EP4 タイムマシンにおねがい
CB750Fを工場へ運び込んでから、陽一の日曜日は少し変わった。
朝になると山本が来る。
二人でバイクを触り、昼になれば適当に飯を食う。午後からまた続きを始め、日が傾けば工具を片付けて帰る。
そんな休日が当たり前になった。
もっとも、最初の頃の陽一は「一緒に直していた」と言えるほどのことは何もしていない。
この頃の陽一は、まだ十六歳だった。
「十二」
CBの横にしゃがみ込んだ山本が、手だけを伸ばした。
「はい」
陽一は工具箱から一本取って渡す。
山本は受け取る直前で手を止めた。
「それ十四」
「あれ」
「十二」
「……こっち?」
「それ十」
陽一は右手と左手に持った二本のスパナを見比べた。
見れば確かに大きさは違う。
だが床に並べてあると、どれも似たような銀色の棒にしか見えない。
「全部一緒じゃないですか」
「眼科行ってこい」
「そんなに違います?」
「数字書いてあんだろ」
言われて見れば、小さく刻印されている。
陽一は十二と書かれた一本を見つけ、今度こそ山本へ渡した。
「最初から自分で取った方が早くないです?」
「それじゃお前が覚えねえだろ」
「別に俺、バイク屋になるわけじゃないですよ」
山本はボルトを緩めながら鼻で笑った。
「直したいんだろ、これ」
「……まあ」
「だったら覚えろ」
それで話は終わった。
陽一は工具箱の前に座り、今度は言われる前にサイズを確認して並べ直した。
悔しかったわけではない。
たぶん。
*
半年も経つ頃には、山本が手を伸ばせば何を求めているのか分かるようになっていた。
「十二」
「はい」
「十」
「はい」
「プラス」
「はい」
山本が手元を見たまま受け取る。
しばらくして、その手がまた伸びた。
陽一は何も言われる前にラチェットを置いた。
山本が初めてこちらを見る。
「……何です?」
「いや」
ラチェットを受け取り、また作業へ戻る。
「やっと使えるようになったな」
「半年かかりましたけどね」
「半年で済んだなら上等だ」
褒められたのか馬鹿にされたのか分からない。
ただ、悪い気はしなかった。
工場の仕事でも、少しずつ扱える機械が増えていた。
旋盤、フライス盤、ボール盤。
最初は先輩の横で見ているだけだった加工も、簡単なものなら任せてもらえる。
仕事で覚えたことを休日に使い、休日に山本から教わったことが仕事で役に立つ。
どちらが先なのか、だんだん分からなくなっていった。
ある日、外した部品を測っていた陽一が眉を寄せた。
「山本さん」
「ん?」
「これ、もう駄目じゃないですか?」
小さなカラーを渡す。
山本は老眼鏡を少しずらし、穴の中を覗き込んだ。
「……減ってんな」
「ですよね」
「新品は?」
「見つからなかったです。中古なら一個ありました」
「いくら」
値段を言う。
山本の眉間に皺が寄った。
「こんなもんに?」
「俺もそう思いました」
陽一は部品を受け取った。
指先で転がしながら、もう一度寸法を見る。
「これくらいなら……作った方が早くないですか?」
返事がない。
顔を上げると、山本がこちらを見ていた。
「何です?」
「いや」
山本の口元が少しだけ緩む。
「お前もこっち側に来たなと思って」
「どっち側ですか」
「買う前に作ろうとする馬鹿の側」
「金がないだけです」
「入口はみんなそう言うんだよ」
「何の入口なんですか」
「そのうち分かる」
嫌な予感しかしなかった。
結局、その日の午後は旋盤の前で過ごした。
摩耗した部品をそのまま写すわけにはいかない。山本と寸法を考え、材料を決め、少し削っては測る。
山本は横から見ているだけだった。
「あと〇・二」
「分かってます」
「削りすぎんなよ」
「分かってます」
「面取り」
「分かってますって」
陽一は旋盤を止めた。
機械の音が消える。
「山本さん」
「なんだ」
「俺が平日ここで何してるか知ってます?」
「働いてる」
「そうじゃなくて」
「分かってるよ」
「じゃあ、ちょっと信用してくださいよ」
