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第115話 公爵令嬢様は、俺が気づかなかった案内板の向こうを見てみたいらしい


 翌朝、目を覚ました俺は、窓の向こうに広がる空を見て、昨夜よりも雲が少なくなっていることに気づいた。


 まだ日の出からそれほど時間が経っていないらしく、庭園には薄い朝靄が残っている。遠くの植え込みでは庭師たちが作業の準備を始めており、屋敷の中からは、朝食の支度を進める使用人たちの控えめな足音が聞こえてきた。


 俺は寝台から起き上がり、いつものように身支度を整えた。


 今日も学院へ向かう予定があるが、その前に執事見習いとしての仕事を少し手伝うことになっている。父さんから任されているのは、朝の連絡事項を確認し、必要な用紙が所定の場所にそろっているかを確かめることだ。


 ただ、今朝は仕事以外にも、ひとつ気になっていることがあった。


(リビア、昨夜は何を話そうとしていたんだろう?)


 昨夜、俺が自室で学習ノートを見直していたとき、リビアが扉の向こうから声をかけてくれた。


 連絡用紙について考えていたら、ひとつ話したいことができたらしい。


 けれど、時間が遅かったため、詳しい話は翌朝にすることになった。


 リビアは昔から、何かに興味を持つと、驚くほど熱心に考えるところがある。学問や魔術のことはもちろん、最近では屋敷の仕事についても、俺が思いつかなかった疑問を口にすることが増えていた。


 昨日も、連絡用紙に必要な情報が書かれていない場合、その原因を確かめることが大切なのではないかと話していた。


 誰かが記入を忘れたのか。


 必要な項目が分かりにくかったのか。


 あるいは、書く人自身が必要な情報を知らなかったのか。


 同じ空欄でも、理由によって対応は変わる。


 父さんも、その考え方は大切だと言っていた。


(……今度は、どんなことに気づいたんだろうな)


 俺は少し楽しみになりながら、上着の襟元を整えた。


 そして、机の上に置いていた仕事用の小さな手帳を手に取り、部屋を出た。


     ◇


 朝の確認作業は、予定していた時間よりも少し早く終わった。


 各部署から提出される連絡用紙は、決められた場所に整理されており、俺が確認を担当する範囲では、特に問題は見つからなかった。


 以前なら、時間に余裕ができたことを理由に、ほかに手伝える仕事がないか探していたかもしれない。


 けれど、今日はそうしなかった。


 必要な報告を終えたあと、父さんへ次の指示があるか確認し、今は学院へ向かう準備を優先するよう言われたからだ。


「セス。昨日の学習を、さっそく意識しているようだな」


 父さんは記録台の上を確認しながら、穏やかな声でそう言った。


 俺は少し照れくさくなった。


「……うん。時間が空いたからって、勝手に仕事を増やすのは違うかなって思ったんだ」


「よい判断だ。もちろん、周囲の状況に応じて自分から動く必要がある場合もある。だが、任された仕事が終わったことを報告し、次の指示を確認するのも、立派な仕事のひとつだ」


