EP34 One more time, One more chance
翌朝。
目が覚めて、最初に思い出したのは昨日のことだった。
夏祭り。
射的で取った猫のぬいぐるみ。
花火。
それから、加奈の顔。
「…………」
布団の中で、思わず顔を覆った。
昨日、俺は何を言ったんだ。
いや、何を言ったかは覚えている。
覚えているから困っている。
『俺、お前のことが好きだ』
花火の音にかき消されて、加奈には聞こえなかった。
……はずだ。
そうであってほしい。
でも、その後の加奈は、何だか変だった。
顔を真っ赤にして、目を合わせようとしなかった。
それに、帰り道。
あいつは俺の頬にキスをした。
「…………」
俺は布団を頭までかぶった。
「……何なんだよ、もう」
あれは、どういう意味だったんだ。
俺の言葉は聞こえていたのか。
それとも、別の意味だったのか。
考えても分からない。
直接聞くしかない。
「……よし」
俺は勢いよく布団を跳ねのけた。
今日、加奈に会ったら聞こう。
昨日のこと。
あいつがどう思っているのか。
ちゃんと、聞こう。
そう決めた途端、また緊張してきた。
「……いや、でもなあ」
俺はしばらく布団の上で頭を抱えていた。
結局、いつもより少し遅れて起きた。
顔を洗い、朝飯を食べる。
食器を片づけていると、ふと台所の時計が目に入った。
「……あれ?」
いつもの時間を、とっくに過ぎていた。
普段なら、もう加奈が来ている頃だった。
朝の祈りをするために、あいつは毎日のように俺を迎えに来ていた。
遅くまで寝ていると、遠慮なく叩き起こされた。
『陽一! いつまで寝てるの!』
そんな声が聞こえてきそうだった。
「……今日は来ないのか?」
昨日、遅くまで遊んでいたからだろうか。
それとも。
俺と顔を合わせるのが、恥ずかしいのか。
「…………」
また、昨日のことを思い出した。
俺は首を振った。
「……とりあえず、行ってみるか」
靴を履き、家を出た。
加奈の家までは、歩いてすぐだった。
何度も通った道だった。
いつもなら、途中であいつに会うこともあった。
でも、その日は誰にも会わなかった。
門の前に立ち、呼び鈴を押した。
返事はなかった。
「……加奈?」
もう一度押す。
やっぱり、返事はない。
玄関の戸に手をかけてみた。
鍵がかかっていた。
「……あれ?」
加奈の家が留守なのは、別に珍しいことではなかった。
家族で出かけることだってある。
でも、何となく気になった。
昨日の夜、別れるとき。
加奈は確かに言った。
『また明日』
だから、今日も会えると思っていた。
「……出かけてんのかな」
俺はしばらく門の前に立っていた。
そのうち帰ってくるかもしれない。
そう思ったけれど、いつまでも待っているわけにもいかなかった。
「……また来るか」
俺は家に戻った。
昼になっても、加奈は来なかった。
夕方になっても、来なかった。
俺はもう一度、加奈の家へ行った。
呼び鈴を押す。
返事はない。
玄関も、朝と同じように閉まっていた。
「……何だよ」
少しだけ、腹が立った。
昨日はあんなことをしておいて。
今日は何も言わずにいなくなるなんて。
「……帰ってきたら、文句言ってやる」
そう呟いて、家へ戻った。
その夜。
いつもなら加奈と一緒にしていた祈りを、一人でした。
手を合わせて、目を閉じる。
何を祈ればいいのか、少し迷った。
「……明日は、ちゃんと来ますように」
そんなことを願ってしまった。
自分でも、少しおかしかった。
◇
二日目。
学校へ行くと、加奈の席は空いていた。
教室に入った瞬間、俺はそこを見た。
鞄もない。
机の上には、何も置かれていなかった。
