第119話 公爵令嬢様は、俺と一緒に図書室の小さな困りごとを見つけたいらしい
朝食を終えたあと、俺は玄関広間へ向かう途中で、廊下の窓から庭園を眺めた。
昨夜のうちに弱い雨が降ったらしく、庭木の葉には細かな水滴が残っている。空はすでに明るく、雲の切れ間から差し込む日差しが、濡れた石畳の表面を静かに照らしていた。
屋敷の裏手では、使用人たちがいつもどおり仕事を進めている。
先日、荷車の車輪が沈みかけた通路については、まだ原因がはっきりしていない。重い荷物を運ぶ際には北側の経路を使うという暫定的な対応も続いており、今朝も担当者たちが決められた手順に従って動いていた。
俺は窓からその様子を見ながら、昨日の備品確認で教わったことを思い返した。
(見ただけで分かったつもりにならないこと。分からないことは、その仕事を知っている人に聞くこと……)
言葉にすれば簡単だが、実際にやってみると、今まで自分がどれだけ思い込みで動こうとしていたのかが分かる。
昨日、清掃部門の備品を確認していたときも、似た道具を同じものだと思いかけた。布の端がほつれているのを見つけたときには、担当者に確認するより先に、どう修繕すればいいかを考えてしまった。
どちらも、教えてもらわなければ気づかなかったことだ。
そう考えていると、背後から軽やかな足音が近づいてきた。
「セス、おはよう。何を見ていたの?」
振り返ると、学院の制服に身を包んだリビアが立っていた。
銀青色の髪はいつものように丁寧に整えられ、胸元の飾りも曲がっていない。けれど、俺と目が合った途端、その表情は公爵令嬢らしい落ち着いたものから、親しい相手に向ける柔らかな笑顔へ変わった。
「おはよう、リビア。庭の様子を少し見ていたんだ。昨日の仕事を思い出してね」
「備品の確認のこと?」
「うん。それと、裏の通路のことも。あそこも、見ただけで原因を決めつけちゃいけないんだろうなって」
俺がそう答えると、リビアは窓の向こうへ視線を向けた。
雨上がりの庭では、庭師が濡れた落ち葉を集めている。彼女はその様子をしばらく眺めてから、小さく頷いた。
「そうね。前に見せてもらったときも、私たちだけでは分からないことがあったもの。今は担当の方たちが確認してくださっているのだから、勝手に何かを変えたりせずに待つことも必要なのね」
「そうだね。俺も、できることがあるなら手伝いたいとは思うけど、まずは頼まれた仕事をきちんとしないと」
「ふふっ。昨日のセスみたいに?」
リビアが少し楽しそうに尋ねてきたので、俺は苦笑した。
「昨日は本当に教えてもらうことばかりだったよ。自分が知らないことって、思っていた以上に多いんだね」
「私は、そこが嬉しかったのよ。セスが何でも一人でできる必要はないって、少しずつ分かってくれているみたいだったから」
彼女はそう言うと、俺の隣へ並んだ。
肩が触れるほどではないが、手を伸ばせばすぐに届く距離だ。廊下にはほかの使用人も行き交っているため、俺は自然と姿勢を正したものの、リビアはそんな俺を見て少しだけ笑った。
「今日は学院ね。昨日はお屋敷でいろいろ教えてもらったけれど、学院でも何か新しいことを知れたらいいわ」
「うん。授業もあるし、放課後は図書室に寄る予定だったよね」
「ええ。前から気になっていた案内表示のこと、もう一度見てみたいの。もちろん、私たちが勝手に変えるわけではないけれど」
以前、学院の図書室を利用したとき、入口の案内板だけでは探している本の場所が分かりにくいのではないか、という話になったことがある。
ただ、そのときは自分たちが普段利用している場所を知っているからこそ、気づいていないことがあるかもしれないと考え、すぐに何かを提案することはしなかった。
リビアはその話を覚えていたらしい。
「今日は、何が分かりにくいのかを確かめるだけにしようと思うの。図書室の方のお仕事を増やしてしまうかもしれないし、利用する人によって困ることも違うでしょう?」
「うん。まずは今の案内がどうなっているか、ちゃんと見てみよう」
俺が答えると、彼女は満足そうに微笑んだ。
「それじゃあ、行きましょう。サザリーたちにも会えるわね」
俺たちは並んで玄関広間へ向かった。
屋敷の外では馬車の準備が整っており、御者がこちらへ一礼している。朝の空気は少しひんやりしていたが、雲の間から差す日差しには穏やかな温かさがあった。
リビアが馬車へ乗り込む際、俺はいつものように手を差し出した。
彼女はその手を取り、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、セス」
「どういたしまして、リビア」
