
俺は剣術も幼い頃から学んできたが、父さんやほかの指導者から教わったことを、今でもすべて正確に説明できるとは限らない。
「……そうだね。俺も、どのくらい説明できるのか試してみたい気がする。ただ、ガレスの練習が優先だから、俺の勉強のために付き合わせないようにしないと」
俺がそう答えると、リビアは満足そうに頷いた。
「ええ。そういうところを、ちゃんと考えられるようになったのね」
その言葉が少し嬉しくて、俺は思わず彼女の顔を見た。
リビアは優しく微笑み、俺の袖口へそっと触れる。
「さあ、朝食へ行きましょう。今日も一緒に学院へ行けるのを楽しみにしていたのよ」
「俺もだよ、リビア」
俺たちは並んで廊下を歩き始めた。
窓の外では、庭園の木々が朝の風に揺れている。
今日もきっと、いろいろなことを学ぶ一日になるのだろう。
◇
学院へ到着すると、校舎の周囲には朝の活気が広がっていた。
正門を通り抜けた生徒たちは、それぞれ友人と話しながら教室へ向かっている。中庭の石畳には昨夜の冷え込みを思わせる薄い湿り気が残っていたが、空は明るく、午後の屋外授業にも支障はなさそうだった。
教室へ入ると、ガレスが机の上に紙を広げ、サザリーと何かを話していた。
俺たちに気づいたガレスが、勢いよく手を上げる。
「おう、セス! ちょうどよかった。昨日話してた足運びのことなんだけど、ちょっと確認したいところがあるんだ」
「おはよう、ガレス。何か分かったの?」
「いや、分かったっていうか、家で少し考えてみたんだよ。先生に言われたことを思い出して、どこが悪かったのか整理してみたんだけどさ」
ガレスは机の上の紙をこちらへ向けた。
そこには、剣を構えた人物を上から見たような簡単な図が描かれている。
足の位置と進む方向が線で示されており、いくつかの場所には小さな印がついていた。
「前に踏み込むとき、俺は右足を出すことばかり考えてたんだ。でも先生には、後ろの足が残っているって言われたんだよな」
俺は図を見つめながら、ガレスの説明を聞いた。
確かに、前へ踏み込むときには、最初に動かす足だけでなく、体重の移動や後ろ足の運び方も関係する。
ただし、実際の動きがどうなっているのかは、図だけでは分からない。
「なるほど。先生からは、ほかに何か言われた?」
「踏み込んだあと、次の動きへ移るのが遅いって。たぶん、後ろ足がついてこないからなんだろうけど……」
ガレスは少し悩ましそうに眉を寄せた。
サザリーが横から口を開く。
「昨日から何度も図を描き直していたみたいだよ。ただ、実際に動いているところを見ないと、どこが原因なのかは決められないと思う」
「俺もそう思う。今日の授業で先生に確認してもらうのが一番いいんじゃないかな」
俺が答えると、ガレスは頷いた。
「そうだよな。セスにも見てもらえたら助かるけど、まずは先生に聞いてみるよ」
その言葉を聞いて、俺は少し安心した。
以前の俺なら、頼まれた時点で何とか答えを出そうとしていたかもしれない。
けれど、ガレスの剣術を指導するのは先生の役割だ。俺が友人としてできるのは、彼の動きを一緒に見たり、自分が気づいたことを伝えたりするところまでだろう。
「うん。もし先生から許可があれば、俺も一緒に確認するよ」
そう言うと、ガレスは嬉しそうに笑った。
「助かるぜ。やっぱり、こういうことは一人で考えてても限界があるな」
エミリアも近くの席から顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「でも、ガレス様がご自分で考えてきたことは、きっと無駄にはならないと思います。先生へ質問するときにも、何を確かめたいのか説明しやすいでしょうから」
「そう言ってもらえると助かるな。昨日は結構悩んだからさ」
ガレスが照れくさそうに笑うと、教室の空気が少し和らいだ。
俺はその様子を見ながら、昨日の魔術理論の授業を思い出した。
自分の感覚を言葉にすること。
分からない部分を見つけること。
そして、必要なときには誰かへ質問すること。
魔法と剣術では扱うものが違うけれど、学び方には共通する部分があるのかもしれない。
◇
