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第12話 ただ帳簿を計算しただけなのに、どうして領地経営の話になっているんですか

 礼法実習室を出てから次の教室へ着くまで、俺は一度もリビアより半歩後ろへ下がらなかった。


 それだけなら、本来はわざわざ意識するようなことでもないのだろう。廊下を歩いている他の生徒たちは友人同士で自然に横へ並び、相手が貴族であろうと親しい間柄なら会話に合わせて歩調を変えている。それなのに俺の場合は、隣にいることを意識し続けなければ、気づいた時には身体が勝手に仕える側の位置へ戻ろうとする。


「まだ意識してるでしょう?」


 絡めた指をそのままに、リビアが俺の横顔を覗き込んだ。


「してる」


「そんなに難しい?」


「思ったよりな。何も考えないで歩くと、たぶん後ろに戻る」


「じゃあ、しばらく毎日練習ね」


「毎日?」


「嫌なの?」


「嫌とは言ってないけど」


 答えると、リビアは満足そうに笑った。


 午後の廊下には昼休みの賑やかさがまだ少し残っていたが、次の授業を知らせる予鈴が近づくにつれて、生徒たちの歩みも速くなっている。開け放たれた窓から入る風は暖かく、廊下の壁に掲げられた歴代学園長の肖像画をわずかに揺らしていた。


 俺たちが次の教室へ入ると、すでに半分以上の生徒が席へ戻っていた。


 手を繋いだまま入ったせいか、何人かがこちらを見る。


 昨日だったら、その視線を避けるために自然と手を離していたかもしれない。


 今日は少しだけ迷って、それでもリビアの席の横までそのまま歩いた。


「……セス」


「何?」


「何でもない」


 リビアはそう言いながら、嬉しそうだった。


 席へ着くところで手を離す。


 俺の席とリビアの席は隣ではない。


 編入したばかりだから仕方がないが、この時だけは礼法の授業で言われた「隣に立つ」という言葉が少しだけ頭をよぎった。


 俺は自分の席へ向かい、教本を机へ置く。


 隣の席にいたイザークが、こちらを見るなり何とも言えない顔をした。


「お前、昨日より堂々としてないか?」


「何が?」


「手」


「手?」


「パウリー嬢と繋いでただろ」


「ああ」


「否定もしなくなったな」


「婚約者だから、別に隠すことでもないだろ?」


 そう答えると、イザークはしばらく俺を見た後、深く息を吐いた。


「お前、本当にそういうところだけ妙に強いよな」


「どういう意味だ?」


「知らなくていい」


 最近、この言葉をよく言われる。


 俺だけ分からないことが学園には多すぎる気がする。


「それより次、算術応用だよな?」


「ああ。今日はたしか実務計算だったはずだ」


「実務?」


「領地や商会なんかで使う計算だよ。収支とか、人件費とか、在庫とか」


「なるほど」


 それなら分かる。


 屋敷でも似たものを扱うことがある。


 もちろん俺が公爵家の帳簿そのものを管理しているわけではない。けれど、執事見習いとして食材や消耗品の在庫を確認したり、仕入れの伝票をまとめたり、使用人へ配分する備品の数を計算したりすることはある。


「今度こそ、本当に普通に受けられそうだ」


 呟くと、イザークの眉が僅かに動いた。


「その台詞、昨日から聞くたび嫌な予感がするんだけど」


「算術で何が起きるんだよ」


「俺に聞くなよ」


 授業開始の鐘が鳴った。


 教室へ入ってきたのは、少し痩せた中年の男性教師だった。片腕に厚い資料を抱え、教壇へ置くと、黒板へ大きく数字を書き始める。


「今日は予定通り、実務算術を行います」


 教室のあちこちから、小さなため息が聞こえた。


 魔術実習ほど人気はないらしい。


 教師は振り返り、生徒たちの反応を見て苦笑する。


「嫌そうな顔をしている者が何人かいますが、諦めてください。皆さんの中には将来領地を管理する者も、商会や騎士団の予算に関わる者もいるでしょう。剣や魔術だけで領地は動きません」