何度も繰り返してきたやり取りなのに、彼女が俺の手を取るたび、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
それでも、以前のように慌てて手を離そうとは思わなかった。
リビアが安心して乗り込めたことを確かめてから俺も馬車へ乗り、向かい合う座席ではなく、いつものように彼女の隣へ腰を下ろした。
◇
学院へ到着すると、正門から校舎へ続く道には、すでに多くの生徒たちが集まっていた。
昨夜の雨で地面には少し湿り気が残っていたものの、歩く場所は整えられている。生徒たちは友人同士で話しながら教室へ向かい、遠くでは教師が登校してくる生徒へ挨拶をしていた。
俺たちが教室へ入ると、窓際の席にいたサザリーが顔を上げた。
「おはよう、セス、オリビア。今日は二人とも少し早いのね」
「おはよう、サザリー。馬車が順調だったから、思ったより早く着いたんだ」
俺が答えると、彼女は机の上の本を閉じた。
その隣ではガレスが鞄から教科書を取り出しており、こちらに気づくと片手を上げた。
「おはよう。そういえば、セスは昨日、屋敷の仕事を手伝ってたんだろ? どうだった?」
「おはよう、ガレス。うん、清掃部門の備品を確認する仕事だったんだけど、知らないことがたくさんあって勉強になったよ」
「へえ。お前が知らないことばかりって、ちょっと意外だな」
ガレスは本気で驚いたような顔をした。
俺が返事に困っていると、サザリーが呆れたように肩をすくめる。
「ガレス、セスだって全部知っているわけじゃないでしょう。むしろ、何でも知っていると思っている方がおかしいわよ」
「いや、分かってるって。ただ、セスって大抵のことを普通にこなすからさ。何かを教えてもらっているところが、あんまり想像できなくて」
そう言われても、俺としては困ってしまう。
自分では知らないことも、できないこともたくさんあると思っているのだが、どうやら周囲からは少し違って見えるらしい。
リビアはそんな俺を見て、なぜか得意そうに微笑んだ。
「昨日のセス、とても素敵だったのよ。担当の方のお話を真剣に聞いて、分からないことはちゃんと質問していたわ」
「……リビア。それは普通のことじゃないかな」
「普通のことでも、素敵だと思ったら褒めていいでしょう?」
彼女が当然のように答えたので、俺は言葉に詰まった。
ガレスは一瞬だけ俺たちを見比べ、それから面白そうに笑い始めた。
「なるほどな。オリビアにとっては、セスが何をしてても褒める理由になるわけか」
「何をしていても、ではないわ。きちんと考えて行動しているところが素敵なのよ」
「……そこは訂正するんだな」
ガレスの呟きに、サザリーが小さく吹き出した。
俺はどう返事をすればいいのか分からず、ひとまず自分の席へ鞄を置いた。
すると、近くで話を聞いていたエミリアが、穏やかな笑みを浮かべながら会話に加わってきた。
「でも、教えてもらうことって大切ですよね。私も以前、家の使用人が使う道具について尋ねたことがありますけれど、見た目だけでは分からない工夫がたくさんありました」
「エミリアもそういう経験があるんだね」
「はい。使う方にとっては当たり前のことでも、普段その仕事をしていない私には分からないことばかりでした。説明していただいて、初めて気づいたことも多かったです」
エミリアはそう言って、少し考えるように視線を落とした。
「だから、何かを改善したいと思っても、まずは実際に使っている方のお話を聞く必要があるのでしょうね」
その言葉を聞き、俺はリビアと顔を見合わせた。
今日の放課後、図書室で確かめようとしていることにも、同じ考え方が必要なのかもしれない。
「実は、放課後に図書室の案内表示を見てみようと思ってるんだ」
俺がそう話すと、サザリーが興味を示した。
「案内表示? 入口にある、棚の場所が書かれた板のこと?」
「うん。前にリビアと話していたんだけど、初めて利用する人には少し分かりにくいところがあるかもしれないって」
俺は以前気になったことを、覚えている範囲で説明した。
入口の案内板には大まかな区分が書かれているが、実際に棚へ向かうと、似た分野の本が複数の場所に分かれていることがある。
もちろん、それには図書室側の整理上の理由があるのかもしれない。
俺たちはその理由を知らないため、まずは利用する側として、どこで迷う可能性があるのかを確かめようとしていた。
サザリーは話を聞き終えると、少し考えてから頷いた。
「確かに、私は慣れているからあまり気にしていなかったけれど、初めて使う人なら迷うかもしれないわね」
「俺は最初、魔術関係の棚を探すのに少し時間がかかったぞ」
