第106話 公爵令嬢様は、俺の知らない景色も一緒に見たいらしい
朝の執事長室には、いつもと少し違うものが置かれていた。
磨き上げられた机の上に広がっているのは、屋敷の予定表でも来客の記録でもなく、厚手の紙に描かれた一枚の地図だった。四隅には小さな重しが置かれ、窓から入り込む朝の風に紙が浮き上がらないようになっている。
俺が執事長室へ入ったとき、父さんはその地図の端を押さえながら、別の書類と見比べていた。
「おはよう、父さん。今日は何か特別な仕事があるの?」
声をかけると、グレイヴ・シルフィールは顔を上げ、いつもの落ち着いた表情で俺を迎えてくれた。
「おはよう、セス。特別というほどではないが、旦那様から古い資料の所在を確認するよう申しつかっていてな。少し前の領地に関する記録を探しているところだ」
「領地の記録?」
「ああ。公爵家が保管している古い街道図と、現在使用している地図の照合だ。もっとも、私が直接すべてを調べるわけではない。担当者へ必要な資料を伝えるため、まず保管記録を確認している」
父さんはそう説明し、机の上に置かれた地図を指さした。
描かれているのは、パウリー公爵領の一部らしい。大きな街道や川の位置は分かるものの、俺が普段目にしている地図とは描き方が違っており、道の太さや町の表記にも見慣れないものが多かった。
特に目を引いたのは、山あいを抜ける一本の細い道だった。
現在の街道とは異なる場所を通っているようで、途中には小さな橋を示す印も描かれている。
「……この道、今の地図にはないね」
思わずそう呟くと、父さんは俺の視線を追った。
「よく気づいたな。昔は使われていた道らしいが、現在の通行状況については私も把握していない。地図が作られた時期も、まだ確認している途中だ」
「そうなんだ。昔は、こっちを通っていたのかな」
「その可能性はある。ただ、古い地図に描かれているからといって、実際に主要な街道として使われていたとは限らない。作成目的によって、記載される道も異なるからな」
その説明を聞いて、俺は昨日の歴史の授業を思い出した。
同じ出来事でも、誰が何のために記録したかによって、書かれる内容が違う。
地図も同じなのだろう。
土地の形を正確に示すためのものと、旅人が道を選ぶためのものでは、必要な情報が違うはずだ。
「地図にも、いろいろな種類があるんだね」
「そうだな。道路の管理に使うものもあれば、土地の境界を示すもの、物資の運搬経路を確認するためのものもある。見た目が似ていても、用途が違えば読み取れることも変わる」
父さんはそこまで説明すると、俺の顔を見て少しだけ笑った。
「興味があるのか?」
「うん。少し前から、昔の道や町のことをもっと知りたいと思っていたんだ。今の地図と比べると、いろんなことが分かりそうで」
俺はもう一度、古い地図へ目を落とした。
紙の色は年月を経て淡い黄褐色に変わっている。細かな文字の一部は薄れているものの、山の稜線や川の曲がり方は丁寧に描かれており、作成した人が何を伝えようとしていたのか、少しだけ想像できる気がした。
(……この道を、昔はどんな人たちが歩いていたんだろう)
荷物を運ぶ商人だったのか、それとも別の町へ向かう旅人だったのか。
俺は生まれ育った場所から離れて、今は公爵家で暮らしている。
けれど、まだ知らない土地は数え切れないほどある。
学院で読んだ北方の旅行記も、リビアと一緒に雪を見たいと話したことも、地図を眺めているうちに自然と思い出された。
「セス」
父さんに呼ばれ、俺は顔を上げた。
「もうすぐ朝食の時間だ。続きを見たい気持ちは分かるが、学院へ遅れてはいけないぞ」
「あっ、ごめん。つい夢中になっちゃった」
慌てて姿勢を正すと、父さんは小さく笑った。
「謝ることではない。何かに興味を持つのはよいことだ。ただし、今は自分の予定も大切にしなさい」
「うん。ありがとう、父さん」
俺は地図を傷つけないよう机から離れ、執事長室をあとにした。
廊下へ出てからも、頭の中にはあの細い道が残っていた。
今は使われていないかもしれない道。
昔の誰かが、確かにそこを通っていたかもしれない道。
そんなものが、少し気になって仕方なかった。
◇
朝食の席では、リビアがいつものように俺を待っていた。
銀青色の髪を肩の後ろへ流した彼女は、窓から差し込む光を受けながら、手元の小さな冊子を読んでいる。俺が近づくとすぐに顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「おはよう、セス。今日は少し早く起きたの?」
