第117話 公爵令嬢様は、俺が誰かに頼るところも見てみたいらしい
夕食の時間が近づいたことを知らせる鐘の音が、パウリー公爵邸の廊下へ穏やかに響いた。
小さな談話室でリビアと過ごしていた俺は、窓の外へ目を向けた。庭園を照らしていた夕日もすっかり傾き、植え込みの向こうには長い影が伸びている。昼間は暖かかった空気も少しずつ冷え始めているらしく、窓際に置かれた薄いカーテンが、わずかな風に揺れていた。
「そろそろ夕食だね。リビア、行こうか」
俺が声をかけると、肩へ頭を預けていたリビアが、少し名残惜しそうに顔を上げた。
「……もうそんな時間なのね。セスと一緒にいると、いつも時間が過ぎるのが早く感じるわ」
彼女はそう言いながら身体を起こし、膝の上に置いていた本を閉じた。銀青色の髪が肩から滑り落ち、頬にかかった一房を指先で整える仕草には、普段の公爵令嬢らしい落ち着きが戻っている。
「俺も楽しかったよ。今日の学院のこと、まだ話し足りないくらいだし」
「ふふっ、それなら明日もお話ししましょう。もちろん、セスのお仕事や勉強の邪魔にならない時間にね」
リビアは立ち上がると、俺へ手を差し出してきた。俺がその手を取ると、彼女は嬉しそうに微笑み、扉へ向かって歩き始めた。
廊下へ出る直前、彼女はふと思い出したように振り返った。
「そういえば、セス。今日の班活動で、ガレス様が机の配置について意見を出してくれたでしょう?」
「うん。あの案はよかったね。俺は最初、机の向きを変えることまで考えてなかったから」
「私もよ。みんなで考えると、自分一人では思いつかないことが見つかるのね」
リビアはそこで少し言葉を切り、つないでいた手へ視線を落とした。
「……セスにも、そういう経験がもっと増えたらいいなって思ったの」
「俺にも?」
「うん。セスは何でもできるから、困ったことがあっても自分で何とかしようとするでしょう? でも、今日みたいに誰かの考えを聞いて、一緒に答えを探すのも楽しいと思うの」
俺はすぐには返事ができなかった。
リビアの言うことは分かる。父さんからも、仕事を抱え込みすぎないよう何度か注意されているし、最近は自分の判断だけで動かず、担当する人へ確認することの大切さを学んでいる。
それでも、誰かに頼ることが楽しいという感覚は、まだ俺には少し馴染みがなかった。
「……そうだね。今日の班活動は楽しかったし、俺ももっと周りの人の意見を聞けるようになりたいな」
そう答えると、リビアは安心したように微笑んだ。
「だったら、明日も楽しみね。セスが誰かに助けてもらっているところ、私も見てみたいわ」
俺は少し困ったように笑った。
「わざわざ見てもらうようなことでもないと思うけど……」
「そうかしら? 私は、セスが誰かを助けるところなら何度も見てきたもの。だから、逆のところも知りたいの」
彼女は楽しそうにそう言うと、俺の手を優しく引いた。
俺はその横顔を見ながら、明日どんなことが起こるのだろうと考えていた。
◇
翌朝、屋敷の使用人たちが行き交う廊下には、焼きたてのパンの香りが漂っていた。
俺は朝の身支度を済ませ、父さんから指示された簡単な確認作業を終えると、食堂へ向かう途中でリビアと合流した。
彼女は俺の姿を見つけると、いつものように嬉しそうな笑みを浮かべたが、すぐに何かを思い出したように目を細めた。
「おはよう、セス。今日は昨日より少し早いのね」
「おはよう、リビア。朝の仕事が予定より早く終わったんだ。確認するものも少なかったから」
「そうなのね。じゃあ、朝食まで少し余裕があるのかしら」
「うん。でも、父さんにはもう報告してあるから、特に追加の仕事はないと思うよ」
俺が答えると、リビアは満足そうに頷いた。
「よかった。セスが空いた時間に別のお仕事を探しに行っちゃうんじゃないかって、少し心配していたの」
