第103話 公爵令嬢様は、俺が選んだ道を隠させたくないらしい
進路希望調査の提出日を迎えた朝、俺は自室の机に置いた封筒を、もう一度手に取った。
窓の外では庭師たちが植え込みの手入れを始めており、開け放した窓からは、湿り気を含んだ土と草木の匂いが流れ込んでくる。夜の間に少し冷え込んだらしく、窓枠に触れた指先にはひんやりとした感触が残った。
封筒の中には、昨日書き終えた進路希望調査が入っている。
父さんにも内容を確認してもらったが、書き直すように言われたところはなかった。むしろ、今の希望と、まだ決められないことがきちんと分けて書かれていると評価してもらえた。
だから、提出すること自体に問題はないはずだった。
それなのに、封筒を鞄へ入れようとしたところで、俺は少しだけ手を止めてしまった。
(執事の仕事を続けたい、か。……本当に、これを読んだ先生はどう思うんだろう)
学院には、将来家督を継ぐ予定の貴族もいれば、騎士や魔術師を目指す生徒もいる。俺のように執事の仕事を希望する生徒が、ほかにどれくらいいるのかは知らない。
もちろん、職業に優劣があるとは思っていない。
父さんの仕事を見て育った俺にとって、執事は誇りを持てる職業だ。使用人たちの仕事を調整し、主人の予定を把握し、屋敷で暮らす人々が安心して過ごせる環境を整える。その責任の大きさも、簡単には務まらないことも、俺なりに理解しているつもりだった。
ただ、俺はリビアの婚約者でもある。
パウリー公爵家の一人娘と婚約している人間が、将来の希望に執事と書くことを、周囲がどう受け止めるのか。
それについては、まだ少し自信がなかった。
俺は封筒の口を指でなぞり、ゆっくり息を吐いた。
(でも、これは今の俺が考えた答えなんだ。リビアとも父さんとも話して、ちゃんと決めたんだから)
そう思い直し、封筒を鞄の内側へしまった。
机の上を片づけてから部屋を出ると、廊下の向こうで父さんが若い使用人に指示を出していた。
相手が書類を抱えて立ち去ったところで、父さんは俺に気づき、穏やかに頷いた。
「おはよう、セス。提出する書類は持ったか?」
「うん。昨日確認してもらったものを入れたよ」
「そうか。ならば、今日はそのまま提出してくるといい」
父さんはそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「まだ気になることがあるようだな」
俺は思わず苦笑した。
「……顔に出てた?」
「長い付き合いだからな。お前が何かを考え込んでいるときの顔くらいは分かる」
父さんはそう答え、俺が言葉を探すのを待ってくれた。
「先生にどう思われるのかなって、少し考えてたんだ。執事の仕事を続けたいって書いたから」
「それは、お前が望んでいることだろう?」
「うん。でも、リビアの婚約者としての立場もあるから……」
俺が言い終える前に、父さんは静かに首を横へ振った。
「セス。将来の責任について考えることと、今のお前の希望を隠すことは違う」
その声は厳しくなかったが、言葉にははっきりとした重みがあった。
「お前が何を望んでいるのか分からなければ、周囲も相談に乗れない。立場の問題があるなら、なおさら最初から正直に伝えておくべきだ」
「……うん」
「それに、執事という仕事を恥じる必要はない。私はその仕事を誇りに思っているし、お前にも、そう思ってもらえたら嬉しい」
俺は父さんの顔を見つめた。
普段はあまり自分の気持ちを言葉にしない人だからこそ、その言葉が胸に深く残った。
「俺も、父さんの仕事を誇りに思ってるよ」
そう答えると、父さんは一瞬だけ目を細めた。
「ありがとう。では、胸を張って提出してきなさい」
「うん。行ってくる」
俺は鞄を持ち直し、朝食の席へ向かった。
廊下を歩きながら、少しだけ背筋が伸びた気がした。
◇
朝食の席では、リビアがすでに席に着いていた。
銀青色の髪を綺麗に整えた彼女は、俺の姿を見つけると嬉しそうに微笑んだ。窓から差し込む朝日が横顔を照らし、その柔らかな表情を見ただけで、先ほどまで胸に残っていた緊張が少し和らいだ。
「おはよう、セス。今日は提出日だね」
「おはよう、リビア。うん、ちゃんと持ってきたよ」
「私も。昨日、お父様に見ていただいたの」
俺は椅子へ座りながら、少し驚いた。
「旦那様に?」
