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『あの日、君が祈っていたこと』  作者: 整備士
さよならは、また逢う日まで
32/36

EP32 Yesterday

 目が覚めたとき、最初に聞こえたのは鳥の声だった。


 昨日まで降っていた雪は、もうやんでいた。


 窓の外には薄く雪が残っていて、向かいの家の屋根が朝日に照らされている。


 寒い。


 そう思って布団を引き寄せたところで、妙に冷たい風が頬を撫でた。


「……あ」


 窓。


 昨日、加奈が割った窓だ。


 振り向くと、割れた部分には段ボールとビニールが貼りつけられていた。昨日の夜、加奈と二人で応急処置をしたものだ。


 見た目はひどい。


 おまけに、隙間から風が入ってくる。


「……あいつ、ほんとに割りやがったんだな」


 思わず呟いた。


 昨日のことを思い出す。


 加奈が怒鳴りながら部屋に入ってきたこと。


 俺もひどいことを言い返したこと。


 それから。


 あいつの前で、子供みたいに泣いたこと。


「…………」


 布団を頭まで被った。


 思い出した途端、顔が熱くなった。


 いや、子供なんだけど。


 そういう問題じゃない。


 あんなに泣いたのは、いつ以来だろう。


 父ちゃんと母ちゃんがいなくなってから、ずっと胸の奥に詰まっていたものを、全部吐き出してしまった気がする。


 だからといって、すっきりしたわけじゃない。


 階段を下りても、父ちゃんはいない。


 台所に行っても、母ちゃんはいない。


 それは昨日と何も変わらない。


 変わったことがあるとすれば。


 昨日まで、誰にも会いたくなかったのに。


 今日は、少しだけ。


 加奈の顔が見たかった。


 ……いや。


 やっぱり、見たくないかもしれない。


 あんなところを見られたんだから。


「陽一ー!」


 階下から声がした。


「…………」


 噂をすれば、だ。


「陽一! 起きてるー?」


「起きてる!」


「じゃあ下りてきてよ!」


「今行く!」


 返事をしてから、俺は天井を見上げた。


 昨日までなら、きっと返事すらしなかった。


 それが少し不思議だった。


     *


「おはよう!」


 玄関に立っていた加奈は、いつもどおりだった。


 いつもどおりの金色の髪。


 いつもどおりの青い目。


 いつもどおりの、やたら元気な声。


「……おう」


「なに、その顔」


「別に」


「まだ寝てた?」


「起きてたよ」


「ほんと?」


「ほんとだって」


 加奈は俺の顔を覗き込んだ。


 近い。


「……なんだよ」


「ううん。ちゃんと起きてるなって」


「見りゃ分かるだろ」


「昨日はあんなに泣いてたから」


「おい!」


 思わず声が裏返った。


 加奈はきょとんとした顔をする。


「なに?」


「それ言うな!」


「なんで?」


「なんでも!」


「変なの」


 くすくす笑う加奈を見ていると、昨日のことがまた頭に浮かんだ。


 泣きながら、あいつにしがみついた。


 加奈は何も言わず、ずっと背中を撫でてくれた。


 それを思い出すと、どうにも顔を見ていられない。


「……で、何しに来たんだよ」


「迎えに来たの」


「学校?」


「ううん。教会」


「教会?」


「そう。朝のお祈り」


 加奈は当たり前のように言った。


「お前、毎朝行ってるもんな」


「うん」


「……俺は別に、祈ることなんかないぞ」


「ほんとに?」


「…………」


 言い返そうとして、やめた。


 加奈は急かさなかった。


「とりあえず、一緒に行かない?」


 外を見ると、道端にはまだ雪が残っている。


 寒そうだ。


 でも。


 この家に一人でいるよりは、いいかもしれない。


「……ちょっと待ってろ。着替えてくる」


「うん!」


 加奈は嬉しそうに笑った。


     *


 久しぶりに歩く朝の道は、思っていたより眩しかった。


 雪の残った塀。


 水たまりに映る空。


 遠くを走る車の音。


 何もかも、前と同じだった。


 父ちゃんと母ちゃんがいなくなっても、町はいつもどおり動いている。


 それが少し、嫌だった。


「寒いねえ」


 隣で加奈が手に息を吹きかけた。


「冬なんだから当たり前だろ」


「そうだけどさ。指先、冷たくなっちゃった」


「手袋すりゃいいのに」


「忘れちゃった」


「バカだな」


「陽一だってしてないじゃん」


「俺はいいんだよ」


「ずるい!」


 加奈が頬を膨らませた。


 俺は上着のポケットに突っ込んでいた手を出すと、加奈の手を取った。


「ほら」


「……え?」


 そのまま自分のポケットに突っ込む。


「ここ、暖かいぞ」


「…………」


「なんだよ」


「……ううん」


 加奈は妙におとなしくなった。


 さっきまであんなに喋っていたのに。


「お前、手ぇ冷たすぎだろ」


「……陽一の手が暖かいんだよ」


「そうか?」


「……うん」


