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『あの日、君が祈っていたこと』  作者: 整備士
さよならは、また逢う日まで
21/36

EP21 Don't Stop Me Now

今回は3部構成になります

よろしくお願いします

 目覚ましが鳴るより先に、目が覚めた。


 窓の外では、蝉が朝っぱらから元気よく鳴いている。


 ……うるさい。


 時計を見ると、まだ六時を少し回ったところだった。


 普段なら、もう少し布団の中で粘るところだが、今日はそうもいかない。


 今日は盆休み。


 そして、リノリウムの連中と泊まりがけのツーリングに行く日だ。


「……よし」


 布団を跳ねのけ、洗面所へ向かう。


 顔を洗い、歯を磨いて、簡単に朝食を済ませた。


 それから、首に下げている十字架を手に取った。


 掌の中でそっと握りしめ、目を閉じる。


 父さんと母さんのこと。


 そして、加奈のこと。


 今はもう会えない人たちを思い浮かべながら、静かに祈った。


 しばらくして目を開け、十字架から手を離す。


 昔から続けている習慣だ。


 今では、こうして祈らないと一日が始まらない気がする。


「……さて」


 荷物を確認する。


 着替え、財布、携帯電話、タオル。


 昨日のうちに用意していたバッグを持ち上げ、玄関へ向かった。


 ……少し早いか。


 まあ、遅れるよりはいいだろう。


 靴を履いて外へ出る。


 すると、ほとんど同じタイミングで隣の家の玄関が開いた。


「おっ!」


 神崎だった。


「陽一さん! おはようございます!」


「おはよう」


「ちょうど今出るとこだったんすね!」


「ああ。お前もか」


「はい! いやあ、楽しみっすね!」


 神崎は朝から妙に元気だった。


 肩には大きめのバッグを掛け、もう片方の手にはヘルメットを持っている。


「陽一さん、ちゃんと寝られました?」


「普通に寝たよ」


「マジっすか!?」


「何だよ」


「俺、楽しみすぎて全然寝られなかったんすよ!」


「子供か」


「いや、だって泊まりがけっすよ!? しかもみんなでツーリング!」


「分かったから声落とせ。朝だぞ」


「あ、すんません」


 神崎は慌てて声を潜めた。


「……でも、楽しみっすね!」


「結局言うのかよ」


 思わず笑ってしまった。


 俺たちはそれぞれのバイクへ向かう。


 軒先に停めたCBのカバーを外すと、朝日に照らされた銀色のタンクが現れた。


 青いラインを指で軽くなぞる。


 昨日のうちに点検は済ませてある。


 それでも、出発前にタイヤやチェーンをもう一度確認してしまうのは、仕事柄仕方がない。


 隣では神崎がFTRの荷物を固定していた。


「神崎、そっちのベルト緩くないか?」


「え?」


「走ってるうちにずれるぞ」


「あ、マジっすか」


「貸してみろ」


 荷物の位置を少し変え、ベルトを締め直す。


「ほら、これなら大丈夫だろ」


「おお! さすが陽一さん!」


「こんなの普通だよ」


「いやいや、助かりました!」


 神崎は嬉しそうに笑った。


「じゃ、行きましょう!」


「ああ」


 二台のエンジンに火を入れる。


 四気筒と単気筒。


 まるで違う排気音が、朝の住宅街に響いた。


 ……さあ、出発だ。


     ◇


 集合場所は、街外れにある広い駐車場だった。


 到着すると、すでに一台のバイクが停まっていた。


 低く長い車体に、ゆったりとしたハンドル。


 いかにも長距離をのんびり走るのが似合いそうなアメリカンだ。


 その隣で、黒川さんが缶コーヒーを飲んでいた。


「おはよう、ヒロト。陽一さん」


「おっす、純之助!」


「おはようございます。早いですね」


「まあね。ちょっと準備したいこともあったし」


 黒川さんは飲み終えた缶を片づけると、バイクのバッグから小さな箱を取り出した。


