第107話 公爵令嬢様は、俺にも頼ってほしいらしい
翌朝、パウリー公爵邸の使用人用通路には、いつもより少し慌ただしい空気が漂っていた。
窓の外では薄い雲が東から流れ、庭園の木々が朝の風に揺れている。厨房からは焼きたてのパンの香りが届き、食器を運ぶ使用人たちの足音が、磨き上げられた床に控えめに響いていた。
俺は学院へ向かう準備を終え、朝食前の短い時間を使って執事長室へ向かっていた。
昨日、父さんが確認していた古い街道図について、ひとつ聞いておきたいことがあったからだ。
もちろん、仕事で扱っている資料を勝手に見せてもらうつもりはない。図書室で街道について調べてみた結果、古い地図には作成された目的や時期が重要だと分かったので、一般に閲覧できる関連資料があるかだけ尋ねてみたかった。
執事長室の前まで来たところで、中から複数の声が聞こえた。
「……承知いたしました。ただ、その場合は午後の確認を先に済ませる必要があります」
「では、私の方から担当者へ伝えておきます。午前中のうちに返答をいただけるようにいたします」
どうやら、父さんは仕事の打ち合わせをしているらしい。
俺は扉の前で足を止め、少し考えた。
(今は忙しそうだな。急ぎの話じゃないし、あとで聞こう)
そう判断して踵を返そうとしたところで、扉が開いた。
中から出てきたのは、書類を抱えた年配の使用人だった。彼は俺の姿に気づくと軽く会釈し、そのまま廊下の奥へ歩いていった。
続いて父さんが顔を出した。
「セス。何か用事か?」
「おはよう、父さん。昨日の地図について少し聞きたいことがあったんだけど、忙しそうだから、またあとで来るよ」
俺がそう答えると、父さんは廊下の時計へ目を向けた。
「朝食までなら、少し時間がある。急ぎの相談でなければ、今でも構わないぞ」
「本当に? 仕事の邪魔にならない?」
「必要なら私からそう伝える。今は大丈夫だ」
その言葉を聞いて、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
以前の俺なら、相手が忙しそうだと思った時点で、相談すること自体を諦めていたかもしれない。けれど、父さんはいつも、必要なことは確認するように教えてくれている。
「ありがとう。それじゃあ、少しだけ」
俺は執事長室へ入り、父さんの机の前で足を止めた。
昨日広げられていた古い地図は、すでに専用の保管筒へ収められている。代わりに机の上には、資料の所在をまとめた一覧表と、いくつかの連絡書類が置かれていた。
「昨日、学院の図書室で街道について調べたんだ。地図が作られた目的によって、書かれている道も違うって分かったから、もう少し詳しく知りたくなって」
「なるほど。それで、古い街道図に関する資料を探したいということか」
「うん。ただ、仕事の資料を勝手に見せてもらうわけにはいかないから、一般に読めるものがあるか聞いてみたかったんだ」
父さんは俺の説明を最後まで聞き、静かに頷いた。
「よい判断だ。公爵家の保管資料には、学習目的で閲覧できるものもあるが、業務上の確認が必要なものもある。昨日の地図については、まだ整理の途中だから、今すぐ閲覧できるとは約束できない」
「分かった。それなら、学院の図書室で調べられるものから読んでみるよ」
「それがよいだろう。必要であれば、後日、旦那様へ相談することもできる」
俺は礼を伝え、部屋を出ようとした。
そのとき、父さんがふと思い出したように声をかけてきた。
「そうだ、セス。今日は学院で何か予定があるのか?」
「いつもの授業のあと、少し図書室へ寄るかもしれないけど、まだ決めていないよ」
「そうか。ならば、帰邸後に少し時間を取れるようにしておきなさい」
俺は思わず首を傾げた。
「何か仕事があるの?」
「仕事というほどではない。お前に確認しておきたいことがある」
父さんはそう言って、机の上の書類を整えた。
「ただし、急ぐ必要はない。学院での予定を優先して構わないから、帰ってから声をかけなさい」
「うん。分かった」
俺は頷き、執事長室をあとにした。
廊下へ出てからも、父さんの言葉が少し気になっていた。
確認しておきたいこと。
仕事ではないと言っていたけれど、何の話だろう。
(……まあ、帰ってから聞けば分かるか)
俺はそう考え、朝食の準備が進む食堂へ向かった。
◇
朝食の席では、リビアが窓際の椅子に座り、何かを書き留めていた。
