第121話 公爵令嬢様は、俺が当たり前だと思っていた魔法を一緒に考えたいらしい
翌朝、目を覚ました俺は、窓の向こうから聞こえてくる鳥の声に耳を傾けながら、寝台の上でゆっくりと体を起こした。まだ日が昇りきっていない空には薄い雲が広がっていたが、東の方から差し込む光は穏やかで、今日も雨の心配はなさそうだった。
昨夜はリビアと少し遅くまで話していたものの、眠りにつく前には十分に休む時間を取ることができた。以前の俺なら、机の上に残した手帳が気になって、もう少しだけ整理しようと考えていたかもしれない。
(……父さんにも、休むことまで含めて自分の仕事を考えるように言われているからな。今日は学院で授業もあるし、朝から無理をする必要はない)
そんなことを思いながら身支度を整え、洗面を済ませてから制服へ袖を通す。鏡に映った自分の襟元を確かめ、乱れがないことを確認したところで、俺は机の上に置いていた教科書へ視線を向けた。
今日の時間割には、魔術理論の授業が入っている。
エレナ先生が以前から説明してくださっている二属性魔法の実習は、来月に予定されていた。具体的な日程はまだ知らされていないものの、最近の授業では魔力の制御や属性ごとの性質について、これまでよりも細かく考える機会が増えている。
俺は五つの属性を扱えるが、それぞれの魔法を使うときの感覚について、誰かへ分かりやすく説明できるかと尋ねられると自信がなかった。
火属性なら熱を生み出す感覚、水属性なら流れを形にする感覚というように、自分の中では何となく区別している。けれど、その説明でほかの人が同じように魔法を使えるようになるかといえば、きっとそうではない。
(……自分にできることと、人に教えられることは違うんだよな。昨日、父さんから教わった話とも、少し似ている気がする)
教科書を鞄へ収めたところで、廊下から控えめな足音が近づいてきた。続いて扉が叩かれ、聞き慣れた声がする。
「セス、もう準備は終わっているかしら?」
「うん。ちょうど終わったところだよ。リビアも準備できた?」
扉を開けると、学院の制服に身を包んだリビアが立っていた。銀青色の髪は丁寧に整えられ、朝の光を受けて柔らかく輝いている。
「ええ。今日は少し早く目が覚めたから、先に準備を済ませてしまったの。あなたも起きているかしらと思って来てみたのだけれど、もうすっかり支度が終わっているのね」
「いつもの時間に起きたからね。でも、今日は昨日より少しゆっくり準備したつもりだよ」
そう答えると、リビアは俺の顔をじっと見つめた。何かを確かめるような視線に、俺は思わず首を傾げる。
「……どうかした?」
「いいえ。ただ、ちゃんと休めたみたいで安心したの。昨日は私もお話ししたくて、つい長居してしまったでしょう?」
彼女は申し訳なさそうに眉を下げたが、俺は小さく首を横に振った。
「大丈夫だよ。リビアと話せて嬉しかったし、ちゃんと眠れたから。それに、俺ももう少し一緒にいたいと思っていたんだ」
言い終わってから、少し恥ずかしくなった。
けれど、リビアは驚いたように瞬きをしたあと、頬を染めながら嬉しそうに微笑んだ。
「……そういうことを、朝から自然に言ってしまうのね。セスは」
「えっ? 何かおかしかった?」
「おかしくなんてないわ。ただ、朝からそんなに幸せな気持ちにされたら、学院へ行く前にもっと一緒にいたくなってしまうでしょう?」
彼女は冗談めかしてそう言ったが、その声には本当に名残惜しそうな響きがあった。
俺は少し迷ってから、廊下に誰も近づいていないことを確かめ、彼女へ手を差し出した。リビアはその意味に気づいたらしく、表情を柔らかくして俺の手を取る。
ほんの短い時間、俺たちは指先を重ねていた。
「……朝食まで、一緒に行こうか」
「ええ。喜んで」
リビアは俺の隣へ並び、繋いでいた手をそっと離した。
公爵家の屋敷には、それぞれの仕事を持つ使用人たちがいる。俺たちが婚約者だからといって、いつでも二人だけの時間を優先してよいわけではない。
それでも、こうして朝の短い時間を一緒に過ごせることが、今の俺には何より嬉しかった。
◇
朝食を終え、学院へ向かう馬車に乗り込むと、リビアは鞄から魔術理論の教科書を取り出した。車輪が石畳の上を進む規則的な振動の中、彼女は昨日の続きが気になっていたらしく、いくつかの頁を確かめている。
「今日の授業、属性ごとの魔力制御についてもう少し詳しく扱うのよね。エレナ先生がおっしゃっていた内容を読み返していたのだけれど、少し気になるところがあったの」
「どこ?」
俺が尋ねると、リビアは開いていた頁をこちらへ向けた。
そこには、属性魔法を発動する際の魔力の変化について説明が書かれていた。魔力量だけでなく、放出の速さや維持する時間、術式の安定性など、いくつかの要素が関係するという内容だ。
「この説明では、魔力の流れを急に変化させると術式が不安定になりやすいと書かれているでしょう? でも、セスは魔法を使うとき、ほとんど迷わずに切り替えているように見えるの」
俺は教科書を覗き込みながら、以前の訓練を思い出した。
確かに、属性を切り替えること自体に、強い負担を感じたことはあまりない。ただし、それは俺自身が慣れているからであって、誰にでも同じことができるとは限らない。
「……俺の場合、切り替える前に使っていた魔法の流れを、一度落ち着かせているつもりなんだ。でも、それをどのくらい意識しているかって聞かれると、うまく説明できないかもしれない」
「一度落ち着かせる、というのは、完全に魔力を止めるという意味かしら?」