ガレスがそう言うと、サザリーが意外そうに振り向いた。
「そうだったの?」
「ああ。魔術の基礎と実技の本が別の棚にあってさ。入口の案内だけ見て、同じ辺りにあると思ったんだ」
「それは、棚の分類をよく見れば分かったんじゃない?」
「分かるまでに時間がかかったって話だよ。今は場所を覚えたから困ってないけど」
ガレスは苦笑しながら答えた。
そのやり取りを聞いて、俺は少し興味を引かれた。
同じ図書室を使っていても、どこで迷ったかは人によって違うらしい。
「……そういう話も聞けたら参考になるかもしれないね」
俺が言うと、サザリーはすぐに首を傾げた。
「でも、調べるなら図書室の方に相談した方がいいんじゃない? 私たちだけで案内板を変えるわけにはいかないでしょう」
「うん。そのつもりだよ。今日は今の表示を確認するだけで、何かを変更する予定はないんだ」
俺が答えると、彼女は納得したように頷いた。
「それなら、私も少し付き合おうかしら。利用する人によって、どこを見るのか違うかもしれないし」
「私も興味があります」
エミリアもそう言って微笑んだ。
ガレスは少し迷ったようだったが、結局は肩をすくめた。
「俺も行くよ。どうせ放課後は図書室で調べものをするつもりだったし」
思いがけず人数が増え、俺は少し驚いた。
けれど、リビアは嬉しそうに微笑んでいる。
「ありがとう、みんな。ただ、図書室を利用する方の邪魔にならないようにしましょうね」
彼女がそう言うと、サザリーは当然だというように頷いた。
「ええ。大勢で棚の前に集まったら、それこそ案内表示より困るものね」
その言葉に、俺たちは小さく笑った。
ちょうどそのとき、始業を知らせる鐘が鳴った。
教室のあちこちで椅子を引く音が響き、生徒たちがそれぞれの席へ戻っていく。
俺も席に着きながら、放課後のことを考えた。
(……自分たちだけで見ていたら、気づかないこともあるのかもしれないな)
昨日は仕事を知っている人から教えてもらった。
今日は、同じ場所を利用する友人たちの見方を知ることができそうだった。
◇
午前の授業では、エレナ先生による魔術の基礎理論が扱われた。
今日の内容は、魔力を使う際の制御と、術式を維持するために必要な集中の配分についてだった。
先生は教壇の前に立ち、黒板へ簡単な術式を書きながら説明を進めている。
「魔力の総量が多いことと、術式を安定して維持できることは別の問題です。必要以上に魔力を流せば、かえって制御が難しくなる場合もあります」
俺はその説明を聞きながら、手元の教科書へ目を落とした。
魔力を多く流せば、それだけ強い効果が得られるわけではない。
もちろん、術式の種類によって必要な魔力量は違うが、目的に合った制御を行うことが重要なのだという。
エレナ先生は黒板の術式を指し示した。
「たとえば、小さな光を一定の明るさで維持する術式に、大量の魔力を流し込んでも意味はありません。必要なのは、明るさを変えずに保つための調整です」
その説明に、教室のあちこちで生徒たちが頷いた。
俺も内容自体は理解できたが、ふと自分が普段魔法を使うときのことを思い返した。
(……必要な分だけ流すのは、確かに大切だよな。俺も、最初から強くしすぎないように気をつけているし)
ただ、自分にとって当たり前になっている調整が、ほかの人にも同じようにできるとは限らない。
以前、リビアと魔法の練習について話したときにも、感覚だけで説明してしまうと伝わりにくいことがあった。
そう考えていると、先生が教室を見渡した。
「では、術式の安定性を確かめる際に、何を観察すればよいでしょうか。クルセス君、答えてみてください」
突然名前を呼ばれ、俺は姿勢を正した。
「はい。術式が目的とする効果を一定に保てているか、魔力の流れに大きな乱れがないかを確認することだと思います。それから、術者自身に無理が出ていないかも大切です」
俺が答えると、先生は頷いた。
「そのとおりです。特に最後の点を忘れてはいけません。術式だけを見て、術者の状態を見落とすことがないようにしてください」
先生はそう言って、黒板へ新たな項目を書き加えた。
俺は席に戻りながら、少しだけ考え込んだ。
術式が安定していることと、それを維持している人が無理をしていないこと。
その二つを分けて考える必要があるのだ。
隣の席から、リビアが小さな声で囁いた。
「セス、今の答え、とても分かりやすかったわ」
「ありがとう。でも、先生が説明してくれたことを言っただけだよ」
「それでも、術者のことまで考えていたでしょう? 私はそこが素敵だと思ったの」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
