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第110話 公爵令嬢様は、俺の知らない仕事を隣で学びたいらしい


 パウリー公爵邸の朝は、いつもと変わらない穏やかさに包まれていた。


 東側の窓から差し込む日差しが廊下を明るく照らし、庭園では庭師たちが植え込みの手入れを始めている。遠くから聞こえる鳥の声に混じって、厨房からは食器を整える音が届いていた。


 俺は学院へ向かう準備を終え、自室の机に置いていた一冊のノートを閉じた。


 昨日、リビアと一緒に調べた古い街道の記録について、確認できたことを整理したノートだ。


 異なる年代の資料に描かれた道の位置は、確かに一致していなかった。しかし、それが実際の街道の変更を意味しているのか、それとも資料の目的や表現方法による違いなのか、まだ判断できていない。


 近い時期に橋が整備されたという記録も見つかったが、その橋が問題の街道と関係しているかどうかも不明だった。


(調べれば調べるほど、知らないことが増えるんだな)


 以前の俺なら、答えが見つからないことに少し焦っていたかもしれない。


 けれど、今は違う。


 分からないことを分からないまま記録しておき、必要なときに続きを調べればいい。そう考えられるようになったのは、リビアや友人たちと一緒に勉強する機会が増えたからだと思う。


 ノートを鞄へ収めようとしたところで、扉を叩く音が聞こえた。


「セス、起きているか?」


「父さん? うん、起きてるよ」


 返事をすると、父さん――グレイヴ・シルフィールが部屋へ入ってきた。


 いつもどおり隙のない身だしなみを整えた父さんは、俺の鞄へ一度視線を向けてから、穏やかな表情で口を開いた。


「学院へ向かう準備は終わっているようだな」


「うん。あとは朝食を食べるだけだよ」


「それならちょうどよい。旦那様から、お前とオリビアお嬢様へお伝えすることがある」


 俺は思わず姿勢を正した。


「旦那様から?」


「ああ。以前、お嬢様が領地の仕事について学びたいとお話しされただろう。その件について、学習用に確認できる資料をいくつか用意できそうだとのことだ」


 その言葉に、俺は目を見開いた。


 リビアは少し前から、公爵家が領地をどのように管理しているのか学びたいと話していた。


 アルセス様も、その希望について考えてくださっていると聞いていたが、具体的に何かが決まったわけではなかったはずだ。


「それって、リビアが実際の仕事の記録を見られるってこと?」


「そこは正確に理解しておきなさい。今回用意されるのは、領地の管理業務を学ぶために整理された資料だ。現在進行している案件の記録や、外部へ公開できない情報を自由に閲覧できるわけではない」


 父さんは落ち着いた声で説明した。


「過去の記録を参考にした教材も含まれるが、必要な部分は省略されている。実際の判断を再現するものではなく、仕事の仕組みを理解するためのものだ」


「なるほど……。じゃあ、領地の仕事がどう進むのかを勉強するための資料なんだね」


「そういうことだ。旦那様は、まずお嬢様に資料の内容を説明し、そのうえで必要ならお前も同席してよいとお考えだ」


 俺は少し驚いた。


「俺も?」


「お前自身も、進路希望調査で執事の仕事を続けたいと書いていたな。公爵家に仕える者として、屋敷の外でどのような仕事が行われているのか知ることは無駄にならないだろう」


 父さんはそう言って、わずかに表情を和らげた。


「ただし、今回はあくまで学習の機会だ。仕事を任されるわけではないし、お前たちに何かの判断を求めるものでもない」


「うん。分かった」


「詳しいことは、夕方に旦那様から直接お話がある。学院での予定を終えたら、いつもどおり帰ってきなさい」


 俺は頷いた。


 父さんはそれを確認すると、部屋を出ようとした。


 けれど、扉の前で一度足を止めた。


「セス」


「何?」


「学ぶ機会をいただけるのは、ありがたいことだ。だが、知らないことを恥ずかしがる必要はない。分からなければ質問し、理解できなければ確認しなさい」


 俺は少しだけ笑った。


「うん。父さんにも、いつもそう教えてもらってるから」


「ならばよい」


 父さんは満足そうに頷き、静かに部屋をあとにした。


 俺は閉じられた扉を見つめ、それから鞄の中のノートへ目を向けた。


 古い街道について調べ始めたのは、単純な興味からだった。


 けれど、その先には、俺がまだ知らない仕事や、人々の暮らしがある。


 今日は、その一部を知る機会が訪れるのかもしれない。


     ◇


 食堂へ向かうと、リビアはすでに席についていた。


 銀青色の髪を肩の後ろへ流した彼女は、窓から差し込む光を受けながら、手元の冊子を読んでいる。


 俺の姿に気づくと、すぐに顔を上げた。


「おはよう、セス。グレイヴからお話を聞いた?」


「おはよう、リビア。うん。領地の仕事について勉強できる資料が用意されるんだってね」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「そうなの。今朝、お父様から少しだけお聞きしたの」


