EP33 夏祭り
夏という季節は、どうしてこうも騒がしいのだろう。
朝から蝉はうるさいし、窓を開ければ熱い風が入ってくる。日差しは容赦なく、少し外を歩くだけで汗が噴き出した。
おまけに、夏休みだというのに宿題まである。
誰が考えたんだ、こんなもの。
「陽一ー!」
……そして、もう一つ。
「よーうーいーちー!」
俺の家には、夏の暑さにも負けないくらい元気なやつがやってくる。
「聞こえてるって!」
玄関を開けると、加奈が立っていた。
白い半袖の服に、涼しそうな水色のスカート。いつもと変わらない格好なのに、額に浮かんだ汗まで妙に眩しく見える。
「おはよう!」
「おはようって……もう昼だぞ」
「じゃあ、こんにちは!」
「そういう問題じゃねえよ」
加奈は楽しそうに笑った。
最近、こいつの笑顔を見ると、どうにも調子が狂う。
昔はそんなことなかった。
変なことを言えば変だと言ったし、腹が立てば言い返した。近所の悪ガキ同士みたいなものだった。
それなのに、いつからだろう。
加奈が笑うと、胸の辺りが落ち着かなくなる。
「ねえ、陽一。今日の夜、暇?」
「夜?」
「うん!」
「まあ……暇だけど」
「ほんと!?」
加奈がぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、夏祭り行こう!」
「夏祭り?」
「神社の! 今日あるんだよ!」
「ああ……そういや、そんな時期か」
「ね、一緒に行こう?」
加奈は俺の顔を覗き込んできた。
近い。
こいつは昔から距離感がおかしい。
「……別に、いいけど」
「やったあ!」
「そんな喜ぶことか?」
「だって、陽一と行きたかったんだもん」
「…………」
やめろ。
そういうことを、そんな顔で言うな。
「……何時?」
「六時半! 陽一のお家に迎えに来るね!」
「分かった」
「絶対だよ?」
「分かったって」
「約束!」
加奈は小指を差し出した。
「……子供かよ」
「子供だもん」
「そうだけどさ」
「ほら、早く!」
仕方なく小指を絡める。
「指切りげんまん……」
「歌わなくていい!」
「えー!」
加奈は頬を膨らませた。
その顔がおかしくて笑うと、加奈もつられて笑った。
「じゃあ、またあとでね!」
「おう」
小走りで帰っていく加奈を見送る。
角を曲がる直前、加奈は振り返って大きく手を振った。
俺も片手を上げる。
その姿が見えなくなってから、ようやく玄関を閉めた。
「……夏祭り、か」
なんとなく、胸が落ち着かなかった。
たかが祭りだ。
昔から何度も一緒に遊んでいる相手と、屋台を回るだけ。
それだけのことなのに。
俺はその日、宿題を一問も進められなかった。
*
六時を少し過ぎた頃には、もう家の中をうろうろしていた。
時計を見る。
六時十二分。
まだ早い。
水を飲む。
時計を見る。
六時十四分。
……壊れてんじゃねえのか、この時計。
鏡の前に立って、髪を直す。
別に、誰に見せるわけでもない。
それなのに、なんとなく気になった。
「……何やってんだ、俺」
自分に呆れていると、玄関の向こうから声がした。
「陽一ー!」
時計を見る。
六時二十三分。
早いじゃねえか。
俺は慌てて玄関へ向かった。
「今行く!」
扉を開ける。
そして。
「…………」
言葉が出なくなった。
加奈が立っていた。
淡い水色の浴衣。
白い花の模様が散りばめられていて、腰には柔らかな黄色の帯が結ばれている。
いつも下ろしている髪は後ろでまとめられ、小さな花飾りが揺れていた。
見慣れたはずの青い瞳が、夕暮れの光を受けてきらきらしている。
