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第116話 公爵令嬢様は、俺の隣で笑う理由をみんなに知られたくないらしい


 夕食を終えて自室へ戻った俺は、机の上に置かれた学院の教科書を片づけながら、昼間の図書室で交わした会話を思い返していた。


 案内表示について調べようとしただけなのに、実際に確認してみると、知らなかったことがいくつも見つかった。以前の書棚配置の変更や、表示が作られた時期の違いなど、職員の方に話を聞かなければ分からなかったことも多い。


 それでも、今日の出来事で一番印象に残っているのは、図書室を出たあとに見せてくれたリビアの笑顔だった。


 彼女は、何かを新しく知ることができると、本当に嬉しそうに笑う。


 幼い頃から一緒に過ごしてきた俺には、その表情が特別なものだということが分かっている。公爵令嬢として人前に立つときの完璧な微笑みとは違い、興味を引かれたことを見つけたときの彼女は、少しだけ目を輝かせ、声まで弾ませるのだ。


(……そういえば、最近は学院でもあの笑顔を見ることが増えた気がするな)


 俺は教科書を本棚へ戻し、明日の授業に必要なものを確認した。


 リビアは昔から勉強熱心だったが、最近はそれまで興味を向けていなかった分野にも目を向けるようになっている。屋敷の仕事について質問したり、領地管理の学習資料を読んだり、今日のように学院の案内表示について考えたりと、その関心は少しずつ広がっていた。


 もっとも、それが俺と婚約したことに関係しているのかどうかは分からない。


 彼女自身が、いろいろなことを知りたいと思うようになっただけかもしれないし、もともと興味があったことを口にする機会が増えただけなのかもしれない。


 どちらにしても、楽しそうなリビアを見るのは嬉しかった。


 俺は翌日の準備を終えると、窓の外へ目を向けた。


 庭園には夜の静けさが広がり、歩道沿いの灯りが整えられた植え込みを柔らかく照らしている。遠くの通路では、夜間の見回りを担当する使用人が二人、控えめな声で何かを確認しながら歩いていた。


 明日も学院がある。


 特別な行事が予定されているわけではないが、午前中にはエレナ先生が担当する魔術理論の授業があり、午後には班ごとの課題もあるはずだ。


 俺は机の上の灯りを少し弱め、今日のことを考えるのはここまでにして休むことにした。


     ◇


 翌朝、食堂へ向かう途中でリビアと顔を合わせると、彼女は俺の姿を見つけた途端、足取りを少し速めた。


 朝の廊下には窓から明るい光が差し込み、壁に飾られた絵画の額縁を淡く照らしている。使用人たちが朝食の準備を進めている時間だったが、俺たちが立ち止まった場所には、ちょうどほかの人の姿がなかった。


「おはよう、セス。昨日はちゃんと休めた?」


 リビアはそう尋ねながら、俺の顔を覗き込んだ。


 彼女の銀青色の髪はいつものように丁寧に整えられており、制服の襟元にも乱れはない。それでも、俺の返事を待つ表情には、公爵令嬢としての落ち着きよりも、幼い頃からよく知っている親しみやすさが表れていた。


「おはよう、リビア。うん、昨日は早めに休んだよ。リビアは?」


「私もよ。昨日は図書室でいろいろ考えたから、夜になったら少し眠くなっちゃって」


 そう言って笑った彼女は、俺の隣へ並ぶと、食堂へ向かってゆっくり歩き始めた。


「でもね、今朝になっても、昨日のお話を思い出すと嬉しくなるの。知らなかったことを教えてもらえるのって、やっぱり楽しいわね」


「そうだね。俺も、あの案内板にそんな経緯があるとは思ってなかったよ」


 俺が答えると、リビアは満足そうに頷いた。


 しばらくは昨日の図書室の話をしていたが、食堂へ続く廊下の角が近づいたところで、彼女はふと足を緩めた。


「……ねえ、セス。ひとつ聞いてもいい?」


「もちろん。どうしたの?」


 俺が振り向くと、リビアは少し迷うように視線を動かした。


 いつもの彼女なら、気になったことをすぐに尋ねてくる。だから、こうして言葉を選んでいる姿を見ると、何か答えにくいことでもあるのかと心配になった。


「セスって、学院にいるとき、私がどんな顔をしているか気になることってある?」


 予想していなかった質問に、俺は思わず瞬きをした。


「どんな顔って……授業中とか、友達と話しているときのこと?」


「うん。そういうときも含めて、かな」


 リビアは曖昧に答え、俺の反応を確かめるように見つめてきた。


 俺は少し考えた。


 授業中の彼女は真剣だし、友達と話しているときには穏やかに笑っている。何か難しい問題を考えているときには、眉をほんの少し寄せることもある。


 けれど、俺が彼女の表情を意識して見ているかと聞かれると、どう答えるべきなのか難しかった。


「……気になることはあるよ。リビアが困っていないかとか、疲れていないかとか。でも、ずっと見ているわけじゃないから、分からないこともあると思う」


 そう答えると、リビアは少しだけ頬を染めた。


「そ、そうなのね。うん、分かったわ」


 彼女はそれ以上説明しようとせず、再び歩き始めた。


 俺は隣へ並びながら、どうしてそんなことを尋ねたのか気になったものの、無理に聞き出すことはしなかった。


 リビアにも、すぐには言葉にできないことがあるのだろう。


 そう考えていたのだが、食堂の扉が見えてきたところで、彼女が小さな声で付け加えた。


「……ちなみに、セスが私を見てくれるのは、嫌じゃないからね」


 俺が顔を向けると、リビアは前を見たまま、耳まで赤くしていた。


「う、うん。分かったよ」


 俺はそう答えるのが精いっぱいだった。


 その直後、食堂の扉が開き、父さんが中から姿を現した。


「おはようございます、お嬢様。セスも、ちょうどよいところだな。朝食の準備が整っている」


「おはよう、グレイヴ」


「おはよう、父さん」


 俺たちが挨拶を返すと、父さんはいつもの穏やかな表情で頷いた。


 ただ、俺とリビアを交互に見たあと、ほんの少しだけ口元を緩めたような気がした。


(……何か気づかれたかな?)