山本は加工途中の部品を覗き込んだ。
「仕事で作る部品ならな」
「はい」
「俺のFは別だ」
陽一はゆっくり山本を見る。
「……いつから山本さんのになったんですか」
「俺が直してんだから半分くらい俺のだろ」
「俺の親父のですよ」
「じゃあ三分の一」
「なんで取り分の話になってるんですか」
山本が笑った。
陽一も呆れながら、もう一度旋盤を回した。
出来上がった部品は、きちんと収まった。
取り付けてしまえば外からはほとんど見えない。
陽一は何度か動きを確認してから、少し離れて眺めた。
「どうだ」
「……普通ですね」
「お前なあ」
「いや、ちゃんと付きましたけど。普通に付いただけじゃないですか」
山本は取り付けた部品を指先で軽く叩いた。
「それでいいんだよ」
「そうなんですか?」
「ちゃんと作った部品ってのはな、付けたら普通に収まって、普通に動く。それが一番だ」
陽一も部品を見る。
自分が作ったと言わなければ、誰も気づかない。
それまでそこにあった物と同じように収まっている。
「……じゃあ、まあ」
「なんだ」
「悪くないです」
「だろ」
山本は満足そうだった。
陽一はもう一度だけ、自分の作った部品を見た。
その言葉は、少しだけ覚えておこうと思った。
*
そこからの三年間は、長かったはずなのに、振り返ってみると妙に短い。
十六歳だった陽一は、休日のたびに工場へ通った。
部品が見つからなければ、山本が昔の知り合いへ電話をかけた。何十年も放ってあった倉庫から埃まみれの部品が出てきて、使えると分かれば二人で喜ぶ。ところが次の日には別の不具合が見つかって、また頭を抱える。
金が足りなければ翌月まで待った。
待っている間に別の場所を触った。
買えない金属部品なら作れるようにもなった。ゴムや電装品のようにどうにもならない物だけは、陽一が給料から少しずつ金を残して買った。
急ぐ理由はなかった。
いつまでに完成させなければならないという期限もない。
だから時々、二人は修理とは関係のないことまで始めた。
「山本さん、これ使えますよね」
「使えるな」
陽一は外されたステーを持ち上げた。
「じゃあ、なんで外したんです?」
「アルミで作ったら格好いいと思って」
「…………」
「なんだ」
「これ、修理じゃないですよね?」
「違うな」
「使える物は使うって言ったの、山本さんですよね」
「言った」
「戻しましょうよ」
山本は腕を組んでステーを眺める。
「でも格好よくねえ」
「誰が見るんですか、こんなとこ」
「俺」
「山本さんのバイクじゃないでしょう」
陽一は元のステーを戻そうとした。
その手が止まる。
もう一度、CBを見る。
次に材料置き場を見る。
「……作るなら、もう少し細くできますよね」
山本がニヤリとした。
「お前、やる気じゃねえか」
「作るとは言ってません」
「顔が作る奴の顔だ」
「どんな顔ですか、それ」
二時間後。
二人は並んで旋盤の前にいた。
「山本さん、ここもう少し肉落とせません?」
「落とせるけど、やりすぎると逆にダセえぞ」
「じゃあ、このくらい?」
「もうちょい」
「穴も開けます?」
「いいな」
「軽くなるし」
「ほとんど変わらんけどな」
「それは言わないでください」
修理ではなかった。
必要もなかった。
それでも二人とも妙に真剣だった。
旋盤から部品を外し、並んで出来栄えを眺める。
「悪くないですね」
「だろ。だから最初から作れって言ったんだ」
「最初は必要ないって話だったでしょう」
「必要かどうかと格好いいかどうかは別だ」
「それで休日二日潰してるんですけど」
「どうせ暇だろ」
「山本さんと一緒にしないでください」
そう言いながらも、陽一はもう一度部品を光にかざした。
確かに、悪くない。
むしろ少し気に入っていた。
「――楽しそうだな、お前ら」
背後から声がした。
二人の動きが止まった。
陽一は部品を持ったまま、ゆっくり山本を見る。
山本もこちらを見た。
視線だけで、互いに同じことを確認する。
――言った?
