第10話 今日は普通に昼食を食べたいだけなのに、婚約者が隣を譲ってくれません
二時限目の魔術実習を終えた後も、午前中の授業は何事もなく進んだ。
少なくとも、俺の基準ではそう言っていいと思う。
三時限目では歴史について学び、四時限目では王国法の基礎を扱った。途中で先生から質問を受けたり、昨日から広まっている噂のせいで何度か周囲から視線を向けられたりはしたものの、誰かが魔法を撃ってくることもなければ、剣を抜く必要もなかった。
それだけで十分に平和だ。
四時限目の終了を知らせる鐘が校舎へ響いた瞬間、張り詰めていた教室の空気が一気に緩んだ。教科書を閉じる音や椅子を引く音があちこちから重なり、生徒たちは待っていましたとばかりに昼食の相談を始める。
「セス」
隣の席から呼ばれた。
顔を向けると、リビアはすでに教科書を片付け終え、俺が逃げないようにでもするつもりなのか、机の端へ片手を置いてこちらを見ている。
「何だ?」
「昼食」
「ああ。食べよう」
「今日は最後まで一緒に食べるわよ」
「分かってるって」
「途中で誰かと戦わない」
「俺から戦ったことはない」
「途中で炎へ入らない」
「昼食中にそんな状況になる方がおかしいだろ」
「昨日はなったでしょう?」
そう言われると反論しづらい。
昨日の昼休みも、最初は本当に普通だった。
昼食を食べる。
少し話す。
それだけのはずだった。
ところがライゼル様が現れ、最終的には廊下で魔法が飛び交うことになった。
「今日は大丈夫だ」
「根拠は?」
「ライゼル様は通常授業へ参加してない」
「それ以外の人が何もしない保証はないでしょう?」
「そんなに毎日事件が起きる学園だったら問題だろ」
「……それはそうね」
ようやく納得してくれたらしい。
俺が鞄から昼食用の包みを取り出すと、リビアも机の横へ置いていた小さな籠を持ち上げた。公爵家で用意されたものなので、中身はおそらく俺のものと大きく変わらない。
「今日はどこで食べる?」
「昨日と同じ中庭でもいいけれど……」
リビアはそう言いながら教室の入口へ目を向けた。
俺もつられて見る。
朝ほどではないが、廊下を通る生徒の中には、教室の中を覗くようにこちらを見る者がいる。魔術実習の噂まで広がったらしく、聞こえてくる言葉には「五属性」「全部中心」「障壁四枚」などが混じっていた。
「中庭だと、また見られそうね」
「もうどこへ行っても同じじゃないか?」
「そうかもしれないけど、せめて昼食くらいは落ち着いて食べたいわ」
「俺も同じ意見だ」
昨日から、リビアと意見がここまで一致したのは初めてかもしれない。
どうするか考えていると、近くの席からナナリー様が顔を上げた。
「でしたら、東棟の小庭はいかがですか?」
「小庭?」
俺が聞き返すと、ミリアナ様も会話へ加わる。
「東棟の裏側に小さな庭があるんです。中庭より狭いですけど、昼休みに使う人はあまり多くありません」
「どうして?」
「食堂から少し遠いからです。お弁当を持っている人しか、ほとんど行かないので」
それならちょうどいい。
俺とリビアは最初から昼食を持参している。
「そこにしようか」
「ええ」
リビアもすぐに頷いた。
「ナナリー様、ミリアナ様も一緒にどうですか?」
俺が尋ねると、二人は一瞬だけ驚いたように顔を見合わせた。
「よろしいんですか?」
「もちろんです」
「セス」
隣から呼ばれた。
「何だ?」
「私に聞く前に決めたわね」
「駄目だった?」
そう尋ねると、リビアはナナリー様とミリアナ様を見た後、少しだけ考えるように目を細めた。
「二人ならいいわ」
「二人なら?」
「何でもない」
また何かあるらしい。
ただ、今のところ機嫌は悪くない。
それなら追及しなくてもいいだろう。
「私たちもいいだろうか?」
今度は別の方向から声がした。
振り返る。
アルフォルド殿下がこちらを見ていた。
その後ろには、当然のようにカイゼル殿下とサザリー様もいる。
「殿下たちもですか?」
「昨日も途中までは一緒だっただろう」