 その言葉には俺も納得した。


 どれだけ強い騎士がいても、装備や食料がなければ戦えない。


 屋敷でも同じだ。


 厨房に食材が届かなければ食事は作れず、薪がなければ冬を越せない。誰かが必要な数を把握し、余計な出費を抑え、それでも必要なものは不足させないよう管理している。


「本日は個人計算ではなく、四人一組の課題です」


 教師が配り始めた紙には、細かな数字が大量に並んでいた。


「架空の小領地を一年間運営してもらいます」


 教室の空気が少し変わった。


 ただ計算問題を解くだけではないらしい。


「人口はおよそ二千三百人。主要産業は小麦と羊毛。領主直轄地の収穫、税収、使用人の給金、街道補修、冬季備蓄、騎士団維持費などを資料へ載せています。皆さんには限られた収入の中で、必要な支出を決めてもらいます」


 配られた資料を眺める。


 税収。


 穀物収穫量。


 倉庫保管費。


 街道補修費。


 井戸の修繕。


 領主館の維持費。


 兵士の給与。


 治療院への補助。


 孤児院への支援。


 冬季の薪。


 細かく見れば見るほど、単純な計算問題ではなかった。


「全部払ったら赤字になりません?」


 どこかから声が上がる。


「なります」


 教師はあっさり答えた。


 教室がざわつく。


「だから選ぶのです。何にどれだけ使うか。それが今日の課題です」


「削ったら困る人が出ますよね?」


「出ます」


「正解はあるんですか?」


「一つではありません」


 面白い。


 思わず資料へ視線を落とした。


 同じ収入でも、何を優先するかで結果が変わる。


 答えが一つではないというのは、昨日まで俺が受けていた授業とは少し違う。


「ただし、理由は説明してもらいます。『何となく』は認めません。数字と状況を根拠に判断してください」


 教師が組を発表する。


 俺はリビア、ナナリー、サザリー様と同じ組になった。


 四人で机を寄せる。


「よろしくお願いします」


 ナナリーが少し緊張した様子で資料を広げた。


「よろしく」


 俺も自分の資料を中央へ寄せる。


 サザリー様はすでに数字へ目を走らせていた。


「まず収入を整理しよう。税収と直轄地収入、それから羊毛の売却益だな」


「今年は小麦が平年より一割少ない設定みたいね」


 リビアが資料の一箇所を指差した。


「しかも冬が長引く可能性あり、か」


 俺も読む。


 その時点で、食料備蓄を削るのは危険だと感じた。


「最初に何を削るか考えるより、絶対に削れないものを決めない?」


 俺が言うと、三人がこちらを見る。


「削れないもの?」


「うん。冬の備蓄と井戸の修繕は残したい」


 ナナリーが資料を確認する。


「でも井戸の修繕、かなり高いですよ?」


「今壊れてるのは村の中央井戸だろ。これを先延ばしにすると、東側の井戸まで水を汲みに行くことになる」


「資料には片道二十分って書いてあるわね」


 リビアが続ける。


「一日に何度も必要な家なら、かなり負担になる」


「それに、もし東側の井戸まで故障したら終わる」


 俺が言うと、サザリー様が頷いた。


「水源を一つへ依存するのは危険だな。修繕費は確保した方がいい」


「冬の備蓄も?」


「削らない方がいいと思う。小麦が少ない年に冬が長引くなら、買い足す時期が遅くなるほど値段も上がるはずだ」


「そこまで資料に書いてないぞ」


 サザリー様が言う。


「書いてないけど、普通そうならない?」


 三人が黙った。


「……何?」


 リビアが口元を緩める。


「セス、それ、どこで覚えたの?」


「厨房」


「厨房?」


「冬前は穀物とか保存食の値段が動くだろ。グレイヴに、買う時期も考えろって言われたことがある」


 実際、屋敷の仕入れでは単価だけ見ればいいわけではない。


 安い時に大量購入しても保管場所が足りなければ意味がなく、傷みやすい品なら損失が出る。逆に必要になってから買おうとすれば、需要が集中して値段が上がる場合もある。


「公爵家の執事見習いって、そんなことまでやるの?」


 ナナリーが驚いている。


「全部じゃないよ。俺がやるのは補助とか確認だけ」


「その『だけ』が信用できなくなってきました」


「何で?」


「クルセス様の『普通』と『少し』と『だけ』は、たぶん他の人より大きいです」