「陽一さん、インカムって持ってる?」


「インカム?」


「走りながら会話できるやつ」


「ああ、知ってますけど、持ってないですね」


「じゃあ、これ使って。予備があるから」


「いいんですか?」


「もちろん。せっかく五人で走るんだし」


 そう言って、黒川さんは俺のヘルメットを指さした。


「ちょっと貸してもらっていい?」


「あ、お願いします」


 ヘルメットを渡すと、黒川さんは慣れた手つきで機械を取り付け始めた。


「純之助、気が利くじゃん!」


「お前と違ってな」


「何で俺を下げる必要があるんだよ!?」


「普段の行い」


「ひどくね!?」


 黒川さんは神崎の抗議を聞き流しながら、スピーカーの位置を調整している。


「よし。これで大丈夫かな」


 ヘルメットを受け取り、被ってみる。


 すると突然、耳元から声が聞こえた。


『陽一さん、聞こえる?』


「うおっ!?」


 思わず振り返った。


 黒川さんが笑っている。


『聞こえてるみたいだね』


「……すごいですね、これ」


『便利でしょ?』


「普通に話せるんですね」


『そうそう。これで走ってる間も会話できるよ』


 神崎が横から割り込んできた。


『陽一さーん!!』


「うるせえ!!」


『うおっ!?』


 今度は神崎が飛び上がった。


『何すんすか!? 耳元で叫ばないでくださいよ!!』


「お前が先に叫んだんだろ!!」


 黒川さんが腹を抱えて笑っていた。


「……黒川さん」


「何?」


「これ、神崎の声だけ消せないんですか?」


「それができたら最高なんだけどね」


「純之助ぇぇ!!」


 ……なるほど。


 便利な機械にも欠点はあるらしい。


     ◇


 それから少しして、遠くから低い排気音が聞こえてきた。


 俺たちが振り返ると、一台のネイキッドが駐車場へ入ってくる。


 ……ん?


 赤と黒のツートンカラー。


 黄色いヘッドライト。


 かなり高く持ち上げられ、内側へ絞り込まれたハンドル。


 白いエナメル張りのシートに、少し跳ね上がったチョイハネテール。


 おまけにタンデムバーまで付いている。


 ……うわぁ。


 何というか。


 ずいぶん気合いの入った単車だ。


 そのバイクが俺たちの前に停まり、ライダーがヘルメットを脱いだ。


「おはよー!」


 奈緒さんだった。


「おはよう、奈緒」


「奈緒、おっす!」


「お、おはようございます」


 俺は思わずバイクを二度見した。


 以前、神崎から聞いた話を思い出す。


 ――奈緒は昔、かなり尖ってたんすよ。


 ……なるほど。


 そういうことだったのか。


 妙に納得してしまった。


「……ふっ」


 思わず笑いが漏れる。


「ん? 陽一さん、どうしたんすか?」


「いや、何でもない」


「?」


 神崎は不思議そうに首を傾げた。


 ……お前、もうちょっと詳しく教えてくれてもよかったんじゃないか?


「陽一くん、おはよう!」


「あ、おはようございます!」


「今日はよろしくね」


「こちらこそ」


 奈緒さんはいつも通り、明るく笑っている。


 ……人って変わるものなんだな。


 そんなことを考えていると、奈緒さんが周囲を見回した。


「あれ? 相沢は?」


「まだ来てないね」


「昌利、珍しいな」


 黒川さんと神崎が時計を確認する。


 集合時間までは、まだ少し余裕があった。


 すると。


 ――パパパパパッ!!


 遠くから、妙に甲高い排気音が聞こえてきた。


 ……何だ?


 音だけ聞けば、ずいぶん元気のいいエンジンだ。


 だが、駐車場へ入ってきた車体を見て、俺は目を疑った。


 スーパーカブだった。


 ……カブ?


 いや、待て。


 何かがおかしい。


 やたらとうるさい。


 そのカブは俺たちの前まで来ると、軽くエンジンを煽って停車した。


 ――シャラシャラシャラ……。


 ……ん?