「おはよう、リビア。うん。父さんのところへ行っていたんだけど、そこで面白いものを見せてもらったんだ」
俺が席へ着くと、リビアは興味深そうに冊子を閉じた。
「面白いもの?」
「昔の公爵領の地図だよ。父さんが仕事で確認していたんだけど、今とは違う場所に道が描かれていてね。どんな道だったのか、少し気になっちゃって」
俺は見た範囲で地図の特徴を説明した。
山の間を通る細い道があったこと。
古い橋らしい印が描かれていたこと。
ただし、その道が実際にどのように使われていたのかは分からないこと。
リビアは話を聞くうちに、目を輝かせ始めた。
「それ、私も見てみたいな。お父様が昔の資料を確認なさっているのは知っていたけれど、そんな地図もあったんだね」
「うん。でも、仕事で使っているものだから、勝手に持ち出したりはできないけどね」
「もちろん。それなら、今度お父様にお聞きしてみようかな。私も領地について勉強したいってお話ししているし、見せていただける資料があるかもしれないもの」
そう言ったあと、リビアは少しだけ考え込むように視線を落とした。
「……でも、地図を読むのって、思っているより難しそうだね」
「そうかもしれない。父さんも、何のために作られた地図なのか確認する必要があるって言ってたよ」
俺が答えると、リビアは静かに頷いた。
「昨日、図書室でお話ししたことにも似ているね。書かれていることだけじゃなくて、何を伝えるためのものなのか考える必要があるんだ」
「俺もそう思ったよ。地図に道が描いてあっても、今も通れるとは限らないしね」
リビアはしばらく俺を見つめていたが、やがて嬉しそうに微笑んだ。
「セス、最近いろんなことに興味を持っているね」
その言葉に、俺は少し照れくさくなった。
「そうかな?」
「うん。魔術も剣術も好きでしょう? 本のことも、昔の町のことも、最近は楽しそうに話してくれるから」
リビアはそこで言葉を切り、少しだけ頬を染めた。
「私ね、そういうセスの話を聞くの、すごく好きなんだ」
俺は思わず彼女の顔を見つめた。
リビアは普段から、俺の話をよく聞いてくれる。
けれど、改めてそう言われると、胸の奥がくすぐったくなる。
「……ありがとう。俺も、リビアが興味を持っていることを聞くのが好きだよ」
そう答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これからもいっぱいお話ししようね」
「うん。約束するよ」
朝食が運ばれてくると、俺たちは一度会話を切り上げた。
けれど、食事の間もリビアは時折、古い地図について質問してきた。
俺が分かる範囲で答えると、彼女はそのたびに楽しそうな表情を見せる。
その様子を見ているうちに、俺も少しずつ嬉しくなっていった。
◇
学院へ向かう馬車の中では、リビアが膝の上に置いた冊子を開いていた。
表紙には、学院の図書室で利用できる資料の種類について簡単な説明が書かれている。どうやら昨日、図書室から持ち帰ってよい案内冊子を受け取っていたらしい。
「リビア、それは?」
「図書室の利用案内だよ。昨日、クラリスさんからお話を聞いたあと、受付に置いてあったものをいただいたの」
彼女はそう説明し、冊子の一部を俺へ見せてくれた。
一般の閲覧席で読める本。
貸し出しができる資料。
そして、利用前に受付で確認する必要がある資料。
それぞれの説明が短くまとめられている。
「これを見ると、資料閲覧室についても少し書いてあるんだね」
「うん。でも、初めて利用する人が、この冊子をどこで手に取るのかは別の問題だよね」
リビアはそう言って、ページの端へ指を添えた。
「昨日の相談で、私はそこが気になったの。必要な情報がどこかに書いてあっても、困っている人がその情報を見つけられなかったら、案内として十分なのかなって」
俺は彼女の言葉を考えながら、冊子へ目を落とした。
確かに、受付に置かれている冊子なら、受付まで来た人は手に取れるかもしれない。
けれど、受付へ行く必要があること自体を知らない人には、届かない可能性がある。
ただし、実際にどれほどの人が困っているのかは、まだ分からない。
「……そこも、マリエッタ先輩たちが確認することになるのかな」
「そうだと思う。でも、まだ調査の許可が出ていないから、私たちが勝手に何かするわけにはいかないよね」
リビアは冊子を閉じ、窓の外へ目を向けた。
「だから今日は、まず普通に授業を受けて、それから自分たちの勉強をしようと思ってるの」
