第120話 公爵令嬢様は、俺たちの知らない答えを急がずに見つけたいらしい
父さんの執務室の前で足を止めた俺は、手に持っていた鞄の位置を整えてから、扉を三度叩いた。
夕食までにはまだ少し時間があるものの、屋敷の中では一日の仕事を締めくくるための動きが始まっている。廊下の向こうからは使用人たちが行き交う足音が聞こえ、窓の外では夕暮れの光が庭園の木々を柔らかく照らしていた。
「入りなさい」
聞き慣れた父さんの声が返ってきたので、俺は静かに扉を開けた。
執務室の中では、グレイヴ・シルフィール執事長――俺の義父である父さんが、机の上に広げた書類を確認していた。窓際の棚には整理された帳簿が並び、壁際の時計は夕食の準備が本格的に始まる時刻へ近づいていることを示している。
「失礼します。学院から戻りましたので、ご報告に参りました」
「お帰り、セス。今日も無事に戻ったようだね。学院で何か変わったことはあったかな?」
父さんは手元の書類を揃え、俺の方へ穏やかな視線を向けた。
俺はまず、授業や学院での活動に大きな問題がなかったことを伝えた。それから、放課後にリビアや友人たちと図書室へ立ち寄り、以前から気になっていた案内表示を確認したことを説明する。
「図書室の担当の方には、最初にお断りをしました。表示を動かしたり、棚の配置を変えたりすることはせず、利用する側として気づいたことを整理しただけです」
「なるほど。以前、オリビア様と話していた件だね。その後、何か新しいことが分かったのかな?」
「はい。入口の案内板は大まかな分野を示していて、細かな分類は各書棚の札で確認できるようになっていました。ただ、入口から目的の棚へ向かう途中で、どこへ進めばいいか迷うことがあるかもしれません」
俺は鞄から手帳を取り出し、今日書き留めた内容を確認した。
ガレスが以前、魔術関係の本を探した際に迷ったこと。サザリーやエミリアと見比べてみると、入口の案内板と書棚の表示には、それぞれ違う役割があるように感じたこと。
そして、実際にどれくらいの利用者が困っているのか、今の表示がどういう目的で作られたのかについては、まだ分かっていないこと。
父さんは途中で口を挟まず、俺の説明を最後まで聞いてくれた。
「……ですので、今の段階で何かを変更した方がいいとは言えないと思っています。図書室の担当の方には、今後質問したいことができたら相談してもよいか確認しましたが、正式な変更をお願いしたわけではありません」
そこまで話すと、父さんは小さく頷いた。
「よく整理できているね。特に、確認した事実と、自分たちが感じたことを分けている点は大切だよ」
「ありがとうございます。でも、最初はもっと簡単に考えていました。案内板を見て分かりにくいところがあれば、そこを直せばいいんじゃないかって」
「それ自体が悪い考えというわけではない。ただし、実際に何かを変えるとなれば、別の問題が出てくることもある。今回のことで、その点にも気づけたようだね」
父さんはそう言って、机の上に置かれていた一枚の紙へ視線を落とした。
そこには仕事の予定が記されているらしかったが、俺の位置から内容までは見えない。父さんは紙を伏せてから、改めてこちらへ向き直った。
「例えば、屋敷の中で使用人向けの案内を新しく作るとしよう。君なら、何を最初に考える?」
突然の質問に、俺は少し考え込んだ。
案内を作るなら、誰が使うものなのかを確かめる必要がある。どこへ設置するのか、何を知らせるのかも重要だろう。
「……まず、誰が何のために使う案内なのかを確認します。それから、今の案内ではどんなことが分かりにくいのかを調べたいです」
「うん。それでは、案内を新しくしたことで、以前から使っていた人が迷うようになったらどうする?」
俺はすぐには答えられなかった。
新しい案内が分かりやすくなれば、全員にとって便利になると思っていた部分があったからだ。
けれど、以前から使っている人は、今の案内や配置を覚えている。
新しい表示に変わることで、かえって探すのに時間がかかる場合もあるのかもしれない。
「……新しい案内だけを考えるんじゃなくて、今の案内を使っている人への影響も確かめる必要があります」
「そのとおりだね。案内を変更する場合、表示そのものを作り直すだけでは済まないこともある。変更したことを知らせたり、古い表示との違いを説明したりする必要が生じるかもしれない」
父さんは落ち着いた声で続けた。
「そして、何より重要なのは、変更する権限を持つ者が、その必要性と影響を判断することだよ。気づいた人が善意で手を加えれば、それで済むというものではないからね」