 何だ、今の音。


「皆さん、おはようございます」


 ヘルメットを脱いだのは、相沢さんだった。


「最後になってしまって申し訳ありません。少し準備に手間取ってしまいまして」


「おはよう、昌利!」


「おはよう、相沢」


「おはようございます」


 俺は挨拶を返しながら、どうしてもエンジンが気になってしまった。


「あの、相沢さん」


「はい?」


「さっき停まる時、エンジンからめっちゃシャラシャラ音してましたけど……」


「ええ」


「あれ、壊れてないですか?」


「……おや」


 相沢さんは一瞬きょとんとした後、にっこり笑った。


「大丈夫ですよ」


「そうなんですか?」


「ええ」


「あと、めっちゃうるさいですね」


「ふふっ。よく言われます」


 ……直す気はないらしい。


 俺はしゃがみ込み、エンジンを覗き込んだ。


 ……ん?


 何だ、これ。


「相沢さん、カブのエンジンって、こんなミッキーマウスみたいな形してましたっけ?」


 俺がエンジンを指さすと、相沢さんは嬉しそうに微笑んだ。


「ああ、これですか」


「はい」


「少しいじってるだけですよ」


「……少し?」


「ええ。少しだけ」


 ……本当か?


 何だか妙に引っかかったが、本人がそう言うならそうなのだろう。


 黒川さんと神崎が、なぜか顔を見合わせて笑っていた。


     ◇


 全員が揃い、いよいよ出発となった。


 インカムの接続も済ませ、五台のバイクが駐車場を出る。


『皆さん、聞こえますか?』


 相沢さんの声が耳元から聞こえた。


『聞こえてるよ』


『大丈夫っす!』


『聞こえてるわよ』


「俺も聞こえてます」


『では、行きましょうか』


 先頭を走る黒川さんに続き、俺たちは街を抜けていった。


 しばらくすると建物が減り、道の両側に田畑が広がり始める。


 青い空。


 遠くに見える山並み。


 夏の風が、ジャケットの隙間を抜けていく。


 ……気持ちいいな。


『陽一さん!』


「何だ?」


『めっちゃ気持ちよくないっすか!?』


「ああ、いいな!」


『でしょ!? 俺、こういうの大好きなんすよ!』


『ヒロト、声でかい』


 黒川さんが割り込む。


『えー!? テンション上がるじゃん!』


『上がるのはいいけど、音量は上げなくていい』


『純之助、冷たくね!?』


『いつものことだろ』


 俺は思わず笑ってしまった。


 一人で走る時は、エンジンの音と風の音だけが聞こえてくる。


 それが嫌いなわけじゃない。


 むしろ、そういう時間が好きだった。


 だが、今日は違う。


 同じ景色を見ながら、誰かと話している。


 それが、思っていた以上に楽しかった。


『あ、そうだ!』


 突然、神崎が声を上げた。


『せっかくだし、何か歌いません!?』


『嫌よ』


 奈緒さんが即答した。


『早っ!?』


『あんたが歌い始めたら絶対うるさいもの』


『いやいや、俺ボーカルっすよ!?』


『だから何よ』


『歌わせてくださいよ!』


『ライブで歌いなさい』


『今歌いたいんだって!』


 神崎はそれでも諦めず、何やら鼻歌を歌い始めた。


『ふんふふーん、ふふふーん♪』


『神崎』


『ふふふーん♪』


『神崎』


『ふふ……』


『聞こえてるわよ』


『……はい』


 沈黙。


 そして数秒後。


『……ふんふん♪』


『神崎ぃ!!』


『すみません!!』


 ……駄目だ。


 笑いすぎて腹が痛い。


 すると相沢さんが、穏やかな声で口を開いた。


『でも、こういうのも楽しいですねぇ』


『そうだろ、昌利!?』


『ええ。ただ、ヒロト』


『何?』


『歌はもう少し上達してからの方がよろしいかと』


『お前まで!?』


 五人分の笑い声が、インカムの中に広がった。


 ……悪くない。


 こういうのも、悪くないな。


     ◇


 山道に入ってから、しばらく経った頃だった。


 道は徐々に標高を上げ、周囲の空気も少しずつ涼しくなってきた。


『そろそろ休憩しない?』


 黒川さんが提案した。


『賛成! 俺もう腹減った!』