「……そんなにいつも仕事を探してるかな、俺」
思わず尋ねると、リビアは俺の顔を見上げ、少しだけ困ったように笑った。
「探しているというより、気づいてしまうのよ。誰かが困っていることとか、まだ終わっていないこととか。それで、自分にできることがあると、すぐに手を伸ばしたくなるんでしょう?」
俺は言葉に詰まった。
確かに、誰かが忙しそうにしていれば手伝いたくなるし、まだ終わっていない仕事を見つければ、自分にもできることがないか考えてしまう。
それが悪いことだとは思っていなかったが、父さんからは何度も、仕事には担当と順序があるのだと教えられていた。
「……そうかもしれない。でも、最近は勝手に手を出さないようにしてるよ」
「うん。それは知ってるわ。だから、ちゃんと変わってきていると思うの」
リビアはそう言って、俺の腕へ軽く触れた。
「ただね、セスが誰かを助けることばかり考えていると、セス自身が困ったときに、誰へ頼ればいいのか分からなくなっちゃうんじゃないかって思うの」
その言葉には、いつもの甘えた響きとは違う、真剣な心配が込められていた。
俺は彼女の表情を見つめながら、少し考えた。
(……俺が困ったとき、か)
父さんには仕事の相談をするし、学院の授業で分からないことがあれば先生に尋ねる。リビアにも、自分の考えを聞いてもらうことはある。
それでも、何かを頼む前に、まず自分で何とかできないか考える癖があるのは確かだった。
「……ありがとう、リビア。俺も、もう少し意識してみるよ」
そう答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「うん。私も、セスに頼ってもらえるように頑張るからね」
俺は思わず笑ってしまった。
「リビアには、もう十分頼ってると思うけど」
「そう? だったら、もっと頼ってくれてもいいのよ?」
彼女は少し得意げに胸を張った。
その姿が可愛らしくて、俺はまた笑ってしまった。
リビアはそんな俺を見て頬を染めたが、嫌そうな顔はしなかった。
◇
学院へ到着すると、教室ではガレスが何やら困った顔で机の上を見つめていた。
俺とリビアが入ってきたことにもすぐには気づかなかったらしく、隣にいたサザリーから声をかけられて、ようやく顔を上げた。
「おはよう、セス! ちょうどよかった。ちょっと相談してもいいか?」
「おはよう、ガレス。うん、もちろん」
俺が近づくと、ガレスは机の上に広げていた紙を指さした。
そこには、昨日の班活動で作成した展示会場の配置図が描かれていた。ただし、昨日提出したものとは別に、彼が自分で書き直したらしい図も並んでいる。
「昨日の課題、家に帰ってからもう一回考えてみたんだよ。机の向きを変える案は悪くなかったと思うんだけど、入口から入った人がどこへ進むか、もう少し分かりやすくできないかなって」
ガレスはそう言いながら、紙の上を指でなぞった。
俺は図を見つめ、昨日の話し合いを思い出した。
机の配置については、班のみんなで意見を出し合って一つの案をまとめた。けれど、それが唯一の正解というわけではない。
ガレスは課題が終わったあとも、別の方法がないか考えていたらしい。
「すごいね、ガレス。昨日のあとも考えてたんだ」
「いや、何となく気になっただけなんだけどな。せっかくなら、もっといい案があるかもしれないと思ってさ」
彼は照れくさそうに笑った。
サザリーはその様子を見ながら、穏やかに口を開いた。
「僕も今、ガレスの案を見せてもらっていたところなんだ。ただ、僕たちだけで考えていると、どうしても昨日の配置に引っ張られてしまうからね」
「それなら、リビアにも見てもらおうか」
俺がそう言うと、リビアは少し驚いたように顔を上げた。
「私も?」
「うん。昨日、案内の位置について考えてくれたでしょう? だから、リビアの意見も聞いてみたいな」
