EP26 Mr.ブラウン
陽一は工具の入った鞄を片手に、教会の前に立っていた。
先日立ち寄ったとき、建物のあちこちが傷んでいることに気づいた。
あのときはゆっくり見て回る時間もなかったが、今日は休日だ。気になっていた箇所を確かめ、直せそうなところは直しておこうと思っていた。
昔と変わらない白い壁。少しくすんだ窓枠。入口へ続く石畳には、ところどころ雑草が顔を出している。
近づいてみると、木製の扉は塗装が剥げ、軒先にも補修が必要そうな箇所があった。
「……さて、どこから見るかな」
陽一は鞄を持ち直し、教会の扉を開けた。
「すみません」
返事はなかった。
中を覗くと、礼拝堂には柔らかな日差しが差し込んでいた。
並んだ長椅子も、正面の祭壇も、記憶にあるものとほとんど変わらない。
ただ、奥の方から何やら物音が聞こえてくる。
コン、コン。
続いて、何かを引きずる音。
「……誰かいるのかな」
陽一が音のする方へ歩いていくと、一人の男が椅子を前にしてしゃがみ込んでいた。
黒い服を着た、四十歳くらいの外国人男性だった。
体格はしっかりしているが、表情は柔らかい。
男は椅子の脚を覗き込み、何やら難しい顔をしていた。
「ううむ……これでよろしいはずなのですが」
そう呟くと、男は立ち上がって椅子を揺すった。
ギシッ。
「おお、なかなかいい具合ですね」
満足そうに頷き、そのまま腰を下ろす。
次の瞬間。
ガタンッ!!
「うわっ!」
椅子が横へ崩れ、男は盛大に尻もちをついた。
「あいたたたた……」
陽一は思わず駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「ええ、ええ。大丈夫ですとも。いやあ、参りました」
男は床に座り込んだまま、困ったように笑った。
「どうやら、少々修理を間違えたようです」
「……少々、ですか?」
椅子は見事に脚が外れていた。
男はその残骸を眺め、深く頷いた。
「そうですね。少々ではありませんでした」
陽一は思わず吹き出した。
「ははっ……立てますか?」
「おお、ありがとうございます」
差し出した手を取って、男は立ち上がった。
「いやはや、お恥ずかしいところをお見せしました。お客様を迎えるつもりが、床に転がっているとは」
男は服についた埃を払い、にっこり笑った。
「申し遅れました。私はオットー・ブラウン。この教会の神父をしております。ブラウンとお呼びください」
「田島陽一です。昔、ここによく来ていたんです」
「おお! そうでしたか!」
ブラウン神父は嬉しそうに両手を合わせた。
「それはそれは。おかえりなさい、田島さん」
「……どうも」
久しぶりに来た場所で、初めて会う人から「おかえり」と言われる。
少し不思議な気分だったが、悪い気はしなかった。
「それで、今日はどういったご用件でしょう?」
「この前寄ったとき、結構傷んでるところがあったんで。直せそうなところがないか見に来たんです」
陽一は工具鞄を軽く持ち上げた。
「おお、修理に!」
「ええ。工場で働いてるんで、多少なら」
「なんとありがたい!」
ブラウン神父は大げさに喜んだ。
そして、足元の椅子に目を落とす。
「……では、さっそくお願いしてもよろしいでしょうか?」
「ははは。もちろんです」
「いやあ、助かります。どうやら神様は、私に大工の才能だけはお与えにならなかったようでして」
「だけ、なんですね」
「おや?」
「いえ、何でもないです」
「ははは! 田島さん、なかなか手厳しいですねえ!」
二人は笑い合った。
陽一は椅子をひっくり返し、外れた脚を確かめた。
「これ、釘が抜けてますね。それに木も少し割れてる」
「なるほど。では、釘を増やせばよろしいのでしょうか?」
「いや、そこに打ってもまた割れると思います」
「おやおや……」
ブラウン神父は感心したように覗き込んだ。
「私はてっきり、たくさん打てば丈夫になるものと」
「限度がありますよ」
「そうでしたか。いやあ、勉強になります」
陽一は持参した工具を取り出した。
幸い、損傷はそれほどひどくない。
緩んだ接合部を外して状態を確かめ、使える部分を残しながら補強する。
ブラウン神父は横で興味津々に見ていた。
「ほう……なるほど」
「そこ、押さえてもらえます?」
「はい、喜んで!」
神父は言われたとおり椅子を支えた。
しばらくして、修理が終わった。
「これで大丈夫だと思います」
「おお! もう直ったのですか!」
ブラウン神父は嬉しそうに椅子へ手を伸ばした。
そして、座ろうとする。
「ちょっと待ってください」
「はい?」
「一応、先に確認します」
陽一が椅子を押して、がたつきがないことを確かめる。
「……よし。大丈夫です」
