第101話 公爵令嬢様は、俺の将来を聞いてみたいらしい
パウリー公爵邸の執事長室には、朝の静かな空気が満ちていた。
窓から差し込む光が書棚の背表紙を照らし、磨かれた机の上には、今日の業務予定を記した書類が整然と並べられている。廊下の向こうでは使用人たちが仕事を始めているらしく、時折、控えめな足音や短い連絡の声が聞こえてきた。
俺は机の前に立ち、父さんが差し出した一枚の書類へ目を落とした。
「……進路希望調査、ですか?」
「ああ。学院から届いたものだ。今日中に提出する必要はないが、保護者にも確認してもらうようにとのことだ」
グレイヴ・シルフィール。
パウリー公爵家の執事長であり、俺を養子として迎えてくれた父さんは、いつもの落ち着いた表情で頷いた。
書類の上部には学院の印章が押され、その下に、現在の学習状況や今後希望する進路について記入する欄が設けられている。
将来就きたい職業。
さらに学びたい分野。
卒業後に希望する活動。
どれも、今すぐ答えを出さなければならないものではないらしい。説明文には、現時点での希望を把握し、今後の面談や学習指導の参考にするための調査だと書かれていた。
「学院では、こういうことも確認するんですね」
「貴族の子弟だけでなく、さまざまな立場の生徒が学んでいるからな。卒業後の道も一つではない。早い段階から考えておくことには意味がある」
父さんはそう言って、俺の手元へ視線を向けた。
「もっとも、現時点の希望が、そのまま将来の決定になるわけではない。分からないことがあれば、分からないと書いても構わん」
「はい。……あ、いや、うん」
思わず仕事中のような返事をしてしまうと、父さんはわずかに口元を緩めた。
「ここには私とお前しかいない。普段どおりでいい」
「ありがとう、父さん」
俺は書類を持ち直し、もう一度記入欄を眺めた。
将来の希望。
そう聞かれて、最初に思い浮かんだのは執事の仕事だった。
俺は幼い頃から父さんに教えられ、パウリー公爵家で多くのことを学んできた。今も執事見習いとして仕事に関わることがあり、いつか父さんのように、周囲から信頼される執事になりたいと思っている。
その気持ちは、今も変わっていない。
けれど、書類の空欄へすぐに「執事」と書き込もうとしたところで、指が止まった。
(……俺は、本当にそれだけを考えていればいいんだろうか)
執事になりたい。
それは間違いなく、俺自身の希望だ。
ただ、以前ならその先のことを考える必要はなかった。俺はリビアに仕える立場であり、彼女が幸せに暮らせるよう支えることが、何より大切な役割だったからだ。
けれど、今は違う。
俺とリビアは婚約している。
幼い頃から大切に思ってきた彼女は、俺を使用人としてだけでなく、将来を共にする相手として選んでくれた。
その事実を思い出すと、胸の奥が温かくなる。
同時に、これまでとは違う責任についても考えずにはいられなかった。
「セス」
父さんの声に顔を上げると、彼は俺の様子を静かに見ていた。
「何か迷っているのか?」
「……うん。執事の仕事を続けたい気持ちはあるんだ。でも、リビアの婚約者として、将来どうするのがいいのかって考えると、簡単には決められなくて」
父さんはすぐには答えなかった。
俺の言葉を最後まで聞いたあと、椅子の背へ軽く手を置き、穏やかな声で話し始めた。
「それは、今すぐ答えを出す必要のない問題だ。お前たちはまだ学院で学んでいる途中だからな」
「うん」
「ただし、考えなくてよい問題でもない。お前自身が何を望むのか、オリビア様とどのような未来を築きたいのか。それを少しずつ明確にしていく必要はあるだろう」
父さんは書類へ目を向けた。
「この調査は、将来の立場を決めるためのものではない。まずは今のお前が考えていることを、正直に書けばいい」
「……正直に、か」
俺は小さく呟いた。
執事の仕事を続けたい。
