第111話 公爵令嬢様は、俺が守りたい場所を一緒に見てみたいらしい
夕食の支度が進むパウリー公爵邸には、昼間とは違う慌ただしさがあった。
廊下を行き交う使用人たちの足音は控えめだが、厨房へ続く通路からは食器を重ねる音や、料理の仕上がりを確認する声が聞こえてくる。庭園では日が沈みかけており、窓の向こうに並ぶ灯りが、少しずつ濃くなる夕闇の中で柔らかく輝いていた。
俺とリビアは、先ほどまで領地管理の学習用資料を読んでいた小さな書斎を出て、廊下を歩いていた。
今日、アルセス様から見せていただいた『領地管理基礎資料 道路・橋梁編』には、俺がこれまで知らなかったことが数多く書かれていた。道や橋を管理する仕事には、通行する人々の安全だけでなく、物資の輸送や維持費、周辺に暮らす人々の生活まで関わっているらしい。
もちろん、一度説明を聞いただけで理解できたとは思っていない。
それでも、屋敷で働く中で学んできた報告や記録の大切さが、領地の管理にもつながっていると知れたことは、俺にとって大きな発見だった。
「セス、今日の資料、思っていたより難しかったね」
隣を歩くリビアが、胸元に抱えていたノートを少し持ち直しながら言った。彼女の銀青色の髪は廊下の灯りを受けて淡く輝き、その表情には疲れよりも、まだ考えたいことが残っている人特有の真剣さが浮かんでいる。
「そうだね。俺は、橋が使えなくなった場合に何を確認するのかっていうところが、特に難しかったかな。代わりの道があればいいと思っていたけど、それだけじゃ足りないんだね」
「私も。道を使う人が違えば、困ることも違うんだって、頭では分かっていたつもりだったの。でも、実際に考えてみると、見落としていることがたくさんあった気がする」
リビアはそこで少し考え込み、廊下の先へ視線を向けた。
「ねえ、セス。屋敷の中でも、似たようなことってあるのかな?」
「屋敷の中?」
「うん。たとえば、いつも使っている通路が使えなくなったら、別の場所を通る必要があるでしょう? でも、使用人のみんなが同じ道を使うとは限らないし、運ぶものによっても事情が違うんじゃないかなって」
俺は思わず足を緩めた。
今まで、屋敷の通路についてそんなふうに考えたことはなかった。
もちろん、仕事で使う動線については父さんから教わっている。厨房から食堂へ料理を運ぶ経路や、客人を案内する際に使う廊下、荷物の搬入に適した裏側の通路など、それぞれに決まりがあることも知っていた。
けれど、それらを領地の道路管理と結びつけて考えたことはなかったのである。
「……確かに、似ているところはあるかもしれないね。ただ、屋敷の中のことなら、実際に担当している人たちに聞いた方が正確だと思う」
「そうだね。私たちが知っているつもりでも、働いている人たちにしか分からないことがあるもの」
リビアはそう言って微笑んだ。
俺も頷きかけたが、そのとき、廊下の先から聞こえてきた声に気づいた。
厨房へ続く通路の角で、二人の使用人が何かを相談していた。
一人は食料品の搬入を担当している男性で、もう一人は屋敷の設備管理を手伝っている年配の使用人だ。どちらも普段から顔を合わせる相手だが、今日は二人とも少し困ったような表情をしている。
「……ですから、明日の朝までには確認しておきたいんです。荷車が通れないとなると、搬入の順番を変える必要がありますから」
「分かっている。ただ、暗くなってから無理に確認するのは避けたい。今朝の雨で地面が緩んでいる可能性もあるからな」
俺はその言葉を聞き、思わずリビアと顔を見合わせた。
荷車が通れない。
今朝の雨。
どうやら、屋敷の搬入経路に何か問題が起きているらしい。
けれど、俺たちが勝手に話へ割り込むのは違う。
そう考えて通り過ぎようとしたところで、年配の使用人がこちらに気づいた。