 そう思ったが、父さんは何も言わず、食堂へ入るよう促してくれた。


     ◇


 学院へ到着した頃には、朝の空気もすっかり暖かくなっていた。


 校舎へ続く石畳には生徒たちの足音が重なり、あちこちから挨拶や笑い声が聞こえてくる。中庭では数人の生徒が立ち話をしており、風が吹くたびに木々の葉が軽く揺れていた。


 俺とリビアが教室へ入ると、ガレスが真っ先にこちらへ手を上げた。


「おはよう、セス! ちょっと聞きたいことがあるんだけど、今いいか?」


「おはよう、ガレス。うん、どうしたの?」


 俺が鞄を席へ置くと、ガレスは自分の机から一冊の本を持ってきた。


 表紙には剣術の基本姿勢について書かれているらしく、端には何度も開いた跡が残っている。


「昨日、図書室の話をしただろ? それで思い出したんだけどさ、この本に載ってる構えについて、ちょっと気になるところがあって」


 彼はそう言って、開いたページを俺へ向けた。


 そこには剣を構える人物の図が描かれており、足の位置と重心の置き方について説明が添えられていた。


 俺は図を見つめ、ガレスの話を待った。


「この構え、説明だけ読むと前の足へ体重を乗せるように見えるんだけど、実際にやってみると、ちょっと動きにくいんだよな。セスはどう思う?」


 俺は文章を読み、図に描かれた人物の足元を確認した。


 確かに、説明を途中まで読むと、前足へ大きく体重をかけるようにも受け取れる。けれど、その下には、相手の動きに応じて重心を移す必要があると書かれていた。


「……ここだけ読むと、そう思うかもしれないね。でも、下の説明では重心を固定しないように書かれているから、最初の姿勢と、そのあとの動きを分けて考えた方がいいのかもしれない」


 俺が答えると、ガレスは本へ顔を近づけた。


「あ、本当だ。俺、ここを読み飛ばしてたかもしれない」


 彼は少し恥ずかしそうに笑いながら、もう一度説明を読み始めた。


 その様子を見ていたサザリーが、隣から穏やかに口を開いた。


「実際に試してみたからこそ、説明との違いに気づけたんだろうね。ただ、自己流で続けるより、次の剣術の授業で先生に確認した方が確実だと思うよ」


「そうだな。変な癖がつくのも困るし、今度聞いてみるよ」


 ガレスは素直に頷き、本を閉じた。


 そのとき、エミリアが俺たちの方へ顔を向けた。


「そういえば、今日はエレナ先生の魔術理論の授業がありますよね。先日のお話では、魔力の流れを観察するときの注意点を扱うとおっしゃっていました」


「うん。今日は実技じゃなくて、理論の方だったと思う」


 俺が答えると、エミリアは少し安心したように微笑んだ。


「よかったです。昨日、魔力制御について復習していたのですが、実際に動かすときと、文章で説明するときでは、難しさが違いますね」


 リビアもその話に興味を示し、エミリアへ身体を向けた。


「私もそう思うわ。普段は感覚で調整していることを言葉にしようとすると、どこまで説明すればいいのか迷うことがあるもの」


 エミリアは嬉しそうに頷いた。


 二人は魔力の流れを説明する際の表現について話し始め、サザリーも時折意見を加えていた。


 俺はその会話を聞きながら、ふと今朝のリビアの質問を思い出した。


 彼女はエミリアと話しているとき、穏やかな表情を浮かべている。


 けれど、相手の話に興味を引かれた瞬間には、目元が少し明るくなり、声にも自然と熱がこもる。


(……こうして見ると、確かに表情がよく変わるんだな)


 そんなことを考えていると、リビアがこちらを向いた。


 視線が合った瞬間、彼女は少しだけ目を丸くし、それから頬を染めた。


「……セス?」


「あ、ごめん。何か話してた?」


「ううん。そうじゃないけど……」


 リビアは言葉を濁し、俺の隣にいるガレスへちらりと目を向けた。


 ガレスは俺たちのやり取りに気づいていなかったらしく、まだ剣術の本を見直している。


 けれど、サザリーは気づいていたようだった。


 彼は俺とリビアを交互に見たあと、何かを察したように小さく微笑んだ。


「クルセス、そろそろ授業の準備をした方がいいんじゃないかな。エレナ先生は、始まる前に資料を確認するようおっしゃっていたはずだよ」


「あ、そうだったね。ありがとう、サザリー」


 俺が礼を言うと、サザリーは穏やかに頷いた。


 リビアは少し安心したような表情を見せ、それぞれの席へ戻っていった。


     ◇


 エレナ先生の授業では、魔力を扱う際に生じる感覚の違いについて説明が行われた。


 教室の前方には、魔力の流れを簡略化した図がいくつも掲示されている。先生はその一枚を指し示しながら、生徒たちへ問いかけた。


「魔力を扱うとき、皆さんは何を手がかりにしていますか。体内の流れを感じる人もいれば、魔力を放出したあとの変化を見て調整する人もいるでしょう。けれど、自分にとって分かりやすい方法が、ほかの人にも同じように分かりやすいとは限りません」