「……陽一?」
「…………」
「どうしたの?」
「……いや」
「変?」
加奈は不安そうに、自分の浴衣を見下ろした。
「お母さんに着せてもらったんだけど……」
「……可愛い」
「…………え?」
しまった。
口が勝手に動いた。
「……いや、その」
「……いま、なんて?」
「だから……似合ってるって」
「……可愛いって言ったよ?」
「聞こえてんなら聞き返すな!」
加奈の顔が、みるみる赤くなった。
それから、両手を頬に当てて、へにゃっと笑った。
「……えへへ」
「……なんだよ」
「ううん」
「笑うなよ」
「だって……嬉しいんだもん」
……参った。
今日は、どうやら俺の負けらしい。
「陽一も、かっこいいよ」
「……普通の服だぞ」
「うん。でも、かっこいい」
「……お前、変なものでも食ったか?」
「ひどーい!」
加奈が笑う。
俺もつられて笑った。
そうして二人で、夕暮れの道を歩き始めた。
*
神社に近づくにつれ、祭囃子が聞こえてきた。
提灯が道の両側に並び、赤や黄色の光が薄暗くなり始めた空の下で揺れている。
焼きそばの匂い。
甘い綿菓子の匂い。
子供たちのはしゃぐ声。
いつもの神社が、今日はまるで別の場所みたいだった。
「わあ……!」
加奈が目を輝かせる。
「すごいね、陽一!」
「毎年やってるだろ」
「でも、今日は特別!」
「なんで?」
「……ないしょ!」
「なんだそりゃ」
加奈は笑って、俺より少し前を歩いた。
その背中を追いかけながら、ふと気づく。
浴衣だと、歩幅が小さい。
いつもなら俺の横を平気で走っているのに、今日は少し歩きにくそうだった。
「……おい、加奈」
「ん?」
「そんな急ぐと転ぶぞ」
「大丈夫だよ!」
「ほんとかよ」
「ほんと!」
言った直後、下駄が石畳に引っかかった。
「わっ!」
「ほら!」
咄嗟に腕を掴む。
加奈は俺の胸元にぶつかるようにして止まった。
「…………」
「…………」
近い。
さっきから、なんなんだ今日は。
「……ありがと」
「……おう」
加奈は俺の腕を見た。
それから、そっと俺の袖をつまんだ。
「……こうしてても、いい?」
「……なんで?」
「また転んだら困るから」
「……まあ、いいけど」
「えへへ」
加奈は嬉しそうに笑った。
しばらく歩いていると、今度は人が増えてきた。
小さな子供が走り抜け、誰かが俺たちの間を通ろうとする。
加奈の指が、袖から離れかけた。
「……加奈」
「ん?」
「手」
「……え?」
「はぐれたら面倒だろ」
俺は手を差し出した。
加奈は目を丸くして、それから、そっと手を重ねてきた。
「……うん」
小さな手だった。
でも、思ったより温かい。
指先が触れて、少しだけ握る力を強くする。
すると加奈も、きゅっと握り返してきた。
「……陽一」
「なんだよ」
「……なんでもない」
「変なやつ」
「えへへ」
その後、俺たちはしばらく何も話さなかった。
話すことがなかったわけじゃない。
ただ、手をつないで歩いているだけで、なんだか十分だった。
*
「陽一! りんご飴!」
「はいはい」
「あと、綿菓子!」
「どっちかにしろよ!」
「じゃあ、りんご飴!」
「即決かよ」
加奈はりんご飴を一つ買うと、嬉しそうにかじりついた。
ぱりっ、と飴が割れる。
「んー! おいしい!」
「よかったな」
「陽一も食べる?」
「いや、俺は……」
「はい!」
目の前に、りんご飴が差し出された。
「…………」
「どうしたの?」
「……お前、今食ってたろ」
「うん?」
「……いや」
加奈は首を傾げる。
こいつ、本当に何も考えてないのか?
