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第102話 公爵令嬢様は、俺の答えを一緒に考えたいらしい


 学院から戻った翌朝、俺はいつもより少し早く目を覚ました。


 窓の向こうには薄い雲が広がっていたものの、雨が降り出す気配はなく、庭園の植え込みには朝露が残っている。遠くから聞こえる鳥の声に耳を傾けながら寝台を離れ、顔を洗って制服へ着替えたところで、机の上に置いていた一枚の書類が目に入った。


 昨日、リビアと一緒に考えた進路希望調査だった。


 学院の図書室で話し合ったあと、俺はその場で書ける部分だけを記入し、残りは屋敷へ戻ってから考えることにしていた。けれど、夕食後に読み返してみると、どうしても気になる箇所があり、結局そのまま机の上へ置いていたのだ。


 俺は椅子へ腰を下ろし、書類を手元へ引き寄せた。


 将来希望する仕事については、執事としての仕事を続けたいと書いてある。さらに学びたい分野には、魔術や剣術、歴史、地理など、現在興味を持っているものを記入した。


 そこまでは問題ないと思う。


 ただ、卒業後にどのような活動を希望するかという欄には、まだ十分な答えを書けていなかった。


(執事の仕事を続けたいのは本当だ。でも、リビアと結婚したあとも、今と同じ立場で仕事をするのかと聞かれたら、答えられないんだよな)


 俺はペンを手に取ったものの、すぐには文字を書けなかった。


 以前なら、こんなことで迷わなかったと思う。


 父さんのような立派な執事になる。


 その目標があれば、十分だったからだ。


 けれど、リビアと婚約してから、俺の将来は俺一人のものではなくなった。もちろん、彼女にすべてを合わせなければならないという意味ではない。


 むしろ昨日、リビアは俺自身の希望を聞きたいと言ってくれた。


 だからこそ、簡単に決めてしまいたくなかった。


 書類を眺めているうちに、廊下から控えめな足音が近づいてきた。


「セス、もう起きているか?」


 父さんの声だった。


「うん。起きてるよ」


 返事をして扉を開けると、グレイヴ・シルフィールはいつものように隙のない身なりで立っていた。


 父さんは俺の制服姿を確認したあと、室内の机へ目を向けた。


「進路希望調査を見ていたのか?」


「うん。昨日、リビアと話して、書けるところは書いたんだけど……まだ迷ってるところがあって」


 父さんはすぐに書類を見ようとはせず、俺の表情を確かめるように少し首を傾けた。


「何について迷っている?」


「卒業後のことかな。執事として働きたいとは思ってるけど、リビアとの結婚を考えると、今のままでいいのか分からなくて」


 そう答えると、父さんは静かに頷いた。


「なるほど。昨日より、迷っている理由が明確になったようだな」


「……そうかな?」


「ああ。昨日のお前は、何を書けばいいのか分からないと言っていた。今は、自分の希望と、将来の立場をどう両立させるかで迷っているのだろう?」


 言われてみれば、そのとおりだった。


 俺は書類へ目を落とし、少し考えてから頷いた。


「うん。そうだと思う」


「ならば、まず二つを分けて考えてみなさい」


 父さんはそう言って、机の上の書類を指さした。


「お前が何をしたいのかという希望と、その希望を実現するためにどのような立場や手続きが必要になるのかという問題は、同じではない」


「……希望と、実現するための条件?」


「そうだ。お前が執事の仕事を続けたいと思うこと自体に、何か問題があるわけではない。ただし、将来の立場によっては、仕事内容や責任の範囲が変わる可能性もある。それは、今後相談して決めていくことだ」