 彼女は冊子を閉じ、俺が席へ着くのを待ってから続けた。


「まだ全部は分からないけれど、領地の道や橋を管理するとき、どんな情報を確認するのか教えていただけるみたい」


「道や橋?」


「うん。最近、私たちが街道について調べていることも、お父様にお話ししたでしょう? それで、関連する仕事から学んでみてはどうかって」


 俺は思わず顔を上げた。


 偶然とはいえ、今まさに興味を持っている分野だ。


 もちろん、古い街道の謎を解くために資料を用意してくださるわけではないだろう。


 それでも、実際の管理業務について学べるのは、とてもありがたい。


「楽しみだね」


 俺がそう言うと、リビアは目を輝かせた。


「うん! 私もすごく楽しみなの」


 彼女は少しだけ声を落とした。


「でもね、少し緊張もしてるんだ」


「リビアが?」


「だって、今までは本で読んだり、お父様からお話を聞いたりすることが多かったでしょう? 今回は、実際のお仕事で使われる考え方を学ぶことになるから」


 リビアは指先を重ね、少し考え込むように視線を落とした。


「ちゃんと理解できるかなって、少し心配なの」


 俺は彼女の顔を見つめた。


 リビアは学問にも魔術にも優れている。


 学院では多くの生徒から頼りにされ、公爵令嬢としての振る舞いも申し分ない。


 けれど、そんな彼女にも、初めて学ぶことへの不安があるのだ。


「……俺も、分からないことはたくさんあると思うよ」


 そう答えると、リビアは顔を上げた。


「セスも?」


「うん。屋敷の仕事なら少しは分かるけど、領地全体の管理となると、まだ知らないことばかりだから」


 俺は少し考えてから続けた。


「だから、一緒に勉強できたら嬉しいな。俺が分からないことをリビアが知っているかもしれないし、その逆もあるかもしれないでしょう?」


 リビアはしばらく俺を見つめていた。


 やがて、柔らかな笑みを浮かべる。


「……うん。そうだね」


 彼女は嬉しそうに頷いた。


「じゃあ、今日も一緒に頑張ろうね」


「うん。でも、頑張りすぎないようにね」


 俺がそう言うと、リビアは少しだけ頬を膨らませた。


「もう、セスったら。それは私からも言わせてほしいな」


 俺は思わず笑ってしまった。


「分かった。お互いに気をつけよう」


「ふふっ。約束だよ」


 朝食が運ばれてくると、俺たちは会話を切り上げた。


 温かなスープと焼きたてのパンが並び、食堂には穏やかな時間が流れていく。


 けれど、リビアは時折、嬉しそうに俺へ視線を向けていた。


 その表情を見ていると、俺まで自然と笑顔になってしまう。


     ◇


 学院へ向かう馬車の中で、リビアは小さなノートを開いていた。


 昨日までに調べた街道の記録について、分かったことと分からないことが丁寧に整理されている。


 俺が覗き込むと、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。


「昨日、セスと調べたことをまとめ直してみたの」


「すごいね。ずいぶん見やすくなってる」


「ありがとう。でも、まだ途中だよ」


 リビアはそう言って、ページの端を指さした。


 そこには、二つの資料に共通する地名と、それぞれの記録に描かれた道の特徴が並べられていた。


 ただし、川の位置や橋の記録については、確定した情報として書かれていない。


「ここは、まだ分からないこととして残してあるんだね」


「うん。昨日、私たちが見つけた橋の記録も、同じ場所のものだとは確認できていないから」


 俺は静かに頷いた。


「そうだね。無理につなげない方がいいと思う」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「それでね、今日お父様から見せていただく資料も、同じように整理してみようと思ってるの」


「いいね。でも、資料を持ち出したり、内容を写したりしていいかは、先に確認した方がよさそうだね」


 俺がそう言うと、リビアは少し驚いたように目を丸くした。


 それから、ゆっくりと頷いた。


「……本当だね。勉強用の資料でも、全部を自由に書き写していいとは限らないもの」


「うん。父さんも、資料によって扱いが違うって言ってたから」


 リビアはノートを閉じ、膝の上へ置いた。


「ありがとう、セス。私、楽しみな気持ちが先に来ちゃって、そこまで考えてなかった」


「俺も、気になることがあると夢中になっちゃうからね」


 そう答えると、彼女は小さく笑った。


「ふふっ。じゃあ、今日はお互いに気をつけようね」


 俺たちは顔を見合わせ、頷き合った。


 馬車は穏やかに揺れながら、学院へ向かって進んでいった。


     ◇


 午前の授業では、地理と経済の関係について学んだ。


 先生は黒板へ王国内の主要な交通路を示した地図を掲げ、地域によって運ばれる物資が異なる理由を説明していた。


「同じ距離であっても、輸送に必要な時間や費用は一定ではありません。道の状態、地形、季節、そして運ぶものの性質によって、大きく変わります」


 先生はそう言って、地図上の山地と平野を指し示した。


「たとえば、山を越える道は距離が短くても、重い荷物を運ぶには適さない場合があります。一方、遠回りであっても、荷馬車が安定して通れる道の方が、結果として効率的なこともあるのです」