俺は少し照れながらも、黒板へ視線を戻した。
先生の説明は続いており、教室には羽根ペンが紙を滑る音が静かに広がっていた。
◇
昼休みになると、俺たちはいつものように食事を取りながら、放課後の予定について話した。
ガレスは朝の会話を覚えていたらしく、パンを一口食べたあとで口を開いた。
「そういえば、図書室の案内を調べるって話だけど、具体的には何をするんだ?」
「まず、入口の案内板と実際の棚の表示を見比べようと思ってるよ。それから、分かりにくいところがあるかどうか、利用する側の目線で確かめたいんだ」
俺が答えると、サザリーが少し考えた。
「それなら、目的の本を決めて探してみるのはどうかしら。ただし、棚の前で長く立ち止まらないようにして」
「なるほど。普段から場所を知っている本じゃなくて、あまり探したことのない分野の方がよさそうだね」
俺がそう言うと、エミリアが頷いた。
「でも、最初から難しい分野を選びすぎると、案内表示の問題なのか、私たちが分類を知らないだけなのか分からなくなりそうですね」
確かに、そのとおりだ。
俺は少し考えた。
案内表示が分かりにくいのか、それとも自分が探し方を知らないのか。
その違いを確かめずに、案内板に問題があると決めつけてしまってはいけない。
「……そうだね。今日は何かを証明するつもりじゃなくて、どこで迷うかを見てみよう」
俺が答えると、リビアが嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、私たちが普段あまり使わない棚も見てみたいわ。もちろん、本を探している人の邪魔にならない範囲でね」
「じゃあ、最初に図書室の方へ確認しよう。案内板を見比べるだけなら問題ないかもしれないけど、複数人で動くことになるし」
俺がそう言うと、サザリーが感心したように頷いた。
「いいと思うわ。勝手に調査を始めるより、その方が安心ね」
ガレスは少し笑った。
「最近のセスって、前より確認することが増えたよな」
「……そうかな?」
「ああ。前なら、気づいたことがあったらすぐ自分で何とかしようとしてた気がする」
俺は思わず黙り込んだ。
確かに、以前の自分なら、図書室の案内表示についても、どこを変えれば分かりやすくなるかを先に考えていたかもしれない。
けれど、今は違う。
誰が使っているのか。
誰が管理しているのか。
どんな理由で今の形になっているのか。
それを知らないまま、自分の考えだけで進めることはできないと思っている。
「……父さんや、屋敷の人たちに教えてもらったからかな」
俺がそう答えると、リビアが静かに頷いた。
「それに、セス自身がちゃんと考えているからよ。教えてもらったことを、別の場所でも思い出せるのは大切だと思うわ」
彼女の言葉に、俺は少し照れくさくなった。
サザリーはそんな俺たちを見ながら、口元へ小さな笑みを浮かべた。
「二人とも、最近ますます息が合っているわね」
「そうかしら?」
リビアが嬉しそうに尋ねる。
サザリーは当然だというように頷いた。
「ええ。セスが考え込んでいると、オリビアが言葉を足してくれるし、オリビアが何かを思いつくと、セスが実際にどうするか考えているもの」
その指摘を聞いて、俺は少し驚いた。
自分では特に意識していなかったが、確かにそういうことは増えた気がする。
リビアも同じように感じたのか、俺の方を見て微笑んだ。
「……それなら、嬉しいわ」
彼女の声が少し柔らかくなった。
俺はその横顔を見ながら、自然と笑みを返した。
◇
放課後、俺たちは予定どおり学院の図書室へ向かった。
廊下には授業を終えた生徒たちの声が響き、窓からは午後の光が差し込んでいる。教室へ戻る者、部活動へ向かう者、友人同士で話しながら歩く者など、それぞれの目的地へ向かう生徒たちの間を、俺たちはゆっくり進んだ。
図書室へ近づくにつれて、周囲の声は少しずつ小さくなっていった。
入口の扉は開かれており、中からは紙の匂いと、静かにページをめくる音が漂ってくる。
俺はまず、入口付近の案内板へ目を向けた。
そこには、図書室の大まかな区分が記されている。
学問に関する資料、歴史、地理、魔術、文学など、主要な分野ごとの場所が示されていた。
ただ、細かな分類までは書かれていない。
俺たちはすぐに棚へ向かうのではなく、まず受付にいる図書室の担当者へ声をかけた。
「失礼します。少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
俺が声をかけると、担当者は手元の作業を止めて顔を上げた。