「そうですけど」
「何だ、その歓迎していないような顔は」
「そんな顔してました?」
「していた」
自覚はない。
リビアを見る。
彼女は少し考えている。
「リビア?」
「人数が増えすぎると、小庭でも目立つのよね」
「私たち三人だけ追い出すつもりか?」
アルフォルド殿下が眉を寄せる。
「殿下は食堂でいくらでも良い席があるでしょう?」
「だからこそ、たまには外で食べたい」
「昨日も外でした」
「昨日はまともに食べ終わる前に事件になっただろう」
「皆、同じこと気にしてるんですね」
思わず言うと、カイゼル殿下が肩を揺らして笑った。
「そりゃそうだろう。昼食を食べていたら突然魔法戦が始まる経験なんて、そう何度もしたくない」
「俺もしたくありません」
「なら今日は平和に食べようじゃないか」
「それには賛成です」
結局、俺とリビア、ナナリー様、ミリアナ様、アルフォルド殿下、カイゼル殿下、サザリー様の七人で東棟の小庭へ向かうことになった。
教室を出る時、何人かの生徒がこちらを見ていた。
視線の理由は俺だけではない。
公爵令嬢。
第一王子。
隣国の第二王子。
宰相の息子。
そこに、昨日から妙な噂ばかり広まっている元平民の執事見習い。
どう考えても目立つ組み合わせだ。
「……これ、小庭へ行っても意味あるのか?」
歩きながら小声で言うと、リビアも周囲を見回した。
「最初より人数が増えたのは想定外だったわ」
「私は悪くないぞ」
アルフォルド殿下が前から言う。
「誰も殿下だけのせいとは言ってません」
「『だけ』ということは、一部は私のせいだと思ってるな?」
「第一王子が一緒に歩いていれば目立つでしょう?」
「君も十分目立っている」
「俺は望んでません」
「私だって第一王子として生まれたことを自分で選んだわけではない」
そこで言葉に詰まった。
言われてみれば、その通りかもしれない。
「……すみません」
「いや、真面目に謝るな。こちらも少し言ってみただけだ」
アルフォルド殿下は苦笑する。
その横を歩いているサザリー様も、僅かに口元を緩めていた。
「クルセスは、意外と素直に謝るな」
「悪いと思ったら謝いますよ」
「昨日の印象だと、もっと頑固なのかと思っていた」
「自分の怪我についてだけですよ、それ」
ナナリー様が後ろから言った。
「ナナリー様?」
「だって本当でしょう?」
「それについては改善中です」
「改善中なんだ」
カイゼル殿下が面白そうに聞き返す。
「昨日、学園長にもリビアにも言われましたから」
「自分を守る、と?」
「はい」
「それは良い変化だな」
冗談ではなく、普通の声音で言われた。
少し意外に思って顔を見ると、カイゼル殿下は前を向いたままだった。
「強い人間ほど、自分が倒れる可能性を忘れやすい。自分だけなら何とかなると思ってしまうからな」
「殿下もそうなんですか?」
「俺はそこまで立派じゃないさ。ただ、そういう人間を何人か見てきただけだ」
隣国の王子である以上、俺には分からないものを見てきたのだろう。
昨日までの軽い印象とは少し違う。
そんなことを考えていると、リビアが俺の袖を摘まんだ。
「聞いた?」
「ああ」
「私だけじゃないのよ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって」
何度念を押されるのだろう。
ただ、昨日の俺なら少し面倒に感じていたかもしれない。
今日は違う。
リビアが何度も言うのは、それだけ心配したからだ。
そう考えれば、嫌ではなかった。
東棟へ入り、普段使っている教室とは少し雰囲気の違う廊下を進む。
こちらは特別教室や資料室が多いらしく、昼休みになっても人通りが少ない。窓の外には建物に囲まれるように小さな庭が見え、中央には一本の大きな木と、何組かの木製の机と椅子が置かれていた。
「ここです」
ミリアナ様が先頭で扉を開ける。
外へ出ると、校舎の壁に遮られているせいか風は穏やかで、木の葉が僅かに擦れる音だけが聞こえた。中庭のような噴水や華やかな花壇はないが、その分だけ静かで落ち着いている。