 加奈は俯いて、少しだけ俺に近づいた。


 なんだか歩きにくくなったけれど、まあ、寒いよりはいいだろう。


 そう思って、俺はそのまま歩いた。


 しばらくして、加奈がぽつりと言った。


「……ねえ、陽一」


「ん?」


「もう、手、暖かくなったよ」


「そうか。よかったな」


「……うん」


 なのに、加奈は手を出そうとしなかった。


 俺も、わざわざ出せとは言わなかった。


 教会の前に着くまで、結局そのままだった。


     *


 教会に着くと、加奈は慣れた様子で扉を開けた。


 中は静かだった。


 朝の光が窓から差し込み、並んだ長椅子の上に淡い色を落としている。


 加奈はいつもの席へ向かった。


 俺も、その隣に座る。


「……で、何すんの?」


「お祈り」


「それは聞いた」


「目を閉じて、手を組むの」


 加奈が手本を見せた。


「それで?」


「祈るの」


「だから、何をだよ」


「何でもいいんだよ」


「何でも?」


「うん。大切な人が元気でいられますように、とか。今日も無事に過ごせますように、とか」


「…………」


 俺は首に下げていた銀の十字架に触れた。


 クリスマスに、加奈からもらったものだ。


 それを指先で握りながら、少し考えた。


「……祈ったら、叶うのか?」


 加奈はすぐには答えなかった。


「全部は、叶わないと思う」


「……だよな」


「でも、祈りたいことってあるでしょ?」


 俺は黙った。


 父ちゃんと母ちゃんに帰ってきてほしい。


 それが一番の願いだった。


 でも、もう叶わない。


 そんなことは分かっている。


 だから。


 俺は加奈の真似をして、手を組んだ。


 目を閉じる。


 何を言えばいいのか分からなかった。


 しばらく考えて、ようやく一つだけ浮かんだ。


 今、そばにいてくれる人が。


 明日も、無事でいてくれますように。


 そのとき、真っ先に浮かんだのは加奈の顔だった。


 昨日、窓を割ってまで会いに来てくれた。


 俺がひどいことを言っても、逃げずにいてくれた。


 あいつまで、いなくなったら。


 ……嫌だ。


 それだけは、絶対に嫌だった。


 目を開けると、加奈はまだ祈っていた。


 俺はその横顔を見て、慌てて視線をそらした。


「終わった?」


 加奈が小声で聞いた。


「……おう」


「何を祈ったの?」


「秘密」


「えー、教えてよ」


「嫌だ」


「けち」


「祈りって、人に教えるもんなのかよ」


「それは……そうかも」


 加奈は少し考えてから、笑った。


「じゃあ、秘密でいいよ」


 その笑顔を見て、俺はまた顔をそらした。


     *


 それから、朝になると教会へ行くようになった。


 最初のうちは加奈が迎えに来ていた。


 でも、毎朝わざわざ迎えに来てもらうのも悪い。


 そう思って、ある日、少し早く家を出た。


 教会の扉を開ける。


 加奈はもう座っていた。


「……おはよう」


「あ、陽一。おはよう!」


「早いな、お前」


「そう?」


 次の日は、もっと早く出た。


 やっぱり加奈はいた。


「……お前、何時に来てんの?」


「いつもどおりだよ?」


「そのいつもが何時なんだよ」


「さあ?」


「なんで分かんねえんだよ!」


 加奈は楽しそうに笑った。


 なんだか悔しい。


 さらに次の日。


 俺は目覚まし時計をいつもよりずっと早くセットした。


 外はまだ薄暗い。


 寒いし、眠いし、正直もう布団に戻りたい。


 それでも今日は勝つ。


 何に勝つのかは、自分でもよく分からない。


 教会まで走った。


 息を切らしながら扉を開ける。


 いつもの席を見る。


 誰もいない。


「…………」


 もう一度、確かめる。


 いない。


「……勝った」


 思わず拳を握った。


「よっしゃ!」


 声が響いて、慌てて口を押さえる。


 教会で騒ぐのは、さすがによくない。


 俺は得意げにいつもの席へ座った。


 これで加奈が来たら、思いっきり自慢してやろう。


 十分が過ぎた。


 二十分が過ぎた。


 三十分が過ぎた。


「……遅くね?」


 加奈は来なかった。


 そのうち、窓から差し込む光が明るくなってきた。


「……なんだよ」


 せっかく勝ったのに。


 勝った相手が来ないんじゃ、意味がない。


 帰ろうと思って立ち上がる。


 そのとき、いつも加奈が座っている場所が目に入った。


 俺は少し迷ってから、もう一度腰を下ろした。


 加奈がいなくても、祈って帰るくらいはいいだろう。


 手を組んで、目を閉じる。


 今日も、加奈が無事でありますように。


 それだけ願った。


 教会を出る頃には、朝日がすっかり昇っていた。


     *


「……で、昨日どこ行ってたんだよ」


 翌朝、教会で加奈を見つけた俺は、さっそく問い詰めた。


「昨日?」


「そう。昨日」


「ああ、用事があったの」


「用事?」


「うん。前に言ったでしょ?」


「聞いてねえよ」


「言ったよ?」