 どこかで似たことを言われた気がする。


 リビアが楽しそうに笑った。


「ナナリー、分かってきたわね」


「リビアまで」


「事実だもの」


 仕方なく資料へ戻る。


「じゃあ、冬の備蓄と井戸修繕は確保する方向でいい?」


 三人とも同意した。


 次は街道補修。


 領内を南北に通る街道の一部が傷んでおり、荷車の通行が遅れている。


「これも削りにくいな」


 俺が呟く。


「でも全部残したら本当に足りなくなりますよ」


 ナナリーが支出欄を指でなぞる。


 確かにそうだ。


「補修範囲を減らすのは?」


 リビアが提案した。


「全部直すんじゃなくて、商人の荷車が通る場所を優先するの」


「資料を見る限り、北側より南側の損傷が酷いな」


 サザリー様が地図を確認する。


「南側には市場町がある。そちらを先に直せば流通への影響を減らせるだろう」


「北側は?」


「応急補修」


 俺は費用欄を見る。


「完全修繕費の三割くらいで、一年持たせられる方法があるならいいけど」


「そんな都合のいい選択肢、資料にあります?」


「……ないな」


 四人で笑う。


「じゃあ先生に聞いてみよう」


 俺が手を上げる。


 教師が近づいてきた。


「どうしました?」


「街道補修なんですが、全面修繕と放置の二択しかないんですか?」


「どういう意味です?」


「南側を優先して直して、北側は荷車が最低限通れる程度の応急補修にしたいんです。費用を抑えて、来年度に本修繕する方法は取れますか?」


 教師の目が少し変わった。


「可能とします。ただし、応急補修にも費用は必要です」


「どれくらいです?」


「北側全体の本修繕費の二割五分」


 俺はすぐ計算する。


「それなら余る」


「余るって、もう計算したの?」


 ナナリーが驚いた。


「だいたい」


「だいたいで出る数字じゃないでしょう」


 紙へ書いて確認すると、暗算とほぼ同じだった。


 俺たちは街道費を調整する。


 これで少し余裕が出来た。


 問題は騎士団維持費だった。


「削る?」


 リビアが俺を見る。


「いや」


 俺は資料を読む。


 常駐兵二十二名。


 領地周辺に大型魔物の出現記録あり。


 さらに北側の森で盗賊の目撃情報が二件。


「ここ削るの怖くない?」


「私もそう思うわ」


「でも維持費、高いですよ」


 ナナリーの言う通りだった。


「装備更新費がかなり占めているな」


 サザリー様が欄を示す。


「全員分を今年交換する必要はないかもしれない」


「状態の悪い装備だけ変える?」


「資料に装備状態がある」


 確認すると、二十二人のうち六人分だけ装備の劣化が大きい。


「じゃあ六人分を優先。残りは整備で延命」


「その代わり整備費を追加する必要があるな」


「新品よりは安い」


 数字を書き直す。


 少しずつ収支が合ってくる。


 それでもまだ赤字だった。


「あと何を削れる?」


 リビアが考え込む。


 領主館の内装改修。


 これがかなり高い。


「これ」


 俺とリビアの指が同時に同じ項目へ止まった。


 顔を見合わせる。


「いらないよな」


「いらないわね」


「待て」


 サザリー様が止めた。


「領主館の内装改修には、来年の王都監査団への対応という理由が書かれている」


「監査って、壁紙が綺麗じゃないと駄目なの?」


 俺が聞くと、サザリー様が少し困った顔をした。


「普通は、それだけではない。ただ、領主家の威信を示す意味はある」


「井戸より?」


「そこまで言われると弱いな」


 ナナリーが小さく笑う。


 リビアは迷わなかった。


「最低限にしましょう」


「いいのか?」


「私が領主ならそうするわ。監査団へは、今年は不作と街道修繕、井戸修理を優先したと説明する」


「それで評価を下げられたら?」


「その程度で領地経営を悪く評価する監査なら、私がお父様に相談する」


「それは反則じゃないか?」


「今の私は公爵令嬢じゃなくて、架空の小領主だから相談出来ないわね」


「じゃあ駄目じゃん」


 四人の間に笑いが広がった。


 結局、領主館改修は必要最低限。


 来客用の主要部分だけ修繕し、装飾の更新は翌年へ送ることにした。


 かなり収支が近づく。


