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『あの日、君が祈っていたこと』  作者: 整備士
さよならは、また逢う日まで
25/35

EP25 Stayin'Alive

久しぶりの加奈回になります

 今日の晩ご飯、何にしようかな。


 買い物袋を揺らしながら、私はそんなことを考えていた。


 豚肉、玉ねぎ、卵に牛乳。


 今日は少し奮発して、お肉を多めに買ってしまった。


 たまにはいいよね。


 そう思いながら、いつもの道を歩く。


 周囲に不審な気配はない。


 後ろから歩いてくる人も、向かいから来る人も、特に変わった様子はなかった。


 それでも、警戒は解かない。


 もう、何度も痛い目に遭っているんだから。


 ……なのに。


 何かが視界の端を横切った。


 速い。


 そう思った瞬間には、もう右腕がなかった。


「…………え?」


 買い物袋が落ちる。


 卵が割れ、牛乳が地面に広がった。


 その横に、見覚えのある腕が転がっていた。


 私の右腕だった。


「――ああああああっ!!」


 痛みが遅れてやってきた。


 肩から脳天まで、焼けた鉄を押し込まれたような激痛が走る。


 その直後、足元で銀色のものが閃いた。


 左脚から力が抜けた。


 膝から下が、ない。


「っあああっ!!」


 私は地面に倒れ込んだ。


 何が起きたのか分からない。


 誰?


 どうして?


 顔を上げる。


 一人の女が立っていた。


 私と同じくらいの背丈。


 手には血のついた刃物。


 表情は静かだった。


 怒りも、憎しみも、殺意も感じられない。


 ……おかしい。


 私は油断していなかった。


 いつも通り周囲を警戒していた。


 それなのに、この女が襲いかかってくる瞬間まで、何も感じなかった。


 女が動いた。


「ひっ……!」


 私は残った右脚で地面を蹴った。


 転がるようにして刃を避ける。


 頬に熱いものが走った。


 逃げなきゃ。


 今は戦っちゃ駄目だ。


 左手と右脚だけで、どうにか身体を起こす。


 近くの壁に肩をぶつけながら、路地へ飛び込んだ。


 左脚を地面につこうとして、何もないことに気づく。


「っ、あああっ!」


 また転んだ。


 傷口を地面に打ちつけ、視界が真っ白になった。


「痛いっ……痛いよぉ……!」


 涙が勝手に溢れてきた。


 昔なら、こんな傷は五秒もあれば治った。


 でも、今は違う。


 何度も傷つき、何度も死んで、そのたびに少しずつ再生が遅くなった。


 今では、腕や脚を元通りにするのに五分近くかかる。


 五分。


 たった五分。


 でも、殺しに来た相手から逃げながら待つには、あまりにも長すぎた。


「まだ……?」


 右肩を見る。


 新しい肉が、少しずつ盛り上がっている。


 骨の形さえ、まだできていない。


「ねえ……まだなの……?」


 背後から足音が聞こえた。


 私は慌てて壁に左手をついた。


 立たなきゃ。


 逃げなきゃ。


 ここで捕まったら、また――。


「嫌っ……!」


 片脚で跳ねるようにして走った。


 曲がり角の先に、人通りのある道が見えた。


 あそこまで行けば。


 そう思った瞬間だった。


 女が横から現れた。


「――っ!」


 刃が振り下ろされる。


 身体をひねったが、避けきれなかった。


 背中を切り裂かれる。


「あああっ!」


 壁に叩きつけられ、息が止まった。


 女は追撃してこなかった。


 ただ、私と大通りの間に立っている。


「…………」


 おかしい。


 殺すだけなら、今ので終わらせられたはずだ。


 私は反対側の路地へ逃げた。


 女が追ってくる。


 速い。


 なのに、決して私を追い越さない。


 人のいる方へ向かおうとすると、必ず先回りして道を塞ぐ。


 ……誘導されてる。


 人のいない方へ。


 どうして?


 考えている余裕なんてなかった。


 私は壁に手をつき、息を切らしながら進んだ。


 右腕は少しずつ伸びてきている。


 左脚も、ようやく膝の下まで形が戻り始めた。


 あと少し。


 あと少しだけ耐えれば。


 *


 どれくらい逃げただろう。


 私は壁に背中を預け、荒い息を繰り返していた。


 左脚が、ようやく地面に届く。


「……あ」


 立てる。


 まだ痛いけど、体重をかけられる。


「……よかった……」


 これなら。


 今度こそ逃げられる。


 そう思った瞬間、女が動いた。


 膝の裏に冷たいものが触れた。


「…………え?」


 左脚から力が抜けた。


 地面に倒れる。


 ようやく戻ったばかりの脚が、また深く切り裂かれていた。


「……うそ」


 私は震える手を伸ばした。


「やっと……」


 傷口から血が流れている。


「やっと治ったのに……!」


 女は何も言わなかった。


 ただ、私を見下ろしている。


「……なんで……」


 逃げようとする。


 女が動く。


 今度は右腕を切られた。


「ぎゃああっ!!」


 私は地面を転がった。


 立とうとすると、蹴り倒された。


 顔を上げた瞬間、髪を掴まれる。


 頭を壁に叩きつけられた。


「がっ……!」


 もう一度。


 鈍い音が響いた。


 目の前に火花が散る。


 女が手を離す。


 私はその場に崩れ落ちた。


 痛い。


 怖い。


 逃げたい。


 でも、どこへ?