「言ってねえ!」


「陽一が聞いてなかったんだよ」


 加奈は平然としていた。


 俺は腕を組む。


「まあ、いいけどな」


「なにが?」


「昨日は俺の勝ちだから」


「……何の話?」


「朝の勝負」


「朝の勝負?」


「どっちが早く教会に着くかだよ!」


 加奈は目をぱちぱちさせた。


 それから。


「……そんな勝負してたの?」


「してた!」


「いつから?」


「三日前くらい!」


 加奈は口元を押さえた。


 肩が震えている。


「……笑うなよ」


「だって……ふふっ」


「俺は本気だったんだぞ!」


「ごめん、ごめん。でも、昨日は私、来てないよ?」


「だから俺の勝ちだろ!」


「勝負になってないじゃん」


「なってる!」


「なってないよ」


「なってるって!」


 結局、加奈は最後まで認めなかった。


 俺としては、今でもあの日は勝ったと思っている。


 ……まあ、その後も一度だって、加奈より早く着けたことはなかったけれど。


     *


 学校にも、少しずつ戻るようになった。


 久しぶりに教室へ入った日、友達は妙に気を遣っていた。


 それが分かったから、余計に何を話せばいいのか困った。


 でも、何日かすると、またくだらない話をするようになった。


 宿題を忘れたやつが怒られたり。


 昼休みに誰かがふざけすぎて先生に叱られたり。


 そんな毎日が戻ってきた。


 笑うこともあった。


 でも、前みたいに何も考えず笑えるわけじゃなかった。


 放課後、家に帰るとき。


 玄関の鍵を開けるとき。


 夕飯を一人で食べるとき。


 何でもない瞬間に、父ちゃんと母ちゃんのことを思い出した。


 誰もいない家は、相変わらず静かだった。


 たまに、母ちゃんの声が聞こえた気がして振り返ることもあった。


 もちろん、誰もいない。


 それでも朝だけは、教会へ行った。


 加奈はいつも、先に座っていた。


 俺が隣に座ると、少しだけ笑ってくれる。


 それから二人で祈る。


 加奈が何を祈っているのか、俺は知らない。


 俺も、自分の祈りを教えたことはない。


 ただ、毎朝同じことを願っていた。


 今日も、加奈が無事でありますように。


 明日も、元気でいてくれますように。


 そうしているうちに、寒かった朝の空気が少しずつ変わっていった。


 道端の雪は消え、桜が咲き、やがて散った。


 制服の上着がいらなくなって、教室の窓から暖かい風が入るようになった。


 季節だけは、どんどん進んでいく。


 俺はまだ、置いていかれているような気がしていた。


 そんなある朝。


「ねえ、陽一」


 祈り終えた加奈が、俺を見た。


「なんだよ」


「最近、あんまり笑わないね」


「……そうか?」


「うん」


 加奈は少し寂しそうに笑った。


「前はもっと、くだらないことで笑ってたのに」


「くだらないってなんだよ」


「そういうところ」


「意味分かんねえ」


 加奈が笑う。


 俺も、つられて少しだけ笑った。


 でも、目が合った途端、昨日のことみたいに思い出してしまう。


 あの寒い部屋。


 割れた窓。


 泣きながらしがみついた、加奈の肩。


「…………」


 俺は慌てて顔をそらした。


「……陽一?」


「なんでもねえよ」


「ほんと?」


「ほんとだって」


 加奈は何か言いたそうにしていたけれど、それ以上は聞かなかった。


 俺自身、どうしてこんなに落ち着かないのか、よく分かっていなかった。


 ただ。


 加奈が隣にいないと寂しいくせに。


 隣にいると、今度はまともに顔を見られない。


 自分でも、面倒くさいと思う。


     *


 夏が近づいていた。


 教会へ向かう朝の道では、もう白い息は出ない。


 木々の緑が濃くなり、遠くで蝉の声が聞こえ始めた。


 いつもの扉を開ける。


 いつもの席に、加奈がいた。


 俺は隣に腰を下ろす。


「おはよう、陽一」


「……おう。おはよう」


「今日も私の勝ちだね」


「まだ言うか、それ」


「だって、陽一が勝負してるんでしょ?」


「……いつか絶対勝つからな」


「ふふっ。頑張ってね」


 加奈が目を閉じた。


 俺も手を組む。


 父ちゃん。


 母ちゃん。


 今日も、ちゃんと起きたぞ。


 学校にも行ってる。


 飯も、まあ、ちゃんと食ってる。


 だから、心配すんなよ。


 それから。


 加奈が今日も、無事でありますように。


 明日も、その次の日も。


 あいつが元気で、笑っていられますように。


 目を開けると、朝日が教会の床を照らしていた。


 隣には、いつものように加奈がいる。


 俺はそれだけで、少し安心した。


 この先も、ずっと。


 こんな朝が続くものだと、あの頃の俺は思っていた。

今回はビートルズのイエスタデイです

名曲なので聞いたことがある人が多いと思います

是非知らない方は聞いてみてください

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