リビアの隣にいたい。
彼女を支えたいし、彼女にも頼ってもらいたい。
そして、できることなら、父さんや旦那様にも恩返しをしたい。
考えてみれば、俺の中にはいくつもの願いがあった。
それらを一つにまとめようとするから、答えが出なくなるのかもしれない。
「ありがとう、父さん。少し考えてみるよ」
「ああ。急がずに考えなさい。必要なら、私にも相談するといい」
父さんはそう言って、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
俺は書類を丁寧に折りたたみ、鞄へしまった。
今日は学院へ行ってからも、少し考える時間が必要になりそうだった。
◇
食堂へ向かうと、リビアが窓際の席で朝食を待っていた。
銀青色の髪は柔らかな朝日を受けて淡く輝き、彼女がこちらへ顔を向けると、その表情がぱっと明るくなる。
「セス、おはよう!」
「おはよう、リビア。今日はいい天気だね」
「うん。昨日までの雨が嘘みたい。庭園も綺麗だったよ」
俺が隣へ座ると、リビアは嬉しそうに微笑んだ。
朝食の準備が整い、焼きたてのパンと温かなスープが運ばれてくる。
俺たちは食事を始めながら、今日の授業について話していた。
「そういえば、セス。今日は学院で何か提出するものがあったっけ?」
「今日中の提出じゃないけど、進路希望調査の書類をもらったよ。父さんが確認してくれたんだ」
「あ、それなら私も昨日いただいたよ」
リビアは少し驚いたように目を丸くしたあと、納得したように頷いた。
「私のところには、昨日の夕方に届いたの。まだ全部は書いてないんだけどね」
「そうなんだ。リビアは、もう何を書くか決めてる?」
俺が尋ねると、彼女は少し考え込んだ。
「うーん……学びたいことはいくつかあるんだけど、将来のこととなると、まだ迷ってるかな」
その言葉に、俺は少し意外に感じた。
リビアは学問にも魔術にも優れていて、普段から自分の考えをしっかり持っている。
だから、進路についてもすでに何か決めているのかと思っていた。
「リビアでも迷うことがあるんだね」
そう言うと、彼女は少し頬を膨らませた。
「もう、セスったら。私だって迷うことくらいあるよ?」
「あ、ごめん。そういう意味じゃなくて……」
俺が慌てて言い直そうとすると、リビアは楽しそうに笑った。
「ふふっ、冗談だよ。でも、本当にまだ決めきれてないの。公爵家の娘として学ばなきゃいけないこともあるし、私自身が興味を持っていることもあるから」
彼女はスープを一口飲み、少しだけ視線を落とした。
「それに……セスと一緒に、どんな未来を過ごしたいかも考えたいし」
その言葉に、俺の胸が小さく跳ねた。
リビアは俺の反応に気づいたのか、少し照れくさそうに微笑んだ。
「ねえ、セス。今日、学院が終わったあと、少しだけ時間をもらってもいい?」
「もちろん。何か相談したいことがあるの?」
「うん。進路希望調査のことも含めて、セスの将来について聞いてみたいなって」
俺は彼女の顔を見つめた。
真剣な表情だった。
けれど、そこに不安や焦りは見えない。
ただ、俺と一緒に考えたいという気持ちが、まっすぐ伝わってくる。
「……うん。俺も、リビアと話したいと思ってた」
そう答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、約束だね」
俺は頷き、彼女と顔を見合わせた。
進路希望調査。
たった一枚の書類だったはずなのに、今はそれが、俺たちの未来について考えるきっかけになっている。
少し緊張する。
けれど、それ以上に、リビアがどんなことを考えているのか知りたいと思った。
◇
学院へ到着すると、教室では進路希望調査の話題が広がっていた。
机の上へ書類を置いて友人と相談する生徒もいれば、すでに記入を終えたらしく、余裕のある表情で本を読んでいる生徒もいる。