「はい。どうしましたか?」
「入口の案内板と書棚の表示について、利用する側から少し確認してみたいと思っているんです。何かを変更するつもりはありませんが、何人かで見比べても大丈夫でしょうか」
担当者は俺たちの人数を確かめるように視線を動かした。
そして、少し考えてから頷いた。
「静かに見ていただく分には構いません。ただし、棚の前を長く塞がないようにしてください。それから、表示を動かしたり、書棚の配置を変えたりすることはできません」
「はい。分かりました。ありがとうございます」
俺が礼を述べると、担当者は穏やかに微笑んだ。
「何か分からないことがあれば、受付で尋ねてくださいね」
その言葉を聞き、俺は少し安心した。
自分たちで考えるだけでは分からないことがあっても、尋ねられる相手がいる。
それは、昨日の備品確認と少し似ている気がした。
俺たちは受付から離れ、入口の案内板の前へ移動した。
ただし、五人で一度に並ぶと通行の邪魔になるため、少し距離を取って順番に確認することにした。
最初に案内板を見たのは、ガレスだった。
「……俺が前に迷ったのは、魔術の棚だな」
彼は声を抑えながら、案内板の一角を指した。
「ここには魔術って書いてあるけど、実際には基礎理論と実技の資料が分かれてるだろ? 初めて来たとき、全部同じ辺りにあると思ったんだ」
俺は案内板の文字を確認した。
確かに、大まかな分野としては魔術と書かれているが、細かな区分までは示されていない。
ただ、それだけで案内が不十分だとは言えない。
入口の案内板にすべての分類を書けば、かえって文字が多くなり、見づらくなる可能性もあるからだ。
「……まずは実際の棚を見てみようか」
俺がそう言うと、ガレスは頷いた。
俺たちは二人ずつ距離を空けて移動し、魔術関係の棚へ向かった。
棚の端には分類を示す札が取り付けられている。
そこには、基礎理論、術式研究、実技資料などの区分が書かれていた。
俺はそれを見て、少し考えた。
「ここまで来れば、どの棚に何があるか分かるね」
「ああ。だから、棚の前まで来れば迷わないんだよ。ただ、最初にどこへ向かえばいいのか分からなかった」
ガレスはそう説明した。
その違いは、思っていたより重要かもしれない。
棚そのものの表示が分かりにくいわけではない。
入口から目的の棚へ向かう途中で、必要な情報が足りないと感じたのだ。
俺は手帳を取り出しかけたが、すぐに動きを止めた。
図書室の利用者の邪魔にならないようにするなら、ここで立ち止まって長く書き込むのはよくない。
「……いったん、覚えておこう。あとで邪魔にならない場所で整理した方がいいね」
俺がそう言うと、ガレスは笑った。
「お前、本当に慎重になったな」
「慎重すぎるかな?」
「いや、悪いことじゃないだろ。俺も、棚の前で何人も立ち止まってたら困るし」
俺たちは小さく頷き合い、通路を空けた。
そのあと、サザリーとエミリアが別の棚を見て戻ってきた。
サザリーは少し考え込んだ表情をしている。
「歴史の棚は分かりやすかったわ。ただ、年代別の資料と地域別の資料が別の場所にあるから、探している本の内容によっては迷うかもしれないわね」
エミリアも頷いた。
「でも、棚の札を見れば区別できました。私は、入口の案内だけで全部分かるようにする必要があるのか、少し迷っています」
「どうして?」
俺が尋ねると、エミリアは静かに答えた。
「入口の案内板は、まず大まかな場所を知らせるものかもしれません。細かい分類は棚の札で確認するようになっているなら、それはそれで意味があると思うんです」
俺はその言葉に頷いた。
確かに、案内表示にはそれぞれ役割があるのかもしれない。
入口では大まかな場所を知らせ、棚の前では細かな分類を示す。
その仕組みが意図されたものなら、単純に入口の情報を増やせばよいとは限らない。
リビアも同じことを考えていたらしく、少し考えながら口を開いた。
「……それなら、私たちが感じた分かりにくさは、案内板そのものの問題ではなくて、どこまで案内してもらえると思っていたかの違いなのかもしれないわね」
その言葉を聞き、俺は彼女へ顔を向けた。
「期待していた案内と、実際の案内が違ったってこと?」
「ええ。もちろん、それで迷う人がいるなら考える余地はあると思うわ。でも、今の表示が間違っていると決めつけるのは違う気がするの」
リビアはそう言って、少しだけ眉を寄せた。
彼女は真剣に考えているようだった。
俺はその横顔を見ながら、昨日の清掃部門での説明を思い出した。
使う人にとって便利かどうか。
それを考えるには、実際に使っている人の話を聞く必要がある。