「いい場所ですね」
「でしょう?」
ミリアナ様が嬉しそうに笑う。
「一年生はあまり知らないんです。私も姉から教えてもらいました」
「それなら、今度からここでもいいかもな」
俺がリビアへ言うと、彼女も庭を見回しながら頷いた。
「ええ。静かだし、セスとゆっくり食べられそう」
「今日は七人いるけど」
「……今日は例外よ」
アルフォルド殿下が何か言いたそうにしている。
聞かなかったことにした。
大きな木の下にある机を二つ使い、七人で座る。
俺が端へ座ろうとすると、リビアがすぐ隣の椅子を引いた。
「セス、ここ」
「どこでも同じだろ」
「ここ」
「分かった」
何となく逆らってはいけない気がした。
俺が座ると、リビアは当然のように隣へ座る。
反対側にはナナリー様。
向かい側へアルフォルド殿下、カイゼル殿下、サザリー様が並び、ミリアナ様はナナリー様の隣へ腰掛けた。
昼食の包みを開く。
今日の中身は小さなパンが二つ、薄く切った肉と野菜、卵を使った料理、それから果物だった。
リビアの籠も似た内容だが、少しだけ種類が多い。
「セス」
「何だ?」
「これ、食べる?」
リビアが自分の籠から小さな焼き菓子を一つ出した。
「入ってなかったけど」
「私が追加してもらったの」
「じゃあ、リビアが食べる分だろ?」
「二つあるから」
「ならもらう」
「はい」
手渡される。
普通に受け取って口へ運ぼうとしたところで、向かいから妙な視線を感じた。
アルフォルド殿下だ。
「何です?」
「いや」
「何ですか、その顔」
「何でもない」
「朝のリビアみたいなこと言わないでください」
「誰が朝の私よ」
リビアが横から口を挟む。
カイゼル殿下は楽しそうに俺たちを見ていた。
「アルフォルド、諦めた方がいいんじゃないか?」
「何をだ」
「色々と」
「まだ何も言っていない!」
「顔には出ているぞ」
「お前にだけは言われたくない」
王子二人が何を言っているのか分からない。
サザリー様は静かに食事を始めている。
俺も余計なことを考えるのをやめ、焼き菓子を口へ入れた。
「うまい」
「本当?」
「ああ」
「良かった」
リビアが嬉しそうに笑う。
その反応を見て、また胸の奥が少し温かくなった。
昨日から何度か感じている。
リビアに笑われた時。
一緒に帰れるのが嬉しいと言われた時。
今日、学園を嫌いにならないでほしいと言われた時。
そして今。
何なのかは、まだよく分からない。
ただ、嫌な感覚ではなかった。
「クルセス様、今日の魔術実習は大変でしたね」
ナナリー様の声で意識を戻す。
「大変というほどではなかったですよ」
そこまで言ってから、一度止まった。
リビアがこちらを見る。
ナナリー様も見る。
「……危険はなかったので、大丈夫でした」
言い直す。
リビアが満足そうに笑った。
「少しずつ覚えてきたわね」
「俺を子供みたいに扱ってないか?」
「怪我に関してだけは子供より心配よ」
「そこまで?」
「セス、前に脚を怪我した時も隠したでしょう?」
「歩けたから」
「そういうところ!」
声が少し大きくなった。
ナナリー様とミリアナ様が笑う。
向かい側の三人も、何となく事情を察した顔をしている。
「脚の怪我?」
アルフォルド殿下が聞く。
俺より先にリビアが答えた。
「昔、訓練中に脚を切ったのに、普通に歩けるからって黙っていたことがあるんです」
「どのくらいの傷だった?」
「血は出てました」
「クルセス」
「はい」
「それは怪我だ」
「今は分かってます」
「今は、なのか……」
アルフォルド殿下まで呆れた。
「でも、昨日の件で少しは考え方が変わったんだろう?」
サザリー様が静かに尋ねる。
「はい」
俺は少し考えてから答える。
「今までは、自分が動けるなら問題ないと思ってました。でも、リビアや先生たちから、俺が怪我すること自体を嫌がる人がいるって言われて」
「……嫌がるって言い方」