 俺はその言葉を聞き、少し考えた。


 俺の場合、魔力の流れは比較的はっきりと感じ取ることができる。


 火、水、風、土、雷の五属性を扱うときも、属性ごとに感覚の違いはあるものの、魔力をどのように動かせばいいかで迷うことは少ない。


 ただ、それを言葉にして説明しようとすると、途端に難しくなる。


 以前、ほかの生徒に魔力の扱い方を尋ねられたときも、自分の感覚をそのまま伝えてしまい、相手を困らせたことがあった。


「たとえば、魔力を細く流すという説明がありますね。しかし、細いという表現だけでは、何を基準にしているのか分かりません。魔力量を減らすことなのか、流れを集中させることなのか、それとも放出範囲を狭めることなのか。説明する側が区別していなければ、受け取る側も迷ってしまいます」


 先生はそこで一度言葉を切り、教室を見渡した。


「今日の課題では、実際に魔術を発動させる必要はありません。自分が普段どのような感覚で魔力を調整しているのかを整理し、ほかの人へ伝えるなら、どのような説明が必要になるか考えてもらいます」


 生徒たちの間から、少し困ったような声が上がった。


 魔術を使うこと自体には慣れていても、その感覚を文章にするのは簡単ではない。


 俺も用紙を受け取り、何から書くべきか考え込んだ。


(……魔力を流すときの感覚か。いつも自然にやっているから、説明するとなると難しいな)


 まずは無属性の身体強化について考えてみることにした。


 魔力を全身へ巡らせる際、俺は必要な部分へ流れを集中させながら、ほかの部位との均衡を崩さないようにしている。


 けれど、その感覚を「均衡を保つ」と書くだけでは、初めて読む人には伝わらないかもしれない。


 俺は何度か文章を書き直し、魔力を急に増やすのではなく、身体の反応を確かめながら調整するという説明に落ち着いた。


 ただし、これはあくまで自分の感覚を整理したものだ。


 ほかの人にとって適切な方法かどうかは、先生の指導を受けなければ分からない。


 課題に取り組んでいると、教室の後方からガレスの小さなため息が聞こえた。


 彼は用紙を前にして、難しい顔をしている。


 剣術では身体の動きを言葉にすることがある程度できても、魔力の感覚を説明するのは苦手らしい。


 その隣ではサザリーが慎重に文章を書き進めており、エミリアは時折ペンを止めながら、自分の手元を見つめていた。


 リビアはというと、最初の数行を書いたあと、少し考え込んでいた。


 無属性の結界魔法を得意とする彼女は、魔力を広げる範囲や維持する強さについて、普段から細かく調整している。


 けれど、今日の課題では、それをほかの人に伝えるための言葉が必要になる。


 彼女はしばらくしてからペンを動かし始め、何かを確かめるように一度だけ頷いた。


 その様子を見て、俺も自分の課題へ集中した。


     ◇


 授業の終わりに、エレナ先生は何人かの生徒へ、書いた内容について簡単に説明するよう求めた。


 指名されたエミリアは少し緊張した様子だったが、用紙を手に持つと、落ち着いた声で話し始めた。


「私は、魔力を一定の強さで維持しようとするとき、最初に使った力をそのまま保とうとしていました。でも、実際には途中で流れが変わることもあるので、その変化に気づいたら少しずつ調整する必要があると考えました」


 先生は頷き、エミリアの説明を受けて質問した。


「よく整理できていますね。では、変化に気づくためには、何を確認していますか?」


 エミリアは少し考えたあと、魔力を流している部分の感覚と、魔術の効果が安定しているかどうかを確認していると答えた。


 先生はその説明を評価しながら、感じ取れる変化には個人差があるため、ほかの生徒が同じ方法で判断できるとは限らないことも付け加えた。


 続いて、ガレスが指名された。


 彼は少し困ったように頭をかいたものの、椅子から立ち上がると、自分の考えを率直に話した。


「俺は、魔力を増やすとき、つい力を入れすぎることがあるんです。だから、いきなり強くするんじゃなくて、最初は少しずつ増やすようにした方がいいと思いました。ただ、どのくらいが少しなのかって聞かれると、まだ上手く説明できません」


 教室の何人かが小さく笑ったが、からかうような雰囲気ではなかった。


 むしろ、同じように感じている生徒が多いらしく、頷いている姿も見える。


 エレナ先生も穏やかに微笑んだ。


「分からない部分をそのままにせず、言葉にできたのはよいことです。今日の課題は、完璧な説明を作ることではありません。自分が何を理解していて、何をまだ説明できないのかを知ることにも意味があります」


 ガレスは安心したように息をつき、席へ戻った。


 俺はその様子を見ながら、図書室での出来事を思い出した。


 分からないことを見つける。


 それを恥ずかしいことだと思わず、確かめる。


 魔術の授業でも、同じような姿勢が必要なのかもしれない。


 そのとき、エレナ先生が俺の方へ目を向けた。


「クルセス君。あなたはどうですか。自分の感覚を説明するうえで、難しいと感じたところはありましたか?」


 俺は椅子から立ち上がり、手元の用紙へ視線を落とした。


「はい。普段は魔力の流れを感じながら調整しているんですが、その感覚をそのまま言葉にしても、ほかの人には伝わらないかもしれないと思いました。なので、どんな変化を確認しているのか、できるだけ具体的に書こうとしたんですけど……まだ十分かどうかは分かりません」