「これは、オリビアお嬢様。セス様も。失礼いたしました」
二人が姿勢を正したため、リビアは慌てて首を横へ振った。
「いいえ、お仕事のお話をされていたのでしょう? どうか気になさらないでください」
彼女は穏やかな声でそう告げたあと、少しだけ迷うように俺へ視線を向けた。
俺はその視線の意味を考え、彼女が何を気にしているのか理解した。
先ほどまで、俺たちは道路や物資の輸送について勉強していた。
その直後に、屋敷の搬入経路についての話を耳にしたのだ。
興味を持つのは自然なことだろう。
ただし、ここは学習用の事例とは違う。
実際に仕事をしている人たちが、明日の搬入について相談している場所だ。
「何か、搬入経路に問題があったんですか?」
俺が尋ねると、男性の使用人は一度年配の使用人へ視線を向けた。
相手が小さく頷いたのを確認してから、事情を説明してくれた。
「実は、裏庭側の搬入口へ続く石畳の一部で、水が引きにくくなっている場所がありまして。今朝の雨のあと、荷車の車輪が少し取られたそうなんです」
「車輪が?」
「はい。幸い、荷物が倒れたり、誰かが怪我をしたりしたわけではありません。ただ、明日の朝も同じ状態なら、重い荷物を載せた荷車は通さない方がいいだろうという話になりまして」
俺は説明を聞きながら、裏庭の配置を思い浮かべた。
厨房へ食材を運び込む際に使われる搬入口は、屋敷の正面とは反対側にある。
そこへ向かう石畳の道は、普段なら荷車が問題なく通れるよう整えられているはずだった。
ただ、屋敷の敷地は広い。
雨が降ったあとに水が溜まりやすい場所があっても、不思議ではない。
「すでに、グレイヴ執事長へ報告は済ませてあります。明朝の搬入については、必要に応じて別の経路を使うよう調整する予定です」
年配の使用人がそう付け加えた。
俺は静かに頷いた。
「分かりました。報告が済んでいるなら、父さんが担当の人たちと確認してくれると思います」
そこでリビアが、控えめに口を開いた。
「ひとつだけ、お聞きしてもよろしいかしら?」
「もちろんでございます、お嬢様」
「その場所を通るのは、食材を運ぶ荷車だけなのですか? それとも、ほかのお仕事でも使われるのでしょうか?」
男性の使用人は少し考え、丁寧に答えた。
「食材の搬入が中心ですが、庭園で使う道具を運ぶ際にも通ることがあります。ただし、今問題になっているのは厨房側へ向かう荷車の通行でございます」
「そうなのですね。教えてくださってありがとうございます」
リビアが礼を述べると、二人は再び頭を下げた。
俺たちは仕事の邪魔にならないよう、その場を離れることにした。
廊下を曲がってから、リビアが小さく息を吐いた。
「……セス。さっきのお話、今日の教材に少し似ていたね」
「うん。でも、今回は実際の仕事だから、俺たちが勝手に何かを決めるわけにはいかないね」
「もちろん、それは分かってるよ」
リビアは真剣な表情で頷いた。
「ただ、もし許されるなら、どんなふうに確認して対応するのかを見てみたいなって思ったの」
俺は彼女の横顔を見つめた。
その願いは、単なる好奇心だけではないのだろう。
今日、アルセス様から教わったことを、実際の仕事と結びつけて理解したい。
そんな気持ちが、彼女の声から伝わってきた。
「それなら、父さんに相談してみようか。ただし、作業の邪魔にならないことが前提だけど」
俺がそう答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「うん。そうしよう、セス」
彼女の返事を聞きながら、俺は先ほどの使用人たちの表情を思い出していた。
明日の朝までに搬入経路を確認したいと言っていた男性。
暗くなってから無理に調べることを避けようとしていた年配の使用人。
二人とも、ただ困っていたわけではない。