 この女は私より速い。


 何をしても先回りされる。


 ようやく治った傷さえ、また壊される。


 私は壁際で身体を丸めた。


「……もう……」


 女の靴が視界に入った。


「……やだ……」


 自分の声が、ひどく小さく聞こえた。


「お願い……もう切らないで……」


 女は何も答えなかった。


 刃物を静かに構え直す。


「痛いの……嫌なの……」


 涙が頬を伝った。


 こんな痛みを、もう何度も味わってきた。


 そのたびに、もう二度と嫌だと思った。


 なのに。


 また。


「……お願い……」


 私は女を見上げた。


「……殺さないで……」


 女の足が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 表情は変わらない。


 けれど、その目がわずかに揺れた。


 ……今。


 考えるより先に、身体が動いていた。


 私は地面を蹴った。


 女へ飛びかかる。


「――っ!」


 それでも、女の反応は速かった。


 刃が右腕を貫いた。


 肘のすぐ近く。


「――あああああっ!!」


 激痛が走る。


 でも、引かなかった。


 女が刃を抜こうとする。


 抜けない。


 再生途中の肉が刃を包み込み、傷口を閉じようとしていた。


 女の目が見開かれる。


 ほんのわずかな硬直。


 私はその隙に身体を押しつけた。


 女は即座に刃物を手放した。


 そして、両手で私の首を掴んだ。


「……っ、か……!」


 ものすごい力だった。


 喉が潰れる。


 息ができない。


 私は女の腕を掴もうとした。


 駄目だ。


 外せない。


 女の指が、さらに深く食い込んでくる。


 目の前が暗くなり始めた。


 ……このままじゃ。


 私は右腕を伸ばした。


 まだ完全には戻っていない右手。


 指の形も、ようやくでき始めたばかりだった。


 その手を、女の口へ押し込んだ。


「――っ!?」


 女の目が見開かれた。


 噛みつかれる。


「いっ……!」


 それでも引かなかった。


 女が顔を背けようとする。


 私は必死に右腕を押しつけた。


 指が伸びる。


 肉が盛り上がる。


 失われていた手が、女の口の中で形を取り戻していく。


 みちっ。


 女が頭を振った。


 抜こうとしている。


 でも、抜けない。


 みち、みちっ。


 再生した指が広がり、女の口が押し広げられていく。


 ごきり。


 嫌な音がした。


 女の目に、初めてはっきりとした恐怖が浮かんだ。


 首を締める力が強くなる。


「……っ、あ……!」


 苦しい。


 息ができない。


 女の顔がぼやけていく。


 もう、力が入らない。


 右腕には刃物が刺さったままだ。


 喉も、腕も、全身が痛い。


 でも。


 離したら、殺される。


 私は右腕を押しつけ続けた。


 女の目から涙が流れた。


 私の首を締める指が震えている。


 ……ああ。


 私も、もう駄目かもしれない。


 視界が狭くなる。


 音が遠ざかっていく。


 最後に見えたのは、女の見開かれた目だった。


 そして。


 何も分からなくなった。


 *


 ……暗い。


 何も聞こえない。


 どくん。


 どくん。


 ……何?


