第2話 手も足も口もないのに、生存率0.0003%らしい
俺の全部が、巨大な流れに飲み込まれた。
そう思った瞬間、体が押し潰される感覚がきた。全方向から同時に圧をかけられて、内側と外側の区別が消えていく。終わった。喰われた。そう覚悟した。
……のに、何も起きない。正確には、何も「噛まれて」いない。押されて、回されて、振り回されて、酷い目には遭っている。でも、それだけだ。俺はまだ、俺のままだった。
「……喰われて、ない?」
声にならない声で呟いた瞬間、頭の奥に文字が浮かんだ。
【個体情報を確認】
【継続生存を確認】
【損傷:軽微】
生きてる。生きてるじゃねえか。
文字は、まだ続いた。
【身体機能:未分化】
【移動能力:極小】
【発声器官:なし】
【再計算が完了しました】
【次世代生存率:0.0003%】
手も足もない。口もない。逃げるための器官も、助けを呼ぶための器官も、何ひとつない。そのうえ、わざわざ再計算までして出てきた生存率が、据え置きの0.0003%。あれだけもがいた記録は、数字を一桁も動かさなかったらしい。
「……これ、生き物じゃなくて誤差だろ」
じゃあ、さっきの「巨大な流れ」は何だったんだ。考える間もなく、答えが体の外側から伝わってきた。圧の方向、熱の揺らぎ、何かが強く動いた余波。そうか。これは喰われた衝撃じゃない。あいつが動いた時に生まれた水の流れに、俺が巻き込まれただけだ。
「なんだよ、それ……」
喰われる寸前まで覚悟を固めて、原因が「近くを泳いだ拍子の水流」。間抜けにも程がある。だが笑っている場合じゃない。流れが収まったということは、あいつはまだ近くにいて、俺をまだ諦めていない。
【周辺環境を再確認】
【捕食反応:継続】
【対象との距離:近接】
継続。近接。つまり、まだ狙われてる。分かってるから、もう少しだけ黙っててくれ。
なら、やることは一つだ。さっきまでの俺が「睨む」しかできなかったのなら、今の俺は一歩でも先へ行く。逃げる。手段は、これから探す。
まずは、自力で動く。
俺は体の内側にある「何か」に全力で命令を出した。動け。逃げろ。離れろ。腕はない。脚もない。ヒレも尾もない。それでも、膜の中でうごめく頼りない自分の全部を使って、進もうとした。
結果。俺の意志とは無関係に、周囲の流れがまた俺を押した。流されただけ。自分の意志では一ミリも動けていない。
「……マジかよ」
分かってる。言われなくても分かってる。でも、せめて「惜しかった」くらい言ってくれてもいいだろ。
なら、次だ。
体を動かせないなら、流れそのものに乗ればいい。さっき、あいつの動きが水流を生んで俺を押し流した。なら、その流れであいつから遠ざかる方向へ流されれば、少なくとも距離は稼げる。俺は膜越しの圧の変化と熱の揺らぎを頼りに、流れの向きを読もうとした。
……分からない。分かるわけがなかった。俺には「向き」を感じ取る感覚器がまともにない。上も下も前も後ろも、全部あやふやなままだ。それでも試した。流れが強い方へ、少しでも体を傾けようとした。
【行動傾向を記録】
【回避行動:試行】
【流れ利用:試行】
【結果:失敗】
失敗。しかも、傾けようとした方向とまったく逆に押し流された。工夫したつもりが、完全に裏目。俺は動けないだけじゃない。動こうとすると、むしろ状況を悪くする生き物らしい。最悪だ。
……いや、待て。【結果:失敗】の二文字だけ見て凹んでる場合か。失敗した、で終わりじゃない。「試行」と「結果」がちゃんと記録に残ってる。負けても、消えずに積み上がってる。だったら、この失敗すら、次の俺への元手になる。
その間にも、あいつの気配は近づいてくる。さっきより冷静に感じ取れるぶん、輪郭が分かった。思ったより、そこまで巨大じゃない。俺よりは大きいが、化け物というほどじゃない。たぶん、俺と同じくらい原始的な、ただの「命」だ。