自分たちの仕事を滞りなく進めるために、必要なことを考えていたのだ。
(俺は、ああいう相談が自然にできる執事になりたいのかもしれない)
そう思ったとき、胸の奥に小さな熱が生まれた。
誰かが困っているからといって、何でも自分で解決するのではない。
必要な人へ相談し、状況を確かめ、仕事が安全に進むよう支える。
それもまた、俺が目指したい執事の姿なのだと思った。
◇
夕食のあと、俺は父さんへ裏庭の搬入経路について尋ねた。
父さんは執務用の机で翌日の予定を確認していたが、俺の話を聞くと、手元の書類を閉じてこちらへ向き直った。
「なるほど。お嬢様も、現場の確認方法を学びたいとお考えなのだな」
「うん。今日、アルセス様から道路や橋の管理について教えていただいたばかりだから、実際の仕事がどう進むのか気になったみたいなんだ」
父さんは少し考え込んだ。
机の上には翌日の予定表と、各部署から提出された報告書が並んでいる。俺が目を向けると、父さんは自然な動作で一部の書類を裏返し、今話している内容とは関係のない情報が見えないようにした。
「興味を持つこと自体は悪くない。ただし、現場の確認は学習のために行うものではない。必要な仕事を安全に進めるために行うものだ」
「うん。それは分かってる」
「ならば、まず明日の作業予定を確認しよう。担当者の判断によっては、見学そのものが適切でない場合もある」
父さんはそう言って、予定表の一部へ目を落とした。
俺はその間、机から少し離れた場所で待った。
しばらくして、父さんが顔を上げる。
「現時点では、明朝に設備担当者が状態を確認する予定だ。荷車を通すかどうかは、その結果を踏まえて判断することになる」
「じゃあ、まだ何も決まっていないんだね」
「そうだ。通行できるかもしれないし、別の経路を使う必要があるかもしれない。今の段階で決めつけるべきではないな」
父さんはそこで一度言葉を切り、俺の顔を見つめた。
「セス。お前は、この件についてどう考えている?」
俺は少し考えた。
今朝の雨で石畳の一部に水が溜まり、荷車の車輪が取られた。
それが分かっていることだ。
けれど、地面の状態がどの程度悪いのか、今も水が残っているのか、どのくらいの重量なら通れるのかは分からない。
「……まず、実際の状態を確認する必要があると思う。それから、荷車を通せない場合に使える別の経路があるかどうかも確認した方がいいんじゃないかな」
「ほう。では、別の経路が使えるなら、それで問題は解決すると思うか?」
父さんの問いかけに、俺は少し言葉を詰まらせた。
別の経路が使えるなら、荷物は運べる。
しかし、だからといって、それですべて終わるわけではない。
「……いや。別の経路を使うなら、そこを普段使っている人たちの仕事にも影響するかもしれない」
「その通りだ」
父さんは静かに頷いた。
「荷車が通れる幅があっても、そこを人が頻繁に歩いているなら、接触の危険が増える。搬入口が変われば、厨房側の受け入れ準備にも影響するだろう」
俺はその説明を聞き、思わず息をついた。
「……考えることが多いんだね」
「そうだな。だが、すべてを一人で考える必要はない。だからこそ、担当者がいるんだ」
父さんは穏やかに微笑んだ。
「明朝、現場の確認が安全に行える状態であれば、お嬢様には離れた場所から見学していただけるよう調整してみよう。ただし、担当者の判断を優先するし、作業中の指示は必ず守っていただく」
「分かった。リビアにも伝えるよ」
「お前も同席して構わない。ただし、見学するなら仕事を見学する者としての立場を忘れないように」
俺は背筋を伸ばした。
「うん。ありがとう、父さん」
父さんは頷いたあと、少しだけ表情を和らげた。
「それと、セス。今日の話を聞いて、何か思うところがあったのか?」
俺は少し驚いた。