 俺はその説明を聞きながら、以前の共同演習を思い出した。


 第三班として物資を運んだとき、俺たちは東側の経路ではなく、西側の経路を選んだ。


 東側が危険だったからではない。


 運ぶ荷物の重量と、通行条件を確認した結果、西側を選ぶ方が適切だったのだ。


(あのときも、距離だけで決めたわけじゃなかったな)


 俺はノートへ視線を落とした。


 実際の領地管理でも、同じように複数の条件を考える必要があるのだろう。


 ただし、共同演習とは規模が違う。


 道を使う人も、運ぶ物資も、維持するために必要な費用も、ずっと多くなるはずだ。


 先生は続けて、道路の維持管理について説明した。


「道路を整備する場合、建設時の費用だけでなく、その後の維持費も考慮しなければなりません。雨で傷んだ場所の補修、橋の点検、通行量の変化への対応など、継続的な管理が必要になります」


 教室のあちこちから、小さな話し声が聞こえた。


 ガレスは少し困ったような顔でノートを見つめている。


 その隣ではサザリーが落ち着いた様子で説明を書き留めていた。


 先生が質問を促すと、エミリアが静かに手を上げた。


「道の状態が悪くなった場合、運ぶ物資の種類によって影響の大きさも変わるのでしょうか?」


「よい質問ですね。もちろん変わります。壊れやすいものや、早く届ける必要があるものは、道の状態による影響を受けやすいでしょう」


 エミリアは頷き、ノートへ何かを書き加えた。


 俺は彼女の質問に感心した。


 物資の管理に興味を持っているエミリアらしい視点だ。


 俺なら、まず道そのものの状態を考えていたかもしれない。


 けれど、道を使う側にとっては、何を運ぶのかも重要になる。


 同じ授業を受けていても、気になるところは人によって違うのだ。


     ◇


 昼休みになると、俺たちは食堂の一角に集まった。


 ガレスは食事を始めるなり、午前の授業について話し始めた。


「いやあ、道を管理するのって大変なんだな。俺、橋が壊れたら直せばいいくらいに思ってたけど、そう簡単じゃないんだな」


 サザリーは穏やかに頷いた。


「修理が必要になってから対応するだけでは、通行に支障が出るかもしれないからね。定期的に状態を確認することも重要なんだと思う」


「そうだよな。うちの領地でも、雨が多い時期は橋の確認をするって聞いたことがあるし」


 ガレスは少し考え込んだ。


「今度、父上に詳しく聞いてみようかな」


 その言葉に、俺は顔を上げた。


「いいと思う。実際にどんな仕事をしているのか聞けたら、勉強になりそうだね」


「だよな。まあ、父上が忙しくなければだけど」


 ガレスは少し照れくさそうに笑った。


 その隣で、エミリアが静かに口を開いた。


「私も、物資の管理について家で少し聞いてみたいです。授業で学んだことが、実際のお仕事とどうつながっているのか気になります」


 サザリーは小さく頷いた。


「僕も同じだよ。家の仕事について、知っているつもりで知らないことが多いからね」


 俺は三人の話を聞きながら、少しだけ考えた。


 みんな、それぞれの立場で将来について考えている。


 ガレスは剣術を磨きながら、家の仕事にも関心を持ち始めている。


 サザリーは情報を整理することが得意で、物事を慎重に考える。


 エミリアは細かな魔力制御だけでなく、物資の管理や人を支える仕事にも興味を持っている。


 そして、リビアは公爵家の娘として、領地のことをもっと知りたいと思っている。


 俺も、執事の仕事を続けたいという希望を持っている。


 けれど、そのために何を学ぶべきなのかは、まだ全部分かっていない。


「……みんな、少しずつ考えているんだね」


 俺がそう呟くと、ガレスが笑った。


「そりゃそうだろ。俺たち、まだ学院生なんだしさ」


 サザリーも穏やかに微笑んだ。


「今のうちに、いろいろ知っておくことは大切だと思うよ。将来の選択肢を考える材料にもなるから」


 リビアはその言葉に頷いた。


「私もそう思う。知らないまま決めるより、少しずつ学んでから考えたいな」


 俺は彼女の横顔を見つめた。


 リビアは俺の視線に気づくと、柔らかく微笑んだ。


「セスも、そうでしょう?」


「うん。俺も、もっといろんなことを知りたいと思ってる」


 そう答えると、彼女は嬉しそうに頷いた。


 ガレスはそんな俺たちを見比べ、少しだけ口元を緩めた。