俺はその言葉に頷いた。
「うん。俺も、今日は少し調べたいことがあるんだ」
リビアがすぐに顔を向けた。
「もしかして、昔の道のこと?」
「そう。学院の図書室に、古い街道について書かれた本があるかもしれないと思って」
そう答えると、彼女はぱっと表情を明るくした。
「それなら、放課後に一緒に探してみない?」
俺は少し驚いた。
「いいの? リビアも調べたいことがあるんじゃない?」
「あるよ。でも、セスが興味を持ったことを一緒に調べるのも楽しそうだもの。それに、私も昔の街道について知りたいな」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「もちろん、図書室で探せる範囲でね」
「……うん。それなら、一緒に行こう」
俺が答えると、リビアは満足そうに頷いた。
馬車は穏やかに揺れながら、学院へ向かって進んでいった。
◇
午前の授業では、地理に関する講義が行われた。
偶然にも、今日の内容は街道と物資の移動についてだった。
先生は黒板へ大きな地図を掲げ、川や山地が人の移動に与える影響を説明している。
「街道は、二つの地点を最短距離で結べばよいというものではありません。地形、季節、橋の有無、荷物の種類、通行する人々の目的によって、適切な経路は変わります」
その説明を聞いた瞬間、俺は今朝の地図を思い出した。
山の間を抜ける細い道。
現在の地図には見当たらない橋の印。
もし、その道が昔の主要な通路だったのなら、なぜ使われなくなったのだろう。
川の流れが変わったのかもしれないし、別の場所に新しい橋が造られたのかもしれない。
けれど、今の俺には確かめる材料がない。
(……知らないことがあると、もっと知りたくなるんだな)
俺はノートへ視線を落とし、先生の説明を書き留めた。
地形と街道の関係。
物資を運ぶために必要な条件。
そして、通行の安全を確保するための管理。
以前の共同演習でも、俺たちは荷物を運ぶ経路を選んだ。
東側には荷物の重量に関する制限があり、俺たちは西側の経路を選択した。
あのときも、単純に距離だけで判断したわけではない。
荷物の状態や通行条件を確認し、班全体で判断したのだ。
そう考えると、今日の授業は決して遠い世界の話ではなかった。
先生が説明を終えると、教室のあちこちから質問が上がった。
ガレスは荷馬車が通れる道の幅について尋ね、サザリーは地図の作成年代による違いについて質問していた。
俺も少し迷ったあと、手を上げた。
「先生。古い地図に描かれている道が、現在の地図には載っていない場合、どんな理由が考えられますか?」
先生は俺へ顔を向け、少し考えた。
「よい質問ですね。理由はいくつも考えられます。新しい道が整備された場合もあれば、橋が失われたり、地形が変わったりした場合もあります。また、地図の作成目的が異なるために、片方には記載されていないということもあります」
俺は静かに頷いた。
「では、地図だけでは理由を決められないんですね」
「その通りです。古い道について調べるなら、作成年代の分かる地図だけでなく、道路の管理記録や、その地域について書かれた資料を確認する必要があるでしょう」
先生は黒板の地図へ目を向けた。
「ただし、古い資料は必ずしも完全ではありません。記録が残っていないこともありますし、記載内容が現在の地形と一致しないこともあります。だからこそ、複数の資料を比較することが大切なのです」
俺は礼を伝え、席へ座った。
隣ではリビアが小さく微笑んでいる。
俺が顔を向けると、彼女は声を抑えて囁いた。
「セス、聞いてよかったね」
「うん。調べるときの手がかりが分かったよ」
リビアは嬉しそうに頷き、ノートへ視線を戻した。
その横顔を見ているうちに、俺は少しだけ不思議な気持ちになった。
以前なら、授業で質問することにそれほど迷わなかったかもしれない。
分からないことがあれば、自分で調べる。
それでも分からなければ、先生へ聞く。
それだけのことだと思っていた。
けれど、最近は誰かと一緒に考える楽しさを知った。
自分が気づかなかったことを教えてもらうのも、相手の疑問から新しい考えが生まれるのも、何だか嬉しい。
その変化を、俺は少しずつ実感していた。
◇
昼休み、食堂ではガレスが朝の地理の授業について話していた。
「いやあ、道を一本造るだけでも、あんなに考えることがあるんだな。俺、もっと単純なものだと思ってたぜ」
彼は皿の上の料理を口へ運びながら、感心したように首を振った。