銀青色の髪が朝の光を受けて柔らかく輝き、手元の紙には細かな文字が並んでいる。俺が近づくと、彼女はすぐに顔を上げ、嬉しそうに微笑んだ。
「おはよう、セス。今日は少し早いね」
「おはよう、リビア。父さんのところへ行っていたんだ」
「昨日の地図のこと?」
「うん。一般に読める資料があるか聞いてみたんだけど、まずは学院の図書室で調べることにしたよ」
俺がそう答えると、リビアは満足そうに頷いた。
「そっか。じゃあ、また一緒に本を探せるね」
「うん。リビアも調べたいことがあるんでしょう?」
「あるよ。昨日読んだ本に、街道沿いの町について書いてあったから、今度はそこで暮らしている人たちのことを調べてみたいの」
彼女は手元の紙を少し持ち上げた。
そこには、昨日の読書で気になったことがいくつか書かれていた。
町の市場で売られているもの。
街道を使って運ばれる物資。
旅人が利用する宿や休憩所。
そして、道の整備に関わる人たちの仕事。
「ずいぶん詳しく書いているんだね」
俺が感心すると、リビアは少し照れくさそうに笑った。
「昨日、セスとお話ししていたら、いろいろ気になっちゃって。忘れないうちに書いておこうと思ったの」
「いいと思う。俺も、気になったことをノートにまとめてみようかな」
「うん。一緒にやろう?」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
俺も頷き、席へ着いた。
朝食が運ばれてくると、リビアは紙を丁寧に畳んで脇へ置いた。
しばらくは今日の授業や学院の話をしていたが、ふと彼女が俺の顔を覗き込んできた。
「……セス、何か考えごと?」
俺は少し驚いた。
「え? どうして?」
「さっきから、少しだけ気になっているような顔をしていたから」
リビアは心配そうに眉を下げた。
「何かあったの?」
俺は一瞬迷ったあと、父さんから帰邸後に話があると言われたことを伝えた。
すると、リビアは少し考え込むように視線を落とした。
「グレイヴが、セスに確認したいこと……」
「うん。でも、急ぎじゃないみたいだから、そんなに心配することじゃないと思う」
「そうだね。グレイヴなら、大切なことがあればちゃんと説明してくれると思うし」
彼女はそう言って微笑んだ。
けれど、そのあと少しだけ真剣な表情になった。
「セス。もし何か困ることがあったら、私にも話してね」
俺は彼女の顔を見つめた。
「リビアにも?」
「うん。もちろん、私に話せないこともあると思うけど……セスが一人で悩んでいるなら、少しでも力になりたいなって」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
リビアは以前から、俺のことを気にかけてくれている。
けれど、最近はそれだけではなく、俺が何を考えているのか、どんなことを望んでいるのかを、前よりもずっと丁寧に聞こうとしてくれる。
俺は少しだけ照れくさくなりながら頷いた。
「……ありがとう。何かあったら、ちゃんと話すよ」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「約束だよ?」
「うん。約束する」
俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。
◇
学院では、午前中に魔術の基礎理論についての授業が行われた。
今日の内容は、魔力の出力を一定に保つための考え方だった。
来月には、エレナ先生の監督のもとで個別の属性実技が予定されている。実技では水・土・風の三属性から先生が指定する二つを使い、低出力から中出力へ移る際にも、決められた停止時間を守る必要がある。
そのため、最近の授業では、魔力を強くすることよりも、決められた範囲で安定して扱うことが重視されていた。
「魔力の制御において重要なのは、最大出力の高さだけではありません。求められた量を、求められた時間だけ維持できることも、大切な技術です」
エレナ先生はそう説明し、黒板へ簡単な図を描いた。
低出力で一定時間維持する。
いったん停止する。
中出力へ移行する。
再び停止し、低出力へ戻す。
最後に完全停止する。
図にすると単純に見えるものの、実際には魔力の流れを細かく調整する必要がある。
俺はノートへ図を書き写しながら、以前の訓練を思い出した。
魔力量が多ければ、それだけで優れた制御ができるわけではない。
必要以上の魔力を流せば、かえって不安定になることもある。
