第118話 公爵令嬢様は、俺が教えてもらう姿を隣で見守りたいらしい
朝の光がパウリー公爵邸の東側の窓から差し込み、磨き上げられた廊下の床へ淡い金色の帯を落としていた。
俺はいつもより少し早く目を覚まし、身支度を整えてから、机の上に置いていた小さな手帳を開いた。昨夜、父さんから伝えられた予定を確認するためだ。
今日の午前中には、屋敷内で使用する備品の確認作業がある。
俺が担当するのは、確認に必要な準備と、許可された範囲での補助。数量や状態について最終的に判断するのは、各備品を管理している担当者であり、俺が勝手に記録を変更したり、物の配置を決めたりしてはいけない。
父さんから説明されたことを思い返しながら、俺は手帳へ書き留めていた一文に目を向けた。
『分からないことは、担当者へ確認する』
ごく当たり前のことのように思える。
けれど、昨日の学院でサザリーに相談するまで、俺は何か分からないことがあっても、まず自分だけで答えを見つけようとすることが多かった。
(……今日は、教えてもらうことも仕事のうちなんだよな)
そう考えてから手帳を閉じ、机の上を整える。
窓の外では庭師たちが朝の作業を始めており、遠くから箒で小道を掃く音が聞こえてきた。庭の木々には朝露が残っているようで、風が枝を揺らすたびに小さな光がきらめいている。
俺はその景色を少し眺めたあと、部屋を出た。
廊下へ出ると、朝食の準備を進める使用人たちが、それぞれの持ち場へ向かっていた。
すれ違う人たちと挨拶を交わしながら歩いていると、曲がり角の向こうから聞き慣れた声がした。
「おはよう、セス」
顔を上げると、リビアが廊下の先に立っていた。
銀青色の髪は丁寧に整えられており、朝の光を受けて柔らかく輝いている。彼女は俺の姿を見つけると嬉しそうに微笑み、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
「おはよう、リビア。今日は早いね」
「セスに会いたかったから、少し早く支度をしたの。それに、今日はお屋敷でお仕事を教えてもらう日でしょう?」
リビアは俺の前で足を止めると、少し期待を込めたような目で見上げてきた。
「昨日から楽しみにしていたのよ。セスがどんなことを教えてもらうのか、私も気になっているもの」
「うん。ただ、俺も詳しいことはまだ聞いてないんだ。父さんが、朝になったら担当する人から説明を受けるようにって」
「そうなのね。じゃあ、まずはお話を聞くところから始まるのね」
リビアはそう言って頷いたあと、少しだけ声を落とした。
「……私も一緒に見学できたら嬉しいけれど、お仕事の邪魔になってはいけないわよね」
その言葉を聞いて、俺は昨夜の父さんの説明を思い出した。
今日の作業は屋敷の内部管理に関わるものだ。リビアが公爵家の令嬢だからといって、俺の判断で見学を認めていいわけではない。
「父さんに確認してみようか。リビアが見学しても大丈夫な場所なのか、俺にはまだ分からないから」
そう答えると、彼女は少し驚いたように瞬きをした。
それから、嬉しそうに目を細めた。
「……うん。そうしましょう。セスがちゃんと確認してくれるの、私も嬉しいわ」
「昨日も言ってたもんね。誰かに頼るところを見てみたいって」
「ええ。でも、無理にお願いするつもりはないのよ。お仕事には決まりがあるし、私がそこへ入ることで困る人がいたら嫌だもの」
彼女の言葉には、いつもの甘えた響きだけではない、相手の立場を考える真剣さがあった。
俺はその横顔を見ながら、自然と微笑んだ。
「ありがとう、リビア。じゃあ、朝食のあとで父さんに聞いてみるね」
「うん。お願いね、セス」
リビアはそう答えると、そっと俺の隣へ並んだ。
俺たちは朝食の時間まで少し余裕があることを確かめ、窓から庭の見える廊下をゆっくり歩き始めた。
◇
朝食を終えたあと、俺は父さんの執務室を訪ねた。
扉を叩くと、中から落ち着いた声が返ってくる。
「入りなさい」
「失礼します」
俺が扉を開けると、父さんは机の上に広げていた書類を揃えていた。
部屋の壁際には用途ごとに整理された書棚が並び、窓から入る光が机の端を照らしている。父さんは書類を所定の場所へ置いてから、俺へ顔を向けた。
「おはよう、セス。時間どおりだな」