リビアが少し不満そうに呟く。
「違う?」
「違わないけど、もっと心配してるの」
「分かってる」
そう返すと、彼女は一瞬だけ目を丸くした。
昨日までなら、きっと俺は「大丈夫だから」と言って終わらせていた。
でも今は、少しだけ違う。
「だから、できるだけ無茶しないようにする。絶対に何もしないとは言えないけど、他に方法があるなら先に考える」
口にすると、思っていたより重い約束に聞こえた。
俺は危険な時に動かないとは言えない。
誰かが目の前で傷つきそうなら、おそらく身体は動く。
スラムにいた頃から、それが普通だった。
誰も助けてくれないなら自分でやる。
待っている間に手遅れになるなら、先に動く。
その癖は簡単には消えない。
それでも。
今は、昔と違う。
後ろには人がいる。
リビアがいる。
グレイヴがいる。
旦那様がいる。
学園なら先生もいる。
昨日だって、アルフォルド殿下も、カイゼル殿下も、サザリー様も自分で身を守れた。
俺一人で全部やる必要はない。
「……そうか」
サザリー様がゆっくり頷いた。
「それなら、昨日の件も全く無駄ではなかったな」
「事件自体はない方が良かったですけど」
「もちろんだ」
少しだけ笑いが起こる。
昼食を続ける。
今度こそ、何も起こらない。
それだけで少し嬉しい。
「そういえば」
カイゼル殿下が肉を挟んだパンを持ちながら俺を見る。
「今朝から聞こうと思っていたんだが、昨日帰った後はどうだった?」
「どうって?」
「公爵と義父殿だ。あれだけのことがあったんだろう?」
手が止まった。
リビアも止まる。
アルフォルド殿下たちがこちらを見る。
「……何だ、その反応は」
「別に」
「絶対何かあっただろう」
「昼食中です」
「関係あるか?」
「食欲が落ちるかもしれません」
俺が言うと、リビアが吹き出した。
「セス、そこまで?」
「リビアが全部報告するって言った時点で覚悟はしてた」
「ちゃんと報告したわよ」
「知ってる」
昨夜のことを思い出す。
屋敷へ戻った後、何があったのか。
旦那様やグレイヴがどんな顔をしたのか。
それを今ここで話し始めれば、昼食が終わるまでに済む気がしない。
「その話は、また今度にしてください」
「なぜだ?」
「今日は普通に昼食を食べたいんです」
一瞬の沈黙。
その後。
全員が笑った。
「そこまで必死になることか?」
アルフォルド殿下が笑う。
「なります。昨日は途中で終わったんですよ」
「確かに」
「今日は最後まで食べるって約束してるので」
そう言ってリビアを見る。
彼女は少し驚いた顔をした後、ゆっくり笑った。
「覚えてたのね」
「朝から何回言われたと思ってるんだ」
「それでも嬉しいわ」
「何が?」
「約束を覚えててくれたこと」
「忘れるわけないだろ」
その返事に、リビアがまた頬を赤くする。
向かい側からアルフォルド殿下のため息が聞こえた。
「殿下、どうしました?」
「君はもう少し、自分が何を言っているのか考えた方がいい」
「約束を覚えてたってだけですよ?」
「そこだ」
「?」
分からない。
また誰も説明してくれないらしい。
そのまま食事を続ける。
しばらくすると、話題は授業へ移った。
ナナリー様は魔術実習で初動が遅いことを気にしているらしく、どうすればもっと速くできるのかと相談してきた。
「無理に速くしなくてもいいんじゃないですか?」
「でも、実戦だと遅い方が不利でしょう?」
「場合によります。最初に速く出せても、制御を崩したら危ないですし」
「じゃあ、どうすれば?」
少し考える。
「ナナリー様の場合、魔力を作る直前に一気に集めようとしてましたよね?」
「分かりました?」
「見てましたから」
「はい。失敗したくなくて、最初からちゃんと形を作ろうとしてました」
「だったら、最初は半分くらいでいいと思います。形を作ってから足せば、今より速くなるかもしれません」
ナナリー様は真剣な表情で考えている。
そこでエレナ先生の言葉を思い出した。