特に複数の属性を扱える俺の場合、ひとつの属性へ意識を集中させることも大切だった。
授業の途中、エレナ先生は生徒たちへ質問を投げかけた。
「では、低出力から中出力へ移る際、急激に魔力を増やすことには、どのような問題があるでしょうか?」
何人かの生徒が手を上げた。
ガレスは少し考えながら、勢いよく答えた。
「魔力が安定しなくなって、狙った範囲より強く出てしまう可能性があります!」
「その通りです。特に周囲に人がいる場合、意図しない出力の変化は危険につながります」
エレナ先生は頷き、続いて別の生徒へ視線を向けた。
エミリアが静かに手を上げる。
「停止時間を守らない場合、前の魔力の流れが残ったまま次の操作へ移ることになり、正確な制御が難しくなると思います」
「よい指摘ですね。停止を確認することは、次の操作を安全に行うためにも必要です」
俺は二人の答えを聞きながら、ノートへ補足を書き加えた。
魔力の出力だけでなく、停止の確認も重要。
その考え方は、日常の仕事にも少し似ている気がした。
何かを始める前に、前の作業が終わっているか確認する。
次へ進むために必要な条件を整える。
急いで結果を出そうとするより、ひとつずつ確かめることが大切なのだ。
授業が終わると、エレナ先生は改めて来月の実技について説明した。
「なお、個別実技の詳しい日程と順番は、後日お知らせします。今の段階で、勝手に高出力の練習や複数属性の組み合わせを行わないようにしてください」
教室のあちこちから返事が上がった。
俺も頷き、ノートを閉じた。
◇
昼休み、俺たちはいつものように食堂で顔を合わせた。
ガレスは午前の授業について、少し困ったような顔をしていた。
「いやあ、魔力を一定に保つのって、思ったより難しいんだよな。俺、どうしても力を入れすぎちまうんだ」
彼はそう言って、手元のパンを見つめた。
「剣なら、力を入れるところと抜くところを意識できるんだけど、魔術だと感覚が違うんだよ」
サザリーは少し考えたあと、穏やかに答えた。
「魔力の制御は、身体の動きと完全に同じではないからね。ただ、一定の状態を保つという点では、共通する部分もあるかもしれない」
「そうかな?」
「例えば、剣を構えたまま姿勢を崩さないようにする場合、必要以上に力を入れ続けるわけではないだろう?」
ガレスは少し考え込んだ。
「……ああ、確かに。力を入れすぎると、逆に動きにくくなるな」
「魔術でも、必要な量を意識することが大切なのかもしれないね」
サザリーの説明に、ガレスは納得したように頷いた。
その隣では、エミリアが静かに話を聞いていた。
「私も、細かい制御をするときは、出力を増やすより、変化を小さくすることを意識しています」
彼女は落ち着いた声で続けた。
「ただ、実技では先生の指示に合わせる必要があるので、普段と同じ感覚でできるかは分かりません」
俺はその言葉に頷いた。
「そうだね。来月の実技は、決められた手順を守ることが大切だと思う」
ガレスは少しだけ笑った。
「クルセスは余裕そうだよな」
「そんなことないよ。俺も、先生の指示に合わせて正確にできるようにしたいと思ってる」
そう答えると、ガレスは少し意外そうに目を丸くした。
「お前でも、そういうこと考えるんだな」
「もちろん。魔力をたくさん使えることと、必要な量を正確に扱うことは別だから」
俺が説明すると、サザリーが小さく頷いた。
「それは大切な考え方だね。特に今回の実技は、強さを競うものではないから」
リビアも穏やかに微笑んだ。
「私も、セスのそういうところは見習いたいな」
俺は少し照れくさくなった。
「リビアだって、結界魔法の制御はすごく丁寧だと思うけど」
「ありがとう。でも、私もまだ勉強中だよ」
彼女はそう言って笑った。
そのやり取りを見ていたガレスが、少しだけ口元を緩める。
「……お二人とも、相変わらず仲がいいですね」
リビアは一瞬きょとんとしたあと、頬を染めた。
「ガレス、急にどうしたの?」
「いや、何でもありません!」
慌てて姿勢を正すガレスを見て、エミリアが小さく笑った。
サザリーも肩を揺らしている。
俺は何となく顔が熱くなったものの、嫌な気持ちはしなかった。
こうして友人たちと笑い合える時間が、最近はとても大切に思える。
◇
午後の授業が終わると、俺とリビアは少しだけ図書室へ寄ることにした。
昨日借りた本はまだ読み終えていないため、今日は新しい本を探すというより、関連する資料がどの棚にあるのか確認するつもりだった。