「いや、そうじゃないと思う。魔力そのものを止めるんじゃなくて、術式へ流す量を調整している感じかな。……ごめん、やっぱり分かりにくいよね」
俺が困っていると、リビアはすぐに首を横に振った。
「いいえ。むしろ、今まで聞いたことのない説明だったから興味深いわ。ただ、あなたがそう感じているということと、実際に魔力がどう変化しているかは、分けて考えた方がよさそうね」
彼女の言葉に、俺は頷いた。
自分では流れを落ち着かせているつもりでも、外から見れば違う変化が起きているかもしれない。俺が普段、ほとんど意識せずに行っていることだからこそ、思い込みが入り込む余地もある。
「そうだね。今日の授業で先生に聞いてみようかな」
「ええ。でも、いきなり実演をお願いするのは違うと思うわ。今日は理論の授業だもの。まずは、そういう考え方で合っているかを質問するくらいがいいんじゃないかしら」
「うん。実習は来月の予定だし、今のうちに分からないところを整理しておく方がよさそうだね」
リビアは満足そうに微笑み、教科書を自分の膝へ戻した。
馬車の窓からは、朝の街並みがゆっくりと流れていく。商店の前では開店準備をする人々が行き交い、通りの向こうでは荷物を積んだ馬車が別の道へ曲がっていった。
俺はその光景を眺めながら、ふとリビアの方へ視線を向けた。
「リビアは、結界魔法を使うときに何か意識していることってある?」
彼女は少し考え込んだあと、教科書を閉じた。
「そうね……。結界を張る範囲を決めるときには、守りたい場所の境界をはっきりさせるようにしているわ。でも、実際にどんな形で魔力が広がっているのかを、いつも正確に把握できているわけではないの」
「そうなんだ。リビアは結界魔法が得意だから、全部分かっているのかと思ってた」
「得意だからこそ、分かっていないところが気になるのよ。私だって、セスから見たら簡単そうに使っているように見える魔法があるでしょう?」
そう言われて、俺は彼女が結界を展開するときの姿を思い浮かべた。
リビアは無属性魔法の適性を持ち、さまざまな結界を使うことができる。守る対象や必要な範囲に合わせて術式を組み立てる姿は、俺から見ても見事なものだった。
けれど、その技術を身につけるまでに、彼女がどれだけ考え、練習してきたのかを、俺はすべて知っているわけではない。
「……確かに、そうかもしれない。俺、リビアの魔法を見て、すごいなって思うことは多いけど、どうやってそこまでできるようになったのかは、あまり聞いたことがなかったね」
俺がそう言うと、リビアは少し驚いたように目を見開いた。
それから、膝の上に置いた教科書へ視線を落とし、どこか照れくさそうに微笑む。
「……今度、聞いてくれる?」
「もちろん。リビアがよければ、ぜひ聞きたい」
「それなら、私もセスの魔法について聞いてみたいわ。あなたが何を考えて、どうやって魔力を扱っているのか、もっと知りたいもの」
彼女はそう言って、嬉しそうにこちらを見た。
俺はその笑顔を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
俺たちは幼い頃から一緒に過ごしてきた。
互いの得意なことも、苦手なことも、ある程度は知っているつもりだった。けれど、こうして話してみると、まだ知らないことがいくつもある。
(……昨日、知らないことを一緒に学ぼうって約束したばかりだけど、こんなに身近なところにも、まだ聞いていないことがあったんだな)
馬車が学院へ近づくにつれて、通りを行き交う人の数が増えていく。
俺は教科書を鞄へ戻すリビアを見ながら、今日の授業がいつもより少し楽しみになっていることに気づいた。
◇
学院へ到着すると、正門の周辺には登校してきた生徒たちの姿があった。
朝の空気は少し冷たかったが、校舎の窓には柔らかな日差しが反射しており、石造りの建物の輪郭を明るく浮かび上がらせている。庭園の木々は風に揺れ、通路の端では清掃を担当する職員が落ち葉を集めていた。
俺とリビアが教室へ向かうと、すでに何人かの生徒が席についていた。
サザリーは机の上に教科書を広げ、ガレスはその隣で何かを熱心に説明している。少し離れた席では、エミリアが筆記具を整えながら二人の会話を聞いていた。
「おはよう、セス。オリビア様も」
俺たちに気づいたサザリーが、穏やかに声をかけてくれた。
「おはよう、サザリー。みんな、何の話をしていたの?」
「今日の魔術理論の授業についてだよ。ガレスが、魔力の流れを説明する言葉がどうにも分かりにくいって言い始めてね」
サザリーがそう説明すると、ガレスは少し不満そうに眉を上げた。
「分かりにくいっていうか、言葉だけで説明されても、実際にどうすればいいのか想像しにくいんだよ。魔力をゆっくり流せって言われても、その『ゆっくり』がどのくらいなのか分からないだろ?」
俺は思わず頷いた。
馬車の中でリビアと話していたことに、少し似ている。
「確かに、同じ言葉でも人によって受け取り方が違うかもしれないね」
「だろ? セスなら分かると思ったんだ。お前、魔法の制御が得意だから、何かいい説明ができないか?」
期待するような視線を向けられ、俺は少し困ってしまった。
魔法を使うこと自体はできる。けれど、さっきリビアにも話したとおり、自分の感覚を言葉へ置き換えるのは得意ではない。
「……ごめん。俺も、分かりやすく説明できるかどうかは自信がないんだ。今朝リビアとも話していたんだけど、自分では当たり前にやっていることほど、説明するのが難しい気がして」