「おはよう、父さん。昨日言っていた備品の確認作業について、説明を聞きに来たんだ」
「うむ。今日の作業は、清掃部門が使用する備品の定期確認だ。お前には、その準備と補助を担当してもらう」
父さんはそう言って、一枚の紙を机の上へ置いた。
そこには、今日の作業の流れが簡潔に記されている。
保管場所の確認、担当者による数量確認、状態の確認、必要事項の記録。そして、作業終了後の片づけ。
ただし、実際の数量や使用状況が記された管理台帳は、担当者が扱うことになっていた。
「担当するのは、清掃部門の責任者と、その補助に入る使用人だ。お前は指示された備品を確認しやすい位置へ整えるなど、必要な範囲で手伝いなさい」
「分かった。勝手に数を決めたり、記録を変更したりしないようにするよ」
俺が答えると、父さんは小さく頷いた。
「それでよい。もっとも、今日の作業で重要なのは、数量を数えることだけではない」
「……ほかにも確認することがあるの?」
「ある。だが、それは担当者から教わりなさい。実際にその備品を使っている者の説明を聞くことにも意味がある」
父さんはそう言って、俺の反応を確かめた。
俺は少し考えてから頷いた。
「うん。ちゃんと話を聞いてくる」
「よろしい」
父さんが再び書類へ目を向けたところで、俺は今朝リビアと話したことを思い出した。
「あの、父さん。もう一つ聞いてもいい?」
「何だ」
「リビアが、今日の作業を見学できるか気にしていたんだ。でも、俺には判断できないから、父さんに確認しようと思って」
父さんはすぐには答えず、少し考えるように顎へ手を添えた。
「オリビア様が、清掃部門の備品確認を見学したいと?」
「うん。ただ、作業の邪魔になったり、見せてはいけないものがあったりするなら、無理にお願いするつもりはないって言ってたよ」
俺がそう伝えると、父さんはわずかに表情を和らげた。
「そのように考えておられるなら、まずは担当者へ確認するのがよいだろう。今日扱う場所や記録の範囲によって、見学できる部分は異なる」
「じゃあ、今はまだ決められないんだね」
「そうだ。見学を希望されていることは私から伝えておく。ただし、許可されるまでは作業場所へ案内しないこと。見学が認められた場合も、担当者の指示に従っていただく」
俺は頷いた。
「分かった。リビアにもそのまま伝えるよ」
父さんは満足そうに頷き、机の端へ置いていた小さな紙を俺へ差し出した。
「それから、今日の作業では、この確認項目を使いなさい。実際の管理台帳ではなく、補助者が作業の順序を確かめるためのものだ」
受け取った紙には、作業開始前に確認することが書かれていた。
担当者の名前、作業する場所、扱ってよい備品、触れてはいけないもの、困ったときの連絡先。
俺はその項目を一つずつ読み、少し驚いた。
「……作業を始める前に、こんなに確認するんだね」
「当然だ。自分が何をしてよいか分からないまま作業を始めれば、余計な手間を増やすことになる」
父さんは落ち着いた声で続けた。
「お前は器用だから、目の前の仕事を進めること自体は得意だろう。しかし、作業を早く終えることと、正しく終えることは同じではない。今日はその違いも学びなさい」
俺は紙を持つ手に少し力を込めた。
(……早く終えることと、正しく終えることは違う、か)
何となく分かっていたつもりだった。
けれど、こうして改めて言葉にされると、まだ自分には学ぶことがたくさんあるのだと感じる。
「うん。ありがとう、父さん」
「礼は作業を終えてからでよい。まずは担当者のもとへ向かいなさい」
俺は一礼し、執務室を出た。
◇
清掃部門の備品を保管している部屋は、使用人たちが行き来する廊下の奥にあった。
普段から何度か近くを通ったことはあるが、備品の確認作業に立ち会うのは初めてだ。
扉の前では、清掃部門の責任者である女性が、もう一人の使用人と話をしていた。
俺が近づくと、二人は会話を切り上げ、こちらへ顔を向けた。
「おはようございます。本日、備品確認の補助を担当するクルセス・シルフィールです。よろしくお願いいたします」
俺が挨拶すると、責任者の女性は穏やかに頷いた。
「おはようございます、セス様。執事長からお話は伺っています。本日はよろしくお願いいたします」
彼女はそう言って、隣にいた使用人へ目を向けた。