父さんは、こういうところが鋭い。
何も言っていないのに、俺が何かを考えていることに気づいてしまう。
「……うん。俺、困っている人がいたら、できるだけ自分で何とかしたいって思うことが多かったでしょう?」
「そうだな」
「でも、今日の使用人たちは、ちゃんと相談していたんだ。明日の搬入をどうするか、無理に決めようとせずに」
俺はそこで少しだけ視線を落とした。
「それを見て、俺もああいうふうに仕事ができるようになりたいなって思った」
父さんはしばらく黙っていた。
やがて、机の上へ置いていた手を静かに重ね、落ち着いた声で答えた。
「それは、よい目標だと思う」
俺が顔を上げると、父さんは穏やかに微笑んでいた。
「執事の仕事は、自分が何でもできることを示す仕事ではない。屋敷で働く者たちが、それぞれの役割を果たせるよう支えることも大切な務めだ」
その言葉は、俺の胸の奥へゆっくりと染み込んでいった。
「……うん。覚えておくよ」
「覚えるだけでなく、これからの仕事で少しずつ実践しなさい」
父さんはそう言って、再び予定表へ目を落とした。
俺は礼を述べ、部屋をあとにした。
廊下へ出ると、夜の屋敷はすでに落ち着いた静けさに包まれていた。
遠くから聞こえる使用人たちの足音を聞きながら、俺は自分の手を見つめた。
この手でできることは、確かに多いのかもしれない。
けれど、それだけで十分なわけではない。
誰かの仕事を理解し、必要なときに力を合わせること。
それを、もっと学びたいと思った。
◇
翌朝、空には薄い雲が広がっていた。
雨は降っていなかったものの、庭園の木々にはまだ湿り気が残っており、朝の風が吹くたびに葉の先から小さな水滴が落ちていた。
俺は朝食を終えたあと、父さんから指定された時間に裏庭へ向かった。
リビアも一緒だった。
彼女は普段の華やかな装いではなく、歩きやすさを考えた落ち着いた色合いの服を選んでいた。靴も庭園を歩く際に使うものらしく、足元を確認しながら慎重に歩いている。
「セス、今日はありがとう。グレイヴにお願いしてくれたんでしょう?」
「うん。でも、父さんが担当の人たちと相談してくれたから、見学できることになったんだよ」
「そうだね。あとで、ちゃんとお礼を言わなくちゃ」
リビアはそう言って微笑んだ。
俺たちが裏庭へ到着すると、すでに数人の使用人が集まっていた。
石畳の道の一部には、水が引いたあとに残った泥が薄く広がっている。周囲には作業用の道具が置かれていたが、問題の場所へ不用意に近づかないよう、簡単な目印が設けられていた。
父さんは少し離れた場所に立っており、俺たちに気づくと軽く頷いた。
「お嬢様、こちらへ。見学していただく場所は、この線より手前でございます」
「分かりました、グレイヴ。今日はよろしくお願いします」
リビアが丁寧に頭を下げると、父さんは穏やかに微笑んだ。
「こちらこそ。ですが、作業中は担当者の指示を優先いたしますので、ご了承ください」
「もちろんです」
俺も頷き、父さんが示した場所で足を止めた。
そこからなら、問題の石畳と、作業している使用人たちの様子を十分に見ることができた。
ただし、細かな状態までは分からない。
石の隙間に泥が入り込んでいるようにも見えるが、実際にどの程度緩んでいるのかは、近くで確認している担当者にしか判断できないだろう。
年配の設備担当者が、長い棒状の道具を使って石畳の端を慎重に確かめていた。
その隣では、別の使用人が状態を記録している。
しばらくして、担当者が父さんのもとへ戻ってきた。
「執事長。石畳そのものに大きな破損は見られませんが、端の部分で泥が溜まりやすくなっております。車輪が外側へ寄ると、足を取られる可能性があります」
「なるほど。では、今朝の搬入についてはどう考える?」
