第105話 公爵令嬢様は、俺と一緒に迷子の理由を探したいらしい
学院の図書室へ向かう廊下には、昼休みを迎えた生徒たちの声が響いていた。
窓の外では薄い雲がゆっくりと流れ、時折差し込む日差しが磨かれた床を明るく照らしている。俺は手元の本を抱え直し、隣を歩くリビアへ顔を向けた。
「リビア、今日は図書室で何か調べる予定があるの?」
「うん。マリエッタ先輩から、少し相談したいことがあるって言われているの。案内表示についてなんだけど、セスにも聞いてほしいことがあるみたい」
「俺にも?」
「そう。前に資料閲覧室まで案内した生徒のこと、覚えているでしょう?」
俺は頷いた。
以前、図書室へ向かう途中で、資料閲覧室の場所が分からず困っている下級生に出会ったことがあった。
その生徒は図書室の場所までは分かっていたものの、目的の資料閲覧室へ行くには受付で確認する必要があることを知らなかった。俺は図書室の職員に事情を伝え、案内してもらえるよう取り次いだのだ。
その出来事は、リビアを通じて案内表示の検討に関わっているマリエッタ・クロード先輩にも伝わっている。
「覚えてるよ。図書室の場所は分かっていたのに、資料閲覧室の利用方法が分からなくて困っていたんだよね」
「うん。先輩も、そのことが気になっているみたい。でも、まだ案内表示を変えるって決まったわけじゃないから、まずは何が問題なのかを整理したいんだって」
リビアはそう説明したあと、少し申し訳なさそうに俺を見つめた。
「急にお願いしちゃってごめんね。セスも昼休みにしたいことがあったでしょう?」
「大丈夫だよ。今日は借りていた本を返す予定だったから、ちょうど図書室へ行くつもりだったんだ」
俺が抱えている本を少し持ち上げると、リビアは安心したように微笑んだ。
「よかった。それじゃあ、先輩のところへ行こう?」
俺たちは並んで歩き始めた。
図書室へ続く廊下は、学院のほかの通路と比べて少し静かだった。授業の合間には多くの生徒が行き交う場所だが、昼休みのこの時間は食堂や中庭へ向かう者が多く、図書室へ入る生徒の姿はそれほど多くない。
俺は壁に設置された案内板へ目を向けた。
そこには図書室の方向を示す文字と矢印が書かれている。
初めて学院を訪れた人でも、これを見れば図書室の入口まではたどり着けるだろう。
けれど、その先にある資料閲覧室については、ここからでは分からない。
(……案内表示って、目的の場所へ行ければそれで終わりじゃないんだな)
以前の俺なら、そこまで深く考えなかったかもしれない。
図書室の場所を知っていれば、資料閲覧室へ行く方法も何となく分かると思っていただろう。
けれど、初めて利用する人にとっては、当たり前ではない。
そう考えながら歩いていると、リビアが俺の視線に気づいた。
「セス、案内板を見ていたの?」
「うん。図書室までの道は分かりやすいと思うんだけど、資料閲覧室については何も書いてないんだなって」
リビアは案内板へ目を向け、静かに頷いた。
「そうだね。でも、全部の情報を書こうとすると、今度は文字が多くなりすぎるんだって」
「それも困るよね」
「うん。だから、何をどこに書くかが難しいみたい」
俺たちはそんな話をしながら、図書室の入口へ到着した。
◇
図書室へ入ると、紙と木の落ち着いた香りが漂ってきた。
高い書棚が整然と並び、窓際の閲覧席では数人の生徒が静かに本を読んでいる。受付の奥では職員が返却された本を確認しており、時折、紙をめくる音や椅子を引く控えめな音が聞こえていた。
俺は受付へ向かい、借りていた本を返却した。
職員が貸出記録を確認している間、リビアは少し離れた閲覧席へ目を向けた。
「あ、マリエッタ先輩がいらっしゃる」
そこには、数枚の紙を机へ広げている女子生徒の姿があった。
マリエッタ・クロード先輩は俺たちに気づくと、穏やかな笑みを浮かべて軽く手を上げた。
「オリビアさん、クルセス君。来てくれてありがとう」
「お待たせしました、先輩」