「……お二人とも、将来のことを一緒に考えてるんですね」


 リビアは一瞬きょとんとしたあと、頬を染めた。


「ガレス、急にどうしたの?」


「いや、その……仲がいいなと思いまして!」


 慌てて姿勢を正すガレスを見て、エミリアが小さく笑った。


 サザリーも肩を揺らしている。


 俺は少し照れくさくなったものの、自然と笑みを浮かべていた。


     ◇


 午後の授業が終わると、俺とリビアはまっすぐ屋敷へ戻ることにした。


 普段なら図書室へ寄ることもあるが、今日は夕方にアルセス様からお話がある。


 そのため、放課後の調べものは別の日にすることにしたのだ。


 馬車へ乗り込むと、リビアは少しだけ緊張した様子で膝の上に手を重ねた。


「……セス、何だか落ち着かないな」


 俺は彼女の顔を見つめた。


「緊張してる?」


「うん。お父様とお話しするのはいつものことなのに、今日は少し違う気がするの」


 リビアは小さく笑った。


「私が勉強したいってお願いしたことを、お父様がちゃんと考えてくださったんだもの。嬉しいけれど、その分、きちんと学びたいなって」


 俺は静かに頷いた。


「そうだね。でも、父さんも、分からないことは質問していいって言ってたよ」


「グレイヴが?」


「うん。知らないことを恥ずかしがる必要はないって」


 リビアは少し驚いたように目を丸くしたあと、柔らかく微笑んだ。


「……そっか。そうだよね」


 彼女は窓の外へ視線を向けた。


 街道沿いには店が並び、荷物を運ぶ人や買い物をする人たちが行き交っている。


 いつもなら何気なく眺めている景色だ。


 けれど、今日の授業を受けたあとでは、少し違って見えた。


 荷馬車が通る道。


 店へ運ばれる商品。


 道端で荷物を整える商人。


 それぞれの仕事が、どこかでつながっている。


「……セス」


 リビアが静かに声をかけてきた。


「何?」


「私ね、今日の授業を受けて、少しだけ思ったことがあるの」


 彼女は窓の外を眺めたまま続けた。


「お父様のお仕事って、きっと私が思っているよりずっと多くの人の暮らしにつながっているんだろうね」


 俺はその言葉を聞き、静かに頷いた。


「うん。道を整備することひとつでも、いろんな人に関係するんだと思う」


「だからこそ、ちゃんと知りたいな」


 リビアはそう言って、俺へ顔を向けた。


「セスも、一緒に学んでくれる?」


 俺は迷わず頷いた。


「もちろん。俺も知りたいから」


 彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう」


 その笑顔を見ていると、俺まで少しだけ緊張が和らぐ気がした。


     ◇


 屋敷へ戻ると、父さんが玄関で俺たちを迎えてくれた。


「お帰りなさいませ、オリビアお嬢様。セスも、お疲れさま」


「ただいま戻りました、グレイヴ」


「ただいま、父さん」


 父さんは俺たちの荷物を確認すると、穏やかに口を開いた。


「旦那様は、夕方の執務を一区切りつけられたところです。お二人が着替えを済ませられたら、小書斎へお越しくださいとのことでした」


 リビアは頷いた。


「分かりました。ありがとうございます」


 俺も礼を伝え、それぞれ準備を整えることにした。


 制服から屋敷で過ごすための服へ着替え、髪や襟元を確認する。


 普段から行っていることなのに、今日は少しだけ気持ちが引き締まった。


 やがて、リビアと合流して小書斎へ向かった。


 扉の前では父さんが待っており、俺たちの姿を確認すると、静かに扉を開けた。


「旦那様。オリビアお嬢様とセスが参りました」


「入りなさい」


 中から聞こえたのは、アルセス・パウリー公爵の落ち着いた声だった。


 俺たちは小書斎へ入った。


 部屋の奥には大きな机が置かれ、その上には数冊の薄い冊子と、紐でまとめられた書類が並んでいる。


 窓際には小さな応接用の机があり、すでに三人分の椅子が用意されていた。


 アルセス様は俺たちの姿を見ると、穏やかに微笑んだ。


「お帰り、リビア。セスも、学院はどうだった?」


「ただいま、お父様。今日は地理の授業で、街道と物資の輸送について学びました」


 リビアが答えると、アルセス様は少し興味深そうに眉を上げた。


「ほう。それは、今日の話にも関係しそうだね」


 俺も姿勢を正して答えた。


