EP35 壊れかけのRadio
親戚の家に着いたのは、日が暮れかけた頃だった。
車が停まると、おじさんは大きく伸びをして、俺に笑いかけた。
「さあ、着いたぞ。長旅で疲れただろう」
「……うん」
「ははは。そんな暗い顔するなって。今日からここがお前の家なんだから」
そう言って、おじさんは俺の頭をくしゃくしゃと撫でた。
大きな手だった。
父ちゃんの手とは、少し違った。
車の荷台には、俺の家から運び出された食料や日用品、それから父ちゃんの工具箱が積まれていた。
おじさんはそれを見て、満足そうに頷いた。
「いやあ、よかったよかった。これだけあれば、しばらくは安心だな」
何が安心なのか、よく分からなかった。
ただ、俺を迎えに来てくれた人だった。だから、悪い人ではないのだろうと思った。
そう思いたかった。
玄関を開けると、おばさんが出てきた。
「お帰りなさい。……ああ、その子ね」
「陽一です。よろしくお願いします」
頭を下げると、おばさんは俺の顔をじっと見た。
「ずいぶん大きいのね。もっと小さい子かと思ってたわ」
「もう中学生だからな」
おじさんが笑った。
「まあ、身体が大きけりゃ、そのぶん働いてもらえるさ」
「そうねえ。うちだって余裕があるわけじゃないもの」
二人は笑っていた。
俺も、少しだけ笑った。どう返せばいいのか分からなかったからだ。
居間には、俺より少し年上の男の子と、年下の女の子がいた。おじさんの子供たちだった。
「ほら、挨拶しなさい」
おばさんに促されて、二人が顔を上げる。
「よろしく」
「……よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、男の子は少し不思議そうな顔をした。
「なんで敬語なの?」
「……え?」
「別にいいじゃん、普通に喋れば」
そう言って笑った。
俺は少し安心した。少なくとも、悪い人たちではなさそうだった。
その日の夕飯は、久しぶりに大勢で囲む食卓だった。
ご飯に味噌汁、煮物、それから少しの魚。戦争のせいで食料が不足していると聞いていたけれど、思っていたよりずっと立派な食事だった。
「さあ、食べなさい」
おばさんが言った。
「……いただきます」
久しぶりに、誰かが作ってくれた温かい飯だった。
「おいしいです」
「あら、そう」
おばさんはそれだけ言った。
向かい側では、おじさんが息子に魚の骨の取り方を教えていた。
「ほら、ここから箸を入れるんだ。そうそう、上手いじゃないか」
「父さん、俺もう子供じゃないんだけど」
「ははは。そうだったな」
楽しそうな声だった。
父ちゃんも、あんなふうに笑っていた。母ちゃんも、食事中によく俺を叱った。加奈は、俺が野菜を残そうとすると、やたらと厳しかった。
『ちゃんと食べなさい!』
そんな声が聞こえた気がした。
俺は黙って煮物を口に運んだ。
このときはまだ、ここで何とかやっていけるかもしれないと思っていた。
最初に違和感を覚えたのは、三日目の朝だった。
朝食を終えて立ち上がろうとすると、おばさんに呼び止められた。
「陽一くん、食器は?」
「……え?」
「食べたら片づけるものでしょう?」
「あ、すみません」
慌てて自分の食器を持つと、おばさんは首を振った。
「違う違う。みんなの分もよ」
「……あ、はい」
家では自分で洗い物をしていたし、世話になっているのだから、それくらいは当然だと思った。
次の日も洗った。その次の日も。
一週間もすると、俺が洗わなければ食器がそのまま残るようになった。
ある日、少し疲れて居間に座っていると、おばさんが台所から顔を出した。
「陽一くん。洗い物、まだなの?」
「あ……今からやります」
「言われないと分からないの?」
「……すみません」
「うちの子たちだって、自分のことくらいはするのよ」
居間では、男の子が新聞を読み、女の子はおじさんの隣で本を広げていた。
誰も立ち上がらなかった。
「……はい」
俺は台所へ向かった。
その夜から、洗い物が終わるまで居間に座らないようにした。
おじさんは、いつも笑っている人だった。
仕事から帰ってくると、大きな声で「ただいま」と言い、子供たちの頭を撫でた。
息子が何か失敗しても、滅多に怒鳴らなかった。
「こらこら。そういうことをしたら駄目だろう」
穏やかに諭し、どうしていけないのかを説明する。
娘が茶碗を割ったときも、そうだった。
「ごめんなさい、お父さん……」
女の子は泣きそうな顔をしていた。
おじさんは笑いながらしゃがみ込んだ。
「怪我はないか?」
「……うん」
「ならよかった。茶碗なんて、また買えばいいんだから」
そう言って、破片を拾い集めた。
俺も手伝った。
その光景を見て、少しだけ安心した。
やっぱり、優しい人なんだ。
そう思った。
その日の夕方、俺は物置から荷物を運んでいた。
古い木箱を持ち上げたとき、底が抜けた。中に入っていた釘や金具が、床一面に散らばった。
「あっ……!」
慌ててしゃがみ込むと、背後から声がした。
「おやおや、どうした?」
振り返ると、おじさんが立っていた。いつもの笑顔だった。
「あ……すみません。箱の底が抜けちゃって……」
「そうかそうか。古い箱だからなあ」
おじさんは笑いながら近づいてきた。
「怪我はないか?」
「……はい。大丈夫です」
「そりゃよかった」
俺も、少し笑った。
次の瞬間、何かが顔にぶつかった。
視界が横に跳ね、気がつくと床に倒れていた。
「……え?」
頬が熱かった。口の中に、鉄のような味が広がった。
見上げると、おじさんが立っていた。
笑っていた。
「陽一。物を壊したら、まず何て言うんだ?」
「…………」
「ん?」
優しい声だった。
「……すみません」
「うん。そうだな」
おじさんは満足そうに頷いた。
「人の物を壊したら、ちゃんと謝らないといけない。分かるな?」
「……はい」
「よしよし」
おじさんは俺の頭を撫でた。
さっきまで拳を握っていた手だった。
「次から気をつけるんだぞ」
そう言って、何事もなかったように部屋を出ていった。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
箱は、最初から壊れていた。それに、俺は謝った。ちゃんと謝ったはずだった。
どうして殴られたのか、分からなかった。
それから、食事の量が少しずつ変わり始めた。
最初は気のせいだと思った。
おじさんの茶碗には山盛りのご飯。息子と娘にも、それなりの量が盛られていた。
俺の茶碗だけ、少し少なかった。
戦争中だから、仕方ない。
そう思った。
でも、次の日はもっと少なかった。その次の日も。
おかずも、俺の皿だけ明らかに少なかった。
ある晩、食卓に煮物が並んだ。
おじさんの皿には肉が三切れ。息子には二切れ。娘にも二切れ。
俺の皿には、大根が二つと、小さな芋が一つだけだった。
肉はなかった。
ご飯も、茶碗の底が見えるほどしか入っていなかった。
「…………」
俺は思わず、自分の皿を見つめた。
「どうしたの、陽一くん」
「……いえ」
「何か不満?」
「……そんなことは」
「だったら、そんな顔しないでちょうだい。こっちだって苦労して用意してるんだから」