 最後に残ったのは、孤児院への支援だった。


 資料には、建物修繕費と食費補助。


「……これは削りたくない」


 俺は思わず口にしていた。


 三人がこちらを見る。


 自分でも、少し強い声になったと思う。


 資料上の孤児院には二十四人の子供がいる。


 屋根の一部が傷み、冬前に修理が必要。


 食費補助は平年と同額。


「セス?」


 リビアの声が少し柔らかくなる。


「ごめん。計算の話なのに」


「謝らなくていいわ」


 資料の数字へ目を落とす。


 俺は孤児院で育ったわけではない。


 スラムでは、誰かが食事を保証してくれる場所すらなかった。


 それでも、食べられない子供がどうなるかは知っている。


 冬の夜に寝る場所がなくなる怖さも。


「屋根は絶対直したい」


「うん」


 リビアがすぐに同意した。


 ナナリーも頷く。


「食費も残しましょう」


 サザリー様はしばらく数字を見ていたが、やがて別の項目を指した。


「領主主催の秋祭り費用を削る」


「祭り?」


「規模を半分にする。それなら孤児院分を確保出来る」


 俺はその欄を見る。


「でも祭りを縮小したら商人の売上に響かない?」


「そこだな」


 サザリー様が頷いた。


「単純に中止するのは悪手だと思う。だが、領主負担の装飾や宴会を減らし、市場自体は開催すればいい」


「住民向けの催しは残す?」


「そういうことだ」


「それならいいかも」


 リビアも数字を確認する。


「領主家の宴席を縮小して、その分を孤児院へ回す。理由も説明出来るわね」


 収支が合った。


 僅かだが予備費まで残った。


「出来た」


 ナナリーがほっと息を吐く。


「本当に全部入った……」


「全部じゃないよ。領主館とか街道の北側とか、先送りもしてる」


「でも、優先順位はかなり綺麗に整理出来たと思う」


 リビアが俺たちの表を見回した。


 俺も頷く。


 正解かどうかは分からない。


 実際の領地なら、資料にない事情がもっと大量にあるはずだ。


 それでも、単に一番高いものを削るだけではなく、削った時に誰が困るのかを考えるのは面白かった。


「では、順番に発表してもらいます」


 教師の声で、教室が静かになる。


 数組が先に発表した。


 騎士団の費用を大幅削減して税を下げる組。


 逆に軍事を優先し、街道修繕を翌年へ送る組。


 領主館改修を維持しつつ祭りを中止する組。


 同じ資料でも全く違う。


 発表を聞くたび、俺は面白くなってきた。


「次、シルフィール君の組」


 呼ばれる。


 四人で前へ出る。


「誰が説明する?」


 ナナリーが小声で尋ねる。


「サザリー様が一番上手そう」


「私は構わないが、判断の中心はクルセスだっただろう」


「俺?」


「街道の分割補修も、備蓄優先も君だ」


「四人で決めたじゃないですか」


「なら四人で説明しましょう」


 リビアがまとめた。


 結局、項目ごとに担当する。


 俺は冬季備蓄と孤児院、街道について説明した。


「街道は全てを修繕すると予算が足りないので、市場へ繋がる南側を本修繕、北側を応急補修にしました。北側を完全に放置すると来年度さらに修繕費が増える可能性があるので、最低限の通行状態だけ維持します」


 教師が頷く。


「冬季備蓄を減らさなかった理由は?」


「今年の小麦収穫が少ないからです。冬が長引く可能性もありますし、足りなくなってから買うと値上がりしているかもしれないので」


「資料に価格上昇の記載はありませんね」


「はい。でも需要が増えたら上がると思いました」


「実務としては正しい想定です」


 教室が少しざわつく。


「どこで覚えました?」


「公爵家の厨房と倉庫です」


 またざわついた。


「厨房?」


「執事見習いなので」


 教師が少し笑った。


「あなたの経歴はなかなか面白いですね」


「そうでしょうか」


「少なくとも、教本だけで学んだ答えではない」


 次に孤児院支援の話をする。


 少し迷った。


 自分の過去まで話す必要はない。


「孤児院の屋根修繕と食費は残しました。その代わり、秋祭りの領主負担分を縮小しています。祭り自体を中止すると商人や住民に影響するので、市場や住民向けの催しは残して、領主家の宴席や装飾を減らしました」