「うん。領地のことをもっと学びたいって書いたから、少し相談してみたんだ」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「お父様、すぐに何かを決める必要はないけれど、興味を持った理由は大切にしなさいっておっしゃってた。それから、領地の仕事を知りたいなら、まずは今どんな仕事が行われているのか、資料を読むところから始めてみたらどうかって」
「それは、いい勉強になりそうだね」
「うん。ただ、私が勝手にお仕事の書類を見られるわけじゃないから、学習用に見せられるものがあるか確認してくださるそうなの」
リビアはそこで少しだけ笑った。
「私、昨日はちょっと張り切りすぎちゃって、今すぐ何かお手伝いできないかって聞いちゃったんだけどね」
「旦那様は何て?」
「まずは仕事の内容を理解することが大切だって。知らないまま手伝おうとしても、かえって困らせてしまう場合があるからって」
その言葉に、俺は自然と頷いた。
執事の仕事でも同じだ。
手伝う気持ちがあっても、作業の目的や手順を知らなければ、余計な負担を増やしてしまうことがある。俺自身、昔は早く役に立ちたくて、父さんの説明を最後まで聞く前に動こうとしたことがあった。
「……旦那様らしいね」
「でしょう? でも、私もそのとおりだと思ったの」
リビアはそう言ってから、俺の顔を少し覗き込んだ。
「セスは、何か心配なことがある?」
俺は一瞬だけ迷ったものの、今朝父さんと話したことを正直に伝えた。
執事の仕事を続けたいという希望は変わらないこと。
ただ、その答えを学院の先生がどう受け止めるのか、少し気になっていること。
リビアは途中で口を挟まず、最後まで聞いてくれた。
「……そっか。セスは、執事のお仕事が好きだからこそ、ちゃんと考えているんだね」
「うん。好きだから、簡単に諦めたくないんだ。でも、リビアとの将来も大切だから」
そう答えると、彼女は少しだけ頬を赤くした。
それから、俺をまっすぐ見つめて口を開いた。
「私はね、セスが執事のお仕事を好きだって言ってくれるの、嬉しいよ」
「……リビア?」
「だって、セスが一生懸命学んできたことだもの。私と婚約したからって、それをなかったことにしてほしくないの」
彼女は膝の上で指を重ね、少し考えてから続けた。
「もちろん、結婚したあとにどういう立場になるのかは、これから考えなくちゃいけないと思う。でも、それとセスが今まで大切にしてきたものは、別でしょう?」
俺は静かに頷いた。
父さんとリビアは、同じことを伝えてくれている。
将来の責任を考える必要はある。
けれど、そのために今の自分を否定する必要はない。
「ありがとう、リビア。少し安心したよ」
「ふふっ。よかった」
リビアは柔らかく微笑み、運ばれてきた朝食へ目を向けた。
俺たちはそのあと、今日の授業や提出物について話しながら食事を進めた。
いつもと変わらない朝だった。
けれど、俺にとっては、少しだけ大切な朝になった気がした。
◇
学院へ到着すると、教室の前には小さな人だかりができていた。
どうやら進路希望調査の提出場所について、何人かの生徒が確認しているらしい。教室の入口付近には提出用の箱が置かれ、その隣には担当教員からの注意書きが掲示されていた。
俺とリビアが近づくと、ガレスがこちらへ手を上げた。
「おはよう、クルセス! オリビア様もおはようございます!」
「おはよう、ガレス。もう提出したの?」
「ああ。さっきな。父上にも確認してもらったし、これでひとまず終わりだ」
ガレスはそう言って、ほっとしたように笑った。
「昨日まであれこれ考えてたから、提出したら妙に気が楽になったぜ」
隣にいたサザリーが、書類を入れた封筒を手にしながら頷いた。
「気持ちは分かるよ。ただ、これで将来のことを考える必要がなくなるわけじゃないけどね」
「分かってるって。今くらいは安心させてくれよ」
ガレスが苦笑すると、サザリーも少し笑った。
俺は二人のやり取りを聞きながら、鞄から封筒を取り出した。
提出箱の前には数人の生徒が並んでいたため、俺たちも最後尾へ向かう。
前にいた生徒が書類を入れ、順番が回ってきたところで、俺は封筒の表書きを確認した。
名前も、所属も、間違っていない。