「はい、旦那様。道の状態や季節によって、物資の輸送に必要な時間や費用が変わることを学びました」


「なるほど。よい授業だったようだ」


 アルセス様は満足そうに頷いた。


「では、座りなさい。今日は少し、二人に見てもらいたいものがある」


 俺たちは勧められた席へ座った。


 父さんは机の上から薄い冊子を二冊取り、俺たちの前へ置いた。


 表紙には、整った文字で題名が記されている。


『領地管理基礎資料 道路・橋梁編』


 俺は思わず冊子を見つめた。


 リビアも隣で目を輝かせている。


 アルセス様はそんな俺たちの様子を見て、小さく笑った。


「そんなに期待されると、少し緊張するね」


「お父様!」


 リビアが頬を染めると、アルセス様は楽しそうに微笑んだ。


「冗談だよ。では、始めようか」


     ◇


 冊子の最初のページには、道路や橋を管理する際の基本的な考え方がまとめられていた。


 道を利用する人々の安全。


 物資の輸送に必要な条件。


 維持管理にかかる費用。


 そして、問題が発生した場合の報告と対応。


 俺は一行ずつ読みながら、学院の授業で学んだ内容との共通点を探していた。


 アルセス様は俺たちが目を通すのを待ってから、ゆっくりと説明を始めた。


「領地の道路を管理する仕事は、単に傷んだ場所を直すことだけではない。どの道が、どのような目的で使われているのかを把握する必要があるんだ」


 アルセス様は冊子の図を指さした。


 そこには、町と村を結ぶ複数の道が描かれている。


 太い線で示された主要街道。


 細い線で示された生活道路。


 そして、川を渡るための橋。


「この図は、学習用に簡略化したものだ。実際の領地図ではないから、場所を特定するためには使えないよ」


 俺は頷いた。


「はい」


「では、仮にこの橋が使えなくなったとしよう。その場合、何を確認する必要があると思う?」


 アルセス様は、図の中央に描かれた橋を指さした。


 俺は少し考えた。


 橋が使えなくなれば、そこを通る人や荷馬車は別の道を使う必要がある。


 しかし、単純に遠回りすればよいというわけではない。


「まず、橋を使えないことで、どの道が通れなくなるのか確認する必要があると思います」


 俺が答えると、アルセス様は頷いた。


「そうだね。それから?」


「代わりに使える道があるかどうかです。ただ、荷馬車が通れるか、運ぶ荷物に制限がないかも確認する必要があります」


 以前の共同演習で経験したことを思い出しながら答えると、アルセス様は少しだけ目を細めた。


「よい考えだ。では、リビアはどう思う?」


 リビアはしばらく図を見つめていた。


 それから、静かに口を開いた。


「橋を使っていた人たちが、どのくらいいるのかも確認したいです。町へ買い物に行く人や、学校へ通う人、物を運ぶ人では、困ることが違うかもしれません」


 俺は思わず彼女の顔を見た。


 アルセス様も、嬉しそうに頷いた。


「その通りだ。道を使うのは荷馬車だけではない。そこに暮らす人々の日常にも関わっている」


 リビアは少し照れくさそうに微笑んだ。


 アルセス様は続けた。


「そして、もうひとつ大切なことがある。橋が使えなくなった理由を確認することだ」


 俺は冊子へ目を落とした。


 確かに、橋が壊れたのか、一時的に通行を止めているだけなのかによって、必要な対応は違う。


「原因によって、修理や対応の方法が変わるからですか?」


「そうだ。すぐに補修できる問題なのか、大きな工事が必要なのか。それによって、必要な費用も期間も変わってくる」


 アルセス様はそう説明し、別のページを開いた。


 そこには、道路の状態を確認するための簡単な記録表が載っていた。


 確認した日付。


 場所。


 問題の内容。


 通行への影響。


 必要な対応。


 そして、対応が終わったかどうか。


 俺はその表を見つめ、少しだけ驚いた。


 項目の並び方が、屋敷で使う仕事の記録に似ていたからだ。


「……旦那様」


「何だい、セス?」


「この記録表、屋敷で設備の不具合を報告するときの書類と、少し似ていますね」


 アルセス様は興味深そうに顔を上げた。


「ほう。どのあたりが?」


「問題が起きた場所と内容を記録して、それから対応が必要かどうかを確認するところです。屋敷でも、何か不具合があった場合は、勝手に直そうとせず、まず担当者へ報告するよう教わっています」