「孤児院を優先した理由は?」


 教師に問われる。


 俺は一瞬だけ言葉を選んだ。


「……子供は、自分で収入を増やせないからです」


 教室が静かになった。


「大人なら、状況によっては仕事を増やしたり、別の土地へ移ったり、何か方法を探せるかもしれない。でも子供には出来ないことが多い。だったら、領主側が先に削るところじゃないと思いました」


 それ以上は言わなかった。


 教師も深く追及しなかった。


「分かりました。十分な理由です」


 横を見ると、リビアが俺を見ていた。


 優しい顔をしている。


 それが少し落ち着かなかった。


 発表を終え、席へ戻る。


 教師は全組の発表が終わった後、黒板の前へ立った。


「今日の課題には模範解答がありません」


 最初と同じ言葉だった。


「ただし、悪い判断はあります。数字を無視すること。影響を考えないこと。理由なく好き嫌いで決めること。そして、自分たちが削った費用の先に誰がいるのかを考えないことです」


 俺は先ほどの紙を見る。


 数字の一つ一つの向こうに、人がいる。


 食料を減らせば食べられない人が出る。


 騎士を減らせば守られない場所が出る。


 街道を放置すれば商人が困る。


 全部を救うには金が足りない。


 だから選ぶ。


 それは、思っていたよりずっと難しい。


「貴族の皆さんは、将来こうした選択を実際にする可能性があります。身分が高いということは、好きに出来る範囲が広いというだけではありません。自分の判断が多くの人へ影響するということでもあります」