「いらない?」
「……いる」
一口かじる。
甘い。
やたらと甘い。
「おいしい?」
「……甘い」
「りんご飴だもん!」
「そりゃそうだけど」
加奈は満足そうに笑った。
そして、俺がかじった場所を見つめた。
「……あ」
「なんだよ」
「……ううん」
なぜか顔を赤くして、反対側から小さくかじった。
……なんなんだ、こいつ。
*
射的の屋台を見つけたのは、その少し後だった。
「あっ!」
加奈が足を止めた。
「陽一、見て!」
指差した先には、景品がずらりと並んでいる。
お菓子に、小さなおもちゃ。
その一番奥に、丸い目をした猫のぬいぐるみが座っていた。
「……あれ、可愛い」
「猫?」
「うん。ほら、あの子」
加奈はぬいぐるみを見つめたまま、動こうとしない。
「……欲しいのか?」
「えっ? ううん、見てただけ!」
「ふーん」
俺は財布を取り出した。
「おじさん、一回」
「陽一!?」
「なんだよ」
「いいの?」
「取れるか分かんねえけどな」
コルク銃を受け取る。
狙うのは、一番奥の猫。
……思ったより遠い。
一発目。
外れた。
「……あ」
二発目。
猫の耳をかすめた。
「惜しい!」
「分かってる!」
三発目。
ぬいぐるみがぐらりと揺れる。
「陽一! あとちょっと!」
「静かにしろ、集中できねえ!」
四発目。
猫は、棚の上で踏ん張った。
「……しぶといな、あいつ」
「頑張って、陽一!」
最後の一発。
俺は息を止めて、引き金を引いた。
ぽんっ。
コルクが猫の体に当たる。
ぬいぐるみは一瞬止まり、それから、ころんと前に倒れた。
「……よし!」
「やったああ!」
加奈が飛び跳ねた。
屋台のおじさんが笑いながら猫を渡してくれる。
「ほら」
俺はそれを加奈に差し出した。
「……え?」
「欲しかったんだろ」
「……いいの?」
「お前のために取ったんだから」
加奈は猫を受け取った。
両手で大事そうに抱きしめて、しばらく顔を上げなかった。
「……加奈?」
「……ありがと」
「おう」
「……すっごく、嬉しい」
顔を上げた加奈は、今にも泣きそうなくらい幸せそうに笑っていた。
「……そんなにか?」
「うん!」
猫をぎゅっと抱きしめる。
「この子、ずっと大事にする!」
「ぬいぐるみだぞ?」
「分かってるよ!」
「そんならいいけど」
「……陽一が取ってくれたんだもん」
小さな声だった。
祭囃子に紛れて、聞き逃しそうなくらい。
けれど、俺にはちゃんと聞こえた。
……なんだか、照れくさかった。
*
神社の石段は、少しだけ人が少なかった。
俺たちは並んで腰を下ろした。
加奈は猫のぬいぐるみを膝に乗せ、嬉しそうに頭を撫でている。
「……名前つけんのか?」
「うん。考えてる」
「猫でいいだろ」
「それ名前じゃないよ!」
「じゃあ、タマ」
「普通すぎる!」
「注文多いな!」
加奈はくすくす笑った。
その横顔を、俺はこっそり見つめる。
提灯の光に照らされた頬。
耳元で揺れる花飾り。
いつもと同じ加奈なのに、今日は少し違って見えた。
「……陽一?」
「……ん?」
「どうしたの?」
「いや、別に」
「……私の顔、なんかついてる?」
「ついてねえよ」
「じゃあ、なんで見てたの?」
「…………」
答えられない。
加奈は少し首を傾げた後、にこっと笑った。
「……私も、陽一の顔見てたよ」
「……は?」
「今日は、いっぱい見ちゃう」
「……なんで」
「……ないしょ」
こいつは本当に。
どうして、そんなことばっかり言うんだ。
そのとき。
どんっ、と遠くで音が響いた。
「あっ!」
加奈が空を見上げる。
夜空に、大きな赤い花が咲いた。
「花火!」
続けて、青、緑、金色。
夜空いっぱいに光が広がる。
「すごい……!」
加奈は猫を抱きしめたまま、夢中で空を見上げていた。
その横顔を見ていたら、ふと思った。
俺は、こいつが好きなんだ。
昔からずっと一緒にいた。
喧嘩もしたし、くだらないことで笑い合った。
泣いているところも見られた。
情けないところも、弱いところも。
それでも加奈は、俺の隣にいてくれた。
……好きだ。
きっと、ずっと前から。
「……加奈」
「ん?」
「俺さ……」
加奈がこちらを向いた。
青い瞳が、まっすぐ俺を見つめる。
「……お前のことが――」
どおおんっ!
