EP32 Yesterday
目が覚めたとき、最初に聞こえたのは鳥の声だった。
昨日まで降っていた雪は、もうやんでいた。
窓の外には薄く雪が残っていて、向かいの家の屋根が朝日に照らされている。
寒い。
そう思って布団を引き寄せたところで、妙に冷たい風が頬を撫でた。
「……あ」
窓。
昨日、加奈が割った窓だ。
振り向くと、割れた部分には段ボールとビニールが貼りつけられていた。昨日の夜、加奈と二人で応急処置をしたものだ。
見た目はひどい。
おまけに、隙間から風が入ってくる。
「……あいつ、ほんとに割りやがったんだな」
思わず呟いた。
昨日のことを思い出す。
加奈が怒鳴りながら部屋に入ってきたこと。
俺もひどいことを言い返したこと。
それから。
あいつの前で、子供みたいに泣いたこと。
「…………」
布団を頭まで被った。
思い出した途端、顔が熱くなった。
いや、子供なんだけど。
そういう問題じゃない。
あんなに泣いたのは、いつ以来だろう。
父ちゃんと母ちゃんがいなくなってから、ずっと胸の奥に詰まっていたものを、全部吐き出してしまった気がする。
だからといって、すっきりしたわけじゃない。
階段を下りても、父ちゃんはいない。
台所に行っても、母ちゃんはいない。
それは昨日と何も変わらない。
変わったことがあるとすれば。
昨日まで、誰にも会いたくなかったのに。
今日は、少しだけ。
加奈の顔が見たかった。
……いや。
やっぱり、見たくないかもしれない。
あんなところを見られたんだから。
「陽一ー!」
階下から声がした。
「…………」
噂をすれば、だ。
「陽一! 起きてるー?」
「起きてる!」
「じゃあ下りてきてよ!」
「今行く!」
返事をしてから、俺は天井を見上げた。
昨日までなら、きっと返事すらしなかった。
それが少し不思議だった。
*
「おはよう!」
玄関に立っていた加奈は、いつもどおりだった。
いつもどおりの金色の髪。
いつもどおりの青い目。
いつもどおりの、やたら元気な声。
「……おう」
「なに、その顔」
「別に」
「まだ寝てた?」
「起きてたよ」
「ほんと?」
「ほんとだって」
加奈は俺の顔を覗き込んだ。
近い。
「……なんだよ」
「ううん。ちゃんと起きてるなって」
「見りゃ分かるだろ」
「昨日はあんなに泣いてたから」
「おい!」
思わず声が裏返った。
加奈はきょとんとした顔をする。
「なに?」
「それ言うな!」
「なんで?」
「なんでも!」
「変なの」
くすくす笑う加奈を見ていると、昨日のことがまた頭に浮かんだ。
泣きながら、あいつにしがみついた。
加奈は何も言わず、ずっと背中を撫でてくれた。
それを思い出すと、どうにも顔を見ていられない。
「……で、何しに来たんだよ」
「迎えに来たの」
「学校?」
「ううん。教会」
「教会?」
「そう。朝のお祈り」
加奈は当たり前のように言った。
「お前、毎朝行ってるもんな」
「うん」
「……俺は別に、祈ることなんかないぞ」
「ほんとに?」
「…………」
言い返そうとして、やめた。
加奈は急かさなかった。
「とりあえず、一緒に行かない?」
外を見ると、道端にはまだ雪が残っている。
寒そうだ。
でも。
この家に一人でいるよりは、いいかもしれない。
「……ちょっと待ってろ。着替えてくる」
「うん!」
加奈は嬉しそうに笑った。
*
久しぶりに歩く朝の道は、思っていたより眩しかった。
雪の残った塀。
水たまりに映る空。
遠くを走る車の音。
何もかも、前と同じだった。
父ちゃんと母ちゃんがいなくなっても、町はいつもどおり動いている。
それが少し、嫌だった。
「寒いねえ」
隣で加奈が手に息を吹きかけた。
「冬なんだから当たり前だろ」
「そうだけどさ。指先、冷たくなっちゃった」
「手袋すりゃいいのに」
「忘れちゃった」
「バカだな」
「陽一だってしてないじゃん」
「俺はいいんだよ」
「ずるい!」
加奈が頬を膨らませた。
俺は上着のポケットに突っ込んでいた手を出すと、加奈の手を取った。
「ほら」
「……え?」
そのまま自分のポケットに突っ込む。
「ここ、暖かいぞ」
「…………」
「なんだよ」
「……ううん」
加奈は妙におとなしくなった。
さっきまであんなに喋っていたのに。
「お前、手ぇ冷たすぎだろ」
「……陽一の手が暖かいんだよ」
「そうか?」
「……うん」
加奈は俯いて、少しだけ俺に近づいた。
なんだか歩きにくくなったけれど、まあ、寒いよりはいいだろう。