「……まだ来てないのか」
自分の席に座り、何度も入口を見た。
いつもの時間になっても、加奈は来なかった。
始業の鐘が鳴った。
先生が教室に入ってきた。
それでも、加奈の席は空いたままだった。
出欠を取るとき、先生は加奈の名前を呼ばなかった。
俺は思わず手を上げた。
「先生」
「どうした、田島」
「……加奈は?」
先生は少しだけ表情を変えた。
「一之瀬か」
「はい。今日、休みなんですか?」
「ああ。家庭の事情で、しばらく休むと聞いている」
「……家庭の事情?」
「そうだ」
「いつまで?」
「そこまでは分からん」
先生は出席簿を閉じた。
「それと、みんなに知らせておくことがある」
教室が静かになった。
「戦況の悪化に伴って、明日から当面の間、学校は休校になる」
ざわめきが広がった。
「えっ、休み?」
「いつまで?」
「分からん。学校から連絡があるまで、自宅で待機するように」
先生は黒板の前に立ち、注意事項を説明し始めた。
けれど、俺にはほとんど聞こえていなかった。
加奈が、しばらく休む。
家庭の事情。
何だ、それ。
昨日まで、普通に一緒にいたのに。
休み時間になってからも、俺は加奈の席を見ていた。
机の横に、いつも掛かっていた鞄がない。
椅子も、きれいにしまわれている。
ただ、それだけのことなのに。
妙に落ち着かなかった。
放課後、俺はまっすぐ加奈の家へ向かった。
門は閉まっていた。
呼び鈴を押す。
返事はなかった。
「……加奈?」
もう一度呼んでみた。
静かだった。
家の周りを見て回った。
窓にはカーテンが引かれていた。
庭の花壇には、昨日までと変わらず花が咲いていた。
玄関の前には、郵便物が一つ届いていた。
「……何だよ」
俺は門に手をかけた。
「休むなら、休むって言えよ」
昨日、あんなに楽しそうだったのに。
何かあったなら、俺に言ってくれればよかったのに。
そう思った。
でも、きっと急な用事だったんだろう。
家族で避難したのかもしれない。
戦争のせいで、最近は町を離れる人も増えていた。
そう考えると、少しだけ納得できた。
「……帰ってきたら、ちゃんと教えろよ」
俺はそう言って、家に戻った。
◇
三日目。
朝、目が覚めると、家の中が静かだった。
学校は休みになった。
加奈も来ない。
何をすればいいのか分からなかった。
とりあえず朝飯を食べた。
それから、加奈の家へ向かった。
門の前に立つ。
昨日と変わらなかった。
郵便受けには、また一つ郵便物が増えていた。
「……帰ってないのか」
庭の花を見た。
少し、土が乾いているように見えた。
加奈は花の世話をよくしていた。
俺が適当に水をやると、量が多いとか少ないとか、いちいち文句を言ってきた。
『陽一、ちゃんと根元にあげないと駄目だよ』
「……うるさいなあ」
思い出して、つい口に出した。
誰も答えなかった。
俺は家に戻り、じょうろを持ってきた。
花壇に水をやる。
「……これでいいだろ」
誰もいない庭に向かって言った。
返事はなかった。
郵便物は濡れないようにまとめ、郵便受けの奥へ入れておいた。
帰ってきたら、加奈は驚くだろうか。
俺が花に水をやっていたと知ったら、褒めてくれるだろうか。
それとも。
『勝手に触らないでよ!』
なんて怒るかもしれない。
「……どっちでもいいから、早く帰ってこいよ」
俺はじょうろを持ち直した。
それから、家へ戻った。
昼飯はカップ麺にした。
お湯を沸かして、蓋を開ける。
待っている間、ふと加奈の顔が浮かんだ。
『またカップ麺?』
あいつは、俺がこんなものばかり食べていると怒った。
『ちゃんとしたもの食べなきゃ駄目でしょ』