午前中の授業が進み、昼休みが近づく頃には、教室の窓から差し込む光が少し強くなっていた。
俺は授業で使った筆記具を片づけながら、午後の剣術について考えていた。
ガレスが気にしている足運びは、俺にとっても興味深い題材だった。
剣術では、相手との距離や重心の位置、次の動作へ移るための姿勢が重要になる。
けれど、俺自身はそうしたことを、どこまで意識しているのだろう。
幼い頃から訓練を重ねてきたせいか、今では考えるより先に体が動くことも多い。
その感覚を誰かへ説明するのは、昨日の魔法の課題と同じくらい難しいのかもしれなかった。
「セス、何を考えているの?」
隣から声をかけられ、俺は顔を上げた。
リビアがこちらを見つめている。
「午後の剣術のことだよ。ガレスの足運びを見ながら、俺も自分の動きを考えてみたいと思って」
「まあ。昨日の授業が、思っていた以上に役立っているみたいね」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「そうだね。魔法だけじゃなくて、剣術でも同じように考えられることがあるんだなって」
俺がそう答えると、彼女は少し考え込んだあと、ゆっくりと口を開いた。
「ねえ、セス。剣術を使うとき、あなたは何を一番大切にしているの?」
思いがけない質問だった。
俺はすぐに答えようとしたが、言葉が出てこなかった。
剣術で大切なこと。
相手の動きをよく見ること。
自分の姿勢を崩さないこと。
無駄な力を入れず、必要なときに正確に動くこと。
考えればいくつも浮かぶけれど、その中で何を一番大切にしているのかと聞かれると、簡単には決められない。
「……状況によると思う。訓練なら、正しい動きを身につけることが大事だし、試合なら相手の動きをよく見ることも必要だよね」
俺がそう答えると、リビアは静かに頷いた。
「ええ。それはそうね。でも、私が聞きたかったのは、技術のことだけではないの」
「技術だけじゃない?」
俺が首を傾げると、彼女は少しだけ視線を落とした。
その表情は、何かを迷っているようにも見えた。
「……セスは、誰かを守ろうとするとき、とても迷いなく動くでしょう?」
俺は彼女の言葉を聞き、胸の奥がわずかに緊張するのを感じた。
以前、学院でライゼルが暴走したときのことが、ふと頭をよぎった。
あのとき俺は、周囲の人たちに危険が及ばないようにすることを優先して動いた。
結果として大きな被害を出さずに済んだものの、あとから考えれば、もっと慎重に判断できた部分もあったかもしれない。
「……そう見える?」
「ええ。もちろん、あなたが何も考えずに動いているとは思っていないわ。ただ、誰かが危険な目に遭いそうになると、自分のことより先に、その人を助けようとするでしょう?」
リビアはそこで一度言葉を止めた。
教室にはまだ何人かの生徒が残っており、遠くからは昼休みに向かう足音が聞こえてくる。
彼女は周囲を少し見回してから、声を落として続けた。
「……私は、そんなセスをとても誇らしく思っているの。でも、同時に心配にもなるのよ」
俺はすぐには答えられなかった。
彼女が何を心配しているのかは、分かる気がした。
俺はこれまで何度も、自分よりほかの人の安全を優先してきた。
それが間違っているとは思わない。
けれど、リビアは俺自身の安全も大切にしてほしいと、何度も伝えてくれている。
「……リビア」
「ごめんなさい。今すぐ答えてほしいわけではないの。ただ、昨日あなたの魔法について考えていたら、ふと気になってしまって」
彼女は少し困ったように微笑んだ。
「セスがどうしてそんなふうに動けるのか、私、まだちゃんと聞いたことがなかったと思って」
俺はその言葉を胸の中で繰り返した。
どうして、誰かを守ろうとするのか。
それは、俺にとって当たり前のことだった。
困っている人がいれば助けたい。
危険が迫っているなら、できる限り止めたい。
けれど、その理由を言葉にしようとすると、思っていた以上に難しい。
(……俺は、どうしてそうするんだろう。誰かが傷つくのを見たくないからなのか。それとも、自分にできることをしないのが嫌だからなのか)