俺とリビアが席へ向かうと、ガレスがこちらへ顔を向けた。
「おはよう、クルセス! オリビア様もおはようございます!」
「おはよう、ガレス。今日は朝から賑やかだね」
「そりゃ、進路希望調査のせいだろ。みんな、何を書くか迷ってるみたいだぞ」
ガレスはそう言って、机の上に広げた書類を指さした。
そこにはすでにいくつかの項目が記入されている。
「ガレスは、もう書いたんだ?」
「まあな。俺は剣術をもっと学びたいし、将来は家の役に立てる仕事がしたいからな」
彼は少し照れくさそうに笑った。
「ただ、父上に見せたら、もう少し具体的に考えろって言われそうだけど」
その言葉を聞き、俺は以前ガレスが話していたことを思い出した。
彼は父親に、自分が学院で何を学び、どんなふうに成長しているのか見せたいと考えていた。
共同演習でも、自分にできる役割を果たそうと一生懸命だった。
「ガレスなら、きっと少しずつ見つけていけると思うよ」
俺が言うと、彼は嬉しそうに笑った。
「そうだといいな。クルセスはどうなんだ?」
「俺は、まだ考えてるところかな」
「へえ。お前でも迷うんだな」
ガレスは少し意外そうに目を丸くした。
その反応に、俺は苦笑した。
「俺だって迷うことはあるよ」
「いや、分かってるけどさ。お前は何でもできるから、将来のことも決まってるのかと思ってたんだ」
俺は少し考えてから答えた。
「できることが多いのと、何をしたいかが決まってるのは、別なのかもしれないね」
その言葉に、ガレスはしばらく考え込んだ。
「……なるほどな。確かにそうかもしれない」
隣で話を聞いていたサザリーが、静かに頷いた。
「僕もそう思うよ。能力があるからといって、その能力をどのように使いたいかまで決まるわけではないからね」
俺たちはサザリーへ顔を向けた。
彼は机の上に書類を置き、落ち着いた表情で続けた。
「僕の場合は、家の仕事に関係する分野へ進む可能性が高いけれど、それでも学院で学んでいるうちに興味が広がっているんだ。だから、今の段階で一つに決めてしまう必要はないと思っている」
ガレスは感心したように頷いた。
「サザリーは、そういうところちゃんと考えてるよな」
「君だって考えているだろう。剣術を学びたいという希望があるなら、それをどう活かすか考えればいいんじゃないかな」
サザリーの言葉に、ガレスは少し嬉しそうに笑った。
「そうだな。よし、もう少し考えてみるか」
俺は二人のやり取りを聞きながら、胸の奥が少し軽くなるのを感じていた。
将来のことを迷っているのは、俺だけではない。
ガレスもサザリーも、それぞれの立場で考えている。
そして、すぐに答えを出す必要はないと分かっていても、真剣に向き合おうとしている。
(俺も、今の自分が何を望んでいるのか、ちゃんと考えてみよう)
そう思いながら、俺は鞄から書類を取り出した。
◇
午前の授業では、進路希望調査に関連して、学院で学ぶことの意味について短い説明があった。
担当教員は黒板の前に立ち、生徒たちへ穏やかな声で話しかけた。
「今回の調査は、皆さんの将来を決定するためのものではありません。今の段階で何に興味を持ち、どのようなことを学びたいと考えているのかを知るためのものです」
先生は教室を見渡し、言葉を続けた。
「家の事情や立場によって、希望する進路が限られる場合もあるでしょう。しかし、それでも自分が何を望んでいるのかを考えることには意味があります」
俺はその言葉を聞きながら、ノートへ目を落とした。
自分が何を望んでいるのか。
父さんも、今朝同じようなことを言っていた。
けれど、いざ考えようとすると、簡単には答えが出ない。
俺は執事の仕事が好きだ。
人の役に立つことも、誰かが安心して過ごせるように準備することも、嫌いではない。
むしろ、そういう仕事をしているとき、自分が必要とされていると感じられる。
ただ、それだけで将来を決めてよいのだろうか。