『神崎、さっき食べたばっかりでしょ』


『山走ると腹減るんだって!』


『あんた、口しか動かしてないじゃない』


『奈緒ぉ!!』


 そんなやり取りを聞いていると、相沢さんが口を開いた。


『それでしたら、この先にいい茶屋がありますよ』


「茶屋ですか?」


『ええ。景色もいいですし、ちょうど休憩にはいい場所です』


『おっ、昌利! そこ行こうぜ!』


『では、僕が案内しますね』


 それから十分ほど走ると、道路脇に古びた木造の茶屋が見えてきた。


 広めの駐車場があり、その向こうには展望スペースが設けられている。


 バイクを停め、ヘルメットを脱いだ。


「……おお」


 思わず声が漏れた。


 眼下には、山肌を縫うように続くつづら折りの道路が広がっている。


 何本ものヘアピンが折り重なり、ずっと下の方まで見渡せた。


「すごい景色ですね」


「でしょう?」


 相沢さんが嬉しそうに頷く。


「ここ、昔から走り屋の方たちには結構有名な峠なんですよ」


「へえ」


「特にあの下りですね。なかなか面白い道なんです」


 相沢さんが眼下の道路を指さした。


「昔はよく走りに来ましたよ」


「相沢、昔どころか今でも来てるでしょ」


 奈緒さんが呆れたように言った。


「おや、よくご存じで」


「……まったく」


 俺たちはそんな話をしながら、茶屋へ入ろうとした。


 その時だった。


 ――フォォォォォン!!


 背後から甲高い排気音が響いた。


 振り返ると、一台のスーパースポーツがこちらへ向かってくる。


 フルカウルの大きな車体。


 ライダーは全身をレーシングスーツで固め、レーシングブーツにグローブ、フルフェイスヘルメット。


 膝には擦り減ったバンクセンサーまで付いている。


 ……いかにも走り屋って感じだな。


 そのバイクは茶屋の前で少し速度を落とした。


 ライダーの顔が、こちらへ向く。


 正確には。


 相沢さんのスーパーカブへ。


 ……ん?


 ライダーはカブを見て、相沢さんを見た。


 そして、明らかに肩を揺らした。


 ……笑った?


 今、絶対笑ったよな?


 ――フォンッ! フォォォン!!


 わざとらしくエンジンを吹かし、そのまま峠の下りへ消えていった。


「……何だ、あいつ」


 俺が呟いた、その時だった。


「……ふふっ」


 隣から、小さな笑い声が聞こえた。


 相沢さんだった。


 さっきまでの爽やかな笑顔とは違う。


 口の端が、ゆっくりとニチャっと歪んでいく。


「……昌利」


 黒川さんが、露骨に嫌そうな顔をした。


「お前、今すっげえ気持ち悪い顔してるぞ」


「おや、失礼ですね」


 相沢さんは、何事もなかったように微笑んだ。


「……久しぶりですねぇ」


「何が!?」


 俺が聞き返すと、相沢さんはヘルメットを手に取った。


「では、皆さん」


「……え?」


「また」


 ――バァァァァァン!!


 次の瞬間。


 カブの前輪が、勢いよく持ち上がった。


「はああっ!?」


 ウィリー!?


 今、ウィリーした!?


 小さな車体は前輪を浮かせたまま猛烈に加速し、前輪が路面に戻ると、そのまま峠の下りへ消えていった。


「…………」


「…………」


「…………」


 しばらく、誰も喋らなかった。


「……おい神崎」


「何すか、陽一さん?」


「……相沢さん、何しに行ったんだ?」


「いやあ……」


 神崎は笑いを堪えながら答えた。


「カブの名誉を守りに行ったんじゃないっすか?」


「そんな大層な話なのか!?」


「……あーあ」


 黒川さんがため息をついた。


「また始まったよ」


「また!?」


 奈緒さんは額を押さえていた。


「……あいつ、ほんっと子供なんだから」


「……え?」


「ほら、陽一くん。こっち来て」


 奈緒さんが展望スペースを指さした。


「多分、もうすぐ見えるから」


「……何がですか?」


「相沢の馬鹿みたいな走り」


 俺たちは展望スペースへ向かった。


 眼下には、幾重にも折り重なったヘアピン。


 そして、遠くから二台分の排気音が聞こえてきた。


 ――フォォォォン!!