 父さんはそこで書類を閉じ、俺へ視線を向けた。


「それに、今日は学院での予定もある。屋敷の仕事に熱心になるあまり、生徒としての役割をおろそかにしてはいけないぞ」


「分かってるよ、父さん」


 俺が答えると、父さんは小さく笑った。


「ならばよろしい。お嬢様も、そろそろ朝の支度を終えられる頃だろう」


 俺は頷き、父さんへ礼を述べてから記録台を離れた。


 廊下へ出ると、窓の向こうでは朝靄が少しずつ薄くなっていた。


 庭園の小道を歩く使用人たちの姿が見える。


 その中には、道具を運ぶ人もいれば、植え込みの状態を確認している人もいた。


 俺はその様子を眺めながら、ふと昨日の連絡用紙の学習を思い出した。


 必要な情報を伝えること。


 受け取る人が困らないようにすること。


 そして、情報が足りない場合には、勝手に判断せず確認すること。


 どれも、言葉にすると簡単なことのように思える。


 けれど、実際の仕事では、それを毎日続けていく必要があるのだ。


 そんなことを考えていると、廊下の向こうから聞き慣れた声がした。


「セス!」


 顔を上げると、リビアがこちらへ歩いてくるところだった。


 銀青色の髪が朝の光を受けて柔らかく輝き、整った制服の裾が歩くたびに小さく揺れている。


 俺の姿を見つけた彼女は、嬉しそうに微笑んだ。


「おはよう、セス。お仕事はもう終わったの?」


「おはよう、リビア。うん。今朝の分は終わったよ」


「そうなんだ。じゃあ、少しだけお話ししても大丈夫?」


 その言葉に、俺は昨夜の約束を思い出した。


「もちろん。昨日、話したいことがあるって言ってたよね」


 リビアは嬉しそうに頷いた。


「うん。実はね、昨日の連絡用紙のことを考えていたら、別のことが気になったの」


「別のこと?」


「そう。書いてあることが正しくても、読む人が必要な情報を見つけられなかったら、困ることがあるんじゃないかなって」


 俺は少し考えた。


 昨日の学習では、用紙に必要な情報が書かれているかどうかを中心に考えていた。


 けれど、情報が正しく書かれていても、それを読む人が見つけられなければ意味がない。


「……確かに、そうだね。必要なことが書いてあっても、どこにあるのか分からなかったら、確認に時間がかかるかもしれない」


「うん。それでね、私、学院の図書室のことを思い出したの」


 その言葉に、俺は少し驚いた。


「図書室?」


「そう。前に、図書室の案内について少し話したことがあったでしょう?」


 俺は頷いた。


 学院の図書室では、書棚の配置や案内表示について、以前からいくつか気になる点があった。


 特に、初めて利用する生徒にとって、目的の本がどの棚にあるのか分かりにくい場所がある。


 そのため、案内表示を改善できないかという話が出ていた。


 ただし、まだ相談の準備を進めている段階であり、正式に変更が認められたわけではない。


「うん。案内の仕方を少し見直せないかって話だったね」


「そうなの。昨日の連絡用紙も、図書室の案内も、必要な情報を相手に伝えるためのものなんだなって思ったの」


 リビアは少し考えながら続けた。


「もちろん、同じものではないけれど、読む人が分かりやすいようにするっていうところは、似ているんじゃないかな?」


 俺はその言葉を聞き、思わず感心した。


 連絡用紙は、仕事を進めるために必要な情報を伝えるものだ。


 一方、図書室の案内表示は、本を探す人が目的の場所へたどり着けるようにするものだ。


 役割は違う。


 けれど、情報を受け取る人の立場を考える必要があるという点では、確かに共通している。


「……なるほど。リビアは、そこが気になったんだね」


「うん。でも、私たちだけで案内板を変えるわけにはいかないでしょう?」


「もちろん。図書室の先生や、管理している人たちに相談しないといけないね」


 リビアは真剣な表情で頷いた。


「だから、今日は何かを変えようとするんじゃなくて、今の案内で分かりにくいところがあるのか、もう一度確かめてみたいの」


 俺は少し考えた。


 以前から気になっていた場所はある。


 けれど、それが本当にほかの生徒にとっても分かりにくいのかどうかは、まだ十分に確かめられていない。


 俺たちは何度も図書室を利用しているため、書棚の配置をある程度覚えてしまっている。


 だからこそ、初めて利用する人の気持ちを想像するのが難しいのかもしれない。


「……いいと思う。ただ、授業の合間に無理して調べるんじゃなくて、図書室を利用できる時間にしよう」


「うん。私もそのつもりだよ」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「それとね、セス。今日は、私たちが分からないことを探すだけじゃなくて、今の案内がどうしてそうなっているのかも考えてみたいの」