 リビアが真剣な顔で聞いている。


 アルフォルド殿下も。


 サザリー様も。


 普段は軽い雰囲気のカイゼル殿下も、今は笑っていない。


 俺は少しだけ不思議な気持ちになった。


 これまで俺にとって貴族は、仕える相手だった。


 守る相手。


 命令を受ける相手。


 でも今ここにいるのは、これから誰かを背負うことになる十五歳の少年や少女たちだ。


 完璧な大人ではない。


 迷う。


 間違える。


 教わる。


 そう考えると、少し見え方が変わった。


 授業終了の鐘が鳴る。


 教師が資料を回収し、生徒たちが一斉に息を吐いた。


「疲れた……」


 ナナリーが机へ突っ伏しそうになる。


「魔術実習より疲れたかもしれません」


「俺は面白かったけど」


「クルセス様、途中から完全に楽しんでましたよね」


「そう?」


「数字を見る顔が違いました」


 そんな自覚はない。


 リビアが横から笑う。


「セス、屋敷でも帳簿を見てる時は結構楽しそうよ」


「仕事だからだろ」


「違うと思う」


「じゃあ何?」


「考えるのが好きなんじゃない?」


 言われて、少し考える。


 剣も魔術も好きだ。


 でも、こういう数字を組み替えて一番良い形を探す作業も嫌いではない。


「そうかもしれない」


「ほら」


 リビアが嬉しそうにする。


「何でリビアが嬉しいんだ?」


「セスが学園で好きなものを見つけてるから」


 まただ。


 胸の奥が少し温かくなる。


 昨日までは、こういう時にどう返せばいいか分からなかった。


 今も完全には分からない。


 ただ、礼法の授業で教わったことを思い出す。


 与えられたものを受け取る。


「……ありがとう」


 そう言うと、リビアが少し驚いた。


「何?」


「いや」


「何で笑うんだよ」


「ちゃんと受け取ったなって思って」


「練習中だから」


「うん。それでいいわ」


 彼女の笑顔を見ていると、たった一言返しただけなのに妙に気恥ずかしい。


 俺は誤魔化すように次の時間割を確認した。


「最後は自由選択だったよな?」


「ええ」


「リビアは何取ってる?」


「私は魔法理論」


「やっぱり魔法か」


「セスは?」


「まだ正式に決めてない。編入直後だから、今日は見学でいいって言われてる」


「じゃあ私のところに来る?」


 一瞬、午前中の魔術実習を思い出す。


 エレナ先生。


 観客。


 別測定。


「……魔法以外にしようかな」


「逃げた」


「違う。幅広く学ぶんだ」


「今、明らかに間があったでしょう」


「気のせいだ」


 笑いながら教本を片付ける。


 そこへ、教室の前方からレイモンド先生が入ってきた。


 まだ次の授業には少し早い。


 何人かの生徒が不思議そうに先生を見る。


「クルセス」


「はい?」


「少しいいか」


 嫌な予感がした。


 リビアも表情を変える。


「何かありましたか?」


 俺が尋ねると、レイモンド先生は手にしていた一枚の封筒を軽く上げた。


「お前に渡すものがある」


「追加測定ですか?」


「違う」


「決闘申請?」


「それも違う。というか、なぜ二番目にそれが出てくる」


「昨日三件来たって」


「全部断ったと言っただろう」


 周囲から小さな笑いが起こる。


 少しだけ空気が軽くなった。


 けれど、レイモンド先生の表情は完全には緩んでいない。


「シュザー家からだ」


 教室の空気が一瞬で変わった。


 ライゼル。


 その名を誰も口にしていないのに、全員が同じ人物を思い浮かべたのが分かった。


 リビアが俺の横で僅かに姿勢を正す。


「俺に?」


「ああ。ただし、勝手に開けるな」


 差し出された封筒を受け取る。


 厚手の白い紙。


 封蝋には、見覚えのない紋章が押されている。


「学園側でも内容と扱いを確認する。放課後、学園長室へ来い」


「分かりました」


「パウリーも一緒でいい」


「行きます」


 リビアは即答した。


 俺は封筒を見る。


 何が書いてあるのかは分からない。


 謝罪。


 抗議。


 呼び出し。


 あるいは、そのどれでもないのかもしれない。


 ただ一つ分かったのは、昨日の事件がまだ終わっていないということだった。


「……今日は最後まで普通に授業を受けられると思ったんだけどな」


 思わず呟く。


 レイモンド先生が疲れたように眉間を押さえた。


「クルセス」


「はい」


「もうお前は、『普通』という言葉を使うたびに何か起きるんじゃないか?」


「俺のせいじゃないですよね?」


「それはそうなんだが……否定しきれない自分が嫌だ」


 今度は教室全体から笑いが起こった。


 俺も苦笑する。


 隣でリビアが、机の下からそっと俺の袖を摘まんだ。


 ほんの少しだけ。


 昨日までなら、何かあった時はまず自分で考えていた。


 どう対応するか。


 どう守るか。


 誰を危険から遠ざけるか。


 でも今は、袖を摘む指の温度を感じる。


 学園長もいる。


 先生もいる。


 リビアもいる。


 一人で受け取る必要はない。


「放課後、一緒に行こう」


 俺が小さな声で言うと、リビアは少し目を丸くした。


 すぐに、柔らかく笑う。


「ええ。一緒に行きましょう」


 封筒の中身はまだ知らない。


 だから今は、勝手に悪い方へ考える必要もない。


 俺はそれを鞄の中へしまい、次の自由選択授業へ向かう準備を始めた。


 昨日までの俺なら、その封筒のことばかり考えていたかもしれない。


 今日は違う。


 放課後のことは、放課後になってから考える。


 今はまだ授業中だ。


 そして、最後の一時間をどの授業で過ごすかという問題の方が、少なくとも今の俺には重要だった。


「リビア」


「なあに?」


「魔法理論以外で、おすすめある?」


「まだ逃げるつもりなの?」


「幅広く学ぶって言っただろ」


「じゃあ、社交舞踏」


「魔法理論にします」


「決めるの早いわね」


 リビアの笑い声が響く中、俺は鞄を持って立ち上がった。


 シュザー家から届いた封筒の重さを、まだ必要以上に背負わないようにしながら。

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