「重い荷車は、こちらを通さない方がよいかと存じます。軽い荷物を手で運ぶ場合も、作業範囲を避ける必要があります」
父さんは頷き、記録を取っている使用人へ視線を向けた。
「別の搬入経路については、確認できているか?」
「はい。北側の通路は通行可能ですが、普段は庭園の作業にも使用しておりますので、時間を分ける必要があります」
その言葉を聞き、俺は思わずリビアと顔を見合わせた。
昨日、父さんが話していたことと同じだ。
別の道が使えるからといって、それで問題が終わるわけではない。
その道を普段使っている人たちとの調整が必要になる。
リビアも同じことに気づいたらしく、真剣な表情で作業の様子を見つめていた。
父さんは担当者たちと短く相談したあと、落ち着いた声で指示を出した。
「では、今朝の重い荷物は北側の経路を使用する。庭園担当には通行時間を伝え、作業が重ならないよう調整してほしい。厨房側にも、荷物の到着順が変わることを連絡しておこう」
担当者たちはそれぞれ頷き、必要な連絡を進めるために動き始めた。
俺はその様子を見ながら、静かに息をついた。
誰か一人が、すべてを解決したわけではない。
現場の状態を確認する人。
記録を取る人。
別の経路を調べる人。
厨房へ連絡する人。
それぞれが、自分の役割を果たしている。
その積み重ねによって、明確な対応が決まっていくのだ。
「……セス」
隣でリビアが小さく声をかけてきた。
「何?」
「昨日、お父様がお話しされていたことが、少し分かった気がする」
彼女は作業している人たちへ視線を向けたまま続けた。
「ひとりで全部を決めるんじゃなくて、それぞれの人が知っていることを持ち寄って、どうするか考えるんだね」
「うん。俺も、そう思った」
俺たちはそれ以上話さず、しばらく作業の様子を見守った。
朝の風が裏庭を抜け、湿った土の匂いがかすかに漂ってくる。
遠くでは鳥が鳴き、屋敷の窓からは厨房の仕事を始める音が聞こえていた。
いつもと変わらない朝のように見える。
けれど、その当たり前の朝を支えるために、たくさんの人が動いているのだと、俺は改めて感じていた。
◇
現場の確認が一区切りつくと、父さんが俺たちのところへ戻ってきた。
「お嬢様、セス。見学はここまでにしましょう。これから搬入経路の調整が始まりますので、作業の邪魔にならない場所へ移動していただきます」
「分かりました。ありがとうございました、グレイヴ」
リビアが丁寧に礼を述べると、父さんは静かに頷いた。
俺も頭を下げた。
「ありがとう、父さん。すごく勉強になったよ」
「それはよかった。ただし、今日見たのは屋敷の仕事の一部にすぎない。領地全体の道路管理とは、規模も責任も異なることを忘れないようにな」
「うん。分かってる」
父さんは満足そうに頷いた。
俺たちはその場を離れ、屋敷へ戻ることにした。
裏庭から続く通路を歩いていると、リビアが少しだけ足を緩めた。
「……セス。私、今日見学できてよかった」
俺は彼女の顔を見た。
「うん。俺もだよ」
「昨日の資料を読んだときは、頭の中で考えることが多かったでしょう? でも、実際にみんながお仕事をしているところを見ると、少し違って感じたの」
リビアはそう言って、胸元で両手を重ねた。
「道が使えなくなったらどうするかっていう問題だけじゃなくて、そのために誰が何を確認して、誰へ伝えるのかが大切なんだね」
俺は静かに頷いた。
「そうだね。俺も、父さんがみんなの話を聞いてから決めていたところが印象に残ったよ」
「うん。グレイヴは、すぐに答えを出そうとはしなかったものね」
リビアは少し考え込んだあと、柔らかく微笑んだ。
「……セスも、いつかあんなふうに仕事をするのかな」
その言葉に、俺は思わず足を止めそうになった。
父さんのように。
そんなふうに言われると、何だか胸の奥がくすぐったくなる。