「こんにちは。俺も同席して大丈夫でしょうか?」
俺が尋ねると、先輩は頷いた。
「もちろん。むしろ、今日はクルセス君にも聞いてほしいことがあるの」
俺たちは周囲の利用者の邪魔にならないよう、声を抑えて席へ着いた。
机の上には、以前検討していた案内表示の図案が並べられている。
文字と番号を中心にしたもの。
番号を大きくし、枠の形でも区別できるようにしたもの。
そして、大きな矢印で方向を示すもの。
どれも以前見た案から大きく変わってはいない。
ただ、その隣には新しく、図書室周辺の簡単な配置図が置かれていた。
「まず、最初に伝えておくわね」
マリエッタ先輩は紙の端を揃えながら話し始めた。
「案内表示の変更は、まだ正式に決まっていないの。新しい表示を設置する許可も出ていないし、通路で利用者の動きを調べるような活動も、まだ認められていないわ」
リビアは真剣な表情で頷いた。
「はい。以前のお話でも、先生方や図書室の職員の方と相談する必要があると伺いました」
「そうなの。それで、担当の先生に相談したところ、まずは既に分かっている事実を整理して、何を確認したいのか明確にするように言われたのよ」
先輩は配置図の一部を指さした。
「今日は新しい調査をするんじゃなくて、これまでに出てきた話を整理するだけ。図書室の職員の方にも、ここで相談することは伝えてあるわ」
俺はその説明を聞いて、少し安心した。
案内表示を改善したいという気持ちは大切だ。
けれど、図書室は多くの生徒が利用する場所であり、勝手に調査を始めれば、利用者や職員の仕事を妨げてしまうかもしれない。
共同演習でも、決められた手順を守ることが大切だった。
今回も、まず確認するべきことがあるのだろう。
「それで、クルセス君に聞きたいのだけれど」
マリエッタ先輩が俺へ顔を向けた。
「以前、資料閲覧室へ行きたい生徒を案内したとき、その子は具体的に何に困っていたの?」
俺は少し考えた。
あの日の出来事を思い出す。
下級生は、図書室の場所が分からなかったわけではない。
むしろ、図書室までは自分で来られると言っていた。
困っていたのは、その先だった。
「その生徒は、資料閲覧室へ行きたいと言っていました。ただ、図書室の受付で確認する必要があることを知らなかったんです」
「なるほど。場所が分からなかったというより、利用するための手順が分からなかったのね」
「はい。ただ、本人がどの案内板を見たのかまでは確認していません」
俺がそう付け加えると、先輩は少し驚いたように顔を上げた。
「そこは分からないの?」
「はい。俺が会ったときには、すでに困っている状態でしたから。途中でどんな表示を見たのか、どこで迷ったのかまでは聞いていないんです」
先輩は頷き、手元の紙へ何かを書き込んだ。
「ありがとう。それは大切な違いね」
リビアも俺の説明を聞きながら、配置図へ目を落としていた。
「つまり、今分かっているのは、資料閲覧室の利用方法が分からず困っていた生徒が一人いた、ということですね」
「そういうことになるわ」
マリエッタ先輩は頷いた。
「その子が案内表示を見落としたのか、表示を読んでも分からなかったのか、それとも必要な情報がそもそも書かれていなかったのか。そこまでは、まだ分からないのよね」
俺は先輩の言葉に頷いた。
以前の俺なら、資料閲覧室の案内が不足しているのだから、表示を増やせば解決すると考えていたかもしれない。
けれど、問題の原因が分からないまま表示を増やしても、本当に役に立つとは限らない。
「……思っていたより、難しいですね」
俺が呟くと、先輩は小さく笑った。
「そうなの。案内表示って、作るだけなら簡単そうに見えるでしょう? でも、実際には誰が何を知りたいのか、どこで困るのかを考えないといけないのよ」
リビアは少し考えてから、静かに口を開いた。
「先輩。資料閲覧室のことだけでなく、図書室を初めて利用する生徒にとっても、分かりにくいところがあるかもしれませんね」
「そうね。ただ、それも今は可能性の一つとして扱うべきでしょうね」