彼女は一瞬だけ目を丸くしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「もちろん。私でよければ、喜んで」
俺たちは机の周りへ集まり、ガレスの描いた図を見つめた。
彼が考えた案では、入口から見える位置に展示の分類を示す案内が置かれている。昨日の案よりも通路の見通しがよくなっているように見えたが、展示を見る人が同じ方向へ進むとは限らない。
俺はその点を指摘しようとして、ふと口を閉じた。
自分の考えをすぐに伝える前に、ほかの人がどう感じるのか聞いてみたかった。
「……リビアは、この配置を見てどう思う?」
俺が尋ねると、彼女は少し考え込んだ。
銀青色の髪が肩から滑り、机の上へ落ちそうになったため、彼女は片手で髪を押さえながら図を覗き込んだ。
「そうね……入口から案内が見えるのはいいと思うわ。でも、初めて来た人が、この図だけでどこへ進めばいいか分かるかしら」
リビアはそう言って、図の端へ指先を置いた。
「たとえば、入口から入ってすぐに右側の展示へ行きたい人と、奥の展示へ行きたい人がいたら、どちらも同じ場所で案内を確認することになるでしょう?」
ガレスはその説明を聞き、少し考えた。
「確かに。入口のところで立ち止まる人が増えるかもしれないな」
「うん。それなら、案内を一か所にまとめるんじゃなくて、入口には全体の配置を示して、各展示の近くには内容が分かる表示を置くのはどうかな」
俺がそう提案すると、サザリーが頷いた。
「それは分かりやすそうだね。ただ、表示を増やしすぎると、今度は情報が多くなってしまうかもしれない。どこまで必要なのか考える余地はありそうだ」
俺たちはそれぞれの意見を出し合い、ガレスの案を少しずつ整理していった。
その途中、エミリアも教室へ入ってきた。
彼女は俺たちが机を囲んでいることに気づくと、不思議そうに首を傾げた。
「おはようございます。皆さん、何をなさっているんですか?」
「おはよう、エミリア。昨日の課題について、ガレスが別の案を考えてきたんだ」
俺が説明すると、エミリアは興味深そうに近づいてきた。
ガレスは少し照れながらも、自分の描いた図を彼女へ見せた。
エミリアはしばらく図を眺めたあと、控えめに口を開いた。
「……あの、もしよろしければ、ひとつ意見を言ってもいいでしょうか」
「もちろん。何でも言ってくれ」
ガレスがそう答えると、エミリアは少し安心したように微笑んだ。
「この案内文なんですが、少し長いかもしれません。展示の内容を詳しく説明するのは大切ですけれど、通りかかった人が短い時間で確認するなら、もう少し簡潔な方が分かりやすいと思います」
俺たちは彼女の指摘した部分へ目を向けた。
確かに、ガレスが考えた案内文には、展示の内容が丁寧に書かれていたものの、初めて見る人がすぐに理解するには少し情報が多い。
エミリアは自分のノートを開き、いくつかの言葉を省いた例を書いてみせた。
「たとえば、こちらの説明は、展示の目的と場所を分けて書くと読みやすくなると思います。詳しい内容は展示の近くに置いて、入口では何がどこにあるのか分かるようにするんです」
俺はその文章を見て、思わず感心した。
「……すごいね、エミリア。こんなに分かりやすくなるんだ」
彼女は少し驚いたように目を丸くし、それから頬を赤くした。
「い、いえ。私は文章を整理するのが好きなだけですから……」
「でも、俺には思いつかなかったよ。昨日の課題でも、エミリアが説明文を考えてくれたおかげで、みんなの意見がまとまったと思う」
俺がそう言うと、エミリアは嬉しそうに微笑んだ。
その隣で、リビアも穏やかに頷いていた。
「本当にそうね。エミリア様の文章は、読む人のことを考えているのが伝わってくるわ」
エミリアはますます照れた様子だったが、嬉しそうに礼を述べた。