「……まだまだ、父さんみたいにはできないと思うよ」
「今すぐできなくてもいいんじゃないかな?」
リビアは穏やかに微笑んだ。
「セスは、ちゃんと学ぼうとしているでしょう? 今日だって、自分で何とかしようとするんじゃなくて、グレイヴに相談してくれたもの」
俺は彼女の言葉を聞き、少しだけ視線を落とした。
以前の俺なら、問題が起きていると聞いた時点で、何かできることはないかと考えていたかもしれない。
もちろん、今でも困っている人がいれば助けたいと思う。
けれど、助けることと、勝手に仕事を引き受けることは違う。
その違いを、少しずつ理解できるようになってきた気がした。
「……ありがとう、リビア」
俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「ふふっ。どういたしまして」
そして、少しだけ悪戯っぽく首を傾げた。
「でもね、セス。私、もうひとつ思ったことがあるの」
「何?」
「セスが将来、どんなお仕事をすることになっても、こうして一緒に考えられたら嬉しいなって」
俺は彼女の顔を見つめた。
その言葉は、昨日までの俺たちの会話ともつながっている。
結婚したあと、俺がどのような立場で働くのかは、まだ決まっていない。
執事の仕事を続けたいという希望はある。
けれど、婚約者としての立場もある以上、簡単に決められることではないのだろう。
それでも、今の俺たちにできることはある。
互いの希望を知り、学び、相談することだ。
「……うん。俺も、そうしたい」
俺が答えると、リビアは少しだけ頬を染めた。
「本当?」
「もちろん。俺だけで決められないこともあると思うし、リビアにも相談したいから」
彼女は嬉しそうに目を細めた。
「……よかった」
その声には、静かな安心感が混じっていた。
俺はそんなリビアを見つめながら、自然と笑みを浮かべた。
◇
屋敷へ戻ると、俺たちは父さんから許可をもらい、朝の見学で学んだことを簡単にノートへ整理することにした。
ただし、実際の搬入予定や担当者の細かな仕事の内容まで記録する必要はない。
今日の経験から、自分たちが何を学んだのか。
それを、自分たちの言葉でまとめるだけだ。
小さな書斎の机へ向かい合って座ると、リビアはノートを開き、少し考え込んだ。
「セス、最初は何を書こうか?」
俺は昨日の教材で学んだことを思い出した。
問題が起きたときには、まず状況を確認する。
それから、関係する人たちへ必要な情報を伝える。
そして、対応を考える。
「……俺は、確認することと、相談することかな」
そう答えると、リビアは嬉しそうに頷いた。
「うん。私も、それが大切だと思った」
彼女はペンを取り、ノートへ丁寧に文字を書き始めた。
俺も自分のノートを開いた。
けれど、書き始めてすぐに、少しだけ手が止まった。
今日の見学で、一番印象に残ったことは何だっただろう。
石畳の状態を確認していた使用人たち。
別の搬入経路を調べていた人。
そして、それぞれの報告を聞いて判断していた父さん。
どれも大切なことだった。
ただ、俺の中には、もうひとつ強く残っているものがあった。
昨日、廊下で相談していた二人の使用人の姿だ。
あのとき、二人は明日の仕事をどう進めるか考えていた。
誰かが困っているからといって、慌てて何かを始めるのではなく、必要なことを確認しようとしていた。
その姿が、俺にはとても頼もしく見えたのだ。
(……俺も、ああいうふうに仕事ができるようになりたい)
そう考えながら、俺はノートへ文字を書き込んだ。
『問題が起きたとき、自分だけで解決しようとせず、必要な人と相談する』
書き終えると、隣からリビアが覗き込んできた。
「セス、それが今日一番印象に残ったこと?」
「うん。父さんの仕事を見ていて、改めてそう思ったんだ」