先輩は紙へ視線を落とし、二つの欄を作った。
一方には、確認できていること。
もう一方には、まだ確認できていないこと。
その分け方を見て、俺は思わず口元を緩めた。
共同演習の講評で、サザリーが大切にしていた考え方と似ていたからだ。
事実と推測を分ける。
分かっていることだけで、分からないことまで決めつけない。
それは、魔術や演習だけでなく、こうした活動にも役立つのだろう。
◇
相談を続けていると、受付の奥から一人の女性職員が近づいてきた。
落ち着いた茶色の髪を後ろでまとめ、濃紺の制服を着たその人は、マリエッタ先輩へ軽く会釈した。
「クロードさん、少しよろしいですか?」
「はい。もちろんです」
先輩が立ち上がると、女性職員は俺たちにも穏やかな笑みを向けた。
「初めまして。図書室で利用案内を担当している、クラリス・ベルネと申します」
俺とリビアも立ち上がり、挨拶を返した。
「クルセス・シルフィールです。よろしくお願いします」
「オリビア・パウリーです。お時間をいただき、ありがとうございます」
クラリスさんは丁寧に頷いたあと、俺たちへ座るよう促した。
「こちらこそ、図書室の利用について考えてくださってありがとうございます。ただ、少しだけお伝えしておきたいことがありまして」
彼女は机の上の配置図へ目を向けた。
「資料閲覧室についてですが、場所を示すだけでは、利用者の方が困ってしまう場合があります」
俺はその言葉に顔を上げた。
「利用方法の問題でしょうか?」
「はい。資料閲覧室は、図書室の一般閲覧席とは利用手順が異なることがあります。扱う資料や利用状況によって、職員が確認する必要があるためです」
クラリスさんは穏やかに続けた。
「ですから、案内表示に大きな矢印だけを付けてしまうと、受付を通らず直接向かえばよいと誤解される可能性もあります」
俺は配置図へ目を落とした。
確かに、目的の部屋へ向かう方向だけを示せば、そこへ直接行こうとする生徒が出るかもしれない。
けれど、受付で確認する必要があるなら、先にそこへ案内する方が適切な場合もある。
「……それなら、資料閲覧室への案内を考えるときは、受付との関係も確認しないといけないんですね」
「そうですね。ただ、表示へ何を載せるかは、利用規則や既存の案内との整合性もありますので、こちらで確認する必要があります」
クラリスさんはそう言って、少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「せっかく考えてくださっているところへ、細かな話をしてしまってすみません」
「いえ、とても大切なことだと思います」
リビアがすぐに答えた。
「私たちだけでは分からなかったことですから、教えていただけて助かります」
クラリスさんは安心したように頷いた。
「そう言っていただけると嬉しいです」
マリエッタ先輩も真剣な表情で話を聞いていた。
「ベルネさん。今の段階では、利用者の方に聞き取りをしたり、通路で観察したりするのではなく、まず図書室側の案内手順を確認する方がよいでしょうか?」
「そうですね。少なくとも、こちらの業務や利用規則に関係する部分は、先に確認していただいた方がよいと思います」
クラリスさんは少し考えてから続けた。
「ただし、私一人の判断で調査や表示変更を認めることはできません。担当の先生と、図書室の責任者にも相談する必要があります」
「分かりました。今日は内容を整理するだけにして、改めて先生へ相談します」
マリエッタ先輩が答えると、クラリスさんは穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。皆さんが丁寧に考えてくださっていることは、こちらにも伝わっています」
彼女は俺たちへ一礼し、受付へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。
「……案内板一つでも、いろんな人が関わっているんですね」