リビアの婚約者として、俺には別の役割もある。
公爵家の一人娘である彼女と結婚するということは、単に好きな人と一緒に暮らすだけでは済まないはずだ。
身分や家の立場、周囲との関係。
考えなければならないことは、きっとたくさんある。
(……でも、だからって俺が全部を決める必要はないんだよな)
俺はふと、昨日の共同演習の講評を思い出した。
自分でできることと、自分がするべきことは違う。
周囲と相談し、役割を分けることも大切だと教わった。
将来についても、同じなのかもしれない。
俺一人で答えを出すのではなく、リビアと話し、父さんや旦那様にも相談しながら考えていけばいい。
そう思うと、少しだけ気持ちが落ち着いた。
◇
昼休み、俺たちは食堂でエミリアと合流した。
彼女は進路希望調査の書類を鞄から取り出し、少し困ったように微笑んでいた。
「皆さん、もう書き終わりましたか?」
「俺はまだだよ」
俺が答えると、エミリアは安心したように息を吐いた。
「よかったです。私も、まだ迷っているところがあって」
ガレスが興味深そうに身を乗り出した。
「エミリアは、将来何をしたいんだ?」
「私は、魔術の制御についてもっと学びたいと思っています。それから、物資の管理や支援の仕事にも興味があるんです」
エミリアは少し照れくさそうに笑った。
「共同演習で、必要なものを正確に届けることの大切さを感じたので」
その言葉に、俺は思わず頷いた。
エミリアは演習中、物資の数や状態を丁寧に確認していた。
講評でも、その仕事が評価されていた。
「エミリアらしいね」
リビアが微笑むと、エミリアは少し頬を赤くした。
「ありがとうございます。でも、まだ具体的にどんな仕事があるのか分からなくて」
「それなら、学院の先生に相談してみるのもいいかもしれないね」
サザリーが言うと、エミリアは頷いた。
「はい。私もそうしようと思っています」
ガレスは腕を組み、少し考え込んだ。
「みんな、いろんなことを考えてるんだな。俺は剣術ばっかりだったから、もう少し広く考えた方がいいのかもしれない」
「でも、剣術を学びたいっていう気持ちも大切だと思うよ」
俺が言うと、ガレスは顔を上げた。
「そうか?」
「うん。何をしたいか分からない人もいる中で、ガレスには好きなことがあるんだから。それを大切にしながら、ほかのことも考えていけばいいんじゃないかな」
ガレスはしばらく考えたあと、嬉しそうに笑った。
「そうだな。ありがとな、クルセス」
俺は小さく頷いた。
昼休みの食堂には、ほかの生徒たちの声が響いている。
進路について話している者もいれば、普段どおり授業や部活動の話をしている者もいる。
それぞれが違う未来を考えているのだろう。
俺はその様子を眺めながら、少し不思議な気持ちになった。
今までは、目の前の仕事や授業をこなすことで精一杯だった。
けれど、将来について考えるということは、まだ見ぬ時間へ目を向けることなのかもしれない。
そして、その未来には、リビアがいる。
そう考えるだけで、胸の奥が温かくなった。
◇
放課後、俺とリビアは学院の図書室へ向かった。
進路希望調査について話すため、静かな場所を探していたところ、リビアが図書室の一角にある閲覧席を提案してくれたのだ。
窓際の席には柔らかな夕方の光が差し込み、書棚の間には紙と木の落ち着いた香りが漂っている。
俺たちは受付の職員へ挨拶し、空いている席へ腰を下ろした。
リビアは鞄から進路希望調査の書類を取り出し、机の上へ広げた。
「セス、今日は時間を作ってくれてありがとう」
「ううん。俺も話したかったから」
俺が答えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
しばらくの間、二人で書類へ目を落とす。
将来の希望。
学びたい分野。
卒業後に考えていること。