俺がそう答えると、ガレスは意外そうな顔をした。
「セスでもそういうことあるのか?」
「あるよ。むしろ、できるからって理由だけで説明したら、間違ったことを伝えてしまうかもしれないし」
その言葉を聞いたエミリアが、筆記具を置いてこちらへ向き直った。
「私も、似たようなことを考えていました。魔力の流れを一定に保つとき、私は水面が静かになるような感覚を意識するんですけれど、それがほかの人にも通じるとは限りませんよね」
「水面か。俺には、どちらかというと細い糸を引っ張ってるような感じなんだけどな」
ガレスがそう言うと、サザリーは興味深そうに顔を上げた。
「それは面白いね。同じような操作でも、頭の中で思い浮かべているものが違うのかもしれない」
俺たちはしばらく、それぞれが魔力を扱うときに何を意識しているのか話し合った。
エミリアは流れの安定を重視し、ガレスは力の強弱を感覚的に捉えているらしい。サザリーは術式の構造を意識することが多いそうで、リビアは結界の範囲を定める際に、守る場所の境界を明確にすることを大切にしていると説明した。
話を聞いているうちに、俺は少し驚いた。
同じ魔法を学んでいても、考え方はこんなにも違う。
俺が当然だと思っていた感覚も、ほかの人にとってはまったく違うものなのかもしれない。
「……なんだか、余計に分からなくなってきたな」
ガレスが苦笑すると、サザリーは小さく笑った。
「でも、何が分からないのかは前よりはっきりしたんじゃないかな。少なくとも、みんなが同じ感覚で魔力を扱っているわけじゃないってことは分かったから」
「それはそうだけどさ。結局、どうすればいいのかってところが難しいんだよ」
ガレスはそう言いながらも、先ほどより少し楽しそうだった。
リビアはその様子を見て、俺へ小さく微笑みかける。
「ねえ、セス。今日の授業で先生に聞いてみたいことが、増えてしまったわね」
「うん。でも、全部を一度に聞くのは難しいだろうから、まずは一つに絞った方がいいかもしれないね」
俺たちがそんな話をしていると、教室の扉が開き、授業の開始を知らせる鐘が鳴った。
生徒たちはそれぞれの席へ戻り、机の上に教科書を広げ始める。
俺も自分の席へ向かいながら、今日の授業ではどんなことを学べるのだろうと考えていた。
◇
魔術理論の授業が始まると、エレナ先生は教壇の上に数枚の資料を置き、教室全体を見渡した。
「今日は、属性魔法の制御について、少し違う角度から考えてもらいます。これまで皆さんには、魔力量や術式の構造について説明してきましたが、今回は『自分が感じていることを、どこまで正確に理解しているか』という点を扱います」
先生の言葉に、教室のあちこちで生徒たちが顔を見合わせた。
俺も少し驚いた。
今朝、みんなで話していた内容とよく似ていたからだ。
エレナ先生は黒板へ、魔力の放出量と術式の安定性を示す簡単な図を描いた。
「例えば、同じ火属性の魔法を使う二人がいたとしましょう。一人は魔力を一定の速さで流しているつもりで、もう一人は少しずつ強めているつもりだとします。ところが、実際に術式へ流れている魔力量を測定すると、二人とも似たような変化を示す場合があります」
先生はそこで一度手を止め、生徒たちへ問いかけた。
「では、二人の説明のうち、どちらかが必ず間違っていると言えるでしょうか?」
教室はしばらく静かになった。
俺は黒板の図を見つめながら考えた。
同じ変化が起きているのなら、どちらかの説明が間違っているようにも思える。
けれど、本人が感じていることと、実際に起きている変化が必ず一致するとは限らないのなら、簡単には決められないのかもしれない。
やがて、一人の生徒が手を挙げた。
「先生。実際の魔力量が同じなら、二人とも同じ操作をしていることになるのではありませんか?」
「良い質問ですね。ただし、魔力量が似ていることと、操作の過程が同じであることは、必ずしも一致しません。術式の構造や魔力を流す経路、発動前の準備によっても結果は変わります」
先生は黒板へ別の図を書き加えた。
同じ結果へ至るまでに、異なる経路を通る二本の線が描かれている。
「重要なのは、本人の感覚を否定することではありません。その感覚が何を表しているのかを、観察や記録によって少しずつ確かめることです」
俺はその説明を聞きながら、今朝のリビアとの会話を思い出した。
俺は属性を切り替えるとき、魔力の流れを一度落ち着かせているつもりだ。
けれど、それが実際にはどんな変化なのか、正確に確かめたことはなかった。
(……自分の感覚が間違っているって決まったわけじゃない。でも、それだけで全部を説明できると思うのも違うんだな)
エレナ先生は資料を配り終えると、今度は生徒たちへ簡単な課題を出した。
内容は、自分が得意とする魔法を一つ選び、発動前から終了までに何を意識しているかを文章で整理するというものだった。
ただし、今回は実際に魔法を発動する必要はない。
あくまでも、自分の感覚を言葉にするための課題だ。
「書き終わったら、隣の人と内容を交換して読んでみてください。その際、相手の説明を評価するのではなく、分からないところを質問するようにしましょう」
俺は配られた紙を前に、少し考え込んだ。
得意な魔法。
そう言われて最初に思い浮かんだのは、《迅雷撃破》だった。
雷属性の魔力を利用した独自の身体強化で、俺にとっては使い慣れた技術だ。けれど、一般的な身体強化とは異なる部分もあり、今回の課題に適しているのかは分からない。