俺は一度だけ息を整え、提出箱へ封筒を入れた。
紙が箱の底へ落ちる小さな音が聞こえた。
それだけのことなのに、何だか一つの仕事を終えたような気持ちになった。
「セス、お疲れさま」
隣でリビアが微笑んだ。
「ありがとう。リビアも、提出するんだよね?」
「うん。私も今から」
彼女は自分の封筒を確かめ、丁寧に提出箱へ入れた。
それから俺の隣へ戻ってくると、少し嬉しそうに笑った。
「これで、二人とも提出できたね」
「うん。あとは先生との面談があるかもしれないけど、とりあえず一区切りかな」
俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。
そのときだった。
「……へえ。クルセスって、将来も執事になるつもりなのか?」
少し離れたところから聞こえてきた声に、俺は顔を向けた。
声の主は、同じ学年の男子生徒だった。
これまで授業で顔を合わせたことはあるものの、個人的に話したことはほとんどない。彼は友人らしい二人と一緒に立っており、こちらを見ながら少し不思議そうな表情をしていた。
どうやら、先ほどガレスと話していた内容の一部が聞こえていたらしい。
「うん。今のところは、そう考えてるよ」
俺が答えると、男子生徒はさらに目を丸くした。
「でも、お前ってシルフィール伯爵家の養子なんだろ? それに、パウリー公爵令嬢の婚約者だって聞いたけど」
「そうだよ」
「だったら、もっと別の仕事を考えてるのかと思ってた。騎士とか、魔術関係とかさ」
彼の声には、明確な悪意があるようには感じられなかった。
ただ、本当に不思議に思っているのだろう。
それでも、周囲の生徒たちが少しずつこちらへ視線を向け始めたことで、俺は返事に迷った。
(……やっぱり、そう思う人もいるんだな)
執事の仕事を希望すること自体は、何もおかしくないはずだ。
けれど、俺の立場を考えれば、意外に思われることもあるのだろう。
俺がどう説明しようか考えていると、隣でリビアが静かに口を開いた。
「セスが執事の仕事を続けたいと思っていることが、そんなに不思議ですか?」
その声は穏やかだった。
けれど、いつもの親しい相手へ向ける柔らかな口調とは少し違い、公爵令嬢としての落ち着いた響きがあった。
男子生徒はリビアへ顔を向け、少し慌てたように背筋を伸ばした。
「あ、いえ。そういうつもりでは……ただ、クルセスならほかにもいろいろできると思ったので」
リビアはその言葉を聞き、少しだけ表情を和らげた。
「そうですね。セスには、これから学べることも、選べる道もたくさんあると思います」
彼女はそこで俺へ一度視線を向け、それから男子生徒へ向き直った。
「でも、選べる道が多いことと、本人がどの道を選びたいかは別のことです。私は、セスが自分の希望を大切にしてくれたら嬉しいと思っています」
その言葉に、周囲の空気が少し変わった。
男子生徒は何かを考えるように眉を寄せ、それから小さく頷いた。
「……なるほど。確かに、そうですね」
彼は俺へ顔を向けた。
「変な聞き方をして悪かった。執事の仕事を馬鹿にしたかったわけじゃないんだ」
「ううん。気にしてないよ」
俺はそう答え、少し考えてから続けた。
「俺も、将来どういう立場で働くことになるのかは、まだ分からないんだ。でも、執事の仕事が好きなのは本当だから、今の希望として書いたんだよ」
男子生徒は納得したように頷いた。
「そっか。……そういうことなら、分かったよ」
彼は友人たちと一緒に教室の奥へ向かっていった。
周囲の生徒たちも、それぞれの話へ戻っていく。
俺は小さく息を吐いた。
大きな問題になったわけではない。
けれど、今まであまり意識していなかったことを、改めて考えさせられる出来事だった。
「セス、大丈夫?」
リビアが少し心配そうに尋ねた。
「うん。大丈夫だよ。ありがとう、リビア」
そう答えると、彼女は少しだけ眉を下げた。
「私、余計なことを言っちゃったかな?」
「そんなことないよ。嬉しかった」
俺は正直に答えた。
「でも、今度は俺も、ちゃんと自分で説明できるようになりたいな」
リビアは一瞬だけ目を丸くしたあと、嬉しそうに微笑んだ。
「うん。セスなら、きっとできるよ」
俺は彼女の言葉に頷き、教室の席へ向かった。
まだ少し胸の奥が落ち着かなかったけれど、不思議と嫌な気持ちだけではなかった。