そう言って、勝手に台所に立ったこともあった。
あのとき作ってくれた飯は、うまかった。
何を作ってくれたんだったか。
思い出そうとすると、いくつも浮かんできた。
卵焼き。
野菜の入った味噌汁。
俺が苦手なものまで、当たり前みたいに皿へ盛りつけてきた。
「……早く帰ってこいよ」
蓋を開けた。
湯気が立ち上る。
いつもと同じ味のはずなのに、何だか物足りなかった。
午後は漫画を読んだ。
でも、内容が頭に入ってこなかった。
ページをめくるたび、時計を見た。
外で足音がすると、顔を上げた。
車が通ると、窓から外を見た。
玄関の前で物音がしたときには、思わず立ち上がった。
「加奈?」
扉を開ける。
そこには、誰もいなかった。
風で何かが転がっただけだった。
「……何だよ」
俺は扉を閉めた。
また漫画を開いた。
けれど、数分もしないうちに、外の音が気になった。
何度も同じことを繰り返した。
夕方になる頃には、もう漫画を読むのをやめていた。
俺は玄関の近くに座り、ただ外の音を聞いていた。
◇
四日目。
俺は、初めて朝刊を隅から隅まで読んだ。
普段なら、新聞なんてほとんど読まなかった。
父ちゃんがいた頃は、食卓に置かれた新聞を眺めることもあったけれど、読むのは漫画の広告くらいだった。
でも、その日は違った。
加奈の名前が、どこかに載っているかもしれない。
避難した人の一覧。
行方が分からなくなった人の情報。
どこかの町へ移った家族の話。
何でもよかった。
何か、手掛かりがほしかった。
俺は新聞を広げた。
戦況を伝える大きな見出し。
被害を受けた町の名前。
避難を呼びかける記事。
物資の不足。
亡くなった人の数。
知らない地名が、いくつも並んでいた。
その中に、加奈の名前がないか探した。
見つからなかった。
もう一度、最初から読んだ。
小さな記事まで確かめた。
広告も、欄外の短い知らせも読んだ。
何もなかった。
「……こんなとこにいるはずもないのに」
小さく呟いた。
自分でも、馬鹿なことをしていると思った。
新聞に加奈の名前が載っていたら、それはそれで嫌だった。
なのに、載っていなければ安心できるというわけでもなかった。
ただ、何も分からないのが怖かった。
俺は新聞を畳んだ。
それから、また加奈の家へ向かった。
門の前に立つ。
郵便受けを見る。
中には、昨日までの郵便物が残っていた。
庭の花は、少し元気がなくなっていた。
俺は水をやった。
玄関の戸に手をかける。
鍵はかかったままだった。
「……おい、加奈」
声をかけた。
「……いい加減、帰ってこいよ」
返事はなかった。
俺は門の前に座り込んだ。
道を歩く人が、何人かこちらを見た。
でも、気にならなかった。
加奈が帰ってくるなら、この道を通るはずだった。
だから、待っていた。
日が傾くまで。
ずっと。
◇
五日目。
町の様子が、少しずつ変わり始めていた。
荷物を積んだ車が、何台も通り過ぎていった。
店の前には、長い列ができていた。
いつも開いていた店が、閉まっていた。
道端では、大人たちが小声で何かを話していた。
戦争が、近づいてきている。
そう感じた。
でも、俺にはまだ、どこか遠い話のように思えた。
父ちゃんと母ちゃんが死んだときから、戦争はずっと俺の近くにあった。
それなのに。
加奈がいなくなるまで、町そのものが変わっていくことを、あまり考えていなかった。
俺は学校へ行ってみた。
門は閉まっていた。
校庭には誰もいなかった。
教室の窓を見上げた。
加奈の席があった場所。
あいつが、授業中にこっちを見て笑ったことを思い出した。
俺が居眠りをしていると、休み時間に怒ってきたこともあった。