俺はしばらく迷ったあと、もっと基本的な魔法を選ぶことにした。
火属性の小さな灯火を生み出す魔法なら、授業で学んだことのある生徒も多い。比較しやすい題材の方が、説明の違いを考えるには向いているだろう。
紙の上に、発動前の魔力の集め方、術式へ流すときの意識、炎の大きさを維持するための調整について書き始めた。
ところが、途中で手が止まった。
炎を小さく保つとき、俺は何をしているのだろう。
魔力の放出量を抑えているのは確かだと思う。
けれど、炎の形を整える操作と、燃え続けるための魔力を供給する操作を、どこまで分けて考えているのかは曖昧だった。
俺は少し考え、正確に説明できない部分には、そのまま「意識していないため不明」と書き加えた。
無理に説明を作るより、その方がよい気がしたからだ。
しばらくして、エレナ先生が机の間を歩きながら、生徒たちの様子を確認し始めた。
先生は俺の机の近くで足を止め、書いていた内容へ視線を向ける。
「シルフィール君。少し見せてもらってもいいですか?」
「はい、先生」
俺が紙を差し出すと、先生は内容を確認した。
途中の「不明」という部分に目を留めたらしく、少しだけ表情を和らげる。
「ここは、意識していないと書いたのですね」
「はい。実際には何か操作しているのかもしれませんが、自分でははっきり分からなくて……。分かったつもりで書くのは違うと思いました」
先生は頷き、紙を俺へ返した。
「それで構いません。今回の課題では、分からないところを見つけることにも意味があります。特に、普段から安定して魔法を使える人ほど、自分の操作を細かく意識していない場合がありますから」
俺はその言葉に、少し安心した。
「ありがとうございます。先生、もう一つ質問してもよろしいでしょうか?」
「ええ。どうぞ」
「属性を切り替えるとき、自分では魔力の流れを一度落ち着かせているつもりなんです。でも、それが実際にどういう変化なのかは、うまく説明できません。そういう場合は、何を確認すればいいのでしょうか?」
エレナ先生はすぐには答えず、少し考えるように俺を見た。
「そうですね。まず、あなたが言う『落ち着かせる』という状態が何を指しているのかを整理する必要があります。魔力の放出量を減らしているのか、術式への供給を止めているのか、それとも別の操作をしているのか。そこが曖昧なままでは、正確な比較はできません」
先生は黒板の方へ視線を向け、続けた。
「ただし、それを確かめるために、今ここで属性の切り替えを実演する必要はありません。授業の目的は、自分の感覚と実際の現象を区別して考えることです。実技として確認するなら、適切な設備と監督が必要になります」
「はい。分かりました」
俺が頷くと、先生は穏やかに微笑んだ。
「来月予定している実習でも、こうした考え方は役に立つでしょう。ただし、具体的な課題や実施方法については、改めて説明します。それまでは、今日のように疑問を整理しておいてください」
俺は礼を述べ、紙へ視線を戻した。
先生の説明を聞いて、今すぐ答えを出す必要はないのだと分かった。
それに、俺が何となく使っていた言葉にも、確かめなければならない意味がいくつもある。
俺は余白へ「落ち着かせるとは何か」と書き加え、あとで自分でも考えてみることにした。
◇
課題を書き終えたあと、俺は隣の席のリビアと紙を交換した。
彼女が選んだのは、無属性の結界魔法だった。
俺はその説明を読み進めながら、思わず感心してしまった。
結界を張る前に守る範囲を定め、必要な強度を考え、魔力を広げていく。その過程が丁寧に整理されており、俺が普段見ている彼女の魔法が、どんな意識のもとで使われているのか少しだけ分かった気がした。
けれど、読み進めるうちに、一つ気になるところがあった。
「リビア、この『境界を固定する』っていうのは、結界の形を決めたあと、その形を変えないようにするってこと?」
俺が小声で尋ねると、彼女は少し考えてから頷いた。
「基本的にはそうよ。ただ、結界の種類によっては、張ったあとに範囲を調整することもあるから、必ずしも固定したままとは限らないわ」
「なるほど。じゃあ、最初に形を決めることと、その形を維持することは別なんだね」
「ええ。……でも、そう言われると、私の説明では少し分かりにくいわね」
リビアは自分の紙を覗き込み、該当する部分へ小さく印をつけた。
「セスが質問してくれなかったら、気づかなかったかもしれないわ。私は当然のように分けて考えていたけれど、文章にすると同じ意味に見えてしまうのね」
彼女はそう言って、俺の紙へ目を向けた。
しばらく読み進めたあと、ある部分で視線を止める。
「セス。あなたは炎の大きさを保つとき、魔力の量を調整すると書いているけれど、炎の形が崩れそうになったときはどうするの?」
「えっと……。そのときは、流す魔力の偏りを直していると思う」
「偏り、というのは?」
俺は少し考え、手元の紙へ簡単な図を描いた。
炎の中心へ向かう魔力の流れと、その周囲へ広がる流れを線で示し、どちらかに偏りが生じた場合を説明してみる。
リビアは図を見つめながら、何度か頷いた。
「なるほど。あなたは炎の大きさだけではなく、形の安定も同時に見ているのね」
「……たぶん、そうなんだと思う。でも、今までそこまで意識してなかったから、ちゃんと説明できているか自信がないよ」
俺が苦笑すると、彼女は優しく微笑んだ。