俺は深く頷いた。
屋敷の仕事についても、同じことを教わっている。
自分が気づいたからといって、勝手に作業手順を変えてはいけない。現場の担当者や責任者に確認し、必要なら適切な手順で相談する。
それは、図書室の案内表示についても変わらないのだろう。
「……父さん。俺、最近になってようやく、自分ができることと、自分が決めていいことは違うんだって分かってきた気がします」
思わず口にした言葉に、父さんは少しだけ目を細めた。
「そうかい?」
「はい。前は、何か困っていることがあったら、俺が手伝えばいいと思っていました。魔法を使えば早く終わることもありますし、体を動かす仕事なら自分にもできることが多いと思っていたので」
俺は手帳を閉じ、両手で持ち直した。
「でも、誰かが担当している仕事には、その人が知っている理由や手順がありますよね。俺が勝手に手伝ったら、かえって困らせることもあるんだって、少しずつ分かってきました」
父さんはしばらく黙っていた。
その沈黙が長く感じられて、俺は何か間違ったことを言ってしまったのかと少し不安になった。
けれど、やがて父さんは穏やかに微笑んだ。
「……セス。君が人の役に立ちたいと思う気持ちは、昔から変わっていないね」
「そう、でしょうか」
「ああ。けれど、その気持ちをどう行動へ結びつけるかは、少しずつ変わってきているようだ」
父さんは椅子の背へ軽く体を預けた。
「誰かの仕事を尊重することは、何もしないという意味ではないよ。相手が何を必要としているのかを確かめ、そのうえで自分にできることを考える。君は今、その順序を学んでいるところなんだろうね」
その言葉が、胸の奥へゆっくり染み込んでいく。
俺は自分の手元へ視線を落とした。
(……順序、か。今までは、困っている人を見つけると、どうすれば早く助けられるかばかり考えていたのかもしれない)
もちろん、危険が迫っているときに、悠長に確認している余裕がない場合もある。
以前、学院でライゼルの暴走を止めたときのように、目の前の人を守るため、すぐに動かなければならない状況もあるだろう。
けれど、普段の仕事や、誰かが長く使い続ける仕組みについては違う。
自分が早く動くことよりも、正しく状況を知ることが大切になる場合があるのだ。
「……ありがとうございます、父さん。今日のことも、すぐに答えを出そうとせず、もう少し考えてみます」
「うん。ただし、学院での学びが本来の目的であることは忘れないように。図書室の運営を君たちが引き受ける必要はないからね」
「はい。分かっています」
俺が答えると、父さんは満足そうに頷いた。
それから壁際の時計へ目を向け、少し表情を和らげる。
「さて、そろそろ夕食の準備も進んでいる頃だね。君も部屋へ戻って、少し休みなさい。今日は学院でもいろいろ考えたようだから」
「はい。失礼します」
俺は一礼し、執務室をあとにした。
扉を静かに閉めると、廊下には夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。
父さんの言葉を思い返しながら歩いていると、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
何かを知ることと、何かを決めること。
その二つは、似ているようで違う。
今日の図書室での出来事も、きっとそのことを考えるための一つの経験になったのだろう。
◇
夕食の時間が近づく頃、俺は自室で制服を整え直していた。
学院から戻ったあと、父さんへの報告を終え、少しだけ休息を取った。机の上には今日使った教科書と手帳が置かれており、窓の外では夕暮れの色が徐々に深くなっている。
図書室で書き留めた内容を改めて見返してみると、短い文章の中にも、まだ考えるべきことがいくつも残っていた。
入口の案内板と書棚の表示。
それぞれが果たしている役割。
利用する人が何を期待しているのか。
そして、管理する側がどのような理由で現在の形を選んでいるのか。
俺は手帳の余白へ、父さんから教わったことを一つだけ書き加えた。
『分かりやすくすることと、勝手に変えることは違う』
書き終えたところで、扉が控えめに叩かれた。
「セス、少しいいかしら?」
聞こえてきた声に、俺は顔を上げた。
「リビア? うん、大丈夫だよ」
返事をすると、扉が開き、リビアが顔を覗かせた。
彼女は学院の制服から屋敷で過ごすための服へ着替えており、銀青色の髪も少し緩やかに整え直されていた。昼間とは違う柔らかな雰囲気に、俺は思わず見とれてしまう。
「……セス?」
「あっ、ごめん。どうしたの?」