そう思って、俺はそのまま歩いた。
しばらくして、加奈がぽつりと言った。
「……ねえ、陽一」
「ん?」
「もう、手、暖かくなったよ」
「そうか。よかったな」
「……うん」
なのに、加奈は手を出そうとしなかった。
俺も、わざわざ出せとは言わなかった。
教会の前に着くまで、結局そのままだった。
*
教会に着くと、加奈は慣れた様子で扉を開けた。
中は静かだった。
朝の光が窓から差し込み、並んだ長椅子の上に淡い色を落としている。
加奈はいつもの席へ向かった。
俺も、その隣に座る。
「……で、何すんの?」
「お祈り」
「それは聞いた」
「目を閉じて、手を組むの」
加奈が手本を見せた。
「それで?」
「祈るの」
「だから、何をだよ」
「何でもいいんだよ」
「何でも?」
「うん。大切な人が元気でいられますように、とか。今日も無事に過ごせますように、とか」
「…………」
俺は首に下げていた銀の十字架に触れた。
クリスマスに、加奈からもらったものだ。
それを指先で握りながら、少し考えた。
「……祈ったら、叶うのか?」
加奈はすぐには答えなかった。
「全部は、叶わないと思う」
「……だよな」
「でも、祈りたいことってあるでしょ?」
俺は黙った。
父ちゃんと母ちゃんに帰ってきてほしい。
それが一番の願いだった。
でも、もう叶わない。
そんなことは分かっている。
だから。
俺は加奈の真似をして、手を組んだ。
目を閉じる。
何を言えばいいのか分からなかった。
しばらく考えて、ようやく一つだけ浮かんだ。
今、そばにいてくれる人が。
明日も、無事でいてくれますように。
そのとき、真っ先に浮かんだのは加奈の顔だった。
昨日、窓を割ってまで会いに来てくれた。
俺がひどいことを言っても、逃げずにいてくれた。
あいつまで、いなくなったら。
……嫌だ。
それだけは、絶対に嫌だった。
目を開けると、加奈はまだ祈っていた。
俺はその横顔を見て、慌てて視線をそらした。
「終わった?」
加奈が小声で聞いた。
「……おう」
「何を祈ったの?」
「秘密」
「えー、教えてよ」
「嫌だ」
「けち」
「祈りって、人に教えるもんなのかよ」
「それは……そうかも」
加奈は少し考えてから、笑った。
「じゃあ、秘密でいいよ」
その笑顔を見て、俺はまた顔をそらした。
*
それから、朝になると教会へ行くようになった。
最初のうちは加奈が迎えに来ていた。
でも、毎朝わざわざ迎えに来てもらうのも悪い。
そう思って、ある日、少し早く家を出た。
教会の扉を開ける。
加奈はもう座っていた。
「……おはよう」
「あ、陽一。おはよう!」
「早いな、お前」
「そう?」
次の日は、もっと早く出た。
やっぱり加奈はいた。
「……お前、何時に来てんの?」
「いつもどおりだよ?」
「そのいつもが何時なんだよ」
「さあ?」
「なんで分かんねえんだよ!」
加奈は楽しそうに笑った。
なんだか悔しい。
さらに次の日。
俺は目覚まし時計をいつもよりずっと早くセットした。
外はまだ薄暗い。
寒いし、眠いし、正直もう布団に戻りたい。
それでも今日は勝つ。
何に勝つのかは、自分でもよく分からない。
教会まで走った。
息を切らしながら扉を開ける。
いつもの席を見る。
誰もいない。
「…………」
もう一度、確かめる。
いない。
「……勝った」
思わず拳を握った。
「よっしゃ!」
声が響いて、慌てて口を押さえる。
教会で騒ぐのは、さすがによくない。
俺は得意げにいつもの席へ座った。
これで加奈が来たら、思いっきり自慢してやろう。
十分が過ぎた。
二十分が過ぎた。
三十分が過ぎた。
「……遅くね?」
加奈は来なかった。
そのうち、窓から差し込む光が明るくなってきた。
「……なんだよ」
せっかく勝ったのに。
勝った相手が来ないんじゃ、意味がない。
帰ろうと思って立ち上がる。
そのとき、いつも加奈が座っている場所が目に入った。
俺は少し迷ってから、もう一度腰を下ろした。
加奈がいなくても、祈って帰るくらいはいいだろう。
手を組んで、目を閉じる。
今日も、加奈が無事でありますように。
それだけ願った。
教会を出る頃には、朝日がすっかり昇っていた。
*
「……で、昨日どこ行ってたんだよ」
翌朝、教会で加奈を見つけた俺は、さっそく問い詰めた。
「昨日?」
「そう。昨日」
「ああ、用事があったの」
「用事?」
「うん。前に言ったでしょ?」
「聞いてねえよ」
「言ったよ?」
「言ってねえ!」