「こちらは、今日一緒に確認を行う者です。まずは作業の流れをご説明しますので、分からないことがあれば遠慮なくお尋ねください」
「はい。よろしくお願いします」
俺が答えると、責任者は扉を開け、室内へ案内してくれた。
部屋の中には、棚が整然と並んでいた。
布類、清掃用の道具、交換用の小物などが、それぞれ決められた場所へ保管されている。棚の前には通路が確保されており、物を取り出す際に邪魔にならないよう、床には余計なものが置かれていなかった。
俺はその様子を見て、少し感心した。
「……すごく整理されているんですね」
思わず口にすると、責任者は小さく笑った。
「ありがとうございます。ただ、整理されているように見えても、実際に使う人にとって不便なことがないか、定期的に確認する必要があるんですよ」
「不便なこと、ですか?」
「ええ。たとえば、同じ種類の布でも、用途によって使う場所が違います。数が揃っていても、必要な場所へ持っていくのに手間がかかる配置では、使いやすいとは言えません」
彼女はそう説明しながら、一つの棚を指し示した。
そこには大きさの異なる布が、種類ごとにまとめられている。
「こちらは日常的に使うものですが、使用頻度によって置き場所を分けています。奥の棚にあるものは、毎日使うわけではありません」
俺は頷きながら説明を聞いた。
ただ数を揃えておけばいいわけではない。
使う人が、必要なときに無理なく取り出せることも大切なのだ。
責任者は続けて、今日の確認作業について説明してくれた。
「まず、こちらの棚にある備品を確認します。私が管理台帳を見ながら数量を確認しますので、セス様には指定したものを見やすい位置へ整えていただきたいんです」
「分かりました。どこまで動かしても大丈夫ですか?」
俺が尋ねると、責任者は少し嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。確認が終わったものは元の位置へ戻しますが、棚の外へ出してよいものと、その場で確認するものがあります。こちらからお声がけしますので、指示したものだけ動かしてください」
「はい。勝手に動かさないようにします」
俺はそう答え、手元の確認項目へ目を落とした。
作業場所、担当者、扱ってよい備品。
父さんから渡された紙に書かれていたことを、実際に確認できた。
責任者はその様子を見て、小さく頷いた。
「執事長から、今日は確認しながら進めるようにと伺っています。こちらも説明が足りないことがあるかもしれませんから、気づいたことがあれば教えてくださいね」
「はい。よろしくお願いします」
俺は改めて一礼した。
こうして、今日の作業が始まった。
◇
最初に確認したのは、日常的に使う布類だった。
責任者が種類を指定し、俺は指示された束を棚の手前へ移した。
布は大きさごとに揃えられていたが、同じように見えるものでも厚みや用途が異なるらしい。
俺は最初、見た目だけで判断できそうだと思った。
けれど、実際に手に取ってみると、似た色の布でも織り方や手触りが違っている。
「……すみません。この二つは、同じ種類ではないんですか?」
俺が尋ねると、責任者は近づいてきて、二つの布を見比べた。
「よく気づかれましたね。こちらは家具の表面を拭くためのもの、もう一方は水気を取るときに使うものです。色が似ていますが、用途は違います」
彼女はそう言いながら、それぞれの布の端を軽く持ち上げた。
「こちらは柔らかく、表面を傷つけにくいようにしています。一方、こちらは水を吸いやすい織り方になっているんです」
俺は説明を聞きながら、指先で布の感触を確かめた。
確かに、柔らかさが違う。
けれど、何も知らずに見ただけでは、同じものだと思ってしまいそうだった。
「……なるほど。ありがとうございます。見た目だけで判断しなくてよかったです」
「ええ。特に清掃用の備品は、似ていても使い道が違うものがありますからね。迷ったときは、必ず確認してください」
責任者はそう言って微笑んだ。
俺は頷き、指示されたものだけを手前へ整えた。
その間、もう一人の使用人が数量を読み上げ、責任者が管理台帳へ記入していく。
俺はそのやり取りを横で聞きながら、作業の順序を覚えていった。
数量を確認する人。
記録する人。