マリエッタ先輩は苦笑した。
「本当にそうね。私も最初は、見やすい表示を考えればいいと思っていたの。でも、実際にはそれだけじゃ足りないみたい」
リビアは机の上の図案を眺めながら、静かに頷いた。
「でも、少しずつ分かってきたこともありますね」
「そうね。今日の話で、少なくとも次に確認するべきことは見えてきたと思うわ」
先輩は書類をまとめながら、俺たちへ微笑んだ。
「二人とも、ありがとう。特にクルセス君には、実際にあったことを詳しく聞けて助かったわ」
「いえ。俺も勉強になりました」
俺が答えると、先輩は少しだけ目を細めた。
「また相談することがあるかもしれないけれど、そのときはよろしくね」
「はい。俺に分かることであれば」
リビアも嬉しそうに頷いた。
こうして、昼休みの相談は終わった。
新しい案内表示が決まったわけではない。
調査を始める許可が出たわけでもない。
けれど、何を確認しなければならないのか、少しだけ明確になった。
それは、俺にとって思っていた以上に大きな収穫だった。
◇
午後の授業が始まる前、俺とリビアは教室へ戻る途中でサザリーと出会った。
彼は数冊の本を抱えており、俺たちの姿を見つけると穏やかに微笑んだ。
「二人とも、図書室へ行っていたの?」
「うん。マリエッタ先輩から、案内表示について相談があったんだ」
俺が答えると、サザリーは興味深そうに眉を上げた。
「何か進展があったのかな?」
「新しい表示が決まったわけじゃないんだけど、今分かっていることと、まだ分からないことを整理したんだ」
俺は図書室での話を簡単に説明した。
以前案内した生徒が、資料閲覧室の利用方法を知らなかったこと。
ただし、その生徒がどの案内を見たのかは分からないこと。
資料閲覧室へ向かうには、場所だけでなく受付での確認が必要になる場合があること。
そして、今後の活動には先生や図書室の責任者との相談が必要なこと。
サザリーは最後まで聞いたあと、静かに頷いた。
「なるほど。問題を解決する前に、問題の範囲を明確にする必要があるわけだね」
「うん。俺も、そう思ったよ」
「それは大切なことだと思う。特に、案内表示のように多くの人が使うものは、誰か一人の経験だけで決めるのは難しいだろうからね」
俺はその言葉に頷いた。
「そうなんだ。前に困っていた生徒がいたから、表示を増やせばいいと思ってたんだけど、それだけじゃないみたいで」
サザリーは少し微笑んだ。
「でも、実際に困っていた人がいたという情報は無駄じゃないよ。それが、何を確認するべきか考えるきっかけになったんだから」
その言葉に、俺は少し嬉しくなった。
リビアも穏やかに微笑んだ。
「私もそう思う。セスがあのとき声をかけなかったら、少なくとも私たちは、その困りごとを知らないままだったもの」
俺は少し照れくさくなりながら頷いた。
「……そう言ってもらえると嬉しいな」
そのとき、廊下の向こうからガレスがやってきた。
「お、三人とも何の話してるんだ?」
サザリーが簡単に説明すると、ガレスは少し考え込んだあと、首を傾げた。
「案内板って、そんなに難しいものなのか?」
「俺も最初はそう思ってたよ」
俺が答えると、ガレスは腕を組んだ。
「でも、確かに初めて行く場所って、案内があっても迷うことあるよな。俺も学院に入ったばかりの頃、訓練場の入口を間違えたことがあるし」
俺たちは思わず顔を向けた。
「ガレスも?」
「ああ。訓練場の場所は分かってたんだけど、使う入口が違ってさ。別の場所から入ろうとして、先輩に教えてもらったんだ」
ガレスは少し照れくさそうに笑った。
「今なら間違えないけど、初めてだと分からないことってあるよな」
その話を聞き、俺は少し考えた。
図書室だけではない。
学院には、同じ場所でも利用する人や目的によって、分かりにくいことがあるのだろう。
ただし、それをすべて一度に調べようとすれば、話が大きくなりすぎる。