 父さんは俺の返事を待ちながら、少しだけ表情を和らげた。


「進路希望調査に書くのは、現時点でのお前の希望だ。将来のすべてを、この一枚で決定する必要はない」


 俺はゆっくりと息を吐いた。


 昨日も似たことを教えてもらったはずなのに、書類を前にすると、どうしても完璧な答えを書かなければならないような気がしていた。


 それはきっと、俺が昔から、与えられた仕事には正しい答えがあると考えてきたからだろう。


「父さん、ひとつ聞いてもいい?」


「何だ?」


「もし俺が、執事の仕事を続けたいって書いたら……リビアの婚約者としての責任を、軽く考えてるように見えるかな?」


 父さんはその質問を聞くと、少しだけ眉を動かした。


 怒っているわけではない。


 ただ、俺が何を心配しているのか、慎重に確かめているようだった。


「セス。お前は、オリビア様の婚約者であることを軽く考えているのか?」


「そんなことないよ」


 俺は思わず即答した。


 リビアとの婚約は、俺にとって何より大切な約束だ。


 彼女と一緒に生きていきたいという気持ちは、執事の仕事を続けたいという希望と同じくらい、いや、それ以上に強い。


「だったら、その気持ちまで疑う必要はない」


 父さんは穏やかに続けた。


「ただし、相手に伝わるように説明する努力は必要だ。自分の中では両立しているつもりでも、言葉にしなければ分からないことはあるからな」


 俺はその言葉を聞き、昨日のリビアとの会話を思い出した。


 彼女は、俺が自分のために何をしたいのか尋ねてくれた。


 俺はその問いに、もっといろいろなことを学びたいと答えた。


 あのときリビアが嬉しそうに笑ってくれたことが、今も心に残っている。


「……ありがとう、父さん。もう少し考えてみるよ」


「ああ。必要なら、記入した内容を確認しよう。ただし、私の望む答えを書く必要はないぞ」


 父さんはそう言って、静かに微笑んだ。


 その言葉に、俺も自然と笑みを返した。


 父さんは執事長として、俺に多くのことを教えてくれた。


 けれど、将来の希望まで自分と同じものにする必要はないと、こうして伝えてくれる。


 俺は改めて、その優しさが嬉しかった。


     ◇


 朝食の席では、リビアがいつもより少し真剣な表情で書類を眺めていた。


 食事が始まる前だったため、彼女の前にはまだ何も置かれていない。俺が声をかけると、リビアは顔を上げ、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「おはよう、セス。今日は早かったんだね」


「おはよう、リビア。少し書類を見直してたんだ」


「あ、進路希望調査?」


「うん。昨日話したことを、もう一度考えてた」


 俺がそう答えると、リビアは手元の書類へ視線を落とした。


「実は、私もなの」


 彼女は少し照れくさそうに笑ったあと、書類を丁寧に重ねた。


「昨日、セスと話してから、自分が何を学びたいのか考えてみたんだけど、思っていたよりたくさんあってね」


「リビアは、どんなことを書いたの?」


「魔術の研究と、領地のこと。それから、学院で学んでいる歴史や制度についても、もっと詳しく知りたいなって」


 俺は少し驚いた。


 リビアが魔術に興味を持っていることは、以前から知っている。


 けれど、領地について学びたいという希望は、最近になって彼女自身がより強く意識するようになったものなのかもしれない。


「領地のことも?」


「うん。お父様のお仕事を見ていると、私が知らないことって本当に多いんだなって思うの。領地で暮らしている人たちが、どんなことに困っていて、どんな仕組みで生活しているのか、もっと知りたいなって」


