第6話 古き王は笑い、俺は黒い枝を選ぶ
弱く光る何かのそばで、俺はまだ動けていた。乳白色の濁りが、輪郭のすぐ際まで迫っている。前の個体なら、触れた瞬間に境目が崩れて終わっていたはずの場所だ。だが今の体は、軋みながらもそこに留まっている。同じ濁り、同じ場所のはずなのに、結果だけが違う。
「……前の俺なら、ここでもう終わっていたはずだ」
【外部負荷:白毒濃度(低)】
見慣れない軽さの表示だった。これまでなら警告の後に壊れる感触が続いた。今回は続かない。死んで得たものが、初めて「詰み」じゃなく「勝ち」の顔をして返ってきた気がした。
光は変わらず弱く揺れていた。近づけば近づくほど、周りの濁りが濃くなっていくのが分かる。それでも目を離せなかった。もう少し踏み込んで、光との距離を詰めてみる。
とたん、体の芯まで重さが食い込んできた。輪郭がぐらつき、内側から軋む感覚が這い上がってくる。
【警告:白毒濃度が耐性上限に接近】
慌てて薄い方へ引き返す。耐性は確かにある。だが無敵ではない。
「耐性って言っても、無敵ってわけじゃないんだよな」
周囲を見渡すと、漂っていたはずの同族の輪郭が、さっきよりも少なくなっている気がした。
【周囲に同族反応:減少傾向】
祝福だと信じて沈んでいく連中を、止める術は今の俺にもない。ただ、自分がまだこの薄い場所に踏みとどまっていることだけが、今できる精一杯だった。
光は、まだそこにいた。近づくほど、見覚えがあるという感覚が強くなる。輪郭の揺れ方、明滅の間隔――前に押し出したあの光と、驚くほどよく似ている。だが確かめる手立てはどこにもない。
もう一つの俺――あの分岐の果てに薄い方へ向かった気配も、探したが見つからない。
「見覚えがあるって言ってるのは、俺だけかよ」
分かるのは、この光を失いたくないという気持ちだけだ。今度こそ、と思う。守れなかった前回の続きを、ここでやり直せるなら。そのためには、この光ごと安全な場所へ移す必要がある。
俺は縁をなぞりながら、薄い流れの気配を探し始めた。光を挟むようにして進む。濁りの濃淡は一様ではなく、わずかに軽い層と重い層が縞のように入り混じっていた。軽い層を選んで辿るだけで、体にかかる圧が目に見えて和らぐ。前は押し出すことしかできなかった。今度は、留まれる場所を探せる。
同じ場所、同じ濁りのはずなのに、今度は歩けている。二周目という言葉が、初めて負けを覆す響きを持って感じられた。
薄い筋を見つけかけたそのとき、遠くで何かが動いた。濃い濁りの奥、これまで見た同族のどれとも違う、途方もなく大きな輪郭が、ゆっくりとこちらへ流れてくる。白毒を、恐れる様子もなく進んでくる巨大な気配だった。あれほどの濃さの中を、平然と漂っている。薄い場所を這うようにして生きている俺たちとは、何もかもが違う存在だった。
濁りの中を、恐れる様子もなく進んでくる。距離が縮むごとに、水そのものの重さが変わっていくのが分かった。圧じゃない。もっと単純な、格の違いだった。
この光を庇ったまま、俺は動けずにいた。逃げる速さもない。隠れる場所もない。喰う気すらないかもしれない――そう思わせるくらい、悠然としていた。あれほどの濃度なら、俺はとうに軋んで終わっているはずだ。なのに、その巨体はぴくりとも揺らがない。
「……ふざけてるだろ、規格が違いすぎる」
【上位個体を検出】
古き王。俺は勝手にそう呼ぶことにした。古い支配者、そのままの意味だ。
古き王は、群がっていた古い命たちに目もくれなかった。祝福だと信じて群がった古い命たちは、それでも古き王のそばこそが一番安全だと思っているらしく、崩れながらもすがるように輪郭を寄せていく。応える気配は、王の側には欠片もなかった。
嗤っている、と思った。変わる必要なんてない、変わるだけ無駄だ――そう言われている気がした。
「くそ、腹立つな」
声も出せないくせに、そう思う自分に驚いた。
ふと気づく。古き王の周り、濃い濁りの中に、薄い層が同心円状に広がっている。強さそのものが、白毒を押しのける盾になっている――そう見えた。あれは、安全地帯だ。
近づけば、この光ごとあの薄さに紛れ込めるかもしれない。俺は縁を選びながら、じりじりと近づいていった。光を挟むようにして進む。
頭の奥で、何かが弾けた。
【継承進化:発動条件を確認】
【次の分岐点に到達】
【進化選択肢を提示】
初めて見る種類の表示だった。今までは死んだ後にしか出なかった言葉が、生きたまま目の前に並んでいる。
【安定適応ルート】
【大型化ルート】
【黒い枝:詳細不明】
「……選べ、ってことか」
安定適応ルートには、見慣れた数字が並んでいた。今の延長線、堅実な伸び。悪くはない。だが、それだけだった。
大型化ルートは、桁が違った。輪郭も、力も、今よりずっと大きくなれるという。古き王と並んでも見劣りしない図体――そう匂わせる説明が浮かぶ。心が動いた。もう二度と、見下される側でいなくて済むかもしれない。だが数字の隣に、小さく赤い表示が付いていた。
【次世代生存率:大幅低下】
「……見栄えのいい罠かよ」
大きくなるほど、白毒の中で保つコストも増える。育つ前に沈む未来しか見えなかった。
黒い枝には、数字すらなかった。ステータスが匙を投げたみたいに、ただ「詳細不明」とだけ表示している。判断材料が一つもないルートを選べというのか――そう毒づきたくなったが、他の二つの数字が、選ぶ理由を先に潰していた。
迷っている間にも、光は俺のすぐそばで揺れていた。同一個体かどうかなんて、もうどうでもよかった。この光を、次まで残す。それだけが判断基準だった。
守ると決めた。見栄えのいい強さより、次に渡せる強さがいる。
「……分からないなら、分からないほうに賭ける」
俺は迷いなく、黒い枝を選んだ。
選択が確定した瞬間、体の内側に、これまでとは違う感触が入り込んできた。膜の外じゃない。内側から、何か「異物」のようなものが割り込んでくる感覚。分裂のときの「増える」感触とも違う。何かが、俺の中に居座ろうとしている。
【黒い枝:発芽】
【外部要素の取り込みを検出】
古き王は、もうこちらを見てすらいなかった。変わろうとする者になど興味もないというように、悠然と濃い場所の奥へ消えていく。
体の中で、何かが根を張り始めている。それが敵なのか味方なのか、今の俺にはまだ分からない。その光だけは、変わらずすぐそばで揺れている。それだけが、今しがみつける事実だった。
「……これが、黒い枝か」
分からないものを選んだ。その結果が、今、体の中で動き出していた。
第6話は、古き王という思想的な敵の初登場回でした。変わらず強い者は、変わろうとする者を笑う。それでも主人公は、見栄えのいい大型化ではなく、情報のない黒い枝を選びます。あの光を守るため、次の俺へ渡すため――その選択が、体の中で何かを動かし始めました。次話もご期待ください。