『ちゃんと授業聞いてた?』
「……聞いてたって」
誰もいない校庭で、思わず答えた。
風が吹いた。
俺はしばらく校舎を見上げていた。
そのあと、加奈とよく遊んだ場所を回った。
神社。
商店街。
小さい頃に作った秘密基地の近く。
どこにも、加奈はいなかった。
夕方、家に戻ると、玄関の前に座り込んだ。
今日も、帰ってこなかった。
明日は帰ってくるだろうか。
明後日は。
いつまで待てばいいんだろう。
そんなことを考えた。
その夜、俺は部屋を片づけた。
散らかっていた漫画を棚に戻した。
机の上を拭いた。
床も掃いた。
加奈が帰ってきたら、きっと最初に部屋へ来る。
そして、いつものように文句を言う。
『陽一、ちゃんと片づけなさいよ!』
だったら、今のうちにきれいにしておこう。
そう思った。
台所の冷蔵庫も開けた。
加奈の好きな飲み物が残っていた。
俺はそれを手前に置いた。
あいつが来たら、すぐに出せるように。
「……これでよし」
誰もいない部屋で、そう言った。
少しだけ、気持ちが軽くなった。
◇
六日目。
朝から雨が降っていた。
俺は傘を差して、加奈の家へ向かった。
門の前には、水たまりができていた。
庭の花は、雨に打たれてうなだれていた。
郵便受けには、また郵便物が増えていた。
俺はそれを見つめた。
何日も、誰も取りに来ていない。
最初は、ちょっとした外出だと思っていた。
でも、もう六日目だった。
何も言わずに、こんなに長くいなくなるなんて。
「……どこ行ったんだよ」
声が雨に消えた。
玄関を見た。
戸は閉まっていた。
呼び鈴を押す。
返事はなかった。
俺は傘を差したまま、しばらく立っていた。
雨が強くなってきた。
靴の中まで濡れてきた。
それでも、帰る気になれなかった。
もし今、俺が帰ったあとに加奈が戻ってきたら。
もし、すれ違ってしまったら。
そんなことを考えてしまった。
結局、昼過ぎまで待っていた。
誰も帰ってこなかった。
家に戻ると、服がすっかり濡れていた。
着替えて、温かい飲み物を作った。
それから、玄関の近くに座った。
雨の音を聞いていた。
ときどき、車が通った。
足音も聞こえた。
そのたびに、俺は立ち上がった。
扉を開ける。
誰もいない。
閉める。
また座る。
それを、何度も繰り返した。
夜になって、ようやく雨がやんだ。
俺は加奈の写真を取り出した。
十月七日。
あいつの誕生日に撮った写真だった。
写真の中の加奈は、笑っていた。
「……なあ」
俺は写真に話しかけた。
「……何かあったんなら、言えよ」
返事はなかった。
「……俺、待ってるからさ」
写真を見つめた。
「……ちゃんと帰ってこいよ」
それから、手を合わせた。
いつも加奈と一緒にしていた、朝の祈り。
その日は、夜にも祈った。
加奈が無事でありますように。
明日こそ、帰ってきますように。
それだけを、何度も願った。
◇
七日目。
朝から、何となく落ち着かなかった。
いつもどおり加奈の家へ行った。
花に水をやる。
郵便受けを見る。
玄関を見る。
何も変わっていなかった。
「……今日も、いないのか」
俺はしばらく門の前に立っていた。
帰ってきたら、何て言おう。
一週間もどこに行ってたんだよ。
心配しただろ。
それから。
……返事、まだ聞いてないぞ。
そう言ったら、加奈はどんな顔をするだろう。
怒るかな。
笑うかな。
また顔を真っ赤にするかもしれない。
そんなことを考えていると、少しだけ気持ちが軽くなった。
「……早く帰ってこいよ」
そう言って、俺は家に戻った。
昼過ぎ。
漫画を読んでいると、外から車の音が聞こえた。
家の前で止まったらしい。
俺は顔を上げた。
車?