 ――バァァァァン!!


「……あ」


 最初に見えたのは、さっきのスーパースポーツだった。


 深く車体を傾け、ヘアピンを抜けていく。


 ……速い。


 だが、その少し後ろ。


 小さな車体が、猛烈な勢いで迫っていた。


「……嘘だろ」


 カブだ。


 間違いない。


 あのカブが、全身レーシングスーツの走り屋を追いかけている。


「おいおいおいおい!!」


 次のヘアピン。


 スーパースポーツが減速し、コーナーへ飛び込む。


 その後ろから、カブが恐ろしい勢いで突っ込んでいった。


「……曲がれるのか!?」


 曲がった。


 しかも、スーパースポーツより明らかに速い。


「何だあれ!?」


「昌利っすよ」


「それは分かってる!!」


 神崎が腹を抱えて笑っている。


 次の直線では、スーパースポーツが一気に距離を広げた。


 だが、次のヘアピンではまたカブが追いつく。


 さらに次のコーナー。


 二台が並んだ。


「……うそだろ」


 小さなカブが、スーパースポーツの内側へ飛び込んでいく。


 そして。


 前へ出た。


「抜いた!?」


 思わず叫んでしまった。


「カブが抜いたぞ!?」


「見りゃ分かるよ、陽一さん!」


 黒川さんまで笑っている。


 だが、俺は笑えなかった。


 排気量も、車体も、何もかも違う。


 なのに。


 あの小さなカブが、スーパースポーツを引き離していく。


「……何なんだ、あの人」


 奈緒さんが腕を組んだ。


「昔からああなのよ」


「……昔から?」


「うん。普段はあんなに大人しいのにね」


 神崎がニヤニヤしながら口を挟んだ。


「陽一さん、昌利のこと見直したっしょ?」


「……まあ、正直」


「でしょ?」


「……でも」


「はい?」


「何でカブなんだよ!!」


「そこっすか!?」


 その後も、二台は眼下の峠を駆け下りていった。


 やがて、スーパースポーツが小さくなり、カブの姿も森の向こうへ消えた。


 ……すごかった。


 悔しいが、素直にそう思う。


 あんな走りをする人間がいるなんて。


「……相沢さん、いつ戻ってくるんですかね?」


「さあ?」


 黒川さんが肩をすくめた。


「そのうち戻ってくるでしょ」


「……適当ですね」


「昌利のことだからね」


 俺たちは結局、茶屋で軽く食事を取り、しばらく休憩することにした。


 相沢さんは、まだ戻ってこなかった。


     ◇


 それから少しして、俺たちは峠を下り始めた。


 相沢さんにはインカムで呼びかけてみたものの、返事がない。


『……あいつ、何やってんだろ』


 黒川さんが呟く。


『そのうち追いついてくるんじゃない?』


 奈緒さんは、もう諦めたような声だった。


 俺たちは四台で山道を下っていく。


 いくつかのヘアピンを抜け、少し開けた場所に差しかかった時だった。


『……あれ?』


 神崎が声を上げた。


『陽一さん、あそこ』


「ん?」


 道路脇の広い待避スペースに、二台のバイクが停まっていた。


 一台は、さっきのスーパースポーツ。


 もう一台は、見覚えのあるスーパーカブ。


「……相沢さんだ」


『お、昌利じゃん!』


『……待って』


 黒川さんの声が、妙に低くなった。


『何かおかしくない?』


 近づくにつれ、そこにいる二人の姿がはっきりしてきた。


 相沢さんは、ヘルメットを被ったまま立っている。


 ……ん?


 何かがおかしい。


 上半身が、裸だった。


 ズボンには、なぜかサスペンダーが付いている。


 そして。


 その目の前では、全裸の男が土下座していた。


「…………は?」


『…………』


『…………』


『…………』


 誰も喋らない。


 男の傍らには、脱ぎ捨てられたレーシングスーツが綺麗に畳まれていた。


 ……何だ?


 何が起きた?


 いや、待て。


 何で全裸なんだ?


