第11話 婚約者として隣に立てと言われても、執事の俺には難しすぎます
東棟の小庭から教室へ戻る頃には、昼休みも残りわずかになっていた。
窓の向こうから差し込む午後の日差しは午前中より少し強くなり、白い石造りの廊下へ長い光の帯を作っている。昼食を終えた生徒たちも次々と教室へ戻っているらしく、さっきまで静かだった東棟にも足音や話し声が増え始めていた。
俺たち七人も自然と歩く速度を少し上げる。
先ほど魔術科の先生から伝えられた追加測定の話は気になっていたが、今日すぐに何かをするわけではないらしい。だったら今考えても仕方がないと頭の隅へ追いやり、午後の授業へ意識を切り替えることにした。
「そういえば、次は何だった?」
俺が尋ねると、隣を歩いていたリビアが少しだけ目を細めた。
「セス、時間割を覚えていないの?」
「覚えてるつもりだったんだけど、昨日から色々ありすぎて混ざった」
「午後最初は総合礼法よ。その後が算術応用、その次が自由選択」
「総合礼法……」
聞いた瞬間、少し安心した。
礼法なら分かる。
少なくとも魔法のように「普通にやったつもりなのに普通じゃない」と言われる可能性は低いはずだ。
公爵家へ来てから、礼儀作法はグレイヴに徹底的に叩き込まれた。挨拶、立ち姿、扉の扱い、食事の給仕、来客への応対、歩く位置、視線の置き方まで、失敗すればその場で何度でもやり直させられたものだ。
「礼法なら大丈夫そうだな」
思わず口にすると、リビアがこちらを見る。
「何が大丈夫なの?」
「目立たないで済みそうだ」
「……そうかしら」
「何だよ、その間」
「だって、セスって礼法もかなり出来るでしょう?」
「執事として必要だからな」
「そこが問題なのよ」
よく分からない。
俺が眉を寄せると、少し前を歩いていたカイゼル殿下が振り返った。
「今の会話、何となく嫌な予感がするな」
「殿下まで何ですか」
「午前中も、君は『普通に魔術実習を受けるだけ』と言っていただろう?」
「今日は本当に普通でしたよ」
「先生から別測定を組まれる程度には普通だったな」
「それは先生たちが大げさなんです」
「まだそう思っているのか」
隣でサザリー様が小さく息を吐く。
アルフォルド殿下まで呆れたような顔をしている。
「礼法では魔法を使いませんから」
「そういう話ではないと思うぞ」
「では何が問題なんです?」
誰も答えてくれなかった。
代わりにリビアだけが、何かを知っているように小さく笑っていた。
教室へ戻ると、すでに多くの生徒が席へ着き始めていた。
午後最初の総合礼法は普段の教室ではなく、南棟にある礼法実習室を使うらしい。必要な教材だけ持って移動することになり、俺も教科書と筆記具を用意して立ち上がる。
「セス、行くわよ」
「ああ」
リビアが待っている。
俺がその隣へ並ぼうとした時、彼女の手に持たれている教本と筆記具が目に入った。
「持つよ」
「え?」
「それ」
自然に手を伸ばす。
リビアが持っているのは薄い教本一冊と筆記具だけで、重いわけではない。ただ、昔からこういう時は俺が持っていた。
「自分の分もあるでしょう?」
「これくらいなら平気だ」
「そうじゃなくて」
リビアは俺の手から教本を避けるように、胸元へ寄せた。
「今日は自分で持つわ」
「どうして?」
「学園では、私も生徒だもの」
「だから?」
「セスも生徒でしょう?」
「それはそうだけど」
何を言いたいのか分からず見つめていると、リビアは少しだけ困ったように笑った。
「後で分かると思う」
「またそれか」
「今日は多いわね」
結局、教本は持たせてもらえなかった。
そのまま南棟へ向かう。
礼法実習室は、これまで使った教室とはかなり雰囲気が違っていた。