 俺が説明すると、父さんが静かに頷いた。


「その通りだ。屋敷の仕事と領地の管理では規模も責任も異なるが、記録を残して適切な担当者へ伝えるという点では、共通する部分がある」


 アルセス様も穏やかに微笑んだ。


「よく気づいたね、セス。仕事の種類が違っても、基本となる考え方が似ていることはあるんだ」


 俺は少し照れくさくなりながら頷いた。


 これまで学んできた執事の仕事が、別の分野を理解する手がかりになる。


 そのことが、何だか嬉しかった。


     ◇


 次のページには、道路の補修を考えるための学習用の事例が載っていた。


 ある村へ続く道の一部が、長雨によって傷んだという設定だ。


 村から町へ向かうには二つの経路があり、片方は距離が短いものの、荷馬車が通れる幅に制限がある。


 もう片方は遠回りになるが、比較的広い道が続いている。


 アルセス様は俺たちへ問いかけた。


「さて、二人ならどう考える?」


 俺は図を見つめた。


 以前の共同演習と似た状況にも見える。


 けれど、今回は荷物を一度運べば終わりという話ではない。


 村で暮らす人たちが、日常的に使う道の問題だ。


「……まず、どのくらいの期間、道が使えなくなるのか知りたいです」


 俺が答えると、アルセス様は頷いた。


「理由は?」


「短い期間なら、代わりの道を使うことで対応できるかもしれません。でも、長く使えないなら、村の人たちの生活や物資の輸送に影響が出ると思うので」


 アルセス様は静かに頷いた。


「よい視点だね」


 続いてリビアが口を開いた。


「私は、村の人たちがどのくらいの頻度で町へ行くのか知りたいです。それから、村へ運ばれてくるものの中に、早く届ける必要があるものがないかも確認したいです」


 アルセス様は満足そうに微笑んだ。


「二人とも、必要な情報を確認しようとしているね。それは大切なことだ」


 そう言って、冊子の次のページを開いた。


 そこには、追加の条件が記されていた。


 村には定期的に食料や生活用品が運ばれている。


 遠回りの道は荷馬車が通れるものの、移動時間が長くなる。


 短い道は人が歩くことはできるが、大きな荷物を運ぶには適していない。


 そして、補修に必要な日数は、まだ確定していない。


 俺はその内容を読みながら、少し考え込んだ。


 荷物を運ぶなら遠回りの道を使う必要がある。


 けれど、移動時間が長くなるなら、運ぶ側の負担も増えるだろう。


 それに、補修がいつ終わるか分からないなら、長期間の対応も考えなければならない。


「……すぐに答えを出すのは難しいですね」


 俺がそう言うと、アルセス様は穏やかに頷いた。


「そうだね。だからこそ、必要な情報を集め、関係する人たちと相談する必要がある」


 リビアは少しだけ眉を寄せた。


「お父様、こういう場合は、誰が最終的に判断するのですか?」


「案件の規模や内容によって異なるよ。現場の担当者が対応できるものもあれば、領地の管理を担う者が判断する必要のあるものもある。費用や影響が大きければ、私のところまで報告が上がってくることもあるね」


 アルセス様はそう説明した。


「ただし、何でも私一人で決めているわけではない。現場の状況を知る者、費用を確認する者、必要な工事を考える者、それぞれの意見が必要になる」


 俺はその言葉を聞き、静かに頷いた。


 公爵という立場は、多くのことを決める責任がある。


 けれど、その判断を支えるために、たくさんの人が働いているのだ。


 リビアも同じことを考えたのか、少し真剣な表情で冊子を見つめていた。


     ◇


 説明が一区切りつくと、アルセス様は俺たちへ温かな紅茶を勧めてくれた。


 小書斎の窓からは夕暮れの光が差し込み、机の上に置かれた冊子の表紙を柔らかく照らしている。


 俺はカップを手に取り、少しだけ息をついた。


 短い時間だったが、知らないことをたくさん学んだ気がした。


 リビアも隣で紅茶を飲みながら、何かを考えているようだった。


 アルセス様はそんな彼女を見て、穏やかに口を開いた。


「リビア。何か気になることがあるのかい?」


 リビアは少し驚いたように顔を上げた。


 それから、ゆっくりと頷いた。


「……はい。お父様」


「聞かせてごらん」


 リビアは手元の冊子へ視線を落とした。


「私は、領地のお仕事について勉強したいと思っていました。でも、今日のお話を聞いて、思っていたよりずっと多くの人が関わっているんだと分かりました」


 アルセス様は静かに頷いた。


「そうだね」


「それで……」


 リビアは少しだけ言葉を探した。


「お父様は、何かを決めるとき、どうやって一番大切なことを選んでいらっしゃるのですか?」


 俺は思わず彼女の顔を見た。


 その質問は、今日の資料に書かれていた内容よりも、ずっと大きなものに思えた。


 アルセス様も、すぐには答えなかった。


 しばらくリビアを見つめたあと、穏やかに口を開いた。


「難しい質問だね」


 リビアは少しだけ肩をすくめた。


「……すみません」


「謝る必要はないよ。むしろ、よい質問だと思う」


 アルセス様はそう言って、紅茶のカップを置いた。


「私が大切にしているのは、ひとつの数字や、ひとりの意見だけで判断しないことだ」


 俺たちは静かに耳を傾けた。


「費用を抑えることは大切だ。だが、それだけを優先すれば、必要な整備が遅れるかもしれない。反対に、すべてをすぐに直そうとすれば、ほかの仕事に必要な資金が足りなくなることもある」


 アルセス様は落ち着いた声で続けた。


「だから、何が必要で、何を優先すべきなのかを考える。そのために、現場の状況を知る者たちの話を聞くんだ」


 リビアは真剣な表情で頷いた。


「……ひとつのことだけを見ていてはいけないんですね」


「そうだね。もちろん、どれほど考えても、すべての人が満足する答えを出せるとは限らない。それでも、できるだけ多くの情報を集め、責任を持って判断することが大切だと思っている」