「ただ、俺のやり方が合うとは限らないので、先生にも聞いてください」
「……クルセス様でも、そういうこと言うんですね」
「どういう意味です?」
「何でも一人でできると思っているのかと思っていました」
「思ってませんよ」
少し前なら、どうだっただろう。
自分で考えて、自分で試す。
それが一番早いと思っていた気がする。
でも、今日の実習で分かった。
人によって魔力の扱い方は違う。
俺の方法をそのまま誰かへ渡しても、同じ結果になるとは限らない。
「今日の授業で、先生が必要な理由も少し分かりました」
「今まで分かってなかったの?」
リビアが驚いたように聞く。
「必要ないとは思ってなかった。でも、屋敷で教わるのと何が違うのかはよく分かってなかった」
「それで、どう違った?」
「同じ年くらいの人をたくさん見られる」
俺が答えると、リビアは続きを待つようにこちらを見る。
「それに、皆違うだろ。得意な属性も、魔力の出し方も、形の作り方も。先生は一人一人を見て、違うことを言ってた」
グレイヴから習うことは多い。
魔術についても公爵家の人間からかなり教わった。
でも、それは基本的に俺のための訓練だった。
学園では違う。
他人が注意されていることも見える。
他人の得意な部分も分かる。
それを見て、自分ならどうするか考えられる。
「だから、学園へ来た意味はあると思う」
そう言うと、リビアが静かになった。
「何?」
「……嬉しい」
「朝も言ってたな」
「だって、本当に一緒に通いたかったのよ」
「そんなに?」
「そんなに」
迷わず答えられた。
俺は少しだけ困った。
どう返せばいいのか。
胸の奥はまた温かい。
けれど、それを何と呼べばいいのかは分からない。
「俺も、今は来て良かったと思ってる」
それだけ言う。
リビアは何も言わなかった。
でも、机の下で少し動いた手が、俺の制服の袖へ触れた。
摘まむ。
いつものように。
俺もそのままにしておく。
しばらくして全員が昼食を食べ終えた。
最後の果物を口へ入れ、包みを片付ける。
何も起こらなかった。
魔法も飛んでこなかった。
誰かが怒鳴り込んでくることもなかった。
「……食べ終わった」
思わず呟く。
「そんなに感動すること?」
ミリアナ様が笑う。
「昨日できなかったので」
「普通は毎日できますよ」
「今日から俺もできるようになりました」
「成長の方向がおかしいだろう」
アルフォルド殿下が呆れる。
でも、俺は少し満足していた。
「リビア」
「何?」
「約束守れたぞ」
「昼食を最後まで食べる約束?」
「ああ」
「それを自慢する十五歳、初めて見たわ」
「昨日が悪い」
「それはそうね」
二人で笑う。
木の葉が風に揺れ、細かな光が机の上を動く。
小庭には俺たち以外ほとんど人がいない。
遠くから校舎のざわめきが聞こえる。
こんな時間が、少し心地いい。
「ねえ、セス」
リビアの声が柔らかくなる。
「何だ?」
「明日もここで食べる?」
「いいな」
「本当?」
「ああ。静かだし」
そこで少し考える。
「皆も一緒なら」
リビアの顔が一瞬止まった。
「……皆も?」
「駄目?」
「駄目じゃないけど」
何となく不満そうだ。
「二人の方が良かった?」
聞く。
リビアが目を見開いた。
そのまま数秒黙る。
「……セスが、それ聞くの?」
「嫌ならそう言えばいいだろ」
「嫌じゃないけど、たまには二人がいい」
「じゃあ、たまには二人で食べよう」
「……うん」
急におとなしくなった。
頬も赤い。
「また何か変なこと言った?」
「言ってない」
「ならいいけど」
「でも、今のは忘れないでね」
「何を?」
「たまには二人で食べるって約束」
「分かった」
答えると、リビアが嬉しそうに笑った。
また胸の奥が温かくなる。
昨日までは、こういう感覚を深く考えなかった。
リビアは昔から大切だ。
それだけで十分だと思っていた。
今も、一番大切なのは変わらない。
ただ。
昨日から少しずつ、その「大切」の中身について考える時間が増えている。
婚約者だから。