「……すみません」
俺が箸を取ろうとすると、向かい側の息子が言った。
「陽一、それ食べないの?」
「……え?」
「ずっと見てるからさ。いらないなら、俺がもらうよ」
「いや、食べるけど……」
「だって、いらなそうじゃん」
息子は箸を伸ばし、俺の皿から芋をつまんだ。
「あっ……」
そのまま、自分の口に運んだ。
「うん、うまい」
笑っていた。
俺は自分の皿を見た。
大根が二つ。
それだけだった。
昼間もほとんど食べていなかった。朝から掃除をして、薪を運んで、買い物にも行った。
腹が減っていた。
ずっと、腹が減っていた。
「……返せよ」
「ん?」
「……それ、俺のだろ」
息子はきょとんとした。
「もう食べちゃったよ」
「だから……!」
思わず立ち上がった。
「俺の飯だろ!」
食卓が静かになった。
「ちょっと、陽一くん。何なの、その言い方」
「だって、俺の……」
「食べ物くらいで、そんなに怒ることないでしょう?」
「……でも」
「本当に意地汚い子ね」
胸の奥が、かっと熱くなった。
俺はただ、自分の飯を食べたかっただけだった。
「ははは」
おじさんが笑った。
「どうしたどうした。ずいぶん元気だな、陽一」
いつもの笑顔だった。
「……おじさん、俺……」
「まあまあ。座りなさい」
おじさんが立ち上がり、俺の横まで歩いてくる。
「いいか、陽一。食事中に大声を出すのは、行儀が悪いんだ」
「……でも、俺のご飯を……」
そこで言葉が途切れた。
顔に衝撃が走り、椅子が倒れる音がした。
床に肩を打ちつけた。
「……っ!」
おじさんが俺を見下ろしていた。
笑っていた。
「人の話は、最後まで聞こうな」
さっきと同じ声だった。
「……はい」
「それから、食べ物のことで喧嘩しちゃいけない。みっともないだろう?」
「…………」
「陽一?」
「……はい」
「よし。分かればいいんだ」
おじさんは席に戻った。
「さあ、冷めないうちに食べよう」
息子は、もう俺を見ていなかった。娘はおばさんと何か話していた。
おばさんは味噌汁をすすりながら言った。
「まったく。せっかくの食事が台無しだわ」
「陽一」
おじさんが呼んだ。
「いつまで座ってるんだ? 飯が冷めるぞ」
「……はい」
俺は椅子を起こして座った。
茶碗には、ほんの少しのご飯。皿には、大根が二つ。
俺はそれを食べた。
味は、よく分からなかった。
それから、俺は食卓で何も言わなくなった。
飯が少なくても、おかずがなくても、息子が俺の皿に箸を伸ばしてきても、黙っていた。
おじさんは、そんな俺を見て嬉しそうに笑った。
「陽一も、ずいぶん行儀がよくなったなあ」
「……ありがとうございます」
でも、黙っていれば殴られないというわけでもなかった。
返事が少し遅れれば頭を叩かれた。
「返事はちゃんとしような」
頼まれた仕事を終えて座っていると、腹を蹴られた。
「まだやることがあるだろう?」
何をすればいいのか、聞いていなかった。
でも、そんなことは関係なかった。
聞き返せば、口答えだと言われた。
黙っていれば、無視するなと言われた。
謝れば、謝る前に考えろと言われた。
何をしても、間違いだった。
だから、いつの間にか、何も考えなくなった。
ただ、言われたことをする。
怒られたら謝る。
殴られたら、立ち上がる。
それだけだった。
十月七日。
加奈の誕生日だった。
俺はその日、朝から何度も日付を確かめていた。
加奈は、十四歳になったはずだった。
今頃、何をしているんだろう。
ちゃんと飯を食べているだろうか。寒くなってきたけれど、風邪なんかひいていないだろうか。
そんなことを考えながら、庭を掃いた。
夕飯のあと、いつもより早く洗い物を終わらせ、物置同然の自分の部屋へ戻った。
鞄の底から手帳を取り出す。
中には、加奈の写真が挟まっていた。
以前、あいつの誕生日に撮った写真だった。
「……誕生日、おめでとう」
小さく呟いた。
「……十四歳だな」
俺も、あと少しで十四歳になる。
あいつが帰ってきたら、何を話そう。怒っているだろうか。俺が勝手にいなくなったと思っているだろうか。
「……悪い」
写真に向かって謝った。
「……俺、帰れなくてさ」
十字架を握る。
「でも、絶対帰るから」
声が少し震えた。
「……だから、待っててくれよ」
写真の中の加奈は、笑っていた。
俺は写真を手帳に戻し、誰にも見つからないように鞄の底へしまった。
この家で、俺が自分のものだと言えるものは、もうほとんどなかった。
だから、これだけは絶対に取られたくなかった。
秋が深まる頃には、俺はほとんど喋らなくなっていた。
必要な返事だけをする。言われたことをする。それ以外は、なるべく目立たないようにする。
おじさんが笑っていると、身体が強張った。
足音が近づくだけで、肩に力が入った。
食卓では皿を見つめ、誰かの顔を見るのが怖くなった。
ある晩、息子が俺の皿からおかずを取った。
俺は黙っていた。
「陽一、怒んないの?」
「……別に」
「前はあんなに怒ったのに」
「…………」
「変なの」
おじさんが笑った。
「ははは。陽一も大人になったんだよ」
大人になったわけじゃない。
ただ、もう殴られたくなかった。
それだけだった。
そんなある日のことだった。
洗濯物を取り込んでいると、珍しく息子が庭に出てきた。
「陽一、それ一人でやってんの?」
「……うん」
「手伝ってやるよ」
俺は思わず顔を上げた。
「……え?」
「だから、手伝うって。量、多いだろ」
「……いいの?」
「いいって。俺だって、たまには手伝うよ」
そう言って、息子は物干し竿から洗濯物を外し始めた。
最初は何か言われるのではないかと身構えていた。
でも、何も起こらなかった。
二人で洗濯物を取り込み、畳んだ。
「お前、毎日こんなにやってんの?」
「……まあ」
「大変だな」
「……うん」
そんなふうに言われたのは、久しぶりだった。
息子は冗談を言いながら、俺に洗濯物を渡してきた。
俺も、少しだけ笑った。
もしかしたら。
少しずつ、変わっていくのかもしれない。
この家でも、普通に話せるようになるのかもしれない。
そんなことを考えてしまった。
途中、おばさんに呼ばれ、俺は台所へ向かった。
「陽一くん、こっちの水を運んでちょうだい」
「……はい」
戻ったときには、洗濯物はきれいに畳まれていた。
「終わったぞ」
息子が笑った。
「……ありがとう」
「別に。大したことしてないし」
その日は、少しだけ気持ちが軽かった。
それが、罠だったと知ったのは翌日だった。
「ちょっと! 誰か、知らない?」
おばさんの声が家中に響いた。
娘の下着が一枚なくなったらしい。
俺は台所で洗い物をしていた。
しばらくすると、居間に呼ばれた。
「陽一くん。昨日、洗濯物を片づけたわよね?」
「……はい」
「娘の下着、知らない?」
「……いえ、知りません」
「本当に?」
「……はい」
おばさんは疑わしそうに俺を見た。
すると、息子が口を開いた。
「そういえば昨日、陽一が洗濯物を畳んでたよね」
「……え?」
「俺も少し手伝ったけど、途中で陽一が一人で片づけてたし」