自分の希望を言葉にすること。
それが、これからの俺に必要なことなのかもしれない。
◇
午前の授業が始まると、教室の空気は普段どおりに戻った。
黒板には今日の学習内容が書かれ、生徒たちは教科書やノートを広げている。俺も授業へ集中しようとしたが、ふとした瞬間に、朝の出来事が頭をよぎった。
執事の仕事を続けたい。
その希望を聞いた相手が、意外そうな顔をした。
ただ、それだけのことだ。
けれど、俺が思っていた以上に、自分の将来と周囲の期待は結びついているらしい。
授業が進み、先生が例題について説明している間、俺はノートへ視線を落とした。
(……俺が執事になりたいって思うことと、リビアの婚約者であることは、やっぱり簡単には切り離せないんだな)
それは、悪いことではないと思う。
婚約した以上、俺の選択がリビアや公爵家に影響することもあるだろう。
だからこそ、俺は自分の希望だけを押し通せばいいとは考えていない。
けれど、周囲にどう見られるかを気にして、最初から希望を隠してしまったら、リビアや父さんが言ってくれたことを無駄にしてしまう。
俺は一度だけ深く息を吸い、先生の説明へ意識を戻した。
今は授業中だ。
考えるべきことは、あとで落ち着いて考えればいい。
そう自分へ言い聞かせ、ノートへ続きを書き込んだ。
◇
昼休みになると、ガレスが俺の席へやってきた。
「クルセス、さっきのことなんだけどさ」
彼は少し気まずそうに頭をかいた。
「俺が朝、進路の話をしてたから、変に注目されちまったよな。悪かった」
俺は慌てて首を横へ振った。
「ガレスのせいじゃないよ。俺が執事の仕事を続けたいって考えてるのは本当だし、別に隠してるわけでもないから」
「そうかもしれないけどさ……」
ガレスは少し考え込んだあと、俺の顔を見つめた。
「でも、俺はお前が執事になりたいって言うの、別に変だと思わないぜ」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「そうなの?」
「ああ。だって、お前って普段から人のことよく見てるだろ。誰かが困ってたら気づくし、仕事も丁寧だしさ」
ガレスは少し照れくさそうに笑った。
「まあ、たまに何でも一人でやろうとするのは、どうかと思うけどな」
俺は思わず苦笑した。
「……それは、気をつけてるところだよ」
「知ってるって。共同演習の講評でも言われてたしな」
ガレスは笑ったあと、少し真剣な表情になった。
「でもさ、俺が剣術を続けたいって思うのと、お前が執事を続けたいって思うのは、そんなに違わないんじゃないか?」
俺は彼の言葉を聞き、少し考えた。
ガレスは剣術を学びたいと考えている。
それは、自分が好きなことだからでもあり、将来誰かを守れるようになりたいからでもある。
俺が執事の仕事を続けたいと思う理由も、きっと似ている。
好きだから。
大切な人たちの役に立ちたいから。
その仕事に誇りを持っているから。
「……うん。そうかもしれないね」
俺が答えると、ガレスは嬉しそうに笑った。
「だろ? だったら、堂々としてりゃいいんだよ」
そのとき、サザリーが静かに口を開いた。
「ただ、ガレスの言うことも分かるけれど、クルセスの場合は少し複雑な事情もあると思うよ」
俺たちはサザリーへ顔を向けた。
彼は落ち着いた表情で続けた。
「執事の仕事を希望すること自体に問題があるわけではない。でも、パウリー公爵家の一人娘と婚約している以上、将来の立場や責任について考える必要があるのは確かだろうからね」
俺は静かに頷いた。
「うん。俺も、そこは考えてるよ」
「だからこそ、今の段階では希望を正直に伝えておいて、必要なことを調べていくのがいいんじゃないかな」
サザリーは少し微笑んだ。
「分からないことがあるなら、分からないと認めて、知っている人に相談する。それは、決して悪いことじゃないと思う」
その言葉に、俺は胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
ガレスもサザリーも、それぞれ違う立場から俺のことを考えてくれている。
ただ励ますだけではなく、現実的な問題もきちんと見てくれる。
そのことが、ありがたかった。
「ありがとう、二人とも」