向かいに座るサザリーは、いつもの穏やかな表情で頷いた。
「道を造る場所によって、必要な費用も管理方法も変わるだろうからね。特に橋が必要になる場所は、維持するための手間も考えなければならないと思う」
「そうだよな。俺の家の領地にも古い橋があるんだけど、雨が多い時期は通行を確認する必要があるって聞いたことがある」
ガレスはそこで少し考え込んだ。
「……今まで、あんまり気にしたことなかったな」
俺は彼の言葉に興味を引かれた。
「ガレスの家でも、そういう管理をしているんだね」
「ああ。俺が直接関わったことはないけど、父上が領地の報告を受けているところを見たことはある。橋の修理とか、道の状態とか、そういう話だったと思う」
ガレスは少し照れくさそうに笑った。
「昔は退屈な話だと思ってたんだけど、今日の授業を聞いたら、ちょっと見方が変わったよ」
その言葉に、リビアが嬉しそうに頷いた。
「分かる気がする。私も、お父様のお仕事について、まだ知らないことがたくさんあるもの」
ガレスは少し驚いたように顔を上げた。
「オリビア様でも、そうなんですか?」
「もちろん。お父様がどんなことを考えて領地のお仕事をなさっているのか、私が全部知っているわけじゃないよ」
リビアは穏やかに微笑んだ。
「だから、少しずつ学んでいきたいの」
サザリーはその言葉を聞き、静かに頷いた。
「僕も同じだよ。家の仕事について知っているつもりでも、実際にどのような判断が必要になるのか、まだ理解できていない部分が多いと思う」
俺は三人の話を聞きながら、少しだけ考えた。
公爵家。
伯爵家。
それぞれの家には、役割や責任がある。
けれど、そこに生まれたからといって、最初からすべてを理解しているわけではない。
俺も、シルフィール伯爵家の養子になり、公爵家で執事見習いとして働いている。
今の立場を得てから学んだことは多いが、まだ知らないこともたくさんある。
「……みんな、少しずつ勉強してるんだね」
俺がそう呟くと、ガレスが笑った。
「そりゃそうだろ。クルセスだって、何でも知ってるわけじゃないんだしさ」
「うん。それはそうなんだけど……」
俺が少し照れくさくなっていると、サザリーが穏やかに口を開いた。
「むしろ、クルセスが知らないことを調べようとしているのは、いいことだと思うよ。今日の質問も、具体的で分かりやすかった」
リビアも嬉しそうに頷いた。
「私もそう思う。セスが楽しそうに質問しているのを見て、私まで嬉しくなっちゃった」
その言葉に、俺は思わず彼女へ顔を向けた。
リビアは少しだけ頬を染めたものの、視線を逸らさずに微笑んでいる。
ガレスはそんな俺たちを見比べ、口元を緩めた。
「……まあ、オリビア様が嬉しそうなのは、見てりゃ分かるけどな」
「ガレス?」
リビアが少しだけ首を傾げると、彼は慌てて姿勢を正した。
「い、いえ! 何でもありません!」
サザリーは小さく笑い、俺は何となく頬が熱くなるのを感じた。
けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
リビアが俺のことを大切に思ってくれているのは、もう知っている。
そして、俺も彼女を大切に思っている。
それを周囲の友人たちが自然に受け止めてくれていることが、何だか嬉しかった。
◇
放課後、俺とリビアは約束どおり図書室へ向かった。
午前の授業で聞いたことが頭に残っていたため、俺は少しだけ足取りが軽くなっていた。リビアもそんな俺の様子に気づいているらしく、隣で楽しそうに微笑んでいる。
「セス、今日は何から探してみる?」
「まずは、街道について書かれた本かな。昔の道がどうやって変わっていくのか、少し知りたいんだ」
「それなら、地理の本だけじゃなくて、歴史の本にも書いてあるかもしれないね」
「うん。先生も、複数の資料を比べるといいって言ってたし」
図書室へ入ると、昨日と同じように静かな空気が広がっていた。
窓際の閲覧席には数人の生徒が座り、受付では職員が貸出記録を確認している。奥の書棚の間では、背表紙を確かめながら本を探している生徒の姿もあった。
俺たちは受付へ向かい、クラリスさんへ声をかけた。
「こんにちは。少し本を探したいのですが、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
クラリスさんは手元の作業を区切り、穏やかに顔を上げた。
「こんにちは、シルフィールさん、パウリーさん。もちろんです。どのような本をお探しですか?」