――言ってない。
陽一は恐る恐る振り返った。
社長がいた。
いつからそこにいたのか分からない。腕を組んで、旋盤の横に積もったアルミの切粉を見ている。
「……お疲れさまです」
「おう。休日出勤ご苦労さん」
妙に優しい。
陽一は嫌な予感がした。
社長は床へ目を落とし、それから加工途中の部品を見る。
「で?」
「……はい」
「設備使う時は一言言えって、俺言ったよな?」
言われていた。
しかも一度ではない。
陽一は隣を見る。
山本が目を逸らした。
「山本さんが」
「おい」
「やろうって言いました」
「お前も途中からノリノリだっただろうが」
「でも言い出したのは山本さんでしょう」
「十六にもなって人のせいにすんな」
「こういう時だけ子供扱いしないでくださいよ」
「都合いい時だけ十六歳になるな」
「……仲いいな、お前ら」
社長が呆れたように言った。
二人とも黙った。
社長は加工した部品を手に取った。
陽一は怒られるものだと思っていたが、社長はしばらく黙ってそれを眺めている。
「これ、何に使うんだ?」
「CBのステーです」
「元のは?」
「あります」
「壊れたのか?」
「いえ」
「じゃあ、なんで作ってんだ?」
陽一は山本を見る。
今度は山本も逃げなかった。
「……格好いいから」
社長が目を閉じた。
「仕事じゃ絶対そんな理由で旋盤回すなよ」
「はい」
「二人ともな」
「はい」
社長はもう一度部品を見る。
「材料は端材か?」
「はい。捨てる予定だったやつです」
「刃物も古いの使ってるな?」
「それは俺が見てる」
山本が答えた。
社長は小さく息を吐いて、部品を陽一へ返した。
「だったら最後までやれ」
「……いいんですか?」
「もうここまで削っといて、今さら捨てる方がもったいないだろ」
陽一は手の中の部品を見る。
「ありがとうございます」
「ただし、月曜までに全部片付けろ。切粉一つ残すなよ」
「はい」
「あと田島」
「はい」
「怪我だけはすんな」
今までより少しだけ声が低かった。
「仕事じゃない日に怪我して、月曜から休まれたら俺が困る」
「……分かりました」
「山本さんも。こいつが無茶しそうなら止めてくださいよ」
「もう俺より慎重だよ」
「ならいいですけど」
社長はそれだけ言って、工場の奥へ歩いていった。
足音が聞こえなくなるまで、二人とも黙っていた。
やがて陽一が息を吐く。
「……怒られましたね」
「怒られたな」
「山本さんが始めたのに」
「まだ言うか」
「次からちゃんと社長に言ってくださいよ」
「お前が言え」
「なんで俺が」
二人はまた手の中の部品を見る。
しばらくして、陽一が聞いた。
「……続きやります?」
山本は当然のように保護眼鏡を掛け直した。
「当たり前だろ。ここまで作ったんだから」
「ですよね」
旋盤の電源が、もう一度入った。
*
それから一年が過ぎた。
さらに一年が過ぎた。
陽一は免許を取り、仕事で任されることも増えた。
十六歳だった身体も少し大きくなり、以前は山本と二人で持っていた物を一人で運べるようになった。
山本の白髪も、少し増えた気がする。
一度そう言ったら、
「お前のせいだ」
と返された。
それからは言わないことにした。
CBも少しずつ姿を変えた。
銀色のタンクには青いラインが走り、くすんでいたエンジンは金属らしい光を取り戻している。
新品で買った部品。
中古を直して使った部品。
父親が残したままの部品。
山本が昔の知り合いから探してきた部品。
陽一が自分で削った部品。
どれか一つだけを見れば、ただの部品だった。
それが一台に集まって、少しずつバイクへ戻っていった。
そして、陽一が十六歳だったあの日から三年が経った。
陽一は十九歳になっていた。
春のある日、いつものように工場で作業をしていると、山本が言った。
「田島」
「はい」
「今日、火ぃ入れるぞ」
陽一の手が止まった。
「……今日?」
「今日」
「本当に?」
「嫌なら来週にするか?」
「いや、やりますけど」
陽一はCBを見る。
三年。
ずっと触ってきたはずなのに、いざその日が来ると実感がなかった。
「急ですね」
「急じゃねえよ。昨日までに見るとこ全部見ただろ」
山本は指を折りながら確認する。
「油入れた。燃料見た。キャブやった。点火も見た。バッテリーも新品」
「はい」
「一発でかかるとは思ってねえけどな」
「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
「三年待ったんだ。今日駄目でも、また原因探しゃいい」
山本はCBのタンクを軽く叩いた。
「今さら一週間や二週間増えたって変わらん」
「三年か……」
「お前がちんたらしてっからな」
陽一は山本を見る。
「半分くらい山本さんの余計な加工のせいでしょう」