俺がそう言うと、ガレスは少し照れくさそうに笑った。
「おう。まあ、俺たちも将来のことはまだまだ分からないしな」
「そうだね。僕も、調べたいことが増えたところだよ」
サザリーは穏やかに頷いた。
俺たちはそのあと、食堂へ向かった。
廊下には昼休みの賑やかな声が響き、窓の向こうでは、校庭を歩く生徒たちの姿が見える。
いつもと変わらない学院の風景だった。
けれど、俺の中では、少しずつ何かが変わり始めているような気がした。
◇
食堂では、リビアとエミリアが先に席を取って待っていてくれた。
俺たちが近づくと、リビアは嬉しそうに微笑み、エミリアも穏やかに会釈した。
「皆さん、お疲れさまです」
「お疲れさま、エミリア。待たせちゃったかな?」
「いいえ。私たちも、ちょうど席に着いたところです」
俺たちはそれぞれ昼食を受け取り、席へ着いた。
食堂には温かな料理の匂いが漂い、周囲では生徒たちが楽しそうに話している。窓際の席だったため、外の明るい景色もよく見えた。
食事を始めてしばらくすると、エミリアが進路希望調査の話を切り出した。
「皆さん、無事に提出できましたか?」
「うん。俺もリビアも、朝のうちに提出したよ」
俺が答えると、エミリアは嬉しそうに頷いた。
「よかったです。私も、今朝提出しました」
「エミリアは、結局どう書いたんだ?」
ガレスが尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。
「魔術の制御と、物資の管理について学びたいと書きました。具体的な仕事はまだ決められないので、今後調べたいとも書いてあります」
サザリーが静かに頷いた。
「いいと思うよ。興味のある分野が明確になっているなら、先生も相談に乗りやすいだろうし」
「そうだと嬉しいです」
エミリアは少し照れくさそうに笑った。
そのあと、話題は自然と朝の出来事へ移った。
俺が男子生徒に進路について尋ねられたことを話すと、エミリアは少し驚いたように目を丸くした。
「そんなことがあったんですね」
「うん。でも、悪意があったわけじゃないと思うよ」
俺が答えると、エミリアは静かに頷いた。
「そうかもしれませんね。ただ、立場によって、将来の選択が違って見えることはあるのかもしれません」
彼女は少し考え込んだあと、言葉を続けた。
「私も、物資の管理について学びたいと言ったとき、少し意外そうな顔をされたことがあります。魔術が得意なら、もっと魔術そのものを研究する道を考えないのかって」
俺は思わず彼女へ顔を向けた。
「エミリアも?」
「はい。でも、私は魔術の制御も好きですし、物資の管理にも興味があるんです。どちらか一つに決めなければいけないとは、まだ思っていません」
エミリアは穏やかに微笑んだ。
「だから、クルセスさんのお気持ちも、少し分かるような気がします」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
自分が選びたい道と、周囲から向いていると思われる道。
その二つが、必ずしも同じとは限らない。
それは、俺だけの問題ではないのだろう。
リビアは俺たちの話を聞きながら、少し真剣な表情になっていた。
「……私も、気をつけなくちゃいけないね」
彼女がそう呟いたため、俺は少し驚いて顔を向けた。
「リビア?」
「私も、誰かの得意なことを見て、きっとこういう道へ進むんだろうなって、勝手に考えてしまうことがあると思うの」
リビアは少しだけ視線を落とした。
「でも、その人が本当に何をしたいのかは、聞いてみないと分からないんだよね」
サザリーが静かに頷いた。
「そうだね。能力や立場は、進路を考える材料にはなるけれど、それだけで本人の希望を決めつけることはできないと思う」
ガレスも腕を組み、少し考え込んだ。
「なるほどな。俺も、剣術が得意なやつはみんな騎士になりたいんだと思ってたかもしれない」
その言葉に、エミリアが小さく笑った。
「ガレスさんらしいですね」
「え、そうか?」
ガレスが少し不思議そうに首を傾げると、俺たちも思わず笑ってしまった。
食堂の賑やかな空気の中で、自然と肩の力が抜けていく。
朝の出来事は、俺にとって少し考えさせられるものだった。
けれど、こうして仲間たちと話していると、それを必要以上に重く受け止めなくてもいいのだと思えた。