考えても、すぐには答えが出なかった。
俺が黙っていると、リビアは優しく微笑んだ。
「急がなくていいわ。昨日、知らないことは少しずつ学んでいこうって話したでしょう?」
「……うん」
「だから、セス自身にもまだ分からないことなら、一緒に考えましょう」
その言葉を聞いたとき、胸の奥にあった緊張が少し和らいだ。
俺は彼女の顔を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう、リビア。……俺も、ちゃんと考えてみたい」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
俺たちはそれ以上その話を続けず、昼食へ向かうために席を立った。
けれど、彼女からの質問は、そのあともずっと俺の心に残っていた。
◇
午後の剣術の授業は、学院の屋外訓練場で行われた。
広い訓練場には、一定の間隔を空けて練習用の区画が設けられている。地面はよく整えられており、足を踏み込んでも滑りにくいように管理されていた。
生徒たちは指導教員の指示に従い、訓練用の木剣を手に取って準備を進めていた。
俺も木剣を受け取り、軽く握り具合を確かめる。
隣ではガレスが足元を見つめながら、何度か小さく重心を移動させていた。
「……ガレス、今のうちに先生へ聞いてみる?」
俺が声をかけると、彼は頷いた。
「そうだな。今日こそ、どこが悪いのかちゃんと確かめたいし」
ガレスは指導教員のもとへ向かい、前の授業で指摘された内容について相談した。
先生は話を聞いたあと、実際の動きを見て確認しようと提案してくれた。
俺たちは指定された区画へ移動し、周囲の生徒たちが十分な距離を取っていることを確かめた。
「フォルナー。まずは普段どおりに踏み込んでみなさい。速さを出す必要はない。今は、足と体の動きがどうなっているかを確認する」
「はい!」
ガレスは木剣を構え、ゆっくりと前へ踏み込んだ。
右足を前へ出し、それに合わせて体を移動させる。
しかし、踏み込みを終えた瞬間、後ろ足が少し遅れて動き、上半身が前へ傾いた。
先生はその様子を見て、すぐに次の動作へ移らないよう指示した。
「今の姿勢のまま、少し止まってみなさい。自分の重心がどこにあるか分かるか?」
ガレスは足元を見つめ、少し考えた。
「……前の方に寄っている気がします」
「そうだね。踏み込むこと自体はできているが、そのあとに姿勢を整える動きが遅れている。前へ出ることばかり意識すると、次の動作へ移る準備が不足しやすいんだ」
先生は自分の足元を示しながら、ゆっくりと手本を見せてくれた。
踏み込みの前後で体の位置がどう変わるのか。
後ろ足をどのように運ぶと、次の動作へ移りやすいのか。
俺はその説明を聞きながら、ガレスの動きをもう一度思い返した。
確かに、彼は前へ進むことを強く意識しているようだった。
けれど、後ろ足の動きだけが問題というわけではない。
踏み込みの前に重心が少し高くなり、そのまま体を前へ押し出していることも関係しているのかもしれない。
「シルフィール。君も見ていただろう。何か気づいたことはあるか?」
先生から声をかけられ、俺は姿勢を正した。
「はい。ガレスは前へ踏み込む直前に、少し重心が高くなっているように見えました。その影響で、踏み込んだあとに姿勢を戻すのが難しくなっているのかもしれません」
俺がそう答えると、先生は頷いた。
「よく見ているね。ただし、今の段階では断定しない方がいい。本人の感覚も聞いてみよう」
先生はガレスへ向き直った。
「フォルナー。踏み込む前に、体が少し浮くような感覚はあるか?」
ガレスは少し考え込んだあと、眉を寄せた。
「……あります。勢いをつけようとして、少し体を起こしているかもしれません」
「なるほど。それなら、まずは踏み込む前の姿勢を整えるところから確認しよう。速さはあとでいい」
先生はそう言って、ガレスへもう一度構えるよう指示した。
今度は踏み込む前に重心の位置を確かめ、後ろ足の動きも意識しながら、ゆっくりと前へ進む。
先ほどより動きは小さくなったが、踏み込んだあとの姿勢は安定していた。
ガレスは驚いたように自分の足元を見つめる。