「古い街道や、道の変化について書かれた本を探しています。今日の授業で興味を持ったので、少し調べてみたくて」
俺が説明すると、クラリスさんは少し考えたあと、書棚の方向へ目を向けた。
「それでしたら、地理の棚に街道についてまとめた本がありますね。歴史の棚にも、地域ごとの交通について触れた資料があると思います」
彼女は机の上の分類表を確認し、該当する棚の位置を教えてくれた。
「ただ、古い地図そのものを扱う資料には、一般の書棚へ置いていないものもあります。今日はまず、閲覧できる本から探してみるとよいでしょう」
「分かりました。ありがとうございます」
俺が礼を伝えると、クラリスさんは柔らかく微笑んだ。
「昨日は案内表示についても考えてくださって、ありがとうございました。クロードさんたちの相談は、まだ準備段階ですが、丁寧に進めようとしてくださっているのが伝わってきます」
リビアは少しだけ姿勢を正した。
「こちらこそ、昨日はありがとうございました。私たちも、利用する方のことを考えながら、必要なことを学んでいきたいと思っています」
「そうですね。何かを改善するためには、まず今の仕組みを知ることが大切ですから」
クラリスさんはそう言って、俺たちへ書棚の方向を示した。
「本を探していて分からないことがあれば、また声をかけてくださいね」
俺たちはもう一度礼を伝え、地理の書棚へ向かった。
◇
地理の棚には、地域ごとの地形をまとめた本や、川と街道の関係について書かれた本が並んでいた。
俺は背表紙を一冊ずつ確認し、目当てに近そうなものを探した。
隣ではリビアも同じように本を見ていたが、しばらくすると一冊の厚い本を取り出した。
「セス、これなんてどうかな?」
彼女が見せてくれたのは、街道の整備と交易についてまとめられた本だった。
表紙には、荷馬車が石造りの橋を渡っている絵が描かれている。
「面白そうだね。少し中を見てもいい?」
「もちろん。一緒に見よう?」
俺たちは近くの閲覧席へ移動し、周囲の利用者の邪魔にならない場所を選んで座った。
本を開くと、最初の方には街道の役割について説明が書かれていた。
人が移動するための道。
物資を運ぶための道。
町と町を結ぶ道。
そして、地域によっては、季節によって使える道が変わることもあるらしい。
俺はページをめくりながら、興味深い部分をノートへ書き留めた。
「……なるほど。道って、造ったらそれで終わりじゃないんだね」
小さな声で呟くと、リビアが顔を向けた。
「どういうこと?」
「ここに書いてあるんだけど、橋や道は、使い続けるために手入れが必要なんだって。雨で傷んだ場所を直したり、荷馬車が通れる状態か確認したりするみたい」
俺は本の該当箇所を示した。
リビアはしばらく文章を読み、静かに頷いた。
「……本当だね。お父様のお仕事にも、こういうことが関係しているのかな」
「たぶん。でも、実際にどんなふうに管理しているのかは、俺には分からないな」
俺がそう答えると、リビアは少し考え込んだ。
「今度、見せていただける資料があるか、お父様にお聞きしてみようかな」
その声には、いつもの明るさだけでなく、何かを真剣に学ぼうとする気持ちが込められていた。
俺は彼女の横顔を見つめ、少しだけ微笑んだ。
「リビア、本当に領地のことを勉強したいんだね」
彼女は顔を上げ、静かに頷いた。
「うん。今までも、いつかは学ばなきゃいけないと思っていたんだけど……最近は、ちゃんと知りたいって思うようになったの」
「ちゃんと知りたい?」
「うん。お父様がどんなことを考えていらっしゃるのか、領地で暮らしている人たちがどんな生活をしているのか、私が知らないことを少しずつ知りたいの」
リビアは本の端へそっと指を添えた。
「公爵家の娘だから勉強しなきゃいけない、というだけじゃなくてね。私自身が、知っておきたいって思うんだ」
その言葉を聞き、俺は胸の奥が少し温かくなった。
進路希望調査について話したとき、俺も似たようなことを考えた。
執事として必要だから学ぶ。
リビアの役に立ちたいから学ぶ。
それも大切な理由だ。
けれど、それだけではなく、俺自身が知りたいと思うこともある。
「……俺も、同じかもしれない」
俺がそう答えると、リビアは少し驚いたように目を丸くした。
「セスも?」
「うん。今朝、父さんが見ていた地図のことも、別に仕事で調べなきゃいけないわけじゃないんだ。でも、昔の道がどうなっていたのか気になって、もっと知りたいと思ったんだよ」
俺は少し照れくさくなりながら続けた。