 リビアはそこで少し言葉を切り、俺の顔を見つめた。


「セスは、どう思う?」


「すごくいいと思うよ。リビアなら、きっといろんな人の話をちゃんと聞けると思う」


 俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。でも、まだ何から学べばいいのか分からないんだ」


「それなら、旦那様に相談してみるのはどうかな? 実際に領地の仕事をされているんだし、きっと教えてくださると思う」


「うん。私もそう考えてたの」


 リビアは頷いたあと、少しだけ声を落とした。


「でもね、セス。私が領地のことを学びたいって思ったのは、将来のためだけじゃないんだ」


 俺は彼女の言葉を待った。


 リビアは窓の向こうへ一度視線を向け、それからゆっくりと話し始めた。


「学院では、いろんな家の人と一緒に学んでいるでしょう? 同じ授業を受けていても、育った環境や考え方が違うことがあるって、最近よく感じるの」


 俺は静かに頷いた。


 共同演習でも、六人それぞれの得意なことや考え方が違っていた。


 その違いがあったからこそ、俺たちは互いに助け合うことができた。


「だから、領地で暮らしている人たちのことも、もっと知りたいんだ。公爵家の娘だから知っているつもりになるんじゃなくて、ちゃんと学びたいの」


 リビアは少し照れくさそうに笑った。


「……まだ、うまく説明できないんだけどね」


「ううん。ちゃんと伝わったよ」


 俺は彼女の顔を見つめた。


「リビアがそう考えてくれてるの、俺は嬉しいな」


 そう言うと、彼女は少し驚いたように目を丸くした。


「どうして?」


「俺は、リビアが誰かの立場を知ろうとしてくれるところが好きだから」


 言い終えてから、自分がずいぶん素直なことを口にしたと気づいた。


 リビアは一瞬だけ動きを止め、それから頬をほんのり赤く染めた。


「……もう、セスったら。朝からそんなこと言うんだから」


「ご、ごめん。変なこと言ったかな?」


「違うよ。嬉しかったの」


 彼女はそう答えると、少しだけ照れくさそうに笑った。


 その表情を見て、俺も胸の奥が温かくなるのを感じた。


 昨日、俺たちは将来について話し合った。


 そして今日も、こうして続きを話している。


 すぐに答えが出なくても、一緒に考える時間そのものが大切なのだと、少しずつ分かってきた気がした。


     ◇


 学院へ到着すると、教室の中では進路希望調査の話題が続いていた。


 窓際では数人の生徒が書類を見せ合い、廊下に近い席では、希望する分野について話し合う声が聞こえている。昨日は少し戸惑っていた生徒たちも、一晩考える時間があったためか、それぞれの考えを持ち始めているようだった。