 俺はその言葉に、少しだけ目を丸くした。


「どうしてそうなっているのか?」


「うん。前から使われている案内なら、きっと何か理由があるんじゃないかなって。私たちが不便だと思ったからって、すぐに変えた方がいいとは限らないでしょう?」


 その考え方は、昨日の父さんの説明ともつながっていた。


 用紙に空欄があるからといって、書いた人だけが悪いとは限らない。


 同じように、案内表示が分かりにくく感じられたからといって、それを作った人が何も考えていなかったとは限らない。


 今の形になった理由があるのかもしれない。


 あるいは、以前は問題がなかったものの、書棚の配置や利用する生徒の数が変わったことで、少しずつ合わなくなってきた可能性もある。


「……そうだね。まずは、今の状態をちゃんと知ることから始めよう」


 俺が答えると、リビアは満足そうに頷いた。


「うん。一緒に考えてくれる?」


「もちろん」


 その返事を聞いたリビアは、嬉しそうに目を細めた。


 そして、周囲にほかの使用人がいないことを確かめるように廊下へ目を向けてから、そっと俺の手へ触れた。


「ありがとう、セス」


 俺はその手を優しく握り返した。


「どういたしまして」


 短いやり取りだったが、リビアはそれだけで十分だったらしい。


 彼女は少し頬を染めながら微笑み、やがて名残惜しそうに手を離した。


 その直後、廊下の向こうから馬車の準備が整ったことを知らせる声が聞こえた。


 俺たちは顔を見合わせ、学院へ向かうために歩き始めた。


     ◇


 学院へ到着すると、朝の校舎には多くの生徒たちの声が響いていた。


 廊下では友人同士で談笑する生徒や、授業の準備をしながら教室へ向かう生徒が行き交っている。


 窓から差し込む朝日は明るく、磨かれた床には長い影が伸びていた。


 俺とリビアが教室へ入ると、すでにサザリーとエミリアが席についていた。


 サザリーは手元の本を閉じ、俺たちへ穏やかに微笑んだ。


「おはよう、クルセス。パウリー様」


「おはよう、サザリー」


「おはようございます、サザリー様」


 リビアが挨拶を返すと、エミリアも顔を上げた。


「おはようございます。今日はお二人とも、いつもより少し早いですね」


「うん。今朝は屋敷の仕事が予定どおりに終わったから、余裕を持って出発できたんだ」


 俺が答えると、エミリアは微笑んだ。


「それはよかったですね。朝から慌ただしいと、授業が始まる頃には疲れてしまうこともありますもの」


 その言葉に、俺は少し苦笑した。


 以前なら、時間に余裕があることを理由に、さらに仕事を探していたかもしれない。


 けれど、今日は父さんの指示どおり、必要な準備を済ませて学院へ来ることができた。


 それは、俺にとって小さな変化だった。


 やがてガレスも教室へ入ってきた。


 彼は少し眠そうに目元をこすっていたが、俺たちの姿を見つけると、いつもの明るい声で挨拶してきた。


「おはよう! 今日は朝からいい天気だな!」


「おはよう、ガレス。昨日より雲が少ないね」


 俺が答えると、ガレスは窓の外へ目を向けた。


「そうなんだよ。今朝は少し早く起きて剣の素振りをしてたんだけど、風が気持ちよくてさ。つい予定より長くやっちまった」


 サザリーが小さく笑った。


「それで眠そうなのかい?」


「いや、眠いのは昨日ちょっと本を読んでたせいだな。剣術の本なんだけど、気になるところがあってさ」


 ガレスは少し照れくさそうに頭をかいた。


 その様子を見て、エミリアが穏やかに微笑んだ。


「熱心なのはよいことですが、睡眠時間まで削ってしまうと、練習にも影響が出てしまいますよ」


「分かってるって。今日はちゃんと早く寝るよ」


 ガレスはそう答えたが、サザリーは少し疑わしそうな顔をしていた。


 俺たちはそのやり取りに笑いながら、それぞれの席へ向かった。


 午前の授業が始まるまでには、まだ少し時間がある。


 リビアは机の上に教科書を並べながら、俺へ小さく声をかけた。


「セス、図書室へ行くのは、昼休みより放課後の方がいいかな?」


 俺は少し考えた。


 昼休みは利用する生徒が多く、書棚の前で立ち止まって確認するには向いていないかもしれない。


 一方、放課後なら授業が終わっているため、時間に少し余裕がある。


 ただし、図書室の利用者が少ないとは限らない。


「放課後の方が落ち着いて確認できるかもしれないね。でも、利用している人の邪魔にならないようにしよう」


「うん。それと、図書室の先生にも、今の案内について少し聞いてみたいな」


 リビアはそう言って、真剣な表情になった。


「もちろん、お忙しそうなら別の日にするけれど」


「そうだね。まずは相談できる時間があるか確認してみよう」


 俺が答えると、彼女は嬉しそうに頷いた。


 そのとき、授業開始を知らせる鐘が鳴り、教室の中が少しずつ静かになっていった。


 俺たちは会話を終え、前方へ向き直った。


     ◇


 午前の授業では、文章を読んで必要な情報を整理する課題が出された。


 題材は、ある町で行われる市場の準備について書かれた文章だった。


 市場へ出店する商人の数。


 荷物の搬入時間。


 通行できる道の範囲。


 そして、来場者へ知らせる必要がある注意事項。


 それらが、ひとつの長い文章の中にまとめられている。


 先生は黒板へいくつかの項目を書き込みながら、生徒たちへ説明した。


「文章に書かれている情報を正しく理解することは大切です。しかし、それだけでは十分ではありません。必要な情報を、必要な相手へ分かりやすく伝えることも、同じくらい重要です」


 俺はその言葉を聞き、思わずリビアへ目を向けそうになった。


 今朝、彼女が話していたことと、よく似ている。


 けれど、授業中なので視線を動かすだけに留め、手元の課題へ集中した。


 今回の課題では、市場へ来る人に向けた案内文を作ることになっていた。


 文章に書かれた情報をすべて並べるのではなく、来場者にとって必要な内容を選び、短く分かりやすくまとめる必要がある。


 俺はまず、元の文章を読み返した。


 市場の開始時刻。


 来場者が利用できる入口。


 荷車が通るため、一定の時間帯は通行を避けてほしい場所。


 そして、雨天時の対応についての注意。


 どれも重要な情報だ。


 けれど、すべてを長い文章のまま掲示したら、読む人が必要な情報を見つけにくくなるかもしれない。


(……情報が多ければいいってわけじゃないんだな)