俺は息子を見た。
違う。
途中で台所に呼ばれたのは俺だった。
最後まで洗濯物を片づけていたのは、息子の方だった。
「……待ってよ」
「何?」
「昨日、最後に片づけたのは……」
「陽一くん」
おばさんが遮った。
「ちょっと部屋を見せてもらうわよ」
「……え?」
「何もしてないなら、困らないでしょう?」
俺は何も言えなかった。
おばさんとおじさん、それから息子が俺の部屋へ向かった。
俺も慌ててついていった。
おばさんは俺の鞄や布団を調べ始めた。
そして、布団の下から一枚の下着を取り出した。
「……あった」
頭の中が真っ白になった。
「……え?」
「陽一くん。これは何?」
「……知らない」
「知らない?」
「俺、こんなの……!」
そのとき、息子が小さく笑った。
ほんの一瞬だった。
でも、確かに見えた。
俺は思い出した。
昨日、洗濯物を一緒に畳んだこと。
途中で俺だけ台所に呼ばれたこと。
戻ったときには、全部片づいていたこと。
「……お前」
息子を見る。
「お前がやったんだろ……!」
「は? 何言ってんの?」
「昨日、最後に洗濯物を片づけたの、お前だろ!」
「俺は手伝っただけじゃん」
「嘘つくなよ!」
「陽一」
おじさんが笑った。
「人のせいにするのは、よくないなあ」
「違う! 俺じゃない!」
久しぶりに、大きな声が出た。
「本当に知らないんだ! 昨日、あいつが……!」
言い終わる前に、顔を殴られた。
身体が壁にぶつかった。
「……っ!」
「陽一。嘘はいけないなあ」
おじさんは笑っていた。
「……俺、やってない……」
「うんうん。まずは落ち着こうか」
また拳が飛んできた。
今度は避けることもできなかった。
床に倒れると、腹を蹴られた。
息が詰まった。
「……っ、かは……!」
「女の子の物を勝手に持っていくなんて、いけないことだろう?」
「……ちが……」
「それに、罪を人になすりつけるのは、もっといけない」
おじさんの声は、最初から最後まで穏やかだった。
俺が何を言っても、笑顔は変わらなかった。
おばさんは娘を連れて部屋を出ていった。
「本当に気持ちの悪いことをして。あの子がかわいそうだわ」
息子は黙って立っていた。
俺と目が合うと、すぐに視線をそらした。
助けてはくれなかった。
おじさんは俺の腕を掴み、立たせた。
「陽一。少し頭を冷やした方がいいな」
そのまま、家の裏にある物置へ連れていかれた。
冬の冷たい風が吹いていた。
俺は足元もおぼつかず、何度もつまずいた。
物置の扉が開く。
背中を強く押され、板張りの床に転がった。
「そこでしっかり反省しなさい」
おじさんは、いつものように笑っていた。
扉が閉まり、外から鍵のかかる音がした。
途端に、寒さが押し寄せてきた。
窓のない物置には暖房などなく、板張りの床は氷のように冷たかった。
「……っ、いた……」
起き上がろうとして、声が漏れた。
腕も、背中も、腹も痛い。
少し身体を動かすだけで、あちこちに鈍い痛みが走った。
そっと頬に触れる。
「……いっ!」
指先が触れただけで、飛び上がりそうになった。
顔がひどく腫れていた。
片方の目は腫れた頬に押し上げられ、まともに開かない。唇も膨れ上がり、口を閉じることさえ痛かった。
袖をめくると、腕にはいくつもの痣ができていた。
身体のあちこちが熱を持っていた。
殴られたところも、蹴られたところも、内側から焼けるように熱かった。
なのに。
「……さむい……」
歯が鳴った。
寒かった。
どうしようもなく、寒かった。
身体はこんなに熱いのに、指先は感覚がなくなりかけていた。
膝を抱えようとすると、腹が痛んだ。
横になろうとすると、背中が痛んだ。
どんな姿勢を取っても、どこかが痛かった。
それでも寒さに耐えきれず、俺は身体を小さく丸めた。
「……俺、やってないのに……」
誰も答えなかった。
壁の向こうから、家族の声が聞こえてきた。
夕食の時間になったらしい。
食器の触れ合う音。
誰かの笑い声。
おじさんの楽しそうな声も、その中に混じっていた。
俺は両手で耳を塞ごうとした。
けれど、腕を持ち上げるのも痛くて、途中でやめた。
昼を過ぎても、誰も来なかった。
夕方になっても、扉は開かなかった。
最初は、誰かが間違いに気づいてくれると思っていた。
息子が本当のことを話してくれるかもしれない。
おじさんが、話を聞いてくれるかもしれない。
でも、何も起こらなかった。
やがて外は暗くなり、物置の中はさらに冷え込んだ。
腹が減っていた。
喉も渇いていた。
何より、寒かった。
眠ろうとしても、痛みと寒さで目が覚めた。
身体を丸め、震えながら、俺は昨日のことを思い出していた。
長男が洗濯物を手伝ってくれたこと。
冗談を言って、一緒に笑ったこと。
ありがとうと言ったとき、笑ってくれたこと。
全部、嘘だった。
「……なんで……」
声が震えた。
「……なんで、そんなこと……」
返事はなかった。
俺は何もしていない。
それなのに、殴られた。
閉じ込められた。
誰も、信じてくれなかった。
もう、誰に何を言えばいいのか分からなかった。
ただ、早く朝になってほしかった。
痛みが消えなくてもいい。
腹が減っていてもいい。
ここから出してほしかった。
翌日、ようやく扉が開いた。
眩しい光が差し込んできた。
「おはよう、陽一」
おじさんだった。
いつもの笑顔だった。
「どうだ。反省できたか?」
俺は顔を上げた。
何もしていない。
何も悪いことなんかしていない。
そう言いたかった。
でも、言えなかった。
「……はい」
「うん?」
「……すみませんでした」
おじさんは満足そうに頷いた。
「うん。素直なのが一番だ」
そして、何事もなかったように言った。
「さあ、朝飯の片づけを手伝っておいで」
俺は立ち上がった。
足がふらついた。
それでも、頭を下げた。
「……はい」
その日から、俺は長男の顔を見ることも避けるようになった。
何か言われても、短く返事をするだけだった。
笑いかけられても、笑わなかった。
また何かを仕掛けられるかもしれない。
そう思うと、怖かった。
おばさんは相変わらずだった。
「陽一くん、そこ、まだ汚れてるわよ」
「……すみません」
「本当に雑ねえ。お母さんから教わらなかったの?」
「……すみません」
「謝らなくていいから、ちゃんとしてちょうだい」
「……はい」
母ちゃんのことを言われても、もう何も言わなかった。
おじさんの足音が聞こえると、身体が強張った。
笑い声が聞こえると、無意識に身構えた。
食卓では、誰とも目を合わせなくなった。
飯を取られても、黙っていた。
何をしても、どうせ変わらない。
そう思うようになっていた。
それでも、朝の祈りだけは続けていた。
まだ誰も起きていない時間に、布団の上で手を合わせる。
加奈が毎朝していたことだった。
最初は、あいつの無事を願っていた。
父ちゃんと母ちゃんのことも祈った。
戦争が早く終わりますように。
加奈が無事に帰ってきますように。
また、みんなで笑えますように。
でも、最近は。
何を祈っているのか、自分でもよく分からなくなっていた。
ただ、手を合わせた。