慌てて尋ねると、リビアは少し不思議そうに首を傾げた。
けれど、すぐに俺の視線に気づいたのか、頬をほんのり赤く染める。
「……何か、変だった?」
「ううん。似合ってるなって思っただけだよ」
そう答えた途端、リビアは目を丸くした。
それから、ゆっくりと頬を赤く染めていく。
「……セス、最近そういうことを急に言うようになったわね」
「えっ? そうかな?」
「そうよ。私がどれだけ嬉しくなるか、分かっているのかしら」
彼女は少しだけ唇を尖らせたものの、その目元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。
俺はどう返せばいいのか分からず、頬を掻いた。
「……ごめん。でも、本当にそう思ったから」
「謝らなくていいの。むしろ、もっと言ってくれてもいいくらいよ」
リビアはそう言って、楽しそうに笑った。
俺はますます照れくさくなったが、彼女が嬉しそうにしているのを見ると、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
リビアは部屋へ入ると、机の上に置かれた手帳へ目を向けた。
「今日の図書室のことを整理していたの?」
「うん。さっき父さんに報告してきたんだ。それで、教えてもらったことを書き足していたところ」
「グレイヴは、何ておっしゃっていたの?」
彼女は興味深そうに尋ねながら、俺の隣へ歩み寄った。
俺は手帳を開き、先ほど書き加えた一文を見せた。
「今の案内を変えることになったら、以前から使っている人が迷うかもしれないって。それに、何かを変更するなら、判断する立場の人が必要性や影響を考えないといけないって教えてもらったよ」
リビアは手帳を覗き込み、しばらく考えてから頷いた。
「……確かに、そうね。私たちは、初めて使う人にとって分かりやすいかどうかを考えていたけれど、今の図書室を使い慣れている人のことも考えなくちゃいけないわ」
「うん。もちろん、何も変えない方がいいって決まったわけじゃないけど、少なくとも今の俺たちには、まだ判断できないことが多いと思う」
俺が答えると、彼女は静かに微笑んだ。
「セス、今日もたくさん考えたのね」
「リビアも一緒に考えてくれたからだよ」
そう言うと、彼女は少しだけ目を細めた。
「……そういうところも、好きよ」
あまりにも自然に告げられた言葉に、俺は思わず息を止めた。
リビアは俺の反応を見て、少し楽しそうに笑う。
「ふふっ。セスばかり私を照れさせるのは、不公平でしょう?」
「……リビア」
俺が困ったように名前を呼ぶと、彼女はますます嬉しそうに微笑んだ。
それから、そっと俺の手を取る。
指先が触れ合い、柔らかな温かさが伝わってきた。
「ねえ、セス。私、今日みんなと一緒に図書室を見てみて、少し安心したの」
「安心?」
「ええ。私たちだけで考えていると、気づかないこともあるでしょう? でも、サザリーやガレス、エミリアがそれぞれ違うことを教えてくれたから、考え方が少し広がった気がしたの」
彼女はそう言って、机の上の手帳へ視線を落とした。
「私ね、将来のことを考えるときも、同じようにできたらいいなって思ったわ」
俺は彼女の言葉を聞き、少しだけ姿勢を正した。
将来。
その言葉には、俺たちにとって特別な意味がある。
リビアは公爵家の一人娘で、俺はシルフィール伯爵家の養子になったとはいえ、もともとはスラムで育った孤児だ。
今は婚約者として隣にいられる。
けれど、結婚したあとに俺がどんな立場で、どのような仕事をしていくのかについては、まだ具体的に決まっていないことも多い。
俺は彼女の手を握り返しながら、静かに尋ねた。
「……将来のことって、俺たちの?」
「ええ。もちろん、今すぐ何かを決めたいわけじゃないの。でも、これから私たちが一緒に暮らしていくなら、きっと知らないことや、分からないことがたくさん出てくると思うの」
リビアは少し照れたように微笑んだ。
「そのとき、どちらか一人が全部決めるんじゃなくて、今日みたいに一緒に考えられたら嬉しいわ」
俺はすぐには答えられなかった。
彼女の言葉が、思っていた以上に胸の奥へ響いたからだ。
俺はこれまで、リビアを守れる人間になりたいと思ってきた。
彼女に危険が迫ったとき、迷わず助けられるように。
彼女が困っているとき、できるだけ早く力になれるように。
けれど、リビアが望んでいるのは、それだけではないのかもしれない。
何かを決めるときに、隣で一緒に考えること。
分からないことがあれば、二人で調べること。
そして、どちらかが無理をして全部を抱え込まないこと。