けれど、同時に、管理する側の事情も知らなければならない。
「……図書室の方に、今の表示がどういう考え方で作られているのか聞いてみるのもよさそうだね」
俺がそう言うと、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「うん。私もそう思うわ」
◇
俺たちは図書室の奥へ進み、普段あまり利用しない棚も少しだけ確認した。
ただ、途中でほかの生徒が本を探しに来たため、その場所はすぐに譲ることにした。
生徒は俺たちへ軽く頭を下げ、棚の前へ進んでいく。
その様子を見て、俺は改めて思った。
図書室は、俺たちだけの場所ではない。
誰かが本を探し、誰かが調べものをし、誰かが静かに読書をする。
そのために必要な環境を保つことも、案内表示と同じくらい大切なのだろう。
しばらくして、俺たちは入口から少し離れた閲覧席の一角へ移動した。
そこならほかの利用者の通行を妨げず、静かに話をすることができる。
五人で席に着くと、俺は手帳を開いた。
「じゃあ、今見て分かったことを整理してみようか」
俺がそう言うと、サザリーが頷いた。
「まず、入口の案内板には大まかな分野が書かれているわね。細かな分類は、各書棚の札を見る必要がある」
「魔術の棚は、入口の案内だけだと実技の本がどこにあるか分かりにくかったな」
ガレスが続ける。
エミリアは少し考えてから口を開いた。
「でも、棚の札は分かりやすかったです。だから、入口の案内と棚の表示の間をどう考えるか、という問題なのかもしれません」
俺は三人の言葉を聞きながら、手帳へ短く書き留めた。
ただし、これはあくまで俺たちが感じたことだ。
図書室全体の利用状況を調べたわけでもなければ、ほかの生徒たちが同じように感じているかも分からない。
そのため、決めつけた表現にならないように気をつけた。
『入口の案内板は大まかな区分を示している』
『細かな分類は書棚の札で確認できる』
『一部の利用者は、入口から目的の棚へ向かう途中で迷う可能性がある』
そこまで書いたところで、俺は手を止めた。
「……最後のところは、まだ分からないことが多いね」
俺がそう言うと、サザリーが頷いた。
「そうね。私たちが少し迷ったからといって、ほかの人も同じとは限らないわ」
「それに、図書室の方が普段どんな質問を受けているのかも知らないですね」
エミリアの言葉に、俺は頷いた。
ガレスは少し考え込んだあと、椅子の背へ軽く寄りかかった。
「じゃあ、結局どうするんだ? 案内板を変えた方がいいって話にはならないのか?」
その質問に、俺はすぐには答えられなかった。
今の段階では、何を変えるべきなのか判断できない。
そもそも、変更が必要なのかどうかも分からないのだ。
すると、リビアが静かに口を開いた。
「私は、今すぐ何かを変える必要はないと思うわ。今日は、私たちがどんなところで迷う可能性があるのか、少し分かっただけでも十分じゃないかしら」
彼女はそう言って、俺の手帳へ目を向けた。
「もし、これからも気になることがあるなら、図書室の方に相談してみればいいと思うの。でも、その前に、私たち自身が何を知りたいのか整理した方がよさそうね」
俺はその言葉に頷いた。
「うん。今の表示がどういう目的で作られているのか。それから、利用者からどんな質問があるのか。まずはそういうことを聞いてみたいね」
サザリーは少し微笑んだ。
「それなら、無理のない範囲で相談できそうね。私たちが勝手に改善案を作って持ち込むより、ずっといいと思うわ」
ガレスも納得したように頷いた。
「まあ、そうだな。俺も別に、案内板を変えてほしいって決めてたわけじゃないし。初めて来たときに迷ったことを思い出しただけだから」
俺たちはそこでいったん話を区切った。
今日分かったことはある。
けれど、分からないことも残っている。
その両方を整理できたことが、俺には少し嬉しかった。
◇
しばらくして、サザリーたちはそれぞれの用事へ戻ることになった。
ガレスは魔術の資料を探しに行き、エミリアは借りる予定の本を確認するという。サザリーも調べものがあるらしく、俺たちへ軽く手を振って席を立った。
「じゃあ、セス、オリビア。また明日ね」
「うん。また明日」
俺が答えると、リビアも微笑んだ。
「今日はありがとう、サザリー。とても参考になったわ」
「こちらこそ。普段気にしていなかったことを考えられて、面白かったわ」
サザリーはそう言って、二人のあとを追った。
俺とリビアは、しばらくその場に残ることにした。
窓から差し込む午後の光が、机の上に置いた手帳を照らしている。
図書室の中は静かで、遠くから本を棚へ戻す音が聞こえていた。