床には淡い色の絨毯が敷かれ、壁際には長机や椅子だけでなく、来客用らしい小さな卓、茶器の載ったワゴン、姿見まで置かれている。奥には広めの空間が確保されており、床へ薄く線が引かれているところを見ると、歩き方や立ち位置まで練習するのだろう。
俺にとっては見慣れた道具が多い。
むしろ、屋敷の応接室や訓練部屋に近い。
「これなら本当に大丈夫そうだ」
小声で言う。
「まだ言ってる」
リビアが笑った。
礼法担当の教師が入ってくると、生徒たちは自然と私語を止めた。
年齢は四十代くらいだろうか。姿勢の良い女性で、髪をきっちりまとめ、余計な装飾のない濃紺の服を着ている。
「午後最初の授業ですから、眠くなる人もいるでしょうけれど、今日は座って講義を聞くだけではありません。身体を動かしますので、少しは目も覚めるでしょう」
教室に小さな笑いが広がる。
「本日の内容は、立場に応じた同行礼法です」
同行礼法。
聞いたことはある。
貴族が公式の場で誰かを伴って歩く場合、立場や関係によって位置取りや歩調、腕の差し出し方が変わる。
ただ、俺が教わったのは基本的に仕える側としての動きだった。
「学園にいる皆さんは、将来それぞれ異なる立場で社交の場へ出ます。自分より高位の方を案内する場合もあれば、家族や婚約者、友人、来客と並んで歩く場合もあります。同じ『一緒に歩く』でも、関係によって正しい距離は変わります」
教師はそう説明しながら、中央へ二つの椅子を置いた。
「今日は二人一組で、三種類を練習します。主人と従者、同格の友人、そして婚約者や夫婦など、正式な伴侶として並ぶ場合です」
その瞬間、妙に周囲がざわついた。
俺は理由が分からず周りを見る。
何人かの生徒がこちらを見ていた。
正確には、俺とリビアを交互に見ている。
「……何だ?」
「知らない」
リビアは知らないと言いながら、少し楽しそうだった。
「では、最初に組を作ってください」
教師の言葉が終わる前に、リビアが一歩近づいた。
「セス」
「分かってる」
「本当に?」
「婚約者同士なんだから、組むなら自然だろ」
そう言うと、リビアが一瞬だけ目を丸くした。
何かおかしかっただろうか。
「……何?」
「何でもない」
「今日はそればっかりだな」
「だって、セスが普通にそういうことを言うから」
「婚約者なのは事実だろ?」
「そうだけど」
リビアの頬が少し赤い。
やっぱりよく分からない。
周囲を見ると、アルフォルド殿下は露骨に不満そうな顔をしていた。
「私には選択肢がなかったようだな」
「殿下には他の方がいるでしょう」
「そういう問題ではない」
「でもリビアは俺の婚約者ですよ」
「分かっている!」
声が少し大きくなった。
近くの生徒が笑う。
教師がこちらを見る。
「殿下、授業中です」
「……失礼しました」
アルフォルド殿下は少し気まずそうに姿勢を正した。
カイゼル殿下は隣で肩を震わせている。
「笑うな」
「いや、悪い」
「お前だって同じ立場だろう」
「俺はもう少し現実を見ることにしている」
「昨日から諦めが早すぎないか?」
「諦めたとは言ってないさ」
今度は教師が無言で二人を見る。
二人とも黙った。
授業が始まる。
最初は「主人と従者」として歩く練習だった。
教師が模範を見せる。
従者は主人の半歩後ろ。
扉や段差では一歩先へ出て安全を確かめる。
必要以上に主人へ身体を寄せず、しかし何かあればすぐ支えられる距離を保つ。
説明を聞くほど、俺にとっては馴染みのある動きだった。
「では始めてください」
俺は自然とリビアの斜め後ろへ入った。
歩幅を合わせる。
彼女が止まれば同時に止まり、方向を変えれば少し先へ視線を送る。
実習室の端に置かれた仮の扉へ近づけば、先へ回って開ける。
「どうぞ、お嬢様」
「……うん」
リビアが扉を通る。
その後ろへ戻る。
特に難しいことはない。
むしろ身体が勝手に動く。
「シルフィール君」
教師に呼ばれた。
「はい」
「普段から仕えているのですね」