大切なのは、これからどう考え、どう行動するかだ。
◇
午後の授業が終わる頃、学院の廊下には帰宅する生徒たちの足音が響いていた。
俺は教室で鞄をまとめながら、今日提出した進路希望調査のことを考えていた。
書類は、もう手元にはない。
けれど、そこへ書いた内容は、今の俺自身の希望として残っている。
先生がそれをどう受け止めるのかは、まだ分からない。
今後、面談で詳しく話す機会があるかもしれないし、別の分野について調べるよう勧められるかもしれない。
それでも、今朝よりは落ち着いて考えられるようになっていた。
「セス、帰ろう?」
リビアが俺の席へ近づき、柔らかく微笑んだ。
「うん。準備できたよ」
俺たちは教室を出て、並んで廊下を歩き始めた。
窓から差し込む夕方の光が床へ長い影を落とし、遠くでは部活動へ向かう生徒たちの声が聞こえている。
しばらく歩いたところで、リビアがふと口を開いた。
「ねえ、セス。今日のこと、まだ気にしてる?」
俺は少し考えてから答えた。
「気にしてないって言ったら、嘘になるかな。でも、嫌な気持ちばかりじゃないよ」
リビアは静かに頷いた。
「そっか」
「朝、あの人に聞かれたときは、どう答えたらいいのか分からなかった。でも、ガレスやサザリー、エミリアと話して、少し考えがまとまった気がするんだ」
俺は歩きながら、彼女の顔を見つめた。
「俺が執事の仕事を好きだって思うことは、変じゃないんだよね」
リビアは足を止め、俺へ向き直った。
その表情は、いつもより少し真剣だった。
「うん。全然変じゃないよ」
彼女ははっきりと答えた。
「セスが大切にしてきたことを、誰かに不思議がられたからって、隠す必要はないと思う」
俺は静かに頷いた。
リビアは少しだけ声を和らげた。
「もちろん、将来のことはこれから考えなくちゃいけないし、簡単に決められないこともあると思う。でもね、セスが何を好きで、何を大切にしているのかは、私にとっても大事なことなの」
その言葉に、胸の奥が温かくなった。
「……ありがとう、リビア」
俺がそう言うと、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。
「ふふっ。どういたしまして」
俺たちは再び歩き始めた。
リビアの手が、そっと俺の手へ触れる。
俺はその手を握り返し、周囲の生徒たちの邪魔にならないよう、廊下の端を歩いた。
将来のことは、まだ分からない。
俺がどんな仕事をして、リビアがどんな役割を担い、どんな生活を送るのか。
その答えを出すには、きっとまだ時間が必要だ。
けれど、今は焦らなくてもいいと思えた。
自分の希望を隠さず、相手の希望も大切にする。
そして、分からないことがあれば、一緒に考えていく。
それが、俺たちにできる最初の一歩なのだろう。
◇
屋敷へ戻ると、玄関では父さんが俺たちを迎えてくれた。
「お帰り、セス。オリビア様も、お疲れさまでございました」
「ただいま、父さん」
「ただいま戻りました、グレイヴ」
父さんは俺の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「進路希望調査は、無事に提出できたか?」
「うん。ちゃんと提出してきたよ」
「そうか。それはよかった」
俺は少し迷ったあと、今日あったことを父さんへ話した。
学院で進路について尋ねられたこと。
執事の仕事を希望するのが意外だと言われたこと。
リビアや友人たちと話して、少し考えがまとまったこと。
父さんは途中で口を挟まず、静かに聞いてくれた。
「……なるほど。そういうことがあったのか」
話し終えると、父さんは穏やかに頷いた。
「セス。お前が自分の希望を正直に伝えられたのなら、それでよいと思う」
「うん。でも、将来の立場については、まだ分からないことが多いんだ」
「それは当然だ。今のお前たちが、すべてを理解している必要はない」
父さんは少しだけ表情を和らげた。
「ただし、分からないことをそのままにせず、少しずつ学んでいくことは大切だ。お前が本当に執事の仕事を続けたいと考えているなら、その希望をどのような形で実現できるのか、今後一緒に考えていこう」
その言葉に、俺は胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ありがとう、父さん」