今は、マリエッタ先輩たちが進めている範囲で、必要なことを一つずつ確認するべきなのだと思う。
「……そうだね。初めて利用する人の立場で考えることが大切なのかもしれない」
俺が言うと、サザリーは静かに頷いた。
「ただ、僕たちが想像したことと、実際に初めて利用する人が困ることは違う場合もあるだろうね」
「だから、確認が必要なんだね」
リビアがそう答えると、サザリーは微笑んだ。
「うん。そういうことだと思うよ」
ちょうどそのとき、授業開始を知らせる鐘が鳴った。
俺たちは会話を切り上げ、それぞれの席へ向かった。
◇
午後の授業では、歴史の資料を読み、そこに書かれている出来事を整理する課題が出された。
複数の記録を比較し、共通している部分と異なっている部分を確認するという内容だった。
俺は配られた資料へ目を落とし、少しだけ驚いた。
同じ出来事について書かれているはずなのに、記録によって説明の順番や重視している点が違っている。
ある資料では、出来事が起きた場所について詳しく書かれていた。
別の資料では、その出来事に関わった人物の判断が中心になっている。
さらに別の資料には、結果だけが簡潔に記されていた。
先生は黒板の前に立ち、教室全体へ説明した。
「資料を読むときは、書かれている内容だけでなく、誰が、どのような目的で記録したものなのかも考えてください」
俺は静かに頷いた。
同じ出来事でも、見る立場によって残される情報が違う。
それは、今日の図書室での相談にも似ていた。
俺が知っていたのは、困っていた生徒と話したときのことだけだった。
図書室の職員は、利用規則や受付の手順を知っていた。
マリエッタ先輩は、案内表示の検討状況を知っていた。
リビアは、それぞれの話をつなげようとしていた。
誰か一人の情報だけでは、全体を理解することは難しい。
(……だから、みんなで話す意味があるんだな)
俺は資料へ視線を戻し、共通している事実と、それぞれの記録で異なる部分を分けて書き始めた。
隣ではリビアも真剣な表情で資料を読み込んでいる。
彼女は途中で一度だけ顔を上げ、俺のノートへ目を向けた。
「セス、そこはどう考えた?」
声を抑えて尋ねられたため、俺も小さな声で答えた。
「この二つの資料は、同じ出来事について書いてるけど、注目してるところが違うんだと思う」
「……なるほど。私は、片方に書かれていないことが気になってたんだけど、そもそも記録した目的が違うのかもしれないね」
リビアはそう言って、もう一度資料へ目を落とした。
俺も頷き、自分の考えを整理した。
こうして互いに意見を交わしながら学ぶ時間は、以前から好きだった。
けれど、最近は少しだけ意味が変わってきた気がする。
リビアの考えを知ることで、自分が見落としていたことに気づける。
そして、俺の考えも、彼女にとって何かの助けになることがある。
それが、何だか嬉しかった。
◇
放課後、俺とリビアは学院の玄関へ向かっていた。
廊下には帰宅する生徒たちの足音が響き、窓の外では部活動へ向かう生徒たちが校庭を横切っている。
俺たちは今日の授業について話しながら歩いていたが、階段の手前でリビアが少しだけ足を止めた。
「セス、今日の図書室でのお話、どう思った?」
俺は彼女へ顔を向けた。
「案内表示のこと?」
「うん。先輩も、職員の方も、いろんなことを考えていらっしゃったでしょう?」
俺は静かに頷いた。
「思っていたより難しいんだなって感じたよ。でも、面白かった」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「面白かった?」
「うん。最初は、分かりやすい案内板を作ればいいと思ってたんだ。でも、誰が使うのかとか、どんな手順が必要なのかとか、考えることがたくさんあるんだね」
俺は少し考えてから続けた。
「それに、俺が知ってることだけじゃ、分からないことも多かった」
リビアは静かに頷いた。
「私もそう思ったよ」
彼女は窓の向こうへ視線を向け、少しだけ考え込んだ。