 先生は静かに頷いた。


「よい考え方ですね。あなたは魔力の感知と制御に優れていますが、それは同時に、ほかの人がどこで難しさを感じるのか分かりにくいということでもあります。教える立場になるときには、特に意識しておくとよいでしょう」


「はい。ありがとうございます」


 俺が礼を述べると、先生は柔らかく微笑んだ。


 そして、教室全体へ向き直り、今日の課題を締めくくった。


「皆さんも、自分の得意なことほど、説明が難しい場合があります。相手が理解できないときに、努力が足りないと決めつけないこと。まずは、自分の説明が相手に伝わっているか確かめるようにしてください」


 その言葉を聞きながら、俺は静かに頷いた。


 授業が終わると、生徒たちはそれぞれの用紙を提出し、次の授業の準備を始めた。


 俺も席へ戻ろうとしたところで、リビアと目が合った。


 彼女は嬉しそうに微笑み、小さく頷いてくれた。


 その表情を見ただけで、胸の奥が少し温かくなった。


     ◇


 昼休み、俺たちは食堂の奥にある長いテーブルを囲んでいた。


 今日はガレスの希望で、午後の課題について話し合うことになっている。


 午後には少人数で意見をまとめる授業があり、同じ班になる生徒同士で、事前に確認しておきたいことがあったのだ。


 食事を終えたあと、サザリーが手元の資料を広げた。


「午後の課題は、学院内で行う小規模な催しの準備について考えるものだったね。会場の使い方や、参加する生徒への案内を整理するらしいけれど、具体的な条件は授業が始まってから示されるそうだよ」