リビアは手帳の文字を眺めながら、少し考え込んでいる。
「……セス」
「何?」
「今日、みんなと一緒に見てみてよかったわね」
「うん。俺たちだけだったら、気づかなかったこともあったと思う」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「私ね、最初は案内板のことを、もっと分かりやすくできたらいいなって思っていたの。でも、今日見てみたら、何をどう変えればいいのか、まだ分からないことが多いって気づいたわ」
彼女は少しだけ視線を落とした。
「……それって、少し不思議ね。調べたのに、分からないことが増えたみたい」
俺はその言葉を聞き、思わず笑みを浮かべた。
「俺も同じことを思ってたよ。でも、知らないことが分かったなら、それも前に進んだってことなんじゃないかな」
リビアは顔を上げた。
「そうかしら?」
「うん。最初は案内板を見て、分かりにくいかもしれないって思っただけだった。でも、今は入口の案内と棚の札で役割が違うことも分かったし、利用する人によって迷う場所が違うかもしれないって気づけたから」
俺は手帳を閉じ、彼女へ微笑んだ。
「まだ答えは出てないけど、何を確かめればいいのかは少し分かった気がする」
リビアはしばらく俺の顔を見つめていた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……うん。そうね。私も、そう思うわ」
彼女はそっと俺の手へ自分の手を重ねた。
図書室の中なので、大きな声を出したり、目立つことをしたりするつもりはない。
けれど、リビアの手の温かさが伝わってくると、俺は少しだけ胸が落ち着かなくなった。
「セス、最近ね、私たちが一緒に考えることが増えたでしょう?」
「うん。そうだね」
「私、それがとても嬉しいの。セスが何かを教えてくれるのも好きだけれど、二人とも分からないことを、一緒に考える時間も好きだわ」
彼女の声は、いつもより少し柔らかかった。
俺はその言葉を聞きながら、これまでのことを思い返した。
最初は、リビアを守ることばかり考えていた。
もちろん、今でも彼女の安全を大切に思っている。
けれど、最近はそれだけではなくなってきた。
リビアが何を考え、何を知りたいと思っているのか。
彼女と一緒に学ぶことで、自分自身も知らなかったことに気づく。
そういう時間が、俺にとっても大切なものになっていた。
「……俺も好きだよ。リビアと一緒に考える時間」
俺がそう答えると、彼女は少し驚いたように瞬きをした。
それから、頬をほんのり赤く染めた。
「……そういうことを、そんなに自然に言うのね」
「えっ? 何か変だった?」
「変じゃないわ。全然、変じゃないの。ただ……」
リビアは少しだけ視線を逸らし、俺の手を握る力を強めた。
「……嬉しくて、少し困ってしまっただけ」
その様子を見て、俺もようやく自分の言葉がどう聞こえたのかを理解した。
途端に顔が熱くなる。
「……ご、ごめん」
「どうして謝るの?」
「いや、その……」
俺が言葉に詰まっていると、リビアは小さく笑った。
「謝らなくていいのよ、セス。私は、嬉しかったんだから」
彼女はそう言って、俺の手を優しく握り直した。
その笑顔を見ていると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
俺は少しだけ息を整え、彼女の手を握り返した。
◇
図書室を出る前に、俺たちは受付へ立ち寄った。
先ほど対応してくれた担当者が、返却された本を整理している。
俺は作業の邪魔にならないよう、少し待ってから声をかけた。
「先ほどはありがとうございました。案内板と棚の表示を見比べることができました」
担当者は顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「それはよかったです。何か気になることはありましたか?」
「はい。ただ、今の段階では分からないことも多くて……。もし今後、案内表示について質問したいことができたら、相談しても大丈夫でしょうか」
俺がそう尋ねると、担当者は少し考えてから頷いた。
「質問でしたら、もちろん構いません。ただ、表示の変更などについては、私だけで決められることではありませんので、その点はご了承ください」
「はい。分かっています。今日は何かを変えてほしいというお願いではありません」
俺が答えると、担当者は安心したように微笑んだ。
「それなら、また必要なときにお声がけください。図書室の利用について分からないことがあれば、できる範囲でご案内します」