「それでも、さっきよりずっと分かりやすくなったわ。セスが何を考えているのか、少しだけ近づけた気がするもの」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が不思議と温かくなった。
魔法の話をしているだけなのに、リビアが俺のことをもっと知りたいと思ってくれているのが伝わってくる。
俺は少し照れくさくなりながら、彼女の紙へ視線を戻した。
「……俺も、リビアの結界魔法について、もっと知りたいと思ったよ」
彼女は嬉しそうに微笑んだあと、周囲の生徒たちへちらりと視線を向けた。
授業中であることを思い出したらしく、頬を少し赤く染めながら姿勢を正す。
「……続きは、あとでお話ししましょうね」
「うん。そうしよう」
俺たちはそれぞれの紙を返し合い、先生からの次の説明へ耳を傾けた。
エレナ先生は、教室の前方で生徒たちの様子を確認していた。
「皆さん、相手の説明を読んでみて、何か気づいたことはありましたか?」
何人かの生徒が手を挙げ、感じたことを発表した。
自分では分かりやすく書いたつもりでも、相手には伝わらない部分があったこと。逆に、ほかの人の説明を読むことで、自分が意識していなかった操作に気づいたこと。
それぞれの意見を聞きながら、俺は教室全体が少しずつ活気づいていくのを感じた。
魔法の得意不得意に関係なく、誰もが自分の感覚を説明しようとしている。
その姿は、普段の実技授業とは少し違って見えた。
◇
授業が終わり、休憩時間になると、ガレスが真っ先に俺たちの席へやって来た。
「セス、ちょっと聞いてくれよ。俺、サザリーに説明を読んでもらったんだけど、半分くらい質問されちまった」
そう言いながらも、ガレスはどこか楽しそうだった。
その後ろから歩いてきたサザリーは、少し呆れたように肩をすくめる。
「半分というほどじゃないよ。ただ、ガレスの説明には『勢いよく』『しっかり』『ほどよく』という言葉が多かったから、具体的に何をしているのか聞いただけさ」
「それが難しいんだって。感覚で分かることを、いちいち言葉にするなんて普段やらないだろ?」
ガレスはそう言って頭を掻いた。
俺はその様子を見ながら、少し笑ってしまった。
「俺も似たようなところがあったよ。リビアに聞かれて、初めて自分が何をしているのか考えた部分もあったし」
「ほらな。セスでもそうなんだから、俺が分からなくても仕方ないだろ?」
ガレスが得意そうに言うと、サザリーは苦笑した。
「だからといって、考えなくていい理由にはならないけどね。むしろ、分からないところが見つかったなら、そこから考えればいいんじゃないかな」
その言葉に、エミリアも頷いた。
「私も、ほかの人の説明を読んで勉強になりました。自分では魔力の流れを一定にしているつもりでも、実際には細かな調整を繰り返しているのかもしれません」
俺たちはそのまま、授業で感じたことについて話し合った。
ガレスは自分の感覚を言葉にするのが苦手だと笑っていたが、サザリーから質問された部分をきちんと覚えているらしい。エミリアも、ほかの人の説明を参考にしながら、自分の課題を見直したいと言っていた。
リビアはそんな友人たちの話を聞きながら、穏やかに微笑んでいる。
「今日の授業、思っていた以上に面白かったわ。魔法を使うことだけではなく、どうして使えるのかを考えるのも大切なのね」
「そうだね。俺も、今まで当たり前だと思っていたことを、もう少し考えてみたくなったよ」
俺がそう答えると、ガレスは少し不思議そうな顔をした。
「でもさ、セス。お前の場合、考えすぎて今までできてたことができなくなったりしないのか?」
思いがけない質問に、俺は少し考え込んだ。
確かに、普段は意識せずにできることを、細かく考えすぎると動きがぎこちなくなる場合もあるかもしれない。
剣術でも、足の運びや重心の移動を一つずつ考えていると、かえって自然な動きが難しくなることがある。
「……それは、あるかもしれないね。だから、実際に魔法を使うときと、あとから仕組みを考えるときは、分けた方がいいのかもしれない」
俺が答えると、サザリーは興味深そうに頷いた。
「なるほど。実際の動作を妨げないようにしながら、あとで振り返るわけだね。それなら、剣術の練習にも似ているかもしれない」
「そうそう。剣を振るたびに腕の角度を全部考えてたら、相手の動きなんて見てられないからな」
ガレスは納得したように笑った。
その表情を見ていると、俺も少し安心した。
自分の感覚を理解することは大切だが、何でも一度に変えようとする必要はない。
今まで身につけてきた技術を大切にしながら、少しずつ理解を深めていけばいいのだろう。
そんなことを考えているうちに、次の授業を知らせる鐘が鳴った。
俺たちはそれぞれの席へ戻り、教科書を整え始めた。
◇
昼休みになると、俺たちはいつものように食堂へ向かった。
食堂には多くの生徒が集まっており、料理の香りと賑やかな話し声が広がっている。窓際の席には柔らかな日差しが差し込み、外の庭園では風に揺れる木々の影が石畳の上をゆっくりと動いていた。
俺たちは空いている席を見つけ、昼食を並べた。
ガレスは午前中の授業についてまだ話したいことがあるらしく、食事を始める前からサザリーへ質問を続けていた。
「なあ、サザリー。さっきの話だけど、魔法の感覚って人によって違うなら、先生たちはどうやって教えてるんだろうな?」
サザリーは水を一口飲んでから、少し考えるように答えた。
「基本的な術式や魔力の扱い方には共通する部分があるから、まずはそこを教えるんじゃないかな。そのうえで、個人ごとの違いを見ながら指導しているのかもしれないね」