 俺はそう考えながら、項目を整理していった。


 最初に市場の開催日時と場所を書く。


 そのあと、来場者が利用できる入口を示す。


 通行に関する注意は、誤解が生じないように具体的に記す。


 雨天時の対応については、決まっている範囲だけを記載する。


 俺は文章をまとめ終えたあと、読み返してみた。


 必要なことは書けていると思う。


 けれど、初めて市場へ来る人が読んでも分かるだろうか。


 その点については、少し自信がなかった。


 やがて先生が、いくつかの例を取り上げて説明を始めた。


 ある生徒の文章は、必要な情報をすべて含んでいるものの、ひとつの長い段落になっていた。


 別の生徒の文章は、見出しが分かれていて読みやすい反面、注意事項の一部が抜けていた。


 先生はそれぞれの良いところと改善できるところを示しながら、穏やかに話した。


「情報を短くまとめることと、必要な情報を省いてしまうことは違います。読みやすさを意識するあまり、大切な条件が抜けてしまわないようにしましょう」


 その言葉に、俺は静かに頷いた。


 昨日の連絡用紙の学習でも、似たようなことを考えた。


 必要な情報が書かれていなければ、受け取る人は確認し直さなければならない。


 けれど、情報が多すぎて必要な部分を見つけられない場合も、困ることがある。


 その両方を考える必要があるのだろう。


 授業の終わりに、先生は課題を提出する前に、もう一度自分の文章を読み返すよう指示した。


 俺は手元の案内文へ目を向け、いくつかの表現を直した。


 そして、最後にもう一度確認してから、用紙を提出した。


     ◇


 昼休み、俺たちはいつものように食堂で食事を取っていた。


 今日は窓際の席が空いており、外の中庭を眺めながら食事をすることができた。


 ガレスは午前の課題について、少し困ったような顔をしていた。


「いやあ、ああいう文章を短くまとめるのって難しいな。俺、必要そうなことを全部書いたら、元の文章とあんまり長さが変わらなくなっちまった」


 その言葉に、サザリーが穏やかに笑った。


「でも、必要な情報を見落とさなかったのなら、それはよいことだと思うよ。あとは、読む人が分かりやすい順番に並べる練習をすればいいんじゃないかな」


「そうか? じゃあ、次は見出しをつけてみるかな」


 ガレスは少し安心したように頷いた。


 エミリアは手元のカップを置き、静かに口を開いた。


「私は、どこまで説明すれば十分なのかで迷いました。読む人がすでに知っていることと、知らないことを区別するのが難しくて」


 俺はその言葉を聞き、思わず頷いた。


「俺も、そこは難しいと思ったよ。自分では分かっていることでも、初めて読む人には伝わらないかもしれないから」


 リビアは少し考えてから、穏やかに言った。


「そういうときは、実際に読む人に近い立場の人へ見てもらうことも大切なのかもしれないね」


 サザリーが興味深そうに顔を上げた。


「なるほど。書いた本人では気づけないこともありますからね」


「うん。もちろん、誰にでも見せていい文章とは限らないけれど、今回みたいな学習用の案内なら、ほかの人の意見を聞くこともできるでしょう?」


 リビアの言葉に、エミリアが頷いた。


「確かに、そうですね。私は見出しの付け方で迷ったので、今度は友人に読んでもらって、分かりやすいか聞いてみたいです」


 そのやり取りを聞きながら、俺は今朝のリビアとの約束を思い出した。


 図書室の案内表示について考える。


 それも、今の表示が分かりにくいと決めつけるのではなく、実際の状態を確かめるところから始める。


 俺は食事の手を止め、リビアへ小さく声をかけた。


「リビア、放課後の図書室のことだけど、今日の授業も参考になりそうだね」


 彼女は嬉しそうに頷いた。


「うん。私もそう思ってたの」


 すると、ガレスが不思議そうに首を傾げた。


「図書室? 二人とも、何か調べ物でもするのか?」


 俺は少し考えてから答えた。


「前から、図書室の案内表示について少し気になっていることがあってね。今日は、今の表示がどんなふうになっているのか、もう一度確認してみようと思っているんだ」


 ガレスは少し驚いたような顔をした。


「案内表示って、本がどこにあるか書いてあるやつか?」


「うん。書棚の場所を示す表示だよ」


「そういや、俺も前に剣術の本を探したとき、ちょっと迷ったことがあったな」


 その言葉に、俺は思わず顔を上げた。


「本当?」


「ああ。でも、俺が棚の場所をちゃんと見てなかっただけかもしれない。結局、図書室の人に聞いたらすぐ見つかったしな」


 ガレスは少し照れくさそうに笑った。


 俺はその話を聞き、すぐに案内表示の問題だと決めつけないようにした。


 ガレス自身も、表示をよく見ていなかった可能性があると言っている。


 だから、彼の経験だけで判断することはできない。


 ただ、実際に迷ったことがある人の話としては、参考になるかもしれない。


「……そうなんだ。どの辺りで迷ったか、覚えてる?」


 俺が尋ねると、ガレスは少し考え込んだ。


「うーん。たしか、歴史の本が並んでいるところから、別の棚へ行こうとしたときだったかな。剣術の本がどこにあるのか、最初は分からなかったんだ」


 サザリーが静かに口を開いた。


「図書室の分類では、剣術に関する本も、内容によって置かれている場所が違うことがありますからね。歴史的な武術について書かれた本と、実技の解説書では、棚が分かれている場合もあります」