もしかして。
加奈の家族が帰ってきたのかもしれない。
荷物が多くて、うちの前に止めたのかも。
俺は漫画を置き、玄関へ走った。
「加奈!」
勢いよく扉を開ける。
そこに立っていたのは、加奈ではなかった。
「……あれ?」
見覚えのある男の人だった。
「おじさん?」
「おう、陽一。元気にしてたか?」
親戚のおじさんだった。
父ちゃんが生きていた頃、何度か会ったことがある。
おじさんは俺の顔を見て、それから肩越しに家の中を覗いた。
「……なんで、ここに?」
「戦争がひどくなってきたからな。お前を迎えに来たんだよ」
「……迎え?」
「そうだ。こんなところに一人で置いとくわけにはいかんだろ」
おじさんはそう言って、俺の肩を軽く叩いた。
「大変だったなあ、一人で」
「……うん」
「飯はちゃんと食ってたか?」
「まあ……」
「そうかそうか」
おじさんは頷いた。
「で、食い物はまだ残ってるか?」
「……え?」
「米とか缶詰とかだよ。買い置きしてあるだろ?」
「……あるけど」
「よし。じゃあ、ちょっと見せてもらうぞ」
そう言って、おじさんは靴を脱ぎ始めた。
「え、ちょっと……」
「何だ?」
「俺、まだ行くって……」
「陽一」
おじさんは笑ったまま、俺の言葉を遮った。
「今はわがまま言ってる場合じゃないんだ。分かるだろ?」
「……でも」
「向こうに行けば飯も寝る場所もある。お前一人じゃ、ここで何かあってもどうにもならんぞ」
それは、確かにそうだった。
学校は休みになった。
町の人たちも避難を始めている。
俺一人で、いつまでここにいられるのか分からない。
「……うん」
「よし、いい子だ」
おじさんは俺の頭をぽんと叩いた。
そのまま台所へ向かう。
俺は慌てて後を追った。
「おお、まだ結構あるじゃないか」
おじさんは台所の棚を開けていた。
一緒に来ていたもう一人の親戚も、いつの間にか家に上がっていた。
「こっちにも缶詰があるぞ」
「全部持っていこう」
「えっ、全部?」
俺が聞くと、おじさんは振り返った。
「当たり前だろ。置いていったって仕方ないじゃないか」
「でも……」
「陽一、お前はしばらく帰ってこられないんだぞ?」
「……そうなの?」
「戦争が終わるまでどうなるか分からん。家に置いて腐らせるより、向こうで使った方がいいだろ」
おじさんはそう言いながら、棚の中身を次々に取り出した。
米。
缶詰。
調味料。
買い置きのカップ麺。
「お、こんなにあるのか」
おじさんはカップ麺の箱を持ち上げた。
「これなら、しばらく助かるな」
俺はその箱を見つめた。
昨日まで、あそこから一個ずつ取り出して食べていた。
加奈に怒られたことを思い出しながら。
「……それ、俺の昼飯なんだけど」
「向こうで食えばいいだろ」
おじさんは笑った。
「心配するな。お前の分もちゃんとあるから」
そう言って、箱をもう一人の親戚に渡した。
その人は黙って車へ運んでいった。
俺は何も言えなかった。
おじさんは冷蔵庫も開けた。
「こっちは?」
「……飲み物とか」
「電気が止まったら駄目になるな。持っていけるものは持っていこう」
加奈の好きな飲み物が、手前に置いてあった。
あいつが来たときのために、冷やしておいたやつだ。
おじさんはそれを取り出した。
「これももらうぞ」
「……あ」
「何だ?」
「……いや」
俺は首を振った。
どうせ、加奈は今日も来ない。
そう思ったら、止める言葉が出てこなかった。
「陽一、親父さんの工具はどこだ?」
台所の荷物を運び終えると、おじさんはそう尋ねた。
「……工具?」
「ああ。親父さん、いろいろ持ってただろ?」
「……あるけど」
「見せてくれ」
俺はバイクの置いてある方へ案内した。
おじさんはバイクを見ると、少し足を止めた。
「……ほう。まだあったのか」
「父ちゃんのバイクだから」
「そうか」
おじさんは車体をぐるりと眺めた。
「動くのか、これ?」
「……分かんない」
「ふうん」
ハンドルに触れ、タンクを軽く叩く。