物を動かす人。
それぞれの役割が分かれているからこそ、確認した内容が混ざらずに済むのだろう。
しばらくすると、責任者が一つの束へ目を向けた。
「こちらは、状態を確認してから戻しましょう」
俺は指示に従い、束を手前へ移した。
その中には、端が少しほつれた布が一枚混ざっていた。
俺はそれを見つけ、思わず手を止めた。
(……このくらいなら、縫い直せば使えるかもしれない)
そう考えた瞬間、いつもの癖で、どう修繕すればよいか頭の中に手順が浮かんだ。
けれど、すぐに父さんの言葉を思い出した。
今日の俺は、備品の状態を判断する担当者ではない。
勝手に修繕したり、使えるものとして戻したりしてはいけない。
「すみません。この布の端が少しほつれているように見えるんですが、どうすればいいでしょうか」
俺が尋ねると、責任者は布を受け取り、丁寧に状態を確認した。
「ありがとうございます。こちらは使用状況を確認してから、修繕するか交換するか判断します。いったん、確認が必要なものとして分けておきましょう」
「分かりました」
俺は指示された場所へ布を置いた。
その様子を見ていたもう一人の使用人が、穏やかに声をかけてくれた。
「セス様は裁縫もお得意だと伺っていますが、今日はご自分で直そうとなさらないんですね」
俺は少し照れくさくなった。
「……直せるかもしれないとは思ったんです。でも、今日は確認作業ですし、勝手に判断してはいけないと思って」
使用人は柔らかく微笑んだ。
「それでよろしいと思います。私たちも、修繕できるものはできるだけ使いたいんですけれど、用途によっては交換した方がよい場合もありますから」
俺はその説明を聞き、改めて頷いた。
自分にできることがあるからといって、すぐに手を出すことが正しいとは限らない。
今まで何度も教わってきたことだったが、実際の作業の中で経験すると、少し違った意味を持って感じられた。
◇
布類の確認が一段落したところで、責任者が作業を止めた。
「ここで少し休憩を取りましょう。次は別の棚を確認しますので、その前に準備を整えます」
「はい。分かりました」
俺は手元のものを片づけ、指示された場所へ戻した。
そのとき、廊下の向こうから控えめな足音が聞こえてきた。
顔を上げると、父さんが扉の前に立っていた。
その隣には、リビアの姿もある。
彼女は室内へ入らず、廊下からこちらを見ていた。
「セス。作業は順調か」
「うん、父さん。今、布類の確認が終わったところだよ」
俺が答えると、父さんは責任者へ目を向けた。
「作業中に失礼する。オリビア様が見学を希望されている件について、確認に参った」
責任者は丁寧に一礼した。
「はい。執事長から事前にお話を伺っております。現在の作業内容であれば、管理台帳を扱う場所を除き、見学していただいても差し支えありません」
その言葉を聞き、リビアが少し嬉しそうに顔を上げた。
「ありがとうございます。皆さんのお仕事の邪魔にならないようにしますので、少しだけ見学させていただいてもよろしいでしょうか」
「もちろんでございます。ただ、備品の確認中は通路を使いますので、こちらの位置からご覧いただければと思います」
責任者は棚から少し離れた場所を示した。
そこなら作業の様子が見える一方で、備品を運ぶ人の邪魔にはならない。
リビアは頷き、丁寧に礼を述べた。
「分かりました。よろしくお願いいたします」
父さんは俺へ視線を向けた。
「セス。オリビア様が見学されるからといって、作業の進め方を変える必要はない。引き続き担当者の指示に従いなさい」
「うん。分かったよ」
俺が答えると、父さんは満足そうに頷いた。
そして、責任者へもう一度礼を述べてから、別の仕事へ戻っていった。
リビアは指定された場所へ移動すると、俺へ小さく微笑んだ。
「セス、頑張ってね」
「うん。ありがとう、リビア」
俺も微笑み返し、作業へ戻った。
ただ、彼女が見ていると思うと、少しだけ背筋が伸びる。
(……いつもどおりにすればいいんだよな)
俺は小さく息を整え、責任者の説明へ耳を傾けた。
◇
次に確認するのは、清掃用の小道具だった。
棚には、柄の長さが異なる道具や、交換用の部品などが整理されている。
俺は指示されたものを取り出し、責任者が確認しやすいように並べていった。