「だったら、今のうちに何か決める必要はないんじゃないか?」


 ガレスがそう言うと、サザリーは苦笑した。


「もちろん、勝手に決めるつもりはないよ。ただ、役割を分担するときに、誰が何を得意としているか知っておくと、話し合いが進めやすいと思ったんだ」


 エミリアが穏やかに頷いた。


「それなら、私は文章を整理する役割をお手伝いできると思います。人前で説明するのは少し緊張しますけれど、資料をまとめるのは嫌いではありません」


「俺は身体を動かす方が得意だけど、今回は準備の計画を考える課題なんだよな。だったら、会場の配置とか、荷物を運ぶときの動線とかなら考えられるかもしれない」


 ガレスはそう言って、少し照れくさそうに笑った。


 俺は彼の言葉を聞き、以前の搬入経路のことを思い出した。


 荷物を運ぶための道を変えると、別の場所で作業する人にも影響が出ることがある。


 ただし、今回の課題がどのような条件になるのかは、まだ分からない。


「ガレスがそういうところを考えてくれるなら、助かると思うよ。俺も、何か気づいたことがあったら意見を出すね」


 俺が答えると、ガレスは嬉しそうに頷いた。


 その隣で、リビアは少し考えながら資料を見つめていた。


「私は、参加する人が迷わないようにする案内について考えてみたいわ。もちろん、ほかの役割が必要なら、そちらも手伝うけれど」


 サザリーが微笑んだ。


「それは心強いですね。パウリー様は、説明を分かりやすくまとめるのがお上手ですから」


 リビアは少し照れたように笑った。


「ありがとう。でも、私一人では気づけないこともあると思うから、みんなの意見を聞きながら考えたいわ」


 その言葉に、エミリアが嬉しそうに頷いた。


 俺は彼女たちの会話を聞きながら、リビアが楽しそうにしていることに気づいた。


 今朝の彼女は、自分がどんな顔をしているか気になるかと尋ねてきた。


 あの質問の意味はまだよく分からない。


 けれど、こうして友人たちと話している彼女を見ると、自然に笑みが浮かんでしまう。


 俺がそんなことを考えていると、向かい側に座っていたサザリーが、ふとこちらへ視線を向けた。


「……クルセス」


「何?」


「いや、何でもないよ。午後の課題、楽しみだね」


 彼はそう言って微笑んだが、その表情には何かを知っているような雰囲気があった。


 俺は少し不思議に思ったものの、深く考えずに頷いた。


 その直後、隣から小さく制服の袖を引かれた。


 振り向くと、リビアが俺を見上げていた。


「……セス」


「どうしたの?」


「あとで、少しだけお話ししたいことがあるの」


 彼女は周囲に聞こえないよう声を落としていた。


 俺はその様子から、今ここで聞くべきことではないのだろうと判断した。


「うん。分かった。放課後でも大丈夫?」


 そう尋ねると、リビアは安心したように微笑んだ。


「ありがとう。じゃあ、放課後にね」


 俺は頷き、午後の授業の準備へ意識を戻した。


     ◇


 午後の課題は、予想していたよりも考えることが多かった。


 先生から示されたのは、学院の一室を使って行う学習成果の展示を想定した計画だった。


 参加する生徒の人数や、展示する資料の種類、使用できる机の数など、いくつかの条件が設定されている。


 ただし、実際に催しを開催するわけではなく、あくまで学習用の課題だ。


 俺たちの班では、最初にサザリーが条件を読み上げ、それぞれが気になる点を挙げることになった。


 ガレスは、机の配置によって通路が狭くなる可能性を指摘した。


 エミリアは、展示資料の説明文が長すぎると、読む人が一か所に留まり、ほかの人が通りにくくなるかもしれないと話した。


 リビアは、入口から見える位置に案内を置く必要があるのではないかと提案した。


 俺は、展示を見る順番を一つに決めてしまうと、途中から入ってきた人が迷う可能性があることに気づいた。


「……だったら、順番を決めなくても見られるようにするのはどうかな?」


 俺がそう言うと、ガレスは少し考えた。


「それなら、どこから見てもいいってことか。でも、説明がつながってる展示だったら、順番が分からなくなるんじゃないか?」


「そうだね。だから、展示の内容によって分ける必要があるかもしれない」


 俺が答えると、サザリーが手元の紙へ意見を書き加えた。


「順番が必要な展示と、自由に見られる展示を分けるということだね。条件にある資料の種類を確認してから考えよう」


 エミリアはその説明を聞き、少し安心したように頷いた。


「それなら、案内文にも違いをつけられそうですね。順番に見てほしいところだけ、分かるようにしておけばいいのかもしれません」


 リビアも嬉しそうに微笑んだ。


「うん。それに、入口から全部の展示が見えなくても、どこへ行けば何があるのか分かるようにできたらいいわね」


 俺たちはそれぞれの意見を持ち寄り、机の配置を何度か書き直した。


 最初に考えた案では、入口付近に人が集まりすぎる可能性があった。


 次の案では通路を広く取れたものの、展示できる資料の数が減ってしまう。


 そのため、先生から示された条件をもう一度確認し、何を優先する必要があるのか話し合った。


 途中でガレスが、展示する机の向きを変える案を出した。


 それまで誰も考えていなかった配置だったため、俺たちは紙の上で机の位置を動かし、通路の幅を確かめた。


「……これなら、少し余裕ができるんじゃないか?」


 ガレスが期待するように尋ねると、サザリーは図を見つめながら頷いた。


「そうだね。ただ、窓際の通路をふさがないようにする必要があるから、机の位置はもう少し調整した方がよさそうだ」


 リビアは二人の話を聞きながら、紙の端へ小さな印を書き込んだ。


「それなら、ここに案内を置くのはどうかしら。入口から見えるし、通路の真ん中に立ち止まらなくても確認できると思うの」


 俺は彼女の示した場所を見て、少し考えた。


 確かに、入口から案内が見える位置だ。


 ただ、そこに立つ人が増えた場合、出入りする生徒の邪魔にならないかは確認する必要がある。


 俺がその点を伝えると、リビアはすぐに頷いた。


「そうね。じゃあ、入口のすぐ横じゃなくて、少し奥へ移してみましょうか」


 彼女は紙の上の印を移動させ、ほかの四人へ意見を求めた。


 俺たちはそれぞれの立場から考えを出し合い、最終的に一つの案をまとめた。


 完成した図を見たガレスは、満足そうに息をついた。


「いやあ、最初はどうなるかと思ったけど、みんなで考えると何とかなるもんだな」


 エミリアも微笑んだ。


「一人では思いつかなかったことが多かったです。特に、机の向きを変えるというガレス様の案は参考になりました」


「お、そうか? それならよかった!」


 ガレスは嬉しそうに笑った。


 その様子を見て、俺も自然と笑みを浮かべた。


 課題そのものは学習用のものだったが、誰かと意見を出し合いながら一つの形にしていくのは、思っていた以上に楽しかった。


 そして、隣でリビアが楽しそうにしていることも、俺には嬉しかった。


     ◇


 授業が終わり、教室へ戻る途中のことだった。


 廊下には帰宅する生徒たちが行き交い、窓の外では午後の日差しが校庭を照らしている。俺たちの班は課題の感想を話しながら歩いていたが、階段へ続く廊下の手前で、サザリーがふと足を止めた。