目を閉じた。
そして、しばらくじっとしていた。
それが終わると、いつもの一日が始まった。
やがて冬が深まり、二月になった。
二月十四日。
俺は十四歳になった。
父ちゃんと母ちゃんが死んでから、一年。
加奈がいなくなってから、半年ほどが経っていた。
誰も、俺の誕生日には気づかなかった。
朝からいつもどおり掃除をして、洗濯をして、薪を運んだ。
昼も、夕方も、何も変わらなかった。
夕飯の食卓では、娘が学校であったことを楽しそうに話していた。
おじさんは笑いながら聞いていた。
おばさんは娘の皿におかずを足してやった。
俺は黙って、自分の飯を食べた。
小さな茶碗に、少しのご飯。
大根の煮物が二つ。
それだけだった。
ふと、去年のことを思い出した。
父ちゃんと母ちゃんが死んだ日。
あの日から、全部おかしくなった。
でも、加奈がいた。
あいつが飯を作ってくれた。
怒ってくれた。
笑ってくれた。
俺の隣にいてくれた。
だから、何とか生きてこられた。
今は、誰もいない。
食事を終えて、洗い物を済ませると、俺は自分の部屋へ戻った。
布団の上に座り、膝を抱えた。
十四歳になった。
父ちゃんと母ちゃんが死んでから、一年。
俺は、何のためにここにいるんだろう。
毎朝、誰よりも早く起きて、掃除をして、洗濯をして、飯を作る手伝いをする。
怒られたら謝る。
殴られたら謝る。
何もしていなくても、謝る。
そうすれば、いつかこの人たちは俺を家族だと思ってくれるんだろうか。
……違う。
もう、分かっていた。
どれだけ頑張っても、俺はこの家の子供にはなれない。
おじさんが笑って頭を撫でてくれるのは、自分の子供だけだった。
おばさんが心配してくれるのも、自分の子供だけだった。
俺がいなくなったら、この人たちは悲しむだろうか。
少し考えた。
きっと、悲しまない。
それどころか、喜ぶかもしれない。
「…………」
胸の奥で、何かが切れた気がした。
悲しくはなかった。
腹も立たなかった。
涙も出なかった。
ただ、ひどく静かだった。
俺は、ここにいてはいけない。
ここは、俺の家じゃない。
俺の帰る場所は、ここじゃない。
帰ろう。
父ちゃんと母ちゃんがいた家に。
加奈が、いつも遊びに来ていた町に。
あいつが帰ってくるなら、きっとあそこだ。
俺が待っていなければ。
俺は、手帳に挟んだ加奈の写真を取り出した。
写真の中の加奈は、いつものように笑っていた。
「……帰るよ、加奈」
声に出してみると、不思議なくらい気持ちが落ち着いた。
もう、この家の人たちに好かれようとしなくていい。
家族になろうとしなくていい。
ただ、ここを出る。
それだけでいい。
けれど、今すぐ飛び出すわけにはいかなかった。
ここから故郷までは遠い。
道も、食べ物も、何も分からないまま逃げれば、途中で倒れてしまうかもしれない。
それに、見つかれば、また連れ戻される。
今度は何をされるか分からなかった。
だから、準備しよう。
少しずつでいい。
道を調べよう。
食べ物を残そう。
必要なものを集めよう。
誰にも気づかれないように。
俺は加奈の写真を手帳に戻した。
十字架を握りしめる。
「……待っててくれよ」
今度は、祈りではなかった。
自分自身に言い聞かせるための言葉だった。
翌朝も、俺はいつもどおり起きた。
掃除をして、洗濯をして、朝飯の片づけをした。
おばさんに嫌味を言われれば謝った。
おじさんに笑いかけられれば、頭を下げた。
長男に仕事を押しつけられても、黙って引き受けた。
何も変わっていないように見えたと思う。
でも、もう違った。
俺は、この家で生きていくつもりなんかなかった。
五月になったら、ここを出よう。
春が来て、少し暖かくなったら。
父ちゃんと母ちゃんの家へ帰ろう。
加奈を、待ちに帰ろう。
その日まで、俺は何も知らないふりをして過ごすことにした。
それからの三か月は、長かった。
俺は毎日、少しずつ準備を進めた。
買い物を頼まれたときには、店先に貼られた地図を眺めた。配達に来た人たちの会話から、通れる道や、戦争で使えなくなった道を覚えた。
家の中に古い地図があれば、掃除のついでに広げてみた。
故郷まで、どのくらいかかるだろう。
途中で寝る場所はあるだろうか。
道に迷ったら、どうしよう。
考えれば考えるほど怖くなった。
それでも、ここに残ることだけは考えられなかった。
お金も貯めようとした。
けれど、俺には小遣いなんてなかった。
買い物のお釣りは、一円でも足りなければおばさんに問い詰められた。働いても、手伝っても、何かをもらえることはなかった。
家から持ってきたわずかな小銭を数えても、旅に必要な金額には遠く及ばなかった。
ある夜、俺は布団の上に硬貨を並べて、何度も数え直した。
「……足りないな」
数え直したところで、増えるわけではなかった。
それでも、諦めるわけにはいかなかった。
四月の終わり、台所の棚を整理していたときだった。
古い封筒の中に、配給券が入っているのを見つけた。
何枚も重ねられていた。
おばさんは普段、そこから必要なものを取り出して使っていた。
俺はしばらく、それを見つめた。
これがあれば、途中で何か食べられるかもしれない。
でも、勝手に持っていけば泥棒だ。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
また殴られる。
見つかったら、今度こそ何をされるか分からない。
俺は封筒を棚に戻した。
その日は、何も持ち出さなかった。
けれど夜になっても、配給券のことが頭から離れなかった。
父ちゃんだったら、どうするだろう。
母ちゃんだったら、何て言うだろう。
加奈だったら、きっと怒る。
『陽一! 人の物を勝手に取っちゃ駄目でしょ!』
声が聞こえた気がした。
「……分かってるよ」
俺は布団の中で、小さく答えた。
「……分かってるけどさ」
ここにいたら、帰れない。
何も持たずに出ていったら、途中で倒れるかもしれない。
俺は目を閉じた。
そして、決めた。
五月の初め。
まだ空が白み始める前に、俺は目を覚ました。
いつもより早い時間だった。
家の中は静まり返っていた。
おじさんも、おばさんも、子供たちも眠っている。
俺は布団を畳み、鞄を開けた。
着替えを少し。
地図代わりに書き写した道順。
わずかな小銭。
加奈の写真が挟まった手帳。
そして、十字架。
それだけだった。
最後に、台所へ向かった。
棚を開ける。
封筒は、前と同じ場所にあった。
俺は震える手で中身を確かめ、配給券を数枚だけ抜き取った。
封筒を元に戻す。
棚を閉める。
それだけのことなのに、心臓がうるさいほど鳴っていた。
今にも背後から声がする気がした。
『陽一。何をしてるんだ?』
あの笑顔が浮かんだ。
俺は振り返った。
誰もいなかった。
もう一度、鞄の中身を確かめた。
加奈の写真も、十字架もある。
忘れ物はない。
玄関へ向かい、靴を履いた。
戸に手をかける。
ほんの少しだけ、迷った。
ここを出たら、もう戻れない。
いや。
戻りたくない。
俺は音を立てないように戸を開け、外へ出た。
冷たい朝の空気が頬に触れた。