 ガレスは目を丸くした。


「そうなのか? じゃあ、俺が迷ったのも、そのせいかもしれないな」


 俺はサザリーの説明を聞き、少し考えた。


 確かに、図書室の本は単純に題名だけで分類されているわけではない。


 同じような題材でも、内容によって置かれる場所が違うことがある。


 案内表示を考えるなら、その分類の仕組みも理解しておく必要があるのだろう。


 リビアも同じことを考えていたらしく、真剣な表情で頷いていた。


「……やっぱり、図書室の先生に相談してみた方がよさそうだね」


「うん。俺もそう思う」


 俺たちは顔を見合わせ、放課後の予定を確認した。


     ◇


 放課後の図書室は、昼休みとは違う落ち着いた空気に包まれていた。


 大きな窓からは午後の柔らかな光が差し込み、長い書棚の間には静かな影が伸びている。


 閲覧席では数人の生徒が本を読んでおり、奥の机では二人組の生徒が小声で課題について相談していた。


 俺とリビアは入口で立ち止まり、まず周囲の様子を確かめた。


 図書室の利用者はそれほど多くないが、書棚の間を歩いている生徒もいる。


 案内表示を確認するために、通路の真ん中で立ち止まるわけにはいかない。


「セス、まずは入口の案内から見てみようか」


「うん。そうしよう」


 入口の近くには、図書室全体の配置を示す案内板が設置されていた。


 書棚の位置や閲覧席、貸出窓口の場所が簡単な図で示されている。


 俺はその案内板を見つめながら、以前から気になっていたことを思い出した。


 図書室を何度も利用している俺たちにとって、書棚の位置はある程度分かっている。


 けれど、初めて利用する生徒がこの図を見たとき、目的の棚を見つけられるだろうか。


 案内板には分類ごとの名称が書かれているものの、実際の書棚に付けられた表示とは、少し表現が違う部分があるように見えた。


「……リビア、ここを見て」


 俺が指さすと、彼女は隣へ近づいた。


「どこ?」


「この分類の名前。入口の案内板にはこう書いてあるけど、奥の書棚には少し違う言葉が使われていた気がするんだ」


 リビアは案内板を見つめ、少し考えた。


「……本当だね。でも、同じ分類を指しているのかどうか、まだ分からないよね」


「うん。だから、実際の棚を確認してみよう」


 俺たちは通路の端を歩き、奥の書棚へ向かった。


 途中で本を探している生徒がいたため、邪魔にならないよう少し距離を取って待つ。


 その生徒が移動したあと、俺たちは書棚の上に付けられた表示を確認した。


 やはり、入口の案内板とは少し違う言葉が使われている。


 ただし、分類そのものが違うのか、単に表示の仕方が異なるだけなのかは、今の俺たちには判断できなかった。


「……これは、先生に聞いた方がいいね」


 リビアが小さく呟いた。


「うん。俺たちだけで、間違っているって決めるのはよくないと思う」


 俺たちはそれ以上その場に留まらず、書棚の間から離れた。


 そのあと、ほかの案内表示もいくつか確認したが、どれもすぐに改善が必要だと判断できるものではなかった。


 むしろ、今まで気づかなかった工夫も見つかった。


 たとえば、書棚の側面には分類の大まかな内容が書かれており、通路の入口からでも確認できるようになっている。


 また、閲覧席の近くには、よく利用される資料の場所を示す小さな案内があった。


 俺はその表示を見て、少し感心した。


「……こういう案内もあったんだね」


 リビアは嬉しそうに頷いた。


「うん。私、何度も図書室に来ているのに、ちゃんと見ていなかったみたい」


 彼女は少し照れくさそうに笑った。


「分かりにくいところを探そうと思って来たけれど、今の案内にも、いろんな工夫があるんだね」


「そうだね。だから、変えた方がいいところがあるかどうかも、慎重に考えないといけないんだと思う」


 俺たちはそう話しながら、貸出窓口の方へ向かった。


     ◇


 貸出窓口では、図書室を担当する職員が返却された本を整理していた。


 俺たちは少し離れた場所で待ち、職員の手が空いたところで声をかけた。


「すみません。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」


 俺が尋ねると、職員は穏やかに顔を上げた。


「はい。何かお探しの本がありますか?」


「いえ、今日は本ではなくて、図書室の案内表示について少しお聞きしたいことがあるんです」


 職員は少し意外そうに眉を上げた。


 そこでリビアが、丁寧に事情を説明した。


「以前から、図書室の案内について少し気になるところがありまして、今日は今の表示を確認していました。ただ、私たちだけでは分からないことも多かったので、管理されている方にお話を伺いたいと思ったんです」


 職員は俺たちの話を聞き、静かに頷いた。


「なるほど。どのような点が気になったのですか?」


 俺は入口の案内板と、奥の書棚に付けられた表示について説明した。


 ただし、間違っていると決めつけるのではなく、表現が少し違っているように見えたことと、その理由を知りたいことを伝えた。


 職員は少し考えてから答えた。


「確かに、入口の案内板と書棚の表示では、分類名の表記が一部異なっています。以前、書棚の配置を見直した際に、表示の更新方法が場所によって違ったためですね」


 俺はその説明を聞き、思わず顔を上げた。


「配置を見直したことがあるんですか?」


「はい。利用する生徒が増えた時期に、一部の書棚を移動したことがあります。ただし、分類そのものを大きく変更したわけではありません」


 職員はそう言って、窓口の奥にある書類棚へ目を向けた。


「詳しい経緯については、こちらでも記録を確認する必要がありますが、少なくとも現在の表示がすべて同じ時期に作られたものではないことは確かです」


 リビアは真剣な表情で頷いた。


「そうだったんですね。では、表記が違うからといって、すぐに間違いだとは言えないんですね」


「そうですね。ただし、利用する生徒が迷いやすいのであれば、今後の案内を考える際の参考にはなるでしょう」


 職員は穏やかに微笑んだ。


 俺はその言葉を聞き、少し安心した。


 俺たちが気になったことは、完全な思い違いではなかった。


 けれど、だからといって、すぐに案内表示を変更するべきだと決まったわけでもない。


 まずは、現在の表示がどのように使われているのかを確認する必要がある。


「……あの、もうひとつお聞きしてもいいですか?」


 リビアがそう尋ねると、職員は頷いた。


「はい。どうぞ」


「図書室を初めて利用する生徒が、本の場所を尋ねに来ることは多いのでしょうか?」


 職員は少し考えた。


「そうですね。新しく入学した生徒が多い時期には、書棚の場所について質問を受けることがあります。ただ、それが案内表示の分かりにくさによるものなのか、単に図書室の利用に慣れていないためなのかは、今の段階では分かりません」