俺はその姿を見ながら、今朝リビアが言っていたことを思い出した。
誰かに助けてもらう。
自分では気づかなかったことを教えてもらう。
それは、確かに嬉しいことだった。
◇
午前中の授業が始まる頃には、教室の中もすっかり賑やかになっていた。
俺たちはそれぞれの席へ戻り、先生が入ってくるのを待った。
今日の最初の授業は、歴史に関するものだった。
王国の交通路がどのように整備されてきたのか、その背景にある人々の暮らしや地域ごとの事情について学ぶ内容である。
黒板には、時代の異なる二枚の地図が掲示されていた。
一枚は古い街道を中心に描かれたもの、もう一枚は後の時代に作成されたもので、主要な道の位置や集落の大きさに違いがある。
先生は地図を指し示しながら、生徒たちへ問いかけた。
「皆さんは、古い地図と新しい地図を比較したとき、道の位置が変わっていたら、どのような理由を考えますか」
教室のあちこちで手が上がった。
川の流れが変わったからではないか。
新しい集落ができたからではないか。
荷車が通りやすい道を選ぶようになったからではないか。
先生は生徒たちの意見を聞きながら、それぞれの可能性を黒板へ書き加えていった。
「どれも考えられる理由ですね。ただし、地図に描かれている情報だけで、実際に何が起きたのか断定することはできません。地図が作られた目的や、記録された時期によっても、描かれる内容は変わります」
俺はその説明を聞きながら、以前見た古地図のことを思い出した。
東岸と西岸で、道路の描かれ方が異なっていた地図だ。
あの違いについても、まだはっきりとした理由は分かっていない。
今日の授業は、直接その地図について調べるものではなかったが、考えるうえで参考になることは多そうだった。
俺は先生の説明を聞きながら、ノートへ必要なことを書き留めていった。
途中、先生は二枚の地図に描かれた橋の位置を指し示した。
「この時代には、川を渡る場所が限られていました。橋を架けるには資材も人手も必要ですし、維持するための費用もかかります。そのため、地図上では遠回りに見える道が、当時の人々にとっては安全で確実な経路だった可能性もあります」
俺はその言葉に頷いた。
道の長さだけで、使いやすさが決まるわけではない。
最近学んできたこととも、つながる内容だった。
授業の終わりには、先生から簡単な課題が出された。
二枚の地図を比較し、確認できる違いと、その理由として考えられることを分けて書くというものだ。
俺は用紙を受け取り、まずは地図に描かれている事実だけを整理することにした。
そのとき、隣の席からリビアが小さく声をかけてきた。
「セス、あとで少し見せ合わない? 私、自分の考えだけだと見落としているところがありそうなの」
「うん。俺もそう思ってたところだよ」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
ただ、すぐに先生の方へ視線を戻し、真剣な表情で課題へ取り組み始めた。
その切り替えの早さに、俺は少し感心してしまった。
◇
昼休みになると、俺たちは食堂の一角に集まった。
今日はレオルも同じテーブルに座っており、ガレスと何やら楽しそうに話していた。
「だからさ、俺はあの配置でも十分だと思ったんだけど、ガレスがもっとよくできるって言うから」
「いや、だって気になるだろ? もう少し通りやすくできるんじゃないかって思ったんだよ」
どうやら、朝の配置図について話しているらしい。
レオルは俺たちの姿に気づくと、軽く手を上げた。
「お、セスたちも来たか。聞いたぞ、朝からまた昨日の課題について考えてたんだって?」
「うん。ガレスが別の案を考えてきたから、みんなで見てたんだ」
俺が答えると、レオルは感心したように頷いた。
「へえ、ガレスも真面目だな。昨日で終わった課題なのに、そこまで考えるなんて」