「……あれ? さっきより動きやすい気がします」
「そうだろう。ただし、今はゆっくり動いているからね。速さを上げても同じようにできるかどうかは、これから練習して確かめる必要がある」
先生の言葉に、ガレスは真剣な表情で頷いた。
「はい。ありがとうございます!」
俺はその様子を見ながら、少し安心した。
ガレスが悩んでいたことに、すぐ答えが出たわけではない。
けれど、どこを意識して練習すればいいのかは、少し明確になったようだった。
先生は俺の方へ視線を向ける。
「シルフィール。君も、自分の踏み込みをゆっくり確認してみなさい。普段できている動作でも、意識して行うと新しい発見があるかもしれない」
「はい、先生」
俺は指定された位置へ移動し、木剣を構えた。
いつもなら、相手との距離や次の動きを考えながら、自然に足を運んでいる。
けれど、今回は一つずつ動きを確かめるつもりで、ゆっくりと踏み込んでみた。
足の位置。
重心の移動。
木剣を構えた腕の角度。
動きの途中で体が傾いていないか。
意識してみると、普段は考えていないことがいくつもある。
(……なるほど。俺も、何も考えずに動いているわけじゃない。でも、どこまで意識しているのかは、やっぱり曖昧なんだな)
踏み込みを終えたところで、先生が声をかけてくれた。
「安定しているね。ただ、今の動きをどう説明するかと聞かれたら、難しい部分もあるだろう?」
「はい。実際に動くことはできますが、どの部分をどう意識しているのか、すべて説明するのは難しいです」
「それでいい。今日は、自分の動きを観察することにも意味がある。できることを当然だと思わず、必要に応じて見直していくといいだろう」
俺は深く頷いた。
先生の言葉は、昨日の魔術理論の授業とも重なっていた。
できることと、理解していることは同じではない。
そして、理解しているつもりでも、実際にはまだ知らない部分がある。
俺は木剣を握り直し、次の練習へ向けて姿勢を整えた。
◇
授業の後半では、二人一組になって基本動作を確認する時間が設けられた。
俺はガレスと組み、先生から指定された範囲で踏み込みと姿勢の確認を行った。
互いに木剣を向けて攻撃し合うのではなく、一定の距離を保ちながら、動きの前後で姿勢が崩れていないかを観察する練習だった。
「……よし。今度はどうだ?」
ガレスが踏み込みを終え、こちらへ尋ねた。
俺は彼の足元と上半身の位置を確かめる。
「さっきより安定していると思う。ただ、踏み込んだあとに少し肩へ力が入っているかもしれない」
「肩か……。確かに、後ろ足ばかり気にしてたから、上半身まで意識が回ってなかったな」
ガレスは一度深呼吸し、肩の力を抜いた。
それから、もう一度ゆっくりと踏み込む。
今度は動きが少し滑らかになった。
「……おお。さっきより楽だな」
ガレスは嬉しそうに笑った。
俺も自然と微笑む。
「よかった。でも、俺が見た感じだから、あとで先生にも確認してもらおう」
「分かってるって。……でも、ありがとな。自分じゃ気づかなかったところを見てもらえるのは助かる」
その言葉に、俺は少し照れくさくなった。
「俺も勉強になったよ。ガレスの動きを見ていると、自分が普段どんなふうに動いているのか考えられるから」
俺がそう答えると、ガレスは少し驚いたように目を見開いた。
「……セスでも、そういうこと考えるんだな」
「もちろんだよ。俺だって、まだ分からないことはたくさんあるし」
ガレスはしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて大きく笑った。
「そうか。なんか、ちょっと安心したぜ」
「安心?」
「お前って、剣でも魔法でも、何でも簡単そうにやるだろ? だから、俺が悩んでることなんて、お前からしたら大したことないのかと思ってたんだ」
俺は思わず首を横に振った。
「そんなことないよ。ガレスが悩んでいることには、ちゃんと意味があると思う。俺も、自分では気づかなかったことを教えてもらうことがあるし」
ガレスはその言葉を聞いて、少し真剣な表情になった。
「……そっか。じゃあ、これからも遠慮なく聞くことにするわ」