どれも、簡単そうに見えて難しい。
「ねえ、セス」
リビアが静かに口を開いた。
「セスは、将来も執事のお仕事を続けたい?」
俺は少し考えてから頷いた。
「うん。執事の仕事は好きだよ。父さんみたいに、周りから信頼される人になりたいと思ってる」
リビアは真剣な表情で頷いた。
「そっか。……うん、セスらしいね」
彼女は少し微笑んだあと、言葉を続けた。
「でも、私たちが結婚したら、今と同じようにはいかないこともあるよね」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
「うん。俺も、それは考えてた」
リビアは俺の顔を見つめた。
「セスは、それが不安?」
俺はすぐには答えられなかった。
不安がないと言えば、嘘になる。
俺は平民として生まれ、スラムで暮らしていた孤児だった。
今は父さんの養子となり、シルフィール伯爵家の一員として扱われている。
けれど、だからといって、俺が公爵家の一人娘と結婚することに、何の問題もないとは思えない。
旦那様は婚約を認めてくれた。
リビアも、俺と一緒にいたいと言ってくれている。
それでも、周囲の人たちがどう受け止めるのか、将来どんな役割を求められるのか、まだ分からないことは多い。
「……少し、不安かな」
俺が正直に答えると、リビアは静かに頷いた。
「そっか」
彼女は俺の手元へ視線を落とし、少しだけ考え込んだ。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「私もね、全部が分かってるわけじゃないの」
俺は彼女へ顔を向けた。
「リビアも?」
「うん。お父様は私たちの婚約を認めてくださったけど、結婚したあとのことまで、全部決まっているわけじゃないでしょう?」
リビアは少し照れくさそうに笑った。
「だから、私もちゃんと考えたいの。公爵家の娘として何ができるのか、セスと一緒にどんな生活をしたいのか」
その言葉を聞き、胸の奥が少し軽くなった。
リビアも、同じように迷っている。
そして、その迷いを俺へ隠そうとしていない。
「……ありがとう、リビア」
俺がそう言うと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「どうしてお礼?」
「俺だけが考えてるんじゃないって分かったから。リビアも一緒に考えてくれるんだって思ったら、少し安心したんだ」
リビアは一瞬だけ目を丸くした。
それから、嬉しそうに微笑んだ。
「当たり前だよ。私たち、婚約者なんだから」
その言葉に、俺も自然と笑みをこぼした。
婚約者。
何度も聞いている言葉なのに、今でも少し照れくさい。
けれど、以前よりも、その意味を深く感じられるようになってきた気がする。
ただ好きな人と一緒にいるだけではない。
将来について考え、迷ったときには相談し、互いの希望を大切にする。
そういう関係を、これから少しずつ築いていくのだろう。
◇
しばらく話しているうちに、リビアがふと真剣な表情になった。
「ねえ、セス。ひとつ聞いてもいい?」
「うん。何でも聞いて」
リビアは少しだけ視線を落とし、言葉を選ぶように口を開いた。
「セスは……私のためじゃなくて、自分のためにやってみたいことってある?」
その問いに、俺は思わず黙り込んだ。
自分のためにやってみたいこと。
これまで、あまり考えたことがなかった。
執事の仕事を覚えたのは、父さんの役に立ちたかったからだ。
魔術や剣術を学んだのも、リビアを守れるようになりたかったからという理由が大きい。
学問に力を入れたのも、周囲の期待に応えたいという気持ちがあった。
もちろん、学ぶこと自体は好きだ。
新しい知識を得るのは楽しいし、できなかったことができるようになると嬉しい。
けれど、それを将来の希望として考えたことは、ほとんどなかった。
「……難しい質問だね」