「今まで、自分が何をしたいのか考えることって、あまりなかったから。こういう気持ちも、大事にしていいのかなって」
リビアはしばらく黙って俺を見つめていた。
やがて、その表情がゆっくりと柔らかくなる。
「……もちろんだよ、セス」
彼女は声を抑えながら、はっきりと答えた。
「私は、セスが何かを知りたいって思うことも、やってみたいって思うことも、大切にしてほしいな」
俺は静かに頷いた。
その言葉を聞いていると、少しだけ肩の力が抜ける気がした。
俺が何かをしたいと思うことを、リビアは喜んでくれる。
それは、まだ少し不思議で、でも、とても嬉しいことだった。
◇
しばらく本を読み進めていると、リビアが一枚の挿絵に目を留めた。
そこには、山の間を抜ける古い街道と、小さな宿場の様子が描かれていた。
石造りの橋の近くには荷馬車が停まり、道沿いには旅人を迎える建物が並んでいる。
「セス、見て。ここ、何だか素敵だね」
彼女が指さしたのは、山の向こうへ続く道だった。
挿絵には遠くの山々が描かれており、その一部には白い雪のようなものが残っている。
俺は思わず顔を近づけた。
「本当だ。ずいぶん遠くまで道が続いているんだね」
「うん。こんなところを旅したら、どんな景色が見えるんだろう」
リビアは少しだけ目を細めた。
「私、昔から旅行記を読むのが好きだったけど、実際に行ったことのない場所って、まだたくさんあるんだよね」
「俺もそうだよ。知らない町も、知らない景色も、きっとたくさんあるんだろうな」
俺は挿絵を眺めながら、以前読んだ北方の旅行記を思い出した。
雪に覆われた町。
白く染まる山々。
冷たい空気の中で、家々の窓から漏れる温かな光。
俺はまだ、そんな景色を実際に見たことがない。
リビアと一緒に見てみたいと話したことはあるけれど、具体的な旅行の予定が決まっているわけでもない。
「……いつか、リビアと一緒に行ってみたいな」
自然と口からこぼれた言葉に、リビアが顔を上げた。
「セス?」
俺は少し照れくさくなったものの、彼女の視線から逃げずに続けた。
「前に雪を見に行きたいって話したでしょう? あれも楽しみなんだけど、ほかにもいろんな場所へ行ってみたいと思ったんだ」
リビアはしばらく俺を見つめていた。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……うん。私も、セスと一緒に行きたい」
その声は、普段より少し柔らかかった。
「知らない町を歩いたり、初めて見る景色を眺めたり、そこで暮らしている人たちの話を聞いたり……そういうことを、セスと一緒にしてみたいな」
俺は彼女の言葉に頷いた。
「うん。きっと楽しいだろうね」
リビアは嬉しそうに笑ったあと、少しだけ真剣な表情になった。
「でも、今すぐ行けるわけじゃないよね。学院もあるし、お父様のお仕事や、いろんな予定もあるから」
「そうだね。だから、まずは本で調べたり、行ってみたい場所を考えたりするところからかな」
俺がそう答えると、彼女は満足そうに頷いた。
「それなら、今からでもできるね」
俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。
まだ何も決まっていない。
いつ行くのかも、どこへ行くのかも分からない。
それでも、一緒に行ってみたい場所が増えていくことが、何だか嬉しかった。
◇
本を読み終える頃には、窓の外の光が少し傾き始めていた。
俺たちは必要な部分をノートへ書き留め、借りる本を一冊選んだ。
リビアはもう一冊、地域ごとの暮らしについて書かれた本を手に取っていた。
「それも読むの?」
俺が尋ねると、彼女は少し照れくさそうに笑った。
「うん。街道だけじゃなくて、その道の先にある町のことも知りたくなっちゃって」
「なるほど。面白そうだね」
「ふふっ。セスが楽しそうに調べているから、私まで興味が広がっちゃったのかもしれない」
彼女はそう言って、本を大切そうに抱えた。
俺たちは受付へ向かい、貸出手続きを済ませた。
クラリスさんは本の題名を確認すると、少しだけ微笑んだ。
「よい本が見つかったようですね」
「はい。教えていただいた棚で、面白い本を見つけられました」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに頷いた。
「それは何よりです。興味のあることを調べる時間は、楽しいものですから」
リビアも微笑んだ。