「ありがとうございます」
俺は丁寧に礼を述べた。
リビアも隣で頭を下げる。
「今日は見学させていただいて、ありがとうございました。お仕事のお邪魔にならないように気をつけますので、また利用させてください」
「もちろんです。いつでもお越しください」
担当者の言葉を聞き、俺たちは図書室をあとにした。
廊下へ出ると、窓から差し込む光が少し傾いていた。
放課後の学院にはまだ生徒たちの姿があり、遠くからは部活動の準備をする声が聞こえてくる。
俺はリビアと並んで歩きながら、手帳を鞄へしまった。
「……今日は、思っていたよりいろいろ分かったね」
俺がそう言うと、リビアは頷いた。
「ええ。でも、まだ答えは出ていないわね」
「うん。だから、今度は何を聞きたいのか整理してから相談しようと思う」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「私も一緒に考えていい?」
「もちろん。最初から一緒に考えてたんだから」
俺が答えると、彼女は少しだけ頬を赤くした。
「……ありがとう、セス」
その声があまりにも柔らかかったので、俺は思わず彼女の顔を見た。
リビアは嬉しそうに微笑んでいる。
俺も自然と笑みを返した。
◇
夕方、パウリー公爵邸へ戻ると、玄関広間にはいつもの落ち着いた空気が広がっていた。
使用人たちが帰邸した俺たちを迎え、上着や荷物の扱いを確認してくれる。
俺は自分の荷物を整えながら、今日の図書室でのことを思い返した。
案内表示については、まだ何も決まっていない。
ただ、以前より少しだけ、考えるための材料が増えた。
それは、昨日の備品確認で学んだことと似ているように思えた。
分からないことを、分からないままにしない。
けれど、分からないからといって、急いで答えを決めつけない。
必要なときには、その場所を知っている人へ尋ねる。
そして、自分たちができることと、判断を任せるべきことを区別する。
俺はそんなことを考えながら、廊下を歩いていた。
すると、隣にいたリビアが、ふと足を緩めた。
「……ねえ、セス」
「何?」
「今日のこと、お父様にも少しお話ししてみたいわ」
俺は彼女へ顔を向けた。
「図書室の案内表示のこと?」
「ええ。でも、何かを変えてほしいという話ではないの。私たちが、知らないことを調べたり、ほかの人の意見を聞いたりしていることを、お話ししたいと思って」
リビアは少し考えながら続けた。
「お父様は、いつもいろいろなお仕事をなさっているでしょう? きっと、私たちがまだ知らない考え方もご存じだと思うの」
俺はその言葉に頷いた。
旦那様は、公爵家の当主として多くの人や仕事に関わっている。
もちろん、学院の図書室の案内表示について詳しいとは限らない。
けれど、何かを考えるときに、どんなことを大切にしているのかは、聞いてみたい気がした。
「うん。いいと思うよ。ただ、旦那様もお忙しいだろうから、時間があるときにね」
「もちろんよ。急いで聞かなければならないことではないもの」
リビアはそう言って、嬉しそうに微笑んだ。
「……セスも、一緒に聞いてくれる?」
俺は少し驚いた。
「俺も?」
「ええ。だって、今日も一緒に考えたでしょう? それに、セスがどう思ったのかも、お父様に聞いていただきたいの」
彼女はそう言って、俺の手をそっと取った。
俺は少しだけ考えてから頷いた。
「……うん。旦那様のご都合がよければ、俺も一緒に聞いてみたい」
その答えを聞くと、リビアは満足そうに微笑んだ。
「ありがとう、セス」
俺たちはそのまま、夕食までの時間をそれぞれの準備に使うことにした。
リビアは自室へ戻り、俺は父さんへ帰邸後の報告を済ませるため、執務室へ向かった。
廊下の窓からは、夕暮れの光が差し込んでいる。
朝には雨粒が残っていた庭木も、今はすっかり乾いているようだった。
俺はその景色を横目に見ながら、今日の手帳に書き留めた言葉を思い出した。
『入口の案内と棚の表示では、役割が違うかもしれない』
『利用する人によって、迷う場所が違う可能性がある』
『今の表示がどういう目的で作られているのか、まだ分からない』
分かったことと、分からないこと。
その両方が、今日の俺たちにとって大切な収穫だった。
そして何より、リビアや友人たちと一緒に考えられたことが、俺には嬉しかった。
(……明日も、何か新しいことを知れたらいいな)
そう思いながら、俺は父さんの執務室の前で足を止めた。
扉を叩く前に、もう一度だけ姿勢を正す。
今日学んだことを、今度は自分の言葉で伝えてみよう。
そう考えると、不思議と少し楽しみになっていた。