 リビアは静かに頷いた。


「そうですよね。質問が多いからといって、案内板だけが原因とは限らないんですね」


「そのとおりです」


 職員は穏やかに微笑んだ。


「ただ、こうして利用する生徒から意見を聞けるのはありがたいことです。もし具体的に気になるところがあれば、相談していただくことはできますよ」


 俺はその言葉を聞き、少し考えた。


 今の俺たちは、気になるところをいくつか見つけただけだ。


 それがどの程度の問題なのか、まだ十分に整理できていない。


 だから、今すぐ変更をお願いするのは違うだろう。


「ありがとうございます。今日はまず、今の表示について教えていただけただけで十分です。もし今後、相談したいことがまとまったら、改めてお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」


 俺が尋ねると、職員は頷いた。


「もちろんです。ただし、実際に表示を変更する場合には、図書室の管理方針や、ほかの利用者への影響も確認する必要があります。その点は理解しておいてくださいね」


「はい。もちろんです」


 リビアも丁寧に礼を述べた。


 俺たちは職員の仕事を長く止めないよう、そこで話を終えることにした。


 貸出窓口を離れたあと、リビアは小さく息をついた。


「……セス、聞いてみてよかったね」


「うん。今の表示にも、ちゃんと経緯があったんだね」


 俺が答えると、彼女は静かに頷いた。


「私、最初は、表記をそろえた方が分かりやすいのかなって思ったの。でも、どうして違っているのかを知ると、簡単には決められないんだなって分かったよ」


 俺はその言葉を聞き、少し考えた。


 案内表示をそろえること自体は、悪い考えではないのかもしれない。


 けれど、表示を変えるためには、分類の仕組みや書棚の配置、利用する生徒の事情などを確認する必要がある。


 そして、変更するなら、その作業を担当する人たちの負担も考えなければならない。


「……そうだね。まずは、今日分かったことを整理してみようか」


 俺がそう提案すると、リビアは嬉しそうに頷いた。


「うん。そうしよう」


     ◇


 図書室の閲覧席の一角には、まだ空いている机があった。


 俺たちは周囲の利用者の邪魔にならない場所を選び、そこで短い時間だけノートを開くことにした。


 ただし、図書室の案内表示を勝手に写し取って、正式な記録として扱うつもりはない。


 今日、自分たちが確認したことと、職員から教えてもらった一般的な内容を整理するだけだ。


 俺はノートへ、まず三つの項目を書いた。


 現在の案内表示で確認できたこと。


 職員から説明を受けたこと。


 まだ分からないこと。


 リビアはその項目を見て、嬉しそうに微笑んだ。


「セス、それなら、分かっていることと、まだ考えているだけのことを分けられるね」


「うん。父さんにも、確かめたことと想像したことを一緒にしないようにって教わったから」


 俺が答えると、リビアは頷いた。


 そして、自分のノートにも同じように項目を作り始めた。


 俺たちはまず、入口の案内板と一部の書棚で、分類名の表記が異なっていることを書き留めた。


 次に、以前、書棚の配置を見直したことがあると職員から説明を受けたことを記した。


 ただし、その変更の詳しい経緯については、まだ確認できていない。


 最後に、初めて利用する生徒がどの程度迷っているのかは、今の段階では分からないことを書いた。


 そこまで整理したところで、リビアがペンを止めた。


「……ねえ、セス」


「何?」


「今日、私たちが分かったことって、思っていたより少ないね」


 その言葉に、俺は少し笑った。


「そうかもしれないね。でも、分からないことが何なのかは、前よりはっきりしたと思うよ」


 リビアは少し考えてから、嬉しそうに頷いた。


「うん。確かにそうだね」


 彼女はノートを見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。


「最初は、案内表示をどうすれば分かりやすくできるか考えたかったの。でも、今は、その前に知っておかなくちゃいけないことがあるんだなって思う」


 俺は静かに頷いた。


 改善する方法を考える前に、何が問題なのかを確かめる。


 その問題が本当に起きているのか、どの程度の影響があるのかを知る。


 そして、今の仕組みがどうして作られたのかを理解する。


 そうした順番を守ることが、大切なのだろう。


「……リビア、今日のこと、父さんにも話してみようか」


 俺がそう提案すると、彼女は少し驚いたように目を丸くした。


「グレイヴに?」


「うん。昨日の連絡用紙の学習と、今日の図書室のことって、似ているところがあると思うんだ。だから、俺たちの考え方で足りないところがないか、聞いてみたいなって」


 リビアは少し考えたあと、穏やかに微笑んだ。


「いいね。でも、グレイヴのお仕事が落ち着いているときにしようね」


「もちろん」


 俺たちは頷き合い、ノートを閉じた。