「別に真面目ってわけじゃないけどさ。気になったら、ちょっと試してみたくなるだろ?」
ガレスは照れくさそうに笑った。
俺たちは食事を取りながら、午前中の歴史の授業について話し始めた。
レオルは地図の違いを見つけるのが得意らしく、俺が気づかなかった細かな変化についても説明してくれた。
「ほら、ここの集落。古い地図だと小さく描かれてるけど、新しい方では道が何本も集まってるだろ? こういうところを見ると、人の行き来が増えた可能性は考えられるよな」
俺は彼の示した部分を見つめた。
確かに、道の数が増えているように見える。
ただし、それが実際の交通量の増加を示しているのか、地図の描き方が変わっただけなのかは分からない。
「……そうだね。俺、その違いには気づいてなかったよ」
俺がそう言うと、レオルは少し得意げに笑った。
「こういうの、結構好きなんだよ。細かいところを見比べるのって面白いしな」
リビアも興味深そうに地図を覗き込んだ。
「本当ね。私は道の位置ばかり見ていたから、集落の描かれ方までは気づかなかったわ」
サザリーが穏やかに頷いた。
「それぞれ見ているところが違うんだね。だから、同じ資料でも、複数の人で確認すると新しい発見があるのかもしれない」
俺はその言葉を聞きながら、朝から何度も感じていたことを改めて考えた。
自分が得意なことがある。
ほかの人にも、それぞれ得意なことがある。
それなら、全部を自分一人で考える必要はないのだろう。
そう思うと、少しだけ肩の力が抜けるような気がした。
◇
午後の授業では、午前中に学んだ内容をもとに、短い文章をまとめる時間が設けられた。
俺は歴史の課題について、自分が確認できたことと、考えられる理由を分けて書いた。
ただ、最後のまとめ方が少し難しかった。
道の位置が変わった理由にはいくつもの可能性があり、その中から一つだけを選ぶことはできない。
けれど、何も分からないと書いてしまうのも違う気がした。
俺は何度か文章を書き直したものの、どうにも納得できず、手を止めた。
(……こういうとき、いつもならもう少し自分で考えるところだけど)
ふと、今朝のリビアの言葉を思い出した。
誰かに頼ってみる。
それは、分からないことを全部相手へ任せるという意味ではない。
自分がどこで迷っているのかを伝え、別の考え方を聞くことも、その一つなのだろう。
俺は隣の席にいるサザリーへ顔を向けた。
「サザリー、少し相談してもいいかな」
彼はすぐに顔を上げた。
「もちろん。どうしたんだい?」
「このまとめなんだけど、理由を断定できないことは分かってるんだ。でも、可能性がいくつもある場合、どう書けば読みやすくなるのか迷ってて」
俺が用紙を示すと、サザリーは真剣な表情で文章を読んでくれた。
しばらくして、彼は少し考えながら口を開いた。
「……僕なら、最初に確認できた違いを書いて、そのあとに考えられる理由をいくつか挙げるかな。そして最後に、どの理由が正しいかは追加の資料が必要だとまとめると思う」
俺はその説明を聞き、用紙へ目を落とした。
確かに、そうすれば事実と推測が混ざらずに済む。
「なるほど。ありがとう、サザリー。俺、理由を一つにまとめようとしてたのかもしれない」
俺がそう言うと、彼は穏やかに微笑んだ。
「役に立てたならよかったよ。でも、クルセスの文章も十分分かりやすいと思う。あとは順番を少し変えるだけじゃないかな」
俺は礼を述べ、もう一度文章を書き直した。
今度は、最初に確認できた違いを整理し、そのあとに考えられる理由を並べた。
最後には、追加の資料がなければ判断できないことを明記する。
書き終えて読み返してみると、先ほどよりもずっと自然な文章になっていた。
俺は小さく息をつき、ペンを置いた。
そのとき、リビアがこちらを見ていることに気づいた。