(……俺は、リビアを守ることばかり考えていたけど、一緒に生きていくって、そういうことも含まれるんだろうな)
俺は彼女の顔を見た。
リビアは少し不安そうに、俺の返事を待っている。
その表情を見て、俺は自然と微笑んだ。
「……うん。俺も、そうしたい」
俺が答えると、彼女の目がわずかに大きくなった。
「本当?」
「うん。俺だけじゃ分からないこともあるし、リビアが気づくこともたくさんあるから。二人で考えた方が、きっといい答えを見つけられると思う」
彼女はしばらく俺を見つめていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとう、セス」
その声には、ほっとしたような響きがあった。
俺は彼女の手をもう一度握り直した。
今すぐ将来のすべてを決めることはできない。
けれど、分からないことを一緒に考えていくという約束なら、今の俺にもできる気がした。
◇
夕食の席では、旦那様もいつもどおり穏やかな様子だった。
アルセス・パウリー公爵は、食事の前に俺たちへ学院での様子を尋ねてくださった。
リビアは今日の授業について簡単に話したあと、少しだけ姿勢を正した。
「お父様、今日は放課後にセスたちと図書室へ行ってきましたの」
「ほう。図書室か。何か調べものでもあったのかな?」
旦那様は興味深そうに尋ねた。
リビアは頷き、以前から気になっていた案内表示について、友人たちと一緒に確認したことを説明した。
ただし、彼女は何かを改善したいと決めたわけではないことも、きちんと伝えていた。
「入口の案内板と書棚の表示を見比べてみたのですけれど、まだ分からないことが多いと気づきました。今の表示がどういう理由で作られたのかも、私たちは知りませんもの」
旦那様は娘の話を聞きながら、穏やかに頷いた。
「なるほど。では、今日は結論を出すためではなく、今の状態を知るために見てきたということだね」
「はい。セスも、図書室の担当の方に確認してから見学しましたわ」
リビアがそう言うと、旦那様は俺へ視線を向けた。
「セス、君はどうだった?」
俺は少し緊張しながらも、今日感じたことを自分の言葉で説明した。
入口の案内板は大まかな場所を示していること。
書棚の札には、より細かな分類が書かれていること。
利用する人によって、どこで迷うかが違うかもしれないこと。
そして、実際に何かを変更する必要があるかどうかは、まだ分からないこと。
旦那様は最後まで聞いてから、静かに頷いた。
「うん。二人とも、よく考えているようだね」
その言葉に、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
けれど、旦那様はそこで話を終わらせず、リビアへ視線を向けた。
「オリビア。もし、今の案内が分かりにくいと感じた人がいたとして、その人が困らないようにする方法は、表示を変更することだけだと思うかい?」
リビアは少し驚いたように瞬きをした。
それから、考え込むように視線を落とした。
「……いいえ。図書室の方に尋ねることもできますし、別の案内方法があるかもしれませんわ」
「そうだね。では、その方法を選ぶときには、何を考える必要があるだろう?」
リビアはしばらく黙っていた。
俺も隣で考えたが、すぐには答えが浮かばなかった。
案内板を変える以外にも、方法はある。
けれど、どれがよいのかを決めるには、何を基準に考えればいいのだろう。
「……利用する方が困らないことと、図書室の方のお仕事に無理が出ないこと、でしょうか」
リビアが慎重に答えると、旦那様は微笑んだ。
「いい考えだね。ほかにも、費用や維持の手間、すでにある仕組みとの関係など、考えることはいくつもある。何かを良くしようとするときには、その方法を続けていけるかどうかも大切になるんだよ」
俺はその言葉に、思わず頷いた。
新しい案内を作ること自体は、難しくないかもしれない。
けれど、表示を更新し続ける必要があるなら、その仕事を誰かが担当しなければならない。
棚の配置が変わったときには、案内も変える必要があるだろう。
そうしたことまで考えなければ、最初だけ便利になっても、あとから困る人が出てくるかもしれない。
「……旦那様。何かを改善するときには、作ることだけじゃなくて、そのあとも考えなければならないんですね」
俺がそう言うと、旦那様は頷いた。
「そのとおりだよ、セス。新しい仕組みを作ることより、それを無理なく使い続けられるようにすることの方が難しい場合もある」
旦那様はそこで少しだけ表情を和らげた。