「陽一が聞いてなかったんだよ」
加奈は平然としていた。
俺は腕を組む。
「まあ、いいけどな」
「なにが?」
「昨日は俺の勝ちだから」
「……何の話?」
「朝の勝負」
「朝の勝負?」
「どっちが早く教会に着くかだよ!」
加奈は目をぱちぱちさせた。
それから。
「……そんな勝負してたの?」
「してた!」
「いつから?」
「三日前くらい!」
加奈は口元を押さえた。
肩が震えている。
「……笑うなよ」
「だって……ふふっ」
「俺は本気だったんだぞ!」
「ごめん、ごめん。でも、昨日は私、来てないよ?」
「だから俺の勝ちだろ!」
「勝負になってないじゃん」
「なってる!」
「なってないよ」
「なってるって!」
結局、加奈は最後まで認めなかった。
俺としては、今でもあの日は勝ったと思っている。
……まあ、その後も一度だって、加奈より早く着けたことはなかったけれど。
*
学校にも、少しずつ戻るようになった。
久しぶりに教室へ入った日、友達は妙に気を遣っていた。
それが分かったから、余計に何を話せばいいのか困った。
でも、何日かすると、またくだらない話をするようになった。
宿題を忘れたやつが怒られたり。
昼休みに誰かがふざけすぎて先生に叱られたり。
そんな毎日が戻ってきた。
笑うこともあった。
でも、前みたいに何も考えず笑えるわけじゃなかった。
放課後、家に帰るとき。
玄関の鍵を開けるとき。
夕飯を一人で食べるとき。
何でもない瞬間に、父ちゃんと母ちゃんのことを思い出した。
誰もいない家は、相変わらず静かだった。
たまに、母ちゃんの声が聞こえた気がして振り返ることもあった。
もちろん、誰もいない。
それでも朝だけは、教会へ行った。
加奈はいつも、先に座っていた。
俺が隣に座ると、少しだけ笑ってくれる。
それから二人で祈る。
加奈が何を祈っているのか、俺は知らない。
俺も、自分の祈りを教えたことはない。
ただ、毎朝同じことを願っていた。
今日も、加奈が無事でありますように。
明日も、元気でいてくれますように。
そうしているうちに、寒かった朝の空気が少しずつ変わっていった。
道端の雪は消え、桜が咲き、やがて散った。
制服の上着がいらなくなって、教室の窓から暖かい風が入るようになった。
季節だけは、どんどん進んでいく。
俺はまだ、置いていかれているような気がしていた。
そんなある朝。
「ねえ、陽一」
祈り終えた加奈が、俺を見た。
「なんだよ」
「最近、あんまり笑わないね」
「……そうか?」
「うん」
加奈は少し寂しそうに笑った。
「前はもっと、くだらないことで笑ってたのに」
「くだらないってなんだよ」
「そういうところ」
「意味分かんねえ」
加奈が笑う。
俺も、つられて少しだけ笑った。
でも、目が合った途端、昨日のことみたいに思い出してしまう。
あの寒い部屋。
割れた窓。
泣きながらしがみついた、加奈の肩。
「…………」
俺は慌てて顔をそらした。
「……陽一?」
「なんでもねえよ」
「ほんと?」
「ほんとだって」
加奈は何か言いたそうにしていたけれど、それ以上は聞かなかった。
俺自身、どうしてこんなに落ち着かないのか、よく分かっていなかった。
ただ。
加奈が隣にいないと寂しいくせに。
隣にいると、今度はまともに顔を見られない。
自分でも、面倒くさいと思う。
*
夏が近づいていた。
教会へ向かう朝の道では、もう白い息は出ない。
木々の緑が濃くなり、遠くで蝉の声が聞こえ始めた。
いつもの扉を開ける。
いつもの席に、加奈がいた。
俺は隣に腰を下ろす。
「おはよう、陽一」
「……おう。おはよう」
「今日も私の勝ちだね」
「まだ言うか、それ」
「だって、陽一が勝負してるんでしょ?」
「……いつか絶対勝つからな」
「ふふっ。頑張ってね」
加奈が目を閉じた。
俺も手を組む。
父ちゃん。
母ちゃん。
今日も、ちゃんと起きたぞ。
学校にも行ってる。
飯も、まあ、ちゃんと食ってる。
だから、心配すんなよ。
それから。
加奈が今日も、無事でありますように。
明日も、その次の日も。
あいつが元気で、笑っていられますように。
目を開けると、朝日が教会の床を照らしていた。
隣には、いつものように加奈がいる。
俺はそれだけで、少し安心した。
この先も、ずっと。
こんな朝が続くものだと、あの頃の俺は思っていた。
今回はビートルズのイエスタデイです
名曲なので聞いたことがある人が多いと思います
是非知らない方は聞いてみてください