 どくん。


 ああ。


 心臓の音だ。


「……っは!」


 私は大きく息を吸った。


「げほっ! ごほっ……!」


 喉が焼けるように痛かった。


 頭も割れそうだった。


 しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。


「……あれ……?」


 目の前に、女の顔があった。


 その口には、私の右手が入ったままだった。


「…………」


 女は動かない。


 私の首を締めていた手も、力を失っている。


「……死んだ……?」


 返事はなかった。


 私はしばらく、その顔を見つめた。


 どうやって勝ったのか、覚えていない。


 意識を失っている間も、私の身体は再生を続けていたらしい。


 女は、もう息をしていなかった。


「……そっか……」


 私は左手で女の顔を押さえ、右腕を引いた。


 抜けない。


「……え……?」


 もう一度引く。


 女の頭までついてくる。


「……やだ……」


 私は必死に顔を押さえ、腕を引っ張った。


 ようやく右手が抜けた。


「……はぁ……っ」


 私はその場に崩れ落ちた。


 右腕を見る。


 肘の近くには、まだ刃物が刺さっていた。


「…………」


 抜かなきゃ。


 分かってる。


 でも。


「……やだぁ……」


 涙が溢れた。


「もう……痛いの嫌だよぉ……」


 私は左手で柄を握った。


 少し引いただけで、全身が震えた。


「ひっ……ああっ……!」


 怖い。


 痛い。


 でも、抜かなきゃ。


 私は泣きながら、思い切り引き抜いた。


「いやあああああっ!!」


 刃物が地面に落ちた。


 私は右腕を抱えて身体を丸めた。


「痛いよぉ……!」


 涙が止まらなかった。


「もう嫌だ……もう嫌だよぉ……!」


 声を上げて泣いた。


 何度も、何度も。


 ようやく呼吸が落ち着いた頃には、辺りはすっかり静かになっていた。


「……ひっく……」


 私は袖で涙を拭った。


 目の前には、さっきの女が倒れている。


「…………」


 私はその顔を覗き込んだ。


「……ねえ」


 返事はない。


「ほんっと痛かったんだからね?」


 頬を指でつつく。


「ねえ、聞いてる?」


 もう一度、つついた。


「…………」


「あ、そっか」


 私は小さく笑った。


「死んじゃったんだっけ」


 そうだった。


「ごめんごめん。私が殺したんだったね」


 女の髪を少し直してあげる。


「でも、そっちが悪いんだからね?」


 返事はない。


「……もう」


 私は頬を膨らませた。


 それから、自分の服を見下ろした。


 血だらけ。


 あちこち破れて、まともに着られる状態じゃない。


「……うわぁ」


 この格好じゃ帰れない。


 どうしよう。


 ふと、目の前の女を見る。


「…………」


 私は少し考えた。


「……あ、ちょうどいいや」


 数分後。


 私は女の服を借りていた。


 背丈は大体同じ。


 サイズも、まあ、悪くない。


 ……悪くない、はずだった。


「…………」


 胸元を見る。


 余っている。


 結構、余っている。


「…………は?」


 私はもう一度、女を見た。


 それから自分の胸を見下ろした。


「……何よ」


 もう一度、女を見る。


「殺しに来たくせに……」


 私は思い切り叫んだ。


「胸まで勝ってるんじゃないわよ!! このデカチチ!!」


 当然、返事はなかった。


「……ふんっ!」


 私は胸元の余った布を引っ張って整えた。


 そして、路地を出ようとして足を止める。


「…………あ」


 そういえば。


 買い物袋。


 卵も牛乳も、全部置いてきちゃった。


「……あ、晩ご飯どうしよう」


 * * *


 白い照明に照らされた研究室。


 男が金属製のケースを二つ、作業台の上に置いた。


「博士。回収してきました」


「おや?」


 白衣を着た男が顔を上げた。


「例の個体のものかい?」


「はい。右腕と左脚です」


「……ああ」


 博士の顔に、ゆっくりと笑みが広がった。


「加奈ちゃん……!」


 ケースの蓋が開く。


 中には、切断された腕と脚が収められていた。


 博士は嬉しそうに駆け寄った。


「素晴らしい……本当に素晴らしいよ……!」


 回収役の男が報告を続ける。


「なお、追跡を担当した個体は死亡しました」


「そうかい」


 博士はケースから目を離さなかった。


「……代替個体の準備を進めますか?」


「あとでいいよ」


「……承知しました」


 博士は右腕をそっと持ち上げた。


 まるで壊れやすい宝物でも扱うように。


「……ああ、加奈ちゃん」


 愛おしそうに指先を撫でる。


「ようやく会えたね……」


 そのまま頬を寄せ、うっとりと目を細めた。


「本当に……なんて素晴らしいんだろう……」


 ペロ ジュポジュポ


 博士が頬に寄せた指をしゃぶり出した


「うっ」


「何だい?」


「検体の保存処理を――」


「あとで」


「……はい」


 博士は右腕を抱えたまま、満足そうに微笑んでいた。


 男は黙って立っていた。


 何を言っても無駄だ。


 それだけは、これまでの経験でよく分かっている。


 しばらくして、博士がふと顔を上げた。


「あれ?」


「……はい」


「君、まだいたの?」


「……報告の途中でしたので」


「ああ、そうだったね」


 博士は少し考えてから、にっこり笑った。


「悪いんだけど、もう少しだけ二人きりにしてくれないかな」


「…………」


「加奈ちゃんと、ね」


「……失礼します」


 男は研究室を出た。


 静かに扉を閉める。


 数歩歩いたところで、背後から声が聞こえた。


「……ふふふ……加奈ちゃん……ふっふっふっふっ」


 がたん。パンパン


「…………」


 男は足を止めた。


 研究室からなにか物音と荒い息遣いが聞こえてきた。


 確認すべきだろうか。


 いや。


 やめておこう。


 男は歩く速度を上げた。


 ……早くこんな職場辞めてえ。

なかなか報われないヒロインちゃんで可愛いですね

ぜひ幸せになって貰いたいところです


今回のタイトルはBee Geesの『Stayin’ Alive』から

ぜひ曲も聴いてみてください!

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