彼女は嬉しそうに微笑んでいたが、俺と目が合うと、少しだけ頬を染めた。
「……リビア?」
「ううん。何でもないわ。ただ、セスがサザリー様に相談しているところを見て、ちょっと嬉しくなっただけ」
俺は少し照れくさくなった。
「そんなに珍しかったかな」
「珍しいというより、素敵だと思ったの。セスが自分の考えをちゃんと持ったうえで、ほかの人の意見も聞いているところが」
彼女はそう言って、柔らかく微笑んだ。
「私、そういうセスも好きよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わず周囲を見回してしまった。
幸い、近くの生徒たちはそれぞれの課題へ集中している。
けれど、サザリーだけは聞こえていたらしく、少しだけ口元を緩めていた。
俺は頬が熱くなるのを感じながら、リビアへ小さく声をかけた。
「……リビア、ここ教室だから」
彼女は一瞬きょとんとしたあと、自分が何を言ったのか気づいたらしい。
みるみるうちに頬を赤くし、慌てて視線を落とした。
「……ご、ごめんなさい。つい……」
俺はその姿を見て、思わず笑いそうになった。
昨日、学院では少し気をつけようと話したばかりだったのに、リビアはもう忘れてしまったらしい。
けれど、それを責める気にはなれなかった。
むしろ、そんなふうに素直な気持ちを伝えてくれることが嬉しかった。
◇
放課後、教室を出たところで、サザリーが俺へ声をかけてきた。
「クルセス、今日の課題はうまくまとまったかい?」
「うん。サザリーのおかげで、ちゃんと書けたよ。ありがとう」
俺が礼を述べると、彼は少し照れたように笑った。
「それならよかった。僕も、誰かに説明すると自分の考えが整理できるから、助かったよ」
その言葉を聞いて、俺は少し驚いた。
俺はサザリーに助けてもらったと思っていたが、彼にとっても意味のある時間だったらしい。
「……そうなんだ。俺は一方的に教えてもらったと思ってたよ」
「そんなことはないよ。クルセスがどこで迷っているのか話してくれたから、僕も自分ならどう考えるか整理できたんだ」
サザリーはそう言って微笑んだ。
「それに、君が誰かに相談するのは、悪いことじゃないと思う。むしろ、もっとそうしてくれてもいいくらいだよ」
俺は少し照れくさくなりながら頷いた。
「ありがとう。これからも、分からないことがあったら相談させてもらうね」
「もちろん。僕の方こそ、よろしく頼むよ」
俺たちは笑い合い、それぞれ帰り支度を進めた。
その様子を少し離れたところから見ていたリビアは、穏やかな表情を浮かべていた。
彼女は俺が近づくと、嬉しそうに微笑んだ。
「セス、今日はいい日だったね」
「うん。いろいろ勉強になったよ」
「私も。特に、セスがサザリー様に相談しているところを見られたのが嬉しかったわ」
俺は少し苦笑した。
「リビア、本当にそこが嬉しかったんだね」
「もちろんよ。だって、セスが一人で全部抱え込まなくてもいいって、少しずつ分かってきている気がするもの」
彼女はそう言いながら、俺の隣へ並んだ。
廊下には帰宅する生徒たちの声が響き、窓の外では夕方の光が校庭を照らしていた。
俺たちは人の流れに合わせて歩きながら、今日の授業について話し始めた。
◇
屋敷へ戻ると、父さんが玄関近くで待っていた。
俺たちは学院での予定が無事に終わったことを報告し、それぞれの部屋へ向かおうとした。
そのとき、父さんが俺へ声をかけた。
「セス。少し時間はあるか」
「うん。どうしたの、父さん?」
父さんは手元の書類を確認し、俺へ向き直った。
「明日の午前中、屋敷内で使用する備品の確認作業が予定されている。お前にも一部を手伝ってもらうつもりだが、担当者の指示を受けながら進めることになる」
俺は頷いた。
「分かったよ。どんなことをするの?」