春はもう終わりかけていた。
冬の物置で震えていた頃とは違う、柔らかい風だった。
俺は戸を閉めた。
そして、歩き出した。
最初はゆっくりだった。
家の角を曲がり、通りを抜け、見慣れた町並みが遠ざかっていく。
誰も追ってこなかった。
それでも、俺は何度も振り返った。
背後から足音が聞こえるたびに、肩が跳ねた。
車が通ると、思わず道の端に身を寄せた。
おじさんが乗っているかもしれない。
おばさんが配給券のことに気づいたかもしれない。
長男が、俺が逃げたことを面白がって知らせたかもしれない。
そんな考えが頭から離れなかった。
町を出る頃には、足が痛くなっていた。
それでも、立ち止まるのが怖かった。
後ろから誰かが来る気がした。
あの大きな手に肩を掴まれ、笑顔のまま引き戻される気がした。
「……早く……」
俺は歩く速度を上げた。
日が高くなると、腹が減ってきた。
朝飯は食べていなかった。
道端に腰を下ろし、鞄を開ける。
持ってきた小さな食べ物を口に運んだ。
少しずつ食べなければ、最後までもたない。
分かっていた。
でも、腹が減っていた。
何かを食べている間も、俺は何度も後ろを見た。
誰もいない。
それなのに、落ち着かなかった。
遠くで犬が吠えた。
びくりと身体が跳ねた。
誰かの笑い声が聞こえた。
反射的に顔を伏せた。
通り過ぎる大人の男がこちらを見るだけで、息が詰まりそうになった。
その人たちは、俺に何もしなかった。
ただ歩いているだけだった。
それでも怖かった。
その日の夕方、俺は小さな町にたどり着いた。
食料を扱う店を見つけ、恐る恐る中へ入った。
配給券を差し出すと、店の人はそれを確かめた。
「一人かい?」
心臓が跳ねた。
「……はい」
「家族は?」
「……先に行ってます」
嘘だった。
店の人は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
受け取れたわずかな食べ物を鞄にしまい、俺は店を出た。
外に出た瞬間、膝から力が抜けそうになった。
何も言われなかった。
怒られなかった。
殴られなかった。
それだけなのに、ひどく疲れた。
その夜は、使われていない小屋の軒下で眠った。
眠ったと言っても、何度も目が覚めた。
風が吹くたびに、誰かが近づいてくる気がした。
遠くで車の音がすると、身体を起こした。
暗闇の向こうに、おじさんの笑顔が浮かぶ。
俺は鞄を抱きしめた。
「……来ないでくれ……」
小さく呟いた。
誰もいなかった。
次の日も歩いた。
その次の日も。
途中で道を間違え、何時間も余計に歩いた。
靴擦れができた。
足の裏が痛んだ。
雨に降られ、服が濡れた日もあった。
それでも、引き返そうとは思わなかった。
ただ、追いつかれるのが怖かった。
道端で休んでいるときも、誰かが近づけば立ち上がった。
人の多い場所では顔を伏せた。
夜はなるべく人目につかないところを探した。
何日経っても、恐怖は消えなかった。
おじさんたちは、きっと怒っている。
俺が逃げたことに気づいている。
配給券を持っていったことも、きっと分かっている。
見つかったら、ただでは済まない。
そう思っていた。
けれど、その頃。
親戚の家では、朝になっても陽一が起きてこないことを、おばさんが不審に思っていた。
「陽一くん! いつまで寝てるの!」
返事はなかった。
何度呼んでも返事がないので、部屋を覗いた。
布団は畳まれ、鞄もなくなっていた。
「あなた、ちょっと」
居間で新聞を読んでいた夫を呼ぶ。
「あの子、いないんだけど」
「ん? 陽一か?」
「ええ。荷物もなくなってるのよ」
おじさんは少し考え、それから笑った。
「ははは。そうか。とうとう出ていったか」
「どうするの?」
「どうするって、帰りたかったんだろう。あの子も」
「まったく。あれだけ世話してやったのに、お礼の一つもないなんて」
おばさんは呆れたようにため息をついた。
「まあ、いいじゃないか。本人が出ていったんだから」
「そうね。これで食費も少し浮くわ」
息子は、陽一がいなくなったと聞いても、たいして驚かなかった。
「ふうん。じゃあ、もう戻ってこないの?」
「さあなあ」
おじさんは笑った。
「戻ってきても、今さら困るけどな」
家族は、そのまま朝食を続けた。
誰も陽一を探しに行こうとはしなかった。
台所の棚にしまわれた封筒から、配給券が数枚なくなっていることにも、誰一人気づかなかった。
彼らにとっては、厄介な居候が一人いなくなった。
ただ、それだけのことだった。
一方の俺は、そんなことを知るはずもなかった。
歩いている間、ずっと背後を気にしていた。
夜になると、誰かに追いかけられる夢を見た。
おじさんが笑いながら近づいてくる。
『陽一。勝手に出ていくなんて、いけないなあ』
逃げようとしても、足が動かない。
振り上げられた拳が見える。
「……っ!」
目が覚めた。
心臓が激しく鳴っていた。
辺りは静かだった。
誰もいなかった。
俺はしばらく動けずにいた。
それから、鞄の中の手帳を取り出した。
加奈の写真を見る。
「……もう少しだから」
自分に言い聞かせるように呟いた。
「……もう少しで、帰れるから」
それだけを支えに、また歩き始めた。
故郷が近づくにつれ、見覚えのある地名が増えてきた。
昔、父ちゃんと車で通った道。
加奈と話したことのある町の名前。
見慣れた山の形。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
帰ってきた。
もうすぐ、帰れる。
きっと、あいつも待っている。
そう思った。
けれど、町へ近づくにつれ、景色が変わり始めた。
道路の端には、壊れた車が放置されていた。
窓ガラスの割れた建物。
黒く焼けた壁。
屋根のない家。
道端には、瓦礫が積み上げられていた。
「…………」
俺は足を止めた。
ここは、本当に俺の町なのだろうか。
見覚えのあるはずの通りが、まるで別の場所になっていた。
それでも、歩いた。
学校へ続く道を通り、商店街を抜けた。
昔、加奈と寄り道した店は、跡形もなくなっていた。
よく菓子を買った店も、シャッターが歪み、看板が地面に落ちていた。
俺はその前で立ち止まった。
加奈が、菓子の値段を見て怒っていたことを思い出した。
『また値上がりしてる!』
俺が文句を言うと、加奈は笑っていた。
その声が、聞こえた気がした。
「……加奈」
名前を呼んだ。
返事はなかった。
俺は走り出した。
自分の家へ向かった。
角を曲がり、坂を上がる。
見慣れた塀が見えた。
けれど、そこにあったのは、記憶の中の家ではなかった。
屋根の一部が崩れ、壁には大きな亀裂が走っていた。
窓ガラスは割れ、庭には瓦礫が散らばっていた。
玄関の戸も、斜めに傾いていた。
「……嘘だろ」
俺は門の前に立ち尽くした。
父ちゃんと母ちゃんがいた家。
加奈が毎日のように遊びに来ていた家。
俺が帰りたかった場所。
それが、こんな姿になっていた。
恐る恐る中へ入る。
床には埃が積もっていた。
壁の一部が崩れ、雨が入り込んだ跡もあった。
居間には、倒れた家具が残っていた。