「ガレス、さっきの配置図について、少し確認したいことがあるんだけど」


「ん? 何だ?」


 ガレスが振り向くと、サザリーは彼を連れて廊下の端へ移動した。


 エミリアも何か思い出したらしく、二人の方へ歩いていく。


 俺はその様子を見送りながら、隣にいるリビアへ目を向けた。


「リビア、さっき話したいことがあるって言ってたよね。今なら少し時間があるけど、大丈夫?」


 そう尋ねると、彼女は少し驚いたように顔を上げた。


 そして、サザリーたちの姿を確かめてから、小さく頷いた。


「……うん。でも、ここだと少し恥ずかしいから、もう少し人の少ないところがいいな」


「分かった。じゃあ、中庭へ出る手前の廊下はどうかな。あそこなら、ほかの人の邪魔にもならないと思う」


 リビアは安心したように微笑んだ。


 俺たちはサザリーたちへ声をかけ、先に馬車へ向かう準備をすることを伝えた。


 サザリーは俺たちを見て、穏やかに頷いた。


「分かったよ。僕たちも、確認が終わったら帰ることにするね」


 その表情には、朝と同じような、何かを察しているような雰囲気があった。


 けれど、俺が理由を尋ねる前に、リビアがそっと俺の袖を引いた。


「……セス、行こ?」


「うん」


 俺は頷き、彼女と並んで廊下を歩き始めた。


     ◇


 中庭へ続く廊下の一角には、大きな窓が並んでいる。


 窓の向こうでは、花壇の手入れを終えた庭師が道具を片づけており、遠くから生徒たちの声が聞こえていた。


 俺たちは通行の邪魔にならない場所で立ち止まり、向かい合った。


 リビアはすぐには話し始めず、胸元で両手を重ねていた。


 その指先が少し落ち着かない様子で動いていることに気づき、俺は彼女が言葉を選ぶのを待った。


「……あのね、セス。今朝、私がどんな顔をしているか気になることがあるかって聞いたでしょう?」


「うん。覚えてるよ」


 俺が答えると、リビアは少しだけ視線を下げた。


「実はね、昨日の夜、自分でも少し気になったの。最近、学院でセスと話しているとき、私、前よりもずっと笑っている気がするなって」


 彼女はそう言ってから、恥ずかしそうに微笑んだ。


「もちろん、友達と話すのも楽しいし、授業で新しいことを知るのも嬉しいの。でも、セスが隣にいると、何でもないことまで楽しく感じることがあって……」


 俺は彼女の言葉を静かに聞いていた。


 リビアが楽しそうにしているのは、俺も嬉しい。


 けれど、それを彼女自身が気にしているとは思わなかった。


「……それって、何か困ることがあるの?」


 俺が尋ねると、リビアは少し慌てたように首を振った。


「困るっていうほどじゃないの。ただ、その……私、学院では公爵令嬢として、きちんとしていたいと思っているでしょう?」


「うん。リビアはいつも頑張ってると思うよ」


 そう答えると、彼女は少し嬉しそうに目を細めた。


 けれど、すぐにまた恥ずかしそうな表情へ戻った。


「ありがとう。でもね、セスと話していると、時々そのことを忘れそうになるの。昔みたいに、何も考えずに笑っちゃうことがあるから」


 俺は少し考えた。


 リビアは公爵家の一人娘として、幼い頃から多くのことを学んできた。


 人前での振る舞いも、言葉遣いも、相手への配慮も、どれも簡単に身につけられるものではなかったはずだ。


 それでも、俺の前では昔から自然な表情を見せてくれていた。


 だから、学院でその表情が出ることを気にしているのかもしれない。


「……でも、リビアが楽しそうに笑っているのは、悪いことじゃないと思うよ」


 俺がそう言うと、彼女は少し驚いたように顔を上げた。


「本当に?」


「うん。もちろん、授業中とか、真剣にしないといけない場面では気をつける必要があると思う。でも、友達と話しているときまで、ずっと気を張っていなくてもいいんじゃないかな」