「はい。今日は、知らないことをたくさん知ることができました」
クラリスさんは貸出記録を確認し、俺たちへ本を返した。
「また何か調べたいことがあれば、遠慮なくご相談ください。ただし、資料によっては閲覧方法が異なりますので、そのときは確認してくださいね」
「はい。ありがとうございます」
俺たちは礼を伝え、図書室をあとにした。
廊下へ出ると、先ほどまでの静かな空気とは違い、帰宅する生徒たちの声が聞こえてきた。
俺は本を抱え直し、隣を歩くリビアへ顔を向けた。
「今日は付き合ってくれてありがとう、リビア」
彼女は少し不思議そうに首を傾げた。
「どうしてお礼を言うの?」
「俺が調べたいことに、一緒に付き合ってくれたから」
そう答えると、リビアは少しだけ頬を膨らませた。
「もう、セスったら。私も楽しかったんだから、お礼なんていらないよ」
俺は思わず笑ってしまった。
「そっか。それならよかった」
「うん。それにね……」
リビアは少しだけ歩く速度を落とした。
俺も足を緩めると、彼女は周囲の生徒たちの様子を確かめてから、そっと俺の手へ触れた。
「私は、セスが知らない景色を見たいって思うなら、その景色を一緒に見てみたいの」
俺は彼女の顔を見つめた。
リビアは少し照れくさそうに微笑んでいる。
「セスが何かを見つけて嬉しそうにしているところも、きっと好きだから」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
俺は彼女の手を優しく握り返した。
「……ありがとう、リビア。俺も、リビアが見たい景色を一緒に見たいよ」
リビアは目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。
「本当?」
「もちろん。リビアが行ってみたい場所も、知りたいことも、俺に教えてほしいな」
そう答えると、彼女はしばらく俺を見つめていた。
やがて、少しだけ目を細めて微笑んだ。
「……うん。いっぱい教えるね」
俺たちは手をつないだまま、学院の玄関へ向かった。
◇
屋敷へ戻ると、父さんが玄関で俺たちを迎えてくれた。
「お帰り、セス。オリビア様も、お疲れさまでございました」
「ただいま、父さん」
「ただいま戻りました、グレイヴ」
俺が抱えている本に気づいた父さんは、少しだけ目を細めた。
「今日は図書室へ寄ってきたのか?」
「うん。今朝見せてもらった地図が気になって、昔の街道について調べてきたんだ」
俺は本の表紙を見せながら、今日の授業と図書室での出来事を簡単に説明した。
古い地図と現在の地図を比べるときは、作成目的や年代を確認する必要があること。
街道には維持や管理が必要なこと。
そして、地域によっては、季節や地形の影響で使える道が変わること。
父さんは最後まで聞いたあと、穏やかに頷いた。
「なるほど。よい勉強になったようだな」
「うん。まだ知らないことばかりだけど、面白かったよ」
俺がそう答えると、父さんは少しだけ微笑んだ。
「それなら何よりだ。ただし、今朝の地図については、仕事で確認している資料だからな。詳しい内容を調べたいなら、まず旦那様へ確認する必要がある」
「うん。分かってるよ。今日は一般の本を読んだだけだから」
父さんは安心したように頷いた。
「それならよい。興味を持つことと、扱ってよい資料の範囲を守ることは、両立できるからな」
俺は静かに頷いた。
昨日の図書室での相談も、今日の地図の話も、同じことにつながっている気がした。
知りたいと思うことは大切だ。
けれど、知りたいからといって、何でも勝手に調べてよいわけではない。
必要な手順を守り、関係する人へ確認する。
そのうえで、自分にできることを考える。
俺は少しずつ、そうした判断を身につけていきたいと思った。
◇
夕食までの時間、俺とリビアは屋敷の小さな書斎で本を読むことにした。
ここは普段から俺たちが勉強に使っている部屋で、窓際には二人で並んで座れる長椅子が置かれている。壁際の書棚には学習用の本が並び、机の上には筆記具と白紙のノートが用意されていた。
リビアは借りてきた本を開き、地域ごとの暮らしについて書かれた章を読み始めた。
俺も隣で街道の本を開いたが、しばらくすると彼女が小さく声を上げた。
「セス、これ見て」
俺が顔を向けると、リビアは本の挿絵を指さした。
そこには、山あいの町で開かれている市の様子が描かれていた。
露店には野菜や布、木工品などが並び、旅人らしい人たちが荷物を運んでいる。
「こんな町もあるんだね。街道があるから、いろんな場所から人が集まるのかな」