 窓の外では、午後の光が少しずつ傾き始めている。


 そろそろ屋敷へ戻る時間だった。


 俺たちは借りる予定の本がないことを確認し、閲覧席を整えてから図書室を出た。


     ◇


 屋敷へ戻った頃には、空の雲が少し厚くなっていた。


 玄関前では使用人たちが夕方の準備を進めており、庭園の奥からは道具を片づける音が聞こえている。


 父さんは玄関で俺たちを迎え、学院での様子を簡単に尋ねてくれた。


 俺たちは授業のことを報告したあと、放課後に図書室の案内表示を確認してきたことも伝えた。


 父さんは少し興味深そうに頷いた。


「なるほど。以前から気になっていた案内について、改めて確認してきたのだな」


「うん。でも、今日は何かを変えるためじゃなくて、今の状態を知るために見てきたんだ」


 俺が答えると、父さんは穏やかに微笑んだ。


「それはよいことだ。では、何か分かったことはあったか?」


 リビアが少し前へ出て、今日の出来事を説明した。


 入口の案内板と一部の書棚で、分類名の表記が違っていたこと。


 以前、書棚の配置を見直したことがあると、職員から教えてもらったこと。


 そして、実際に利用する生徒がどの程度困っているのかは、まだ分からないこと。


 父さんは最後まで話を聞き、静かに頷いた。


「なるほど。よく整理できていますね」


 リビアは少し照れくさそうに微笑んだ。


「ありがとうございます。でも、まだ分からないことが多くて……」


「それでよいのです。分からないことがあると認められるのは、大切なことですから」


 父さんは穏やかに答えたあと、俺へ視線を向けた。


「セス。お前は、今日の確認で何を学んだ?」


 俺は少し考えた。


 案内表示を見て、気になるところを見つけた。


 職員へ尋ねると、今の表示には以前の配置変更が関係していることが分かった。


 けれど、それだけでは改善するべきかどうかは判断できない。


「……今の状態を見ただけで、すぐに変えた方がいいって決めるのは違うんだなって思った。どうして今の形になっているのかを知ることも大切なんだね」


 父さんは静かに頷いた。


「そうだな。何かを改善しようとするとき、今までの仕組みを否定することから始める必要はない。まずは、その仕組みが果たしている役割を理解することだ」


 その言葉に、俺は昨日の連絡用紙の学習を思い出した。


 必要な情報を伝えるために、用紙にはいくつもの項目が設けられている。


 それらは、誰かが何となく決めたものではない。


 実際の仕事を進める中で、必要になった項目もあるのだろう。


 図書室の案内表示も、同じなのかもしれない。


「……父さん、もうひとつ聞いてもいい?」


「何だ?」


「もし、今の仕組みに分かりにくいところがあったとしても、それを変えることで別の人が困ることもあるんだよね?」


 父さんは頷いた。


「もちろんだ。たとえば、表示を変えたことで、今まで慣れていた利用者が一時的に迷うことも考えられる。変更するなら、その影響をどう減らすかも考える必要がある」


 リビアは真剣な表情で耳を傾けていた。


「……そうなんですね。新しい案内を作れば、それで終わりというわけではないんですね」


「はい。変更したあとに、実際に分かりやすくなったかを確認することも大切です」


 父さんはそこで少し表情を和らげた。


「ただし、今のお二人が、そこまでの仕事を引き受ける必要はありません。図書室の管理は学院側の役割ですからね」


 俺は少し照れくさくなった。


 父さんは、俺が何かを学ぶたびに、その先の仕事まで考え始めることをよく知っている。


「……うん。分かってるよ」


 俺が答えると、リビアが隣で小さく笑った。


「セス、今度はちゃんと相談できたね」


「……リビアまで」


 俺が苦笑すると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


 父さんも少しだけ口元を緩めていた。


「さて、今日はここまでにしましょう。お二人とも、学院での授業に加えて図書室でも考えることが多かったようですから、少し休んでください」


 俺たちは頷き、父さんへ礼を述べた。


 そして、それぞれの部屋へ向かうことにした。


     ◇


 夕食までの時間、俺は自室で今日のノートを見直していた。


 机の上には、学院の授業で作成した案内文の控えと、図書室で確認したことをまとめたノートが並んでいる。


 俺は二つを見比べながら、少し考えた。


 午前の授業では、必要な情報を分かりやすく伝えることを学んだ。


 放課後の図書室では、今の案内表示がどのように使われているのかを確かめた。


 どちらも、読む人の立場を考える必要があるという点では共通している。


 けれど、実際の案内表示には、学習用の課題とは違う難しさがあった。


 今まで使われてきた理由があり、管理している人がいて、利用する人たちがいる。


 そのすべてを知らないまま、分かりやすくしたいという気持ちだけで変更を求めることはできない。


(……でも、今日の確認は無駄じゃなかったと思う)