図書室へ入ると、受付の近くでマリエッタ・クロード先輩が職員と話している姿が見えた。
俺たちに気づいた先輩は、軽く会釈してくれた。
「こんにちは、シルフィール君、パウリーさん」
「こんにちは、マリエッタ先輩」
「こんにちは。今日は何か調べものですか?」
リビアが尋ねると、先輩は少しだけ微笑んだ。
「ええ。昨日整理した内容について、確認しておきたいことがあったの。まだ正式な調査を始める段階ではないけれど、相談するための資料をまとめているところよ」
俺は静かに頷いた。
「そうなんですね。何かお手伝いできることはありますか?」
先輩は少し考えたあと、穏やかに首を振った。
「ありがとう。でも、今は大丈夫。まずは担当の先生と図書室の責任者に相談する必要があるから、勝手に作業を増やすわけにはいかないの」
「分かりました」
俺が答えると、先輩は柔らかく微笑んだ。
「それに、二人には自分たちの勉強もあるでしょう? 昨日の相談に付き合ってくれただけでも助かったわ」
リビアは少しだけ首を傾げた。
「でも、もし正式に何か決まったら、私たちにもできることがあるかもしれませんよね」
「そうね。そのときは、必要な範囲で相談するかもしれないわ」
先輩はそう言って、手元の書類を整えた。
「ただし、まだ何も決まっていないから、今はそれぞれの勉強を優先してちょうだい」
俺たちは頷き、先輩へ礼を伝えた。
そのあと、地理と歴史の書棚を少し確認し、必要な本の題名をノートへ書き留めた。
リビアは地域ごとの暮らしについて書かれた本を見つけ、次に読む候補として記録していた。
俺も古い街道に関する資料をいくつか見つけたが、今日は借りずに題名だけ控えることにした。
昨日借りた本を読み終えてから、必要なものを選びたいと思ったからだ。
◇
屋敷へ戻ったのは、夕方の少し前だった。
玄関で父さんに迎えられ、俺たちはそれぞれ荷物を預けた。
「お帰り、セス。オリビア様も、お疲れさまでございました」
「ただいま、父さん」
「ただいま戻りました、グレイヴ」
リビアが微笑んで答えると、父さんは穏やかに頷いた。
それから、俺へ視線を向ける。
「セス。今朝話した件だが、少し時間を取れるか?」
「うん。大丈夫だよ」
俺が答えると、リビアが少しだけ心配そうに顔を向けた。
その様子に気づいた父さんは、すぐに説明を加えた。
「ご心配には及びません、オリビア様。セスの今後の学習について、少し確認したいことがあるだけです」
「そうなんですね」
リビアは安心したように微笑んだ。
「それなら、セス。お話が終わったら、また一緒に本を読もうね」
「うん。分かった」
俺は彼女へ頷き、父さんと一緒に執事長室へ向かった。
◇
執事長室へ入ると、父さんは机の上から一枚の書類を取り出した。
そこには、俺が以前提出した進路希望調査に関する確認事項がまとめられていた。
「これは……」
「学院から提出された進路希望調査について、保護者として確認しておきたいことがあってな」
父さんは書類を机の上へ置き、俺へ椅子を勧めた。
俺は少し緊張しながら腰を下ろした。
進路希望調査には、将来も執事の仕事を続けたいという希望を書いた。
ただし、リビアとの婚約や、公爵家での今後の立場については、まだ具体的に決まっていないことも記してある。
父さんはその内容を確認したうえで、俺へ穏やかに問いかけた。
「セス。お前は、将来も執事の仕事を続けたいと考えているのだな?」
「うん。今の仕事が好きだし、もっと学びたいと思ってる」
俺は少し考えながら続けた。
「でも、リビアと結婚したあとのことは、まだよく分からないんだ。今と同じように働けるのかも分からないし、どんな役割が必要になるのかも、ちゃんと考えなきゃいけないと思ってる」
父さんは静かに頷いた。
「そうだな。そこは、今すぐ答えを出せることではないだろう」
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
父さんは続けた。
「ただ、お前が自分の希望を持っていることは、よいことだと思う。執事の仕事を続けたいという気持ちも、学びたいという気持ちも、大切にしてよい」
「……うん」
「そのうえで、ひとつ確認しておきたい」
父さんは俺の顔をまっすぐ見つめた。
「お前は、自分の将来について、オリビア様とどこまで話している?」
俺は少し考え込んだ。