その途中、同じ形に見える二つの道具について、俺は少し迷った。
柄の長さはほとんど同じだが、先端の部分がわずかに違う。
どちらも同じ場所に置かれていたため、用途が同じなのかと思ったものの、先ほど布類で教わったことを思い出した。
「すみません。この二つは、使う場所が違うんでしょうか」
俺が尋ねると、責任者は道具を手に取り、説明してくれた。
「はい。こちらは床の隅を掃除するときに使うもの、もう一方は家具の下など、手が届きにくい場所へ使うものです。似ていますが、先端の角度が違うんですよ」
俺は説明を聞きながら、道具の先端を見比べた。
確かに、角度が少し違う。
実際に使う場面を想像してみると、その違いには意味があるのだと分かった。
「なるほど。ありがとうございます。見た目だけでは分からないですね」
「そうですね。実際に使っていると、こういう小さな違いが作業のしやすさに影響するんです」
責任者はそう言って微笑んだ。
俺は頷き、道具を元の位置へ戻した。
その様子を見ていたリビアは、少し驚いたように目を細めていた。
俺が次の道具を確認している間も、彼女は静かに作業を見守っている。
普段なら、俺が何かを説明することの方が多い。
けれど、今日は違う。
俺が知らないことを教えてもらい、その説明を聞きながら作業を進めている。
リビアはその様子を、どこか嬉しそうに眺めていた。
しばらくすると、責任者が別の棚へ移動した。
そこには、交換用の部品が小さな箱に分けて保管されている。
俺は指示された箱を手前へ移し、数量を確認しやすいように整えた。
ただ、そのうちの一つには、外見がよく似た部品が二種類入っていた。
俺は手を止め、責任者へ尋ねた。
「こちらは、同じ種類として数えてもいいんでしょうか」
責任者は箱の中を覗き込み、少し考えた。
「……いえ、こちらは別の種類ですね。保管場所が近いため、混ざってしまったのかもしれません」
彼女はもう一人の使用人へ声をかけ、確認を始めた。
俺はその様子を見ながら、勝手に部品を分けずに待った。
しばらくして、二人はそれぞれの種類を確認し、元の保管場所へ戻すことにした。
「教えていただいて助かりました。気づかずに数えていたら、記録が合わなくなるところでした」
責任者がそう言うと、俺は少し驚いた。
「いえ、俺は分からなかったから聞いただけです」
「それが大切なんですよ。分からないまま進めず、確認してくださったから気づけたんです」
彼女は穏やかに微笑んだ。
俺はその言葉を聞きながら、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
分からないことを尋ねるのは、仕事を止めることだと思っていた部分があった。
けれど、こうして確認することで、間違いを防げることもある。
(……聞くことも、ちゃんと役に立つんだな)
俺は小さく頷き、次の指示を待った。
◇
作業が終わる頃には、窓から差し込む光も少し高くなっていた。
責任者は管理台帳を閉じ、今日の確認作業が予定していた範囲まで終わったことを伝えてくれた。
「セス様、本日はありがとうございました。おかげで、確認作業を落ち着いて進めることができました」
「こちらこそ、いろいろ教えていただいてありがとうございました。知らないことがたくさんあって、とても勉強になりました」
俺が礼を述べると、責任者は嬉しそうに微笑んだ。
「そう言っていただけると、こちらも嬉しいです。備品の管理は目立つ仕事ではありませんが、日々の清掃を支える大切な仕事ですから」
俺はその言葉に頷いた。
今日、実際に確認してみて分かったことがある。
道具は、ただ揃っていればいいわけではない。
使う人が必要なときに取り出せること。
状態を確かめ、安全に使えること。
不足や不具合があれば、担当する人が判断できるように記録すること。
そうした一つ一つの仕事が、屋敷の暮らしを支えているのだ。
「……今日教えていただいたこと、忘れないようにします」
俺がそう言うと、責任者は穏やかに頷いた。
「ありがとうございます。またお手伝いいただくことがあれば、よろしくお願いいたします」
俺は改めて一礼した。
そのあと、見学していたリビアも前へ進み出て、責任者たちへ丁寧に礼を述べた。