 リビアはしばらく黙って俺を見つめていた。


 やがて、彼女は小さく息をつき、柔らかく微笑んだ。


「……セスらしい答えね」


「そうかな?」


「うん。私が笑っていることを、そんなふうに考えてくれるんだもの」


 彼女は少しだけ近づき、俺の袖へ指先を添えた。


「でもね、もうひとつ気になることがあるの」


 俺はその言葉に頷き、続きを待った。


 リビアは窓の外へ一度視線を向けてから、恥ずかしそうに言った。


「……セスが私を見て笑っているとき、周りの人に、私がどんな顔をしているか気づかれているんじゃないかなって」


 俺は一瞬、言葉の意味を考えた。


 俺がリビアを見て笑う。


 それを周囲の人が見る。


 そして、リビアがどんな顔をしているのか気づく。


 そこまで考えたところで、ようやく彼女が何を恥ずかしがっているのか、少し分かった気がした。


「……もしかして、俺といるときの顔を、ほかの人に見られるのが恥ずかしい?」


 俺が尋ねると、リビアは頬を真っ赤にした。


「……うん」


 小さな返事だった。


 けれど、彼女は逃げるように視線を逸らしたりはせず、俺の顔を見上げていた。


「セスの前では、昔から素直に笑ったり、甘えたりできるでしょう? でも、それを学院のみんなに見られていると思うと、少し恥ずかしくなっちゃうの」


 俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。


 リビアは、俺の前で見せる表情を特別なものだと思ってくれている。


 それは嬉しいことだった。


 けれど、彼女が恥ずかしいと感じているなら、その気持ちも大切にしたい。


「……そっか。じゃあ、俺も学院では少し気をつけた方がいいかな」


 俺がそう言うと、リビアは慌てて首を振った。


「ち、違うの! セスに私を見ないでほしいわけじゃないのよ?」


 彼女は俺の袖を握る手に、少しだけ力を込めた。


「むしろ、セスが私を見てくれるのは嬉しいの。私が何か話したときに、ちゃんと聞いてくれているって分かるし、目が合うと安心するから」


 俺はその言葉に、少しだけ頬が熱くなるのを感じた。


 リビアは真剣な表情で続けた。


「ただ、その……セスが優しく笑ってくれると、私も嬉しくなって、つい顔に出ちゃうの。それをみんなに見られるのが恥ずかしいだけで……」


 彼女はそこまで言ってから、自分の言葉を思い返したらしく、さらに頬を赤くした。


 俺もどう答えればいいのか分からなくなり、しばらく二人で黙ってしまった。


 窓の外からは、風に揺れる葉の音が聞こえてくる。


 廊下の向こうでは誰かの足音が響いていたが、俺たちの近くを通る人はいなかった。


 俺は少し考えてから、ゆっくりと言葉を選んだ。


「……リビア。俺は、リビアが楽しそうにしていると嬉しいんだ。だから、つい見ちゃうことがあるのかもしれない」


 彼女は目を丸くした。


「セスも?」


「うん。リビアが笑っていると、俺も安心するし、楽しい気持ちになるから」


 俺はそう答えながら、少し照れくさくなった。


 普段なら、こんなことを改めて言葉にする機会はあまりない。


 けれど、彼女が勇気を出して話してくれたのだから、俺も自分の気持ちをきちんと伝えたいと思った。


「……だから、リビアが恥ずかしいなら、周りの人がいるときは少し気をつけるよ。でも、笑わないようにするのは、たぶん難しいと思う」


 俺がそう言うと、リビアはしばらく俺を見つめていた。


 そして、ゆっくりと表情を崩した。


「……もう、セスったら」


 彼女は嬉しそうに笑いながら、俺の袖から手を離した。


 その代わり、そっと俺の手へ指先を重ねてくる。


「そんなこと言われたら、私だって笑っちゃうじゃない」


 俺はその手を優しく握り返した。


「……それなら、お互い様だね」


 リビアは小さく頷いた。


 しばらくの間、俺たちは窓際で手をつないだまま、静かに笑い合っていた。


     ◇


 その頃、少し離れた廊下では、サザリーがガレスとエミリアを連れて歩いていた。


 先ほど確認した配置図についての話はすでに終わっていたが、ガレスはまだ課題の出来が気になっているらしく、提出した案について話していた。


「なあ、サザリー。あの机の配置、先生に変だって言われないかな?」


「条件には合っていたと思うよ。もちろん、もっとよい方法があるかもしれないけれど、それを考えるのも授業の目的だろうからね」


 サザリーがそう答えると、ガレスは少し安心したように頷いた。


 エミリアは二人の会話を聞きながら、ふと前方へ目を向けた。


 廊下の先には、中庭へ続く大きな窓がある。


 その近くに、見慣れた二人の姿があった。


「あ……」


 エミリアは小さく声を漏らし、すぐに足を緩めた。


 ガレスも彼女の視線を追い、窓際に立つクルセスとオリビアを見つけた。


「お、セスたちじゃないか。まだ帰ってなかったんだな」


 そう言って声をかけようとしたガレスの腕を、サザリーがそっと押さえた。


「ガレス、少し待とうか」


「ん? 何でだ?」


 ガレスは不思議そうに首を傾げた。


 サザリーは苦笑しながら、前方へ視線を向けた。


 二人は何かを話しているようだったが、こちらから内容までは聞こえない。


 ただ、オリビアが普段の学院ではあまり見せないほど柔らかな表情をしていることだけは分かった。


 クルセスも穏やかに笑っており、二人の間には、ほかの生徒が簡単には入り込めないような親密さがあった。


 エミリアはその様子を見て、思わず頬を緩めた。


「……お二人とも、楽しそうですね」


 彼女が小さく呟くと、サザリーは静かに頷いた。


「そうだね。だから、今は邪魔をしない方がいいと思うんだ」


 ガレスはもう一度二人を見た。


 そして、ようやく何かに気づいたらしく、少しだけ目を丸くした。


「ああ……そういうことか」


 彼は照れくさそうに頭をかいた。


「いや、悪かった。俺、普通に声をかけるところだった」


「別に悪いことではないと思いますけれど、今はお二人でお話ししたいことがあるのかもしれませんね」


 エミリアがそう言うと、ガレスは素直に頷いた。


 サザリーは二人へ別の通路を示し、静かに歩き始めた。


 その途中、エミリアが少しだけ振り返った。


 窓際の二人はまだ話している。


 オリビアが何かを言い、クルセスが少し照れくさそうに笑った。


 その様子を見たエミリアは、胸の奥が温かくなるのを感じた。


(……パウリー様は、クルセス様の前だと、本当に嬉しそうに笑われるのですね)