「なるほどな。じゃあ、俺がうまく説明できなくても、先生なら分かるように教えてくれるってことか」
ガレスが安心したように言うと、エミリアが小さく笑った。
「でも、先生に教えていただくときも、自分がどこで困っているのか分かっていた方が、質問しやすいと思いますよ」
「……それもそうか」
ガレスは少し考え込み、それから苦笑した。
「結局、今日の課題って大事だったんだな」
俺たちは顔を見合わせ、思わず笑ってしまった。
そのあと、話題は午後の授業や最近の学院生活へ移っていった。
エミリアは今度の課題提出について確認したいことがあるらしく、サザリーと予定を照らし合わせている。ガレスは剣術の授業で指摘された足運びを気にしているようで、午後に時間があれば練習したいと言っていた。
俺はその話を聞きながら、少し考えた。
「ガレス、もし練習するなら、先生に指摘されたところを中心にした方がいいかもしれないね。俺も一緒に確認することはできるけど、授業で何を注意されたのかは、ガレス自身が一番分かっているだろうし」
そう言うと、ガレスは嬉しそうに頷いた。
「おう。もちろん、そのつもりだ。お前に全部教えてもらうっていうより、動きを見てもらえたら助かるな」
サザリーもその言葉に頷いた。
「それなら、次の剣術の授業までに自分で確認できることを整理しておくといいね。必要なら、先生にも改めて聞けるだろうし」
「分かった分かった。二人とも、俺が何も考えずに剣を振ってるみたいに言うなよ」
ガレスが少し大げさに肩を落としたので、俺たちはまた笑った。
リビアも楽しそうに微笑んでいたが、やがて俺の方へ少し身を寄せた。
「セス、午後の授業が終わったあと、少しだけ時間をもらえるかしら?」
「うん。何かあるの?」
俺が尋ねると、彼女は少し照れたように視線を落とした。
「今朝の馬車の中で話していたこと、もう少し聞いてみたいの。もちろん、無理に魔法を使ってもらいたいわけではないのだけれど……」
俺は彼女の言葉を聞いて、すぐに頷いた。
「いいよ。俺も、リビアの結界魔法について聞いてみたいと思っていたから」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、授業が終わったら少しだけお話ししましょう」
俺たちはそう約束し、午後の授業へ向けて昼食を進めた。
食堂の賑やかな空気の中で、リビアの笑顔がいつもより少し近く感じられた。
◇
午後の授業を終えたあと、俺とリビアは校舎の中庭に面した廊下へ向かった。
授業が終わったばかりの校舎には、教室から出てくる生徒たちの声が響いていたが、中庭へ続く廊下は比較的静かだった。窓からは傾き始めた日差しが差し込み、床の上に細長い光の帯を作っている。
俺たちは通行の邪魔にならない窓際で足を止めた。
リビアは鞄から午前中の課題用紙を取り出し、俺へ見せてくれた。
「セス、さっきの授業であなたが質問してくれたところ、少し考えてみたの」
彼女は結界の境界を定める部分へ指を添えた。
「私は、結界を張るときに守る範囲を最初に決めているけれど、そのあと形を維持するためにも魔力を使っているわ。でも、今まではその二つをあまり分けて考えていなかったの」
俺は彼女の説明を聞きながら、紙に描かれた図を見つめた。
そこには、結界の範囲を示す線と、その内側を安定させるための魔力の流れが書き加えられている。
「……なるほど。最初に形を作ることと、その形を保つことは、別の操作なんだね」
「ええ。もちろん、実際にはもっと複雑な部分もあると思うの。でも、こうして分けて考えると、私自身も少し整理できた気がするわ」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
俺はその表情を見ながら、彼女が本当に魔法を学ぶことを楽しんでいるのだと感じた。
公爵家の令嬢として求められる学問や礼儀だけではなく、自分が興味を持ったことを深く考えようとする姿は、昔から変わっていない。
「リビアはすごいね。俺が何となく質問したことを、ちゃんと自分で考えて整理してる」
俺がそう言うと、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
それから、頬をほんのり赤く染める。
「……セスにそう言ってもらえると、とても嬉しいわ。でも、あなたが質問してくれたから気づけたことなのよ」
「それなら、俺も同じだよ。リビアに聞かれなかったら、自分が魔法を使うときの感覚を、ここまで考えなかったと思う」
俺たちは顔を見合わせ、自然と微笑み合った。
しばらくして、リビアは少し真剣な表情になった。
「ねえ、セス。あなたの《迅雷撃破》についても、いつか詳しく聞いてみたいわ」
その名前を聞いて、俺は少し驚いた。
《迅雷撃破》は、雷属性の魔力を利用した俺独自の身体強化だ。
普段から使う魔法ではあるものの、ほかの人が同じように扱える技術なのかどうかは分からない。魔力の制御だけでなく、身体への負担や動作との組み合わせも関係しているため、簡単に説明できるものではなかった。
「……うん。俺も、ちゃんと説明できるようになりたいとは思ってる。でも、あれは普通の身体強化と違うところもあるから、少し慎重に考えたいかな」
俺がそう答えると、リビアはすぐに頷いた。
「もちろんよ。今すぐ教えてほしいわけではないの。あなたがどういう考えで使っているのか、いつか聞けたら嬉しいと思っただけだから」