「はい。執事見習いです」
「なるほど。非常に自然です」
「ありがとうございます」
「ただし」
来た。
最近、この「ただし」を聞くと嫌な予感しかしない。
「自然すぎます」
「……自然すぎる?」
「今のあなたは、完全に執事でした」
「執事なので」
「今日は生徒です」
また言われた。
隣でリビアが笑いを堪えている。
「主人と従者の課題ですよね?」
「ええ。その課題としては満点に近いです。ただ、あなたの場合は次の課題が心配ですね」
「次?」
「同格です」
そんなに難しいだろうか。
教師は次の課題を説明する。
同格の友人や同僚として並ぶ場合、基本的には横並び。
どちらかが常に半歩下がる必要はない。
扉も一方が必ず開けるのではなく、先に着いた方が自然に扱う。
相手を立てる礼儀は必要だが、上下関係を作りすぎない。
「では、同じ組でやってください」
今度はリビアと横へ並ぶ。
「行くぞ」
「ええ」
歩き始める。
三歩。
四歩。
気づけば俺は半歩下がっていた。
「セス」
「何?」
「下がってる」
「……本当だ」
横へ戻る。
また歩く。
今度は意識して並ぶ。
扉へ近づく。
身体が勝手に前へ出る。
扉を開ける。
「どうぞ」
リビアが立ち止まった。
「何だ?」
「同格」
「あ」
周囲から笑い声が聞こえる。
馬鹿にするようなものではない。
むしろ面白がっている。
教師も怒る様子はなく、腕を組んでこちらを見ていた。
「もう一度」
「はい」
戻る。
歩く。
今度こそ横を保つ。
扉へ着く。
リビアの方が僅かに先だった。
彼女が扉へ手をかける。
「俺が――」
「セス」
反射的に手を出しかけて止まる。
リビアが笑う。
「今日は私が開ける」
「でも」
「同格でしょう?」
「……そうだった」
妙な感じだ。
リビアが扉を開け、俺が先に通る。
落ち着かない。
何か間違ったことをしている気がする。
昔から俺は、彼女より先に扉を通る時は安全確認をする時くらいだった。
「変な顔してる」
「落ち着かない」
「何が?」
「リビアに扉を開けてもらうのが」
「たったそれだけ?」
「それだけって言うけど」
俺にとってはかなり大きい。
リビアは少し考えた後、扉から手を離した。
「じゃあ、慣れた方がいいわね」
「何で?」
「これから増えるから」
「何が」
「私がセスに何かしてあげること」
答えがすぐに出なかった。
リビアが俺に何かをする。
そんなことは昔からあった。
薬を持ってきてくれたり、怪我を見つけて怒ったり、勉強を一緒にしたり。
でも、今言っているのは少し違う気がする。
「私は、ずっとお嬢様としてセスに何かしてもらうだけなのは嫌なの」
声は小さい。
授業中だから周囲へ聞かせるつもりはないのだろう。
「婚約者なんでしょう?」
「ああ」
「なら、私もセスのために何かしたい」
真っ直ぐ見られる。
返事に困った。
「別に、俺は何かしてほしくて婚約したわけじゃないぞ」
「知ってる」
「リビアがやりたいから?」
「そう」
迷いがない。
「……じゃあ、止める理由はないか」
「でしょう?」
リビアが嬉しそうに笑った。
また胸の奥が温かくなる。
最近、この感覚が増えた。
昨日までは気づいていなかっただけかもしれない。
「二人とも」
教師の声がした。
気づけば、こちらを見られていた。
「話し合いが済んだなら続きを」
「すみません」
「申し訳ありません」
二人で頭を下げる。
周囲からまた小さな笑いが起こった。
「仲が良いのは結構ですが、授業は進めます」
リビアの頬が一気に赤くなった。
俺も少し気まずい。
再び練習する。
今度は何とか同じ位置を保てた。
扉もリビアに任せる。
違和感はある。
でもさっきよりは少ない。
「少しは出来たな」
「まだ顔が落ち着いてないけどね」
「そのうち慣れる」
「楽しみにしてる」