「主に、所定の場所へ保管されている備品の数量と状態を確認する作業だ。ただし、実際の管理記録を扱う部分は担当者が行う。お前には、確認に必要な準備と、許可された範囲での補助を任せる予定だ」
父さんはそこで少し言葉を切り、俺の反応を確かめた。
「一つ、覚えておきなさい。明日は、お前が作業全体を進めるわけではない。担当者が判断し、お前はその補助をする。分からないことがあれば、必ず確認するように」
「うん。分かった。勝手に判断しないようにするよ」
俺が答えると、父さんは満足そうに頷いた。
「それでよい。詳細は明日の朝に伝える」
俺は礼を述べ、リビアとともに廊下を歩き始めた。
父さんの姿が見えなくなったところで、彼女が小さく笑った。
「……セス、明日も誰かに頼る練習ができそうね」
「練習っていうほどじゃないと思うけど……」
俺が苦笑すると、リビアは楽しそうに微笑んだ。
「でも、いいことだと思うわ。セスが誰かを助けるだけじゃなくて、誰かに教えてもらったり、支えてもらったりするところも、もっと見てみたいもの」
俺は彼女の言葉を聞きながら、今日一日のことを思い返した。
ガレスが考えてきた案を、みんなで見直したこと。
エミリアが文章を分かりやすく整理してくれたこと。
レオルが地図の細かな違いを見つけてくれたこと。
そして、サザリーに相談したことで、自分の考えを整理できたこと。
どれも、自分一人では得られなかったものだった。
(……誰かに頼るって、こういうことなのかもしれないな)
俺は隣を歩くリビアへ目を向けた。
「……ありがとう、リビア」
突然礼を言われた彼女は、少し驚いたように瞬きをした。
「どうしたの、セス?」
「リビアが昨日、誰かに頼ることも大切だって言ってくれたでしょう? 今日、少しだけその意味が分かった気がするんだ」
彼女はしばらく俺を見つめていた。
やがて、嬉しそうに目を細めた。
「……そっか。それなら、私も嬉しいわ」
リビアはそう言って、そっと俺の手を取った。
「でもね、セス。ひとつだけ忘れないでほしいことがあるの」
「何?」
彼女は俺を見上げ、少しだけ真剣な表情になった。
「誰かに頼るのは、弱いからじゃないのよ。相手を信じているから、お願いできることもあると思うの」
俺はその言葉を静かに聞いていた。
リビアは優しく微笑み、続けた。
「私だって、セスに頼ることがたくさんあるでしょう? でも、それは自分で何もできないからじゃなくて、セスと一緒に考えたり、助けてもらったりしたいからなの」
俺はゆっくりと頷いた。
「……うん。そうだね」
彼女は満足そうに微笑んだ。
「だから、セスも遠慮しないでね。私にできることなら、何でも相談してほしいの」
俺はその手を優しく握り返した。
「ありがとう。これからも、よろしくね、リビア」
そう答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
「こちらこそ、よろしくね。私の大好きなセス」
その言葉に、俺はまた頬が熱くなった。
リビアはそんな俺を見て、少しだけいたずらっぽく微笑んだ。
「ふふっ。屋敷の中なら、これくらい言ってもいいでしょう?」
俺は思わず笑ってしまった。
「……うん。もちろん」
彼女は満足そうに頷き、俺の隣へ寄り添った。
窓の外では夕日がゆっくりと沈み始め、庭園の木々が柔らかな影を落としている。
俺たちは手をつないだまま廊下を歩き、それぞれの部屋へ向かっていった。
明日は、屋敷の仕事で新しいことを学ぶ予定がある。
まだどんな作業になるのか詳しくは分からないが、今度は一人で何とかしようとするのではなく、担当する人の話をよく聞きながら取り組もうと思った。
そして、分からないことがあれば、素直に尋ねてみよう。
そんなことを考えながら、俺は隣で楽しそうに笑うリビアへ、もう一度微笑み返した。