リビアとは、これからも一緒にいたいと話している。
彼女が領地のことを学びたいと思っていることも知っている。
俺が執事の仕事を続けたいと思っていることも、伝えてある。
けれど、具体的にどんな暮らしをしたいのか、どんな役割を担いたいのかについては、まだ十分に話せていない。
「……まだ、そこまでは話せていないと思う」
俺が正直に答えると、父さんは静かに頷いた。
「それなら、これから少しずつ話していけばよい」
「でも、まだ決まっていないことばかりなんだ」
「決まっていないからこそ、話す意味がある」
父さんは落ち着いた声で続けた。
「お前一人で考えても分からないことはある。オリビア様にも、まだ答えが出ていないことがあるだろう。だからこそ、お互いの希望を知り、必要なことを学びながら考えていけばよいのだ」
俺はその言葉を聞き、しばらく黙っていた。
リビアは、俺にも頼ってほしいと言ってくれた。
今朝も、何か困ることがあったら話してほしいと伝えてくれた。
けれど、俺はまだ、自分の将来について彼女へ相談することに少しだけ迷いがあった。
彼女の負担にならないだろうか。
俺の希望を伝えることで、彼女を困らせてしまわないだろうか。
そんなことを考えてしまう。
「……父さん」
「何だ?」
「俺、リビアに自分の希望を話すことはできるようになってきたと思う。でも、困っていることを相談するのは、まだ少し苦手かもしれない」
父さんはすぐには答えなかった。
しばらく俺を見つめたあと、穏やかに口を開いた。
「それに気づけたのなら、ひとつ前へ進んだということだ」
「そうなのかな?」
「ああ。自分が何を苦手としているのか分からなければ、改善することも難しいからな」
父さんは少しだけ微笑んだ。
「セス。人に頼るというのは、何もかも任せることではない。自分が考えていることを伝え、相手の考えを聞くことも、立派な相談だ」
俺は静かに頷いた。
「……うん」
「お前は、オリビア様を大切に思っているのだろう?」
「もちろん」
「ならば、オリビア様がお前を大切に思ってくださっていることも、同じように受け止めなさい」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。
父さんは穏やかな表情のまま続けた。
「お前が相手の力になりたいと思うように、相手もお前の力になりたいと思っているかもしれない。その気持ちを受け取ることも、大切なのだ」
俺はしばらく黙っていた。
胸の奥に、ゆっくりと温かいものが広がっていく。
リビアは何度も、俺に頼ってほしいと言ってくれていた。
俺はその言葉を嬉しいと思いながらも、どこかで遠慮していたのかもしれない。
「……ありがとう、父さん」
俺がそう伝えると、父さんは小さく頷いた。
「焦る必要はない。少しずつでよい」
俺はもう一度頷き、執事長室をあとにした。
◇
談話室へ向かうと、リビアが窓際の長椅子に座って本を読んでいた。
俺の足音に気づいた彼女は、すぐに顔を上げた。
「セス、お話は終わった?」
「うん。少し、将来のことについて父さんと話してきたよ」
俺がそう答えると、リビアは本を閉じ、隣の席を空けてくれた。
「そっか。よかったら、聞かせてくれる?」
俺は彼女の隣へ座った。
窓の外では、夕暮れの光が庭園を柔らかく照らしている。
少し離れた場所には茶器が用意されており、温かな紅茶の香りが漂っていた。
俺はしばらく考えたあと、ゆっくりと口を開いた。
「……リビア。俺、将来も執事の仕事を続けたいって思ってるけど、結婚したあとのことは、まだよく分からないんだ」
リビアは静かに頷いた。
「うん。それは前にも話してくれたよね」
「そう。でも、今までは、自分で考えて答えを出さなきゃいけないと思ってたんだ」
俺は少しだけ視線を落とした。
「リビアに相談したら、困らせちゃうんじゃないかって」
その言葉に、リビアは少し驚いたように目を丸くした。
「……私が?」
「うん。リビアにも、考えなきゃいけないことがたくさんあるでしょう? だから、俺のことで余計に悩ませたくないと思ってた」
俺が正直に伝えると、リビアはしばらく黙っていた。
やがて、彼女はそっと俺の手へ触れた。
「セス」
その声は、いつもより少しだけ真剣だった。
「私ね、セスが困っていることを話してくれたら、嬉しいと思う」
俺は思わず彼女の顔を見つめた。
「……嬉しい?」
「うん。だって、セスが私を頼ってくれたってことだから」