父さんは静かに微笑んだ。
「礼を言う必要はない。私はお前の父親だからな」
その言葉を聞き、俺は思わず笑ってしまった。
父さんも、少しだけ口元を緩めた。
隣では、リビアが嬉しそうに俺たちのやり取りを見守っていた。
俺はその表情を見て、改めて思った。
俺には、相談できる人たちがいる。
父さんも、リビアも、学院の仲間たちも。
それは、昔の俺には想像もできなかったほど、恵まれたことだった。
◇
夕食まで少し時間があったため、俺とリビアは庭園を散歩することにした。
空は淡い橙色に染まり、木々の間を抜ける風には、昼間より少し冷たい空気が混じっている。花壇の近くでは庭師が道具を片づけており、俺たちが通りかかると、静かに一礼してくれた。
俺たちは挨拶を返し、石畳の小道をゆっくりと歩いた。
しばらくの間、今日の授業や友人たちの話をしていたが、やがてリビアが少しだけ歩く速度を落とした。
「ねえ、セス」
「うん?」
「今日、セスが自分の希望をちゃんと話してくれて、私、嬉しかった」
俺は彼女へ顔を向けた。
「……そう?」
「うん。前だったら、周りの人がどう思うかを気にして、自分の希望を後回しにしちゃったかもしれないでしょう?」
その言葉に、俺は少し考え込んだ。
確かに、以前の俺ならそうしていたかもしれない。
リビアの婚約者としてふさわしい道があるのなら、自分の希望よりもそちらを優先するべきだと考えただろう。
けれど、今は違う。
リビアは、俺が自分の希望を大切にすることを望んでくれている。
父さんも、同じように言ってくれた。
「……うん。前だったら、そうしてたかもしれない」
俺が答えると、リビアは静かに頷いた。
「でも、今のセスは、ちゃんと自分の気持ちを考えてくれるようになったね」
彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。
「私は、そういうセスも好きだよ」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。
「……ありがとう、リビア」
俺は少し照れながら答えた。
「俺も、リビアが自分の希望を話してくれるの、嬉しいよ」
リビアは一瞬だけ目を丸くした。
「私も?」
「うん。領地のことをもっと学びたいって話してくれたとき、すごく嬉しかった。リビアがどんなことに興味を持って、どんな未来を考えてるのか、もっと知りたいって思ったんだ」
リビアは頬をほんのり赤く染めた。
「……もう、セスったら」
彼女はそう言いながら、俺の手をそっと握った。
俺もその手を握り返す。
夕方の庭園には、柔らかな風が吹いていた。
遠くから聞こえる鳥の声と、木々の葉が揺れる音が、静かな時間を作っている。
俺たちはしばらく言葉を交わさず、並んで歩いた。
将来のことは、まだ何もかも決まっているわけではない。
それでも、俺は少しずつ、自分の希望を言葉にできるようになってきた。
そして、リビアもまた、自分が学びたいことや、将来やってみたいことを考え始めている。
俺たちは婚約者だ。
けれど、それぞれ違う人間でもある。
だからこそ、互いの希望を知り、尊重しながら、同じ未来を目指していくことが大切なのだろう。
「ねえ、セス」
リビアが静かに口を開いた。
「これからも、私にいろんなことを話してね」
俺は彼女の顔を見つめた。
「うん。リビアも、何でも話してほしい」
そう答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「約束だよ」
「うん。約束する」
俺たちは手をつないだまま、ゆっくりと庭園を歩き続けた。
空の色は少しずつ深まり、屋敷の窓には温かな灯りがともり始めている。
明日になれば、また新しい授業があり、知らないことを学ぶのだろう。
将来について考えなければならないことも、きっとこれから増えていく。
けれど、今の俺は、それを以前ほど怖いとは思わなかった。
リビアと一緒に考えられる。
父さんや仲間たちにも相談できる。
そして、自分の希望を大切にしていいのだと、少しずつ分かってきた。
俺は隣を歩くリビアの手を握り返し、穏やかな夕暮れの中で、これから先の時間へ思いを馳せた。