 俺とリビアが席へ向かうと、ガレスがこちらへ顔を向けた。


「おはよう、クルセス! 昨日の書類、進んだか?」


「おはよう、ガレス。少しは進んだよ。ガレスは?」


「俺もだ。昨日、父上に見せたら、思ってたよりいろいろ聞かれてさ」


 ガレスは少し困ったように笑った。


「剣術を学びたいって書いたら、それを何のために学ぶのかって聞かれたんだよ」


 俺は彼の言葉を聞き、少し考えた。


「ガレスは、どう答えたの?」


「最初は、強くなりたいからって言ったんだ。でも、それだけじゃ足りないって言われてな」


 ガレスは机の上に置いた書類へ視線を落とした。


「それで考えたんだけど、俺は誰かを守れるようになりたいんだと思う。父上みたいに、周りから頼りにされる人になりたいし」


 その言葉に、俺は自然と頷いた。


 ガレスは以前から、父親に自分の成長を見せたいと話していた。


 共同演習でも、荷物を運ぶだけでなく、仲間の安全を考えて動いてくれていた。


 彼の言う「守りたい」という気持ちは、きっとそういう行動にも表れているのだろう。


「ガレスらしいと思うよ」


 俺が答えると、彼は少し照れくさそうに笑った。


「そうか? まあ、まだ具体的な仕事までは決めてないけどな」


 そのとき、隣で書類を読んでいたサザリーが顔を上げた。


「それなら、今の段階では十分じゃないかな。何のために学びたいのかが分かれば、次に調べることも見つかるだろうし」


「そうだよな。お前も昨日、似たようなこと言ってたし」


 ガレスは納得したように頷いた。


 俺は二人のやり取りを聞きながら、ふと気になったことを尋ねた。


「サザリーは、もう書き終わった?」


「大体はね。ただ、希望する分野について、少し書き直したところがあるんだ」


 サザリーはそう言って、書類の一部を指さした。


「最初は家の仕事に関係する分野だけを書いていたんだけど、学院で学んでいる記録や情報の整理についても、もっと深く学びたいと思ってね」


 俺は思わず頷いた。


 共同演習で、サザリーは事実と推測を分けることを大切にしていた。


 講評では記録の時系列について改善点を指摘されていたが、彼はそれを前向きに受け止めていた。


「サザリーらしいね」


「そうかな?」


「うん。前から、情報を正確に整理するのが得意だったし」


 そう答えると、サザリーは少し照れくさそうに微笑んだ。


「ありがとう。でも、得意だからこそ、まだ知らないことが多いって分かったんだ。だから、もう少し学んでみたいと思っているよ」


 その言葉を聞き、俺は昨日の自分の答えを思い出した。


 もっといろいろなことを学びたい。


 それは、将来の仕事が決まっていないからというだけではない。


 知らないことを知るのが楽しいからだ。


 サザリーも、きっと同じような気持ちなのだろう。


 俺たちはそれぞれ違う分野に興味を持っているけれど、学びたいという気持ちには共通するものがある。


 そう考えると、少し嬉しくなった。


     ◇


 午前の授業が終わる頃、担任の先生から進路希望調査について改めて説明があった。


 先生は黒板の前に立ち、教室全体を見渡した。


「進路希望調査は、明日の授業が終わるまでに提出してください。まだ決められない項目がある場合は、その旨を記入して構いません」


 生徒たちの間から、小さな安堵の声が漏れた。


 先生はそれを聞いて、少し微笑んだ。


「ただし、空欄のまま提出するのではなく、なぜ決められないのか、どのようなことを知りたいのかを書いてください。今後の面談では、その内容も参考にします」


 俺はその説明を聞きながら、手元の書類へ目を落とした。


 決められない理由を書く。


 それなら、今の俺にもできるかもしれない。


 執事の仕事を続けたい。


 けれど、リビアとの結婚後にどのような立場で働くのかは、まだ分からない。


 そのため、今後相談しながら考えていきたい。


 そう書けば、少なくとも今の自分の気持ちは伝えられるはずだ。


 俺はノートの端へ短くメモを残した。


 授業が終わり、生徒たちが席を立ち始めたところで、リビアが俺へ顔を向けた。


「セス、少し安心した?」


「うん。決められない理由を書いてもいいって聞いて、気持ちが楽になったよ」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「私も。全部を決めなくても、今の自分の考えを伝えればいいんだね」