 俺はノートの最後へ、短い文章を書き加えた。


『改善を考える前に、今の仕組みが果たしている役割と、利用する人の状況を確かめる』


 書き終えたところで、俺は少しだけ手を止めた。


 その文章は、図書室の案内表示だけでなく、屋敷の仕事にも当てはまるのかもしれない。


 連絡用紙の形式。


 搬入経路の変更。


 部署ごとの仕事の分担。


 どれも、今の形になっている理由がある。


 そして、何かを変えるなら、その影響を考える必要がある。


 俺は静かに息をつき、ノートを閉じた。


 そのとき、扉が控えめに叩かれた。


「セス、少しいい?」


 聞き慣れた声に、俺は顔を上げた。


「うん。どうぞ、リビア」


 返事をすると、扉がゆっくりと開いた。


 リビアは小さなノートを胸元に抱え、少し照れくさそうに微笑んでいた。


「ごめんね。休んでいるところだった?」


「大丈夫だよ。ちょうど今日のことを整理していたところだから」


 俺が答えると、彼女は安心したように微笑んだ。


「よかった。実は、私も今日のノートを見直していたの」


 リビアは俺の机へ目を向け、そこに置かれたノートを見つけた。


「……セスも、同じことをしていたんだね」


「うん。今日は、いろいろ考えることがあったから」


 俺がそう答えると、彼女は小さく笑った。


「ふふっ。私たち、似てるね」


 その言葉に、俺も自然と笑みを浮かべた。


 リビアは少しだけ近づき、俺の隣へ立った。


「ねえ、セス。今日、図書室の先生にお話を聞いて、私、少し安心したの」


「安心した?」


「うん。私たちが気になっていたことを、ちゃんと聞いてもらえたでしょう? それに、今すぐ何かを変えなくてもいいって分かったから」


 俺は静かに頷いた。


 確かに、今日の俺たちは何も変更していない。


 案内表示を作り直したわけでもなければ、正式な改善案を提出したわけでもない。


 それでも、今の表示について少し理解が深まった。


 そして、必要なら今後も相談できることが分かった。


「……そうだね。何かを変えることだけが、前に進むってことじゃないんだね」


 俺がそう言うと、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「うん。私も、そう思ったの」


 彼女はノートを開き、今日書き留めた文章を見せてくれた。


 そこには、丁寧な文字でこう記されていた。


『分かりにくいと感じた理由を確かめる前に、今の仕組みを否定しない』


 俺はその文字を見つめ、少し考えた。


 リビアらしい言葉だと思った。


 彼女は、誰かの仕事を理解しようとしている。


 そして、知らないことがあるからといって、相手の仕事を軽く扱わないようにしている。


 その姿勢は、俺も見習いたいと思った。


「……いい言葉だね、リビア」


 俺がそう言うと、彼女は少しだけ頬を染めた。


「本当?」


「うん。俺も、そういうふうに考えられるようになりたい」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


 そして、少しだけ真剣な表情になった。


「でもね、セス。私、もうひとつ思ったことがあるの」


「何?」


「もし、いつか私たちが誰かの仕事について意見を言う立場になったら、その人が今まで何を大切にしてきたのか、ちゃんと聞けるようになりたいなって」


 その言葉に、俺は少し驚いた。


 リビアは、将来のことを考えている。


 俺たちの結婚が正式に認められていることは、今も時々不思議に感じる。


 けれど、その先にどんな生活が待っているのかは、まだ分からない。


 俺がどのような仕事を続けるのか。


 リビアが公爵家の娘として、どのような役割を担っていくのか。


 そのすべてが、今の段階で決まっているわけではない。


 それでも、彼女は少しずつ未来へ目を向けている。


「……うん。俺も、そうしたい」


 俺が答えると、リビアは安心したように微笑んだ。


「よかった」


 彼女はそっと俺の手へ触れた。


「セスが大切にしている仕事のこと、私ももっと知りたいから」


 俺はその手を優しく握り返した。


「ありがとう、リビア。でも、リビアが全部を知ろうとして無理する必要はないからね」


 そう言うと、彼女は少しだけ頬を膨らませた。


「もう。セスだって、いつも同じことを言われているでしょう?」


 俺は思わず笑ってしまった。


「……確かに、そうだね」


 リビアもつられるように笑った。


 しばらくして、彼女は俺の手を握ったまま、少しだけ身体を寄せた。


「じゃあ、お互いに無理しすぎないようにしようね」


「うん。約束する」


 俺たちは顔を見合わせ、静かに微笑んだ。


 窓の外では、庭園の灯りが少しずつ点き始めていた。


 今日も、知らなかったことをいくつか知ることができた。


 けれど、分からないことも増えた。


 それは、決して悪いことではないのだと思う。


 分からないことがあるからこそ、誰かに聞くことができる。


 そして、相手の話を聞くことで、自分だけでは気づけなかったことが見えてくる。


 俺は隣にいるリビアへ目を向けた。


 彼女はまだ少し頬を染めていたが、俺と視線が合うと、柔らかく微笑んだ。


(……これからも、こうして一緒に考えていけたらいいな)


 そう思いながら、俺は彼女の手をもう一度優しく握った。


 夕食の時間が近づくまで、俺たちは今日の出来事について、穏やかに言葉を交わしていた。


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