「ははは! ありがとうございます。二度も転んでは格好がつきませんからね!」
今度は慎重に腰を下ろした。
椅子はびくともしなかった。
「おお……!」
ブラウン神父は両手を広げた。
「素晴らしい! 座れます!」
「椅子ですからね」
「ははは! まったくそのとおりです!」
*
「さあさあ、どうぞ。遠慮なさらず」
修理を終えた陽一は、ブラウン神父に誘われてお茶をご馳走になっていた。
小さなテーブルには、温かい紅茶と菓子が並んでいる。
「わざわざすみません」
「とんでもない! こちらこそ、助けていただいたのですから」
神父は向かいの椅子に腰を下ろした。
「それにしても、田島さんは器用ですねえ。あんなに手際よく直してしまうとは」
「仕事で工具は使い慣れてますから」
「工場でお勤めでしたね。何を作っていらっしゃるのです?」
「金属加工です。部品を作ったり、機械を触ったりですね」
「ほう、金属加工!」
ブラウン神父は興味深そうに身を乗り出した。
「では、あのような椅子など朝飯前というわけですね」
「いや、木工は専門じゃないですけど」
「それでも私よりはずっとお上手です!」
「それは……まあ」
「おや、否定なさらない!」
陽一は紅茶を吹き出しそうになった。
「はははっ!」
「ははは! いやあ、私ももう少し器用になりたいものです」
ブラウン神父は楽しそうに笑った。
話してみると、ずいぶん気さくな人だった。
神父というから、もっと堅苦しい人物を想像していたが、そんなことはまったくない。
よく笑うし、冗談も言う。
何より、こちらの話を面白そうに聞いてくれる。
「それで、休日には何をなさっているのです?」
「バイクに乗ったり……最近はドラムを始めました」
「ドラム!」
神父の目が丸くなった。
「それはまた、賑やかな趣味ですねえ!」
「友達にバンドやってるやつがいて。そいつらの影響です」
「おお、バンドですか。素敵ですね」
「まだ全然下手ですけど」
「最初から上手な人など、そうそうおりませんよ」
ブラウン神父はそう言ってから、ふと思いついたように付け加えた。
「私も先ほど、椅子の修理に失敗したばかりですし」
「ははっ。それと一緒ですか?」
「ええ! 失敗を恐れていては、何も始まりませんからね!」
「……確かに」
陽一は笑いながら紅茶を飲んだ。
それから、昔この教会へ通っていた頃の話になった。
子供の頃、友達と遊びに来たこと。
静かな礼拝堂で過ごしたこと。
長い間、足を運ばなくなっていたこと。
ブラウン神父は時折相槌を打ちながら、楽しそうに聞いていた。
「そうでしたか。では、この教会には田島さんの思い出がたくさんあるのですね」
「……まあ、そうですね」
「それは嬉しいことです」
神父は穏やかに微笑んだ。
「建物というものは、そこに来てくださる人がいてこそ意味があるのでしょうから」
陽一は何となく、礼拝堂の方へ目を向けた。
昔と変わらない教会。
少し傷んではいるけれど、こうして今も残っている。
「……また、修理に来ますよ」
「本当ですか!」
ブラウン神父はぱっと顔を明るくした。
「それはありがたい! ですが、どうか無理はなさらないでくださいね」
「休日に暇だったら、ですけど」
「ええ、ええ。それで十分ですとも!」
*
「そういえば、ブラウン神父はずっと日本にいるんですか?」
話がひと段落したところで、陽一は尋ねた。
「いえ、もともとはドイツの生まれでしてね。こちらへ来たのは、もうずいぶん前になります」
「ドイツですか」
「ええ。戦争中は従軍聖職者として、あちらこちらの部隊に同行しておりました」
「……戦争に?」
「はい。兵士の皆さんと一緒に移動しながら、お祈りをしたり、相談に乗ったりしていたのです」
神父は懐かしそうに頷いた。
「もっとも、私は戦うより、話を聞く方が得意でしたがね」
「それでも、危なかったんじゃないですか?」
「ええ。怖い思いもしましたよ」
ブラウン神父は紅茶を一口飲んだ。
「ですが、忘れられない出来事もありました」
「……どんな?」
神父は湯呑みを置き、陽一を見た。
「私はね、田島さん。本当に奇跡を見たことがあるのですよ」
「奇跡、ですか?」
「ええ」
ブラウン神父は静かに話し始めた。
「あるとき、負傷した兵士たちを後方へ運ぶ部隊に同行することになりましてね。前線を離れれば、ひとまず安全だと聞いておりました」
「はい」
「ところが、予定していた道路が破壊されていたのです。仕方なく迂回することになったのですが……それが運の尽きでした」
神父の口調は、先ほどまでより少し落ち着いていた。
「突然、先頭の車両が攻撃を受けました。何が起きたのか分からないうちに、今度は後方からも銃声が聞こえてきましてね」
「……挟まれたんですか?」