母ちゃんが使っていた食器棚は壊れていた。
父ちゃんの椅子も、脚が折れていた。
俺はその場にしゃがみ込んだ。
「……ただいま」
小さく言った。
返事はなかった。
それでも、まだ終わりじゃない。
加奈の家がある。
あいつが帰ってきているかもしれない。
俺は立ち上がり、家を飛び出した。
一之瀬家へ向かう道は、何度も通った道だった。
目を閉じていても行けると思っていた。
けれど、そこにあったはずの家は、ほとんど残っていなかった。
焼け焦げた柱。
崩れた壁。
黒くなった地面。
庭の花壇も、形が分からなくなっていた。
「…………」
俺は門があった場所に立った。
何度も呼び鈴を押した家だった。
加奈が玄関から飛び出してきた家だった。
夏祭りの日も、ここから一緒に出かけた。
帰り道で、あいつは笑っていた。
『また明日』
そう言った。
「……加奈?」
声が出た。
「……おい、加奈」
返事はなかった。
瓦礫の間を歩いた。
何か残っていないか探した。
あいつの靴でも、服でも、何でもよかった。
でも、何も見つからなかった。
しばらくして、背後から声がした。
「……あんた、もしかして田島さんとこの子かい?」
振り返ると、近所に住んでいた年配の女性が立っていた。
顔を見たことがあった。
「……はい」
「ああ、やっぱり。どこへ行ってたんだい。心配してたんだよ」
俺はうまく答えられなかった。
女性は俺の顔を見て、少し驚いたようだった。
「ずいぶん痩せたねえ……」
「……あの」
「ん?」
「……一之瀬さんの家、どうしたんですか」
女性の表情が曇った。
「……ああ」
それだけ言って、しばらく黙った。
「……加奈は?」
俺は尋ねた。
「加奈、どこにいるんですか」
女性は目を伏せた。
「……陽一くん」
「……はい」
「一之瀬さんのところはね……ご家族みんな、亡くなったんだよ」
何を言われたのか、分からなかった。
「……え?」
「亡くなった人たちも見つかってね。加奈ちゃんも、その中にいたんだよ」
「…………」
「残念だけど……間違いないんだ」
そこから先は、よく聞こえなかった。
女性の口が動いていた。
何か言っていた。
でも、言葉が頭に入ってこなかった。
「……違う」
気がつくと、そう言っていた。
「……加奈は、いなくなっただけで……」
「陽一くん……」
「帰ってくるって……」
そんな約束は、していなかった。
加奈は、ただ「また明日」と言っただけだった。
でも、俺は信じていた。
ずっと。
あいつは帰ってくる。
そう思っていた。
「……どこかにいるんじゃないですか」
俺は女性に尋ねた。
「避難してるとか……別の町にいるとか……」
女性は首を振った。
「……ごめんね」
俺はそれ以上、何も言えなかった。
頭を下げたのか、何か返事をしたのかも覚えていない。
気がつくと、歩いていた。
教会へ向かった。
加奈は、よくそこで祈っていた。
朝になると、俺を連れていった。
だから、もしかしたら。
教会へ行けば、何か分かるかもしれない。
建物は傷ついていた。
窓が割れ、壁の一部が崩れていた。
それでも、まだ形は残っていた。
俺は中へ入った。
「……加奈?」
声が響いた。
誰も答えなかった。
奥へ進み、椅子の間を見て回った。
あいつが座っていた場所。
手を合わせていた場所。
そこには、誰もいなかった。
学校にも行った。
校舎は一部が壊れ、校庭には瓦礫が積まれていた。
加奈の教室があった場所を見上げた。
窓は割れ、カーテンが風に揺れていた。
神社にも行った。
昔、二人で遊んだ場所だった。
誰もいなかった。
夕方になる頃には、足が動かなくなっていた。
俺は道端に座り込んだ。
加奈は、いない。
父ちゃんも、母ちゃんも、いない。
帰ってきたのに。
やっと帰ってきたのに。
何も残っていなかった。
「……なんだよ、それ」
小さく呟いた。
涙は出なかった。
ただ、胸の奥に大きな穴が開いたようだった。
その夜、俺は半壊した自分の家に戻った。
居間の隅に、まだ雨の入らない場所があった。
そこに座り、鞄を開けた。
加奈の写真を取り出す。
写真の中で、あいつは笑っていた。
「……嘘だろ」
指先で、写真の端をなぞった。
「……お前、また明日って言ったじゃん」
声が震えた。
「……俺、帰ってきたんだぞ」
返事はなかった。
「……ずっと、待ってたのに……」
写真を胸に抱えた。
それでも、涙は出なかった。
泣き方を忘れてしまったようだった。
翌朝、俺はいつもの時間に目を覚ました。
誰も起こしに来なかった。
おばさんの声も、おじさんの足音も聞こえなかった。
それなのに、身体は勝手に起き上がった。
布団もない床の上で、俺は手を合わせた。
朝の祈りだった。
何を願えばいいのか分からなかった。
加奈が無事に帰ってきますように。
そう願おうとして、言葉が止まった。
もう、帰ってこない。
そう聞かされた。
それでも、俺は手を合わせていた。
しばらくして目を開けると、家の中を見回した。
雨の入らない場所は、ほんのわずかだった。
壊れた屋根を見上げる。
このままでは、いつか本当に崩れるかもしれない。
それでも、今夜眠れる場所はここしかなかった。
俺は使える板を集め、雨が吹き込むところに立てかけた。
床のガラスを片づけ、寝られる場所を確保した。
何かをしていなければ、どうにかなってしまいそうだった。
その日の午後、家の奥で父ちゃんのバイクを見つけた。
壊れた家具や瓦礫に囲まれていたけれど、不思議なことに、バイクだけは奇跡的に無傷だった。
俺はしばらく、その前に立っていた。
「……お前は、無事だったんだな」
そっとハンドルに触れる。
父ちゃんが大切にしていたバイクだった。
休みの日には、よく磨いていた。
母ちゃんに邪魔だと文句を言われても、嬉しそうにしていた。
その姿を思い出した。
「……よかったな、父ちゃん」
俺は埃を軽く払い、見つけた布をかけた。
今の俺には、こいつをどうするかなんて考えられなかった。
ただ、残っていてくれたことが嬉しかった。
翌日、俺は役所へ向かった。
このままでは生活できない。
食べ物も、お金も、住む場所も必要だった。
窓口で事情を話すと、職員の人は驚いた顔をした。
「十四歳で、一人なのかい?」
「……はい」
「ご両親は?」
「……亡くなりました」
「親戚の方は?」
俺は黙った。
おじさんの笑顔が浮かんだ。
殴られたときの痛みを思い出した。
「……戻れません」
「何かあったの?」
「…………」
俺は俯いた。
しばらくして、もう一度言った。
「……あそこには、戻れません」
職員の人は困ったような顔をした。
それから、別の人を呼んできた。
何度も同じことを聞かれた。
名前、年齢、家族のこと。
今どこで寝ているのか。
何を食べているのか。
学校はどうしているのか。
答えるたびに、自分がどれほど何も持っていないのか分かってしまった。
それでも、話を聞いてくれた。
誰も怒鳴らなかった。
誰も殴らなかった。
そのことが、少し不思議だった。
戦争の影響で住む場所を失った人のために、県が管理している集合住宅があるらしい。
ただ、俺はまだ十四歳だった。