リビアは楽しそうに話した。
俺は挿絵を眺めながら頷いた。
「そうかもしれないね。道がつながっていると、物を運ぶだけじゃなくて、人も行き来できるから」
「うん。それに、町によって売っているものも違うんだろうね」
彼女は少し考えてから、俺へ顔を向けた。
「セスは、こういう町へ行ったら何を見たい?」
俺は少し迷った。
市場の様子も気になる。
町の建物も見てみたい。
それに、そこで暮らしている人たちがどんな生活をしているのかも知りたい。
「……いろいろ見たいけど、まずは市場かな」
俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「市場?」
「うん。どんな食材が売られているのかとか、どんな道具が使われているのかとか、見てみたいんだ」
俺は少し照れくさくなりながら続けた。
「執事の仕事にも関係するかもしれないけど、それだけじゃなくて、単純に面白そうだと思うから」
リビアはしばらく俺を見つめていた。
それから、柔らかく微笑んだ。
「……うん。そういうの、いいと思う」
彼女は本を閉じ、少しだけ俺へ身体を寄せた。
「私はね、町の人たちがどんなふうに暮らしているのか見てみたいな。市場もそうだし、お店も、道も、家も」
その言葉に、俺は頷いた。
「リビアらしいね」
「そうかな?」
「うん。領地のことを勉強したいって言ってたし、実際に暮らしている人たちのことも知りたいんだろうなって」
リビアは少し照れくさそうに笑った。
「……うん。そうかもしれない」
彼女は窓の外へ視線を向けた。
夕暮れの庭園には柔らかな光が差し込み、木々の影が芝生の上へ長く伸びている。
「でもね、セス。私、領地のことを学びたいって思うのと同じくらい、セスと一緒にいろんな場所へ行ってみたいとも思ってるの」
俺は彼女の顔を見つめた。
リビアは少しだけ頬を染めていたが、視線を逸らさずに続けた。
「お仕事のためじゃなくてもいいの。何か特別な理由がなくても、二人で景色を見たり、美味しいものを食べたり、知らない町を歩いたり……そういう時間も、いつか過ごしてみたいな」
その言葉に、胸の奥が静かに温かくなった。
俺はこれまで、リビアを守ることや、彼女の役に立つことを大切にしてきた。
それは今も変わらない。
けれど、リビアが望んでいるのは、それだけではないのだろう。
俺と一緒に笑ったり、何かを見つけたり、同じ時間を過ごしたりすること。
そういう当たり前のような幸せも、彼女にとっては大切なのだ。
「……俺も、そういう時間を過ごしたいな」
俺が静かに答えると、リビアは少し驚いたように目を丸くした。
「セスも?」
「うん。リビアと一緒なら、きっと楽しいと思うから」
俺は彼女の手へそっと触れた。
リビアは嬉しそうに微笑み、その手を優しく握り返してくれた。
「……ありがとう、セス」
その声は、いつもより少し柔らかかった。
俺たちはしばらく、手をつないだまま窓の外を眺めていた。
まだ、どこへ行くのかは決まっていない。
いつ行けるのかも分からない。
学院で学ぶことも、公爵家での仕事も、これから考えなければならないこともたくさんある。
けれど、それでもいいのだと思う。
今すぐ答えを出さなくても、少しずつ調べたり、話し合ったりしながら、二人で未来を考えていけばいい。
俺は隣に座るリビアへ目を向けた。
彼女は俺の視線に気づくと、嬉しそうに微笑んだ。
「セス、また一緒に本を探しに行こうね」
「うん。次はリビアが気になる本も、一緒に探そう」
そう答えると、彼女は満足そうに頷いた。
窓の外では、夕暮れの光が少しずつ薄くなっていく。
今日、俺は知らなかったことをいくつも知った。
昔の道が変わる理由。
街道を維持するために必要な仕事。
そして、同じ景色を見たいと思う相手がいることの嬉しさ。
それらは、すぐに何か大きな結果へつながるものではない。
けれど、俺にとっては大切な一日だった。
知らないことを知りたいと思う気持ちも、自分が見たい景色を考えることも、これからは少しずつ大切にしていきたい。
そして、その隣にリビアがいてくれるなら、きっと今まで以上に、いろんなことを楽しめる気がする。
俺は彼女の手を握り返し、机の上に置かれた本へ目を向けた。
そこには、まだ読んでいないページがたくさん残っている。
俺たちがこれから知っていく世界も、きっと同じなのだろう。
そんなことを考えながら、俺はリビアと並んで、静かな夕暮れの時間を過ごした。