「まあ、こいつは今すぐ運べんか」
「……え?」
「いや、何でもない」
おじさんはそう言って、近くの工具箱を見つけた。
「お、これだこれだ」
蓋を開け、中身を確かめる。
「いい工具だな。さすがだ」
父ちゃんが大切にしていた工具だった。
俺が触ろうとすると、危ないから気をつけろとよく言われた。
「……それ、父ちゃんのだよ」
「分かってるよ」
おじさんは工具を一本持ち上げた。
「こういうものは、今じゃなかなか手に入らんからな」
「……持っていくの?」
「ああ。向こうでも使えるだろ」
「でも、父ちゃんの……」
「陽一」
おじさんは工具を戻し、俺を見た。
「お前の親父さんだって、道具を遊ばせておくより、誰かに使ってもらう方が嬉しいだろう?」
「…………」
「な?」
そう言われると、何も返せなかった。
父ちゃんがどう思うかなんて、俺には分からない。
でも、おじさんにも分からないはずだった。
工具箱の蓋が閉じられる。
金具の音が、やけに大きく響いた。
おじさんはそれを持ち上げた。
「ほかにも使えそうなものがあったら教えてくれ」
俺は返事をしなかった。
「荷物は少なくしろよ」
おじさんにそう言われて、俺は自分の部屋に戻った。
鞄を広げる。
着替えを何枚か入れた。
それから、棚の奥にしまっていた箱を取り出した。
父ちゃんと母ちゃんの写真。
母ちゃんが使っていた小物。
父ちゃんがくれた、古いもの。
どれも捨てられずに取っておいた。
俺はそれらを鞄に詰めようとした。
「おい、陽一。何やってる?」
振り返ると、おじさんが立っていた。
「……荷物、まとめてる」
「なんだ、その箱」
「父ちゃんと母ちゃんのもの」
おじさんは中を覗き込んだ。
「……なんだ、こんなものか」
「……え?」
「もっと役に立つものかと思ったよ」
おじさんは苦笑した。
「そんなもの持ってどうするんだ」
「……持っていきたいんだよ」
「邪魔になるだろ。置いていけ」
「でも……」
「うちだって広いわけじゃないんだぞ。余計な荷物を増やすな」
「……これ、父ちゃんと母ちゃんの形見なんだけど」
おじさんは少し困ったような顔をした。
「気持ちは分かるよ。そりゃ、大事だろうさ」
「……だったら」
「でもな、陽一。今は戦争中なんだ。思い出だけじゃ飯は食えんだろ?」
「…………」
「向こうで暮らすんだから、少しは考えてくれよ。俺たちだって余裕があるわけじゃないんだ」
おじさんはため息をついた。
「それに、お前のことを引き取るってだけでも、こっちは大変なんだからな」
その言葉に、胸の奥が少し冷たくなった。
俺がいると、大変なのか。
そんなこと、考えたこともなかった。
「……ごめん」
気づけば、そう言っていた。
おじさんは一瞬だけ黙った。
それから、いつもの笑顔に戻った。
「分かればいいんだよ。ほら、早くしろ。暗くなる前に出たいんだ」
そう言って部屋を出ていった。
俺は箱を見つめた。
さっき、おじさんは父ちゃんの工具箱を車に積んでいた。
あれは持っていくのに。
こっちは、邪魔なのか。
工具は使える。
食べ物は食べられる。
でも、写真は腹の足しにならない。
ただ、それだけのことだった。
俺は箱の中のものを、ひとつずつ元に戻した。
母ちゃんのもの。
父ちゃんのもの。
何度も手に取って、何度も戻した。
そのとき、一枚の写真が目に入った。
「……あ」
加奈の誕生日に撮った写真だった。
十月七日。
あの日、みんなで笑っていた。
加奈が嬉しそうにしていたことを覚えている。
写真の中の俺も、今よりずっと気楽な顔をしていた。
あの頃は、明日も明後日も、同じような日が続くと思っていた。
「……これくらい、いいだろ」
俺は写真をそっと取り出した。
折れないように、薄い手帳の間に挟む。
それを鞄の奥へしまった。
加奈からもらった十字架にも、指先で触れた。
これは、置いていかない。
写真も。
絶対に。
俺は鞄を閉じた。
◇
「陽一! 準備できたか!」
外からおじさんの声がした。