「そうみたいだね」


 俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。


 進路希望調査は、将来を決定するためのものではない。


 そのことを何度も聞いていたのに、ようやく実感できた気がした。


     ◇


 昼休み、俺たちは食堂でエミリアと合流した。


 彼女はいつものように落ち着いた表情をしていたが、席へ着くと少し困ったように微笑んだ。


「皆さん、進路希望調査はどうですか?」


「俺は、だいぶ書けたよ」


 俺が答えると、エミリアは安心したように頷いた。


「よかったです。私も昨日、家で少し考えてみたんですけど、まだ分からないことが多くて」


 ガレスが興味深そうに尋ねた。


「エミリアは、魔術の制御とか物資の管理に興味があるって言ってたよな?」


「はい。でも、それを学んだ先にどんな仕事があるのか、まだよく分からないんです」


 エミリアは少し考え込んだあと、言葉を続けた。


「共同演習では、必要な物資を正確に届けることの大切さを感じました。でも、実際の仕事では、もっと複雑な管理が必要になるんでしょうね」


 サザリーが静かに頷いた。


「そうだろうね。運ぶものの種類や数だけじゃなくて、必要な場所や時間も考えなければならないだろうし」


「はい。だから、そういうことを学べる分野があるなら、調べてみたいと思っています」


 俺はエミリアの言葉を聞きながら、少し考えた。


 彼女は共同演習の経験を、自分の将来へつなげようとしている。


 それは、俺にとっても参考になる考え方だった。


「エミリアなら、きっと向いてると思うよ」


 俺が言うと、彼女は少し驚いたように目を丸くした。


「そうでしょうか?」


「うん。演習のときも、荷物の数や状態を丁寧に確認してくれてたし、講評で改善点を教えてもらったあとも、もっとよくしたいって考えてたから」


 エミリアは少し照れくさそうに笑った。


「ありがとうございます。そう言ってもらえると嬉しいです」


 リビアも穏やかに微笑んだ。


「私も、エミリアさんがそういうことを学びたいって思っているの、素敵だと思うよ」


 エミリアは嬉しそうに頷いた。


「ありがとうございます、オリビア様」


 そのあと、話題は自然とそれぞれの将来へ移っていった。


 ガレスは剣術を活かせる仕事について、サザリーは記録や情報の整理について、エミリアは物資管理や魔術の制御について話した。


 リビアは領地のことをもっと学びたいと伝え、俺も執事の仕事を続けながら、さまざまな分野を学びたいと話した。


 誰かが一つの答えを出すたびに、ほかの誰かが別の考えを口にする。


 その違いが、何だか面白かった。


 俺たちは同じ学院で学び、同じ共同演習を経験した仲間だ。


 けれど、将来目指すものはそれぞれ違う。


 それでも、互いの希望を聞いて、応援できる。


 その関係が、俺にはとても大切に思えた。


     ◇


 午後の授業が終わると、俺とリビアは学院の廊下を並んで歩いていた。


 進路希望調査の提出は明日までだが、俺は今日のうちに書き終えておきたいと思っていた。リビアも同じ考えだったらしく、帰宅後に少し時間を取って確認しようと話していた。


 廊下の窓からは、柔らかな夕方の光が差し込んでいる。


 校庭では部活動へ向かう生徒たちが行き交い、遠くから剣術の練習をする声が聞こえてきた。


 俺たちは階段へ向かっていたが、途中でリビアが足を止めた。


「セス、ちょっといい?」


「うん。どうしたの?」


 彼女は少し考え込んだあと、俺の顔を見つめた。


「今日、みんなの話を聞いて思ったんだけどね」


 俺は彼女の言葉を待った。


「将来のことって、一人で考えると難しいけど、誰かと話すと少しずつ見えてくるんだね」


 その言葉に、俺は自然と頷いた。


「うん。俺もそう思ったよ」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「セスと話したときもそうだったし、今日みんなの話を聞いたときも、知らなかった考え方がたくさんあったの」


 彼女は少しだけ視線を落とした。


「私、公爵家の娘だから、将来のことはある程度決まっているんだって、どこかで思ってたのかもしれない」


 俺はその言葉を聞き、少し驚いた。


 リビアは普段から、自分の立場を理解して行動している。


 けれど、そのことと、自分自身の希望を持つことは別なのだろう。


「でもね、セスと一緒に考えていると、私にも選べることがあるんだって思えるの」


 リビアはそう言って、俺の手へそっと触れた。


 俺はその手を握り返した。


「俺も同じだよ」


 そう答えると、彼女は少し驚いたように顔を上げた。


「セスも?」


「うん。俺はずっと、誰かの役に立つことが一番大切だと思ってた。でも、最近は自分が何をしたいのか考えることも、大切なんだって分かってきた気がする」


 俺は少し考えながら続けた。


「リビアが聞いてくれたから、気づけたこともあるんだ」


 その言葉に、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「……そっか。じゃあ、私たち、お互いに助け合ってるんだね」