普通なら、一人で入れるような場所ではない。
職員の人たちは何度も相談し、書類を用意し、別の部署にも掛け合ってくれた。
すぐに入居できるわけではなかったけれど、事情を考えて、特別に受け入れてもらえるよう手続きを進めると言ってくれた。
「それまでは、今の家で大丈夫かい?」
そう聞かれ、俺は少し迷った。
「……たぶん」
職員の人は心配そうだった。
でも、俺にはほかに行く場所がなかった。
生活の相談を続けるうちに、仕事の話も出た。
町から少し離れた場所に、金属加工の工場があるらしい。
人手が足りず、掃除や片づけを手伝う人を探しているという。
歩けば一時間半ほどかかる場所だった。
遠かった。
でも、働けるなら何でもよかった。
工場を訪ねると、責任者らしい男の人が俺を見て眉をひそめた。
「十四歳か……」
「……はい」
「ずいぶん若いな」
「……働かせてください」
「危ない機械もある。何でもやらせるわけにはいかんぞ」
「……はい」
男の人はしばらく俺を見ていた。
「まずは掃除と片づけだ。分からないことは必ず聞け。勝手なことはするなよ」
「……はい。ありがとうございます」
頭を下げた。
そうして、俺は工場に通い始めた。
朝早く起き、長い道を歩いた。
工場では掃除をして、道具を運び、簡単な手伝いをした。
夕方になると、また歩いて帰った。
家に着く頃には、日が暮れていた。
屋根の壊れた家に戻り、少ない食事を作る。
雨が降れば、眠れる場所を探して家の中を移動した。
風の強い夜には、壁が軋んだ。
いつ崩れるか分からない家だった。
それでも、親戚の家よりはずっとましだった。
誰も怒鳴らなかった。
誰も殴らなかった。
飯を取られることもなかった。
ただ、誰もいなかった。
朝、目を覚ましても。
仕事から帰ってきても。
夜、眠るときも。
ずっと、一人だった。
そうして、ひと月ほどが過ぎた。
六月のある日、役所から連絡があった。
アパートへの入居が決まったらしい。
県が管理している、古い集合住宅だった。
職員の人たちがいろいろと手続きを進めてくれたおかげで、俺もそこに住めることになった。
家賃や当面の生活についても、支援を受けられるという。
「よかったね。これで少しは安心できるよ」
職員の人はそう言って笑った。
「……ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
安心できる。
その言葉が、少し不思議だった。
俺はもう、何をどうすれば安心できるのか、よく分からなくなっていた。
引っ越しの日。
俺は朝から荷物をまとめていた。
着替えが数枚と、わずかな日用品。
加奈の写真が挟まった手帳と、あいつからもらった十字架。
それだけだった。
家の中を見回す。
雨が降れば天井から水が落ち、風が吹けば壁の隙間から砂埃が入り込んだ。
夜中に家が軋むたび、今度こそ崩れるんじゃないかと目が覚めた。
それでも、ここには父ちゃんと母ちゃんがいた。
加奈が毎日のように遊びに来ていた。
だから、できることなら離れたくなかった。
けれど、もうここに住み続けることはできない。
俺だって、それくらいは分かっていた。
最後に、家の奥へ向かった。
そこには、父ちゃんのバイクがあった。
家が半分も壊れているというのに、こいつだけは奇跡的に無傷だった。
俺はしばらく、その前に立っていた。
父ちゃんが休みの日になると、嬉しそうに磨いていたバイク。
母ちゃんに邪魔だと文句を言われながらも、大切にしていたバイク。
昔は、ただの鉄の塊にしか見えなかった。
でも、今は違った。
俺はそっとハンドルに触れた。
「……お前は、無事だったんだな」
返事なんか、あるはずもなかった。
それでも、少しだけ嬉しかった。
父ちゃんも、母ちゃんも、もういない。
加奈も、死んだと聞かされた。
家も、こんな姿になってしまった。
俺が帰りたかった場所は、もうどこにもなかった。
だけど。
「……こいつだけは」
ハンドルを握る手に、力が入った。
「……こいつだけは、持っていくからな」
父ちゃんの形見だった。
あの人が確かにここで生きていた、その証だった。
何もかも失ったと思っていたけれど、まだ一つだけ残っていた。
それを、置いていくことなんてできなかった。
俺はバイクをゆっくりと押し、家の外へ出した。
門をくぐると、そこで一度だけ振り返った。
崩れた屋根。
ひび割れた壁。
草の伸びた庭。
父ちゃんと母ちゃんが笑っていた家。
加奈が「陽一!」と呼びながら駆け込んできた家。
あんなに帰りたかったのに。
帰ってきても、誰もいなかった。
「……行ってきます」
いつものように言った。
返事はなかった。
もう、分かっていた。
それでも俺は、しばらく玄関を見つめていた。
やがて前を向き、バイクのハンドルを握り直した。
これから先、どうやって生きていくのかなんて分からない。
ただ働いて、金を稼いで、今日を生きる。
今の俺には、それだけで精一杯だった。
それでも。
父ちゃんが残してくれたこいつだけは、手放したくなかった。
俺はバイクを押しながら、新しい住まいへ向かって歩き始めた。
新しいアパートは、古い建物だった。
廊下の床は軋み、壁にはあちこち傷がついていた。
それでも、屋根は壊れていなかった。
窓にはガラスがはまっていた。
鍵のかかる玄関があった。
それだけで、十分だった。
部屋の中に荷物を置き、父ちゃんのバイクを邪魔にならない場所に停めた。
布をかける。
いつか、どうするか考えよう。
そう思った。
でも、今はそれどころではなかった。
働かなければ、飯が食えない。
金を稼がなければ、生きていけない。
だから、働く。
ただ、それだけだった。
アパートでの生活が始まってからも、毎日は変わらなかった。
朝早く起き、仕事へ行く。
帰ってきて、簡単な飯を作る。
眠る。
それを繰り返した。
工場の人たちは、悪い人ではなかった。
分からないことを聞けば教えてくれた。
失敗しても、理由を説明してくれた。
それでも、俺は人と話すのが怖かった。
誰かが笑いながら近づいてくると、身体が強張った。
親切にされると、何か裏があるんじゃないかと思ってしまった。
だから、なるべく一人でいた。
誰とも深く関わらないようにした。
その方が、傷つかずに済むと思った。
八月十五日。
その日は、朝から妙に静かだった。
工場へ行くと、いつもと様子が違っていた。
人が集まり、ラジオの前に立っていた。
雑音混じりの声が流れていた。
俺には、最初、何を言っているのかよく分からなかった。
ただ、周りの大人たちが真剣な顔で聞いていた。
やがて、誰かが呟いた。
「……終わったのか」
別の誰かが言った。
「戦争が……終わったんだ」
しばらく、誰も喋らなかった。
それから、少しずつ声が上がった。
泣き出す人がいた。
肩を抱き合う人がいた。
安堵したように笑う人がいた。
「よかった……」
「これで、もう……」
「帰ってこられるな……」
そんな声が聞こえた。
俺は、ただ立っていた。
戦争が終わった。
そう聞かされても、何も感じなかった。
終わった。
それで?