「ただし、君たちはまだ学生だ。図書室の運営について、すべてを考えなければならないわけではない。まずは、今の仕組みがどのように使われているのかを知ること。それだけでも十分に学びになるだろう」
その言葉を聞いて、俺は安心した。
父さんも同じようなことを言っていた。
何かに気づいたからといって、すべてを自分たちで解決しなければならないわけではない。
その場所を管理する人たちがいて、それぞれの役割がある。
俺たちは今、そのことを学んでいるのだ。
「ありがとうございます、お父様」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
旦那様も穏やかに頷き、話題はその日の授業や学院での出来事へ移っていった。
俺は食事を進めながら、今の会話を心の中で整理していた。
分かりやすくすること。
使い続けられること。
そして、誰が判断するのかを忘れないこと。
どれも、今の俺にとって大切な考え方だった。
◇
夕食を終えたあと、俺は自室へ戻り、机の上に手帳を広げた。
窓の外はすっかり暗くなり、庭園の灯りが石畳を淡く照らしている。屋敷の中では夜の仕事を担当する使用人たちが静かに動いており、遠くからは扉を閉める音がかすかに聞こえた。
俺は今日聞いたことを忘れないうちに、手帳へ書き留めることにした。
ただし、図書室の案内表示について、勝手に改善案を作るつもりはない。
今日の段階で分かっていることと、まだ分からないことを整理するだけだ。
『入口の案内板は大まかな区分を示している』
『書棚の札には細かな分類がある』
『利用する人によって、迷う場所が違う可能性がある』
『現在の表示がどのような目的で作られたのか、詳しくは分からない』
『変更の必要性や方法は、図書室の管理を担当する人が判断する』
そこまで書いたところで、俺は少し考えた。
父さんと旦那様から教わったことも、別の場所へまとめておきたい。
俺は手帳の次の頁を開いた。
『何かを変えるときには、今の仕組みを使っている人への影響を考える』
『新しい仕組みは、作ったあとも使い続けられる必要がある』
『自分ができることと、自分が決めてよいことは違う』
最後の一文を書き終えると、俺はペンを置いた。
こうして並べてみると、今日一日でずいぶん多くのことを考えた気がする。
けれど、不思議と疲れたという感覚はなかった。
もちろん、授業を受け、友人たちと図書室を歩き、父さんや旦那様から話を聞いたのだから、体には多少の疲れがある。
それでも、胸の奥には穏やかな充実感が残っていた。
(……知らないことが増えたのに、前より少しだけ分かるようになった気がするんだよな)
そんなことを考えていると、扉の向こうから控えめな足音が聞こえてきた。
続いて、軽く扉が叩かれる。
「セス、まだ起きている?」
リビアの声だった。
「うん。どうしたの?」
俺が返事をすると、彼女は扉を少し開けて顔を覗かせた。
夕食のときよりも少しくつろいだ服装で、髪も肩へ柔らかく流れている。
「少しだけ、お話ししたくなってしまったの。邪魔だったかしら?」
「ううん。ちょうど手帳を整理していたところだから、大丈夫だよ」
俺が答えると、リビアは安心したように微笑んだ。
彼女は部屋へ入り、机の隣に置かれた椅子へ腰を下ろした。
俺は手帳を閉じかけたが、リビアがその動きに気づいて首を傾げた。
「今日のことを書いていたの?」
「うん。父さんと旦那様から教わったことも、忘れないようにしておこうと思って」
俺がそう答えると、彼女は少し嬉しそうに微笑んだ。
「私もね、さっき自分の部屋で考えていたの。お父様がおっしゃっていたこと、今まであまり意識していなかったなって」
「新しい仕組みを作ったあとも、使い続けられるかどうかって話?」
「ええ。私は、分かりやすくなればそれでいいと思っていたところがあったの。でも、誰かが案内を作って、必要なら更新して、使う人に知らせることまで考えなくちゃいけないのね」
リビアはそう言って、少しだけ視線を落とした。
「……私、まだ知らないことが本当に多いわ」
その声には、わずかな悔しさのようなものが混じっていた。
俺は彼女の横顔を見つめた。
リビアは学問にも魔術にも優れていて、いつも周囲の人たちへ気を配っている。
けれど、彼女自身はそれだけで満足しているわけではないのだろう。
公爵家の一人娘として、これから自分が何を知り、何を学ぶべきなのか。
そのことを、彼女なりに真剣に考えているのかもしれない。
「……俺も、知らないことばかりだよ」
俺がそう言うと、リビアは顔を上げた。
「セスも?」