俺が苦笑すると、リビアは少し申し訳なさそうに微笑んだ。
「ごめんね。急に聞いちゃって」
「ううん。大事なことだと思うよ」
俺はしばらく考え込んだ。
そして、ふと思い浮かんだことを口にした。
「……もっと、いろんなことを学んでみたいかな」
リビアが顔を上げた。
「いろんなこと?」
「うん。魔術も剣術も、まだ知らないことがたくさんあるし、最近は本の保存方法にも興味があるんだ。あと、学院の授業で習う歴史や地理も、実際に見てみたいと思うことがある」
俺は少し照れくさくなりながら続けた。
「将来の仕事につながるかどうかは分からないけど、知らないことを知るのが楽しいんだと思う」
リビアはしばらく俺を見つめていた。
それから、ゆっくりと笑みを広げた。
「……うん。すごく素敵だと思う」
その言葉に、俺は少し驚いた。
「そうかな?」
「うん。セスって、昔から何でも一生懸命覚えようとしてたでしょう? でも、最近は前より楽しそうに学んでいる気がするの」
リビアは嬉しそうに微笑んだ。
「私は、そういうセスを見るのが好きだよ」
俺は彼女の顔を見つめた。
自分のために何かを学びたい。
そんな当たり前のような願いを、リビアは嬉しそうに受け止めてくれる。
そのことが、何だかとても温かかった。
「……ありがとう。じゃあ、進路希望調査にも、そういうことを書いてみようかな」
「うん! きっといいと思う」
リビアは明るく頷いた。
俺は書類へ目を落とし、ゆっくりとペンを取った。
将来の希望。
執事としての仕事を続けたい。
さらに学びたい分野。
魔術、剣術、学問、そして興味を持ったことを幅広く学びたい。
卒業後については、まだ具体的に決めていない。
そう書き込んでいくと、不思議と気持ちが落ち着いてきた。
すべてを決める必要はない。
今の自分が考えていることを、正直に書けばいい。
父さんが言っていたことの意味が、少し分かった気がした。
◇
図書室を出る頃には、夕方の光が廊下へ差し込んでいた。
俺たちは並んで歩きながら、今日話したことを振り返っていた。
「セス、今日はありがとう」
リビアが微笑んだ。
「俺こそ、ありがとう。リビアと話せてよかったよ」
「ふふっ。私も、セスがどんなことを考えているのか聞けて嬉しかった」
彼女は少し照れくさそうに笑ったあと、俺の手へそっと触れた。
俺はその手を握り返し、周囲の生徒たちの邪魔にならないよう歩き続けた。
進路希望調査は、まだ提出していない。
将来のことも、すべて決まったわけではない。
けれど、今日の会話で一つだけ分かったことがある。
俺は、リビアと一緒に未来を考えていきたい。
彼女の幸せを願うだけでなく、自分自身の希望も大切にしながら、二人で歩いていきたい。
それが、今の俺の素直な気持ちだった。
リビアは俺の手を握りながら、楽しそうに微笑んだ。
「ねえ、セス。いつか、私たちが大人になったとき、今日のことを思い出すのかな?」
「そうかもしれないね」
俺は少し考えてから答えた。
「そのとき、どんなふうに思うんだろう」
リビアはしばらく考え込んだあと、嬉しそうに笑った。
「きっと、あのとき一緒に考えてよかったねって思うんじゃないかな」
その言葉に、俺も自然と笑みをこぼした。
「うん。俺も、そう思えたら嬉しいな」
夕方の光が、廊下の窓から柔らかく差し込んでいる。
俺たちは手をつないだまま、ゆっくりと歩き続けた。
将来のことは、まだ分からない。
どんな仕事をして、どんな場所で暮らし、どんな日々を過ごすのか。
それでも、今は不安ばかりではなかった。
隣にはリビアがいる。
俺のことを大切に思い、一緒に考えてくれる人がいる。
そして、俺も彼女と一緒に、まだ知らない未来を見てみたいと思っている。
その気持ちがあれば、きっと少しずつ前へ進んでいける。
俺は彼女の手を握り返し、穏やかな夕方の学院をあとにした。