「うん。俺に分かることなら、一緒に考えるよ」
俺たちは顔を見合わせ、笑い合った。
そのとき、少し離れた区画からリビアの声が聞こえた。
「セス、ガレス様。お二人とも、楽しそうね」
振り返ると、リビアが自分の練習を終え、木剣を持ったままこちらへ歩いてくるところだった。
彼女の隣にはエミリアもいて、二人とも授業で指定された動作を確認していたらしい。
「リビア。そっちの練習は終わったの?」
「ええ。先生から指示されたところまでは確認できたわ。エミリア様と、お互いの姿勢を見ながら練習していたの」
リビアはそう答え、ガレスの方へ視線を向けた。
「ガレス様も、先ほどより踏み込みが安定しているように見えましたわ」
「本当ですか? ありがとうございます、オリビア様。先生とセスに見てもらって、少しだけ分かってきた気がします」
ガレスは嬉しそうに答えた。
エミリアも穏やかに微笑む。
「お互いに見てもらうと、自分では気づかないところが分かりますよね。私も、オリビア様から姿勢について教えていただいて、少し意識が変わりました」
リビアはその言葉に頷いた。
「私も、エミリア様の動きを見て勉強になりましたわ。人によって得意なところが違うからこそ、一緒に練習する意味があるのかもしれませんね」
俺は彼女たちの話を聞きながら、少し嬉しくなった。
昨日の魔術理論の授業で学んだことが、今日の剣術にもつながっている。
そして、それぞれが自分の課題を見つけ、誰かと一緒に考えようとしている。
俺だけが特別に何かをしているわけではない。
みんなが、自分の力で少しずつ前へ進もうとしているのだ。
そのことが、何だかとても嬉しかった。
◇
剣術の授業が終わり、生徒たちが訓練用具を片づけ始める頃には、午後の日差しが少し傾いていた。
俺は木剣を指定された場所へ戻し、手を洗ってから校舎へ向かった。
リビアは少し先で待っていてくれたらしく、俺の姿を見ると嬉しそうに微笑んだ。
「お疲れさま、セス。今日はガレス様と、ずいぶん熱心に練習していたわね」
「うん。ガレスが自分で考えてきたことを、先生に確認してもらえたからね。俺も一緒に見ていて勉強になったよ」
俺がそう答えると、リビアは少しだけ首を傾げた。
「ねえ、セス。今日の練習を見ていて、一つ思ったことがあるの」
「何?」
「あなたは、誰かに頼られたとき、とても嬉しそうにするのね」
思いがけない言葉に、俺は少し驚いた。
「……そうかな?」
「ええ。ガレス様が動きを確認してほしいと頼んだときも、先生から意見を求められたときも、あなたは真剣に考えていたでしょう? それに、ガレス様が少し上達したとき、とても嬉しそうだったわ」
俺はその言葉を聞き、少し考え込んだ。
確かに、ガレスの動きが安定してきたときは嬉しかった。
彼が自分の課題を見つけ、少しずつできるようになっていく姿を見るのは、何だか楽しかった。
「……うん。嬉しかったよ。ガレスが悩んでいたことを、少しでも整理できたみたいだったから」
俺がそう答えると、リビアは穏やかに微笑んだ。
「それなら、セスが誰かを助けたいと思う理由の一つは、そこにあるのかもしれないわね」
俺は思わず彼女の顔を見た。
昼休みに聞かれた質問が、再び頭に浮かぶ。
どうして、誰かを守ろうとするのか。
どうして、困っている人を放っておけないのか。
その理由を、俺はまだうまく説明できていなかった。
「……誰かが喜んでくれると、俺も嬉しいから?」
俺がそう呟くと、リビアはすぐには答えなかった。
彼女は少し考えるように視線を落とし、それからゆっくりと頷いた。
「それも、あると思うわ。でも、それだけではないのでしょうね」
「……うん。たぶん、そうだと思う」
俺は正直に答えた。
誰かが喜んでくれることは嬉しい。
けれど、危険な場面では、相手が喜ぶかどうかを考える前に体が動くこともある。
そこには、別の理由もあるのだろう。
リビアは俺の表情を見つめながら、優しく微笑んだ。
「急いで答えを出さなくてもいいのよ。セスが自分のことを少しずつ知っていけるなら、私はそれで嬉しいわ」