彼女はそう言って、少しだけ視線を落とした。
「……それに、無理をしてほしくないもの」
その言葉に、俺は胸の奥が少し締めつけられるような感覚を覚えた。
リビアは、俺が自分のことを後回しにしがちなところを、昔から心配してくれている。
彼女を守りたいという気持ちは今も変わらない。
けれど、その気持ちだけで無理をすれば、かえって彼女を悲しませることになる。
「……ありがとう、リビア。俺も、無理をしないように気をつけるよ」
俺がそう答えると、彼女は安心したように微笑んだ。
「ええ。約束よ」
リビアはそう言って、そっと俺の手へ触れた。
廊下にはまだ生徒たちの姿があったため、俺たちは長く手を繋ぐことはしなかった。それでも、指先が触れ合った短い時間だけで、互いの気持ちが伝わったような気がした。
俺は彼女の手を軽く握り返し、すぐに離した。
「……そろそろ帰ろうか。あまり遅くなると、父さんも心配するだろうし」
「そうね。今日もいろいろお話しできたから、私は満足よ」
リビアは嬉しそうに微笑み、課題用紙を鞄へしまった。
俺たちは並んで廊下を歩き始めた。
窓の外では、午後の光が中庭の木々を柔らかく照らしている。
俺はその景色を眺めながら、今日の授業で学んだことを思い返していた。
自分が当たり前だと思っていることも、ほかの人にとっては当たり前ではない。
そして、自分自身でさえ、どうしてできるのかを正確に理解していないことがある。
それは、魔法に限った話ではないのかもしれない。
◇
学院から戻ると、俺はいつもどおり父さんへ帰宅の報告をした。
グレイヴ執事長は執務室で書類を確認していたが、俺の姿を見ると手を止め、穏やかに迎えてくれた。
「お帰り、セス。今日の学院はどうだったかな?」
「ただいま戻りました、父さん。今日は魔術理論の授業で、自分が魔法を使うときの感覚を言葉にする課題がありました」
俺は簡単に授業の内容を説明した。
自分では当然のように使っている魔法でも、何を意識しているのかを説明するのは難しかったこと。ほかの生徒と課題を交換することで、自分では気づかなかった部分が見えてきたこと。
父さんは興味深そうに話を聞いてくれた。
「なるほど。それは良い学びになったようだね」
「はい。魔法を使うことと、その仕組みを理解することは、少し違うんだと思いました」
俺がそう言うと、父さんは小さく頷いた。
「そうだね。仕事でも似たことはあるよ。長年同じ作業をしている者ほど、自然にできることが増えていく。けれど、その手順を新しく入った者へ説明しようとすると、意外に難しい場合があるんだ」
その言葉を聞いて、俺は少し考えた。
執事としての仕事にも、確かに似たところがある。
例えば、食器を運ぶときの手の位置や、廊下ですれ違う相手との距離の取り方。慣れてくると意識せずにできることも、初めて学ぶ人にとっては、一つずつ確認しなければならない動作かもしれない。
「……父さんも、そういう経験があるんですか?」
俺が尋ねると、父さんは少し懐かしそうに微笑んだ。
「もちろんあるよ。私も若い頃、自分では簡単だと思っていた仕事を、後輩へうまく説明できなかったことがある。相手が困っているのを見て、初めて自分の説明が足りなかったと気づいたものだ」
俺は思わず目を見開いた。
父さんにも、そんな時期があったのだろうか。
今の父さんは、屋敷の仕事を的確に管理し、使用人たちからも厚い信頼を寄せられている。俺にとっては、何でも知っていて、どんな仕事でも落ち着いてこなす人という印象が強かった。
「……父さんでも、説明が難しいことがあったんですね」
俺がそう言うと、父さんは小さく笑った。
「当然だよ、セス。誰でも最初からすべてを知っているわけではないし、経験を積んだからといって、分からないことがなくなるわけでもない」
父さんは机の上の書類を整えながら、穏やかに続けた。
「大切なのは、自分が知っていることを過信しないことだね。相手が理解できているかどうかを確かめながら、必要なら説明の仕方を変える。それは、魔法でも仕事でも同じなのかもしれない」
俺は深く頷いた。
今日の授業で感じたことが、父さんの言葉によって少し整理された気がした。
「ありがとうございます。これからは、誰かに何かを説明するときも、気をつけてみます」
「うん。ただし、何でも完璧に説明しようとして、必要以上に悩まないようにね。分からないことがあれば、相手と一緒に確かめればいいんだから」
父さんはそう言って、俺へ優しく微笑んだ。
俺はその言葉に安心し、一礼して執務室をあとにした。
廊下へ出ると、夕方の屋敷には落ち着いた空気が広がっていた。
厨房の方からは夕食の準備を進める音が聞こえ、遠くでは使用人たちが仕事の確認をしている声がかすかに響いている。
俺は自室へ向かいながら、今日の出来事を思い返した。
学院では、魔法について考えた。
友人たちとは、それぞれの感覚の違いについて話し合った。
リビアとは、互いの魔法をもっと知りたいと約束した。
そして父さんからは、分からないことを認めることも大切だと教わった。
どれも、今の俺にとって必要なことだったのだろう。
◇
夕食を終えたあと、俺は自室で今日の課題用紙を見返していた。
窓の外はすっかり暗くなり、庭園の灯りが石畳を淡く照らしている。机の上には魔術理論の教科書と筆記具が並び、昼間に書いた説明の余白には、リビアから質問された内容が小さく書き加えられていた。
俺はその部分を読みながら、少し考え込んだ。
魔力を扱うときの感覚。