「今日は見学させていただいて、ありがとうございました。皆さんが普段どんなことに気を配ってお仕事をしているのか、少しだけ知ることができました」
責任者は驚いたように目を丸くしたあと、柔らかく微笑んだ。
「そのようにおっしゃっていただけて光栄です、オリビア様」
リビアは少し考えるように視線を落とし、それから静かに続けた。
「私、今まではお部屋が綺麗になっていることを当たり前のように感じていたかもしれません。でも、そのためには道具を整えたり、使いやすいように考えたり、たくさんの準備が必要なのですね」
彼女の言葉を聞き、責任者は嬉しそうに頷いた。
「はい。もちろん、まだ改善できることもたくさんございますが、皆で相談しながら進めております」
「そうなのですね。これからは、皆さんのお仕事をもっと知っていきたいと思います」
リビアはそう言って、丁寧に頭を下げた。
俺はその姿を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
彼女は、ただ俺の仕事を見に来たわけではない。
屋敷で働く人たちのことを知ろうとしている。
その気持ちが、今日の見学を通じて少しずつ形になっているように思えた。
◇
備品保管室を出たあと、俺たちは廊下をゆっくり歩いていた。
リビアはしばらく黙っていたが、やがて俺の方へ顔を向けた。
「……セス、今日は本当に素敵だったわ」
突然そう言われて、俺は少し驚いた。
「えっ? 何が?」
「お仕事を教えてもらっているところよ。セスが分からないことをちゃんと聞いて、教えてもらったことを大切にしているのが伝わってきたもの」
彼女はそう言って、嬉しそうに微笑んだ。
「私、セスが何でもできるところも大好きだけれど、今日みたいに誰かから学んでいるところも、とても好きだわ」
俺は少し照れくさくなりながら、彼女の言葉を聞いていた。
「……ありがとう。でも、今日は本当に知らないことばかりだったよ。布の種類も、道具の使い分けも、見た目だけじゃ分からないことが多かったし」
「それでいいと思うの。だって、知らないことを知るために、教えてもらうのでしょう?」
リビアはそう言って、俺の隣へ少し近づいた。
「それにね、セスが質問したことで、部品が混ざっていることにも気づけたでしょう? あれは、セスがちゃんと確認したからだと思うわ」
俺はその場面を思い出した。
確かに、あのとき勝手に判断していたら、間違ったまま数えてしまったかもしれない。
「……うん。そうだね。聞いてよかったと思う」
俺が答えると、リビアは満足そうに微笑んだ。
「ふふっ。昨日、セスが誰かに頼るところを見てみたいって言ったけれど、今日は本当に見られたわ」
「そんなに嬉しかった?」
「もちろん。だって、セスが一人で全部頑張らなくてもいいって、少しずつ分かってきている気がするもの」
彼女はそう言って、そっと俺の手を取った。
廊下にはほかの使用人たちも行き交っていたが、リビアは特に気にする様子もなく、俺の手を優しく握っている。
俺は少しだけ周囲を気にしながらも、その手を握り返した。
「……ありがとう、リビア。俺も、今日はいろいろ考えたよ」
「どんなこと?」
「自分にできることがあっても、それが自分の仕事とは限らないってこと。それから、分からないことを聞くのは、迷惑をかけることじゃないんだって」
俺がそう答えると、リビアは嬉しそうに目を細めた。
「うん。私もそう思うわ」
彼女は少しだけ声を落とし、続けた。
「……でもね、セス。私にも、分からないことがたくさんあるのよ」
「リビアにも?」
「ええ。今日の備品のことだって、知らないことばかりだったもの。それに、お屋敷で働く皆さんがどんなことを考えているのか、私はまだ十分に知らないわ」
リビアは窓の外へ目を向けた。
庭園では、使用人たちがそれぞれの仕事を進めている。
遠くには、道具を運ぶ人の姿も見えた。
「だから、私ももっと教えてもらいたいの。セスと一緒に、いろんなことを知っていきたいわ」
その言葉を聞いて、俺は自然と微笑んだ。
「……うん。俺も、リビアと一緒に学べたら嬉しいよ」
彼女は俺の顔を見上げ、嬉しそうに笑った。
「約束ね、セス」
「うん。約束」
俺たちはそう言って、手をつないだまま廊下を歩き続けた。
◇
昼食のあと、俺は父さんへ今日の作業について報告することになった。