「うん。そうだと思う」


 俺たちは顔を見合わせ、小さく笑った。


 リビアの手は温かかった。


 学院の廊下にはほかの生徒たちもいたため、俺たちは自然な距離を保ちながら歩き始めた。


 けれど、その手を離したいとは思わなかった。


 彼女と一緒に未来を考えることが、今は何より嬉しかった。


     ◇


 屋敷へ戻ると、父さんが玄関で迎えてくれた。


「お帰り、セス。オリビア様も、お疲れさまでございました」


「ただいま、父さん」


「ただいま戻りました、グレイヴ」


 父さんは俺たちの表情を見て、少しだけ目を細めた。


「今日は進路希望調査について、何か進展があったようだな」


 俺は思わず笑った。


「うん。学院で先生から説明があって、決められないところは、その理由を書いてもいいって聞いたんだ」


「そうか。それなら、少し書きやすくなっただろう」


「うん。今日中に仕上げてみようと思ってる」


 父さんは静かに頷いた。


「よいことだ。書き終えたら、必要に応じて確認しよう」


 リビアも嬉しそうに微笑んだ。


「グレイヴ、私も今日は少し考えがまとまったんです。お父様にも相談してみたいことができました」


「それは何よりでございます。旦那様も、オリビア様のお考えをお聞きになれば、お喜びになるでしょう」


 リビアは少し照れくさそうに笑った。


「そうだと嬉しいです」


 父さんは俺たちへ穏やかに微笑みかけると、仕事へ戻っていった。


 俺たちはその後ろ姿を見送り、顔を見合わせた。


「セス、書類を書き終えたら、少しだけ一緒にお茶を飲まない?」


「うん。いいね」


 俺が答えると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、約束ね」


 俺は頷き、彼女と一緒に廊下を歩き始めた。


     ◇


 自室へ戻ったあと、俺は机へ向かい、進路希望調査を広げた。


 窓の外では夕方の光が少しずつ薄くなり、庭園の木々が柔らかな影を落としている。


 俺はペンを取り、昨日から迷っていた欄へゆっくりと文字を書き始めた。


 卒業後の希望。


 執事としての仕事を続けたい。


 ただし、将来の立場や役割については、まだ具体的に決めていない。


 今後、家族や婚約者と相談しながら考えていきたい。


 そう書き終えたところで、俺は一度ペンを置いた。


 完璧な答えではないと思う。


 けれど、今の俺にとっては、これが一番正直な答えだった。


(……これでいいんだよな。今の自分が考えていることを、ちゃんと書けたんだから)


 俺は書類を読み返し、誤字や書き漏らしがないことを確認した。


 それから、父さんに見てもらうため、丁寧に折りたたんで封筒へ入れた。


 机の上を片づけていると、控えめなノックが聞こえた。


「セス、終わった?」


 リビアの声だった。


「うん。ちょうど終わったところだよ」


 扉を開けると、リビアが嬉しそうに微笑んでいた。


「私も書き終わったの。お父様に見ていただくのはこれからだけど、今の気持ちはちゃんと書けたと思う」


「そっか。よかったね」


 俺がそう言うと、彼女は小さく頷いた。


「うん。セスも、納得できる答えになった?」


「うん。まだ分からないことはあるけど、今の自分の気持ちは書けたと思う」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「じゃあ、お茶を飲みながら、少しだけお話ししよう?」


「うん。行こうか」


 俺たちは並んで廊下を歩き、いつもの小さな談話室へ向かった。


 室内にはすでに温かな紅茶が用意されており、窓際の席からは夕暮れの庭園が見渡せる。


 俺とリビアは向かい合って座り、ゆっくりと紅茶を飲み始めた。


 しばらくの間、今日の授業や友人たちの話をしていたが、やがてリビアがふと真剣な表情になった。


「ねえ、セス」


「うん?」


「私ね、今日の書類を書いていて、ひとつ思ったことがあるの」


 俺は彼女の顔を見つめた。


「どんなこと?」


 リビアは少し照れくさそうに笑った。


「将来のことを考えると、まだ分からないことがたくさんあるでしょう? でも、それって少し楽しみでもあるんだなって」


 その言葉に、俺は自然と頷いた。


「うん。俺も、今日そう思ったよ」


 リビアは嬉しそうに微笑んだ。


「セスと一緒に考えられるなら、きっと大丈夫だって思えるの」


 俺は彼女の言葉を聞き、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 将来のことは、まだ何もかも決まっているわけではない。


 俺がどんな仕事をして、リビアがどんな役割を担い、どんな場所で暮らすのか。


 それらは、これから少しずつ考えていくことなのだろう。


 けれど、今は不安ばかりではなかった。


 リビアが隣にいて、一緒に考えてくれる。


 それだけで、未来へ向かう気持ちが少し明るくなる。


「……ありがとう、リビア」


 俺がそう言うと、彼女は少し不思議そうに首を傾げた。


「どうしてお礼?」


「俺も、リビアと一緒なら、これからいろんなことを考えていけると思うから」


 リビアは一瞬だけ目を丸くした。


 それから、頬をほんのり赤く染めて微笑んだ。


「……もう、セスったら」


 彼女は少し照れくさそうに笑いながら、俺の手へそっと触れた。


 俺もその手を握り返す。


 窓の向こうでは、夕方の光が庭園を柔らかく照らしている。


 明日になれば、進路希望調査を提出することになる。


 その書類に書いた内容が、将来どのような形で実現するのかは、まだ分からない。


 それでも、今日の俺は、昨日より少しだけ自分の希望を言葉にできるようになった気がした。


 そして、その隣には、同じように未来を考えているリビアがいる。


 俺は彼女の手を握りながら、穏やかな夕暮れの時間を過ごした。


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