 その言葉には、普段の穏やかな父親としての表情とは違う重みがあった。


 俺は改めて、アルセス様が背負っている責任の大きさを感じた。


 リビアも同じだったのだろう。


 彼女はしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。


「……私も、そういうことを考えられるようになりたいです」


 アルセス様は柔らかく微笑んだ。


「焦る必要はないよ、リビア。今は、知らないことを学ぶ時間だ。少しずつ理解を深めていけばいい」


 リビアは嬉しそうに頷いた。


「はい。ありがとうございます、お父様」


 その様子を見ていると、俺まで胸の奥が温かくなった。


     ◇


 説明が終わる頃には、窓の外の光が少しずつ薄くなっていた。


 アルセス様は冊子を閉じ、俺たちへ穏やかに微笑んだ。


「今日はここまでにしよう。初めて学ぶ内容としては、少し多かったかもしれないね」


「いえ、とても勉強になりました」


 リビアが答えると、アルセス様は嬉しそうに頷いた。


 俺も姿勢を正した。


「旦那様、ありがとうございました。屋敷の仕事と共通する考え方もあって、興味深かったです」


「それはよかった。セスも、自分の仕事とのつながりを考えながら学んでいくといい」


 アルセス様はそう言って、冊子へ視線を向けた。


「この二冊は、学習用として用意したものだから、二人で読んで構わない。ただし、内容を外部へ広めたり、実際の領地の状況だと誤解させたりしないようにね」


「はい」


「分かりました、お父様」


 俺たちは揃って答えた。


 父さんは冊子を丁寧にまとめ、俺たちへ渡してくれた。


「保管場所は、学習用の書棚にしておきましょう。読み終えたら元の場所へ戻すように」


「うん。ありがとう、父さん」


 俺が答えると、父さんは小さく頷いた。


 こうして、初めての領地管理についての勉強は終わった。


     ◇


 小書斎を出たあと、俺とリビアは屋敷の廊下を並んで歩いていた。


 窓の外では夕暮れの光が庭園を柔らかく照らし、木々の影が芝生の上へ長く伸びている。


 リビアは冊子を大切そうに抱えながら、少しだけ考え込んでいるようだった。


「……リビア?」


 俺が声をかけると、彼女は顔を上げた。


「どうしたの、セス?」


「いや、何か考えているみたいだったから」


 リビアは少しだけ微笑んだ。


「うん。今日のお父様のお話を思い出していたの」


「領地の仕事のこと?」


「そう。私ね、今までお父様のお仕事を尊敬していたけれど、具体的にどんなことを考えていらっしゃるのか、ちゃんと理解できていなかったんだなって思ったの」


 彼女は少しだけ視線を落とした。


「公爵家の娘なのに、知らないことがたくさんあるんだね」


 その声には、わずかな悔しさが混じっていた。


 俺は彼女の横顔を見つめ、少し考えた。


 リビアは真面目だ。


 自分に求められていることを理解しようと努力するし、何かを学ぶときも手を抜かない。


 だからこそ、知らないことがあると、自分がまだ足りないのではないかと考えてしまうのかもしれない。


「……でも、リビア」


「なあに?」


「今日、アルセス様も言っていたでしょう? 今は知らないことを学ぶ時間だって」


 リビアは少し驚いたように目を丸くした。


「うん」


「俺も、知らないことがたくさんあったよ。道を管理する仕事って、もっと単純なものだと思ってたから」


 俺は少し笑った。


「でも、今日のお話を聞いて、もっと知りたいと思ったんだ。リビアも、そうでしょう?」


 彼女はしばらく俺を見つめていた。


 やがて、ゆっくりと頷いた。


「……うん。もっと知りたい」


「それなら、一緒に勉強していこうよ」


 俺がそう言うと、リビアは柔らかく微笑んだ。


「……ありがとう、セス」


 彼女は少しだけ頬を染めた。


「私ね、セスが一緒にいてくれて、本当によかったと思ってる」


 俺は思わず顔を上げた。


「リビア?」


「だって、私が分からないことを一緒に考えてくれるでしょう? それに、私が少し落ち込んでいるときも、ちゃんと気づいてくれるから」


 彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「そういうところ、すごく好きだよ」


 俺は少し照れくさくなった。


「……ありがとう。俺も、リビアと一緒に学べて嬉しいよ」


 リビアは満足そうに頷いた。


 そのあと、彼女は少しだけ悪戯っぽく笑った。


「でもね、セス」


「何?」


「今日、ひとつだけ気になったことがあるの」


 俺は首を傾げた。


「何だろう?」


「お父様が、セスのことをすごく褒めていたでしょう?」


 俺は少し驚いた。


「そうだったかな?」


「うん。屋敷の仕事と領地の管理の共通点に気づいたとき、嬉しそうにしていらしたもの」


 リビアは少しだけ頬を膨らませた。


「……私も、セスのことを褒めたかったのに」


 俺は思わず笑ってしまった。