リビアは自分の部屋で午後の勉強を進める予定だったため、いったん別れることになった。
「セス、報告が終わったら、またお話しできる?」
「うん。午後の予定を確認してからになるけど、時間があれば会いに行くよ」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「分かったわ。無理はしないでね」
彼女はそう言って、俺の手をそっと離した。
俺はその姿を見送り、父さんの執務室へ向かった。
扉を叩いて入ると、父さんは机の上の書類から顔を上げた。
「戻ったか、セス。作業はどうだった」
「うん。予定していた範囲の確認は終わったよ。担当の方から、布や道具の種類についていろいろ教えてもらったんだ」
俺は今日の作業の流れを説明した。
布類の用途が見た目だけでは分からなかったこと。
ほつれた布を見つけたが、勝手に修繕せず、担当者へ確認したこと。
似た部品が混ざっているように見えたため質問し、担当者が種類を確認したこと。
父さんは途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。
俺が説明を終えると、父さんは少し考えてから頷いた。
「なるほど。お前自身が判断すべきでない部分を理解し、必要な確認ができたようだな」
「うん。最初は、分からないことを何度も聞いていいのか少し迷ったんだけど……」
俺がそう言うと、父さんは静かに首を振った。
「分からないまま進める方が問題になる場合もある。もちろん、何でも人任せにすればよいというわけではないが、確認が必要なことを見極めるのも仕事の一つだ」
俺は頷いた。
「今日、少し分かった気がするよ」
「それならよい。今後も同じように考えなさい」
父さんはそう言って、机の上の書類を揃えた。
俺はその姿を見ながら、ふと一つ気になったことを思い出した。
「……父さん。今日の作業で、布の端がほつれているものがあったんだ。俺は修繕できるかもしれないと思ったけど、担当の方は用途を確認してから判断するって言ってた」
「うむ」
「俺、今までは直せるなら直した方がいいって思ってたんだ。でも、そうじゃない場合もあるんだね」
父さんは俺の言葉を聞き、静かに頷いた。
「そうだ。修繕できることと、修繕して使い続けるべきかどうかは別の判断になる」
父さんは少しだけ椅子へ深く腰掛け、続けた。
「備品には用途がある。安全性や使用頻度、修繕に必要な手間も考えなければならない。お前が直せるからといって、それだけで判断してよいわけではない」
俺はその説明を聞きながら、今日の作業を思い返した。
自分にできることがある。
けれど、その仕事をするべきかどうかは、別の問題だ。
「……うん。覚えておくよ」
俺が答えると、父さんは穏やかに頷いた。
「それでよい。今日はよく学んだようだな」
その言葉に、俺は少しだけ嬉しくなった。
「ありがとう、父さん」
父さんは小さく微笑んだ。
「礼を言うなら、今日教えてくれた者たちにも改めて伝えなさい。お前が学べたのは、彼らが普段から仕事を積み重ねているからだ」
「うん。もちろん」
俺はそう答え、執務室をあとにした。
◇
午後の光が柔らかくなり始めた頃、俺はリビアの部屋を訪ねた。
扉を叩くと、すぐに彼女の声が返ってきた。
「どうぞ」
「失礼するね、リビア」
俺が部屋へ入ると、彼女は机の上に広げていた本から顔を上げた。
窓際の椅子に座っていたリビアは、俺の姿を見つけると嬉しそうに微笑んだ。
「セス! 報告は終わったの?」
「うん。父さんに今日のことを話してきたよ」
俺が答えると、彼女は本を閉じ、隣の椅子を示した。
「よかった。こっちへ来て。私も、今日のことをもう少しお話ししたかったの」
俺は頷き、彼女の隣へ腰を下ろした。
机の上には、以前から一緒に読んでいる領地管理の基礎資料が置かれていた。
リビアはその表紙へ目を向け、少し考えるように口を開いた。
「今日ね、備品の確認を見ていて思ったの。道や橋の管理について学んでいたときも、使う人のことを考えるのが大切だって話していたでしょう?」
「うん。道が使えるかどうかだけじゃなくて、遠回りになる人や、荷物を運ぶ人の負担も考える必要があるって」
「そう。それと、今日のお仕事は少し似ている気がしたの」