「私ね、最初は案内表示を分かりやすくすることばかり考えていたの。でも、今日のお話を聞いて、分かりやすいってどういうことなのか、もっと考えなきゃいけないんだなって思った」
その言葉に、俺は少し驚いた。
リビアは普段から周囲のことをよく見ている。
それでも、まだ知らないことがあると認め、学ぼうとしている。
その姿勢が、俺にはとても立派に思えた。
「リビアらしいね」
俺がそう言うと、彼女は少し不思議そうに首を傾げた。
「そうかな?」
「うん。自分が知らないことを、ちゃんと知ろうとしてるところが」
リビアは一瞬だけ目を丸くした。
それから、頬をほんのり赤く染めて微笑んだ。
「……もう、セスったら。そういうことを急に言うんだから」
「ご、ごめん。変なこと言った?」
「違うよ。嬉しかったの」
彼女はそう答えると、俺の手へそっと触れた。
俺はその手を握り返し、周囲の生徒たちの邪魔にならないよう歩き始めた。
しばらく歩いたところで、リビアがふと口を開いた。
「ねえ、セス。私たちも、将来のことを考えるとき、今日みたいにいろんな人の話を聞く必要があるのかもしれないね」
俺は少し考えた。
進路希望調査を提出してから、俺たちは将来について何度も話している。
けれど、まだ分からないことはたくさんある。
俺が執事の仕事を続けたいという希望。
リビアが領地について学びたいという希望。
そして、婚約者として、将来どのような立場で暮らしていくのかという問題。
それらは、俺たち二人だけで決められることばかりではない。
「……うん。そうだね」
俺は静かに頷いた。
「父さんや旦那様にも相談したいし、学院の先生にも聞いてみたいことがあるかもしれない」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「うん。でも、最初に私たち自身がどうしたいのか考えることも、大切だよね」
「そうだね」
俺は彼女の手を握り返した。
「俺たちの希望をちゃんと考えて、それから必要なことを調べていこう」
リビアは少しだけ目を細めた。
「……うん。そうしよう」
その声には、柔らかな喜びが込められていた。
◇
屋敷へ戻ると、玄関では父さんが俺たちを迎えてくれた。
「お帰り、セス。オリビア様も、お疲れさまでございました」
「ただいま、父さん」
「ただいま戻りました、グレイヴ」
父さんは俺たちの表情を確認し、少しだけ目を細めた。
「今日は、何かよいことがあったようだな」
俺は思わず笑った。
「うん。図書室で、案内表示について相談する機会があったんだ」
「案内表示?」
「前に、資料閲覧室へ行きたい生徒を案内したことがあったでしょう? そのときの話がきっかけで、マリエッタ先輩たちが考えている案内表示について、少し話を聞かせてもらったんだ」
父さんは静かに頷いた。
「なるほど。それで、何か決まったのか?」
「ううん。まだ何も決まってないよ。今日は、今分かっていることと、分からないことを整理しただけなんだ」
そう答えると、父さんは少しだけ微笑んだ。
「それは、よい進め方だと思う」
俺は少し驚いた。
「そうかな?」
「ああ。何かを改善しようとするとき、すぐに手を加えればよいとは限らない。まず現状を把握し、問題の原因を確かめることが大切だからな」
父さんは少し考えてから続けた。
「屋敷の仕事でも同じだ。何か不便なことがあったとしても、理由を知らずに手順を変えれば、別の問題が生じることもある」
俺は静かに頷いた。
今朝の厨房の出来事も、似たようなことだった。
問題があると聞いたからといって、勝手に動くのではなく、担当者がどう対応しているのか確認する。
今日の図書室でも、案内表示を変える前に、利用方法や必要な手順を確認することが大切だと教わった。
「……いろんな仕事に共通することなんだね」
俺がそう呟くと、父さんは穏やかに微笑んだ。
「そうだな。だからこそ、学院で学んだことも、屋敷での経験も、無駄にはならない」