父ちゃんと母ちゃんが帰ってくるわけじゃない。
加奈が帰ってくるわけでもない。
壊れた家が元に戻るわけでもない。
俺が親戚の家で過ごした日々が、なかったことになるわけでもない。
何も、変わらない。
工場の人が俺に声をかけた。
「陽一。よかったな」
「……はい」
俺は頭を下げた。
何がよかったのか、分からなかった。
その日は仕事が早く終わった。
帰り道、町のあちこちで人が話していた。
戦争が終わったこと。
家族が帰ってくるかもしれないこと。
これからの暮らしのこと。
誰かが笑っていた。
誰かが泣いていた。
俺は、その間を歩いた。
いつもと同じ道だった。
でも、今日は妙に長く感じた。
アパートに帰ると、いつものように靴を脱いだ。
鞄を置いた。
手を洗った。
何か食べようと思い、台所へ向かった。
けれど、何を作る気にもなれなかった。
俺はそのまま、部屋の真ん中に座り込んだ。
『戦争が終わったんだ』
工場で聞いた声が、頭の中に残っていた。
『よかったな』
何が。
何がよかったんだ。
「ふざけんなよ!」
気づけば、大声を上げていた。
「何なんだよ! 戦争が終わったって、何がよかったんだよ!」
握っていた拳を床に叩きつけた。
「父ちゃんも母ちゃんも死んだ! 加奈だって……!」
喉が焼けるほど叫んだ。
「だったら最初から戦争なんかするなよ!」
立ち上がり、目の前にあった木箱を蹴った。
中の金具が床に散らばった。
「何が終わっただよ! 何がよかっただよ!」
声が裏返った。
「俺には何も残ってねえじゃねえか!」
足元の板切れを掴み、壁に叩きつけた。
乾いた音が響いた。
もう一度。
もう一度。
板が割れた。
それでも、怒りは消えなかった。
「返せよ……!」
息が荒くなった。
「……返してくれよ……!」
父ちゃんを。
母ちゃんを。
加奈を。
あの日までの、何でもなかった毎日を。
「……何で……」
声が途切れた。
俺はその場に膝をついた。
「……何で、俺だけ……」
そこまで言って、ようやく涙が出た。
最初は、一滴だけだった。
それから、止まらなくなった。
「……帰ってきてくれよ……」
誰に言ったのか、分からなかった。
「……父ちゃん……母ちゃん……」
息が詰まった。
「……加奈……」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥が壊れた。
声を上げて泣いた。
子供みたいに。
いや、俺はまだ子供だった。
十四歳だった。
父ちゃんと母ちゃんに甘えたかった。
加奈と喧嘩して、仲直りして、また一緒に笑いたかった。
ただ、それだけだった。
何も特別なことなんて望んでいなかった。
なのに。
「……会いたい……」
床に手をついた。
「……もう一回でいいから……」
涙が落ちた。
「……会いたいよ……」
どれくらい泣いていたのか、分からなかった。
気がつくと、外は暗くなっていた。
部屋の中には、散らばった金具と割れた板が転がっていた。
誰も来なかった。
誰も声をかけなかった。
泣き疲れて、いつの間にか眠っていた。
翌朝、目が覚めた。
身体が重かった。
喉が痛かった。
目も腫れていた。
床には、昨日散らかしたものが残っていた。
俺はしばらく、それを眺めていた。
それから立ち上がり、板切れを拾った。
金具を集めた。
使えるものを箱に戻した。
壊れたものは、隅に寄せた。
いつものように片づけた。
顔を洗い、着替えた。
そして、部屋の隅に座った。
手を合わせる。
朝の祈りだった。
加奈が、毎朝していたことだった。
俺も、ずっと続けていた。
何度祈っても、父ちゃんと母ちゃんは帰ってこなかった。
何度祈っても、加奈は帰ってこなかった。
昨日、あんなに泣いたのに。
何も変わらなかった。
それでも、手を合わせた。
目を閉じた。
何を願えばいいのか、分からなかった。
祈ることに意味があるのかも、分からなかった。
でも、やめられなかった。
あいつと一緒にしていたことだったから。
俺に残された、数少ないものだったから。
しばらくして、目を開けた。
外は、よく晴れていた。
戦争は終わった。
それでも、今日も仕事がある。
働かなければ、飯が食えない。
金を稼がなければ、この部屋で暮らしていくこともできない。
だから、働く。
ただ、それだけだった。
明日のことなんて、考えられなかった。
今を生きるだけで、精一杯だった。
俺は立ち上がった。
鞄を持ち、玄関へ向かった。
戸を開けると、朝の光が差し込んできた。
町のどこかで、人の話し声が聞こえた。
笑い声も聞こえた。
俺は、その声に振り返らなかった。
誰かと仲良くなりたいとは、もう思わなかった。
誰かを信じて、また失うのが怖かった。
それでも、心のどこかでは。
誰かに、そばにいてほしかった。
何も言わなくてもいい。
ただ、隣にいてくれる人がほしかった。
そんなことを考えてしまう自分が、嫌だった。
俺は目を伏せた。
そして、いつもの道を歩き始めた。
誰も待っていない部屋へ帰るために。
今日も、生きていくために。
めちゃめちゃ長くなりました
分けても良かったんですがもう終わらせたかったです
最後は徳永英明の壊れかけのRadioになります
これもみなさん聞いたことあると思います
好きな曲ですのでぜひ聞いてみてください