次の課題へ移る。
婚約者や夫婦など、伴侶として並ぶ場合。
教師が説明を始めると、教室の空気が少し変わった。
同じ学年でも婚約者がいる生徒は珍しくない。
ただ、正式な社交の場で伴侶として振る舞う練習を、実際の婚約者同士で出来る者は多くないらしい。
「基本は同格です」
教師の言葉を聞いて、さっきと同じかと思った。
「ただし、社交の場では互いを支え合う姿勢が求められます。一方が常に前、一方が常に後ろではありません。男性が女性へ腕を差し出すこともありますが、それは『導く主人と従う相手』という意味ではなく、互いの歩調を合わせるためです」
俺は少しだけ眉を寄せた。
主人と従者ではない。
どちらかが守るだけでもない。
互いに支える。
「では、実際にやってください」
リビアと向き合う。
俺は右腕を差し出した。
動作自体は知っている。
来客の案内で似た姿勢を取ることはある。
ただ。
「……腕をどうぞ、お嬢様」
言った瞬間、教師が額へ手を当てた。
リビアも口元を押さえている。
「何だ?」
「シルフィール君」
「はい」
「伴侶です」
「はい」
「お嬢様ではありません」
「……あ」
そういうことか。
周囲から笑い声が上がる。
今度は少し大きい。
「すみません。癖で」
「それを直すのが今日の授業になりそうですね」
「俺だけ課題が違いません?」
「あなたの場合は必要でしょう」
否定できない。
リビアは笑いながら俺の腕へ手を添えた。
「よろしくね、婚約者様」
「……何か楽しんでないか?」
「少し」
「絶対少しじゃないだろ」
「だって、セスが私をお嬢様扱いしない練習なんて、今までなかったもの」
それはそうだ。
俺は昔からリビアの側にいた。
友達のように話していたこともある。
幼い頃は一緒に走り回った。
それでも、どこかに線はあった。
彼女は公爵令嬢。
俺は拾われた孤児。
後に伯爵家の養子になっても、公爵家では執事見習い。
その差を忘れたことはない。
でも今は婚約者だ。
頭では理解している。
口にも出来る。
それなのに、身体はまだ追いついていない。
「歩くわよ」
「ああ」
並んで進む。
リビアの手が腕へ触れている。
いつも手を繋ぐ時より少し距離があるのに、妙に意識した。
姿勢を崩さないよう前を見る。
さっきまでなら周囲の位置や扉の場所を確認する方が重要だった。
今はそれより、腕へ伝わる温度が気になる。
「セス」
「何?」
「歩幅、大きい」
「悪い」
少し狭める。
リビアの歩幅へ合わせる。
「今度は遅い」
「難しいな」
「いつも一緒に歩いてるじゃない」
「手を繋ぐのと違う」
「そう?」
「何か違う」
自分でも説明できない。
リビアも少し黙った。
頬が赤い。
もしかすると彼女も同じなのかもしれない。
実習室の中央を一周する。
教師が各組を見て回っている。
途中、アルフォルド殿下の組とすれ違った。
こちらを見た殿下の眉が僅かに動く。
「……ずいぶん自然だな」
「授業ですから」
「分かっている」
「殿下、歩幅がずれてますよ」
「君のせいだ!」
組んでいる相手の女子生徒が困ったように笑っている。
「殿下、こちらに集中してください」
「すまない」
カイゼル殿下の方を見ると、こちらへ気づいて片手を軽く上げた。
何となく楽しんでいる。
サザリー様は真面目に課題へ取り組んでいる。
それぞれ違う。
今日の魔術実習と同じだ。
同じ課題でも、やり方や得意不得意がある。
俺は礼法なら何でも出来ると思っていた。
少なくとも、そう思い込んでいた。
でも実際には「仕える礼法」しか身体へ入っていない。
「止まってください」
教師の指示で全員が止まる。
「ここからは、相手を席へ案内するところまで行います」
壁際の卓と椅子を使う。
婚約者同士なら、片方だけが一方的に給仕するのではなく、自然に相手へ配慮する。
俺にはそれが難しかった。