俺はその言葉を聞き、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
学院で学ぶことと、執事の仕事。
以前は、別々のものとして考えていた部分もあった。
けれど、実際にはつながっていることが多い。
そして、そのつながりに気づけることが、最近は少し楽しくなっていた。
「ありがとう、父さん。今日のことも、ちゃんと覚えておくよ」
「ああ。よい経験になったのなら何よりだ」
父さんはそう言って、穏やかに頷いた。
◇
夕食まで少し時間があったため、俺とリビアは屋敷の談話室で過ごすことにした。
窓際の席には温かな紅茶が用意され、外には夕暮れの庭園が広がっている。木々の葉が風に揺れ、花壇の向こうでは庭師たちが最後の片づけをしていた。
俺たちは向かい合って座り、ゆっくりと紅茶を飲みながら、今日の出来事を振り返った。
「セス、今日は本当に勉強になったね」
リビアが微笑んだ。
「うん。案内表示って、ただ場所を示すだけじゃないんだなって思ったよ」
「私も。利用する人が何を知りたいのか、どこで困るのかを考えなきゃいけないんだね」
彼女は少しだけ考え込んだあと、静かに続けた。
「でも、今日の話を聞いて、私、ちょっと嬉しかったの」
俺は彼女へ顔を向けた。
「嬉しかった?」
「うん。セスが前に困っていた生徒を助けたことが、こうして誰かの役に立つかもしれないって思ったから」
その言葉に、俺は少し驚いた。
あの日、俺はただ、困っている生徒へ声をかけただけだった。
特別なことをしたつもりはない。
けれど、その出来事がきっかけで、案内表示について考える材料が一つ増えた。
それは、確かに嬉しいことだった。
「……そうだね。俺も、少し嬉しいかもしれない」
俺が答えると、リビアは柔らかく微笑んだ。
「ふふっ。でしょう?」
俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。
しばらくの間、窓の外を眺めながら紅茶を飲んでいると、リビアがふと真剣な表情になった。
「ねえ、セス」
「うん?」
「私たち、これからもいろんなことを学んでいきたいね」
俺は静かに頷いた。
「うん。俺もそう思う」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「学院で学ぶことも、屋敷で経験することも、きっと将来につながっていくんだろうね」
その言葉に、俺は少し考えた。
将来のことは、まだ分からない。
俺がどんな仕事をして、リビアがどんな役割を担い、どんな場所で暮らすのか。
それでも、今学んでいることが、いつか役に立つかもしれない。
そして、何より大切なのは、俺たちが一緒に考え、学んでいくことなのだろう。
「……うん。きっとそうだね」
俺はそう答え、リビアの手へそっと触れた。
彼女は少し驚いたように目を丸くしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「セス?」
「これからも、一緒にいろんなことを知っていこう」
リビアは頬をほんのり赤く染めた。
それから、俺の手を優しく握り返した。
「……うん。約束だよ」
俺は静かに頷いた。
窓の向こうでは、夕暮れの光が少しずつ薄くなっている。
今日、俺たちは新しい案内表示を完成させたわけではない。
大きな問題を解決したわけでもない。
ただ、分かっていることと、分からないことを整理した。
そして、誰かが困っていた理由を、少しだけ考えた。
それだけのことだった。
けれど、俺にとっては大切な経験だった。
分からないことを、分からないままにしない。
自分だけで決めつけず、必要な人へ相談する。
そして、相手の立場を考えながら、少しずつ答えを探していく。
それは、学院で学ぶことにも、執事の仕事にも、そしてリビアとの将来にもつながっているのかもしれない。
俺は隣で微笑むリビアを見つめながら、穏やかな夕暮れの時間を過ごした。