術式へ流す量の調整。
属性を切り替えるときの意識。
今まで何となくできていたことを言葉にしようとすると、思っていた以上に難しい。
けれど、分からないところが見つかるたびに、もう少し考えてみたいという気持ちも強くなっていた。
(……来月の実習までに、全部理解できるとは思わない。でも、今のうちに自分が何を分かっていないのか整理しておけば、授業で確かめられることも増えるかもしれないな)
俺は課題用紙を閉じ、手帳へ今日の気づきを簡単に書き留めた。
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
「セス、まだ起きているかしら?」
リビアの声だった。
「うん。大丈夫だよ」
俺が返事をすると、扉が開き、彼女が顔を覗かせた。
夕食のときよりも少しくつろいだ服装で、銀青色の髪が肩へ柔らかく流れている。
「少しだけ、お話ししてもいい?」
「もちろん。ちょうど今日の授業のことを考えていたところなんだ」
俺がそう答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
彼女は部屋へ入り、机の隣に置かれた椅子へ腰を下ろした。
「私もね、さっき自分の部屋で課題を見返していたの。セスに質問されたところを考えていたら、ほかにも気になることが出てきてしまって」
リビアは少し困ったように笑った。
けれど、その表情はどこか楽しそうだった。
「……今日の授業、リビアも気に入ったんだね」
「ええ。今まで当たり前にできていたことを、改めて考えるのって面白いわ。それに、セスが私の魔法について興味を持ってくれたことも嬉しかったの」
彼女はそう言って、少し照れたように視線を落とした。
俺はその横顔を見つめながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「俺も嬉しかったよ。リビアが俺の魔法について知りたいって言ってくれたこと」
俺がそう答えると、彼女は顔を上げた。
その瞳には、穏やかな喜びが浮かんでいた。
「……ねえ、セス。私たち、まだお互いに知らないことがたくさんあるのね」
「そうだね。ずっと一緒にいるから、何でも知ってるつもりになっていたのかもしれない」
俺がそう言うと、リビアは小さく頷いた。
「でも、それって少し素敵なことだと思わない?」
思いがけない言葉に、俺は首を傾げた。
「素敵?」
「ええ。だって、これからも新しく知ることがあるってことでしょう? セスのことをもっと知れるなら、私はそれだけで嬉しいもの」
リビアはそう言って、柔らかく微笑んだ。
俺はしばらく、その言葉を胸の中で繰り返していた。
知らないことがある。
それは、今までの俺にとって、少し不安なことだった。
知らないせいで失敗するかもしれない。
知らないせいで誰かを困らせるかもしれない。
だから、できるだけ早く覚えなければならないと思っていた。
けれど、リビアは違う見方をしている。
知らないことがあるからこそ、これから知る楽しみがあるのだと。
(……リビアらしいな。俺が不安に思うことも、彼女はこんなふうに考えられるんだ)
俺は自然と微笑んだ。
「……うん。そう考えると、確かに楽しみだね」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに頷いた。
「でしょう? だから、これからもいろいろ教えてね。魔法のことも、セスが考えていることも、好きなものも……。私、もっと知りたいわ」
その言葉に、俺は少し照れくさくなった。
けれど、彼女の真剣な表情を見ていると、恥ずかしがってばかりいるのも違う気がした。
「……俺も、リビアのことをもっと知りたい。だから、これからもいろいろ話そう」
俺がそう答えると、彼女はゆっくりと微笑んだ。
それから、そっと俺の手へ自分の手を重ねる。
指先から伝わる温かさに、胸の奥が穏やかに満たされていく。
「約束よ、セス」
「うん。約束する」
俺たちはしばらく、そのまま静かに向き合っていた。
窓の外では夜風が庭木を揺らし、葉の擦れ合う音がかすかに聞こえてくる。
屋敷の中は落ち着いており、廊下を行き交う足音も少なくなっていた。
俺はリビアの手を握り返しながら、今日一日を振り返った。
魔法を使うことは、俺にとって昔から身近なものだった。
けれど、その仕組みを考えたり、誰かへ説明したりすることには、まだ知らないことがたくさんある。
そして、それはきっと魔法だけではない。
執事としての仕事も、学院での学びも、これから先の人生も。
今の俺には、まだ分からないことばかりだ。
それでも、リビアと一緒に考えられるのなら、知らないことを恐れる必要はないのかもしれない。
「……リビア」
俺が名前を呼ぶと、彼女は優しく首を傾げた。
「なあに、セス?」
「今日、一緒に考えてくれてありがとう」
俺がそう言うと、リビアは少し驚いたように目を見開いた。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとう。セス」
彼女はそう言って、俺の手を少しだけ強く握った。
俺もその温かさを確かめるように、そっと握り返した。
明日もまた、学院で新しい一日が始まる。
きっと、分からないことや、考えなければならないことが出てくるだろう。
けれど、今はそれが少し楽しみだった。
俺たちは夜の静かな時間の中で、今日学んだことや、これから知りたいことについて、もう少しだけ言葉を交わし続けた。