その言葉を聞いたとき、俺は胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。
リビアは、俺が何でもできるから好きだと言っているわけではない。
分からないことがあっても、迷うことがあっても、俺自身を知ろうとしてくれている。
そのことが、何より嬉しかった。
「……ありがとう、リビア」
俺がそう答えると、彼女は少し照れたように微笑んだ。
「どういたしまして。でも、私もまだセスのことを全部知っているわけではないもの。これからも、いろいろ教えてね」
「うん。俺も、リビアのことをもっと知りたい」
俺たちは顔を見合わせ、自然と笑い合った。
校舎の廊下には、授業を終えた生徒たちの足音が響いている。
窓の外では、午後の光が中庭の木々を柔らかく照らしていた。
俺はその景色を眺めながら、今日の授業で学んだことを思い返した。
剣術の技術を身につけること。
自分の動きを理解すること。
誰かの成長を喜ぶこと。
そして、自分が何を大切にしているのかを考えること。
どれも、今の俺にとって必要なことなのだろう。
◇
学院から戻ったあと、俺は父さんへ帰宅の報告を済ませ、夕食までの時間を自室で過ごしていた。
机の上には、今日の授業で書き留めた簡単なメモが置かれている。
剣術の踏み込みについて、先生から教わったこと。
ガレスの動きを見て気づいたこと。
そして、自分自身の動きをゆっくり確認したときに感じたこと。
俺はそれらを読み返しながら、少し考え込んだ。
以前なら、こうしたことをもっと細かく整理しようとしていたかもしれない。
けれど、今日は必要な部分だけを書き留め、あとは次の授業で確かめればいいと思えた。
(……全部を今すぐ理解する必要はないんだよな。分からないことがあれば、次に確認すればいい)
そう考えると、少し気持ちが楽になった。
俺は手帳を閉じ、椅子の背もたれへ軽く体を預けた。
窓の外では、庭園の木々が夕方の風に揺れている。
その穏やかな景色を眺めていると、昼休みにリビアから聞かれたことが、再び頭に浮かんだ。
どうして、誰かを守ろうとするのか。
俺はまだ、その答えを見つけられていない。
けれど、今日のガレスとの練習を通して、一つだけ分かったことがある。
誰かが困っているとき、俺はその人が少しでも前へ進めたら嬉しいと思う。
それは、相手を助けることだけが目的なのではなく、その人が自分の力でできるようになることも、嬉しいのだ。
俺はそのことを、今日初めてはっきり意識した気がした。
そんなことを考えていると、扉が控えめに叩かれた。
「セス、少しだけいいかしら?」
リビアの声だった。
「うん。どうぞ」
俺が返事をすると、扉が開き、彼女が顔を覗かせた。
夕食前の時間だからか、学院の制服から着替えた彼女は、少しくつろいだ雰囲気だった。
「お邪魔してもいい?」
「もちろん。ちょうど今日のことを考えていたところなんだ」
俺がそう答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
彼女は部屋へ入り、俺の隣の椅子へ腰を下ろした。
「今日の剣術の授業、楽しかった?」
「うん。ガレスの練習を見ていたら、自分の動きについても考えられたし、先生から教わったことも多かったよ」
俺がそう答えると、リビアは穏やかに頷いた。
「それならよかったわ。……ねえ、セス。昼休みに私が聞いたこと、覚えている?」
俺は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「うん。俺がどうして誰かを守ろうとするのか、って話だよね」
「ええ。……ごめんなさい。急に難しいことを聞いてしまったかもしれないわ」
リビアは少し申し訳なさそうに眉を下げた。
俺は首を横に振った。
「そんなことないよ。むしろ、考えるきっかけになったと思う」
俺がそう答えると、彼女は安心したように微笑んだ。
「それならよかった。……でも、無理に答えを出さなくてもいいのよ」
「うん。分かってる。でも、今日の授業で少しだけ気づいたことがあるんだ」
俺はそう言って、机の上に置いていた手帳へ視線を向けた。