リビアはそう言って、机の上の本をそっと撫でた。
「備品が揃っているかどうかだけじゃなくて、使う人が困らないように考えることも大切なのね」
俺はその言葉に頷いた。
「うん。今日、担当の方も同じようなことを言ってたよ。見た目が整理されていても、使う人にとって不便なことがあるかもしれないって」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり、そうなのね」
彼女は少しだけ身体をこちらへ寄せ、続けた。
「私、今まではセスが何でもできるから、セスと一緒にいれば大丈夫だって思っていたところがあったの。でも、今日のセスを見て、少し考えが変わったわ」
「……どう変わったの?」
俺が尋ねると、リビアは少し照れたように微笑んだ。
「セスだって、知らないことがあるのよね。それを教えてくれる人がいて、支えてくれる人がいる。だから、私もセスだけに頼るんじゃなくて、いろんな人の話を聞けるようになりたいって思ったの」
俺はその言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
リビアは俺のことをよく見てくれている。
けれど、それだけではなく、自分自身も変わろうとしているのだ。
「……リビアは、もう十分そうしてると思うよ」
俺がそう言うと、彼女は少し驚いたように瞬きをした。
「そうかしら?」
「うん。今日も、担当の方たちにちゃんとお礼を言ってたでしょう? 仕事のことを知りたいって伝えてたし、相手の話を聞こうとしてたと思う」
リビアは少し照れくさそうに視線を落とした。
「……そう言ってもらえると嬉しいわ。でも、まだまだ知らないことばかりよ」
「俺も同じだよ。だから、一緒に学んでいこう」
俺がそう言うと、彼女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、嬉しさと少しの照れが混ざっている。
「……うん。そうね」
リビアはそう答え、そっと俺の手へ自分の手を重ねた。
俺はその手を優しく握り返した。
窓の外では、午後の風が庭園の木々を揺らしている。
遠くからは、使用人たちが仕事を進める足音や、道具を運ぶ小さな音が聞こえてきた。
今日の朝まで、俺は備品の確認作業を、数を確かめる仕事だと思っていた。
けれど、実際にはそれだけではなかった。
物を使う人のことを考え、状態を確かめ、必要な判断を担当する人へつなぐ。
その一つ一つが、屋敷の暮らしを支えている。
そして、俺自身も、誰かに教えてもらいながら少しずつ成長しているのだと思った。
「……ねえ、セス」
リビアが小さく声をかけてきた。
「何?」
俺が顔を向けると、彼女は少しだけ頬を染めていた。
「今日、セスがお仕事を教えてもらっているところを見ていてね、すごく嬉しかったの。でも、それと同じくらい、少し安心したわ」
「安心?」
「うん。セスが何でも一人で頑張らなくてもいいんだって、ちゃんと分かってくれている気がしたから」
彼女はそう言って、俺の手を少し強く握った。
「私、セスには無理をしてほしくないの。もちろん、頑張っているセスも大好きだけれど、疲れたときには休んでほしいし、困ったときには誰かを頼ってほしいの」
俺はその言葉を静かに聞いていた。
リビアの声には、いつもの甘えた響きとは違う、真剣な願いが込められていた。
俺は彼女の手を握り返し、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう、リビア。俺も、これからはもっと気をつけるよ」
彼女は安心したように微笑んだ。
「うん。約束ね」
「うん。約束」
俺たちはそう言って、しばらく静かに寄り添っていた。
窓から差し込む午後の光が、リビアの銀青色の髪を柔らかく照らしている。
俺はその横顔を見ながら、今日教えてもらったことを思い返していた。
知らないことを尋ねる勇気。
自分の役割を理解すること。
そして、誰かに支えてもらうことを、素直に受け入れること。
どれも、これからの俺に必要なことなのだろう。
リビアはそんな俺の隣で、満足そうに微笑んでいた。
彼女の手の温かさを感じながら、俺はこれからも一緒に学んでいけたらいいなと思った。