リビアは少しだけ頬を染めた。
「もちろん、私にできないこともあると思う。でも、一緒に考えることならできるでしょう?」
俺は静かに頷いた。
彼女は続けた。
「セスは、いつも私のことを大切にしてくれるよね。私が困っていたら助けてくれるし、何かしたいことがあれば応援してくれる」
「うん。リビアの力になりたいから」
「ありがとう。私もね、同じ気持ちなんだよ」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
リビアは俺の手を優しく握った。
「私も、セスの力になりたいの。だから、困っていることがあったら、ちゃんと教えてほしいな」
俺はしばらく彼女を見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……うん。これからは、ちゃんと相談するよ」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「約束?」
「うん。約束する」
俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。
しばらくして、リビアが少しだけ首を傾げた。
「じゃあ、さっそく聞いてもいい?」
「何を?」
「セスは、将来どんなふうに暮らしたい?」
俺は少し驚いた。
どんなふうに暮らしたいか。
それは、今まであまり考えたことのない質問だった。
執事として働くこと。
リビアを支えること。
必要なことを学ぶこと。
そうした目標はある。
けれど、日々の暮らしそのものについては、まだ具体的に考えられていなかった。
「……難しい質問だね」
俺がそう答えると、リビアは少しだけ笑った。
「そうだよね。私も、まだ全部は分からないもの」
彼女は窓の外へ視線を向けた。
「でもね、私は、セスと一緒に朝ごはんを食べたり、本を読んだり、散歩したり……そういう時間を大切にしたいな」
俺は彼女の横顔を見つめた。
リビアは少し照れくさそうに続けた。
「もちろん、お仕事も勉強も大切だけど、それだけじゃなくて、二人で過ごす時間もちゃんと作りたいの」
その言葉に、俺はゆっくりと頷いた。
「……俺も、そう思う」
リビアは嬉しそうに顔を向けた。
「本当?」
「うん。リビアと一緒にいる時間は、俺にとっても大切だから」
俺は少し考えながら続けた。
「それに、昨日みたいに一緒に本を読んだり、知らないことを調べたりするのも楽しいと思う」
リビアは満足そうに微笑んだ。
「ふふっ。じゃあ、そういう時間も、これから大切にしていこうね」
「うん」
俺たちは手をつないだまま、しばらく窓の外を眺めていた。
まだ、将来のことは何も決まっていない。
どんな仕事をするのか。
どんな場所で暮らすのか。
どんな毎日を過ごすのか。
考えなければならないことは、たくさんある。
けれど、今日ひとつ分かったことがある。
俺は、全部を一人で考えなくてもいい。
リビアと一緒に考えてもいいのだ。
そのことが、今はとても嬉しかった。
俺は隣に座る彼女へ目を向けた。
「リビア」
「なあに、セス?」
「これからも、いろんなことを相談していい?」
リビアは少し驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「もちろんだよ。何度でも相談してね」
俺は静かに頷いた。
「ありがとう」
彼女は少しだけ頬を染め、俺の肩へそっと寄りかかった。
「……私も、セスにいっぱい相談するからね」
「うん。俺も、できることは一緒に考えるよ」
そう答えると、リビアは満足そうに目を細めた。
窓の外では、夕暮れの光が少しずつ薄くなっていく。
今日も、特別に大きな出来事があったわけではない。
けれど、俺にとっては大切な一日だった。
誰かを頼ること。
自分の気持ちを伝えること。
そして、相手の気持ちを受け取ること。
それらは、今まで俺が少し苦手としていたことかもしれない。
けれど、リビアが隣にいてくれるなら、少しずつ変わっていける気がする。
俺は彼女の手を優しく握り返した。
リビアは何も言わず、ただ嬉しそうに微笑んでくれた。
その笑顔を見ているうちに、俺も自然と笑みを浮かべていた。
これから先、どんなことが待っているのかは分からない。
それでも、二人で話し合いながら進んでいけば、きっと大丈夫だと思う。
そんな気持ちを胸に、俺たちは静かな夕暮れの時間を過ごした。