そこには、ガレスの練習について書いた簡単なメモが残っている。
「ガレスが自分の動きを少しずつ直していくのを見て、俺も嬉しかったんだ。俺が何かをしてあげたからじゃなくて、ガレス自身が考えて、できるようになっていくのが嬉しかった」
リビアは静かに話を聞いていた。
俺は少し言葉を探しながら続けた。
「……だから、誰かを助けたいって思う理由の中には、その人が困っているところから抜け出せたら嬉しい、って気持ちもあるのかもしれない」
言い終わってから、少し恥ずかしくなった。
自分の気持ちを言葉にするのは、魔法の感覚を説明するのと同じくらい難しい。
けれど、リビアは俺の話を聞き、ゆっくりと微笑んだ。
「……セスらしい答えね」
「そうかな?」
「ええ。あなたは、誰かが自分の力で前へ進めることを、とても喜べる人だもの」
彼女はそう言って、俺の手へそっと触れた。
その温かさに、胸の奥が穏やかに満たされていく。
「でもね、セス。私は、あなた自身にも同じように幸せになってほしいの」
リビアの声は、いつもより少しだけ真剣だった。
俺は彼女の顔を見つめた。
「……俺自身にも?」
「ええ。誰かを助けることが嬉しいのなら、あなたが誰かに助けてもらって嬉しいと思うことも、同じくらい大切にしてほしいの」
その言葉を聞いた瞬間、俺は少し考え込んだ。
誰かに頼られることは嬉しい。
けれど、自分が誰かに頼ることには、まだ少し慣れていない。
迷惑をかけてしまうのではないか。
自分でできることなら、自分でやるべきではないか。
そんな考えが、今でも頭をよぎることがある。
リビアは、そんな俺の気持ちを知っているのだろう。
彼女は俺の手を優しく握りながら、穏やかに続けた。
「私だって、セスに頼りたいと思うことがあるわ。でも、それはあなたに全部を任せたいからではないの。あなたと一緒に考えたり、悩んだりしたいからよ」
俺はその言葉を聞き、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
リビアは、俺が何でも解決することを望んでいるわけではない。
俺と一緒に歩いていきたいと思ってくれている。
そのことが、何より嬉しかった。
「……ありがとう、リビア」
俺がそう答えると、彼女は柔らかく微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとう。セスが自分のことを話してくれるの、私、とても嬉しいわ」
俺たちはしばらく、そのまま静かに向き合っていた。
窓の外では夕日が庭園の石畳を赤く染め、遠くから夕食の準備を進める音が聞こえてくる。
俺はリビアの手を握り返しながら、今日一日を振り返った。
誰かを守りたいと思う理由。
それは、まだ一つの言葉では説明できない。
けれど、少しずつ分かってきたこともある。
誰かが前へ進めることを嬉しいと思う気持ち。
困っている人を放っておけない気持ち。
そして、リビアや大切な人たちに、笑っていてほしいと思う気持ち。
それらが重なって、今の俺を動かしているのかもしれない。
「……リビア」
俺が名前を呼ぶと、彼女は優しく首を傾げた。
「なあに、セス?」
「俺、これからも誰かを守れる人でいたいと思う。でも、それだけじゃなくて、自分のこともちゃんと大切にできるようになりたい」
俺がそう言うと、リビアは少し驚いたように目を見開いた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……ええ。それが、私の一番の願いよ」
彼女の声には、穏やかな喜びが込められていた。
俺はその表情を見つめながら、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じた。
まだ分からないことは、たくさんある。
自分のことも、魔法のことも、これから先の未来のことも。
けれど、今はそれを少しずつ知っていくことが楽しみだった。
リビアと一緒なら、きっと急ぐ必要はない。
俺たちは夕食の時間が近づくまで、今日の授業で感じたことや、これから学んでみたいことについて、穏やかに言葉を交わし続けた。