 峠で?


 こんな真っ昼間に?


 相沢さんが、こちらに気づいた。


 そして、満面の笑みで大きく手を振る。


『皆さーん!』


「…………」


 俺はそっと前を向いた。


『……神崎』


『……はい、陽一さん』


「……知らない人だな」


『……そうっすね』


『……俺も知らない』


 黒川さんが即答した。


『相沢なんて人、うちのバンドにはいないわよ』


 奈緒さんまで。


『……旅館、行く?』


 黒川さんが尋ねる。


「……行きましょう」


『賛成っす』


『異議なし』


 四台のバイクは、何事もなかったように走り去った。


 背後から、相沢さんの声が聞こえた。


『ちょっと!? 皆さん!?』


 ……知らん。


 俺は何も見ていない。


 何も見ていないんだ。


     ◇


 旅館に到着したのは、夕方近くになってからだった。


 山あいに建つ、昔ながらの温泉旅館。


 木造の建物に、立派な暖簾。


 玄関先には小さな庭があり、石灯籠の脇を水が流れている。


「……いいところだな」


「でしょ?」


 神崎が得意げに胸を張った。


「ここ、前から泊まってみたかったんすよ!」


「お前が見つけたのか?」


「いや、純之助っす!」


「お前、何で得意げなんだよ」


 黒川さんが呆れた顔をする。


 バイクを停めて荷物を下ろしていると、聞き覚えのある排気音が近づいてきた。


 ――パパパパパッ!!