「リビア、そんなことを考えてたの?」


「だって、セスがすごいって思ったんだもの」


 彼女は少し照れくさそうに答えた。


 俺はそんなリビアを見つめ、胸の奥が温かくなるのを感じた。


「……ありがとう。リビアにそう思ってもらえるの、嬉しいよ」


 すると、彼女はぱっと表情を明るくした。


「本当?」


「もちろん」


 俺が頷くと、リビアは満足そうに微笑んだ。


     ◇


 夕食までの時間、俺たちは屋敷の小さな書斎で、今日受け取った冊子をもう一度開いていた。


 窓際の机には二冊の資料が並び、その横には白紙のノートが置かれている。


 ただし、俺たちは最初から内容をすべて書き写そうとはしなかった。


 学習用として渡された資料ではあるものの、何を記録してよいかは確認しておきたかったからだ。


 父さんへ尋ねたところ、教材の一般的な考え方や、自分たちが学んだことをノートへまとめるのは構わないと教えてもらえた。


 ただし、資料そのものを複製したり、外部へ持ち出したりすることは避けるように言われた。


 俺たちはその説明に従い、自分たちの言葉で学んだことを整理することにした。


「セス、最初は何から書こうか?」


 リビアが尋ねた。


 俺は少し考えた。


「今日、一番印象に残ったことからでいいんじゃないかな」


「一番印象に残ったこと?」


「うん。俺は、問題が起きたときに、すぐ答えを出すんじゃなくて、まず必要な情報を確認することが大切だってところかな」


 リビアは静かに頷いた。


「私は、道を使う人たちの暮らしまで考える必要があるってところが印象に残ったよ」


 俺は彼女の言葉を聞き、少しだけ微笑んだ。


「やっぱり、リビアは人の暮らしのことを考えるんだね」


「そうかな?」


「うん。今日の事例でも、村の人たちがどんなふうに道を使っているのか気にしていたでしょう?」


 リビアは少し照れくさそうに笑った。


「……そうだね。私は、そこが気になったんだと思う」


 彼女はノートへ視線を落とした。


「でも、セスが確認していたことも大切だと思ったよ。どんな道が使えるのか分からなければ、困っている人たちを助ける方法も考えられないもの」


 俺は静かに頷いた。


 俺たちは同じ資料を読んでいた。


 けれど、最初に気づいたことは違っていた。


 その違いが、何だか嬉しかった。


「……一緒に考えると、見えるものが増えるんだね」


 俺がそう呟くと、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「うん。私も、そう思う」


 彼女はペンを置き、少しだけ俺へ身体を寄せた。


「セス。これからも、私が気づかないことを教えてね」


「もちろん。でも、俺もリビアに教えてもらいたいことがたくさんあるよ」


 そう答えると、彼女は満足そうに頷いた。


「ふふっ。じゃあ、お互いに教え合おうね」


 俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。


 そのあと、再びノートへ向き直った。


 窓の外では、夕暮れの光が少しずつ薄くなっていく。


 今日、俺たちは領地の管理について、ほんの一部を学んだだけだ。


 実際の仕事には、もっと多くの人が関わり、もっと複雑な判断が必要になるのだろう。


 それでも、今日の経験は、俺にとって大切なものだった。


 執事として学んできたことが、別の仕事を理解する手がかりになる。


 リビアが大切にしている考え方を知ることで、俺自身の視野も広がっていく。


 そして、知らないことを一緒に学べる相手がいる。


 それが、こんなにも嬉しいことなのだと、改めて感じていた。


 俺は隣に座るリビアへ目を向けた。


 彼女は真剣な表情でノートを書いていたが、俺の視線に気づくと、柔らかく微笑んだ。


「どうしたの、セス?」


「……いや、何でもないよ」


「本当?」


 少しだけ首を傾げるリビアに、俺は笑った。


「リビアと一緒に勉強できて、よかったなって思っただけ」


 すると、彼女は一瞬目を丸くした。


 それから、頬を赤く染めながら嬉しそうに微笑んだ。


「……もう、セスったら」


 彼女はそっと俺の手へ触れた。


「そんなこと言われたら、もっと一緒に勉強したくなっちゃうよ」


 俺はその手を優しく握り返した。


「うん。これからも、一緒に学んでいこう」


 リビアは満足そうに頷いた。


 机の上には、まだ読み終えていない資料が残っている。


 知らない仕事も、知らない景色も、これから先にたくさんあるだろう。


 けれど、今はそれを急いで知ろうとは思わない。


 ひとつずつ学び、考え、必要なときには誰かの意見を聞く。


 そうして少しずつ、自分たちの未来を考えていけばいい。


 俺はリビアと並んで、静かな夕暮れの時間を過ごした。


 窓の外では、庭園の灯りがひとつ、またひとつと灯り始めていた。


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