「ええ。周囲には敵が潜んでいました。逃げ道を探そうにも、負傷者を乗せた車両を置いていくわけにはいきません」
陽一は黙って耳を傾けた。
「無線も使えなくなり、援軍も期待できませんでした。護衛の兵士たちは必死に応戦していましたが、弾薬も残り少なくなっていました」
「……それ、かなりまずい状況ですよね」
「ええ。正直に申し上げれば、私ももう助からないと思いました」
神父は静かに頷いた。
「負傷した兵士の中には、まだ若い方もおられました。家族の写真を握りしめている方もいましたね」
「…………」
「私はできる限り皆さんのそばにいましたが、できることといえば、傷の手当てを手伝うか、話を聞くくらいでした」
ブラウン神父は少しだけ肩をすくめた。
「銃を持ったところで、私は兵士ではありませんから」
「……それで、どうしたんですか?」
「しばらくして、隊長さんが私のところへ来られました」
神父はそのときの言葉を思い出すように続けた。
「『神父さん、私はあなたとは宗派が違うんですが……最後に、皆のために祈ってもらえませんか』と」
「……最後に」
「ええ」
ブラウン神父は頷いた。
「隊長さんも、覚悟を決めておられたのでしょう。私はもちろんお引き受けしました」
「…………」
「その場にいた皆さんと、一緒に祈りました。宗派など関係ありません。ただ、どうかこの人たちをお救いくださいと」
陽一は息を詰めた。
先ほどまで冗談ばかり言っていた神父が、淡々と話している。
それがかえって、当時の状況を生々しく感じさせた。
「それで……助かったんですよね?」
「ええ!」
そこで突然、ブラウン神父の表情がぱっと明るくなった。
「なんと! 天から神の使いが舞い降りてきましてね!」
「…………え?」
「私たちを取り囲んでいた敵を、次から次へと打ち倒してしまったのですよ!」
「……神の使い?」
「そうですとも! それはもう、実に見事なものでした!」
神父は嬉しそうに両手を広げた。
「あのときほど、神様が私たちの祈りを聞き届けてくださったと感じたことはありませんでしたねえ!」
陽一はしばらく神父の顔を見つめていた。
そして。
「……はははっ!」
思わず笑ってしまった。
「なんですか、それ!」
「ははは! いやあ、神様もなかなか粋なことをなさるでしょう?」
「途中まで、ものすごく怖い話だったじゃないですか!」
「おやおや、申し訳ありません!」
ブラウン神父は楽しそうに笑った。
「せっかくのお茶の時間ですからね。最後くらい、明るい話にしませんと!」
「ははは! そうですね」
「いやあ、しかし本当にありがたいことでした。こうして田島さんとお茶を飲めるのも、あのとき助かったおかげですから」
「……それは、そうですね」
陽一は笑いながら頷いた。
「でも、神父さんって結構冗談を言うんですね」
「おや、そう見えますか?」
「ええ。もっと堅い人かと思ってました」
「ははは! それはいけませんねえ。怖い顔で説教ばかりしていては、皆さん教会に来なくなってしまいます!」
「確かに」
「もっとも、私の説教は少々長いと評判なのですが」
「じゃあ、気をつけないと」
「おやおや! もう警戒されてしまいましたか!」
二人は声を上げて笑った。
「さあさあ、お菓子もどうぞ。遠慮なさらず」
神父は菓子皿を陽一の方へ押し出した。
「いただきます」
陽一はその中から一つ取った。
その後も話は尽きなかった。
陽一が仕事の失敗談を話せば、ブラウン神父は腹を抱えて笑った。
神父が日本へ来たばかりの頃の失敗を話すと、今度は陽一が笑った。
気づけば、窓から差し込む日差しも少し傾いていた。
*
「すみません。すっかり長居しちゃって」
陽一は工具鞄を持ち上げた。
「いえいえ! こちらこそ、楽しい時間をありがとうございました」
ブラウン神父は玄関まで見送りに来てくれた。
「椅子まで直していただいて、本当に助かりました」
「また時間があるときに、ほかのところも見ますよ」
「それはありがたい。ですが、修理の用事がなくても、いつでもいらしてください」
神父はにっこり笑った。
「お茶くらいでしたら、いつでもご馳走できますからね」
「はは。じゃあ、また寄らせてもらいます」
「ええ。楽しみにしておりますよ、田島さん」
陽一は軽く頭を下げ、教会を後にした。
外へ出ると、気持ちのいい風が吹いていた。
久しぶりに訪れた教会は、昔のままの場所だった。
そして、そこには新しい神父がいた。
少しドジで、よく笑って、話の面白い人だった。
「……ブラウン神父、か」
陽一は小さく笑った。
また来よう。
そう思いながら、教会を後にした。
普通にほのぼの回です
タイトルも曲名ではないです
今後もよろしくお願いします