夜空を揺らすような大きな音。
金色の花火が、一斉に開いた。
「わあっ!」
加奈が空を見上げる。
「陽一! 見て! すっごく綺麗!」
「…………」
「……あれ?」
加奈がこちらを向いた。
「今、何か言った?」
「……別に」
「えー? 絶対何か言ったでしょ?」
「何でもねえよ!」
「むー……」
加奈は不思議そうに首を傾げた。
……最悪だ。
せっかく言おうと思ったのに。
俺は膝に肘をついて、深くため息をついた。
隣では、加奈が楽しそうに花火を眺めている。
……まあ、いいか。
こんなに嬉しそうなんだから。
「……陽一」
「なんだよ」
「来年も、一緒に来ようね」
「……おう」
「再来年も!」
「気が早えよ」
「その次も!」
「分かったって」
加奈は笑った。
「……ずっと、一緒に来ようね」
俺は空を見上げた。
夜空に、また一つ花が咲く。
「……ああ」
そう答えると、加奈は嬉しそうに俺の肩へ少しだけ寄りかかった。
俺は、動けなくなった。
……花火より、こっちのほうが心臓に悪い。
*
花火が終わる頃には、祭りも少しずつ静かになっていた。
帰ろうとしたとき、加奈が小さな露店の前で足を止めた。
色とりどりのアクセサリーが並んでいる。
安い髪飾りや、ビーズの腕輪。
その中に、小さな青い石のついた指輪があった。
「……あ」
思わず声が出た。
「どうしたの?」
「いや……」
その石を見た瞬間、加奈の目を思い出した。
透き通った青。
夏の空みたいな、少し不思議な色。
「……お前、ちょっと待ってろ」
「え?」
「すぐ戻る」
俺は露店のおばさんに声をかけた。
指輪を買う。
高いものじゃない。
小遣いでも買えるような、子供向けの指輪だ。
それでも、手の中に握ると妙に緊張した。
「……陽一?」
戻ると、加奈が猫を抱えたまま待っていた。
「何買ったの?」
「……これ」
俺は指輪を差し出した。
「…………え?」
「お前に」
加奈は目を丸くした。
「……私に?」
「おう」
「……どうして?」
「……似てたから」
「何に?」
「……お前の目」
「…………」
「青いだろ。だから……似合うかなって」
加奈はしばらく、指輪を見つめていた。
それから、ゆっくり顔を上げた。
「……陽一」
「なんだよ」
「……私、今日、幸せすぎるよ」
「……大げさだな」
「大げさじゃないもん」
加奈は小さく首を振った。
「……つけても、いい?」
「お前に買ったんだから、いいに決まってるだろ」
「……じゃあ」
加奈は少しだけ俯いた。
「……陽一が、つけて?」
「……俺が?」
「うん」
「自分でつければいいだろ」
「……だめ?」
加奈が上目遣いで見てくる。
……卑怯だろ、それ。
「……分かったよ」
俺は指輪を受け取った。
「手、出せ」
「……うん」
加奈が左手を差し出す。
俺はその手を取って、少し考えた。
指輪って、どこにつけるんだったっけ。
そういえば。
父ちゃんも母ちゃんも、指輪をしていた。
二人とも、同じ指だった気がする。
……確か、ここだ。
俺は加奈の薬指に指輪を近づけた。
「……えっ」
「ん?」
「よ、陽一……?」
「なんだよ」
「……そこ?」
「ここじゃねえの?」
「……えっ、あの、その……!」
加奈が急に慌て始めた。
「ど、どうして、その指なの?」
「どうしてって……」
俺は首を傾げた。
「父ちゃんと母ちゃんが、そこにつけてたから」
「…………!」
「指輪って、そういうもんじゃねえの?」
加奈は口を開けたまま、固まった。
「……加奈?」
「…………」
「おーい」
「……よ、陽一」
「なんだよ」
「……そこが、どういう意味か……知ってる?」
「意味?」
「……うん」
「……知らねえ」
「…………」
「なんかあるのか?」
加奈は、真っ赤になった顔を俯けた。
「……ばか」
「はあ!?」
「……陽一の、ばか」
「なんで怒られんだよ!」
「……怒ってないもん」
そう言いながら、加奈は笑っていた。
なんだよ、もう。
「……嫌なら、別の指にするけど」
「だめ!」
加奈が勢いよく顔を上げた。
「……え?」
「あっ……」
加奈はさらに赤くなった。
「……そこが、いい」
「……そうか」
「……うん」
俺は慎重に、指輪を通した。
小さな青い石が、加奈の左手の薬指で光る。
「……どうだ?」
加奈は指輪を見つめた。
何度も、何度も。
それから、胸の前に左手を持っていって、幸せそうに笑った。