椅子へ着く。
反射的にリビアの椅子を引く。
「どうぞ」
リビアが座る。
そこまでは問題ない。
自分も座る。
次に茶器が出される。
俺は立ち上がろうとした。
「セス」
「茶を淹れる」
「座って」
「でも」
「課題」
止まる。
リビアが茶器へ手を伸ばす。
「今日は私が淹れる」
「本当に?」
「何でそんなに不安そうなのよ」
「リビアに給仕させるの、落ち着かない」
「給仕じゃないわ。婚約者にお茶を淹れるだけ」
言われてみれば違う。
でも、俺の中では同じ動きに見える。
リビアは茶葉を確かめ、湯を注ぐ。
動作は綺麗だ。
公爵令嬢だから当然、というものでもない。
彼女は昔からこういうこともちゃんと出来る。
「はい」
カップが置かれる。
「ありがとう」
「どういたしまして」
受け取る。
一口飲む。
「うまい」
「普通のお茶よ」
「リビアが淹れたから?」
口にしてから、自分でも少し変なことを言った気がした。
リビアの手が止まる。
「……セス」
「何?」
「今の、もう一回言って」
「何で?」
「いいから」
「リビアが淹れたから?」
「……うん」
俯いた。
耳まで赤い。
「熱かった?」
「違う」
「じゃあ何だ?」
「分からなくていい」
「今日はそればっかりだな」
周囲を見ると、近くの女子生徒がこちらを見て小声で何か話している。
男子生徒も少し笑っている。
また何かしたらしい。
「シルフィール君」
教師に呼ばれる。
「はい」
「今の言葉自体は良いですよ」
「何の話です?」
「相手の行為を受け取って感謝することです」
「ああ」
そっちか。
「あなたは与える側に慣れすぎています」
教師の言葉が、少し胸に残った。
「誰かのために何かをすることは立派です。ただ、伴侶という関係では、相手があなたのために何かをすることも受け入れなければなりません」
昨日から似たことを何度も言われている気がする。
自分を守る。
助けられる。
心配される。
感謝を受け取る。
そして今度は、何かをしてもらう。
「難しいですね」
「何がです?」
「してもらう方が」
教師は少しだけ表情を和らげた。
「なら、練習してください。礼法は形だけではありません。形を通して、相手との距離を学ぶものでもあります」
思っていたより深い授業だった。
リビアを見る。
彼女もこちらを見ている。
「練習する?」
「何を?」
「私に何かしてもらう練習」
「……何をされるんだ?」
「そんな警戒しないでよ」
「いや、リビアが楽しそうだから」
「失礼ね」
口では怒っているが、笑っている。
午後の光が窓から差し込み、銀青色の髪へ淡く反射している。
昔から何度も見てきた顔。
でも、婚約者になってから少し違って見える時がある。
俺が変わったのか。
リビアが変わったのか。
それとも、最初からあったものに気づき始めただけなのか。
まだ分からない。
授業の最後に、教師が全体を見回した。
「今日の内容を忘れないでください。礼法は相手を下に置くためでも、自分を下げるためでもありません。互いの立場を理解し、相手が心地よくいられる距離を作るためのものです」
その言葉に、俺は少しだけ考え込んだ。
執事としてなら分かる。
相手が動きやすいようにする。
必要なものを先に用意する。
危険を避ける。
困らせない。
でも、婚約者として考えると難しい。
リビアが心地よい距離。
俺が心地よい距離。
どちらかだけでは駄目らしい。
「セス」
授業終了の鐘が鳴り、周囲が片付けを始める中、リビアが俺を呼んだ。
「何だ?」
「今日の授業、どうだった?」
「難しかった」
「魔術より?」
「種類が違う」
「意外ね」
「魔術は出来るか出来ないか分かりやすいだろ。今のは何が正しいか、相手によって変わる」
「そうね」
「執事なら分かるんだけどな」
リビアの表情が少し変わる。