悪意は感じない。怒りも、憎しみも、俺への興味すらない。あいつにとって俺は、たまたまそこにあった、喰えるかもしれない何か。それだけだ。その事実が、逆に一番怖かった。恨まれてもいないのに、喰われて終わる。理由なんて、いらないのか。この世界は。
頭の奥で、また文字が浮かぶ。
【現在環境:原初海域】
【世界難易度が更新されました】
【世界難易度:極めて高】
極めて高。さっきは「測定不能」って言ってたじゃねえか。測った結果が「極めて高」で確定って、どういう理不尽だよ。……いや、逆に言えば、この世界にはちゃんと難易度という指標があるってことだ。しかも、やけに俺に分かる言葉で出てくる。日本語で、ゲームっぽい体裁で。未定義生命が、なんでこんな親切設計の表示を持っているんだ。
……妙だな。
その違和感は頭の隅に引っかかったが、考えている場合じゃない。あいつが、もう目の前としか言いようのない距離まで来ている。
残された手は、最後の悪あがきだけだった。
内側の何かに、ありったけの力を込める。動け。膨らめ。縮め。何でもいいから、この状況を変えろ。
……体の一部が、意味もなく震えただけだった。移動でも防御でもない、ただの痙攣に近い反応。それが今の俺にできる、精一杯の「抵抗」だった。情けない。情けなさすぎる。けれど、それでも。まだ消えたくない。まだ、ほどけたくない。その感覚だけは、最後まで残っていた。
流れが、また変わった。今度は明確に、俺を狙って引き寄せる流れだ。
【警告】
対象との接触が確定。
回避行動は継続不能と判断。
継続不能。つまり、もう逃げられない。分かってる。言われなくても分かってるよ。それでも文字は、容赦なく続いた。
【死亡原因候補を更新】
【死亡原因候補:逃走不能】
逃走不能。捕食、じゃなくて、逃走不能。その言い方に一瞬苛立って、すぐに気づいた。これは事実そのものだ。俺は逃げようとした。自力で動こうとして、失敗した。流れを利用しようとして、失敗した。最後の悪あがきも、失敗した。三回試して、三回落ちた。
俺が死ぬとしたら、それは「強い敵に負けた」からじゃない。「動く手段が、何一つなかった」からだ。手も足も口もない俺に、逃げろという方が無茶だった。生存率0.0003%。その数字は、脅しじゃない。ただの現実だった。
――いや。「らしい」、だ。あの数字を誰が測ったのか、俺は知らない。動かない保証だって、どこにもない。さっき、もがいた分まで律儀に記録していったあいつが、この負けを数に入れないはずがない。
悔しい。悔しいけど――なぜだろう、さっきよりは少しだけ、頭の中が冷静だった。これは、敗北の記録だ。でも、記録できるってことは、次に渡せるってことだ。
「……覚えとけよ」
動けなかったこと。流れを読めなかったこと。工夫が全部裏目に出たこと。全部、次の俺への地図にしろ。
俺の周囲全部が、大きな影に覆われた。圧が強くなる。熱が変わる。膜の外側が、じわりと押し込まれる。
「まだ……」
まだ、終わりたくない。その気持ちだけを握りしめて、俺は最後の力を振り絞った。視界なんてないはずなのに、世界が急速に暗くなっていく感覚がした。
「次の……俺へ……」
言葉になったのかも分からない、その一言を最後に。俺の意識は、大きく歪んだ何かの中に、ゆっくりと呑まれていった。
【死亡原因を記録しました】
【継承する記録:生存意志/抵抗意志/回避行動/流れ利用/死亡原因:逃走不能】
【次世代生存率:0.0003% → 0.0004%】
第2話は、第1話ラストの「巨大な流れ」の正体を明かしつつ、「敗北の記録」というテーマを掘り下げました。
「逃走不能」の状態の中、主人公は生き延びる術を見つけられるのか、、?次話にもご期待ください。