「うん。昨日の備品確認だって、実際に使っている人に教えてもらわなかったら、分からないことがたくさんあったし。今日の図書室でも、みんなの話を聞いて初めて気づいたことがあったから」
俺は少し考えてから続けた。
「だから、知らないことがあるのは仕方ないんじゃないかな。大事なのは、知らないまま勝手に決めつけないことだと思う」
リビアはしばらく俺を見つめていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……そうね。セスの言うとおりかもしれないわ」
彼女は椅子から少し身を乗り出し、俺の手へ自分の手を重ねた。
「ねえ、セス。私、これからもいろいろなことを一緒に学びたいわ」
「うん。俺もそう思ってるよ」
「お屋敷のことも、学院のことも、領地のことも……。もちろん、全部を一度に知ることはできないけれど、少しずつ分かるようになれたら嬉しいの」
彼女の瞳は、まっすぐ俺を見つめていた。
俺はその視線を受け止めながら、自然と微笑んだ。
「……じゃあ、これからも一緒に考えよう。分からないことがあったら、二人で調べたり、知っている人に教えてもらったりして」
リビアは嬉しそうに頷いた。
「ええ。約束よ、セス」
彼女はそう言って、俺の手を少しだけ強く握った。
俺もその手を握り返す。
指先から伝わる温かさに、胸の奥がゆっくりと満たされていくようだった。
俺たちはしばらく、そのまま静かに向き合っていた。
窓の外では夜風が庭木を揺らし、葉の擦れ合う音がかすかに聞こえてくる。
屋敷の中は落ち着いており、廊下を行き交う足音も少なくなっていた。
「……セス」
リビアが小さく名前を呼んだ。
「何?」
「今日、サザリーたちと一緒に図書室を見ていたとき、少しだけ思ったことがあるの」
彼女は俺の手を握ったまま、少し考えるように視線を落とした。
「私たちが何かを考えるとき、いつも二人だけで答えを出さなくてもいいのよね」
俺はその言葉に頷いた。
「うん。今日も、みんながそれぞれ違うことに気づいてくれたから、考えが広がったと思う」
「……そうよね。私、セスと一緒にいる時間が大好きだから、つい何でも二人で考えたくなってしまうの。でも、ほかの人の意見を聞くことも、きっと大切なのね」
リビアは少し照れたように微笑んだ。
俺は彼女の言葉を聞きながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼女が俺と一緒にいたいと思ってくれていること。
そして、それでも二人だけの考えに閉じこもらず、ほかの人の声も大切にしようとしていること。
その両方が、俺にはとても嬉しかった。
「……リビア。俺も、君と一緒にいる時間が好きだよ」
俺がそう答えると、彼女は少し驚いたように目を見開いた。
それから、頬を赤く染めて俯いた。
「……もう。セスったら」
「えっ? 何か変なこと言った?」
「変じゃないわ。ただ……そんなふうに言われると、嬉しくて困ってしまうの」
リビアはそう言って、俺の手を握り直した。
その指先が少しだけ震えているように感じられ、俺も自然と頬が熱くなった。
けれど、今度は慌てて手を離そうとは思わなかった。
俺は彼女の手を優しく包み込みながら、静かに微笑んだ。
「……これからも、よろしくね。リビア」
彼女はゆっくりと顔を上げた。
銀青色の髪が肩の上で柔らかく揺れ、夜の灯りを受けた瞳が穏やかに細められる。
「ええ。こちらこそ、よろしくね。セス」
その笑顔を見ていると、胸の奥にあった小さな不安が、少しずつ薄れていくようだった。
俺たちの将来には、まだ分からないことがたくさんある。
婚約者として、これからどんな道を歩んでいくのか。
俺がどんな仕事を担い、リビアとどのように支え合っていくのか。
今はまだ、すべての答えを出すことはできない。
けれど、それでいいのかもしれない。
分からないことがあれば、二人で考えればいい。
自分たちだけで分からなければ、周囲の人たちへ教えてもらえばいい。
そして、急いで決める必要のないことなら、時間をかけて考えていけばいいのだ。
俺はそんなことを思いながら、リビアの手をもう一度だけ握り返した。
彼女は何も言わず、ただ嬉しそうに微笑んでいた。
窓の外では、夜の庭園が静かに広がっている。
明日もまた、学院で新しい一日が始まる。
その先にどんな出来事が待っているのかは、まだ分からない。
それでも、リビアと一緒に学び、考え、少しずつ前へ進んでいけるのなら、きっと大丈夫だと思えた。
俺たちはしばらく、夜の静かな時間を分け合うように、穏やかに言葉を交わし続けた。