 普段のオリビアも、決して冷たい人ではない。


 友人たちには親切で、授業にも真剣に取り組み、誰かが困っていれば自然に声をかける。


 けれど、クルセスと二人でいるときには、どこか肩の力が抜けているように見えた。


 それは、公爵令嬢としての立場を忘れているというよりも、安心して自分の気持ちを表せる相手が隣にいるからなのだろう。


 エミリアはそう考えながら、二人の時間を邪魔しないよう、サザリーたちのあとを追った。


     ◇


 しばらくして、俺たちは学院の玄関へ向かって歩き始めた。


 リビアは先ほどよりも落ち着いた表情になっていたが、ときどき俺の方を見ては、小さく微笑んでいた。


 俺もそのたびに笑い返してしまう。


 彼女が恥ずかしいと言っていたことを思い出し、少しだけ気をつけようとは思ったものの、自然に浮かぶ笑みを完全に抑えるのは難しかった。


「……ねえ、セス」


「何?」


「さっきのお話、聞いてくれてありがとう」


 リビアは歩く速度を少し緩め、俺を見上げた。


「私、最初は自分でも何が恥ずかしいのか、よく分からなかったの。でも、セスに話していたら、少しずつ分かってきた気がする」


 俺は静かに頷いた。


「それならよかった。俺も、リビアが何を気にしていたのか分かって安心したよ」


 そう答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「……それとね、もうひとつお願いがあるの」


「うん。何かな?」


 リビアは少しだけ頬を染め、周囲の生徒たちの様子を確かめた。


 そして、俺にだけ聞こえるくらいの声で言った。


「屋敷に帰ったら、今日みたいに、もう少しだけ一緒にいてくれる?」


 俺はその言葉に、自然と笑みを浮かべた。


「もちろん。夕方の仕事が終わってからなら、ゆっくり話せると思うよ」


 リビアは嬉しそうに頷いた。


「うん。じゃあ、待ってるね」


 その返事を聞いたとき、俺はふと気づいた。


 彼女は、何か特別なことをしたいと言っているわけではない。


 ただ、俺と一緒に過ごしたいと思ってくれている。


 それが、何だかとても嬉しかった。


     ◇


 屋敷へ戻ると、父さんがいつものように出迎えてくれた。


 学院での予定が無事に終わったことを報告したあと、俺は夕方の仕事について確認した。


 今日は書類の整理を少し手伝う予定だったが、父さんから任された範囲はそれほど多くなかった。


「セス。今日は予定していた確認作業だけでよい。終わったら報告に来なさい」


「うん。分かったよ、父さん」


 俺が頷くと、父さんは少しだけ視線を動かし、隣にいるリビアへ目を向けた。


「お嬢様も、学院でお疲れでしょう。夕食までの時間は、どうぞごゆっくりお過ごしください」


「ありがとう、グレイヴ」


 リビアは丁寧に礼を述べたあと、俺へ小さく微笑んだ。


 その表情を見た父さんは、何かを察したように口元を緩めた。


 けれど、今回も特に何かを尋ねることはなかった。


 俺は少し不思議に思いながらも、まずは任された仕事を終わらせることにした。


 書類の整理は、予定していた時間内に終えることができた。


 内容を確認し、必要なものを所定の場所へ戻してから、父さんへ報告する。


 父さんは俺の説明を聞き、静かに頷いた。


「よろしい。今日はこれで終わりだ」


「ありがとう、父さん」


 俺が礼を述べると、父さんは少しだけ表情を和らげた。


「……セス」


「何?」


「お嬢様がお待ちなのだろう?」


 突然そう言われ、俺は思わず目を丸くした。


「えっ? どうして分かったの?」


 父さんは穏やかに笑った。


「長くこの屋敷で働いていれば、分かることもある。もっとも、何でも見通せるわけではないがな」


 俺は少し照れくさくなった。


 父さんはそれ以上からかうことなく、手元の書類へ視線を戻した。


「行ってきなさい。ただし、夕食の時間は忘れないように」


「うん。分かってるよ」


 俺は父さんへ礼を述べ、執務室を出た。


     ◇


 リビアは、屋敷の小さな談話室で待っていた。


 窓際の机には二人分のお茶が用意されており、夕方の柔らかな光が室内を照らしている。彼女は椅子に座って本を読んでいたが、俺が扉を叩くと、すぐに顔を上げた。


「セス!」


 その声には、隠しきれない嬉しさがあった。


 俺が部屋へ入ると、リビアは本を閉じ、立ち上がって迎えてくれた。


「お仕事、終わったの?」


「うん。父さんにも報告してきたよ」


「そうなんだ。じゃあ、夕食まで一緒にいられるね」


 彼女はそう言って微笑み、俺の手を取った。


 学院で見せていた少し恥ずかしそうな表情とは違い、今のリビアはとても自然だった。


 俺たちは窓際の椅子へ並んで座り、用意されていたお茶を飲みながら、今日の授業について話し始めた。


 エレナ先生の魔術理論のこと。


 ガレスが剣術の本を読み直していたこと。


 午後の班活動で、みんなの意見を合わせるのが思っていたよりも難しかったこと。


 話題は次々に移り変わったが、急いで何かを決める必要はなかった。


 ただ、今日あったことを話し、相手の言葉に耳を傾ける。


 それだけの時間が、俺には心地よかった。


 しばらくして、リビアがカップを置いた。


「……ねえ、セス」


「うん?」


「今日、学院で話したことなんだけど……」


 彼女は少しだけ頬を染め、俺の手へそっと触れた。


「私、やっぱり、セスの前では素直に笑っていたいな」


 俺はその言葉を聞き、静かに頷いた。


「うん。俺も、リビアには無理してほしくないよ」


 そう答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「でも、学院では少しだけ気をつけることにするわ。みんなの前で、セスに甘えすぎちゃうと恥ずかしいもの」


 俺は少し笑った。


「それなら、屋敷にいるときは?」


 何気なく尋ねたつもりだった。


 けれど、リビアはその言葉を聞いた途端、目を丸くした。


 そして、ゆっくりと頬を赤くしていった。


「……セス、それ、聞いちゃうの?」


「えっ? ごめん。何か変なこと言った?」


 俺が慌てると、彼女は小さく首を振った。


 それから、少しだけ身体を寄せてきた。


「……屋敷にいるときは、もう少し甘えてもいい?」


 俺はその言葉に、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 リビアは昔から、俺の前では素直な気持ちを見せてくれていた。


 けれど、婚約してからは、その気持ちを言葉にして伝えてくれることが増えたように思う。


 それは俺にとって、嬉しい変化だった。


「もちろん。リビアがそうしたいなら、俺は嬉しいよ」


 そう答えると、彼女は安心したように息をついた。


 そして、そっと俺の肩へ頭を預けてきた。


「……ありがとう、セス」


 俺は彼女が楽な姿勢でいられるよう、少しだけ身体の向きを変えた。


 窓の外では、夕方の風が庭園の木々を揺らしている。


 談話室には時計の針が進む音と、遠くの廊下を歩く使用人たちの足音が、かすかに聞こえていた。


 リビアはしばらく黙っていたが、やがて小さな声で呟いた。


「……こうしていると、安心するの」


 俺は彼女の髪へ目を向けた。


 銀青色の髪が肩へ流れ、窓から差し込む光を柔らかく受け止めている。


「俺もだよ」


 そう答えると、リビアは嬉しそうに目を細めた。


 俺たちはそれ以上、無理に言葉を重ねなかった。


 学院では友人たちと笑い合い、授業では知らなかったことを学ぶ。


 屋敷へ戻れば、それぞれの役割を果たし、こうして一緒に過ごす時間もある。


 どれも特別な事件ではない。


 けれど、俺にとっては大切な日々だった。


(……リビアが安心して笑える場所を、これからも大切にしたいな)


 俺はそう思いながら、隣にいる彼女へ視線を向けた。


 リビアはちょうど顔を上げたところで、俺と目が合うと、少し照れくさそうに微笑んだ。


「……セス、また私のこと見てた?」


「うん。見てたよ」


 正直に答えると、彼女は一瞬驚いたあと、嬉しそうに笑った。


「もう……本当に、セスにはかなわないな」


 そう言って、彼女はもう一度俺の肩へ頭を預けた。


 俺はその温もりを感じながら、夕食の時間が来るまで、彼女と穏やかな時間を過ごした。

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