「……すっごく、綺麗」
「……似合ってる」
「……ほんと?」
「おう」
「……えへへ」
加奈は俺を見上げた。
「……ありがとう、陽一」
その笑顔を見た瞬間。
さっき、花火に邪魔された言葉が、もう一度胸の奥から湧き上がってきた。
今度こそ。
ちゃんと、伝えたい。
「……加奈」
「……なあに?」
「……俺さ」
「うん」
心臓がうるさい。
さっきの花火より、ずっとうるさい。
「……お前のこと、好きだ」
「…………」
加奈が固まった。
「……え?」
「……だから」
俺は、思い切って顔を上げた。
「……加奈のことが、好きなんだよ」
「…………えっ」
加奈は俺を見つめたまま、動かなくなった。
数秒。
いや、もっと長かったかもしれない。
「……か、加奈?」
「……えっ、えっ……」
「……なんだよ」
「……わ、私?」
「ほかに誰がいるんだよ!」
「だ、だって……!」
加奈は両手で顔を覆った。
猫のぬいぐるみが腕の中で潰れそうになっている。
「……えっ、どうしよう……!」
「……どうしようって」
「……だって、陽一が……!」
加奈は俺を見た。
すぐに目を逸らした。
また見た。
そして、とうとうしゃがみ込んでしまった。
「……おい、大丈夫か?」
「……だ、大丈夫じゃない……」
「……なんでだよ」
「……心臓が……」
「心臓?」
「……すっごく、どきどきしてる……」
俺だってそうだ。
さっきから、どうにかなりそうなんだ。
「……嫌だったか?」
思わず、そんな言葉が出た。
加奈は勢いよく顔を上げた。
「違う!」
「……え?」
「……嫌じゃ、ないよ」
加奈は立ち上がった。
真っ赤な顔で、俺を見つめる。
「……すっごく、嬉しい」
「…………」
「……嬉しくて、どうしたらいいか分かんないの」
加奈は指輪を見つめた。
それから、少し困ったように笑った。
「……あのね、陽一」
「……おう」
「……お返事、明日でもいい?」
「……明日?」
「……うん」
加奈は胸の前で、左手をぎゅっと握った。
「……今日は、嬉しいことがいっぱいありすぎて……ちゃんと、言葉にできないから」
「…………」
「……だから、明日」
加奈は、恥ずかしそうに笑った。
「……明日、ちゃんと伝えるね」
俺は、しばらく何も言えなかった。
断られたわけじゃない。
でも、返事はまだ分からない。
それなのに。
加奈の笑顔を見ていたら、不思議と怖くなかった。
「……分かった」
「……ほんと?」
「おう。明日な」
「……うん!」
加奈は嬉しそうに頷いた。
「……約束だよ?」
「分かったって」
「……絶対?」
「絶対」
加奈は、小さく笑った。
「……えへへ」
そして、左手の薬指をもう一度見つめた。
「……陽一」
「ん?」
「……これ、一生大事にするね」
「……安物だぞ」
「関係ないよ」
加奈は、まっすぐ俺を見つめた。
「……陽一がくれたんだもん」
……参った。
本当に、参った。
俺はもう、何も言い返せなかった。
*
帰り道。
加奈は、ずっと機嫌がよかった。
猫のぬいぐるみを抱え、何度も左手を街灯にかざしている。
「……そんなに見て、飽きねえの?」
「飽きない!」
「……そうかよ」
「陽一、見て!」
「さっきから見てるって」
「えへへ……」
加奈はくるりと振り返った。
浴衣の裾がふわりと揺れる。
「……今日、ほんとに楽しかった!」
「……おう」
「射的も、花火も、りんご飴も!」
「……そうだな」
「それから……」
加奈は左手を胸に当てた。
「……指輪も」
「……おう」
「……それから……」
そこで言葉を止める。
「……なんだよ」
「……ないしょ!」
「またそれかよ!」
加奈は笑いながら、少し前を歩いた。
「……陽一!」
「なんだよ」
「……大好き!」
「…………!」
思わず足が止まった。
加奈は、いたずらっぽく笑っている。
「……猫のぬいぐるみ!」
「……そっちかよ!」
「あははは!」
「お前なあ!」
加奈は声を上げて笑った。
俺も、呆れながら笑ってしまった。
……本当に、ずるいやつだ。
そのときだった。
「あっ!」
加奈の下駄が、道の小さな段差に引っかかった。
「加奈!」
手を伸ばす。
けれど、間に合わなかった。
加奈は前のめりに転び、石畳に膝をついた。
「……いたっ」
「おい、大丈夫か!?」
慌てて駆け寄る。
加奈の膝には、擦り傷ができていた。
少し血が滲んでいる。