 ……来た。


「皆さーん!」


 相沢さんだった。


 何事もなかったようにカブを停め、ヘルメットを脱ぐ。


 服装も、すっかり元に戻っていた。


「いやあ、お待たせしました」


「…………」


「皆さん、どうして置いていったんですか? 寂しかったですよ」


「…………」


 俺は少し迷ってから、口を開いた。


「……相沢さん」


「はい?」


「さっき、何してたんですか?」


「さっき?」


「……あの、全裸の人」


「ああ」


 相沢さんは、にっこり笑った。


「ちょっとお話をしていただけですよ」


「話をしたら全裸になるんですか!?」


「おや。世の中には色々な方がいらっしゃいますからねぇ」


「絶対それだけじゃないでしょう!!」


 相沢さんは、ただ楽しそうに笑っていた。


 ……駄目だ。


 この人に常識を求めるのは、間違っている気がする。


     ◇


 部屋に荷物を置き、ひと息ついてから温泉へ向かった。


 広い浴場には、木の香りが漂っている。


 湯に肩まで浸かると、思わず声が漏れた。


「……ああ、生き返る」


「分かるっす……」


 隣で神崎が、完全に溶けたような顔をしている。


「今日、結構走ったもんな」


 黒川さんも気持ちよさそうに目を閉じた。


 相沢さんは少し離れたところで、のんびり湯に浸かっていた。


 ……あの人、本当に普通にしていればいい人なんだけどな。


 そんなことを考えていると、相沢さんがこちらを向いた。


「陽一君」


「はい?」


「今日は楽しかったですね」


「……そうですね」


「また皆さんで走りたいものです」


 その笑顔は、どこからどう見ても爽やかな好青年のものだった。


 ……昼間のあれは、一体何だったんだろう。


 考えるのをやめた。


     ◇


 夕食は、旅館の広い座敷に用意されていた。


 卓上には、山菜の天ぷらや川魚の塩焼き、煮物に刺身。


 どれも美味そうだ。


「うおお! すげえ!」


 神崎が歓声を上げる。


「ヒロト、落ち着けって」


「だって純之助! めっちゃ豪華じゃん!」


「だからって立ち上がるなよ」


 俺たちは席につき、飲み物を注文した。


 俺以外の四人は酒。


 俺はまだ十九なので、ジュースだ。


「じゃあ、乾杯しようぜ!」


 神崎がグラスを持ち上げた。


「陽一さんの初参加と、今日のツーリングに!」


「乾杯!」


 五つのグラスが軽く触れ合う。


 料理に箸をつけると、自然と会話が弾み始めた。


 今日の道の話。


 バイクの話。


 途中で見かけた妙な看板の話。


 そして当然、相沢さんの話。


「いやあ、今日の昌利はすごかったな!」


 神崎が笑いながら言った。


「本当だよ。久しぶりに見たわ、あんなの」


 黒川さんが酒を飲む。


「相沢、あんた少しは大人になりなさいよ」


 奈緒さんが呆れた顔をした。


「おや、僕はいつでも紳士ですよ?」


「紳士は人を全裸土下座させないのよ!!」


「ふふっ」


「笑ってごまかすな!!」


 ……本当に何があったんだ。


 それからしばらくして、話題はそれぞれのバイクへ移った。


 そこで俺は、朝から気になっていたことを思い出した。


「そういえば奈緒さん」


「ん?」


「昔、結構やんちゃだったんですね」


「……は?」


 奈緒さんの箸が止まった。


「いや、神崎から昔はかなり尖ってたって聞いてたんで」


「……ちょっと待って」


「今日バイク見て、ああ、なるほどって」


「違うから!!」


 奈緒さんが勢いよく身を乗り出した。


「えっ?」


「あのバイクは友達のお兄ちゃんから買ったの! 最初からあの格好だったのよ!」


「……え?」


「私があんな風にしたんじゃないから!」


「じゃあ、尖ってたっていうのは……」


「音楽の話!!」


 ……音楽?


「昔は練習に厳しかったって意味よ! 何でヤンキーの話になってるの!?」


 横で神崎が吹き出した。


「ぶはっ! 陽一さん、奈緒のこと元ヤンだと思ってたんすか!?」


「だってあのバイク見たらそう思うだろ!」


「思わないわよ!!」


「いや、俺もちょっと思う」


 黒川さんがぼそっと呟いた。


「黒川!!」


「冗談だって」


 相沢さんが酒を口に運びながら、穏やかに笑った。


「ですが奈緒。とてもお似合いですよ」


「相沢、あんた今それ褒めてないでしょ」


「心外ですねぇ」


 ……そうだったのか。


 てっきり昔は、夜な夜な単車で走り回っていたのかと思っていた。


 いや、でも。


 あのバイクは、あまりにも似合いすぎている。


「……ふっ」


「陽一くん?」


「い、いえ! 何でもないです!」


 危ない。


 これ以上笑ったら、今度こそ何をされるか分からない。


 神崎がまだ笑っている。


「いやあ、陽一さん最高っすね! 奈緒が元ヤンって!」


「神崎」


「はい?」


「……あんた、何がそんなに面白いの?」


「いや、その……」


「……神崎?」


「すみませんでした!!」


 またしても、座敷に笑い声が響いた。


 しばらくして、俺は奈緒さんに尋ねた。


「じゃあ、昔の奈緒さんって、どんな感じだったんですか?」


「……昔?」


「はい。神崎たちとバンド始めた頃とか」


 奈緒さんは少し考えるように視線を上げた。


「そうねぇ……」


「あ、それなら!」


 神崎が身を乗り出した。


「陽一さん、俺たちがどうやってバンド組んだかって、話したことありましたっけ?」


「いや、聞いてないな」


「じゃあ聞いてくださいよ! あれは――」


「待て、ヒロト」


 黒川さんがグラスを置いた。


「お前に説明させたら、絶対話がおかしくなる」


「何でだよ!?」


「今までの実績」


「ひどくね!?」


 奈緒さんが懐かしそうに笑った。


「まあ、確かに色々あったわね」


「ふふっ。懐かしいですねぇ」


 相沢さんも、穏やかに頷いている。


 ……この四人が、どうやって出会ったのか。


 そういえば、詳しく聞いたことがなかった。


 黒川さんはグラスを置くと、少しだけ遠くを見るような目をした。


「……そうだな。最初から話した方が早いか」


 そして、俺の方へ向き直った。


「陽一さん。実はさ――」

バイクの改造についても色々考えましたが、あまり詳しく書きすぎると話が脱線しそうなので、今回はこのくらいにしておきました。


相沢については、バリ伝みたいなノリで遊ばせてみたかった感じです(笑)。


次回からは、リノリウム結成当時のお話になります。

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