「……今行く!」
俺は鞄を持って立ち上がった。
部屋を見回す。
机。
本棚。
布団。
壁に残った小さな傷。
父ちゃんと母ちゃんがいた頃から、何も変わっていない部屋だった。
いや。
変わってしまったものの方が、ずっと多かった。
俺は廊下に出た。
居間を通る。
父ちゃんが座っていた椅子があった。
母ちゃんが使っていた食器棚があった。
どちらも、今は誰も使っていなかった。
玄関で靴を履こうとして、ふと動きを止めた。
「……おじさん」
「ん?」
「ちょっとだけ、待ってて」
「何だ? 忘れ物か?」
「……うん」
俺は鞄を置き、家を飛び出した。
「おい、陽一!」
「すぐ戻る!」
加奈の家へ向かった。
いつもの道だった。
何度も走った道だった。
門の前に着くと、息を整えた。
玄関は閉まっていた。
郵便受けには、まだ郵便物が残っていた。
花壇の花は、少し元気を取り戻していた。
俺は門の前に立った。
「……加奈」
返事はなかった。
「……俺、ちょっと遠くに行くことになった」
誰もいない家に向かって話しかけた。
「親戚の家に行くんだってさ」
自分でも、何をしているんだろうと思った。
加奈がここにいないことくらい、分かっていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
「……戦争が終わったら、帰ってくるから」
門を握る手に、力が入った。
「だからさ……」
昨日までなら、きっと言えなかった言葉だった。
恥ずかしくて。
照れくさくて。
でも、今は。
「……俺のこと、忘れんなよ」
風が吹いた。
庭の花が、わずかに揺れた。
「……俺も、忘れないから」
夏祭りの夜を思い出した。
花火の下で、あいつは笑っていた。
俺の頬に触れた唇の感触も、まだ覚えていた。
あのとき、ちゃんと聞けばよかった。
あいつの気持ちを。
もう一度、言えばよかった。
花火にかき消されないように。
ちゃんと、伝えればよかった。
「……返事、まだ聞いてないんだからな」
声が少し震えた。
「……帰ってきたら、ちゃんと聞かせろよ」
俺はしばらく、その場に立っていた。
けれど、玄関が開くことはなかった。
やがて遠くから、おじさんの声が聞こえた。
「陽一ー! 何してるんだー!」
「……今行く!」
俺は返事をした。
それから、もう一度だけ玄関を見た。
「……またな、加奈」
そう言って、背を向けた。
家に戻ると、おじさんが車の横で待っていた。
「何だ、どこ行ってたんだ?」
「……ちょっと、友達の家」
「そうかそうか。別れの挨拶か」
「……うん」
「偉いなあ。そういうのは大事だぞ」
おじさんは笑って、俺の頭を撫でた。
「さあ、乗りなさい。暗くなる前に出発しないとな」
俺は車の後部座席に乗った。
足元には、俺の鞄があった。
荷台には、米や缶詰、父ちゃんの工具箱が積まれていた。
家の中にあったものが、少しずつ遠ざかっていく。
エンジンがかかった。
車がゆっくりと動き出した。
俺は窓の外を見た。
父ちゃんと母ちゃんがいた家。
加奈が毎日のように遊びに来ていた家。
何度も笑って、何度も喧嘩して。
それでも、明日になればまた会えると思っていた場所。
車は角を曲がった。
家が見えなくなった。
俺は鞄に手を伸ばし、手帳を取り出した。
中には、加奈の写真が挟まっていた。
写真の中の加奈は、いつものように笑っていた。
「……すぐ帰るから」
小さく呟いた。
おじさんには聞こえなかったらしい。
前の席では、親戚同士が何か話していた。
俺は写真を手帳に戻した。
十字架を握りしめる。
もう一度だけ、窓の外を見た。
町並みが、少しずつ遠ざかっていった。
加奈がいなくなって、七日目。
俺は、あいつの帰りを待つ場所からも離れることになった。
それでも、信じていた。
戦争が終われば、帰ってこられる。
帰ってくれば、また加奈に会える。
昨日までと同じように。
何でもなかった日々を、もう一度。
俺は、そう信じていた。