「……大丈夫、大丈夫!」
「大丈夫じゃねえだろ!」
「……ちょっと転んだだけだよ」
「血、出てんじゃねえか!」
俺はポケットからハンカチを取り出した。
膝を見ようとすると、加奈は慌てて浴衣の裾を押さえた。
「……あっ、陽一!」
「なんだよ!」
「……そんなに見ないで」
「怪我してんだろ!」
「……そうだけど……!」
加奈は真っ赤になって俯いた。
……なんでこんなときまで照れるんだ。
「……ほら、これ使え」
ハンカチを渡す。
加奈は受け取って、傷口をそっと押さえた。
「……ありがと」
「……歩けるか?」
「うん。平気」
「ほんとか?」
「ほんとだよ」
加奈は立ち上がった。
少しだけ膝を気にしていたけれど、歩けないほどではなさそうだった。
「……ほら」
俺は手を差し出した。
「……え?」
「家まで送る」
「……でも」
「また転ばれたら困るからな」
加奈は俺の手を見つめた。
それから、嬉しそうに笑った。
「……うん」
そっと、手を重ねる。
俺はその手を、しっかり握った。
「……陽一」
「なんだよ」
「……手、あったかいね」
「……お前の手もな」
「……えへへ」
加奈は俺の隣に並んだ。
少しだけ、肩が触れる。
そのまま、二人でゆっくり歩いた。
*
一之瀬家の前に着いた頃には、すっかり夜も更けていた。
玄関先の明かりが、加奈の浴衣を淡く照らしている。
「……着いたぞ」
「……うん」
加奈は俺の手を見つめた。
それから、少し名残惜しそうに指を離した。
「……今日は、ありがとう」
「……おう」
「……ほんとに、楽しかった」
「俺も」
加奈が目を丸くした。
「……ほんと?」
「……嘘ついてどうすんだよ」
「……そっか」
加奈は、嬉しそうに笑った。
猫のぬいぐるみを抱き直す。
そして、左手の薬指をそっと撫でた。
「……陽一」
「ん?」
「……明日ね」
「……おう」
「……ちゃんと、お返事するから」
「……分かってる」
「……忘れないでね?」
「忘れるわけねえだろ」
加奈は少しだけ俯いた。
それから、何かを決心したように顔を上げた。
「……陽一」
「なんだよ」
「……ちょっと、目つぶって?」
「……は?」
「……いいから」
「……なんで?」
「……お願い」
加奈の顔が、真っ赤だった。
俺は訳が分からないまま、目を閉じた。
「……これでいいか?」
「……うん」
小さな足音が近づく。
ふわりと、甘い匂いがした。
そして。
頬に、柔らかいものが触れた。
「…………!」
目を開ける。
加奈は、俺から少し離れたところで、両手を頬に当てていた。
「……か、加奈?」
「……えへへ」
「……今の」
「……ないしょ!」
「いや、ないしょって……!」
加奈は恥ずかしそうに笑った。
それから、玄関へ向かって小走りに駆け出す。
「……あっ、走るな! また転ぶぞ!」
「大丈夫!」
玄関の前で振り返る。
猫のぬいぐるみを片手に抱え、もう片方の手を大きく振った。
左手の薬指で、小さな青い石が光っていた。
「……陽一!」
「……なんだよ!」
加奈は、今日一番の笑顔を見せた。
「……また明日!」
俺は、まだ熱い頬を押さえながら答えた。
「……おう!」
加奈は嬉しそうに頷いて、家の中へ入っていった。
扉が閉まる。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
「…………」
頬に触れる。
まだ、温かい気がした。
「……なんだよ、あいつ」
誰もいない夜道で、一人呟く。
そして、どうしようもなく笑ってしまった。
明日。
明日になれば、加奈の返事が聞ける。
もし、加奈も同じ気持ちだったら。
そのときは、何を言おう。
どこへ行こう。
何を話そう。
そんなことを考えながら、俺は家へ向かって歩き出した。
夜空には、花火の煙がまだ少しだけ残っていた。
胸の中は、祭りの音よりもずっと騒がしかった。
明日が、待ち遠しかった。
こんなにも明日が楽しみなのは、いつ以来だろう。
俺は足取りを軽くして、夜道を歩いた。
何度も、何度も。
明日のことを考えながら。
カロリー高すぎてドカ食い気絶部歯が全部虫歯になりそうですけどもっとボキャブラリーがあればもっと甘くできそうなのに発送がわかない自分が悔しいです
今回はホワイトベリーの夏祭りです
太鼓の達人で皆さんお世話になったと思います
今後もよろしくお願いします