リビアはしばらく文字を見つめていた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……セスらしいね」
俺は少し驚いた。
「そうかな?」
「うん。だって、セスはいつも誰かのために何かをしたいって考えているでしょう? でも、今日はそのために、どうすればいいのかを考えていたんだと思う」
彼女はそう言って、少しだけ頬を染めた。
「私は、そういうセスも好きだよ」
俺は思わず苦笑した。
「……リビアは、本当に何でも褒めてくれるね」
「何でもじゃないよ。ちゃんと、すごいと思ったことを褒めてるの」
彼女は少しだけ頬を膨らませた。
その表情が可愛らしくて、俺は思わず笑ってしまった。
「ごめん。ありがとう、リビア」
「ふふっ。どういたしまして」
彼女は満足そうに微笑んだ。
そのあと、リビアも自分のノートへ何かを書き加えた。
俺が尋ねると、彼女は少し照れくさそうに見せてくれた。
『仕事をする人たちの話を聞き、その人たちが何を大切にしているのか知る』
俺はその文字を見つめ、静かに頷いた。
「……いいね。リビアらしいと思う」
すると、彼女は嬉しそうに笑った。
「本当?」
「うん。今日も、荷車だけじゃなくて、ほかの仕事で道を使う人たちのことを気にしていたでしょう?」
リビアは少し考えたあと、頷いた。
「そうだね。私は、そこが気になったんだと思う」
彼女はペンを置き、窓の外へ目を向けた。
朝の光が庭園を照らし、遠くでは庭師たちが作業を続けている。
その景色を眺めながら、リビアは静かに口を開いた。
「……セス。私、もっと屋敷のことを知りたいな」
俺は彼女の横顔を見つめた。
「屋敷のこと?」
「うん。もちろん、今までだって知っているつもりだったよ。でも、今日みたいに、私が普段見ていないところで、いろんな人が働いているんだよね」
リビアは少しだけ視線を落とした。
「私、この屋敷で育ったのに、知らないことがたくさんあるんだなって思ったの」
その声には、後悔というよりも、新しいものを見つけたときの驚きが混じっていた。
俺は少し考えてから答えた。
「……俺も、まだ知らないことがたくさんあるよ。父さんの仕事だって、全部理解しているわけじゃないし」
「セスも?」
「うん。だから、これから少しずつ学んでいけたらいいと思う」
リビアはしばらく俺を見つめていた。
やがて、柔らかく微笑んだ。
「……そうだね」
彼女はそっと俺の手へ触れた。
「じゃあ、これからも一緒に学ぼうね」
俺はその手を優しく握り返した。
「うん。約束する」
窓の外では、庭園の木々が朝の風に揺れていた。
今日、俺たちは屋敷の仕事のほんの一部を見ただけだ。
それでも、その経験は俺にとって大切なものになった。
執事として働くこと。
誰かを支えること。
そして、必要なときに人の力を借りること。
どれも、まだ学んでいる途中だ。
けれど、今はそれでいいのだと思う。
俺は隣に座るリビアへ目を向けた。
彼女は嬉しそうにノートを見つめており、その横顔には、これから学ぶことへの期待が浮かんでいた。
俺もまた、そんな彼女と一緒に歩んでいきたいと思った。
屋敷の外には、まだ知らない世界が広がっている。
そして、この屋敷の中にも、俺がまだ知らない仕事や、人々の思いがある。
それらをひとつずつ知りながら、自分がどんな執事になりたいのか、考えていこう。
そう思いながら、俺はノートの最後に、もう一行だけ書き加えた。
『誰かを支えるために、まず相手の仕事を知ること』
書き終えた文字を見つめていると、隣のリビアが静かに微笑んだ。
「セス、いい言葉だね」
「……ありがとう」
俺は少し照れくさくなりながら、彼女へ笑い返した。
窓から差し込む朝日が、二人のノートを柔らかく照らしていた。