「やっぱり、そこなのね」
「何が?」
「セスは私の婚約者になったのに、まだ自分を執事として置く方が楽なの」
少し考える。
否定できなかった。
「たぶん」
「どうして?」
「慣れてるから」
それだけではない。
もっと深いところに理由がある。
俺は元々、彼女と同じ場所へ立つ人間ではなかった。
公爵令嬢の隣。
婚約者。
いくら伯爵家の養子になったとはいえ、今でも時々、そこに自分がいることが不思議に思える。
「俺は、ずっとリビアに仕える側だったから」
声に出すと、思っていたより静かな言葉になった。
「それなら、少しずつ変えればいいわ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのは分かってる」
リビアは俺の正面へ立つ。
「でも、私はセスに執事を辞めてほしいわけじゃないの」
「そうなの?」
「当たり前でしょう。セスが好きで執事の仕事をしてることくらい知ってるわ」
そこは少し安心した。
「じゃあ何を変えるんだ?」
「私の前で、いつでも執事でいようとするところ」
その言葉に詰まる。
リビアは少しだけ視線を下げた。
「私、セスに仕えてほしいんじゃなくて、一緒にいたいの」
周囲の音が少し遠く感じた。
実習室では他の生徒が帰り支度をしている。
椅子を戻す音。
教本を閉じる音。
廊下へ出ていく足音。
全部聞こえているのに、その言葉だけが妙に強く残る。
「……一緒に?」
「うん」
「今も一緒にいるだろ」
「そういう意味じゃないの」
分からない。
でも、完全に分からないわけでもない気がした。
俺はいつも半歩後ろへ立つ。
危険なら前へ出る。
扉を開ける。
荷物を持つ。
守る。
それが俺の普通だった。
でもリビアは、隣にいてほしいと言う。
「今日の同格の練習みたいに?」
「それも近いかも」
「婚約者の練習じゃなくて?」
「そっちの方がもっと近い」
少し笑う。
「難しいな」
「だから練習するの」
「学園で?」
「学園でも、屋敷でも」
「屋敷でも?」
「当然よ」
「グレイヴに怒られない?」
「お父様に頼む」
「それ一番怖いやつだろ」
リビアが吹き出した。
俺も笑う。
さっきまで少し重かった空気が和らぐ。
「じゃあ、まず何をすればいい?」
聞いてみる。
リビアが目を丸くした。
「セスから聞いてくれるの?」
「練習するんだろ?」
「うん」
少し考えた後、彼女は手を差し出した。
「次の教室まで、隣を歩いて」
「それだけ?」
「それだけ」
「手は?」
「繋ぐ」
「それ、いつもやってないか?」
「今日は意味が違うの」
「どう違うんだ?」
「私が引っ張るんじゃなくて、セスが自分から隣に来るの」
なるほど。
少しだけ分かった。
俺は差し出された手を取る。
指を絡める。
リビアが嬉しそうに笑った。
「じゃあ行こう」
「ああ」
二人で実習室を出る。
いつもの癖で半歩後ろへ下がりそうになる。
意識して横へ戻る。
リビアが気づく。
何も言わない。
ただ、手を少し強く握った。
廊下には午後の授業へ向かう生徒たちがいる。
何人かがこちらを見る。
昨日までは、その視線が少し気になった。
今も気にならないわけではない。
でも、無理に離れる必要もない。
「セス」
「何?」
「ちゃんと隣にいる」
「課題だからな」
「そこは『いたいから』って言ってほしかった」
「難易度上げるなよ」
リビアが笑う。
俺もつられて笑った。
婚約者として隣に立つ。
言葉にすれば簡単だ。
でも俺には、魔術の複合属性より難しいかもしれない。
それでも。
今日一日で分かったことがある。
出来ないことは、練習すればいい。
魔術も。
剣も。
礼法も。
たぶん、人との距離も同じなのだろう。
隣を歩くリビアの手は温かい。
その温度を感じながら、俺は次の教室まで一度も半歩後ろへ下がらなかった。