「格好よくなったろ」
「なりましたけど」
「ならいい」
それを言われると、何も言えなかった。
二人でCBを工場の外へ押し出した。
春の午後。
陽一が跨がる。
「俺がやるんですか?」
「お前のバイクだろ」
その言葉に、陽一の手が止まった。
三年前なら。
『親父のです』
そう答えていたと思う。
今は何も言わず、鍵を差した。
回す。
メーターに灯りがつく。
「ニュートラル」
「入ってます」
「チョーク」
「はい」
「変だと思ったらすぐ止めろよ。異音も聞き逃すな」
「分かってます」
山本が一歩下がった。
「じゃあ、やってみろ」
陽一はスターターボタンへ親指を置いた。
押す。
セルが回る。
かからない
陽一はボタンから指を離した。
何となく山本を見る。
「そんな顔すんな。最初なんてこんなもんだ」
「どんな顔ですか」
「世界が終わったみたいな顔」
「してませんよ」
「もう一回」
二度目。
まだ駄目だった。
三度目。
一瞬だけ音が変わった。
「あ」
二人同時に顔を上げた。
「今来ましたよね?」
「来たな」
山本もCBへ少し近づく。
「もう一回やれ」
四度目。
セルが回る。
一度。
二度目。
不揃いな爆発が続いた。
そして。
四気筒が目を覚ました
「――っ!」
陽一は反射的にハンドルを握り直した。
想像していたより、ずっと大きな音だった。
回転はまだ安定しない。少し咳き込むように車体が揺れる。
それでもエンジンは止まらない。
「山本さん!」
「聞こえねえ!」
「かかりました!」
「見りゃ分かる!」
山本が怒鳴った。
笑っていた。
陽一も笑った。
三年前まで、六畳の部屋でカバーを被っていた鉄の塊。
それが今、自分の下で熱を持って震えている。
排気の匂いがした。
その匂いの向こうに、昔の光景が浮かんだ。
家の前。
バイクに跨がる父親。
『うるさい! 暖機するならもう少し離れてやって!』
玄関から怒鳴る母親。
振り返って、笑っていた父親。
同じ音だったのかは、もう覚えていない。
顔だって、細かいところは少しずつ曖昧になっている。
それでも。
「……親父も」
「ん?」
「こんな音、聞いてたんですかね」
山本は何も言わず、しばらくCBを見ていた。
「ああ」
それだけだった。
陽一も、それ以上は何も言わなかった。
古い四気筒の音だけが、二人の間を埋めていた。
*
「――田島」
声がした。
陽一は顔を上げた。
「田島」
「……はい?」
「何ぼーっとしてんだ」
目の前に山本がいた。
工場の屋根を雨が叩いている。
昼休み。
食べかけの弁当。
十九歳の現在。
陽一は一度瞬きをした。
いつの間にか、随分昔まで戻っていたらしい。
「珍しいな。お前が飯食う手ぇ止めてぼーっとしてんの」
「……山本さんが昔の話するからでしょう」
「俺のせいかよ」
「『昔は一時間半歩いてた』って言ったの山本さんじゃないですか」
「ああ」
山本も思い出したらしい。
少しだけ遠い目をした。
「もう三年か」
「ですね」
「早えな」
陽一は山本の横顔を見る。
「山本さん、老けましたね」
「お前もな」
「俺まだ十九ですよ」
「俺から見りゃ十六も十九も一緒だ」
「三年かけてバイク直した人が言うと説得力ないですよ。十六と十九じゃ全然違います」
「生意気になったのは確かだな」
「山本さんの教育の成果です」
「俺はそんな育て方してねえよ」
陽一は笑いながら、残っていた飯を口へ運んだ。
しばらくして、山本が言った。
「でも、直してよかっただろ」
陽一は箸を止める。
以前なら、仕事が終わってから一時間半歩いていた。
冬なら帰る頃には真っ暗だった。
今では三十分も走れば家に着く。
買い物へ寄れる。
帰ってから本を読む時間も、映画を見る時間もある。
たった一台の古いバイクで、生活は随分変わった。
「……そうですね」
陽一は弁当箱を見ながら答えた。
それから少し考えて、顔を上げる。
「山本さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
山本が怪訝そうな顔をした。
「何が」
「三年前の」
「今さら?」
「一回取り消したので」
山本は一瞬黙った。
何のことだったか思い出したらしい。
鼻で笑う。
「遅えよ」
「じゃあいいです」
「また取り消すな」
昼休みの終わりを知らせる音が鳴った。
陽一は弁当箱を閉じる。
山本も腰を上げた。
「仕事ですね」
「おう」
二人はいつもの持ち場へ戻っていった。
旋盤の音がする。
誰かが鉄板を運んでいる。
フォークリフトの警告音が遠くで鳴った。
いつもの工場だった。
十六歳の自分は、もうここにはいない。
それでも、あの頃から続いているものは確かに残っている。
陽一は作業台の前に立ち、手袋をはめた。
長かった昔話は、そこで終わった。