幼馴染だから。
公爵令嬢だから。
守る相手だから。
それだけでは説明できない何かがある気もする。
でも、まだ分からない。
無理に答えを出す必要もないと思う。
リビアが隣で笑っている。
今は、それでいい。
「そろそろ戻るか」
サザリー様の声で、皆が時計を見る。
午後の授業まで余裕はあるが、教室へ戻る時間を考えればちょうどいい。
全員で立ち上がり、食事の後を片付ける。
小庭から校舎へ戻ろうとしたところで、扉の向こうから一人の教師が現れた。
「クルセス・シルフィール君」
「はい?」
知らない先生だった。
胸元の徽章からすると、魔術科の教師らしい。
「探しましたよ。エレナ先生から伝言です」
嫌な予感がする。
リビアも隣でこちらを見る。
「何でしょう?」
「先ほどの実習結果について、学園長と魔術科で確認することになりました。今日は何もしませんので安心してください」
「今日は、ですか?」
思わず聞き返す。
先生は少し困ったように笑った。
「後日、あなたの魔力特性を正確に把握するための測定を行う予定です。日程と内容が決まり次第、正式に伝えます」
「分かりました」
「危険なことはしません。そこは学園長からかなり強く言われています」
「俺、そこまで信用ないんですか?」
「あなたではなく、教師側への注意です」
「先生たちが?」
「珍しいものを見れば、研究者は測りたくなるものですから」
妙に嫌な言葉を聞いた。
「……リビア」
「何?」
「俺、測定の日休んでもいい?」
「駄目よ」
「即答?」
「ちゃんと安全にやってもらえばいいでしょう?」
「そうだけど」
「私も見に行く」
「授業は?」
「時間が合えば」
先生が苦笑している。
「詳細は本当にまだ決まっていません。今日は気にせず午後の授業を受けてください」
「分かりました」
先生へ頭を下げる。
今度こそ教室へ戻る。
廊下を歩きながら、俺は小さく息を吐いた。
「何だかまた面倒が増えたな」
「セスの能力を学園が把握しておくのは必要でしょう?」
「分かってる。でも、普通の測定器じゃ足りないって言われてるんだぞ」
「それはセスが普通じゃないから」
「最近、それを誰からも言われる」
「少しずつ自覚した方がいいわ」
「嫌だな」
「どうして?」
「普通の執事でいたいから」
そう言うと、リビアは少しだけ足を緩めた。
「セス」
「何?」
「普通じゃなくても、セスはセスよ」
思わず彼女を見る。
「五属性を使えても、剣が強くても、迅雷撃破が使えても、それで私の知っているセスじゃなくなるわけじゃないでしょう?」
「……まあ、そうだな」
「だったらいいじゃない」
リビアはそう言って笑う。
「私にとっては、ずっと昔から同じセスだもの」
胸の奥が、また温かくなった。
今日だけで何度目だろう。
俺はまだ、その理由を知らない。
でも。
「リビア」
「何?」
「ありがとう」
そう言うと、彼女は少し驚いた後で、柔らかく笑った。
「どういたしまして」
そのまま二人で並んで歩く。
少し前には、アルフォルド殿下たちがいる。
後ろではナナリー様とミリアナ様が何か楽しそうに話している。
編入初日は、事件ばかりだった。
二日目の朝も、噂と視線ばかりだった。
でも、今日は授業を受けた。
魔法を学んだ。
皆と昼食を食べた。
リビアと話した。
それだけの時間が、思っていたより悪くない。
学園生活というものがどんなものなのか、俺はまだほとんど知らない。
この先も面倒なことは起きるだろう。
ライゼル様の処分だって決まっていない。
俺の魔力測定という新しい話まで出てきた。
それでも、少なくとも一つだけ分かったことがある。
平穏というのは、何も起きないことだけではないのかもしれない。
授業を受けて。
誰かと笑って。
一緒に食事をして。
約束を守って。
また明日も同じ場所へ来ようと思える。
そういう時間も、きっと平穏なのだ。
そして。
その隣にリビアがいることを。
俺は思っていたより、ずっと気に入っているらしい。




